霏々

音楽や小説など

創作物目録

2013年

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

2014年

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

2015年

 

eishiminato.hatenablog.com

 

2016年

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

2017年

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

2018年

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

2019年

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

 

2020年

 

eishiminato.hatenablog.com

 

eishiminato.hatenablog.com

幕間

 

 南戸詠士(みなとえいし)は今日も仕事を終えて、会社の最寄りの駅まで歩いて行った。雨が降っている。濃紺の傘の生地は振り落ちる雨粒を受け止め、それがそれなりの大きさになるまで育てると、順番にひとつずつ端から落としていく。骨は一般的な傘よりもかなり多く見え、また柄の部分は黒塗りながらしっかりと木の手触りを残している。南戸の着るスーツはその傘よりもツートーンくらい明るい紺色で、その上には飾り気のない黒のチェスターコートを身に着けていた。ネクタイはスーツと同じ色合いだが、不可解な幾何学的模様が施されていて、それを着用する人物のファッションに対する一種のこだわりを代弁しているかのようだった。

 雨は冷たく、ただよう空気の中にまでその冷気を染み渡らせ、渋滞する車列のヘッドライトからも暖色を奪い取っているような趣さえ感じさせる。この世界に残された温もりは、並ぶ車の底部から発せられる熱と、ほのかな排気ガスだけのように見えた。

 南戸は先月に新調した革靴に防水スプレーを浴びせかけて来たことを何度も反芻しながら、同じリズムで足を繰り出す。大丈夫、スプレーはしっかりと役目をはたしている。ちょうど街灯の真下に差し掛かるとき、水溜りを踏む革靴がパンの耳の色合いを見せて楕円形に光を照り返す。ほら、やっぱり大丈夫だ。化学製品の質の向上は著しい。たしか仕事の顧客にも大手の化学製品メーカーがいたはずだ。

 二、三年前だったと思うが、その会社のネットワーク設備の構築を担当した。南戸のここ数年の業務は主に企業向けのネットワーク設備の構築と管理であり、その中で彼は少しずつ自分の立場を上げて来ている。今はキャリアアップの一環として、この日本海側のとある地方都市の支社に配属され、いくつかのプロジェクトの管理、そして営業の実行部隊として働いていた。管理職と言えば管理職であり、同期の中では最も早く出世していると言っていい。

 南戸の業務は、この地方都市に存在する企業の社長やら何やらと会社のネットワーク構築について色々と話を交え、そして費用の見積もりと担当社員の割り振りを行うことが大部分を占める。プロジェクトを管理して、担当するシステムがおおよそ滞りなく機能するのを確かめてから、アフターサービスの部門に引き渡すところまでが彼の仕事で、それなりに広範な領域に渡って動くことが求められているが、仕事の大きさという意味ではまだまだ地方都市クラス。南戸はさっさとこの場で現場経験を積んで、もっと大きなプロジェクトに参加したいと考えていた。

 ほとんどが中小企業の相手でも、ここでしっかりと結果を残し、そして然るべき能力を磨いていると上から評価されれば、東京に戻って国の機関や大学を相手にしたもっと大きな仕事ができる。そして、それに応じて給料も飛躍的に上がるだろうし、何といっても大会社の課長、部長クラスともなれば他人の見る目もだいぶ変わって来る。そうしたら、いよいよ結婚についても真剣に考えた方が良いかもしれない。

 それなりの数の女とはこれまで親密な関係を築いてきた南戸だが、いずれの相手とも家庭を築きたいとは思えなかった。だから適当に遊び歩いているうちに、気がつけば既に三十代半ばだ。

 しかし、南戸のそんな証明された数学の定理のように美しい人生の展望はこの数か月の間に、幾ばくかの不確定要素を孕むようになっていた。南戸は歩きながら思う。泰斗(たいと)の存在が南戸の煌めく理想に薄い靄をかけているような気がする。道を完全に見失うほどではないにせよ、少しくらいの回り道は想定しておくべきだ。そんな警鐘にも満たないくらいの予感が南戸にはあった。

 南戸本人は当初、泰斗の存在が自分の人生に対してそこまで大きな意味を持つとは考えていなかった。泰斗はここよりもさらに田舎の出身で、この地方都市の国立大学に通うために現在は安いアパートに身を置き、たいして意味のない(と、泰斗自身が感じている)大学生生活を送っている。あるきっかけで、南戸はそんな泰斗と知り合い、それから何度か会っているうちに、次第に泰斗が自らにとって特別な意味を持つ存在なのではないかと感じ始めるようになった。それについてあれこれと頭を悩ませた結果、時が経つにつれ、当初抱いていた南戸の潔癖かつ完全とも言える人生の展望にもまだ未知の領域があるのではないか、と考えるようになった。

 雨は執拗に降り続けている。車列は冷たさにこわばったタイヤをアスファルトに噛みつかせながら、交差点を、音を立てて曲がっていく。水溜りが轢かれ、暗色の血しぶきが歩道の端を汚す。しかし、飛び散る血液は磁気を帯びており、どれだけ粉々に砕け散っても、自然とまた一所に集まって次の侵入者を待つ。ほどなく次なるゴムタイヤの侵略が訪れ、再び異なる形状の分裂が水溜りを襲う。

 交差点を左に曲がるとすぐに駅が見える。緑色の電光板に、白色の駅名。駅に隣接するようにドラッグストアが門を構え、清潔そうな、医薬品の匂いを纏った真っ白な光を夜のアスファルトに零している。南戸は駅の改札方向にちらりと視線を向けた。それからそれとなく振り返り、ついでに周囲を見渡す。この雨だ。傘の影に隠れて、人の判別は難しい。だから同じ会社の人間がこの辺りにいるかどうかを正確に見極めることはできなかったはずだ。しかし、もとよりそういった周囲に対する南戸の警戒はあくまで習慣のようなもので、そこまで重要な意味を持ったものではない。どちらかと言えば、習慣よりは儀式に近いものかもしれない。だから、特に「誰も見ていない」という確証が得られたわけではないが、南戸は歩を止めることなく、駅の改札へ向かう軌道から逸れ、そしてドラッグストアの駐車場の方へと足を向けた。

 駐車場の中から見覚えのある車を探す。十五分前に連絡は来ていた。

「いつものドラッグストアで待ってる」

 非常にシンプルではあるが、泰斗は今どきの若者には珍しく、わりとちゃんとした文章でメッセージを寄越す。南戸の考える一般的な若者であれば、「いつものとこ」とか「ドラッグストア」とほぼ単語レベルでしかメッセージを送ってこないのだろう。

 プレゼン資料は体言止めで。報告書は箇条書きで簡潔に。そういった効率を求めたビジネスマナーが蔓延していることと、若者の文章力低下が全く以て関係していないとは南戸には思えなかった。とは言っても、南戸はそういった効率化に対して否定的な態度を取る人間ではない。むしろ効率化を奨励するタイプの人間であった。だからこそ泰斗のわりに丁寧な電子メッセージの文章に、南戸は最初は呆れ、「俺が年上だからって、ちゃんとした言葉遣いする必要ないぞ」と笑って言った。

「気持ち悪いんだよ、言葉を適当に使うのが」泰斗は言った。倒置法だ、と南戸は漠然と思う。「喋るときはあんま気になんないけど、文字に起こすときは気になる」

「不思議なこだわりだな」南戸は率直に感想を述べる。

「なんでだろう」泰斗は自分で言っておきながら首を捻った。「考えとく」と少し間を開けてから最後に泰斗は付け足した。窓の外に目を向ける。そう言えば、その日も雨が降っていた。この季節のこの街はたいてい雨が降っている。仮に雨が降っていなかったとしても、それは「今は」降っていないというだけで、空には常に雨の予感を孕んだ禍々しい色の雲が滞留していた。それは不吉な予言のようにいつまでも影のように付き纏い、振り返ると必ずそこにあった。

 南戸はざっと視線を流し、その中から自らの車を探し出した。白のクーペ。左ハンドルのツーシーター。こんな世俗的なドラッグストアの駐車場には不釣り合いだからすぐにわかる。南戸にはまだ乗せるべき家族もなければ、友人関係も大人数で集まるよりは一対一で親交を深める方を好んだため、二人分の座席があれば基本的には事足りた。もちろん、何かの事情があれば後ろに乗せることも可能だが、その「何かの事情」が実際に生じたことはこれまでなかった。というよりも、いくら大手企業でそれなりのポストにいるとは言え、こういった車を所有していることが会社内で広く知られれば、それなりに多くの人間が決して爽やかとは言い難い感情を抱き、それなりに多くの視線が南戸に向けられることになるだろう。だから会社の人間には、かなり仲の良い同期の数人しかこのクーペの存在を明かしていなかったし、実際に助手席に乗せたことがあるのはその中でも最も親しい一人だけだった。

 女に関しては、小さめの定食屋のメニュー数くらいは乗せているが、彼女らは乗り心地やエンジン音、それから特別にセットしたスピーカーの類には特に興味を示さず、ただ南戸の経済力のバロメーターとしかそのクーペを捉えることはなかった。

 南戸は傘を畳んで、白のクーペに乗り込んだ。助手席は右側にある。左側の運転席には泰斗が乗っていた。ドアを閉める前に傘についた水滴を丁寧に払い落とし、撥水作用が目に鮮やかな革靴(食欲をそそるパンの耳の色)も軽く振り、「神経質」というよりは「綺麗好き」くらいに見える程度に、車内に雨滴を持ち込まないよう気を配った。

「仕事お疲れさま」泰斗がぶっきらぼうに言う。

「なぁ、迎えに来てもらってなんだが、雨の日くらいあの軽で来いよ」

 半年ほど前の六月上旬に、泰斗への誕生日プレゼントとして南戸は軽自動車をプレゼントした。底の深い弁当箱のように直方体に近いフォルムの中古車だったが、藍色のボディは新品同様に見えたし、車内もかなり清潔だった。走行距離だけは七万キロメートル弱とそれなりだったが、おかげで値段も比較的安い。五十万円くらいで、南戸の経済力からすれば問題のない範囲だ。過去に八十万円近くのブランド品を女にプレゼントした経験が、南戸の金銭的な尺度を多少狂わせている節もあったが、幸い現在の彼にはそういう女がいないために、経済的余裕もある。そして、泰斗に使い勝手の良い「脚」を与えることで南戸には幾ばくかの実利もあった。しかし、泰斗には南戸自身が所有するクーペの使用許可も与えていたし、実質的にその実利が生まれるのは、南戸が自らのクーペを使用している最中に泰斗を別行動させたい時くらいのものだった。それでも南戸が車で出ているときに泰斗に買い物をさせたり、何らかの理由で南戸自身にその中古の軽が必要となったりする場面もこれまで何度かあるにはあったので、南戸はおおむねそのプレゼントを与えたことに満足していた。

「雨の日こそこっちが良い」そう言って、泰斗はシフトギアに手を乗せた。「雨が降ると上手い紅茶を飲みたくなる、って何かの小説の登場人物が言ってた。雨の日に良い車を走らせるのは気持ちが慰められて良い」

 南戸は口角をわずかに持ち上げた。何はともあれ、こうやって自慢のクーペの良さについて言及されるのは南戸にとっては心地の良いものだ。それから、「まぁ、田んぼ道とか泥まみれになるようなとこを通らなきゃいいさ。どうせ週末には洗車するしな」と泰斗を非難する態度を一新した。さらに気分を入れ替える為に、車体にへばりつく水垢の爛れ模様を洗車ですっきり綺麗に取り除く場面を想像する。もともと汚いものを綺麗にすることが好きな掃除好きの傾向がある南戸は、その小さな想像だけでもかなりの幸福感を得ることができた。

 南戸は鞄を後ろの座席に放り投げ、背もたれに体重を預けた。身体がすっぽりと柔らかく包まれる。雨の日は歩くのも疲れる。やはり乗り心地の優れたこの美しいクーペで迎えに来てもらって正解だったのだ。南戸は一人頷いて、シートベルトを締めた。それと同時くらいにクーペは確かな手応えを以って動き出し、滑らかな弧を描いてドラッグストアの駐車場を後にした。

 白いクーペは暗い色合いの蟻の列に紛れ込む。連なる愚鈍な隊列の途中に、優秀な一匹だけが獲物である白い砂糖の破片を担いで歩を進めている。それが南戸と泰斗が乗る白いクーペだ。ヘッドライトに照らされる縞模様の雨の弾丸。滲むフロントガラスに、ワイパーのメトロノーム。怠惰な蟻のような渋滞に阻まれ、南戸はやや苛立ちを感じていたが、善きところで泰斗はミュージックプレイヤーに手を伸ばした。シンプルかつ重たい低音のリズム。繰り返される一定のコード進行と、抽象的なリフレイン。力の抜けたボーカルが、矛盾をテーマとして単語を繋ぎ合わせた無機質な詩を無感情に歌い上げる。仕事の為に高速回転していた南戸の脳が少しずつギアを落としていく。泰斗が選んだチルアウトミュージックが、優秀な精神科医のごとく、南戸の苛立ちを取り除いていった。

 南戸は欠伸を浮かべる。目尻に溢れる涙を人差し指で掬った。肩が強張っていたな、と気がつく。静かに流れていく対向車線。いつの間にか車はバイパスに乗り入れ、白いクーペはようやく自慢のエンジンをあたため始める。

 泰斗はまっすぐ正面を見つめ、無理のない範囲で次々と前を走る車を追い越していった。フロントガラスの端で雨滴が小刻みに震えながら、山を登るように少しずつ上昇していって、しまいには視界から消える。それが何度も何度も繰り返された。ぼんやりとした街の灯が、たいしてカラフルとも言えないまま後ろへと過ぎ去っていく。それは日常の灯であり、生活の灯だ。車内を包み込む音楽は雄弁な詩人であり、それを聞くともなく聞いていた南戸はいつの間にか、頭の中で自らがその詩人となっていることに気がついた。

「そう言えば」と、泰斗が口を開く。南戸はまどろみから目を覚ます。「この間、なんで俺は言葉を文字に起こすときに細かいことが気になるのか、って話したじゃん?」

「あぁ、したな。喋ってるときはそんなに細かいことが気にならないのに、文字にすると、文章にすると、やけに丁寧にしたくなるって話だろ」

「そう、それ。あれ、思ったんだけど、俺は現実よりも小説を大切にしてるからなんじゃないかな」

「現実より小説? 疲れてるせいかな、全く意味がわかんないな」南戸は自嘲と非難が半分ずつ混じった笑いを窓ガラスに映した。

「要するに俺は現実の人間を信用してないんだよ。現実の人間よりは小説とか映画とか、そういう作品の中に出てくる人間を信用してる。でも、目の前の現実の人間は信用ならないし、そういうのを相手にしてるときは、とりあえず情報の交換ができればいい。だから、割と適当に言葉を使う。あくまで情報伝達のツールとして言葉を使う。つまり、効率的にそれが使えればそれでいい」

 南戸はいつの間にか数人の睡魔が腰を据えてる脳で考える。「喋る」イコール、「現実の人間との情報伝達」イコール、「効率性の追求」イコール、「言葉の簡素化」ということだろうか。それだけ考えてみても、やはり未だ泰斗の言わんとするところの実感がわいてこない。

「でも、小説の中ではわずかなニュアンスが重要になってくる。ホリー・ゴライトリーは自分の知恵遅れの弟のことを、『頭がおかしいわけじゃなくて、優しくて、頭がぼんやりとしていて、考えるのに時間がかかるだけ』って言うんだ。そういう微妙な表現こそが重要なんだよ。特に小説の世界では。だから、小説の世界で使われる文字としての言葉ってのを、俺はきっと大事にしているんだと思う。しっかりと配慮された文字や文章ってのは信用に足る。現実の人間とは違って」

「現実には、そういう繊細な表現は必要ないって?」南戸は尋ねる。

「そう思ってるのかもしれない」泰斗は自分のことなのに、断定的な言葉を使わない。「人は配慮より、リズムと損得勘定で言葉を使う」

 不思議な奴だ、と南戸は思う。当初問題としていた、「文字としての言葉を丁寧に使いたい」という泰斗の嗜好を南戸は奇妙と感じたが、その理由を聞いて彼はさらに泰斗のことを奇妙に思うようになった。

 泰斗は南戸と同じく、大学では理系に所属している。専攻は南戸が電子情報系で、泰斗が物性系だったが、もし二人を文系に置き換えるのであれば、南戸は経済学部で泰斗は文学部、あるいは哲学部といったことになろう。社会的地位と高給を明確な目標として生きてきた南戸からすると、泰斗の非生産的な自己探求や個人的煩悶といった習性は、未開の地の部族と接触するような奇妙な心地のするものだ。しかも、年齢的に十五かそこら離れている。しかしながら、南戸はそんな若くして悩める泰斗に興味を惹かれていたし、泰斗は泰斗で、南戸の打算的でわかりやすい価値基準と、それを実現しうる現実的な力強さに魅了されていた。

「損得勘定ね」南戸は泰斗の言葉を繰り返す。「それなら、俺みたいな人間は泰斗からすると最も信用ならない相手ってわけだ」

「あぁ、たしかに」泰斗はまっすぐ車を進めながら頷く。「でも、南戸は信用できないところが信用できる」

「ははは。なんだよ、それ。めちゃくちゃ矛盾してんじゃんか」

「なんて言えば良いんだろうな」

 泰斗はまたそこで黙る。南戸はさきほど泰斗が口にしたなんらかのセリフを思い出す。たしか、「頭がおかしいわけじゃない、考えるのに時間がかかるだけ」だったか。きっと泰斗が意図した意味とは違うのだろう、と南戸はわかっていたが、そのうえで「まさに泰斗、お前のことじゃないか」と運転手にはわからないように、窓の方に顔を向けて口角を持ち上げた。吹き飛ぶ電燈の光の合間に、自らの不気味な笑顔が浮かび上がってくる。窓ガラスにしがみつく雨滴がぶよぶよと蠢き、ガラスの中に捉われた南戸の不吉な笑みを不規則に歪める。

「たとえになってるかわからないけど」しっかりと前置きを入れて、泰斗はようやく口を開いた。「スキー場とか古いパーキングエリアで食べる醤油ラーメンと、美味いのかよくわからないけど雰囲気だけは一流っぽいフレンチレストランのランチだったら、詠士はどっちが良い?」

 南戸は泰斗に言われるがまま、純粋にその二つの選択肢を頭の中で思い描いてみた。

「もう少し詳しく状況設定してくれよ」

「そうだな。醤油ラーメンはプラスチックのお椀にパートのおばちゃんみたいな人が作ってくれる。市販の醤油をそのまま使っているような味しかしないにも関わらず、まぁ、例の如く値段はそれなり。スキー場とかパーキングエリアみたいな特殊な環境じゃなきゃ、とっくに廃業しているような感じ。対して、フレンチレストランの方は静かで、うっすらとクラシックなんかがかかってる。味は前衛的なのか、単にマズいだけなのか評価に苦しむけど、手を叩いて喜ぶようなものではない。店の雰囲気と値段だけはいっぱし」

「それなら、フレンチレストランだな」南戸は断定的に言いのける。

「やっぱり。詠士はそういう人間だから信用できる」

「どういうことだ?」

「いくら胡散臭くても、味が未知のものでも、それがそれなりに見栄えのするものだったら、はなからたいしたことのない味とわかってる醤油ラーメンよりは、怪しいフレンチの方を取る。醤油ラーメンが味も見栄えも三流なら、見栄えだけでも一流っぽいフレンチの方が価値があるって詠士は判断したんでしょ?」

「よくわかってるな。その通りだ」否定のしようもない。

「でも、世の中の大半は、『スキー場とかで食べるラーメンってなんか美味く感じるよな』みたいなことを言いたがるんだよ」

「そうだろうな。実際、その気持ちも全くわからないというわけではない」

「俺もわからなくはないけど。でも、スキー場で食べるとどんなに粗末なものでも美味く感じる、って、それって根拠としては怪しい気がしない?」

「怪しいな。胡散臭いフレンチが美味いかどうかというくらい怪しい。いや、それ以上かもしれないな。先入観とか共通認識みたいなものを免罪符に、本当に怪しいのはどっちなのかって考えずにみんな思考停止している。要は、泰斗はそういうことが言いたいんだろ」南戸はようやく話の筋が見えたことで幾分かすっきりとした面持ちに変わった。

「すごいな。その通りだよ」泰斗は感心して頷く。「スキー場で食べる飯は美味い。そういう世間一般の暗黙の了解、つまり会話のリズムがある。そして、大半の人間がそのリズムに流される。一部にはシンプルな味を心の底から求めるような、確固たる信念を持ってスキー場のラーメンを選ぶ人間もいるだろうけど」

「そりゃそうだ。何にだって、少しくらいは本気の人間がいる」南戸は相槌を入れる。

「そして、そういう流される人間の大半は、本来であれば善人で信頼に足る人間たちだと思う」

「間違いない」

「でも、俺はそういう善人で信頼に足る、流される人間たちを信用できない。そういう人間よりかは、ちょっと普通じゃなくても詠士みたいな、きっちり打算的で信頼したくないような人間の方が俺は信用できるんだ」

「酷い言われようだな」南戸は笑って返した。既に顔は前に向けられていたので想像でしかないが、今の笑顔はさっきよりもだいぶ自然で、不気味さはないはずだ。

「現実の人間は、リズムと損得勘定で会話をする。世間の価値基準を無意識に受け入れてそれに乗るリズム、それからそれに従うことが最も利益率が高いとする損得勘定。こんなものは俺は信用できない。だから現実に属する会話上の言葉はあんまり気にならない。どうせ信用できないんだから、テキトーに使っていればいい。でも、配慮や善意を孕んだ微妙なニュアンスが物を言う、文字としての言葉は丁寧に使いたい。それがたとえメールやチャットみたいな現実で使われるものであっても、文字ってだけで、何となく気が引き締まる。それが、俺が文字や文章を丁寧に書きたい理由なんだ、ってこの間ようやくわかった気がするんだ」

 南戸は「ふうん。それは面白いな」と簡単な相槌を打った。クールな南戸はいつも誤解されることが多いが、南戸が「面白い」と言う時は、往々にして本心であることが多い。今回も南戸は本心で「面白い」と言っていた。

 泰斗は「本当に面白いと思ってるのかな」と苦笑いを浮かべるが、いつものように南戸は「本当に面白いと思ってる」と答えた。泰斗はまだ半信半疑だったが、南戸がそう言うのだから、南戸自身は本当にそう思っているつもりなんだろう、とそれ以上考えることをやめた。

 泰斗はハンドルを握り直し、アクセルとブレーキを交互に踏み換え、シフトレバーを適切に運用する。頭の脳みそよりも先にこの身体がこの鉄塊に直接指令を与える。網膜で弾ける夜のヘッドライト、街の灯。雨のノイズは気怠いエレクトロダンスミュージックをさらに形の無いものへと導く。泰斗は大学になんて行かずに、普段からそういう一般受けしない音楽ばかり探しては聴くことを生活の大きな一部としていた。小説を読むこと、映画を観ること、音楽を聴くこと。静かに、孤独に。それからよく自分について考えた。自己意識に対する思考は時に深刻で、時に散漫としている。泰斗は南戸のことについてもよく考えた。泰斗は南戸のことを軽蔑する一方で、自分と人間的な比較を行うことで発見の多い対象だとも考えていた。そして、そうやって南戸について考えているうちに、次第に自分が南戸に惹かれているのではないか、という疑念に問われるようになっていった。

 白いクーペは速度を落とし、斜面を滑り落ちるようにインターチェンジから降りた。降りてすぐに信号に引っ掛かる。南戸の現在の住まいは仕事場の最寄り駅から車でおよそ三十五分といったところ。利便性の面から会社の近くに宿を取ることも最初は考えていたのだが、思い直して、少し遠いところで物件を探した。なんだったら会社で寝泊まりしても全然構わないくらいには、南戸は自分が仕事人間であるという自覚があったが、せっかく都会を離れたのだから、これまでとは違うライフスタイルも良いかもしれないと考えたのだ。東京にいるときは仕事場から電車を使って十五分というところに宿を構えていた。家賃は馬鹿にならなかったが、会社の家賃補助と残業代のおかげでそれなりに高い生活水準を維持できていた。ほとんど毎日残業をしても南戸は全く苦にならなかった。仕事がなくなることはなかったし、早く出世したいという思いが南戸を仕事に集中させ、しばらくそんなことを続けていると次第に「管理職になったら残業手当がつかなくなるのだから、それまでは思う存分残業代を稼いでやろう」という意識が芽生え、いつしかそれが南戸の中で当たり前の考え方となった。残業超過の申請は面倒だったし、上司や同期、時には後輩からも心配されたが、それも長くは続かず、いつの間にかあっという間に申請は通るようになり、周囲からも「あいつは特別な人種なんだ」と思われるようになっていった。

 数年前、同期の中島(南戸が唯一泰斗以外にクーペの助手席に座らせた人間だ)と酒を飲んでいるときに、何かの話の流れで自分の長所が何か、という話になった。そのときに南戸は「行動規範がシンプルなところだ」と答えたのだが、同期の中島はそれについて「そう言い切れる辺りが、お前の持つシンプルさの強みなんだろうな」とかなり感心したようだった。中島の右目は羨望、左目は軽蔑に染まっていた。

 南戸は泰斗と出会った時のことを思い出す。

 あれは去年の秋ごろだったか。十五か月ほど前か、と南戸は月を数えた。南戸は仕事を終えて、仕事場近くのスペイン料理屋に一人で行った。こちらに来てからは珍しく残業に精を出し(一応管理職ということで残業手当は出なかったが、仕事というのは往々にしてそういうものだ)、時刻は九時を回り、腹が減っている。南戸はいくつか頭の中で、いま自分が食べたいものを思い浮かべてみた。どうしてなのかはわからないが、そのときぱっと彼の頭の中にパエリアが思い浮かんだ。パエリアということはスペイン料理か。ネットで仕事場近くのスペイン料理店を探し、まだ営業時間内であることを確認するとまっすぐそこへと向かった。その日はいつも通り電車で出勤していたから酒も飲める。そもそも南戸は寝坊でもしない限り、自慢のクーペで出勤することはなかった。電車代より駐車料金の方が高くつくし(会社の駐車場は基本的には使えなかったし、仮に使えたとしても自分の乗る車を他の社員に見られたくはなかったから、午前中に車で病院に寄ってから出勤するときなどは、わざわざ少し離れたコインパーキングを利用するようにしていた)、南戸は寝坊なんてものをほとんどしたことがなかった。

 スペイン料理店は二十席程度で比較的狭く、時間も遅かったから客の数も多くはなかった。しかしながら、店内の大画面テレビにはサッカーのスペインリーグの試合が映し出され、そこから溢れ出す歓声がオレンジ色に薄暗い店内を満たしていた。オリーブオイルの香りが漂い、ギター一本で演奏されるフラメンコの楽曲が店内には薄くかかっている。それはテレビの歓声を邪魔することなく、むしろ盛り立てているように感じられた。南戸は店員を呼びつけ、パエリアとカタルーニャ風サラダ、それからドリンクはサングリアと赤ワインで迷い、結局赤ワインを注文した。

 料理が来るまでの間、南戸はテレビに映し出される試合を眺めていた。同期の中島が小学生からサッカーをずっとやっている人間で、よくサッカーを観戦できる居酒屋に一緒に行ったことを南戸は思い出す。そこで何人かの選手の名前、それから主たるサッカーリーグ(南戸はサッカーを南米のスポーツだと思っていたから、種々のヨーロッパーリーグが最高峰であることに最初は驚いた)とそれぞれのリーグの中の強豪チームの名前を憶えた。緑色の芝生。散らばる二種類のユニフォームを着た選手たち。雨のように降り注ぐ歓声、それから重なり合う野太い応援歌。それらが何だか懐かしく感じられ、自分にも人間らしい感情があるものだな、と少し可笑しいような気持ちになった。

 南戸は歓楽街のネオンのように輝くテレビ画面からふと視線を外す。すると、ちょうど視線の先に一人の若い男の姿が映った。彼も数秒前の南戸同様、テレビ画面の中の試合の行く末をじっと見つめていた。彼は表情に乏しいところがあったが、生物学者が野鳥を観察するような面持ちで選手たちのプレーに目を向け、眉間にはそれとなくわかる程度に皺が寄っている。サッカーが好きなのだろう、と南戸は思う。

 しばらくするとその青年は厨房の方にふらっと姿を消し、そしてすぐに手にサラダを持って戻って来た。そして、そのまま真っ直ぐ南戸の席の方に足を進める。

カタルーニャ風サラダです」青年は言う。

「どうも」南戸はサラダに一瞥くれ、そして青年を見上げながら質問を投げかけてみた。「サッカー好きなんですか?」

「はい。手が空いてるときはつい観てしまいます」青年は、仕事を蔑ろにしていないことを訴えるためか、「手が空いているとき」という部分を少し強調した。「お客様も好きなんですか?」

「友人が好きで、よくこういうお店で一緒に観てたんですよ。私はあんまり詳しくないんですが。店員さんは随分とサッカーに詳しそうですね。好きなチームとか、選手とかいるんですか?」

「今試合してますよ」そう言って、青年はテレビ画面に視線を向けた。南戸も倣ってサラダから視線を上げる。青年は指を差し、選手の背番号と名前を口にした。たしか中島も良い選手だと言っていたが、やはり見る人が見れば、優れた選手はすぐにわかるものなのだろう。

「友人も良い選手と言っていた気がしますね。私は点をたくさん取るような選手しか知らないから、こうやって全く違う人の口からよく知らない同じ選手の名前を聞くと、なんだか不思議な感じがします」

「サッカー好きの間では結構有名な選手なんですけどね。中盤の選手なんですけど、目が八つくらいはあるんじゃないかっていつも思います」

 青年は小さく会釈をすると、南戸に背を向けて定位置に戻り、そしてまたテレビの画面へと視線を戻した。不意に攻撃に参加した守備の選手が前線から戻り、再び自分のマークを確認するかのような動作と重なる。青年は無造作に伸ばした髪を店で指定されていると思われるバンダナで何とか隠していたが、その外見に無頓着な感じと時折ふと見せる隙のようなものが、彼がまだ二十歳くらいのどこかの純朴な大学生であることを物語っていた。南戸はカタルーニャ風サラダの赤いパプリカにフォークを突き刺し、それから少しだけ赤ワインを啜る。

 青年が次にパエリアを持ってくると、南戸は再度青年にサッカーの話題を振った。青年はまたその目が八つある選手のプレーの素晴らしさについて語り、ほら、とテレビ画面を指差して目の前で繰り広げられるプレーの一つひとつを子細に説明してくれた。中島との付き合いのおかげで南戸はどのように振る舞えばサッカーファンが喜ぶかおおよそ心得ていたし、久しぶりに忌憚のない会話を楽しむことができた。そう言えば、こちらに来てからと言うもの、支社採用の年上の社員からは「東京のエリート」的な風に見られて居心地が悪かったし、年下の社員からは不必要なほどに警戒されていた。仕事に支障がない程度には打ち解けられるよう愛想を振りまいていたが、それはそれで疲れるものだ。やや朴訥とした雰囲気のある青年との直接的な利害関係のない会話は心地よく、南戸にとって価値あるものとなった。

 それからというもの、何かと遅くまで仕事場に残り(いつの間にか、東京の本社の方でも残業ばかりしていた、という噂が支社の部署内でも出回っていた)、そして九時近くになると例のスペイン料理店に足を伸ばし、青年とサッカー談義をしながら遅い夕食を摂る習慣がついていた。遅い時間を選んだのは、空いている店でゆっくり青年と話をしたかったからであり、その欲求のために食欲を数時間抑え込むくらい南戸には何と言うこともない。青年は泰斗という名で、隣町にキャンパスを構える国立大学の学生だった。また、理系で物性の勉強をしているという話を聞いて、南戸も自らの大学時代の話を披露したり、また自らの仕事について色々と語ったりするようになった。そのようにして、南戸と泰斗は次第に親交を深めていく。しかし、お互いについての理解が深まるにつれて、二人の間には決定的な価値観の差異があることも明らかになっていく。

 白いクーペは雨を切り裂き、ようやく南戸の住むマンションへと戻って来た。車が止まると南戸はさっさと車を降りて傘をさし、そしてざっと車の汚れを点検しながら一周まわった。街灯の灯りの加減で細かくはわからなかったが、大きな汚れもなく、明らかに周囲のファミリーカーとは一線を画す洗練されたデザインを有する車体は静かに雨を浴び続けていた。泰斗はパーカーのフードを被り、ポケットに手を突っ込んで、そんな南戸をじっと見つめていた。

「問題無しだ」南戸は泰斗に向かって言う。

「あぁ」まるで関心無さそうに泰斗は言う。「寒いし早く行こう」

 銃口を向けるようにキーを中空に持ち上げ、泰斗は鍵をロックする。白いクーペは泰斗に似て、無愛想に黄色い光を明滅させて返事をした。それにしても、と南戸は思う。

「出会った時はもっと可愛げがあったような気がするんだけどな」

「店員として客にサービスしてただけだよ」

 冷たい雨をかき分けるように泰斗は足早にマンションの入口へと向かった。痩躯な体格をした彼の背中は夜の重圧に押しつぶされそうに見える。灰色のパーカーに色の濃いジーンズという格好は、いかにも服装に無頓着な泰斗らしかった。しかし、いずれの服も南戸が泰斗に買い与えたもので、それなりの値段はそれなりの品を保証してくれている。南戸はたまに自分がなぜこんなにも泰斗に対してあれこれしてやっているのか不思議に思うこともあったが、それでも泰斗をいま手放すという選択を取ることはないと確信していた。もちろん、あくまで「いま」であって、明日や明後日にどんなことが起こるのかは推測までしかできないわけだが。

 部屋に戻り、泰斗の作った料理を食べる。親子丼と味噌汁と缶ビール。炊事の苦手なその辺の大学生よりはまともな食事だったが、それにしても一年前の南戸にはこんな食事を日常的に口にすることになろうとは想像もできなかっただろう。平日は外食が基本で、休日になるとわりに凝った料理を作って食べるのが南戸の習慣だった。しかし、泰斗が南戸のマンションでほとんど生活するようになってからは、泰斗の作った荒っぽい男料理や、近くのスーパーで買ってきた惣菜をよく口にするようになった。そして、いつの間にかそれで満足できるようになっていった。これは堕落の一種だろうか、と南戸は自問する。そうでもないんじゃないか、と南戸は自答する。

 食事を終えた二人はそのままの流れで晩酌に入った。ワインが持ち出され、チーズやスナック菓子が机の上に広げられる。無意味かつ無価値な話に花を咲かせる。話題の蔓が四方に伸び、手当たり次第に掴んだものを手元に引き寄せていく。いくつかの話題が途中で立ち消え、新しい話題が湿った地面から芽を出す。双葉が芽生え、つぼみが頭を垂れ、どんな色の花が咲くのか、南戸は想像を膨らませる。そして思いつく色を無色のつぼみに与えた。脈絡についてはあまり判然としないが、それでも南戸はワイングラス片手に泰斗に向けて口を開く。

「俺は思うんだ」南戸は声高に言う。「俺たちはこうやってほぼ一緒に暮らしてるが、こういうのが結局は結婚生活みたいなものと言えるんじゃないかって」

「俺たちは結婚なんてしてないでしょ」泰斗は笑いながら言った。「だいたい男同士じゃん」

「まぁ、そういう細かいことは置いといてさ。結婚生活ってよりは、同棲っていうのか? でも、単なる同居じゃない。俺は泰斗に影響を与えてるし、泰斗は俺に影響を与えてる」

「影響? たしかに、これだけ一緒にいるんだから、何らかの影響はあるかもね」

「何らかの影響なんて、そんな薄っぺらいものじゃない。俺は泰斗に服を買い、お洒落にしてやってる。高級車も乗らせてやってるし、泰斗専用の中古の軽まで買ってやった」

「ありがたいとは思ってるよ。なんでそこまでしてくれんのか、よくわかんないけど」

「俺は泰斗、お前を愛してるからな」アルコールが気分を盛り立てて、芝居がかったことを南戸に言わせる。それが本心なのか、それとも単に冗談なのかは泰斗にも、南戸本人にもうまく区別がつかない。午前四時を早朝と捉えるか深夜と捉えるか、そういう微妙な曖昧さだ。「それに、何も俺が泰斗に何かをしてやってばかりいるわけじゃない」

「そうだよ。俺は詠士にまずい飯を作ってやってるし、雨の日に詠士の高級車でお迎えまでしてやってる」

「ははは。そう自虐に走るなよ。俺は泰斗に感謝してるんだって」南戸は笑う。泰斗は南戸のグラスにワインを注ぎ足してやる。頬が赤いが照れているのか、ただ酔っ払ってるだけか判別はつきにくい。「俺はな、仕事をしているときの俺が一番好きだ。そして、仕事で稼いだ金で良い暮らしをしてるって実感できる瞬間も好きだ。ナルシシズムが過ぎるって周りの人間は思うかもしれないが」

「自分なりの確固たる考え方を持っている時点で、浅はかな善意や倫理観を振りかざす人間よりはマシだよ」泰斗は目を細めて言う。

「まったくその通りだ」南戸は大きく首肯する。「まぁ、そう自信を持って言えるのは、泰斗がそう言ってくれるからってのが大きいんだがな。そういう意味でも泰斗には感謝してんだ」

「そうか。俺は詠士のナルシシズムを助長させちゃってるのか」

「そんな哀しそうな顔すんなよ」南戸はまた大口を開けて笑った。「今日、帰りの車の中で泰斗も言ったじゃんか。俺のそういうわかりやすく割り切った考え方は信用に足るって。信頼できないとこが信用できるって」

「そりゃ言ったけど、そこまで開き直って受け入れられるとちょっと違うって気がしてくる」泰斗は首を捻る。「俺は自分で思ってるよりもあまのじゃくな人間なのかもしれない」

「たしかに泰斗はかなりひねくれてるな。あまのじゃくでもある。だからさ、あんまり考えすぎずに色々なことをそのまま受け入れて、もっとシンプルにやろうぜ」

「俺だって詠士みたいにシンプルにできれば良いと思ってるよ」

「なぁ、言ったことあったっけ。俺は自分のプロフィールで、長所を『行動規範がシンプルなとこ』ってしてんだ」南戸はまた中島との会話を思い出した。目の前で泰斗は不信感を露わにした目の色を見せる。「会社の同期にそう言ったら、やっぱり今の泰斗みたいな顔になったな」

「夜にうまく眠れなかった経験のある人間が今の詠士の話を聞いたら、皆こんな顔をするだろうね」泰斗は呆れたように笑う。

「俺は俺のナルシシズムを満たすために、シンプルで効率的な行動規範を採用してるんだ。どうだ、理にかなってるだろう」

「そのシンプルな行動規範ってのは、具体的にどういうことを言うんだろう?」

「我慢しない。妥協しない。そのために働いて金を稼ぐ。金を稼ぐために出世する。ついでに社会的地位を得て、自尊心も満たす」

「非情にわかりやすい。でも、それを実現できる人間は少ない」

「意志の力が弱いんだ」南戸は断定的に言う。

「そうだな。まぁ、現実的に能力がないってのも大きな要因だと思うけど」

「努力すれば能力なんてすぐに身につくもんさ。いつだって人は意志の弱さを認めないで才能のせいにする。それが愚かしいことなんて、どんなスポーツ漫画読んだって描いてあるのにな」

「そして、最悪の場合には、意志の強さも才能だ、って喚く」

「その通り。努力ができるのも才能だ、ってな」

「胸が痛いよ」泰斗は半ば本気で落ち込んでいるような表情を見せた。

 泰斗はよく自らの意志の弱さを口にした。明日は絶対に大学に行こう、って思う。でも、夜になって上手く寝付けないと、映画とか見始めて気がつけば朝。家を出なきゃいけない時間が近づいて来ると、ようやく眠気が襲ってきて、そして大学に行くのをやめて布団に潜り込んでしまう。カーテンの隙間から零れる朝陽が憎い。通勤する車のエンジン音は、借金の取り立てがドアを叩く音に聞こえる。だからイヤホンで耳を塞ぎ、音楽がさっさと夢の世界に連れ去ってくれるのをじっくりと待つだけだ。そんなふうにして気がつけば、留年にほぼリーチがかかっていた。単位の審査がないから学年は自動的に上がるが、四年生になるタイミングで必修科目や総単位数の審査があり、足りなければ容赦なく留年だ。泰斗はまだちゃんと数えていないが、およそ単位が足りないであろうことは、もはや明瞭な事実と言えた。

「別に泰斗のことを責めてるわけじゃない」南戸は冷静に言う。「だって、泰斗には俺みたいな欲望はないじゃんか」

「そんな欲望を持ったって、どうせ満たしてやることができないとわかってるから、そうしないだけだよ」

「いや、そんなわかりやすい話じゃない。泰斗はきっともっと別の所に欲望があるんだろう?」

「さぁ、どうだろうか」はぐらかしているわけではない。本当に自分でもよくわからないんだ。そんな表情を泰斗は浮かべる。「俺は自分の欲望についてあまりよくわかっていない」

「だから悩んで、迷ってるんだって。そういう意味で、泰斗は意志の弱さを言い訳にしてない。俺がナルシシズムっていう明確な欲望に対して、シンプルな行動規範を定めて、効率的に生きているのに対して、泰斗はそれと対極にある目的のために、対極的なやり方を採用してるだけなんだろう。とても論理的だ。目的と手段が互いに共鳴し合ってる。シナジー効果だよ。俺たちのどっちのやり方も、まったく矛盾してない。ベクトルが真逆に向いてるだけだ」

 南戸の言葉は泰斗を救いもしないが、決して貶めてもいなかった。泰斗は改めて南戸という人間の冷徹な論理性に驚かされる。アルコールは次から次へと言葉を産み落としていき、思考とリズムがハツカネズミのように八方に走り出していく。暗闇でまぐわい、言葉は思考の遺伝子の螺旋を描く。新しい鼓動が、八分のリズムを刻む。赤ワインを模したハイハットを軸にグルーヴが生まれる。

「何の話をしてたんだっけ?」泰斗は瞼を重たそうに持ち上げて南戸に尋ねた。

「何だったか」相槌の言葉だけを宙に浮かべ、南戸は記憶を辿る。「そうだ。結婚の話だ」

「結婚の話?」

「だからさ、俺と泰斗は真逆の価値基準を持ってる。だから、一見してお互いに影響は及ぼさないように見える。ベクトル的に言えば、真逆と言うよりは直交していると言った方が近いかもしれない」

内積を取ればゼロだ。互いに独立したベクトルだ」泰斗は数学の授業を思い出して言う。

「でも、直交するベクトルは外積を取った場合に、新しい軸方向に最大量のベクトルを形成する。物事ってのは往々にしてそういうものなんじゃないか」

 泰斗はアルコールに浸された脳みそで、南戸の言ったことを理解しようと努めた。要するに、二人のベクトル=価値基準が存在する平面内だけで物事を考えれば、泰斗と南戸の間には相関性がなく、互いに対する影響はゼロと言えるが、平面=二次元から立体=三次元へと視野を拡張すれば、新しいベクトル=価値基準が形成されているというわけだ。

「俺は泰斗のファッションや何やらに影響を及ぼしてる」南戸は言う。「それと同時に、俺は食事や生活様式において泰斗から影響を受けている」

「詠士が俺に与えてくれる影響はプラスなもので、俺が詠士に与えている影響はマイナスなもののような気がするけど」

外積のかける順番が変われば、ベクトルは上下逆向きに出てくるもんだ」

「はは」泰斗は笑う。「詠士はそれでいいのか?」

「良いも悪いも、そうなんだから仕方ないだろう。むしろ、そういう新しい変化や発見を俺は楽しんでるよ。だから俺はお前を愛していて、かつ俺たちの関係性を結婚生活に例えたんだ。生活を分かち合い、お互いに影響を及ぼす。お互いに変化を与える」

「そっか。それならよかった」

 泰斗はそれだけ言うとワインをもう一口啜り、ピーナッツを口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼しながらそのまま机に突っ伏して、寝息を立て始めた。南戸はグラスに残った赤ワインを泰斗の分まで飲み干す。

 南戸は考えを巡らせた。自らが泰斗といる理由について、まだよくわからない部分がある。

 結局、泰斗との生活が南戸に何をもたらすのか。当初期待していたものは得られているような気がするが、その先にいったい何があるのかはまだ見えてこない。

 それについて考えながら、南戸は食器を片付け、シャワーを浴びた。時計の針は一時を回っている。今日はほとんど残業せずに帰って来たはずなのに、いったい時間はどこに消えたのだろうか。南戸はタイムスリップでもしたような感覚に捉われるが、時計が壊れたわけでもあるまい。となれば、さっさと寝て明日に備えるよりほかない。それが南戸のシンプルな行動規範に則って選択できる最も効率的な判断だった。

 顔を赤らめ、中世の工業機械が蒸気を上げるように肺呼吸をする泰斗。肩を叩いて目を覚ましてやると、南戸はソファベッドまで連れて行く。毛布をかけてやり、電気を消す。閉め忘れたカーテンの間でぼんやりと光る窓からは夜の街が見下ろせた。静かな住宅街。目につく範囲で、窓に明かりが灯る家は見当たらない。みな当たり前のように寝ているのだ。ここは東京ではない。

 南戸も寝室に戻り、布団を被った。眠りはすぐに訪れる。正確で無駄のない眠り。泰斗はきっとこういった南戸の眠りを渇望しているだろう。どこまでも軽蔑すると同時に。

 意味がないとわかる夢の中で、南戸は広い草原に一本立った大きな木の根元で誰かを待っていた。風が頬を撫で、空は青く、雲は眩しく光っていた。薄暮の中で目を覚まし、布団の重みを身体に感じる。ぼんやりとだが、泰斗の持つ何かを自らの中に取り入れたような感覚が南戸にはあった。静かな朝がやって来ていた。

 

 南戸が朝の支度を全て終えるとほとんど同時に泰斗は目を覚ました。だらしない寝癖を頭に巻いて、大きな欠伸をする。

「今日は大学どうするんだ?」一応、南戸は尋ねてみる。

 泰斗は眉をひそめて、低く唸るだけだ。南戸としては別に泰斗が大学に行こうが行かまいがどうでもいい。大学に行くよう促したいわけでもないし、毎日だらだらと過ごすことを非難したいわけでもない。ただ、放っておくよりは、一応自分が泰斗のことを気にかけているというのを表現しておくべきだと思っていた。仕事場でもよくあることだ。人を自分の思い通りに動かしたいと思うのなら、自分が相手の行動に関心を寄せていると密かに訴えた方が良い。見られている、あるいは期待されている、と相手が感じてくれれば、それだけでそれなりの効果があるものだ。

「じゃあ、仕事行ってくる」

「今日も電車?」泰斗はコップに汲んだ水道水を飲みながら言う。背後では灰色の空を透過させて、ガラス窓が銀色に輝いていた。南戸は靴紐を締め直しながら、そうだ、と答えた。

 電車に揺られていると、身体の中から余計なものが浄化されていくような感覚になる。昨夜は泰斗と色々なことを話した気がする。酷く酔いが回っていたから、どんな話をどんなニュアンスで、どんな感情でしていたかまではよく覚えていない。ただ、会話を通して、泰斗の持つ何らかを自らの中に取り入れたような感覚があった。それが仕事場に近づくにつれて薄まっていく。その希釈の感覚は確かな実感として南戸の身体に細胞レベルで染み渡っていった。

 電車の窓ガラスにうっすらと映る自分の顔を見つめる。前髪が少し崩れているので、指先できっちりと分け直す。ネクタイを少しだけ緩め、形を整えてから、もう一度しっかりと絞める。ヘリンボーンのグレースーツに付着していた糸くずを摘まみ上げ、電車の床に捨てる。それからもう一度ガラスの中の二重に浮かんだ自らの像を見つめ直した。よし、問題ない。南戸は小さく息を吐き出して、肩を寄せ合う名も知らぬ会社員にちらりと視線を向けた。誰がどう見てもこの男よりは自分の方が洗練されて見えるだろう。馴染み深いナルシシズムが南戸に充足感を与えると、怠惰な赤ワインの残像はさっと消え失せた。

 仕事場に着くといつものルーティーン通りに業務を進める。始業前にデスクの整理を行い、メールチェックを済ませる。定型文を組み合わせて返信メールを何通か書き上げ、部下に頼んでいた仕事の進捗を簡単に確認しておいた。始業時間が訪れるとほぼ同時に電話がなり、一日の仕事が本格的に幕を開ける。

 午後からは顧客の会社へと出向かなくてはならない。スケジュールの関係で担当グループとは別に、南戸は一人で相手先へと向かった。社用車を転がしながら、やはり右ハンドルは少し違和感があるな、などと考えているうちに、ふと泰斗のことが頭を過ぎる。泰斗は大学に行っただろうか。それとも、また部屋で音楽や映画に興じているだろうか。もしかしたら気に入ってる小説を読み返しているかもしれない。昨日の仕事帰りの車の中、泰斗は何かの小説の誰かのセリフを引用していた気がするが、いったいどんなものだっただろうか。思い出せそうで思い出せない。そういうことが最近増えてきたように思う。仕事に関しての記憶力は衰えていないように思うのだが、と南戸は頭を捻った。薄く流れるラジオの音は時折記憶の迷路の道中にくさびを打つ。返し縫のように記憶は進んでは戻り、そして本当は繋がっているはずなのだが、俯瞰して見ると一つひとつは確かに分断されている。そのようにして、社用車は昼下がりの国道をだらだらと進んだ。

 出先から帰ると、本社の中島から電話が入っているとの報告を受けた。急ぎではないから、ということらしいが、こちらとて特に急ぎの用事があるわけではなかったから、すぐに折り返しの電話をかけた。待ち構えていたように二コールくらいで中島が電話に出る。

「電話もらったみたいだけど、何の用だ?」南戸はさっそく問いかける。

「いきなりだな。ちょっとくらい前置きの談笑をしたらどうなんだ?」中島の苦笑いが電話口から零れてくる。

「俺がそういうの必要としない人間だって知ってるだろ」

「いやぁ、すっかり忘れていたよ。南戸とこうやって口を聞くのも久しぶりだしな」

 南戸は最後に中島と話したのがいつだったか、思い出そうと何もない天井を見上げた。昨日泰斗に向けて中島との思い出話をしたせいか、あまり久しぶりという気もしなかったけれど、確かに数えてみれば一年近く口を聞いてなかったことに気がつく。

「去年の年末にサシで飲んで、それ以来か」南戸は何かの感想でも述べるようにそう言う。

「そうそう。せっかくの忘年会だってのに南戸がそっちで抱えてる案件について技術的な相談を受けた」

「それは悪かったよ。でも、おかげであの時の問題は解決した」

「知ってる。死亡通知書みたいな報告のメールが届いた」

 中島はネットワークに関する技術について、ソフト面もハード面もかなり詳しかった。出世欲があまりないタイプなので、今でも本社で下働きのようなことをさせられているが、そのうちにマネジメント力や営業力の強化のために南戸のように地方の支社に送られるだろう。おそらく自分と入れ替わりのようなタイミングになるだろう、と南戸は予想した。

「で、ご用件は?」再び南戸は質問を投げかける。

「いや、こっちでいま検討してる新技術が、顧客側の問題でどうもぽしゃりそうなんだ」

「それは残念。で、それが俺に関係あるのか?」

「ったく、相変わらず冷たいやつだ。まぁ、それが関係あるんだよ。せっかく検討した技術をそのままお蔵入りさせるのは勿体ないし、こっちは人間の出入りも激しいから、あまり先送りにして次の機会をただ待ってたんじゃ、主要人物はみんな散り々々になっちまう。そこで、件の新技術をどこかで試験的に運用させてもらえそうな手頃な企業がいないか調べてたんだ」

「そしたら、うちの顧客にそれがいたと」南戸は長く息を吐き出す。溜息というほどのものではないが、少し面倒なことになりそうな予感がしたので心持ち姿勢を正した。

「南戸は説明の場をセッティングしてくれれば良い。技術的な話は俺が直接そっちに行ってするし、そんな大掛かりなものでもないんだ。設備を大改装するってんじゃなくて、ちょっとノードを新しいシステムのものに新調して、ネットワークの経路を効率化するだけ。中規模のオフィスで若干通信速度が上がって、配線数と機器数が減って省スペース化できる上に一度に扱える端末数を増やせるって話。概要はあとでメールで送るから、読みたければ読んでくれ。どうせ先方には俺が説明するから、読む必要もないと言えばないけどな」

「読むよ。一応俺の客だ。自分が知らないものを無責任に売り込むわけにはいかない」

「ははは。さすが南戸。仕事人間っぷりは相変わらずだな。ま、南戸のことだから、義侠的精神に則って、そう言ってるわけじゃないんだろうけどな」

 さすが中島、よくわかっている、と南戸は内心で舌を巻いた。

 南戸は単純に万全を期して物事に臨み、確実な成果を上げたいだけだった。特に、こういったややイレギュラーなプロジェクトにおいては、極力丁寧に動くことが肝要だ。どうにかなるだろう、という気の緩みが未知の要素の氾濫を引き起こして、雪だるま式に問題を悪化させるのをこれまで何度も見て来た。そこではこれまでの経験則がいとも簡単に打ち砕かれ、まったく使いものにならなくなってしまう。

「というわけで、さっそく簡単な打ち合わせをしたいから、今日これからそっちに向かうよ」中島は淡々とそう口にしたが、それは南戸にとって予想外なことだった。

「これから? こっちに来るって?」

「あぁ。十八時にはそっちの支社に着けると思う。別に残業は平気だろ?」

「残業は平気だが」南戸の頭には少しだけ泰斗のことが過ぎった。「お前は、俺が今夜デートの予定を入れてる可能性とかまったく考えなかったのか?」

「なんだデートか?」

「いや、デートはないけど」

「じゃあ、何かあるのか?」

 中島は礼儀というものをどこかで失くしてしまったのかもしれない。南戸は呆れて、もはや非難する気持ちすら湧いてこなかった。

「ないよ。わかった。会社で待ってる」

「そうか、よかった。ところで、せっかくだし今夜一緒に飲まないか?」

「俺は構わないけど、中島は終電――」そこまで言いかけて、今日が金曜日であることを南戸は思い出した。「俺の家に泊まるつもりか?」

「ホテル代が浮くなら、食事は俺が奢るよ」

 南戸は食事と宿泊、それから一番重要な仕事の件をまとめて承諾し、受話器を置いた。

 席を立ち、コーヒーを手に持って戻って来ると、パソコンには中島からメールが届いていた。件の新技術とやらについて簡単な説明資料がまとめてあった。やや専門的な知識が必要で、細かいところまでは南戸にもわからなかったが、おおよそのコンセプトや核となる技術については理解できた。なるほど、これなら確かに話に出た顧客に提案するにはぴったりかもしれない。しかし、どうやってこの顧客の情報を中島は仕入れることができたのか。同じ企業内のこととは言え、大企業である訳だから、同時期に企業全体で抱え込んでいる案件の数は数え切れないほどだ。さらに、顧客情報やプロジェクトの詳細は他部署からは簡単にアクセスできないようになっている。これらは主にセキュリティのためであったが、全ての案件を集約するシステムを構築するのが難しいという問題もあった。南戸の中で中島に対する不信感がわずかに芽生えたが、しばらく考えているうちにことの次第がようやくわかった。

 たしか二か月前まで、こっちの支社で南戸のような立場で管理職をしていた人間がいたはずだ。それが本社に戻って、中島の近くに行った。中島は南戸の話題を出したりしながらその人と親しくなり、そして自らのプロジェクトが難航していることを軽く相談したところ、例の企業を紹介されたのだろう。南戸はもう一度その仮説を検証し、そして大きな間違いがないことがわかると一旦考えるのをやめた。どうせあと数時間もすれば中島はこっちにやって来るのだ。そのときに詳しいことを聞けば良い。それよりも、いますぐに南戸にはやらねばならないことがあった。中島が来るまでに大方の仕事を終わらせ、何人かの使えそうな部下を中島が持ってくる新たな案件のために選出しておく。そして、泰斗に今日の迎えが不要であることと、今夜は自分の家で寝食して欲しい旨を連絡した。

 

 泰斗は南戸の部屋で五年ほど前に解散したアメリカのバンドの作り上げたコラージュ・ミュージックを聴いていた。窓からはオレンジ色の夕陽が差し込んできている。朝はほとんど今にも泣き出しそうな空模様だったのが、いつの間にか明るさを増し、厚い雲は表面を削り取られる古い木材のように次第に薄くなっていった。今では淀んだ水色を冬の海のように湛え、よく考えられた広告デザインのように対照的な色合いを持つ、炎みたいに明るい夕陽が空の端に配置されている。部屋を音楽が満たしており、ノイズがかかったようなサンプリングされた人の声、鉄錆を帯びたようなバイオリンの音、重たいドラム、繰り返されるギターのアルペジオが微妙なバランスと確信的な陶酔を生み出していた。

 本でも読もうか、と立ち上がり本棚へ向かう途中、ガラス製のローテーブルの上でスマートフォンが震えた。ガガガガとガラスと触れ合う音は音楽の一部のようにも聞こえたが、二歩ほど足を進めたところでそれがスピーカーからの音ではないことに思い至った。

 南戸からの連絡だった。内容を確認し、泰斗は溜息をつく。別に南戸から拒絶されたみたいで寂しい、という訳ではない、と泰斗は自分に向かって言った。もちろん、声には出さなかったが。しかしながら、泰斗はすっかり今日もあの美しいクーペを運転するつもりだった。何だったら迎えの時間よりも少し早めに家を出て、軽く街をドライブしようという心積もりさえあったくらいだ。誇張されたエンジン音。他人が乗っている車がそんな音を出そうものなら不快極まりないだろうが、自分が運転している分にはかなり気持ちが良い。将来的にそんな車を好き勝手に乗り回せるならば、大学に行ってしっかり単位を取って、良い会社に勤めるのも悪くはないとさえ思える。だが、それくらいの動機では自分の意志を強く持つことはできないだろうと泰斗にはわかっていた。なぜ自分はこんなにも意志が弱いのだろう。朝方、南戸から大学に行くのかと尋ねられて、それに答えることもできずにただ曖昧な唸り声を絞り出しただけだ。

 結局、大学には今日も行かなかった。今日はたしか色彩論と解析力学の講義がある。色彩論はそれなりに興味深かったが、受講人数が多く、講堂は猿山のようにウルサイ。顔を洗い、歯を磨き、服を着替えて行ったところで、死にたくなるか全員殺したくなるかということが目に見えてる。解析力学の方が講堂の環境としてはまだマシだ。しかし、真面目に授業を受けていても、いま南戸が身を置いているところに行くために、つまりとても実用的かつ数値的な目的のためにノートを取っているような気持ちになってしまう。それはそれで泰斗にとっては哀しく、腹立たしいことだった。

 いったい自分は何をしたいんだろう、と泰斗はソファの上で天井を見上げる。油でべたつく横顔が夕陽で燃える。活力を失った目は影に沈む。昨夜の南戸との会話を思い出した。酔っ払っていたが、どんな話をしたかはだいたい覚えている。たしか自らの欲望に関して話をした記憶がある。南戸は自らの欲望に対して、かなり明確かつ論理的な理解を持っていた。泰斗はそれを羨ましいと思う反面、憎んでいた。そんな風な単純な人間が泰斗には許せない。どれだけ自分の中を沈んでいっても、いつまでも「これは確かだ」と思えるような自分には行きあたらない。手に掴んだものはすべて虚無に変わっていくような気がした。だから、凡庸で詐欺的な価値観を甘んじて受け入れて、そのために自らが犯し続ける罪に無自覚である、思考や煩悶の足りない人間をすべて殺してやりたいと泰斗は思う。でなければ、自分が死んでこの世の一切から消え去るか、だ。

 例えば、と泰斗は口にする。泰斗はよく独り言を口にした。喋っているうちに考えがまとまるし、日中ほとんど誰とも口をきかない分、それがストレスの発散にもなった。

「例えば、岩見を思い出してみろ。あぁ、岩見ってのはバイト先の一つ年下の女子大生ね。同じ大学の経済学部で、髪を栗色に染めている。化粧は濃いが、それなりに見た目は良いし、店長からも気に入られている。かく言う俺も別に嫌いというわけではない。まぁ、向こうは俺のこと相手になんかしてないだろうけど。その岩見がこの間、駅前のペットショップの前を通りかかったときの話をしていたんだが、彼女はペットショップの表の窓ガラスにセール中と貼り出されているのを見て、悲しくなったって言っていたな。そして、それだけにとどまらず、ペットショップがペットを売るのは仕方ないとしても、命に値段をつけて、しかもそれを人間や店の勝手な都合で値引く、つまり価値を下げるなんて、ちょっと可哀想ですよね。そんなことを言ってたんだよ。店長は優しい顔をして、そうだね、なんて頷いてたな。まぁ、俺も適当に笑ってはいたけど。でも、そう言ってる岩見本人は、その日に店長が安く仕入れたと言っていた鶏肉の仕込みをやっていたんだ。それに気づいたときには、俺もさすがに笑いそうになった。ったく、気分悪い話だ。岩見のやつは自分の心が繊細であることをアピールしたかっただけなんだろうな。別に命の価値について善悪の観点から討論するつもりなんてなかったんだろうけど、それでもさすがにやり切れないよ。なんでペットの値引きをするのが悪で、ペットを売るのは仕方なくアリなんだ? なんで生きている動物の命を値引くのには心を痛め、殺して細切れにした動物の身体を値引くことには心を痛めないんだ? 結局、こうやって人間ってのは自分勝手な価値観の中で、テキトーに生きてるだけなんだろうな。だいたい俺がどんだけ考えたって、どこまで行っても確かな善悪の境界線なんて見つからない。俺が生きているのは動物や植物を殺して、それを食ってるからだ。そう言えば前からベジタリアンのやつに聞きたいと思ってたんだが、なぜ動物は食べちゃダメで、植物は食べて良いんだ? 細胞壁の有無がそこまで生命に格差をもたらしているのか? 自律的な行動が取れるか否かで、生命の境界線は変わって来るのか? 食虫植物のように比較的自らの肉体を動かせる植物は、ベジタリアンとして食べていいのか、悪いのか。はぁ。まぁ、いいさ。別にベジタリアンについて考察したい訳じゃない。つまり、俺が言いたいのは、俺はこうして生きているけど、それは他の生命を食い物にしているからだってことだ。どうやったってこの罪は拭えない。言わば、原罪というやつだ。岩見やそれと同列に並ぶ女子大生は、そういった原罪について考えたことがあるんだろうか。いや、ないだろうな。しかし、俺は少なくともその罪を意識している。そして、その痛みをまざまざと感じている。だから許されるというわけでもないが、意識しないよりはした方が良いだろう。いや、良いと少なくとも俺は思ってる。でも、不思議なものでその罪の重みは俺の身体をこのソファに縛り付けて動けなくしている。はは、笑っちゃうよ。何も生み出してない俺が、南戸が買ったソファで一日中寝転がってる俺が、他人の無意識について腹を立てて、人としての善性についてあれこれ文句を言ってるなんて。途上国の経済的な不幸の上に、先進国に生まれただけの俺が胡坐をかいて、寝て食うだけの生活をしている。親と南戸の金にすがって生きてる。そこに罪の意識を感じないのか、と言われれば感じているに決まってるけど、でも、その罪の痛みがこの体たらくな俺の手足を動かす原動力にはなりはしない。どこまでも俺は矛盾ばかりだな。まったく、嫌になっちまう。死んじまいたい。そういや、ホリーは、慣れることは死ぬこと、と言っていたな。要するに、俺は罪の意識に慣れてしまって、それ故にこうして死んでしまっているのかもしれない。岩見みたいに、たまにセール中のペットショップの前に行って、慣れない痛みに新鮮さを見出してるくらいじゃないとダメなのかもな。それか南戸みたいに、ただ行動のみに価値を見出す人間になるか、だ。そう、まるでブラッド・ダイヤモンドという映画でダニー・アーチャーが善悪は人間の性ではなく、行動にのみ宿ると発見したように。あぁ、どうやったら南戸みたいな人間になれるんだろうか。どうしたらこの痛みを忘れて、全てを忘れて、南戸みたいに生きることができるんだろうか。あぁ」

 泰斗の顔はすべて影に飲み込まれていた。あっという間に沈んでいくんだなぁ、と頭の中で言葉が流れる。どこかでこんな言葉を聞いたことがあるな、と泰斗はぼんやりと考えた。そうだ、あの戦争について描いた小説だ。タイトルはなんだっけ。たしか東南アジアの、そう、レイテ島だったっけか。ともかくそんなところで死にかけの兵士の田村が歩き回る話だ。丘の上で田村よりももっと死にかけている兵士が、ほとんど狂気の中で夕陽が沈むのを眺めながら、夕陽の沈む早さを描写していた。死の間際で時間の感覚がおかしくなっているんだ。その兵士は空腹でくたばりそうな田村に、自らの二の腕を食ったらどうかと勧める。狂気であることに違いないが、それでもその兵士は死の間際に他人の心配ができた。それは素晴らしいことだ。サリンジャーも何かの作品で書いていた。首から血を流して死にそうになっていても、頭に壺を乗せて坂道を歩く娘か老婆がいたら、その壺が無事に坂の上に辿り着くか見届けるのが人間だ、というようなことを。それは確かな人間の善意だ。でも、どうしてそれは確かな善意になるのだろうか。泰斗は考えを推し進めようと思ったが、疲れてしまったのか、それ以上難しいことを考えられなくなってしまった。そんなことよりも長い独り言を撒き散らしたせいで、喉が渇いていた。

 電気の点いていない部屋には、あっという間に夕闇が染み渡った。相変わらずスピーカーからは不可思議な絡み合いを見せるローテンポの音楽が流れている。ガラス製のローテーブルの上には、泰斗が手に付けたテレビとスピーカーのリモコンだけが、ふしだらに放置されていた。逆説的にではあるが、南戸はずいぶんと綺麗に全てのものを並べるものだなぁ、と泰斗は感心する。

 泰斗は自分にできる範囲で部屋を片付け(どうせ南戸が帰ってくれば、これでは不十分だ、とより細密に全てのものが配置され直すのだろうが)、一番最後に音楽を止めるともう一度部屋を見渡した。それなりに綺麗にもなり、これなら南戸もある程度満足はしてくれるだろうか。しかし、それにしても、わざわざ南戸が今日は家に帰るように言ってきたということは、誰かを家に連れ込むつもりなのかもしれない。

 女だろうか、と泰斗は考える。

 いや、そんなことを考えたって仕方ない。それに、別に女を連れ込もうが何をしようが好きにすればいい。ここは南戸の家であって、俺の家ではない。それよりも俺ができることは、南戸が誰かと家に帰って来た時に、彼が一人暮らしをする独身男性だときちんと思ってもらえるかどうかだ。意味不明な男子大学生の存在など匂わせるわけにはいかない。きっと南戸も俺がそれくらいのことには気を配れる人間だと思っているはずだ。

 泰斗はそう考えると、リビングはもちろん、トイレやキッチン、洗面所、そして自らが足を踏み入れてすらない部屋まで、それが南戸らしい洗練された状態にあるかを確認した。全てのものが少なくとも泰斗が思う範囲内で、きちんと整えられている。まぁ、多少の歪みは仕方がないだろう。泰斗自身にできることにも限界がある。それに、と泰斗は付け足す。自分にわからない僅かな歪みが、ふらっと訪れた客人に気づけるわけがないだろう。そこまで考えてやっと、泰斗は緊張を緩め、ようやく南戸のマンションを後にした。マンションの中を降下するエレベーターの中で、部屋の鍵をきちんと締めたことを二度確認した。

 泰斗はイヤホンを耳にはめ込む。2000年に日本でリリースされたアダルト・コンテンポラリー・ミュージック。甘ったるい、裏声を多用する男性ボーカルが、「ありきたりの非凡添え」的な歌詞を唄う。夕闇に沈んでいく街をはるか上空から見下ろすような気分になる。ほとんど人通りのない道を街灯が等間隔に照らす。夜風より早く、車よりも遅く、濁った川の水が流れていく。対岸で鳴らされるクラクションがアコースティックギターの合間に曖昧に鼓膜に届く。昨日南戸を迎えに行ったときと同じパーカーとジーンズ。寒いな、と思って、そこでようやく上着のジャケットを忘れてきてしまったことに気がつく。椅子の背もたれにかけっぱなしになっているジャケットの映像が脳裏に浮かぶ。必要と不要の間で、それは放置され、ほとんど真っ暗になったあの部屋でじっと誰かを、何かを待っている。泰斗は取りに帰ろうか逡巡する。寒いし、あんなわかりやすい痕跡を残して来たとあっては、あれだけ配慮して部屋を整えたのが台無しだ。どう考えても取りに戻るべきだ。南戸なら即決して、踵を返すことだろう。しかし、泰斗は振り返ることすらできなかった。音楽は止むことなく前に進んでいる。立ち止まる泰斗に誰かの視線がちらっと向けられる。四十代くらいの女性のくすんだ臙脂色のコートが夕闇に乗って通り過ぎて行った。

 ジーパンの狭いポケットに手を突っ込みながら歩く。手というか、そこには指先しか入らないようなものだったが、それでもそうしないよりはマシだ。無駄とわかっていても寒さには抗えない。少しでも温かく。何かの標語みたいだな、と泰斗は思う。

 泰斗は南戸が洒落たレストランで身なりの美しい女と食事する場面を想像した。

 むしろそっちの方が簡単に想像つくよな、やっぱり、と泰斗はひとり頷く。

 去年の十一月のことだった。バイト先のスペイン料理店に、いつものように南戸が顔を見せた。南戸は、店員さんが来る曜日をわざわざ狙って来てるんですよ、と言った。泰斗の方でも南戸がやって来るのがバイトの一つの楽しみになっていたから、それはそれなりに嬉しいことだった。いつものようにスペインリーグの試合を見ながら、優れた選手の美しいプレーについて語り合った。と言っても、会話の主導権は泰斗がほとんど握っていた。時々、泰斗は南戸が本当にサッカーファンなのか疑うことがあったが、それも仕方のないことと言える。南戸はなかなか選手の名前を憶えようとはしなかったし、良いプレーがあっても、自ら賞賛の言葉を口にするよりは泰斗に喋らせて、むしろその泰斗の解説を楽しんでいる節があったからだ。どちらかと言えば口数の少ない泰斗がそこまで喋られたのは、泰斗が本質的にはお喋りな性質であったという部分もあるにはあったが、南戸が生来備えていた傾聴力をビジネス場でさらに伸ばしたから、というのが大きな要因でもある。泰斗はそういったことにも薄々勘付いてはいたが、南戸の能力によって自らの内に秘めた何かが引き出される感覚は心地よかったし、南戸にとっても自分の能力をビジネスではなくて、こういったプライベートの場で伸びのびと発揮するのは気分の良いものであったはずだ。精神の奥深いところで結びついていたような感覚はなかったが、性欲を持て余した若い男女がする火遊びのような感覚で、二人はどこまでも打算的にお互いを慰めあった。

 そんな関係性にありながら、泰斗の方は割と満足をしていたのだが、その十一月の木枯らし吹く日に、南戸は「今度、一緒にサッカーでも観に行きましょうよ」と泰斗にチケットを渡した。泰斗は最初かなりうろたえたが、それを表に出さぬように気をつけ、「ありがとうございます。ちょっと予定を確認してみます」と笑顔を返した。確認するまでもなく、試合のある日曜はバイトも大学もなかったのだが、一度ちゃんと考える必要があった。もしかしたら宗教の勧誘かもしれないし、南戸が同性愛者であるという可能性もある。南戸は自分の風貌を鏡で確認し、同性愛者のターゲットとなるよりは、宗教勧誘のターゲットになりそうだな、などと思ったが、よく考えると南戸からはどちらの感じもしなかった。同性愛者の可能性はわずかにあったとしても、宗教勧誘はあり得ない。新興宗教のように曖昧な救い手にはまったく興味がなさそうだったし、むしろ南戸には自分専用の強力な宗教があるのが見て取れた。

 泰斗は結局申し出を受けて、十一月の早朝に雪が降った寒い日に南戸とサッカーの試合を観に行った。日本のサッカーリーグにはあまり興味がなかったから、その試合がその年のリーグ戦の最後から三番目の試合であることをスタジアムに行ってから知った。南戸も「Jリーグの試合を観るのは、というか、こうやって生で試合を観ることじたい初めてです」と苦笑いを浮かべて見せた。

 生のスタジアムの迫力はなかなかのものだった。意表をつくプレーに泰斗は何度か歓声を上げそうになった。常に涼しげな表情をさりげなく纏った南戸が横目に見えて、泰斗はわずかに浮き上がった腰を下ろす。

「あの、店員さんは上原泰斗さんというお名前でしたよね?」南戸は前半終了近くの一つの盛り上がりの波がやって来たタイミングに乗じて、そう切り出した。

「そうです」泰斗は何のことか、と南戸に視線を向ける。

「いっそのことですし、敬語とかやめませんか? 呼び方も店員さんとお客さんではなくて、普通に名前でどうでしょう?」

「あ、はい。それはもちろん」泰斗はずっと一回りも年上の南戸から丁寧な言葉遣いをされていて、いつも少しだけ居心地が悪い思いをしていた。ただ、それを自分から言い出すような積極性が泰斗にはないだけだ。これは良いチャンスだ、と「どうぞ、下の名前でも何でも呼び捨てにしてください」とはにかんで見せた。

「じゃあ、泰斗と呼ばせてもらうことにするよ」南戸は特に恥ずかしげな様子もなく、さっと言葉遣いを切り替える。泰斗には目の前の洗練された男が、別の洗練された男に一瞬にして変貌してしまったかのような感覚を受けたが、むしろ敬語をやめた南戸の方がより本物の人格に近づいたような印象があった。「泰斗もぜひタメ口にしてくれ」

「いやいや、それはできないですよ」さすがに年齢が一回りも違いますし、と泰斗は付け足す。

「じゃあ、俺ももとの敬語に戻そう」

「いや、正直、目上の人に敬語を使われるのはなんか居心地が悪いんですよね」

「俺も敬語は苦手だ。仕事上、そして社会通念上、敬語を使っている方が問題も起こらなくて楽と言えば楽なんだが、こういうプライベートの場ではもっと自然体でいたい」

「僕の方が自然体でいられなくなります」泰斗は心底困っているという表情を南戸に向ける。そして、漠然とホリー・ゴライトリーの「普通よりは自然でありたいの」という言葉を思い出した。だからと言って、それを口にはしなかったが。

「そんなことはない。俺はこう見えて仕事人間なんだが」

「知ってます」

「どんどん上の立場になって、敬語を使われることも増えて、気を遣われることも増えてくる。そういうのはある意味では心地良い。自分が順調に進歩しているという実感が得られるし。でも、それと同時に立場や関係性の鎖を強く感じるようにもなる。身の回りのことはすべて人間関係も含めて、ただの契約というような気がしてくる。そうするとだんだん結婚というものすら、人生というゲームをより効率よく進めるための契約だと思うようになった。結婚していれば周りからの信用も得られるし、健康上やその他の問題があっても保険が効くからな。でも、多くの人は結婚にそれ以外の意味を求めるし、俺も最近はそれ以外の意味について興味を持つようになった。そして、一つの答を得た」

 そこで南戸は一度言葉を区切る。こういった小難しい話を聞くには、サッカースタジアムはうるさすぎる。冬の冷たい空気を引き千切ろうと躍起になっている応援歌の大合唱。昼の太陽は雲を銀色に光らせ、原色のユニフォームの色が、暗緑色の地面に映える。泰斗は南戸が得たという答を聞くために、耳を傾ける。文字通りの体勢を取って。

「結局、俺が結婚したところで、多くの人が結婚に求める複合的な価値を俺は手に入れられないということだ。要するに、だいたいの人間は心の拠り所としての結婚を想定しているが、そこに結婚という契約としての『形』が存在する限り、俺にとっては結婚しても仕事でまた一つ出世したのと何ら変わりないってこと。俺はまた確かにステップアップするが、それ故の縛りのようなものもさらに感じるようになる。別にそれが嫌なわけじゃないんだ。ただ、だったら結婚なんかしなくても、その分働いて出世すれば同じだけの楽しさや達成感が得られるというわけだ。みんなが結婚して得られるはずの心の拠り所は、俺には結婚というやり方じゃ得られないんじゃないかという危惧がある。だから、別のアプローチでそれを手に入れる必要があった」

 そこで、それを手に入れる上で泰斗は重要な鍵となってくる。南戸はその部分を口にはしなかったが、その代りにじっと泰斗を見つめた。南戸のセットされた髪は風でやや崩れていたが、ほとんど隙なくスキンケアされた頬や額、それから白い歯は南戸の人となりを如実に表している。南戸の持つ性格や価値観が自らを縛り付ける業。それについておおよその部分が理解できたことで、泰斗は南戸が何を言いたいかがようやくわかる。

「敬語ってのは、関係性を構築するための一つのツールだ」南戸は続ける。「だから、そういう『形』のある関係性を必要としない間柄を泰斗とは築きたいと思っているんだよ。泰斗は敬語を使うことで、人間関係をわかりやすく、要するに説明しやすくて扱いやすい、言わば一つの公式に当てはめたいと考えているのかもしれないが、それは決して自然体でいることとは一致しない。そういったやりやすい関係性の向こう側にある本当の自然体をお互いに共有してみたいんだよ。確かにやりにくいのは俺よりも泰斗の方だと思うけど、そこは飲み込んで、俺に付き合ってくれないか?」

 泰斗は返答に困った。ここまで自分の内部をさらけ出して、それを直接ぶつけられた経験がなかったからだろう。泰斗はただ黙って南戸を見つめ返すしかできなかった。甲高いホイッスルが二回鳴る。拍手とともに零れる観客の吐息。どこからともなく、後半が勝負だな、と聞こえてくる。じゃあ、前半は何だったんだろう、と泰斗は頭の隅で考えた。

 黙っている泰斗に、南戸は苦笑いを浮かべる。それから思いついたように、一つの提案をする。

「よし、わかった。今日帰るまでの一つのルールを作ろう」

「ルール?」

「泰斗が敬語を使うたびに、俺が泰斗にビールを一杯奢る」

「なんですか、それは。まるで質の悪い大学生の飲み会みたいじゃないですか」

「酒はわりと強いだろ?」

「普通です」泰斗は控えめに答える。

「社会人に対して、普通です、と返すのは感心しないな。普通ってことは、日付が変わるまで飲んでも普通に歩いて帰れる、ってことだと思われるぞ」

「じゃあ、弱いかもしれません」

「うん、うん。次からはそう答えるべきかもしれないな。とりあえず、そういうルールで今日一日やってみよう。それでタメ口に慣れなかったら敬語に戻そう。ともかく、泰斗は一日俺に対してタメ口だ。破ったらビール一杯。気を遣うべき相手にビールを買ってこさせるんだ。もし敬語を使えば、結果的に俺に失礼を働くことになる。そんな矛盾、理系には耐えがたいだろう」

「理系は関係ないと思いますけど」泰斗は困惑する。

「はい、敬語使ったから一杯だな」南戸は笑いながら言う。

「いや、でも、まだスタートって言ってないですよ」

「おぉ、また。二杯目だな」そう言って南戸は笑って立ち上がる。子供が初めてピーマンを口にした時のような苦々しい表情が泰斗の顔に貼りついている。「とりあえず、今日一日の辛抱だ」南戸は泰斗の肩を叩いて、ハーフタイム終わりでごった返していたスタジアムの狭い通路へと消えていった。

 不思議なもので強制されると泰斗は比較的自然に敬語を取っ払うことができた。南戸の若々しい見た目や言動が、より親しみやすさを助長した。最初にタメ口を使った時には、今度は自分が全く別の人間になってしまったかのような錯覚に捉われたが、それもすぐに慣れてしまった。新しい南戸と新しい自分、そして新しい関係性へ。泰斗は来世に転生してしまったかのような気分で試合の後半を楽しんだ。もともと酒が好きなこともあって、気分が高まる。いつものように南戸に向かってサッカーの解説をした。南戸もいつものように適切なタイミングで適切な相槌を打つ。それでも、二人の関係性は確実に一新されたという実感が互いに持てた。

 その夜、泰斗は初めて南戸の白のクーペに乗せてもらった。来るときはバスに乗っていたが、まさか帰りはこんなものに乗ることになろうとは。シートは座ったそばから一つのエンターテインメントのような驚きと発見があり、キーを差し込んで唸るエンジンは十数分前のスタジアムの歓声を思い出させた。興奮、そして高揚感、陶酔さえ感じさせる。

「まさかあそこから勝つとは思わなかった」南戸は楽しげに言う。

「いい試合だったよ。スペインリーグに比べれば技術はまだまだだけど、互いに足りないところをきちんと補い合って、最後は粘り勝ちした。一点ビハインドから、後半四十分に同点に持ち込んで、あそこで試合は決まったね」

「逆転するときの雰囲気ってのがあるよな」

「そうそう。サッカーってのはだいたい三点目が重要になる」

「あぁ、それ中島も言ってたな。あ、中島ってのは俺の同期でよく一緒にサッカー観てたやつな」

「南戸の唯一の友達」

「唯一ではない。もう一人、二人くらいはいる」

「たったそれだけ」

「それでも泰斗よりは多いだろ」

「まぁ、それもそうだ」

 南戸はシフトレバーを入れて、アクセルを踏んだ。泰斗はビールで結構酔っていたが、南戸は素面だ。もともと飲酒運転をするような人間ではない。酒を我慢するのは格別苦にならないし、基本的に法律は遵守する。南戸にとっての法律は善悪の判断基準などではなく、世のシステムを滞りなく運用するために必要なただのルールであり、そのルールを破って効率性を失ってしまうなんてばかばかしい話と言えた。

 それに、と南戸は思う。助手席に座る泰斗は酒に酔っていたが、ともかく思い通りにことを進めることができた。やはり敬語をやめてから二人の間の壁はかなり低くなったし、何よりも客と店員という距離感を払拭できたのはありがたい。まだ同期の中島との方が親密度は高いものの、きっとこの泰斗とはすぐに中島なんかよりも親密な関係性を築けるはずだ。中島との関係性から仕事という要素を抜くことはできなかったし、何といっても一目見たときから南戸は泰斗に対して好感を持っていた。繊細そうな表情。迷うような瞳。芸術家的な素養をわずかに感じさせるが、芸術家やその卵ほど自分に対しての自信はない。社交性もないわけではないのだろうが、何故かそれを極力自分の中から取り出そうとはしていないように見受けられた。必要最低限で社会というものをやり過ごそうという魂胆が見え隠れする。そのくせ、頭や身体の中には暗示に満ちた強い意志を感じる。興味深い人間だと思った。きっと南戸自身が極端な考え方の持ち主でなければ、そこまで気にならなかったのだろうが、南戸は自らが極端な人間であることを十分に理解していたし、それ故に自らの真逆をいく泰斗にはかなり興味を惹かれた。

 サッカー観戦の後、南戸のマンションに招待されたところで、泰斗はそのような自分自身に対する南戸の概評を聞いた。それを聞いて、泰斗はまるで自分を芸術品か何かのように扱ってくれる、と少し恥ずかしい気持ちにもなったが、それ以上に、自らが理解され受け入れられていることに嬉しさを覚えた。いや、何よりもまず、温かな安心感に包まれた。そして、その温かさが、自らが孤独であったことを気づかせてくれた。そうか、自分は孤独だったのだ。そんな映画や小説の中のセリフみたいな内的な言葉が泰斗の感情を揺さぶり、そして涙を流させた。嗚咽交じりに涙を流す泰斗は、薄っすらと微笑みながらただゆっくりとワインを飲む南戸の余裕のある態度に、感謝の感情しか抱くことができなかった。

 泣くのをやめると、南戸は泰斗にシャワーを勧めた。泰斗はそれに素直に従って、清潔に保たれたバスルームへと裸で足を踏み入れる。

 頭を洗い、身体を洗っていると脱衣所に南戸の気配があった。その瞬間背筋にぞわぞわと悪寒が走った。このまま南戸がバスルームに入って来る。そこまで筋肉質というわけではないが、南戸の身体は泰斗よりも頑丈でしなやかそうだった。もし力づくで何かをされれば、泰斗には逆らうことができないだろう。

 泰斗は一瞬にして酔いが醒める心地がしたが、幸いにも泰斗の不吉な予測は外れた。バスタオルは洗濯機の上に置いておくから、と声がかけられただけだった。泰斗は安堵の息を漏らし、ありがとう、と答えた。すっかりタメ口で喋るのに慣れてしまっている自分がいて、さっきの一瞬の恐怖が馬鹿らしく思えて、口元を緩めた。

「あ、一つ聞いておきたいんだが」脱衣所から出る寸前に南戸は再度声をかける。

「なに?」

「泰斗は女が好きか?」

「急になんだよ」性の話になり、泰斗はふたたび身体を強張らせる。

「いや、今日は気分が良いからさ、シャワー浴びて飯食って、俺も酒飲んだら女でも呼ぼうかと思ったんだ」

「女って、どんな」泰斗は努めて冷静な声を出そうと思ったが、思わぬ事態に心拍数が跳ね上がる。高校の頃に一度だけあった、そういう性的な経験を泰斗は思い出す。

 当時付き合っていた女の子だ。その日はたまたま彼女の家には誰もいなかった。

 やり方は知っているつもりだったが、自分も初めて、相手も初めてというシチュエーションで、何をどうすれば良いのかよくわからなくなってしまった。彼女は痛がるし、泰斗は泰斗で緊張のあまり自らの身体をうまくコントロールすることができない。とりあえずオーラルセックスのようなことまではやってみたものの、結局快感という快感もうまく得られずに情けなさと気まずさだけが残った。東向きの出窓。小さな花柄の刺繍が施されたレースのカーテンは薄暗いオレンジ色に染まり、灯もない小さな部屋は黄昏の影の中に沈む。シャンプーのような香りがする彼女の部屋は彼女のあどけなさを唄い、そして泰斗の愚かさを笑った。一糸纏わぬ彼女の裸よりも、ベッドの端から落ちそうになっている彼女の事務的な雰囲気を纏う下着が、いつまでも泰斗の脳裏を離れなかった。結局その初体験以降は、お互いに顔を合わせるのに気が重くなってしまいそのまま別れてしまった。

「店の女が嫌なら、知り合いを呼ぶこともできるけど、そっちの方がいいか?」

「いや、何でも良いよ」泰斗はめんどくさそうな声を出したつもりだった。シャワーを出しっぱなしにしておいて良かったと思う。微妙な声の震えが伝わらないだろう。

 しかし、南戸は「そんな緊張するなって。もう一回酒入れれば万事うまくいくから」と笑いながら言って、脱衣所の引き戸を閉めてリビングへと引き返していった。

 いつもよりも丁寧に身体を洗い、いつもよりも多めに酒を飲んだ。南戸は泰斗に自らの寝室とベッドを貸してやった。後で自分がそこに寝ることになるのに、生理的に嫌ではないのだろうか。泰斗は心配するが、シーツくらい変えるし、もっと酷い環境を何度も経験してるから、と南戸は軽々しく言ってのける。泰斗は少しだけ南戸との距離を縮められた気がしていたが、軽快な笑みを浮かべる南戸をまじまじと見つめ、やはり自分からはまだずっと遠くにいる存在なんだと再認識することになった。

 南戸の部屋には二人の女がやって来た。どちらも見るからに品はなさそうだったが、無理矢理にでも特徴づけて二人を分類するなら、やんちゃそうな子と真面目そうな子の組み合わせだった。南戸は気前良く財布から札束を取り出して、さっと女に渡す。南戸が渡すのだから数える必要なんてないのに、と泰斗は思ったが、女はきちんとその枚数を数えて、「避妊さえしてくれればなんでも」と笑った。

 泰斗には相場というものがわからないし、細かく言えば風営法等の法律も違反しているのではないか、という気もしたが、南戸が女に渡した札束の厚みは、女が「なんでも」と言うだけの根拠たり得るのだとわかった。金さえあれば大抵のものは手に入る。これまで泰斗が躊躇していたものさえ、南戸にとっては労働の対価として得られる日常のちょっとしたスパイスに過ぎない。泰斗は南戸のことを初めて強く軽蔑したが、それと同時に格好いいと感じた。矛盾した感情。しかし、あっという間にそれは心のどこか奥に引っ込み、泰斗はかろうじて真面目そうな雰囲気の残る女に手を引かれて、南戸の寝室へと誘われた。

 結論から言えば、南戸の言う通りだった。「酒を入れれば万事うまくいく」というまじないの言葉は、効果的な暗示として機能する。女も手慣れているようで、「はじめてなの? 可愛い」とありきたりな言葉で泰斗を誘惑した。顔も声も身体もまったく好みではなかったが、全ては順調に進み、譜面通り、休符とダル・セーニョ。女の振るタクトに合わせて、最後まで一通り済ませ、行為中はついていくのに必死だったが、終わって振り返ってみればなかなか悪くなかった、という感想が泰斗の口からは零れた。「どう? 気持ち良かったでしょ?」と女が笑う。屈託のない笑顔と彼女の八重歯だけが何故だか泰斗の心に残った。高校の頃に付き合っていたあの子の、ベッドの端から落ちかけている事務的な下着。それと同列には並べたくなかったが、結局はそれと同列なのだ。全ては特別なものではなく、ただただ凡庸なだけだ。凡庸、凡庸、凡庸。なかなか悪くない凡庸。

 女は泰斗をベッドの上に残して洗面所へと向かった。寝室のドアが開くと、南戸の興奮した声と、やんちゃそうな方の女の喉元で鳴る甲高い喘ぎ声が聞こえて来た。泰斗は身体を倒し、枕に顔を埋める。大音量でシューゲイズを聴くか、それか死ぬほど酒を飲みたいと思った。

 日付が変わる前に女はさっさと帰って行った。南戸はボクサーパンツ一枚という姿でそれを見送り、最後に二人と深くキスを交えた。一人目は南戸とヤった方。二人目は泰斗とヤった方。「今度は君ともしてみたいな」と南戸は冗談めかして言った。泰斗はリビングのソファに座って見送りはしなかったからよくわからなかったが、女は二人とも南戸の洗練された男の雰囲気に終始楽しそうだった。泰斗は二人がマンションのエレベーターに乗りながら今日の感想を言い合う場面を想像した。南戸と比べられるのはやり切れない。泰斗は溜息をつく。

 それが去年の十一月のとある日曜日、一日の間に起こった出来事だった。その日、南戸は結局シーツを取り換えるのを面倒臭がり、リビングのソファで寝た。泰斗は南戸の寝室にある上等なベッドでいつまでも夜の天井を眺めていたが、気がつかぬうちに眠りに落ちていたようだった。翌朝泰斗が起きると既に南戸は仕事に出ていて、リビングのガラス製のローテーブルの上に「家を出るときは一応鍵を閉めておいてくれ」という書置きと、部屋の鍵、それから連絡先を書いたメモ用紙が残っていた。

 その時のことを思い出すと、泰斗はいつも気分が悪くなった。性的な思い出としては、それなりに思い出す価値もある。しかし、それに付き纏う醜悪な雰囲気にはどうしてもなかなか馴染むことができなかった。しかし、時間とともにそれも徐々に受け入れられるようになってくる。それに、そんなことも南戸のおかげで何度か経験することができたし、頭痛を忘れる為に左腕を殴り、今度はその左腕の痛みを忘れる為に腹を殴り、というような具合で、痛みは痛みによって少しずつ克服されていった。だから、泰斗は自分自身に関する性的な醜悪さを一歩ずつではあるが受け入れて、克服することができた。

 しかしながら、逆に泰斗の心を蝕むようになっていったのは、南戸がそういった下品な風俗嬢と関わりを持っているという事実だった。上品で洗練された、ほとんど完全無欠の南戸詠士。美しいロジカルに極端な価値観を併せ持つ南戸詠士。そんな彼が、どうして二か月に一度くらいの頻度であんな連中で自らの性処理を行っているのか。泰斗はそのことに次第に腹が立っていった。南戸ならば、もっと上品で、もっと普通の一般的な社会に属する、それこそ深窓の令嬢的な女性と交際していてもいいはずなのに。高級外車、ブランド物の服、それらはむしろそんな女性を捕まえる為に用意していたものではないのか。

 泰斗はそのことについて南戸に尋ねたことがある。南戸の返答はいかにもシンプルで、またよくよく考えてみれば彼らしいものだった。

「そんな素晴らしい女性を射止めるのも、確かに面白い遊びかもしれないが、結局は洗練された関係性を持つことでより自分を高めたいという欲求の一部でしかない。そんなものは仕事をしていればいくらでも感じることができる。だから、むしろ俺は自由な独身者として、奔放に性欲を満たすことを楽しみたいんだ。それはそれである意味ではかなりの優越感に浸れることでもある。実際、彼女らとしたことの話をすると、だいたいの男は俺のことを羨ましがる。彼女たちは紛れもなくプロフェッショナルだよ。素晴らしい技術と感性を持っている。そして、これが一番大事なことだけど、いずれはそういう立派な女性を娶るつもりもあるからね。ゆくゆく経験できることを、今あえてやりたいとは思えない」

 泰斗はそれを聞いて、きっと自分はその「今あえてやっていること」の一部なんだと思った。南戸からしたら、泰斗は刺激的で都合の良い風俗嬢となんら変わらないのかもしれない。そう考えると虚しくなる半面、それでこそ南戸だ、というような感情も湧いて来る。南戸に対しては、そんな矛盾だらけの感情ばかりだ。そんな矛盾を耐えがたく思うのは、自分が理系の人間だからだろうか。泰斗はサッカースタジアムでの南戸の言葉を思い出した。

 ずいぶんと長いこと南戸との思い出について考えながら歩いていた。泰斗は冷え切った身体を縮こまらせながら時間を確かめた。まだ六時にもなっていなかったが、あたりはすっかり真っ暗になっていた。ふと南戸の部屋に忘れて来たジャケットのことを思い出して、やっぱり取りに戻ればよかったと思う。でも、今から帰ったら、客人を連れた南戸と鉢合わせてしまうかもしれない。泰斗はもう戻ることさえできないのだ、と気づき、再び歩き出す。ずいぶんと寄り道をしてしまっていたが、家に帰ろう。自分の家に。誰もいない家に。両親のお金で借りているアパートに。

 南戸の客人は美しい女性だろうか。もしそうだとしたら、もうあの風俗嬢たちは南戸の家に来ることはなくなるのだろうか。南戸にとって、もう不要となってしまったのだろうか。しかし、いずれにせよ、あと一年かそこらで南戸は東京に戻ってしまうだろう。結局は、彼女たちと南戸の間には何も残らない。お互いに通り過ぎて行くだけの存在。

 泰斗は再度足を止めて、橋の上から暗闇をそのまま流しているかのような川を覗き込む。深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗いている。これは誰の言葉だったか。泰斗の頭上から降り注ぐ、重たい卵の黄身のような色をした街灯の光は、彼の影を作ることもなく、静かに艶めかしく闇の川面に反射していた。車列が背後を何台も、何台も通り過ぎて行く。一瞬、白いクーペが通り過ぎて行ったような気がして、泰斗ははっと顔を上げる。しかし、きっと気のせいだ。白のクーペは今日はマンションの駐車場で大人しく眠っている。泰斗が役目を持たぬように、それもまた役目を持たないのだ。しかし、と泰斗は考える。南戸が東京に戻った時、そこにはきっと自分はいない。でも、きっとあの白いクーペだけはまだ南戸の手元にあるだろう。上原泰斗という操縦者がいたことを、あのクーペは覚えていてくれるだろうか。それくらいは期待しても良いだろう。

 そこで泰斗はセンチメンタルになっている自分が急に馬鹿らしくなって、ようやく歩き出した。身体は冷たく、腹は減っている。無価値であっても生きている限り、今日もまた生きねばならぬ、と泰斗は足を繰り出した。

 

 南戸がそろそろだな、と時計を眺めると、その行為が最後の引き金になったかのように見覚えのある顔が現れた。よう、中島、と声をかけると、元気か、と再会を喜ぶような顔で返事が返って来る。黒無地のスーツに派手な赤色のネクタイだが、どこか野暮ったく見える。中年太り予備軍みたいなぼんやりとした体系のせいなのか、どこかで見たことのあるような捉えどころのない黒縁眼鏡のせいなのか、それとも南戸自身が中島に対して持っている先入観のせいなのか。細かいところはよくわからないが、もはや南戸は自らの手を以てしても、中島を洗練された格好に着飾ってやることはできなそうだな、と思った。ふと、泰斗のときは我ながらよくやれた方だ、という自画自賛の念が湧いたが、今それは不要だ、と脇に押しやる。

「資料は読んだのか?」中島が尋ねてくる。

「あぁ。まぁ、やれそうなんじゃないかな。ただ先方との会議のときは俺が話の主導権を持つよ」

「俺じゃ信用ならんか?」

「いや、そういうんじゃない。単純に物事には順番があるってこと。こっちは既にそれなりの信頼関係があるから、俺が持ち込んだ話ってことにした方がいいと思ってさ。あくまで中島は技術的な補佐員、つまりスペシャリストってことで」

「なるほどな」中島は何の疑いもなく頷く。そういうところで少しずつ損をしていくんだぞ、と南戸は心の中で注意してやった。

 同期に対するせめてもの思いやりで、話が通ったらあとは全部そっちに任せることになると思うから、と付け足した。もし、ずっと南戸がこのプロジェクトの頭にいたら、中島と同じチームの人間が不信感を抱くかもしれない。南戸としては、新しいプロジェクトの契約を自分が取り付けたことにできればそれで十分だ。自分にいま求められているのは営業能力や管理能力の成長とそれを裏付ける実績、つまり、契約数とプロジェクト遂行数だ。対して中島たちはいま技術グループにいるわけだから、新しい技術を実現させることに意義がある。上手くやれば、ちょうど「Win-Win」な関係ではないか。

「もう一度、どういう風に売り込むか話をまとめよう」

 南戸はそう言って、応接スペースに中島を案内する。ついでに、どうしてこの案件に好条件の顧客が南戸のもとにいることがわかったのか、南戸は中島に質問をぶつけたが、二か月前までこっちで管理職をしていた人間が中島の近くに行って情報を流したという仮説はほとんど合っていた。唯一南戸が予想していなかったのは、中島がその情報を知ったのが今日の昼休みだったということだ。南戸は中島の行動の速さに感心しながら、自分のデスクにパソコンを取りに戻った。電源プラグを抜いたところで、南戸はふと辺りを見回す。

「横田さんと三浦君、さっき言ってた件ですが、今から一時間ほど大丈夫ですか?」

 時計の針は既に十八時を指そうというところだったが、昼間のうちに話を通しておいたため、二人は特に不平もなくデスクから立ち上がった。何事も先手を取り、布石を打つことだ。南戸は自分の配置した布石が見事に機能しているのを見届けて、少し気分が良くなる。応接スペースに四人が揃うと、まずは自己紹介から会議が始まった。

 

 魚料理が美味いと評判の居酒屋に三人で向かった。五つ年上の横田さんは、家族が待っているもんで、と先に帰ったが、いまだ独身者の三人は仕事終わりの爽快感を肩にかけて、既に真っ暗になった道を歩く。こっちは寒いな、と中島が言い、今日はまだ暖かい方ですよ、と三浦が答える。南戸の目論見通り、中島とは相性が良いみたいだった。中島はどちらかと言えば明るい性格ではあったが、技術的な人間にありがちな若干コミュニケーションに消極的な傾向がある。まだ二十代の若い三浦の人懐っこい性格は、硬い人間にとっては時に鬱陶しく思われることもあるが、中島にとってはこれくらいがちょうどいいだろう。

「中島、電話で言ってたこと覚えてるか?」南戸は右隣を歩く中島に向かって言う。

「プロジェクトのことか?」

「違う。今日の食事代のことだ」

「えーっと、あっ。いや、覚えてないな」

「何すか? もしかして、中島さんが奢ってくれるんですか?」

「そう言ってたな」

「いやいや、待てって。三人分なんて聞いてない」中島は手のひらを南戸に向けて左右に振った。「宿代の代わりって言っただろ。だから、その分しか出さないよ」

「あぁ、それだけ出してもらえれば十分だよ」

「あれ、意外と南戸さん優しいんですね」三浦が楽しそうに口を挿む。

「そうなんだ。南戸は昔から優しいやつなんだよ」南戸のことをおだてるつもりなのか、中島は大きく首肯しながら三浦に同調した。

「うちの宿泊費がいくらかはまだ言ってないし、評判によるとそこら辺のホテルよりもずっとふんだくるらしい」南戸は微笑みながら言う。

「なんだよそれ」中島は顔をしかめる。

「まぁ、中島の出世工作を手伝ってやるんだから、今日くらい奢たっていいだろう。三浦も中島のために今日は残業してくれたんだし」

「それもそうですね」三浦は笑いながら言う。

「別に出世工作してるつもりはねぇよ」

「はは。どちらかと言えば、南戸さんの方があれこれ考えてそうですよね」

 南戸は高い笑い声を通りに響かせた。中島よりは三浦の方が勘が鋭いし、よく周りが見えている。意外と三浦君の方が早く出世するかもな、と南戸が二人に向かって言うと、中島は隣を歩く三浦に妬みの視線を向け、三浦は素直に喜んだ。どうしてそう思うんですか、という三浦の問いに、南戸は、ちゃんと出世に興味関心があるからだ、と答えた。三浦は、別にそんな、と困り、中島はそれを自分に対する皮肉と受け取った。南戸だけが笑い、「俺なんて出世にしか興味ないけどな」と言うと、そうやって真っ直ぐ言えるのがすごい、と二人は声をそろえた。

 九時過ぎには腹も満たされ、良い感じに各々がアルコールのぬるま湯につかっていた。そろそろ帰るか、と中島が言い、ですね、と三浦が答える。

「南戸、忘れてないよな」

 中島が熱湯に突っ込んだのかというくらい真っ赤になった手を南戸に向けて差し出して来た。南戸は「もちろん」と答え、財布から三千円を取り出して中島に渡した。

 南戸がどんな家に住んでいるのか、という話になり、それからこともあろうに中島が南戸の所有する高級外車の存在を三浦にばらしたタイミングだった。三浦が興味津々という表情を隠そうともせず、身体を前のめりにするので、南戸は「感じ悪く思われると嫌だから、あんまり言いふらすなよ」と冗談っぽく注意したが、果たして三浦がしっかりと口を閉ざしていられるのか。噂に尾ひれがついても嫌だしな、と思っていると、中島は「なんで同期なのにそんなに金持ってんだよ」と絡んで来る。

「別に中島と変わんないって。貯金してないだけ」

「いやいやいや。そうだ、思い出した。三浦君、南戸は本社にいるとき、めちゃくちゃ残業して会社から金を巻き上げてたんだよ」

「巻き上げるなんて言い方するなよ。変な意味に取られるだろ。普通にたまたま配属されたチームが重たい案件をいくつも抱えてただけだって」

「めちゃくちゃ残業、ってどれくらいしてたんですか?」

「特別な届け出が必要になるくらい」南戸のことなのに中島が答える。

「うちの会社でもそうとこあるんですね」

 三浦は、いずれ自分にも悪魔の手が伸びてくるのではないか、と危惧するような表情になったが、中島が「いやいや。だから、南戸は自分の意志で残業してるだけだって。普通そんなことにはなんないよ。会社はまとも。異常なのは南戸一人だけ」と強く訴える。それを聞いて、三浦はほっと胸を撫で下ろしたような雰囲気を見せたが、すぐに南戸の方に視線を向け直すと「でも、なんでそんな働くんですか?」と聞いてきた。

「何度も言うようだけど」南戸はあくまで冷静に答える。「金と出世のためだって」

「そんなに働いて、お金使う暇あるんですか?」

「だから、高級外車乗り回したり、ブランド物のスーツを着たりしてるんだろ?」またも南戸に代わって中島が答える。「ま、そんなことよりさ」

「そんなこと、って中島のせいでこんな話になってるんだろ?」

「まぁ、まぁ。気づかないうちに話題が逸れることなんてよくあるだろ。それよりも、とりあえず、今から南戸にクイズを……そうだな、五問出題する」

「なんで?」南戸は眉をひそめる。

「一問間違えるたびに千円な」

「だからなんで?」

「この中で一番稼いでるのが南戸なのに、俺が金を出すのは変だと気付いたからだ」

「そんなこと言って、後輩の前で恥ずかしくないのかよ」そう言って、南戸は三浦の方に視線を向けた。中島もちらっと三浦に目線を向ける。

「残念ながら、三浦君とはそんな長い付き合いにならなそうだしな」

「普通、そういうこと面と向かって言わないですよね?」三浦がもっともな疑問を口にする。

「冗談だよ」と中島は言うが、「冗談になってない」と南戸はすかさず返した。

 それから中島によるクイズ大会が始まり、どんな問題が来るのか、と南戸は身構えたが、案の定というべきか、通信ネットワーク技術に関する問題が南戸に襲い掛かって来る。それはずるい、と南戸は言うが、中島は「ずるくない。同じ採用枠で、ほとんど同じような仕事をしてきた。もちろん、俺が専門的にやってるところからは出題しないよ。常識の範囲内で問題は出す」と真面目な顔で宣言した。

 結果から言えば、二問正解、三問不正解。昇進試験のことを南戸は思い出したが、南戸はどちらかと言えば短期記憶型で、学生の頃からテスト前にぱっと覚えて効率よく点数だけ掠めとるようなやり方をしていた。故に、「あぁ、なんか聞いたことあるな。覚えてないけど」という感想を三度も言う羽目になった。それでも二問正解しただけ誉められてしかるべきだろう。それを証明するように、中島の出題する問題は細かいところを突いてきており(それ故に重要なところであることは南戸も重々承知してはいたが)、三浦は「一問もわかりませんよ、難しすぎです」と出題者に不平を言った。

 三千円くらい一時間程度残業すれば取り戻せる、と昔のように南戸は勘定したが、すぐに自分が今はもう残業手当の出ない立場にいることを思い出した。久しぶりに同期の中島と飲んだせいで、どこか昔のバイオリズムに身体が満たされているような感じになっていた。

 駅で三浦と別れて、今日は久しぶりに夜の電車に乗って帰宅する。泰斗のことを中島に説明するのは面倒だが、それでも迎えに来てもらえばよかったな、とも思った。あの車もきちんと後部座席に役割を与えられて、きっと喜ぶことだろう。電車は混むというでもないが、座席に座るためには見知らぬ人と肩を寄せ合わなければならない。電車に乗り込むときに、ドアを開ける為に自ら開閉のボタンを押す南戸を見て、中島は驚きの声を上げた。やっぱり田舎なんだな、とそれなりの声で言うので、感じ悪いぞ、と南戸はそれを諫める。

 それとなく辺りを見渡す。やはり、南戸はこの一両分の電車の中でも最も洗練された男のように見えた。そのことが南戸の心を慰める。南戸の正面の席だけがちょうど一席分空席になっている。黒い鏡の中に、南戸は自分の理想像を見出す。不思議なものだ、と南戸はたまに思う。鏡や写真で見る明瞭な自分の姿はどこかまだ不完全に見えて、素人が作った粘度工芸のようにまだまだ改善の余地があると思い知らされる。しかし、夜のガラス窓に映るぼやけた自分の像は、かなり完璧に近いものに見えた。きっとそこには自分の願望が入り込む余地があるのだろう。不完全な自分の骨組みに、頭の中の理想で肉付けを行う。そうすることによって、南戸は自分の中に眠る完全性を目にすることができるのだ。

 しかし、と南戸は最近感じ始めた疑問を再度投げかける。

 あとどれくらい働き、どれくらい周囲を出し抜けば、自分はそこに辿り着けるのか。仮に自分がいま勤めている会社の社長になったとして、そうなればいま目の前のガラス窓に映る自分を手に入れることができるのか。昔までは、きっとそこに一致するまではいかなくとも、かなり漸近はできるだろうと考えていた。しかし、今はなぜかどれだけ仕事に打ち込んでも、そこに辿り着けないどころか、近づいているという実感も得られなくなっていた。仕事が思い通りにいけば楽しいし、周囲からの賞賛は心地よい。同期の中で最も早く出世していることも誇りに思う。けれども、と南戸は首を横に振る。どこか満たされない。前までは自分の中には、能力やそれを入れるための機能的な収納スペース(それは言わば、自らの可能性だ)がぎっしり詰まっているような気がしていた。

 宝石店に足を踏み入れて、煌めくガラスケースを見回す。どれでも好きなものをいくつでも。君に似合う、ふさわしいものをプレゼントしよう。

 愛すべき美しい女性にそんなことをエレガントに言う。それが南戸の頭の中にたくさん詰まっている輝かしい光景の一つだった。その光景一つひとつ、それ自体が南戸にとっての宝石であった。しかし、いつの間にかそれらの光景がセピアがかって見える。団地の裏に打ち捨てられた漫画雑誌。雨でインクが滲み、真夏の太陽で紙は歪んだまま灼き固められる。無価値を通り越して、哀れだとさえ思う。どす黒い血のたっぷり詰まった肉袋。昔どこかで読んだ猟奇殺人ものの小説で描かれた比喩を思い出した。それらを沢山乗せ込んだ電車が夜の街を駆け抜けている。隣の同期の中島も、はす向かいのベージュのダウンコートに身を包んだ太った年増の女も、単語帳を開きながら眠る学生も、それらの醜い肉袋の一つに過ぎない。もちろん、そんなことを考えている南戸自身も。

 だいぶ酔っ払っているな、と南戸は自分に言い聞かせる。こんな気分にいつまでも取りつかれていたら、そこら辺を歩いている人間を片っ端から殴り倒していってしまいそうだ。馬鹿みたいな妄想だが、その汚い妄想が本物の感触を自分の手のひらに求めさせている。湧き上がる暴力的衝動はどこにも発散できずに、ブーメランのように南戸の身体へと戻って来て、確かな苦痛を与え続ける。いつの間にか家の最寄り駅まで来ていた。眠っていた中島を起こし、「ほら、降りるぞ」と笑いながら声をかける。改札を抜け、中島とくだらない話をしながら、郊外に立ち尽くす瀟洒なマンションへと一直線に向かった。コンビニエンスストアの前を通り過ぎるとき、中島は水でも買っていこうかなと言ったが、家には水どころか年代物のワインまで用意してある、と南戸は言う。さすが高い宿泊代を取るだけはある、と中島が笑った。夜のアスファルト。生命を失った冷たい色の街灯。それに照らされて奇妙な黄緑色に光る道沿いの低木は、ひそひそと噂話に花を咲かせる。ほら、見てみろよ。そんな声が南戸の耳に聞こえてくる。この間テレビのニュースで上野動物園の猿山が映ったんだが、その中の一匹が本当に中島に似ていてびっくりしたんだ、と南戸はあえて馬鹿々々しい笑い話を無言の影の観客に聞かせながら、ただ真っ直ぐひたすらに歩いた。

 家に着き、風呂を入れ、蓋の開けていないミネラルウォーターのペットボトルを中島に放った。既に中島は我が物顔でソファに腰を下ろしていた。寝室でスーツを着替えてから、リビングに戻る。あっという間にペットボトルの半分ほどまで水を減らし、中島がテレビをぼんやりと眺めていた。

「相変わらず几帳面だな」と中島がガラス製のローテーブルに並べられたリモコンの列を顎で指した。整理整頓が得意で他人に迷惑をかけることもないだろ、と答えながら、泰斗が気を利かせて片付けていったのだな、と思い至る。「いや、俺はちょっと汚いくらいの方が落ち着くからな。綺麗好きが正義みたいな風潮は正直やめてほしいよ。汚めが好きというのも、一つの立派な考え方だろう」

「その主張には文句ないけど、ここは俺の統治する国だからな。ルールは俺が決めている」南戸は食卓の方の椅子に腰を下ろしながら言った。

 着替えないのか、と中島に問いかけ、風呂から上がるときにまとめて着替える、という答えが返って来た時になってようやく、目の前の椅子に一枚の黒色のジャケットがかかっていることに気がつく。中島のか、と尋ねそうになって、すんでのところでそれが泰斗の忘れ物であることに思い至る。こんなに寒いのに忘れて行ったのか。これだけ寒いんだから普通忘れても取りに戻って来るだろう。南戸はそう思うが、泰斗の性格を考えると、夕暮れの街の中を寒そうなパーカー姿で背中を丸めて歩く泰斗の姿が容易に想像できた。まったくもって理解に苦しむ。南戸は口角を少しだけ持ち上げた。

「なにか面白いことでもあったか?」中島が尋ねてくる。

「いや、ちょっと疑問に思ったことがあって」

「疑問?」

「雨が降っているのに傘を仕事場に忘れたとするだろ?」

「会社のエントランス出た瞬間に、あっ、ってなるやつな」中島は驚く演技をする。

「そう。で、そのとき中島だったらやっぱり傘を取りに戻るよな、エレベーター乗って」

「雨の度合いにもよるけど」

「度合い?」南戸からしたら濡れることそれ自体が許しがたい。

「小雨で駅まで、とかなら我慢する。髪から滴ることになりそうなくらいだったら戻るな。あ、でも、もしイギリスなら戻らない」

「別にイギリスのことはどうでもいいよ」南戸はすかさず言葉を挿む。それからふと頭に思い浮かんだ話を口に出してみる。「それにイギリスが傘をささないってのは、昔の話だぞ。昔は傘に女性的なイメージがあったから男は外套で凌いでたけど、だんだん細身でスタイリッシュな傘が出始めて――」

「で、その傘の話がどうしたんだよ」

「実はな」南戸はそのときになって初めて、自分が泰斗のことを中島に話そうとしていると気がついた。話しても自分にはデメリットしかないぞ、それに居酒屋では一度思い留まったじゃないか、と理性がうるさく叫んでいる。「そこのジャケットあるだろ、黒い奴。それは最近よく家に来ている友人の忘れ物なんだ」

「南戸にも友達がいると知って、少し安心するな」

「中島よりは社交的なはずなんだけどな」

「社交性と友達の数は必ずしも一致しない。だいたい、こうして話してても、俺は南戸が俺のことを友達だと思ってくれてるのか、いまいちよくわからないよ」

「そう言われると、友達というより、気の置けない同期、って感じだ」

「普通、それを友達って言うんだけどな」中島は苦々しく笑って見せる。

「まぁ、俺にもちゃんと友人ができたんだよ。で、そいつがこのジャケットを家に忘れてった。外も寒いってのに」

「友人ってのは女か?」中島はまたペットボトルの水を飲み、そして質問を投げかける。南戸は、違うよ、と答える。見ろよ、男物のジャケットだ。「南戸の話しぶりだと、俺たちが帰って来るちょっと前にその友人はここを出て行ったような感じだけど、そいつ仕事は休みだったのか?」

「いや、まだ学生だよ」

「はぁ? 学生、って大学生ってことか?」

「そう。今年の頭に地元の成人式に行ってきたばかりの大学生だ。そいつのバイト先のスペイン料理店で知り合って、一緒にサッカーを観に行ったりした」

「おいおい。ちょっと待てよ。言っちゃあなんだか、それって普通のことには思えないぞ」

「あぁ。だろうな」南戸はまったくもって冷静だった。別に無理をしているわけでもない。そのことが中島に伝わっただろう、中島は余計に不信な目を南戸に向けた。「でも、別に年下の男に性的に興奮するというわけでもないし、何か変な詐欺に巻き込まれてるわけでもない」

「じゃあ、なんでそんな。だって、店の店員と客の関係だったんだろ? どうしてそんなことになったんだ?」

「その店ではサッカーのスペインリーグの試合がテレビでやってるんだ。中島とよくサッカーの試合観ながら飲んだだろ。あんな感じで少しずつ仲良くなって、俺から地元のサッカーチームの試合を観に行かないか、って誘った」

「はぁ。俺は基本的にはあんまり社交性がないタイプだって言われるからよくわかんないけど、その南戸の行動って、世間一般で言う社交性の範疇に入ってるのか?」

「さぁな。でも、俺も中島の気持ちはよくわかるよ。俺も仕事も何も関係ない相手とここまで親交を深められるとは思ってなかった。それに、もっと言えば、ほぼ同棲みたいなことをしている」

「はぁ??」そう嘆く中島の声は大きかったが、まるで拷問を受けているかのように「もうやめてくれ」と言わんばかりの疲れた表情を浮かべていた。南戸は段々面白くなってきて、「そいつ、俺のことを南戸って呼び捨てで呼ぶんだ。ていうか、そう俺が呼ばせてるんだけど」と言い足した。

 案の定、中島はさらに肩を落とす。点きっぱなしになっていたテレビの中でニュースキャスターが淡々と原稿を読んでいた。

「もういいよ、わかった。で、その同棲生活はどんなもんだ? 楽しいか?」

「どうだろうな。そいつ、名前は泰斗って言うんだけど、全然大学に行ってなくて、いっつも俺のこの部屋で一日中本を読んだり、音楽聴いたりしてるみたいなんだ。俺の家に入り浸るようになってからはバイトも辞めて、今あいつがやっていることと言えば、俺の専属ドライバーとして仕事終わりに車で迎えに来るくらいのもんだろうな」

「生活費は南戸が与えてんのか?」

「基本的には。でも、泰斗は両親からも仕送りをもらっているみたいで、こんな生活を両親に明かすわけにもいかないだろうから、あいつはまだ自分のアパートの家賃を両親に払ってもらい続けているみたいだな。大家もかなり無関心なタイプだから、部屋の明りが点かなくても何も疑われてはいない。だから、問題という問題はまだ何も起きていない」

「起こるとしたらこれから、ってことか?」

「さぁ? 案外、何も起こらないんじゃないかと思うけど」

「でも、少なくともその青年は大学を留年する。それも続けば、大学を中退することになる。一人暮らしまでしているってことは、それなりの大学なんだろ?」

「こっちの国立大学」

「勿体ない」中島は心底泰斗のことを心配しているような様子だった。

「だよな、勿体ない」南戸もそれに同意するが、中島はそうやって一つの若い可能性がダメになりかけているのはお前のせいじゃないか、と糾弾するように南戸を睨んで来る。「誤解しないでほしいんだが、俺も泰斗には大学に行ってほしいと思ってるんだよ」

「お前が堕落させてるんじゃないか?」

「バイトを辞めたのは俺が甘やかしたせいだが、もともと大学にはあんまり行ってなかったみたいなんだよな。常に何か思い悩んでるみたいな感じでさ、きっとこの忘れていったジャケットもあいつなりの煩悶みたいなものの結果だと思うんだよな」

「いじめとか、ホームシックとか?」

「そういうんじゃない。こう言うのもなんだけど、俺はそういうただ追い詰められてるだけのやつには興味ないんだよな。泰斗はなんか面白いんだ。まるで自分とはまったく真逆の生き物を見てるみたいで」

 そのことを聞いて、中島はようやく何かを理解したようだった。早朝、高台に登る。眼下に広がる霧の海が消え、くっきりと街の輪郭が見渡せるようになったかのように、中島は目を見開いた。そして、そういうことね、と息を吐く。

「南戸と真逆か。そうか、きっとその子は俺らが言う弱さみたいなものに支配されてるんだな。こんな言い方、ちょっと芝居がかってて恥ずかしいけど、でも、きっとそういうことなんだろ?」

「よく自分のことを意志が弱い人間だ、と言ってるな」

「南戸には理解できないのかもしれない」

「いや、理解はできるよ。共感はできないけどね」

「だろうな」中島はペットボトルの水を飲み干すと、ワインあるって言ってなかったっけ、と南戸に酒を催促する。なんだ、まだ飲むのかよ。南戸が咎めるように言うと、中島は「長くなりそうだし」と溜息を吐いた。

 南戸がワインを取りに席を立つと同時に、風呂のお湯が溜まったことを知らせるアラームが鳴る。東京に戻ったら、自動でお湯が止まる風呂のついたマンションにしよう、と今日もまた南戸は思った。

「ほら、ちゃんとチーズとかサラミまであるぞ」

 南戸は真っ白な皿にそれを盛り付けてローテーブルの上に置く。そして、食卓の椅子をソファのはす向かいに移動させた。中島は思い出したようにテレビのリモコンを取り上げて、電源を落とした。部屋は一段階深い静寂に包まれる。

「風呂のお湯冷めちゃわないか?」中島が心配した。

「あとで温め直せる」

「便利だな。俺のいま住んでる独身寮にはそんな機能はないよ」

「早く結婚すればいいのに」

「社宅だってたいして設備は変わらないさ。家を買うなんてもってのほかだしな。それに相手もいない」

「紹介しようか?」

「男子大学生をか?」

「中島にしては気の利いた皮肉だな」

「皮肉くらい言いたくなるよ、まったく」

 壁に取り付けられた時計の針がゆっくりと進む。文字盤のついていない短針と長針だけの洒落た時計だ。そのせいかどうかはわからないが、いまがいったい何時なのか、がわからない。というか、考える気にならない。それは中島も南戸も同じだった。電車の中で南戸が思い描いた、人間にたっぷりと詰まった血の色のようなワイン。しかし、そこから立ち昇る香りは甘く芳しく、まるでミステリアスな長髪の女が性的に誘惑しているかのように思えた。二人ともグラスの縁に口をつけ、美味いな、と短く感想を言い合う。

「で、俺はどうしたら良いと思う?」南戸は中島に尋ねた。

「どうしたら良いって、その子との関係でなにか南戸は悩んでるのか?」

「別に悩んではいないけど、中島が俺だったらどうするのかな、と思って」

「それを言ったからって、南戸は参考にしないだろ?」

「どうだろう。でも、最近はよくわからないんだよ。もともとは仕事も何も関係ない、純粋な友達が欲しかっただけなんだけどな」

「で、南戸からその子に友達にならないか、って持ち掛けた」

「そう」南戸は頷く。

「俺からしたら、それがまずおかしいんだよ」

「大学生に声をかけることが?」

「それもおかしいけど」中島はいったん言葉を止め、しっかり考えた後でまた口を開いた。「話を聞いてる感じだと、そんな気の弱いやつが南戸みたいなのとまともな友達になれるわけないんだ。きっとその子は根が優しくて、それ故に、色々なことを考えすぎて身動きが取れなくなってるんだろう。でも、考えずにはいられない。きっと色々な考え方を知って、学んで、何かしらの答が欲しいんだろうな。だから、南戸みたいな極端な考えのやつのことも理解しようとする。そこから何かしらの着想が得られるとでも思っているのかもしれない。そして、南戸みたいに極端なやつなら、自分の弱いところも受け入れて貰えるかもしれない、という魂胆もあったんだろう。だから、南戸の提案を受け入れた。でも、そんな風に提案と承諾がある時点でおかしな話だと思うけどな。まるで対等じゃない」

「いや、俺たちは対等な関係性を作り上げている。そのためにお互いにタメ口にしてる」

「そういう表面的な対等関係を言ってるんじゃない。思うことを気兼ねなく言い合っていれば、良いってもんでもない。どう考えても、南戸の方がその大学生の子よりも経済的に優位な位置にあるし、実際に生活費も出してるんだろ?」

「それはそうだけど。でも、俺も泰斗からは影響を貰ってるし、中島の言うように、俺みたいな考え方もあいつはちゃんと受け止めて、色々と考えてくれるからな。そういう意味ではお互い様の、対等な関係だと思うよ」対等な関係であること、というのは南戸が泰斗との関係性において最も重要視している項目でもあった。だから、出来得る限りの否定をする。

「俺には、南戸が純朴な青年を捕まえて遊んでいるようにしか見えない。変わったやつだけど、自分とは真逆の考え方を持っていて面白い。ちょっと手元において色々観察してみよう、って感じで」

「色々観察してみよう、と思われてるのは俺の方かもしれない」

「だとしても対等にはならないよ。っていうか、そういう客観的に見て対等かどうかっていうのはどうでもいいんだ」

「でも、中島は経済的な対等性について言っただろ? 経済力は十分客観的な指標だ」

「それはちょっと俺も間違えたかもしれない。話しながら考えてるんだ。少しくらい間違えても仕方ないだろ」

「まぁ、いいけど」南戸は何度か小さく首肯した。たしかに、そんな細かい話の矛盾をついたところで仕方がない。

「何がおかしいんだろうな。言葉にするのは難しいけど、何て言うか、悪い意味に受け取らないでほしいんだが、南戸のなんか余裕そうなところが気に食わないんだよな」

「どうやってそれを良い意味として受け取ればいいんだ?」

「気に食わないってのは、別に憎らしいとかそういうんじゃないって。数式の変形とか、複雑な現象の計算をしてると、どうもこの辺りの論の展開が気に食わないとか、公式の使い方が気に食わないってことあるだろ?」

「気に食わないっていうか、あれ、これでいいのかな、っていう疑念みたいなものだろ?」

「そういう感じ。なんか南戸の余裕綽々なところが、これでいいのかな、って気がするんだ。何て言えば良いんだろう。なんか、生活費とかそういう経済的な対価をその子に与える代わりに、その子から刺激とか影響を貰っている、みたいな。そういう契約めいたものが、既に二人の関係性を対等じゃなくしてると思うんだよ。それは、相手の子もそういう影響とか刺激を南戸に求めていようがいまいが関係なくな。外国との貿易とは違うんだよ。色んな製品をあれこれやり取りしてるうちに、結果的に収支がトントンですね、ってなれば貿易的には対等な関係性かもしれないけど、人間関係ってのはそういうもんじゃない」

「収支がトントンなのに、対等じゃないって言うなら、全ての人間関係が対等なんてあり得ないと思うが」

「だから、そういう考え方が違うんだよ。まぁ、別に南戸を責めてるわけじゃないけど、そういう考え方になっちゃうのが、南戸の悪いとこなんだろうな」

「はっきり悪いって言うのに、責めてないんだな」

「責めてないよ」中島は呆れたように溜息をつく。「傲慢と思われるかもしれないが、むしろ可哀想だと思う。そういう考え方しかできないんだ、って」

「そうか。俺は可哀想か」南戸は、仕事が命、金と出世が命、みたいなことを言うたびに「可哀想な人」とからかわれてきたが、今回の中島のそれは、それまでのどれよりも本気で、その分だけ南戸には温かく感じられた。「そういう考え方っていうのは?」

「じゃあ、例えば、ふつう親は金と時間をかけて子供を育てているけど、それについて親子の関係性は対等だと思うか?」

「親は子供に金と時間をかけてるけど、その反面で育児の楽しさや世界の広がりを感じている。だから、対等だという見方もできる」

「じゃあ、世の親はそうやって自分と子供の関係性が対等か、つまり収支がうまく釣り合ってるかどうかを気にしていると思うか?」

「普通の人はそんなこと考えもしないんじゃないか? でも、大部分が考えていないだけ、という見方もできる」

「中には収支を気にする親もいるかもな。でも、それとは別に収支なんてまったく考えていない親がいたとして、さて改めて関係性の収支を考えてみましょう、って言われても大半が、そんな必要があるのか、って思うだろうな」

「必要か不必要かは問題じゃない。考えてみたらどうなるか、って話だろ」

「どうなるか、って。南戸、本気で言ってるのか?」

 中島はほとんど怒っているみたいな表情で南戸を睨み付ける。南戸はどう返していいかわからず、「冗談を言っているつもりはない」と答えた。今日何回かの溜息の中でも、とびきり大きいものがワインの香りとともに宙に浮かぶ。

「あのな、親からしたら考えてみるまでもないってことだよ。だいたいの親は利益が出過ぎて困る、って答えるだろうよ。俺は結婚もしてないし、子供もいないけど、それくらいのことはわかる。お前からしたら馬鹿みたいな話かもしれないけど、収支がトントンだから付き合ってるなんて普通ありえない。大幅に黒字だと思ってるから、ほとんどの人間は人付き合いをするんだよ。というか、仮に赤字だと感じてもどうしようもないこともあれば、それを受け入れてでも人と人とは関係性を続けることもある。南戸からすれば、そう思える時点で、利益が出てるわけじゃないか、とか思うのかもしれないけどな」そこで中島は一呼吸置く。「まぁ、とにかく。お前とその大学生の子は友達なんかじゃない。本当の意味で対等ってのは、お互いに自分と相手が一緒にいてくれて、『なんて嬉しいことなんだろう。これじゃあ、こっちばっかり幸せで悪いから、なんとか少しだけでもお返ししなきゃな』、みたいに思い合ってることが対等って言うんだ。相手がいなくなったら困る。そんなことは耐えられない、ってお互いに思うことが出来て初めて対等って言えるんだよ。南戸は別にその泰斗って子が、明日からここに来なくなっても、別に痛くも痒くもないだろ?」

 南戸はうまく答えられない。多少寂しいとは思うかもしれない。しかし、すぐに事態を受け入れて、またすぐに一人の生活に切り替え、南戸らしく前向きに生きていくだろう。今回も南戸はどう答えていいかわからずに、「俺はあまり執着心の強い人間じゃないから」と答えた。当然のように中島は呆れの溜息を吐き出して、「まぁ、執着も煩悩の一つだしな。南戸は自制心が強くて凄いよ。羨ましいとさえ思う」と全然羨ましそうには見えない疲れた表情を浮かべた。

 南戸は風呂を先に中島に勧め、入れ替わりでソファに腰を下ろし、独りワインを啜った。特に何も考えることなく、黒く冷えたテレビの画面に映るぼやけた自分の像を見つめる。しかし、そこに映っているのは自分の理想像でも何でもなく、どこまでも他人めいて見える、ただの人型の像だった。

 翌朝、取り立てて昨夜の議論に関する会話も無く、仕事の内容について簡単に確認し合った後、中島はあっさりと南戸の家を後にした。最後に一言だけ、「その泰斗君だっけ。別にどうこうしろとは言わないけど、ただ正しい方向に導いてやれよ」という言葉だけ残していった。どうこうしろって言っているじゃないか、と南戸は思ったが反論する気にもなれなかった。ただ独り、静かな部屋の中で南戸は自分と泰斗についてずっと考えていた。

 南戸は泰斗に「愛している」と言った。それが本心だと思っていた。まるで、最高の乗り心地を有するあの白いクーペのように、深く、深く愛している。しかし、仮にあのクーペが故障したとしたらどうだろうか。愛してはいたが、格別な思い入れはない。故障を機に新しいものに買い替え、その新しく美しい車をまた一層深く愛でることだろう。泰斗に対しても同じような感情を抱いてはいないだろうか。南戸は再び暗いテレビの画面を覗き込んだ。もはやそこに映る像は人間にすら見えなかった。

 

 十二月に入り、駅前にはクリスマスの雰囲気が漂う。シャン、シャン、というベルの音が鼓膜を跳ね、子供以外の人間は「もうそんな時期か」と思う。まだ年末の本格的に忙しい時期にはぎりぎり足を踏み入れてない。師走という言葉通りだな、と毎年のように南戸は思うが、今年はまだそれが来ていない。

 その日はそんな繁忙の予兆だけを孕んだ、静かな日曜日だった。朝から雪が降り積もり、部屋の窓ガラスは凍り付くようだった。雪の反射のせいか、空は雲が覆っていたが、リビングは電気を点けないでいてもそこまで暗くなかった。朝八時に南戸が目を覚まして、寝室から出てくると、すでにリビングのソファには泰斗が身体を起こして座っていた。寝癖がひどい。でも、そんなことを気にする様子はなく、厚い掛け布団に胸の辺りまで覆われながら、ソファの背もたれに体重を預けている。きっとまだ起きたばかりなんだろう。ソファで寝て、そして目が覚め、身体を起こしたまま、一歩もそこから出ることなく窓の外の景色を眺めている。雪だよ、と泰斗は掠れた声で言った。

 南戸はお湯を沸かしながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。泰斗は別の窓から、似たような白い景色を眺めている。あまりにも色がないので、とても古い風景写真を見ているかのような気分になった。針葉樹も何もかも、ただ鈍色に取り込まれ、それから音もない。窓の外の世界はまるで自分の両親が生まれるよりも前に滅んでしまったかのように静かだ。ただこの部屋の中にだけ、プロパンガスの燃える重い血流のようなごわごわとした音と、膨張した空気がやかんの口を通り抜ける風の音が広がっている。南戸は長い爪でシンクの縁をこつこつと叩く。泰斗は羽毛のたっぷりと詰まった布団の中でもぞもぞと動いた。壁にかけられた針だけの時計が曲げた背骨を震えながら伸ばしていく。

「コーヒー飲むだろ?」

「ありがと。それにしても寒いな」

「まだ雪が降ってるみたいだな」

「あぁ」

 やかんの中で細やかな破裂音が聞こえだしてくると、南戸は火を止め、インスタントコーヒーの粉を落としたカップにお湯を注いだ。そろそろちゃんとしたコーヒーメーカーでも買おうか、と南戸は考えていたが、泰斗はインスタントの方が美味いと言い張った。

 いつだったか泰斗はパーキングエリアで食べるラーメンが美味いと言う人間のことを批判したが、インスタントコーヒーをあえて好むことはそれと同じことではないのか。南戸はちょっと前にその疑問を口にしたが、すると泰斗は口ごもり、そして少ししてから「俺が批判したいのは食に関することじゃなくて、あくまで流行りの考え方に乗って、思考停止になってる人間なんだよ。俺の舌はそこまで優れてるわけじゃないし、美味いコーヒーを入れてもらっても多分その美味さを俺はわからないと思うんだ。むしろ、インスタントコーヒーの方が自分の身体に合ってる。だから、あえてそっちの方を好んでるだけだよ」と苦し紛れに答えた。南戸はそれを聞いて、「パーキングエリアの飯を好む人間も、意外とみんなそういう気持ちなのかもしれないな」と呟くと、「たしかに、そういう可能性もあるな」と泰斗はしみじみ零した。「他人のことを否定しきるのは難しい」

 南戸はガラス製のテーブルの上に、コーヒーカップを二つ置いた。寒いな、と言うと泰斗が毛布を一枚放ってくれるのでそれを肩から羽織る。二人してコーヒーカップを両手で包み込み、その温かさを大切にしながら窓の外の雪景色を眺める。

「明日までに止むかな?」南戸は独り言つ。

「止んでも止まなくても会社には行くんだろ?」

「そうだよ。だから、止んでほしいんだ」

「でき得る限り辛くないように」

「そう。でき得る限り辛くないように。それはある意味では死ぬ時と一緒だ。俺たちが生きている間にできることは、全てそれに集約される」

「そんな風に考えてるのに、どうして一生懸命働くんだ?」

「やり残したことがないと思えるように、そうしてるだけだろうな。生きている間にでき得る限りの楽しみを味わい尽くしたいし、自分がやって来たことの成果が振り返って見たときにずらっと並んでいれば、孤独な死の際でも多少は慰められるような気がする。質の悪い年金みたいなもんだよ。やれるだけやっておけば、後々返って来るものがある」

「そんなもんかな」

「少なくとも俺はそう思ってる。実際、一生懸命に働くってのは俺の性にも合ってるけどな。泰斗からしたら凡庸な考え方過ぎてイライラするかもしれないが、手に取って確かめられる達成感てのは俺は好きだよ。死ぬときに振り返って見るべきコレクションがまた増えた、って実感がある」

「死生観まで絡められると、あまり凡庸って気がしないな」

「そういうところが泰斗の優し過ぎるところなんだ。否定するなら、否定しきらないと。そんなに何でもかんでも受け入れられるようにしてて、苦しくならないか? リベラルな考え方ってのが昨今重要視されてるが、それもあくまで『でき得る限り、広い考え方を持ちましょう』ってだけで、神様みたいに何でもかんでも受け入れて救うってわけじゃないだろ」

「キリストは全ての人間に明確な善の道を説いて救おうとしたし、ブッダは、というよりも大乗仏教は、ということになるけど、どんな生き方をしても人間は救われるべきだとして、人間の人生を全て肯定した。そして、サリンジャーはズーイに、宗教のただ一つの意義は、信者に神の意志や考え方を授けることだけと言わせた。つまり、神を信じる以上、神と同じ意識を持つよう努力しなければならない。卑小ではあるけれど、そういう人間一人ひとりの意識が社会のモラルを規定し、この無宗教大国と呼ばれる国でも長年に渡って機能してきたんだ。馬鹿みたいだよな。おおよその人間は、この国の奥ゆかしさを外国に向けて誇っているくせに、それがどこから来ているものなのか理解もせずに、それが今や失われつつあることにもほとんど無自覚だ」

「別に俺はこの国の人間がどうであろうと構わないけどな。ただ、やっぱり泰斗が単純に流行りの思想に乗っかってリベラルな考え方をしているんじゃないとわかって、何て言うかちょっと面白いと思う」

「やっぱり、ってことは、あらかじめわかってたってことだろ? だったら、何にも面白いことはないと思うけどな。まぁ、俺が思うに、宗教の代わりに学問的態度としてリベラルな考え方を取り入れるのも、世の倫理観を制御するうえでは一つの効果的なやり方だよな。ただ、それに精通する人間は結局、宗教的なところに行きつくような気がするが。宗教とか感性的なものを格好つけて否定して、理性的な学問の道を進んだ結果が、結局宗教的なものだとしたならとんだ皮肉だよ。回り道も許されるべきだとは思うけど、馬鹿々々しいことには変わりない。とは言え、リベラル思想から宗教へ、という一方通行だけというのも違うとは思うけどね。無論、宗教にもリベラルな考え方は適用されるべきだし、宗教がその排他性に則って、醜い歴史を刻んできたのも事実ではあるわけだから」

「俺が宗教とかに無関心なせいかもしれないが、なんか泰斗の話を聞いてると、とても同じ人間とは思えないな」

「そんなことないよ。さっきの南戸の死生観なんて、まさに宗教的だよ。というか、人間が精一杯生きることができるように確固たる死生観を与えて、それに準じれば良いんだと背中を押すというのがそもそもの宗教の目的ではあるわけだからね。もちろん、同じ価値観を広めて世の平定を狙うという側面もあるわけだけど。でも、そういった側面はとりあえず置いておいて、生きているときに縋れるもの、死に際に縋れるもの。それを持ってる南戸は十分宗教的人間と言える」

「まったく意識したことがなかったな。まぁ、それが泰斗に言わせれば、無自覚な人間ということになるんだろうが」

「まぁ、そうかもね。でも、俺が批判したいのは、自分の宗教があいまいなのにもかかわらず、安穏としている人間だよ。そして、自らに対して無自覚なのに、安易に宗教を否定する人間を俺は許せない。というか、犯罪的な新興宗教のせいで、宗教全般に対するアレルギーが現代人は酷過ぎる。それも少しずつ緩和されてきているとは思うけど」

「それはそうだろうな。俺も泰斗とこうやって話すようになるまでは、宗教なんてできる限り自分から遠ざけておこうと思ってたからな。まぁ、でも、結局俺はどの宗教にも入信することはないだろうな。俺は俺の確固たる考え方を持っているし、キリストもブッダも、どんな神でも俺みたいな考え方を奨励するやつがいるとは思えない。言うなれば、俺は俺だけの宗教を全うするってわけだ」

「ある意味、それは全ての人間に言えるけどね。どんなに既存の宗教を学んだとしても、結局それは自らが理解して、自らの中に作り上げた宗教に過ぎないわけだから」

「そんなもんか?」

「そんなもんだろう。でも、そんな愚かな人間をも、仏様は救ってくださる」

「はは。仏様は心が広いな」

「まったく、たいした奴だよ」

 いつの間にか二つのコーヒーカップは底を白く染めていた。窓の外で雪は降り続けている。南戸も泰斗も少し喋り疲れたような感じがしていたが、特に間を埋めるための行動も見つけることができず、ただただそんな白い景色を眺めていた。雪を着飾るかのような住宅街の屋根々々。電線も凍り付き、遠くの景色は雪に隠され、よくは見えない。時折流れていく車が、この白の景色の中でアスファルトの黒を際立たせる。雪が降るとどうしてこんなに静かになるんだろう。雪が降ると夜も街は明るい。全てが雪の中に埋もれて、世界なんてものはそのまま滅び、消えてしまえばいいのに。

 窓ガラスは冷たく、一秒ごとに冷気を部屋の中に落してくる。いつの間にか点けられていた暖房が低い唸り声を上げている。冷たさと暖かさが窓際で交差し、不可解な気流を生み出す。人間はそれをただ遠くの方から見ているだけだ。その秘密を孕んだ気流の暗号を解き明かすことは決してできない。人間にできる唯一のことは、自らの居場所を知り、そして、それ以外の遠くをただ眺めることくらいのものなのだ。

「俺は思うんだが、こうして二人でいるのは、もう止めた方がいいんじゃないだろうか」

「どうしてそう思うんだ?」

「俺はこうやって人とわかり合える、まではいかなくても、ちゃんと正面切って話し合える相手ができるとは今まで生きて来て考えたことがなかった」

「それは俺もそうかもしれない」

「でも、どこからどう見ても、俺たち二人は全く別の人間だ」

「宗教を異にしてると言ってもいい」

「はは。その通りだな。そんな人間がいつまでも一緒にいることはできない」

「そういうものだろうか」

「そういうものなのかもしれない。まぁ、一般論についてまでは俺にもわからないけど」

「でも、お互いに理解し合うことはできても、共感し合うことが難しい状況の中で、ただ関係性を保つというのもとても難しい話だ」

「そうだろうな。何しろ、お互いに強烈な価値観を持ってるからな」

「俺は二人の価値観についてはそれなりの親和性があるようにも思えるが」

「でも、同じ体の右手と左手くらい違う」

「その通り。そんなものを孕んだまま生きていくことは、かなり辛いことのように思える」

「そんな言い方をすると、両手を持つ人間すべては生きづらいことになるな」

「みんなそういう部分があると思うんだ。相反する二つの思想の間で苦しむことになる」

「もちろん、そこにはある程度の親和性がある」

「でも、決して相容れることはない。つまり、その親和している部分がその存在の表明になるわけだ」

「昔、ガリバー旅行記バルニバービの医者の話を呼んだことがある」

「何を言いたいのかわかったよ。対立する政治家の脳を半分ずつ切り出して、それをくっつけることで理想的な政治を達成しようって話だろ」

「その通り。俺たちは結局、そこを目指しているだけなんじゃないかな」

「つまり、荒唐無稽な手法を何十年もかけて研究していると?」

「そう。でも、最初はできると思ったんだ。だから、俺たちは今ここにこうして二人でいる」

「しかし、よくよく考えてみれば、そんなことはできるはずもないんだ」

「思想と思想のちょうど重なり合う部分を中心に、その人間性を規定する」

「それは実質的に、バルニバービの医者が行うような、無理のある外科的な手法と言える」

「だから、俺たちがどんなに互いの価値観を理解し合い、その様相を明確化しても」

「結局はどの部分が重なり合い、どの部分が退け合うかを知るだけ」

「その通り。それを繋ぎ合わせて一つのまとまりに昇華させることなんて無理な話なんだ」

「もちろん、それをわかり合ったうえで、つまり、お互いに独立した個として認めあいながら関係性を保つという方法もある」

「決して繋ぎ合わせるようなことはせず、あくまで対話だけで議論を進める」

「でも、俺もお前も、それを目的としているわけじゃないだろう?」

「そうだな。よくよく考えてみれば、二つの相反する価値観を繋ぎ合わせたら理想が達成できるんじゃないか、という魂胆があった」

「だから惹かれ合った」

「そうだ。でも、そんなことはできない」

「無謀なやり方だ」

「俺たちは互いに理解を深め、お互いの脳のどの部分とどの部分を縫い合わせれば、うまく一つの脳に繋ぎ合わせられるか、ということを検討してきた」

「これまでの全ての会話がそのためだったと考えることもできる」

「しかし、たったいま気がついたんだ。そのことの荒唐無稽さに」

「とんだ理想論だった。でも、本当は最初から気づいていたはずなんだ」

「そう。こいつとは理解し合えても、共感し合うことはできない」

「そのことに気づいた時点で、全てのことをわかるべきだった」

「共感するというのは、つまり、同じ体になることだ」

「つまり、脳を繋ぎ合わせることだ」

「決して完全には重なり合わない二つの思想があり、むしろ、その思想はある種の共通の土壌から育ったものではあるが」

「互いに互いを軽蔑し合っている」

「まるで、一つの体の右手と左手のように」

「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ」

「その通り。でも、本来の意味とはずいぶんと違う」

「要するに、どれだけ共通の根があったとしても、その枝葉は別の人格であるべきということだ」

「ましてや、俺たちが本当に共通の根を持っているのかも怪しい」

「やはり共通の土壌くらいの方が、表現としては正しい」

「そういうわけで、俺たちは結局、決して一つの理想的な存在とは成り得ない」

「そして、ここからが本当の問題になってくる」

「そうだ。そのことをわかったうえで、この関係性を保ち続けるか」

「あるいは、保ち続けられるか、ということになる」

「切るべきか、切らざるべきか」

「それが問題だ」

「まるでシェイクスピアだな」

 太陽は厚い雲の裏で中空。灰色のグラデーション。雪はカーテン、あるいは緞帳。

 正確に並べられたリモコンの類。暖房のリモコンだけが何か特別な磁場を感じ取ったように斜めを向いている。幽かな熱を含んだ毛布。寒さで白く染まる足の爪。生きていることを無理やりにでも誇示するかのように毎朝伸びてくる顎髭。いや、死んだ人間すら、死後数日は髭が伸びると言う。医学的定義に従う生と死。全てが何の理由があって存在しているのかわからない。あるのは、厚い雲の裏に貼りつけられた中空の太陽。灰色のグラデーション。それから、雪のカーテン、あるいは緞帳。

 厚い雲の裏、中空で輝く太陽。灰色のグラデーション。雪は緞帳、あるいはカーテン。問題の答はどこにもない。厚い雲の裏。中空の太陽。灰色。グラデーション。雪。カーテン。緞帳。答はどこにもない。

 

 街が秋めいて、空気の匂いはしだいに透明感を増していく。電車の扉が開き、夥しい数の人間がそこから降りてくる。人混みを構成する一つの要素として、駅の階段を規則的に下る。そこからは各々が四方の改札口に向かって足を進める。不健康な人間の血流を思わせる。フリスビー型の赤血球は様々にぶつかり合いながら、それでも狭い血管の中を流れていく。どろどろした体液に運ばれて。憂鬱と狂躁。ムカデの靴音。無数に思える電話口と、そこから漏れる声たち。構内アナウンスは機械の声。

 駅を抜け、ふと空を見上げる。見事な秋晴れだ。しかし、思い出すのはやはりあの白い雪景色。自分という人間があの時と同じ人間なのか、それとも違う人間なのか。どんなことを考え、どんなことを喋っていたのか。ただ冷ややかな疑念が身体に纏わりついて離れない。それはもともと自分が持っていたもののような気もするが。

 全てがあの空に溶けてしまえばいいのに、と思う。

 いや、自分は何を考えているんだ。目を閉じ、深く息を吸い込み、そして吐く。店のショーウィンドウに映る自分の姿はいつも通り、虚ろで冷たい人間のように見えた。

 

2017年11月

Past and language

 

 そしてまた何の抑揚も無く、最後の朝がやって来る。僕は固まった身体の節々に力を込めながらベッドの上で身体を起こし、鯨が海上に浮上した時のように低く長い溜息を吐く。カーテンの隙間からは、幾人が詩ってきた希望の朝陽が零れ落ちていた。

 希望の朝陽か……と、今度は短く、淀んだ溜息をつく。

 僕はもとより朝という小うるさい時間帯が全く好きにはなれなかったし、こんなことを言うと鬱病に見舞われていると思われてしまうかもしれないが、時にはそんな朝がとても恐ろしくなることがあった。輪廻転生を恐れるように、今日もまた生きねばならぬのか、と考えると身体を起こすのも難しいことがあった。そんな日は、全てがまどろみ出す午後の黄色い光が世界を満たすまで、カーテンを閉め切って時間が過ぎるのを待つしかない。僕はムンク「太陽」という絵を見るたびに、彼は僕と同じ景色を見ていたのではないかと思わずにはいられなかった。一般的には自然への崇敬の念が込められていると評されているようだが、あの絵には、朝の恐ろしさを知る者にしか見えない光の刃みたいなものが隠されているように思えてならない。あのギラギラとした色彩はまさに僕にとっての朝のイメージにぴったりだったのだ。

 とは言え、今日の僕はそういった精神病的な朝への疎ましさを感じているのではない。僕は独りきりの部屋の中、何も躊躇うことなくカーテンを引いて、朝陽を部屋の中に取り込む。窓の外では鳥のさえずる声と微かな川の流れが絡み合っている。ここのログハウスの周りには、僕の忌み嫌う社会のノイズは少しも存在してはいなかった。

 

 ある時分から、ゴールデンウィークが来るたびに、このログハウスを訪れることが僕の毎年の決まりになっていた。中学の頃まで通っていた書道教室で、僕は四つ上の永沢柚葉という女の子と仲良くなり、こうして大学二年になる今でも彼女との微弱な交流は続いていた。それは年末年始に親戚へ挨拶回りに行くようなもので、僕が書道教室に通い始めた小学生の頃から毎年、ゴールデンウィークになる度に、柚葉とどこかへ遠出をするのが恒例の行事となっていた。最初は親を含めた付き合いだったのだが、どうやら親の方が先にその関係性に飽き始め、僕が中学三年のときには、取り残された僕と柚葉の完全に二人きりの小旅行が計画されることとなった。僕は十五歳の多感な時期。よく僕の親も柚葉の親も、十五歳と十九歳の男女に小旅行を許したな、と不思議になったこともあったが、僕が当時思っていた以上に、僕と柚葉の歳の差は大きなものであったのだ、と僕はつい最近になって気がついた。

 柚葉がこのログハウスを見つけたのは大学一年のときのことだった。そう、僕たち最初の二人きりの小旅行のときからである。あの時は本当に僕と柚葉の二人きりで、格安で五日間、そこそこの広さのあるログハウスを自由にできるということで、そうとう舞い上がっていたのだけれど、実際に五日間もこんな山奥のひと気のない場所で二人きりで過ごしていると頭がおかしくなってくるものだ。柚葉は活動的な性格で、山奥のログハウスで本を読んだりしながらくつろげるタイプではなかったし、僕は僕で初めて母親以外の女の人と生活をともにする機会だったから、健康的な十九歳の女性である柚葉への混濁した感情に、独り悶々としたものを抱え込んでいた。結局のところその時は僕たちの間に何も起こることはなく、川で水浴びをしたときに柚葉の水着姿を見たくらいのもので、最後まで上達することのなかった書道のように、ただ時間とお金を浪費したような感じだった。

 しかし、その翌年からも僕たちのゴールデンウィークの遠出は無くなることがなく、不思議なことに、柚葉が東京の街でOLを始めてからもそれは続いた。が、柚葉が大学二年の時分から既に、少しだけ形態の異なるものにその「ゴールデンウィークの遠出」は変貌していた。柚葉はその僕たち二人だけのゴールデンウィークをもう少し広いものに変えたのだ。

 柚葉は持ち前の行動力であの懐かしき書道教室を尋ね、そしてそこで数人の子供を集めた。つまり、幾らかの金銭と引き換えに、ゴールデンウィークの数日間だけ、あのログハウスのある自然豊かな土地でお子さんたちのお世話をさせていただきます、というような付け焼刃的商売を始めたのだ。そして、結局のところ僕と柚葉の二人きりのゴールデンウィークは一度きりの思い出となった。ログハウス自体は格安で借りられるため、僕らの手元にはそれなりのお金が残った。それで僕たちは預かった子供の世話をしつつ、なかなか高級な食事を堪能することができた。もちろん、高級な食事と言ってもそこそこ高い肉を仕入れてきて、ログハウスの前で適当なバーベキューをするくらいのものだったけれど。

 そういった商売を始めるにあたって、無論、最初は不安を口にする親御さんもいた。しかし、これもまた不思議なことではあるのだけれど、書道教室の先生は何故か僕と柚葉に厚い信頼を置いており、不安を口にする親御さんに対して「せっかくの機会ですし」と上手く口をきいてくれた。その商売を初めてしたときには、僕は高校一年の十六歳で、柚葉はちょうど二十歳だった。柚葉は昔から頭が良く、東京の一流の大学に通っていたし、何といっても明るい性格で人と接するのが上手かった。対する僕は引っ込み思案な性格で、何をするにも目立たないことが先に立つような感じではあるけれど、しかし、その分用心深い性格だった。そんな僕と柚葉のペアは書道教室の先生にも、また、そこへ自分たちの子供を通わせている親御さんたちにも好意的に映ったようで、最終的にはその初めての年のゴールデンウィークは、四人の子供を携えてこのログハウスへとやって来ることとなった。

 そしてその商売は今でも続いており、今日が今年の最後の日だった。昼前の十一時半に子供たちの親御さんが迎えに来て、このログハウスでみんなで昼食を食べた後、子供たちは帰っていく。そのあと僕と柚葉は半日かけてこのログハウスを掃除し、そして最後に一泊した後で明日の早朝に帰る段取りになっている。よって、正確には僕と柚葉にとってはまだ最後の朝というわけではなかったのだけれど、僕一人の個人的な心情としてはまさに今日が最後の一日なのである。

 

 僕が一階のリビングへと降りるとそこはひっそりと静まり返り、まだ夜の秘匿性が部屋の四隅には残っているようだった。いかにも手作りっぽい粗削りな木製のテーブルの上には、空になったコップが二つ置いてあった。昨夜、柚葉と二人で一本の缶ビールを分け合ったことを思い出す。僕はそれを流しに持っていき、軽くゆすいだ後で寝汗を流すために風呂場へと向かった。風呂場の小さな窓からは朝陽が差し込んでいて、何故だかはわからないが、誰もいない休日の小学校の渡り廊下を僕に想起させた。冷たさと暖かさの配色がそれに似ていたからかもしれない。

 シャワーを浴び終わり、僕は頭からバスタオルを被ったまましばらく椅子に座って静かな朝の気配に身を沈めていた。長袖のシャツに下は黒いスウェットという格好だったが、五月の山奥の朝ともなればまだ若干肌寒い気温だ。しかし、風呂上がりで火照った身体にはそれくらいが心地よく、僕は独り、うとうとと船を漕ぎかけていた。そして、そこへ誰かがやって来る気配がある。

「ミズキくん?」

 僕は名前を呼ばれて振り返る。すらりとした身体つきの女の子が、水槽の中の金魚のようにひらひらと階段から舞い降りて来るところだった。

「おはよう。早いね」僕は頭からバスタオルを取りながら答えた。

「おはよう。ミズキくんこそ早いね。もう、シャワー浴びたの?」

 僕は頷きながら立ち上がり、近寄ってくる彼女を見つめた。彼女は清水由奈という子で、僕と柚葉がこのゴールデンウィークの間に預かっている子供の一人だった。小学六年生になる弟の由紀夫の付き添いということで彼女は参加していた。そのために、ほかがだいたい小学三年から中学二年という年齢に対して、由奈だけは高校一年生と若干歳が離れていた。

「今日でもう最後だね」僕の方から適当な話題を振る。

「うん」彼女は笑いながらもどこか悲しそうに答える。「たった四日間だったけど、とても楽しかった。ずっとゴールデンウィークだったらいいのに」

「こんな山奥、半月もいればすぐに飽きちゃうさ。こういうのはたまにだから良いんだよ」

「そうかもね」彼女は考える仕草でログハウスの天井を仰ぎ見る。古ぼけたプロペラは止まったままだ。「でもね、こんな山奥だからこそこんなに楽しかったんだと思う。ほら、都会とかってものがいっぱいで、私、何を見たらいいかいっつもよくわからなくなるから。きっと私はこういう自然が豊かなところの方があってるんだよ」

「肉の食べ方も随分と野性的だったしね」

 由奈は恥ずかしそうに笑う。それから、寝癖を撫でつけるように髪に手をやるついでに、首筋をぽりぽりと掻いた。

 僕はふと由奈の頭を撫でたい衝動に駆られたが、それを行動に移すことは不可能だった。彼女に手を伸ばしたいと思っている自分と、ここにいる自分との間には信じられないほどの距離がある。由奈の髪どころか、自分にすら手が届かない。想う僕は身体を持たず、喋る僕が「まぁ、あの肉はすごい美味しかったし、野性的になっちゃうのもわかるけどね」などと言っている。

「ふふ」由奈が笑みを零す。そして一瞬の静寂。風が通り抜けて行った後の草花の吐息のような音が残っている。それから彼女は喋りにくそうに口を開く。「私ね。勉強するのは別に嫌いじゃないんだけどさ、実はあんまり学校っていう場所が好きになれないんだ」

「へぇ、奇遇だね。俺も好きになれなかったよ。毎朝眠い中起きて、あそこに向かうって考えるだけで気が滅入った」

「だよね。私は別に学校に友達がいないわけじゃないし、何だったら結構アクティブな方だからさ。行ったら行ったでそれなりに楽しめはするんだ。給食は美味しいし……もちろん、学校じゃ野性的な食べ方はしないけど」

「はは」

「ただ何ていうか、学校って隙間がたくさんあるでしょ? それが私、あんまり好きになれないんだと思う」

「隙間?」

「うん。隙間」

 僕は学校にあると言う「隙間」というものを想像してみた。生徒と生徒の机の間の隙間。或いは、掃除用具の入ったロッカーが消えたら出来るであろう隙間。しかし、きっと由奈の言う「隙間」はそういう物理的な隙間ではないのだろうと気がつく。

「人がたくさん集まってると誰かが動き終わるまで、自分も動くことができないってことがあるでしょ。ほら、あの一か所だけ空白があって、色々スライドさせながら完成させるパズルみたいに」

「あぁ、なんか旅館とかによくありそうな」

「そう、多分それ。誰かが何かを終えるまで、私は黙って自分が動く順番をじっと待ってなきゃいけないじゃない。で、ようやく自分が動く番が来るでしょ。でも、自分が動かなければいけない方向はもう最初っから決まってるの。私が行くことのできる空白は目の前の一つしかないんだから。そうやって、私はほかの人が動いて作った隙間をただ機械的に埋めていかなきゃいけない。学校には……人がぎゅうぎゅうに集まっていると、そうやってただ次々に出来ていく隙間を誰かが埋めていくっていうことばっかりになっちゃう。次の人にその隙間を渡すために、とっても急いで私は隙間を埋めるの。で、自分の役目が終わってほんのちょっと安心してると、もう次の隙間が私の目の前に現れてる。だから、また私は急いでその隙間を埋める。で、今度はちゃんと気を張って次の隙間が現れるのを待つんだけど、そうしてるときは逆になかなか隙間がやって来ない。もう嫌になって、私はどこかに行きたくなる。でも、周りを囲まれているからどこにも行くことができない。ただ狭くて、そして、不安で……」

 由奈は身振りを織り交ぜながら、何とか自分の感じているものを僕に伝えようとしていたが、その所作はまるで溺れている人間のようにもどかしく、悲痛なもののように僕には見えた。そして、僕は彼女の言葉を聞きながら妙な共感を得ていた。しかし、それにしても自分が高校一年生のときにこれだけのことを考えられていただろうか。今でこそ僕は彼女の言っていることの意味が何となく理解できたのだけれど。高校一年生の女の子が、こんなことを考えているという事実が僕には何だか重たく感じられた。

「由奈の言うことはよくわかるよ」相変わらず喋る僕と想う僕はぜんぜん別の場所にいるように感じられたが、僕は言葉を続ける。「きっと由奈は周りに気を遣い過ぎてるんじゃない? 集団の中で自分の適切な立ち位置を常に模索しているっていうのかな。世の中の人は大人も子供も『人付き合いの大切さ』みたいなのをすごく重要視してるけど、ある一定以上の密度で人が集まると息苦しくなってくるのは当たり前だし、そういうのは俺もとても不自然なことのように思う。なんていうか、通勤ラッシュの電車に乗った時に出し抜けに世界の歪さを感じたことを思い出すな」

「よかった。ミズキくんも私みたいに思ってたんだ」

「いや、多分俺だけじゃなくて皆がそう思ってるはずなんだよ。ただ、それを口にしてしまうと人格破綻者みたいなレッテルを貼られるような世の中だからね、今は」

「人付き合いは大切なこと、だから?」

「うん。その言葉だけが独り歩きしてるように俺には思える。何事も程度や上限というものがあるし、どんな価値観もそれを人に押し付けることなんてできはしないのに、そういったこと関係なしに人間っていうのはみんな口を揃えたがるものなんだよ」

「なんか凄いね。ミズキくんってやっぱり変わってる」

 由奈はそう言って、小さく笑った。僕は持論をひけらかしてしまったことを少し恥ずかしく思ったが、しかし、とりあえず彼女が笑ってくれているのを見て一安心する。変わってる、と言われたことについては嬉しくもあり、悲しくもあり、というような感じだけれど、彼女が変わっている人間が嫌いでないことを願うよりほかに僕にできることはなかった。

 僕は「お互い様だよ」と彼女に返し、それからまたさっきまで座っていた椅子に腰かけた。由奈は斜め向かい側のソファに座る。由奈もシャワー浴びてきたら、と僕が提案をすると、彼女は首を横に振った。そして「ミズキくんは女子高生のシャワーシーンとかに興味あるの?」などと言って、また笑った。何故かわからないが僕にとって彼女の笑顔はとても印象深く、凡庸な曲の中で一瞬だけ光輝く名前も知らない一つのコードのように僕の胸を締め付ける。或いは、使い古された本に出てくる夜空を穿つ一節のように。

 白いレースのカーテン。由奈の座る、くすんだ緑色のソファ。赤や黄色のカラフルなクッションに、濃紺の毛布。床には水色のゴムボールが転げ落ちている。僕や由奈の顔の大きさくらいあるやつで、何日か前にみんなでドッジボールをしたことが思い出される。ログハウス自体は全体的に木の茶色で統一されていたけれど、後から持ち込まれたものが様々な色合いを成し、簡易的な混沌がここに形成されていた。

「明後日からまた学校か」由奈はそう言って、赤色の方のクッションを手に取る。

「俺も明後日からまた大学だ」

「ミズキくんは大学好き?」

「さぁ、どうだろう。好きでも嫌いでもないけど……でも、中学や高校よりはマシな気がするな。由奈の言葉を借りれば、大学にはあまり隙間みたいなのはない。隙間って表現じゃ足りないほど広い空白こそあるけどね。でも、狭くて息苦しいみたいなことはないよ」

「いいな。私も早く大学生になりたい」

 僕は自分の大学生活のことを思い浮かべる。今年で二年目になる大学生活。これといって楽しいことも無いけれど、しかし、ゆっくりものを考え、色々なところに目を向けるだけの余裕がそこにはあった。

「普通の女子高生が憧れるようなキラキラしたものがあるわけじゃないけど」僕は由奈に向けて言う。「でも、由奈の嫌いなものはきっと少ないかもね」

「私はそれで十分」

「ただね。俺は思うんだけど、きっと由奈が嫌う高校の中にも、探せばゆっくりできるだけのスペースみたいなのはあるはずだよ。俺も高校生の時はそいつの存在にぜんぜん気がつかなかったけど、いま思い返せばそいつを見つけることは不可能じゃなかったんだと思う。結局はものの見方や考え方によるんだ。周りの人間は由奈に隙間を埋めるように急かすかもしれない。でも、隙間なんてものは最初から存在していないのかもしれない。人がそれを隙間と呼ぶから隙間になるんだよ」

「それってどういう意味? 要は隙間なんて気にするな、ってこと?」

 由奈は少しだけ不本意というような表情で僕に尋ねてくる。僕はより適切な言葉を探して窓の外を見る。朝陽を受けた深緑が柔らかい風の中で左右に揺れている。喋る僕が想う僕に助けを求め、道を戻って来た。そして想う僕が喋る僕に感情を手渡す。

「いや、そういうのとはちょっと違うんだと思う。由奈はゴールデンウィークの間、ここにいてあまり窮屈と感じなかっただろう?」

「うん……でも、それはそもそも人が少なかったし、なんか時間に追われてるっていう感覚もなかったからだよ。学校はどこを見ても人ばっかりだし、いつも課題とかテストとか、そのほか色んなことに追われて毎日が続いていく。こことは全然違うんだよ」

「確かに学校とここは全然違う。でも、本当にただ人の数と課題の量だけがその違いなのかな。こんなことあんまり言うもんじゃないんだけどね、俺はもう何年もここでゴールデンウィークを柚葉と過ごしている。年によっては、由奈の言う隙間を多く感じることもあった。でもね、今年はそういう隙間をあまり感じなかったよ。何でだろうな……由奈は何でだと思う?」

「……私にはわかんないよ。ミズキくんのことだもん」

「はは。まぁ、そうだよね。うん。あのね、多分だけど、俺があまり隙間を感じなかったのは、今年は由奈がいたからだと思うんだ」

「私?」

「変な意味に取らないでほしいんだけど、でも、単純に俺は由奈とこうやって話したりしてても、変な隙間を感じたりしないんだってことに気がついた。前も言った通り、俺と柚葉は毎年こうしてゴールデンウィークに会ったりしてる。でも、それは俺が柚葉に対しても由奈と同じようなものを感じてるからだと思う。柚葉といるときには、隙間を埋めなきゃ、みたいに焦ることがほとんどないんだよね。みんなにはどう見えてるかわかんないけど、別に俺と柚葉は付き合ってる訳でも何でもない。そういう男女関係よりも、普通の子供の頃のいわゆる『親友』っていうやつみたいな感じに近い。今さらながら思うけど、そういう相手が一人でもいることを俺はもっと幸せに思うべきなんだろうな」

 僕は自分の高校生活までのことを思い出す。友達もそれなりにいたし、クラスやら部活の中でもそれなりに上手くやっていたように思う。でも、柚葉のように全く気を遣わなくて良い、という相手は結局見つけられなかった。それは僕が他人に対して心を開くのが下手だったからかもしれない。でも、柚葉のように心を開いても良いと思える相手がいなかったのも事実だった。みんなの考えていることは僕にはどうにも理解できなかったし、また、誰も僕のことを理解……まではいかなくとも、受け止めてくれることすらしてくれないだろうな、という予感が僕には付き纏っていた。しかし、それでも、僕は今になって思う。僕はもう少し、人とわかり合うための努力をすべきだったのだと。そして、僕はその反省を活かし、由奈に対して――こういった言い方は不本意ではあるけれど――「人生の先輩」として教えるべきなのだ。

 僕はそのことを何回か言い換えを用いたりしながら由奈に伝えた。大変かもしれないけど、由奈には僕のようにただ不貞腐れているだけでなく、隙間を感じない相手を自ら探すようにしてほしいということを。僕は、もし自分の人生に柚葉がいなかったら、という状況を考えながら話した。それは随分と恐ろしいことのように僕には思える、と僕は由奈に言う。しかし僕はそう言いながら、自分の中に違和感が存在していることを感じていた。靴を左右間違えて履いてしまっているかのような違和感。決して見逃すことはできないけれど、でも、このまま歩き進めることは不可能ではない。僕は靴を履き違えたまま前に歩き続ける。僕の違和感は彼女には関係ないことなのだ、と言い聞かせながら。或いは、この違和感を正すことによって、逆に由奈に対してあまり良くない影響が出てしまうのではないかと考えながら。

「いずれにせよ」と僕は言う。「俺は由奈はとても良い子だと思うよ。それにしっかりした考え方を持っている。俺が高校生の頃とは比べ物にならないほど素晴らしい人間だと思う。だからきっと、やってやれない、ということはないさ」

「そんなことないよ。私は色んなことサボってばっかだし、それに私にはミズキくんにとっての柚葉さんみたいな人はいないもん」

「だから探さなきゃいけないんだろう?」

 由奈は視線を手元に落す。赤いクッションはさっきから由奈の手の中で歪められたり、もとに戻されたり、といった変容を繰り返していた。僕も由奈も黙ってしまうと、再び部屋の中は朝の静寂に満たされた。テーブルの下やプロペラの裏側には、相変わらず夜の欠片が残っている。

「ねぇ、ミズキくんは私と話してても隙間を感じないって、さっき言ってたよね?」

 由奈の視線はまだ手元の赤いクッションに注がれていた。僕は自分の心拍数が上がっていることに気がつく。そして、また精神と身体の乖離が僕を襲う感覚がある。

「たしかに。由奈と一緒にいても、嫌な気分になったりはしない。疲れることもないし、普通に楽しいなって思うよ」僕はそう言いながら、先程の違和感を思い出していた。僕は最初からとっくに気がついていた。由奈に出会ってから十分足らずでそれを知った。だからこそ僕は今朝目が覚めるなりいきなり部屋の中で溜息をついたのだし、物思いに駆られてシャワーの後に一人で椅子に座ってうとうととしていたのだ。僕はさも柚葉が僕にとって一番大切であるかのような言い方をしていたけれど、それはほんのちょっとした嘘だった。

 確かに僕にとって柚葉は大切な存在であるし、何よりも「時間」という因子が柚葉と僕の関係性には重たくのしかかっている。だからあまり軽率な振る舞いはできない。そんなことは僕にもよくわかっている。しかし、そういった「時間」なんてものを差し引いても、今の僕の目に一番魅力的に映る人間はもう既に清水由奈に移り変わっていた。それがこのゴールデンウィークの四日間の間に僕が思い知らされたことだった。

 だから由奈が、「私もミズキくんと一緒にいると隙間をあんまり感じなかった」と言った時には馬鹿みたいに嬉しかった。しかし、それと同時に悲しみの刃が僕の肉を切り裂く。

 小学生の頃から僕にはずっと柚葉がいた。柚葉がいなかったら僕の過ごして来た時間の色彩はもっと荒んだものになっていただろう。でも、僕は自分に柚葉しかいないことがずっと悲しかった。柚葉に会えるのは一年に一回きりだったし、僕も柚葉もゴールデンウィーク以外には連絡を取り合おうとはしなかった。ゴールデンウィーク二週間前に毎年柚葉から連絡が来る。そして、休日になるとあの書道教室に人を集めに行く。そしてゴールデンウィークになれば、こうしてログハウスに来て子供たちの世話をして時間を共有する。それ以上でもそれ以下でもない。決して十分な時間とは言えなかった。でも、形を変えることで何かが失われてしまう可能性を考えると、僕には何もすることができなかった。それくらいに、僕には柚葉だけしかいなかったのだ。

「ねぇ、ミズキくんは私のこと好き?」由奈が僕に尋ねる。顔がほんのりと赤く染まっていた。薄暗い部屋の中で、彼女は洞穴に咲く花のように美しい。ただ波長が合うというだけでない。僕はそんな由奈の美しさに魅了されていたのだ。

「好きだよ」僕は答える。

「それは女性として、って考えてもいいのかな?」

 想う僕は彼女を手に入れようとして、すぐさま肯定を返そうとする。しかし、喋る僕はどうしてか声を発しない。あれだけいつも簡単に嘘をつくくせに、今回ばかりは僕の心の確かさを強く問い詰めてくる。

 僕は由奈を女性として好きなのだろうか?

 僕は彼女に対して言うなれば文学的な愛情を感じているだけに過ぎないのではないか?

 そして、仮に僕が彼女を手に入れることができたとして、彼女を幸福にしてやることが僕にできるのだろうか?

 僕は隙間を埋めるために答える。

「人として好きだよ」

 

 子供たちがログハウスから帰っていく。その集団の中には清水由奈もいた。弟や両親に笑顔を振りまいている。僕はずっと彼女の後姿を追っていたが、彼女は一度も振り返らなかった。人影が消え、午後の柔らかい光の中で、川のせせらぎと木々のさざめきが入り組んだ迷路を作り上げているのが見える。隣では柚葉が満足感に満ちた溜息をついていた。

「お疲れ、ミズキ」

「柚葉もお疲れ」

「さて、子供たちも帰ったし、一杯やりますか」柚葉は後ろで一つにまとめていた髪をほどき、手で髪を梳かしながら言った。彼女の長い髪からはシャンプーの匂いが漂ってくる。それが僕にとっての「柚葉の匂い」だった。

「まだ陽も昇ってるのに……」僕は太陽に目を向けながら言う。心を突き抜けていくような鋭利な陽射しが、様々なものの終焉を描いていた。

「陽が昇ってるうちから飲むからいいんじゃない」柚葉は目を細めて笑いながら言った。「ミズキも成人したんだから、もうお酒くらい飲めるでしょ」

「成人する前から、柚葉に飲まされてただろ」

「あはは。そうね、そうだったわ」

 余りもので適当な軽食を作り、僕と柚葉はあらかじめ買っておいたビールを飲んだ。料理を食べ、酒を飲み、会話をして、それから時々、細々としたものの片づけをした。子供たちの痕跡は至る所にあった。片っぽだけ忘れられた小さな靴下。机の縁についた干からびた米粒。えぐられた跡がまだ新鮮な白を放つ、木製家具の傷跡。それらを見ていると、再び鼓膜に子供たちの喧騒が戻ってくる。しかし、陽が沈むにつれて……ログハウスに夕闇の墨汁が浸みこんでくるにつれて、辺りには魔術的な静けさが広がっていく。夜の生き物たちの吐息がログハウスの周囲に立ち込める。僕と柚葉は二人きりでワインのグラスを傾ける。一ケース分用意していたビールは既になくなっていた。

「ミズキは本当に意気地なしだ」酔っ払った柚葉が訳知り顔で言う。「それとも自分に自信がないのかな?」

「何のことだよ」僕は少し苛立った調子で返した。

「由奈ちゃんのことよ。ミズキ、由奈ちゃんのこと好きだったでしょ? 何で連絡先、交換したりしなかったの?」

「別に好きじゃないよ。いや、好きだったけど、そういうんじゃない。だいたい由奈と俺の歳の差がいくつか、柚葉はわかってんのか?」

「彼女が高一で十六。ミズキが今年で二十歳だから……たったの四つ差じゃない。世の中にはもっと歳の差があっても結婚してる人がいるわよ。それこそ私とミズキだって四つ違うわけだし。十歳差なんですよ、とか普通に聞いたことあるわ」

「二十五と三十五で結婚するのと、十六と二十歳が付き合うのは全然次元が違うだろ。相手はまだ子供だし、俺は確かにあの子のことが好きだけど、別に異性として好きってわけじゃない。美しい風景と同じさ。印象的だし、心も揺さぶられはするけど、だからといってそれに欲情するわけじゃない」

「別に欲情しなきゃ連絡先を交換しちゃいけない、なんて決まりはないでしょ。美しい景色を見たら写真を撮る。あるいは、一句読んだりしてもいいけどさ。でも、美しいものを手元に留めておきたい、って考えるのは普通のことだし、由奈ちゃんのことを女として見てないんだったら、余計連絡先くらい交換してもいいと思うんだけどな」

 柚葉は僕を挑発するように眉を八の字にして、グラスに残ったワインを飲み干した。そして、僕にその空になったグラスを差し出してきた。

「柚葉は一つ勘違いをしてる」僕は仕方なく柚葉にワインを注ぎながら言う。「俺は、連絡先を交換してない、なんて一回も言ってない」

「じゃあ、交換したの?」

「あぁ、したよ」

「嘘ね」

「何で嘘だなんてわかるんだよ。二十四時間監視してたわけでもないのに」

「それくらい私にはわかるのよ。たとえ二十四時間監視してなくても、ミズキが何をして、何を思ったかなんて私にはわかるの。何年の付き合いだと思ってるの?」

「一年に一回しか会わないだろ」

「でも、いつだって私の一番近いところにミズキはいたわ。じゃなきゃ、毎年ゴールデンウィークに会ったりなんかしない。初めて二人きりで来た時は、なんかちょっと落ち着かなくて余計楽しめなかったから、その次の年からはもう少し自然に接することができるようにわざわざ子供を集める真似までしたのよ? どこの誰がそんな面倒をおかしてまで、好きでもない相手と一年に一回しか会わない関係を保とうって思うのよ。織姫と彦星だって、現代に生まれていればそんなこと考えもしないわ」

「織姫と彦星は、お互い好きあった者同士じゃんか……」

 僕は柚葉の論の矛盾点を攻撃しながら、彼女の言葉を反芻していた。そして、彼女の心を知る。僕は彼女が僕を好いているのであろうとわかり素直に嬉しかったが、僕に向けられた彼女の視線は依然として厳しい鋭さを帯びていた。彼女は沈黙の中で荒々しく溜息をつく。酒を飲んでいるとはいえ、柚葉がここまで取り乱しているのを初めて見たような気がする。そして、僕も今までに見せたことがないくらい柚葉に対してきつくあたってしまっていた。

「はぁ。もういいわ。私が悪かった。きっと酔っ払ってるせいね」柚葉は手に持っていた空のグラスを机に置き、それからゆっくり深呼吸をした。「別にミズキと由奈ちゃんが連絡先を交換していようがしていまいが、そんなことは私にはどうでもいいことだもんね。もうだいぶ疲れちゃったし、私もミズキと喧嘩したかったわけじゃない。こんな話やめてゆっくりお酒飲みましょ?」

「俺も悪かったよ。それに柚葉の言った通り、結局、俺は由奈と連絡先の交換なんてしてない。だから、もう彼女に会うこともないさ。あんな良い子はなかなかいないから、ちょっと寂しい気もするけど、でも、俺も十六歳の女友達が欲しいなんて思ってないし。まぁ、良い想い出にはなったよ」

 僕はさっき柚葉が置いた空のグラスにまたワインを注ぎ、そしてそれを彼女に手渡した。それから僕も自分のグラスを手に取り、彼女のグラスと軽くぶつけた。目に見えない光が鼓膜の上を跳ねる。彼女は小さく笑ってグラスに口をつけた。

「私、ミズキが小学生の頃から、ずっと好きだった」

「それは嬉しいね」

「ふふ。別に男としてじゃないわよ。単純に弟みたいで可愛いな、って。でも、そのうちに愛情みたいなのも感じるようになってきたし、一年に一回しか会えなくても、いつもすぐにミズキと心を通わせることができた。そんな相手はほかにいなかったし、それは特別なことなんだ、って思うようになった」

 僕も柚葉の言葉に強く同意したかった。「俺もそう思ってた」。そう言いたかった。しかし、やはり喋る僕と想う僕は別のところに立っている。僕は曖昧に笑いながら、適当にワインを啜るばかりだ。

「ねぇ、ミズキは私のこと好きじゃないの?」

 柚葉の潤んだ瞳が目の前にあった。僕の返答を待ちながら、不安そうな表情を浮かべている。僕はふと今朝の由奈との会話を思い出していた。そして、相変わらず僕は自分が分裂したみたいな感触に支配されている。上手く言葉が出てこない。それでも僕は舌を動かして、柚葉に「好きだよ」と答える。ほんの少しだけ、声が震える感じがあった。小学生の頃から僕が柚葉に打ち明けたいと思っていた大切な気持ちだったから、当然のことだ。でも、何故か今までに思い描いてきたよりも冷静な僕がそこにはいた。

「女として?」

 柚葉は僕の目を覗き込みながら言う。僕は頷いて答える。「女として」。でも、僕の返答に対し、柚葉は秋雨のような苦笑いを浮かべて目線を逸らした。そして、何故か目尻から一筋の涙を流す。星が砕けたような涙だった。僕が柚葉の涙を見たのはこれが初めてだった。

「あぁ、なんでなんだろう。やっとミズキの本心が聞けると思ったのに。どうして、こうなっちゃうかな」

「本心?」僕は聞き返す。「俺は柚葉のことが好きだよ。もちろん、女として。嘘じゃない」

「そうね。それは嘘ではないわ。それくらいわかる。でも、違うのよ。ミズキは私のことが好きだけど、一番好きってわけじゃない」柚葉は涙を拭いながら言う。「ミズキは私よりも由奈ちゃんのことの方が好きになっちゃったんだね?」

「いや、だから、由奈のことは別に女としてとか、そういうんじゃ……俺が好きなのは柚葉だけ――」

「ふふ。ミズキは本当に何も自分のことがわかってないんだね。ミズキがそうやって私に対する気持ちを言えるようになったのは、それはもう本当に好きなのが私じゃなくなったから。でも、それでもいいの。ミズキは感情と言葉が一致しない人だけど、でも、どうせ私にはミズキしかいないから。むしろ、ミズキに私よりも好きな人ができたことに感謝しなきゃ」

 柚葉はそういって僕のもとへ倒れ掛かってきた。僕はソファの上で彼女を受け止める。彼女は震えるようにして泣いていた。僕は肩に手を回し、抱きしめる。柚葉は思っていたよりもずっと華奢な身体つきだった。肩の付け根辺りに涙の温かさを感じる。震える彼女の背中をさすり、髪を撫でた。柚葉の匂いのする髪。ずっと僕が求めていたはずのものだった。しかし、唐突に、僕がいま抱きしめているものが偽物であることに気がつく。僕が抱きしめているのは、確かな形を持ったただの空白だった。

 カーテンの閉められていない窓ガラスには、暗闇で溶け合う僕たちの姿が写っていた。夜の額縁の中で、ずっと大切に守って来たはずものが失われていく。僕の中から柚葉が消えていくのがわかった。これから僕はどうなってしまうのだろう。未来を想像してみる。しかし、僕という人間の辿ってきた過去が、その逃れようのない未来を映し出す。これまで使ってきた僕の言語が、僕の身体には纏わりついている。僕が本当に手に入れるべきものは、既に背中を見せてここから去って行ってしまった後だった。

 

2016年

君たちが教えてくれたこと、僕が知ったこと

 2杯目の缶ビールを開けて、底に泡が残っているグラスに金色の液体を注ぎ込んだ。狭い僕の部屋にはいつものようにリョウとマリとテツ君がいる。部屋にかかっている音楽に合わせてリョウは気ままに歌っていて、テツ君はチューハイを左手に、右手に持った本を読んでいる。マリは僕の隣に座ってスマホをいじっていた。

 

「なぁ、うちのお客にアンタんとこの上司の上杉っちゅうのがおんねんけどな」マリはスマホに視線を落としたまま、僕に話しかけている。きっと彼女は次々とやって来る誘いのメールに、どうやったら効果的な返信ができるか、ということを考えているのだろう。相手の誘いを断りつつ、自分への想いを募らせるように仕向ける、というのは彼女のような風俗嬢にとっては重要なスキルの一つに違いない。

「あいつ、あかんわ。こないだ、うちがせっかく誘いに乗ってデートしてやってんのに、お小遣いもくれへんし、バッグも買ってくれへん。ほな、あんたは何のためにうちのことデートに誘ってん、っちゅう話やわ」彼女はこっちに出て来てからも関西弁を直そうとはしなかった。まるで、そこに自分のアイデンティティが凝縮されている、と言った感じで。

「そらぁ、40後半にもなって、奥さんどころか、彼女の一人もおれへんし、うちみたいなホステスに入れあげたくなる気持ちもわからんでもないけどさ。やったら、ちゃんとうちに誠意を示せぇよな。金払いの悪い禿げに付き合うてやるほど、うちも暇やあらへんのやから。金、払う気ないんねやったら、お得意のパソコン広げて、そこら辺の男子中学生一式集めて、皆で一緒に無料エロサイトでも見とったらええねん。金かけずに、性欲も満たされようし、中学生にも感謝されようし。人を救い、善を為して、欲まで満たされんねやったら、一石二鳥やん。そう思うやろ」彼女は焼酎を飲みながらそう言った。僕は曖昧に笑いながら、相槌を打つ。

「アンタほんま反応薄いわぁ。なぁ、自分ではそれどう思ってん? ようそんな無愛想で社会人やってるわぁ。なぁ、リョウちゃんもそう思うやろ」彼女は僕にまで悪態をつきながら、今度はリョウに同意を求めた。

「さっきから煩いねんて、マリはちょっとは黙られへんのかいな」リョウはお気に入りの歌の良い所で邪魔されたのが腹立たしいらしく、露骨な舌打ちをかましながら答えた。マリは「同郷やろ。ちったぁ、うちの味方せぇや。明日たこ焼きでも買うてきてやっから」と返す。

「なんなん、たこ焼き、て。今時、関東の思い上がった高校生でもそんなつまらんこと言わへんわ。こない、おもろないやつが同郷とか。ほんま抜かしよるわぁ」

 

 また今日もマリとリョウの漫才が始まったので、僕はグラスに注いだビールをちびちびと飲みながら、音楽を聴くことにした。音楽の波間に、タイミングの良い合いの手を入れるようなマリとリョウの漫才を見ていると、やっぱり関西人は面白いな、なんて言う風に思う。

 僕は席を移動してテツ君の隣に行ってみた。テツ君はマリやリョウとは違って、おとなしくて、どこかおっとりとしているような性格だった。一人だけ「君」づけで呼ばれているのは、何も年上だから、とかではなく、ただ単に「君」づけが相応しい、実に心優しき性格だったからである。僕はテツ君に、何の本を読んでいるのか尋ねてみた。

「これ? これはね、リョウから借りたんだよ」そう言って、テツ君は本の背表紙を見せてくれた。聞いたことの無いタイトルが印字されている。

「あの好き嫌いの激しいリョウがこの本には随分と思い入れがあるらしくてね。革命家としての仕事にも結構役立つことが書かれているみたい。僕にはあんまりピンとこない部分もあるけれど、まぁ、リョウの言葉を借りるなら、この本は『本物』ということになると僕も思うよ。キラキラはしていないけど、この一節とかすごいと思うだろう?」テツ君は、本のページを2,3枚めくって、その言葉が書かれている箇所を僕に見せながら、その一節を口に出した。たしかに、革命家を職にしているリョウが好きそうな台詞だ。そして、詩人であるテツ君にも受け入れられるような、人間味のある言葉でもあるような気がする。こういう風に言うと、まるでリョウが人間味の無い人間であると言っているように聞こえてしまうかもしれないけれど、リョウほど人間味のある人間もそうはいない、ということはきちんと言っておかなければなるまい。

「おう、テツ君、その一節良いやろ。次に書く詩で引用したらえぇんと違う?」

 リョウはマリとの会話を切り上げたらしく、こちらの会話に入って来た。マリはまたスマホと睨めっこだ。

「僕は、僕の言葉を書くだけだよ。それよりもリョウの方こそ、次の演説かなんやらで使ってみたらどう?」

「せやね。まぁ、そのまんま使い回すっちゅうことはやりとうないから、もっと俺なりの解釈を乗せてきちんと歌ったるわ」リョウは得意気な笑みを浮かべて、僕と同じ缶ビールを、グラスには注がず、直接缶に口をつけて飲みながらそう言った。テツ君は「ふふ」と楽しげに笑うと、またリョウから借りた本に視線を戻した。僕とリョウだけが、向き合って酒を飲んでいる。

「なぁ、さっきマリが言ってたんやけど、上杉っちゅうマリの悪い客、お前んの上司やねんな」つまみの枝豆に手を伸ばしながら、リョウは僕に話を振ってきた。僕は、そうだ、と返す。

「お前はその上司、どう思っとんのや?」

「まぁ、可も無く、不可も無く、って感じだよ。マリも言うように、四十後半で奥さんも彼女もいないんだ。彼も他の普通の人同様、可哀想な人間の一人さ」

「さよか。まぁ、お前が言うんなら、そうなんやろな」リョウは退屈気な息を漏らして、また枝豆に手を伸ばした。そして、やっぱり僕に対してまだ言うべきがあることに気が付いたのか、また僕の方に向き直って言葉を続ける。「なぁ、お前の言う可哀想な人間ってどういう人間なん? 俺らも可哀想な人間なんか?」リョウの問いに僕は一度首を横に振ってから、答える。

「リョウたちは別に可哀想な人間とは思わないよ。まぁ、ある意味では可哀想なのかもしれないけど、少なくとも僕の目には正しいことをしている人間のように見える。街ですれ違う人間なんて、それこそリョウの言うように『ゼンマイ仕掛けのマネキン』みたいなやつだと思うしさ」

「ほーか……」リョウは枝豆の殻を唇で挟みながら答える。そして何かを考えるように天井を見上げたまま、またビールの缶に口をつけた後、何かを思いついたらしく、言葉を付け足した。「せやけど、その『ゼンマイ仕掛けのマネキン』達は本当に可哀想な連中なんか? 確かに、俺も奴らの満足気な表情を見とると虫唾が走るようなことはあんねんけど、せやからといって、可愛そうな人間だとは思わんよ。いや、正確には可哀想やと思ってんかもしれへんけど、できるだけそうは思わんよう、努力しとるつもりや」

「うちも、うちのお客はあまり好かへんけど、それでも可哀想とは思わんようにしとるなぁ。まぁ、そう言うってことは、実際のところ可哀想やと思ってねんけどもさ」マリはスマホをテーブルの上に置いて、僕たちの会話に入って来た。「おぉ、珍しくマリと意見が合うたな。どや、俺もマリの客にしてみぃひんか。やっぱり俺様クラスの男前やあらへんと、なかなか楽しめへんやろ」と、ケタケタ笑いながら言うリョウを無視して、マリは言葉を続ける。

「アンタは周りの人間のこと、アホらし、とか思っとるわけ?」マリの強い口調に少し圧倒されながらも僕は答える。

「まぁ、皆、良くやってるとは思うよ。そりゃあ、人の為に働くってことは素晴らしいことだしさ、そういう世間一般的な正しさに終始したい気持ちもわからなくはないけど。でも、そんな他人に決められた、社会に押し付けられた正しさを漫然と受け入れて、無表情に笑ってる奴らは、僕はあんまり好きじゃない。それよりも自分の求める正しさをちゃんと探してるマリとかリョウとかテツ君の方が、僕は好きだな」

「うちが正しさを求めてるとか、思ってんの?」

「……マリはそう言われるの嫌かもしれないけどさ。マリはただお金を稼ぐためにホステスをやっているわけじゃないだろう? 少なくとも僕には、マリはいつも苦悩して、その中で自分の正しさを追っているようには見える」

「じゃあ、何か? お金を欲しがるいうんは悪だ、とでも言うんか?」僕はマリに向けて言ったはずだったが、何故かリョウが僕の返答に、突っかかってきた。そう言われてしまったら、僕は「いいや、そういう訳じゃないけど」と返すしかない。

「お金を稼ぐことは別に悪いことでも何でもないやろ。むしろ偉いことや、と俺は思っとる。お前は今まで金で不自由したことがないから、そういうことがのうのうと言えんのや。それとも何か? お前は、金に対する欲が汚うて、精神的崇高さを求めるような欲は美しいとでも言うんか? ほんまアホちゃう? どっちも同じ『欲』っていうカテゴリーに属しとるやんけ」リョウの言葉は至極真っ当だと思ったけれど、「ほんまアホちゃう?」という箇所に僕は少しムッとしてしまう。

「そりゃあ、リョウの言うこともわかるけどさ」

「けど、何や」

「リョウだって、その精神的崇高さを求めてるから、革命家なんて仕事をしてるんだろう?」

「あぁ、せやな。俺はその『精神的崇高さ』を求めて革命家やっとるつもりや。しかも、それを世間様にも押し付けようとしてるんやから、そらぁ、並外れた『欲』の持ち主やと思われとるわなぁ」

「じゃあ、なんで……」

「けどなぁ、俺はその自分の『欲深』いう汚さをできるだけ受け入れとるつもりや。自分は何て悪しき生物なんや、と常に思いながら生きとる。たまには、金を追いかける奴らに腹ぁ立ってしゃぁなくなってまうけど。そういう時はほんまに鞄から包丁取り出してそいつらのことぶっ刺してやりとうなるけど、それでもグッと唇噛んで耐えとるんや。つまりな、自分の眼の前にそういう嫌な景色が見えとるから、それを変えるためにな、この歳になってまで革命家やってんねん」

「大事なんは、そういう悪しき自分をちゃんと受け入れる、っちゅうことやねん」マリは焼酎の入ったグラスを空けて、ここぞというタイミングで決め台詞を吐いた。

僕がマリとリョウの言ったことを考えていると、「ちょぉ、マリ姐さん。人の決め台詞奪うんゆうんわ、そらぁ、泥棒と一緒ですわ。ラーメン屋とか、ATMとかそういう行列の類の横入りと一緒ですって」などとまた二人で漫才を始めた。「僕がお祭りの金魚掬いの行列に並んどる小学生やったら、もう大泣きですわ」などと言っている。

「あのさ、君は今の自分のことを受け入れられていないんじゃないかな」と、悩んでる僕に向かって、さっきマリが言ったのと同じ「受け入れる」というテーマを掲げてテツ君が話しかけてきた。先程まで呼んでいた本はテーブルの上に伏せられている。

「君は今の自分をどう思っているの? 今の自分の生き方に満足できている?」

「……正直、今の仕事には満足できていない。っていうか、何で自分が……何の為に自分がこんなことをしているのかが、よくわからない」

「でも、君はとても真っ当に生きていると思うよ。ちゃんと仕事をしているし、ちゃんと人の為にもなっているし、将来家族を持つことになっても君なら安心だ。なんてったって、僕たちとは違ってちゃんと働いているんだもの」彼は自虐的な内容の台詞を吐いていたけれど、その表情には少しも自嘲の雰囲気が感じられなかった。

「そりゃあ、確かに僕はちゃんと働いている。世間一般から見たら、一応正しい人間の部類に入るのかもしれない。でも、なんかしっくり来ないんだ。自分が信頼している訳じゃない社会から、そんな風に『正しい』なんて思われても、ちっとも嬉しくならないし、それどころかそんな自分に嫌悪感すら感じてしまうんだよ」

「じゃあ、君は誰から……何から『正しい』と言われたら嬉しいんだろう? 君が信頼するものっていったい何なんだい?」

「それは、もちろん、君たちだよ。マリやリョウやテツ君のことだよ。僕が認めて信頼している人たちは君たちぐらいのものさ」

「そう言ってもらえるのは嬉しいけどさ。じゃあ、僕たちが仮に、今の君のことを正しいと言ったら、君は今の自分を受け入れられるのかい?」

「いいや、君たちは今の僕を正しいとは言わない。君たちには世間一般の言う『正しさ』とはまた全然違う、もっと真理に近い『正しさ』の基準を持っているはずだ」僕は真剣な熱を込めてそう言った。僕は彼らのことを本当に心の底から「正しい人達だ」と思っていたし、彼らが、世間一般の人達が押し付けられている「正しさ」とは違う、真の「正しさ」を追い求めているということを分かっていたから。けれど、テツ君の答は意外なものだった。

「あのね、君は信じないかもしれないけど、僕たちは君みたいにちゃんと働いている人達のことを正しい人間だと思っているんだよ」

「それは嘘だ。実際、リョウなんていつも口癖みたいに『あいつらは駄目だ』って言ってるじゃないか」

「ちゃうねん、それは、ただの僻みやねん」リョウはビールの缶が空になっているか確かめるために、手元でそれをクルクルと回しながら僕に言った。そしてさらに付け足す。

「確かに、俺は世の中には間違うてることがたくさんあると思うてるし、それを正したいと思うてもいる。けど、ちゃんと生きてる人にまで、それは押し付けたないねん。俺が気に喰わないと思うんは、もちろん堕落した人間個人個人に対してでもあんねやけどな、それ以上に色々な体制や社会の流れや、そういう不完全な枠組みに対してなんや。後は、言ってまえば、腐った野菜みたいな俺自身に対しての怒りやねん。やからな、お前の言うように、今のお前みたいな中途半端なやつにはイライラすんねんけど、もしお前がきちんと信念持って働いてんねやったら、俺は全力でお前を称賛したいと思っとる」リョウがそう言った後、マリが突然口を挟んでくる。

「リョウは話、長うてわかりにくいわ。ようそんなんで、革命家なんぞやっとるなぁ」マリは焼酎を飲みながら、リョウを睨んでいた。「何やて」と眉をひそめて返す、リョウのことは無視してマリは話を続ける。

「リョウが最初に言った、『僻み』言うんわな、うちらがちゃんと自分のこと歪んどるってわかっとるから出た言葉やねん。例えば、さっきアンタは、世間一般から正しい言われても納得できん、みたいなこと言ってたやろ? あの言葉はな、アンタが歪んどるっちゅう立派な証拠やねんで」

 僕はいまいちマリの言うことが理解できなかった。確かに僕は歪んでいるのかもしれないけれど、でも、本音を言うなら、僕やリョウやマリやテツ君こそが正しく、間違っているのは世の中ではないか、と思っていた。そして、彼らもまた、そういう僕の意見に同意を示す側の人間だと思っていた。が、マリはそんな僕の考えを否定する様な言葉をさらに並べ立てる。

「あのな、まず『世間一般』っていう言い方やめへん? まぁ、便利な言葉やからうちもたまに使ってまうけどな。けど、その『世間一般』いう言葉に皮肉みたいなもんが入ってたらあかんねん。皮肉る対象はな、『世間一般』やなくて『自分自身』にするべきや。うちらが歪んでるだけやねん。ただ、それだけのことやねん」

「でも、たとえ僕は自分自身が歪んでるということに納得できたとしても、自分や君たちが間違っているとは思えない。僕らか、あえてこの言葉を使うけど、世間一般か、どっちかが正しいって言うんなら、絶対に僕らの方が正しいと思う。ただ漠然と空虚な幸福感に満足そうに笑って生きているよりは、ちゃんと自分の本当の在り方を求めて苦悩している僕らの方が正しいと思う」

「あのね、君がそう思うのは勝手だけどさ、どっちにも本当の意味での正しさなんてものはないんだよ。マリが言っているのはさ、『どっちが正しい』とかじゃなくて、『僕らが歪んでいる』っていうことだけなんだ。『歪んでいる』イコール『間違っている』、っていう訳じゃないんだよ」

「俺らはな、『世間一般』とは違うねんて。例えば、お前、さっき『空虚な幸福感』言うてたけど、それって具体的にはどういうことや?」

「それは……例えば、毎日毎日繰り返すように、『ストレスの発散』とか言いながら、馬鹿みたいにヘラヘラ笑ってたりとか、結婚して家庭を持ってその為に生きる事にこそ幸福があるんだ、みたいな又聞きしてきた不変の真理を漫然と受け入れていたりとか、友情無くして人生は輝かない、みたいな有り触れた名台詞を唱えて喜んでいたりとか、たまの休みに皆でどっか旅行に行って、ついでに酒でも飲もうぜ、とかどこかのドラマか雑誌で知ったような、何の中身も無い切り売りされた幸せに興じていたりとか、そういうことだよ」

「お前はそれが受け入れられないんやな?」

「そうだよ。何一つ自分じゃ考えもしないで、そこらへんに転がってるゴミみたいな価値観を踏襲してる人間を、僕は信じることができない。だから、なんで『そんなのはくだらない事だ』っていうことにも気が付かないで、皆満足そうな顔をしてられるのかがわからないんだ。そして、どうして僕までがそういうのを追い求めなきゃいけないのかがわからないんだ」

「それはな、世間が歪んでんやなくて、お前が歪んでるからや」

「でもね、君が悪いという訳ではないんだよ」

「そう、アンタが間違うてるっちゅう訳やないねん」

 僕は混乱していた。僕が正しいと信じていた人たちが次々と、自分達が「歪んでいる」というようなことを言っている。

「普通の人はな、お前がさっき罵倒した空虚な幸福感いうやつをな、真剣に信じてんねんて。お前はそういう普通の人の価値観を、おのれら『世間一般』の考えが足りんからや、とか思っとるかもしれへんけどな、そうやないねんて。『世間一般』のやつらにとってはそんなこと考えるまでも無く、そういうことが本当の意味での幸福感なんやて。やからな、そういうのに疑念を抱いているお前や、そう、俺らが歪んでんねや。俺らがアブノーマルっちゅうやつなんや。人類が何人おるか知ってるか? 六十億もおんねやで。そらぁ、普通とは違った価値観持っとる奴も何人かはおるわな。でもな、お前が毛嫌いしとる社会もな、お前がちゃんと目を見開きさえすりゃ、希望がほんの少しは用意されてるもんなんやで」

「現に僕たちみたいな異端者が、こうやって生きていけてるんだからね」

「うちは風俗嬢やし、リョウは革命家やし、テツ君は詩人や。うちらはな、それぞれそういう生き方しか選べへんのんや。つまりな、うちら皆、アンタがいう『空虚な幸福感』に疑念を感じてんねや。そして、そこの二人はどうか知らんけどな、うちはそういう『空虚な幸福感』をもう諦めてんねん。普通の人と同じ幸福を得るのはもう諦めてん。例えば、うちに家族ができて、ちゃんとお金が定期的に稼げて、将来が安泰だったとしても、うちがいずれそういう生活に疑念を感じてしまうようになるのは、もう目に見えてることやから。だから、もうそういうのに憧れて、普通になるのに憧れて生きていくのはもうやめたんや」

「それがね、自分の歪みを受け入れる、っていうことだよ。僕もそういう憧れはもう捨てた。君がね、自分の歪みを受け入れられていないのは、自分じゃ『空虚な』なんて言っているけど、そういう幸福にまだ憧れているからなんだよ。もちろん、憧れることは悪いことじゃないし、できることなら君にはその幸福を諦めてもらいたくはないと思っている。でも、もし君がそういう幸福感に真剣に疑念を感じているんであれば、できるだけ早くそれは断ち切ってしまった方が良い。それは単に『手の届きもしない希望』や『煩雑な欲求』に振り回されている、ということになるし、人生は君が思っているよりもずっと短いんだ」

「俺らはな、自分がやっとることが正しいかどうか、常に思い悩んでんねんけどな、それでも自分こそが本当に正しいと信じてやってんねん。他人にどう思われるとかは関係あらへん。俺らは歪んどるからな、普通の人みたく生きれはせんけど、それでも普通の人みたいに自分の思う『正しさ』を追い求めることはできる。さっきお前は、俺らに『正しい』って言われたい、みたいなこと言っとったけど、それは間違うてんねん。本当にお前が自分の歪みを受け入れられたならな、俺らに『正しい』と思われようが、なんと思われようが、自分のやることにちゃんと『正しさ』を見つけられるはずなんや。つまりな、お前だけが手にできるお前だけの『正しさ』いうんが、必ずどこかにあるっちゅうこっちゃ」

「君が『正しい』って思えることはいったい何なんだろう? 君の価値観に近いものを持っている僕らに救いを求めながら、こうやって愚痴を零すことなんだろうか? そうじゃないでしょ。君は一刻も早く、自分のやるべきこと、『正しい』と思えること、つまりね、生きることの意味を見つけなきゃいけないんだ。それは結果的に、君の良く知ってる、そして、忌み嫌ってはいるけれど実は心の底では憧れている、ごく世間一般的な『幸福』を諦めるということになるかもしれない」

 テツ君は優しい目で僕を見ながらそう言った。そして、リョウがいつにない、まるで教会で祈る時のような神妙な表情で言葉を引き継いだ。

「つまりな、普通の人間として生きていくことへの決別や。誰からも理解されんかもしれんし、お前自身、自分の本質を受け入れるっちゅうことが苦しくて、ようできんくなるかもしれへん。独りで、自分とは何者なんか、っちゅう、そらぁ、でっかい問いに挑まなあかんねん。俺らも同じような敵に挑んどるからな、もしかしたら何か教えることができるもんがあるかもしれへんけど、肩を組んで一緒に戦うことはできんのや。それは俺ら一人一人の敵と、お前の敵はそれぞれ違うからや。一生、独りで戦わなあかんのかもしれへん。けどな、それが『正しい』ことを為す、っちゅうこっちゃ。お前が自分の中に受け入れるべき歪みと、それに応じた『正しさ』をちゃんと見つけるためには、そういう恐怖と真正面から向き合わなあかんのよ。そして、お前の心臓を鷲づかみするような底の知れん恐怖に打ち勝って、お前を待ち受ける無限の暗闇に脚を前に踏み出すことができたんやったらな、お前にも気が付けるはずや」

「人生は『完全な正しさ』を追い求めるには短すぎる、ってな。やから、たとえ怖くても、あんたは早う、あんたの脚を踏み出さなあかんねん」

 畳み掛けるように僕に話しかける三人の言葉を聴いて、僕はなんだか胸の奥から込み上げるものを感じた。ただ黒く薄汚れているだけの闇が切り裂かれ、僕の目の前にはただどこまでも続く真っ白な新しい闇が広がっている。愚行への後悔と善行への恐怖が渦巻く生まれたての感情を、既に温くなったビールで無理矢理胃の中に流し込んだ。食道をゆっくりと落ちていく金色の液体を感じながら、リョウが「マリ姐さん、また『決め台詞泥棒』ですやん」と言って、それにマリとテツ君が笑っているのを聞いていた。僕は「はぁ」と溜息を洩らして、目尻から漏れる涙を拭い、空になったグラスをテーブルの上にトンと置く。

 

 目を開けると僕は音楽の鳴り止んだ部屋の中で一人きりだった。カーテンの隙間からは夜明け前の白い光が覗いている。僕は何だかよくわからないまま、嬉しさと哀しさでいっぱいになって、近所の人達のことも考えず、ただ、笑いながら泣いていた。

 

2013年8月31日

Angry Blue

 太陽が南中をわずかに過ぎたくらいの時分、荒廃した街のコンクリートの道の上を、瓦礫やその隙間から伸びる腰の丈くらいの雑草を避けるようにして、一人の女が悪戦苦闘しながら歩いていた。今はもう誰も、それこそ浮浪者さえ寄り付かなくなっている幾つもの崩れかけのビルが、嘗てはこの街のメインストリートであったであろう車道に短い影を落としている。砂利やらガラスの破片やらがコンクリートの亀裂に挟まっていて、或いはそこに収まりきらずに道の上にまばらに散乱していて、女が足を踏み込む度にこの静かな都市にジャリ、ジャリという無機質な音が響く。時折、小鳥などが瓦礫の山の上で一休みする様子や、雑草と瓦礫の隙間に消えていく様子が見られたけれど、それ以外にはこの辺りには生物の気配というものが全く感じられない。女は心細さを打ち消すように歩調を速め、瓦礫や雑草やビルの影の合間を縫うように一目散に道を進んでいく。額からは汗が流れ、熱気の籠った麦わらの帽子を一度頭から取り外すと、長い髪を翻して空気を入れ替えてから、また帽子を被り直した。左腕には小さめの木製の三脚を抱え、背中には汚れないように布で包装したキャンバスと画材の詰まったリュックを担いでいる。線の細い彼女がそれらの荷物を身に着けながら、この荒々しい道を進むのはなかなか酷なことのように見えるが、生憎、この場所にはそんな彼女を慮って足を止めるように諭したり、ましてや彼女の荷物を一つ持ってあげたりするような人間、或いは生き物などは何一ついなかった。ただただ、初夏の陽射しが天から真っ直ぐに彼女を突き刺し、そんな彼女を不憫に思った崩れかけのビルたちも、この時分では彼女に向けて自分の影を伸ばしてやることはできなかった。

 彼女は禅の修行に精を出す僧侶のように、ただひたすらと無心に足を踏み出していたが、さすがに途中で疲労感に負け、一度日陰で休憩を入れることにした。ビルの外壁に背中をもたせかけて、麦わら帽子を脱ぎ、砂利の上に腰を下ろして汗を拭ったところで、彼女はようやく海の匂いがすることに気が付いた。どうやら目的地まではあと少し、というところらしい。耳を澄ませてもまだ波の音は聞こえなかったが、彼女は手元に転がっていた鉄屑がかなり錆びているのを見つけて、海が近いことを確信し、ほんの少し顔を綻ばせた。ふくらはぎを揉んだり、簡単なストレッチをしたところで、彼女は腰を上げる。細い足首が少し見えるくらいの長めのスカートについた汚れを軽く払ってから荷物を担ぐと、「よし」と気合を入れ直して、また道を真っ直ぐ進んで行った。

 

 ずっと真っ直ぐ行った先。そこで道が途切れているのが見えた。耳を澄ませば、何となく波の音が聞こえるような気もするが、疲労で乱れた呼吸音が邪魔して朧気にしか聞こえない。彼女は額の汗を腕で拭い、それから帽子と髪の中に溜まった熱気を一度追い払ってから、また足を踏み出した。彼女がこの区画に足を踏み入れた時と比べると、今現在、彼女が立っている場所は若干開けた雰囲気があった。相変わらずメインストリート沿いに建物が並んでいたが、背の高いビルが少なく、崩れて瓦礫になっているものが多かったからだろう。頭上には拳大の真っ白な雲を幾つか含んだ青空が広がり、それは彼女の目線のずっと先の方まで続いていた。三百メートルほど歩いたところで彼女の眼にはようやく空よりも濃い青色を示す水平線が映った。

 まるで世界の果てのような道の終わりに、今にも指先で触れることができそうなくらいの所まで来ると、彼女は荷物を比較的平らで清潔そうな瓦礫の上に置いて、子供のように駆け出した。長く険しかったメインストリートは彼女が話で聞いていたように、まるでそこから先が異空間に吸い込まれてしまったみたいに突然断絶されていた。道の両側の建物も道と同じような感じで、どこまでも広がる海に向けて真っ二つにされた木箱のようにその口を広げている。コンクリートの地面は損傷が激しく、ところどころ茶色い土が覗いている。彼女は道のギリギリまでゆっくりと歩いて行き、吹き付ける海風に麦わら帽子を飛ばされないように右手を頭の上に置きながら、そっと崖の下を覗き込んでみた。崖の影の中で、海は夜のように深い青色で、そこに岸壁で砕け散った白い波の紋様が浮かび上がっている。ここから水面までだいたい建物三、四階分くらいの高さだろうか。下の方からは風が吹きあがって来ていて、女の栗色の髪が麦わら帽子を包み込むように舞った。一通り崖の下の景色を堪能すると、彼女は海に向かって突き出したコンクリートの一角に腰を降ろし、おずおずと足を崖に向かって降ろしてみた。ふわふわとした高揚感と背筋に走るムズムズとした緊張感に、ふと童心が思い返される。けれど、そんな彼女の精神的な若返りに後ろ指を刺すような人間はここには誰もいない。彼女は慣れてくると子供のように足を交互に蹴り出しながら、気が済むまで目の前に広がる青い海を眺めた。

「これが海かぁ」

 潮風と初夏の陽射し。それから波の音、海の匂い。何と言っても、これだけの雄大な景色を独り占めしている、という思いが彼女の心を癒した。翼の縁が黒く、嘴が黄色の中くらいの大きさの白い鳥が一羽、滑るように空を飛んでいく。美しい光景だった。それから女は立ち上がり、一旦世界の果てに背を向け、荷物を置いたところまで戻る。背中に布を捲いたキャンバスと画材の入ったリュックを担ぎ、左腕に三脚を抱え、そこからすぐ左手の建物に入った。入口の扉は壊れていて、建物のすぐ外に転がっていた。窓ガラスは全部割れている。

 乾いた足音が建物の中に虚ろに響き渡る。入口の正面には胸くらいの丈の壁が四、五メートルの幅で真横に伸びていて、嘗てこの部屋がロビーとして機能していたことを窺わせた。壁紙はほとんど剥がれていて、残っていても黒ずんで汚れている。剥き出しのコンクリートがひんやりとした空気を建物の中に漂わせていた。ガラスを失ったただの四角い穴の窓からは光が差し込んできていて、壁際に密生した雑草の首の辺りに温かな陽光を投げかけている。女は目的の場所はこんな所ではない、といった具合で、まずはこの廃墟の一階部分を探索し、一番西側、つまり部屋の半分が海の底に崩落して、海に向かって口を開いている部屋に入ると、そこから海と空を眺め、首を傾げた。そして彼女は三脚を抱えたまま引き換えし、今度は階段を見つけて廃墟の上の階を探索し始める。二階は部屋に続く道が崩れ落ちていたため諦め、また階段を上に登り、三階を目指す。三階は壊滅を逃れ、まだ訪問者を受け入れるだけの形を成していた。そして、海織はまた一番西側の海を望める部屋を探す。

 彼女がその部屋に足を踏み入れてまず最初に見たのは、海でも空でもなく、一人の人間の影であった。こんな場所で人に遭遇するとは思ってもみなかったため、彼女は若干怯んだ様子を見せたが、ふと、その後ろ姿に既視感を覚えたようで、恐る恐る声を掛けた。

「あの」

 部屋の南西側と北西側の壁はほとんど崩れていて、南西側には先程メインストリートの崖っぷちから眺めたのと同じ水平線が見える。北西側には、ここと同じように突如異空間に吸い込まれたようにして出来上がった、大海と大地を隔てる岸壁の境界線がどこまでも遠くまで連なっている様子が展望できた。部屋の隅に座りながらその境界線を睨んでいた青年は女の声に気が付き、驚いたように振り返る。目を細め、暗がりで立ち尽くす彼女の顔を凝視しながら女の次の言葉を待っているようだった。

「もしかして、悠くん?」女は麦わら帽子を右手で取り外しながら、少し顔の位置を下げて言った。それから長い栗色の髪についた帽子の癖を簡単に指先で梳きほぐした。

「誰、あんた?」女に「悠」と呼ばれた男はぶっきらぼうにそう返すと、座ったまま身体を捻り、女を下から険しい表情で睨みつける。が、それは何も敵対心から来る険しさではなく、どうやら煌めく水面の眩しさに網膜を突き刺されていた後遺症から来る、一時的な顔面上のみの険しさのようだった。しかし、女はそんなこと知る由も無く、自分の柔らかい声音とは対照的な男の挑発的な視線に少々の憤りを感じ、できるだけそれを隠そうとはしながらも「忘れたの? 海織よ」とやや厳しい口調で返した。

「悪いけど知らないな。それにおれの名前は悠じゃないよ」

「そんなわけないでしょ。どっからどう見ても、悠くんじゃない」

「悠はおれの兄貴の名前だ。俺の名前は「悠」じゃなくて「ヨウ」。漢字は「葉っぱ」って書いて「葉」な。人間失格のあいつと同じだ」男はユーモアのつもりなのか、気取った風な喋り方でそう言った。

 海織と名乗った女は、その葉と名乗った男の言葉の真偽を確かめるように、その体躯、それから顔をじっくりと眺めた。しかし、外の景色が明るい分、この廃墟の中には濃密な影が垂れ込めていてうまく判別することができない。

「悠くんは弟がいるなんて言ってなかったけど」と問い詰めるように海織は言った。

「あいつは俺のこと嫌ってたからな。多分、兄貴の知り合いで俺の存在を知ってた奴なんて一人もいないよ。まぁ、俺の知り合いで兄貴知ってる奴は割といたけど。そんなことより、あんたは誰だよ。兄貴の女かなんかか?」

「人の女、みたいなレッテルの張り方やめてくれる? 別に女を見くびるなとか、差別はやめろとかそういうんじゃないけど、何かの付属品みたいな感じで呼ばれるのは単純に気分悪いわ。そうでしょ、悠くんの弟くん?」

「ふん」葉は海織の皮肉に軽く鼻を鳴らす。「わかったよ。でも、兄貴とはどういう関係だったんだ?」

「どうして出会ったばかりのあなたにそんなこと言わなきゃいけないのよ」

「別にいいじゃんか。一応、おれはあいつの弟なんだ。兄貴の知り合いとこんなわけのわかんないとこで出会ったんだから、それくらい聞いたっていいだろう?」

「そうかしら」

「そうだよ」

 葉は決めつけるように海織に言い放った。海織はやや不服な思いだったが、葉の言う通り、こんなところで出会ったかつての知り合いの弟に対して何も話を誤魔化す必要は無い、と判断してか、諦めたような芝居がかった溜息を漏らしてから口を開いた。

「まぁ、そうね……ほとんどあなたの言う通りよ。高校のときの女だけどね」

「なるほどね。苦労しただろ?」

「何が?」

「あんな兄貴と付き合うなんて正気の沙汰じゃないよ。大事な青春の一ページを無駄にしたんじゃないか?」

「そんなことないわ。悠くんは良い人だった。頭も良かったし、優しかった。それに純粋な人だったわね。あなたの希望に沿えなくて残念だけど、まぁ、一般的な甘くてほろ苦い青春の思い出ってところかしら」

「でも、結局別れたんだろ?」葉は手元に落ちていた石を拾い上げ、それを海に向かって投げながら言った。

「それは仕方ないわよ。大学は別々だったし、それに私たちの関係ってなんて言うか……あんまり親し過ぎるような感じじゃなかったの。そんなにベタベタしなかったし、所謂、清い交際、ってやつよ」

「だから大学に進学すると同時に、そんなに仲良くなかったクラスメイトみたいな感じで別れたわけか」

「べつにそこまでじゃないわ。それに正確には別れたのは大学に入る直前だったから、たまたま、タイミング的に他のクラスメイトみたくさらっと疎遠になっただけで……でも、それの何が悪いの? 確かに、味気ないし、ちょっと冷めた関係みたいだけど……」

「「ちょっと」じゃないだろ。「だいぶ」だ」

「……でも、後腐れなくて清々しいじゃない。それに一緒にいて私はちゃんと幸せだったわ。物足りなさみたいなのもあったにはあったけれどね。ていうか、あなた、さっきからだいぶ不機嫌な感じだけれど、もしかしてお兄さんのこと嫌いなの? 何か気に喰わないところでもあるの?」

「あぁ、全部気に喰わないね。あんたはそう思わないかもしれないけど、少なくとも、俺はあいつと二十年近くも一緒に暮らしてきていつも嫌な思いをしてたけどな。あいつを好きになるなんて、あんたは俺の両親と同じで変わりもんだよ」

「変わり者はあなたの方だと思うけど」

 そこから二人はしばらくの間、沈黙の中でお互いを睨みつけていた。あまり良くない雰囲気が廃墟に立ち込め始めていたけれど、波の音はどこまでも清らかで、不思議と険悪な沈黙はいつまでも続かなかった。葉の方が先に視線を外し、短い溜息を漏らしながら口を開く。「で、あんたは何しにこんなとこまで?」葉は海織の持っている三脚やら何やらをちらりと見やる。「絵でも描きに来たのか?」

「そうね。大学の課題なのよ」

「へぇ、そうか。でも、珍しいな、こんな何にもない世界の終わりみたいなとこまで来るなんて。近頃の美大生ってのは皆キャンバス背負って瓦礫の山を昇ったりすんのか」

「普通の人は教室とかで描くんじゃない?」

「部屋ん中で風景画なんて描けんのかよ」

「風景画を描く人は少ないの。皆、抽象画やらなんやら、よく分からないの描いてるわね」

「あんただけ流行遅れの風景画の練習ってわけか。写真撮った方が早いだろうに」

「別に流行とかそんなの関係無いわ。それに写真と絵は全然別物よ。私はただ綺麗なものが描きたいの。周りの皆が奇を衒ったみたいにしてやってるようなものは、もうウンザリだわ」海織は眉間に皺を寄せながら言う。そして大きく息を吐き出すと、荷物を全部コンクリートの床の上に置いた。麦わら帽子が海風で飛ばされないように三脚の脚の下に縁の部分を差し込む。

「周りの人間がやってるようなの、っていったいどういうやつなんだ? 周りの人間は綺麗なものを描いてないのかよ」

「そうね。どちらかと言えば、なんていうかな……大抵が独善的で、自尊心とか自己陶酔とか、そういうものの具現化でしかないような気がするのよ。あとは、課題だからとりあえずちゃっちゃと終わらせよう、みたいな芸術でも何でもない代物よ」

「難しい言葉はわからないけどね。まぁ、でも俺からしたら、そんな重たそうなものを担いで、この陽射しの中をこんなとこまで歩いて来るなんていう、あんたの方がどうかしてると思うけどな。馬鹿か狂った人間にしかそんなことはできないよ。少なくとも、聡明でセンスのある人間はそんなことはしないね」

「あなたに何がわかるのよ。私は誰よりもまともだわ。こんな綺麗な景色があるんだから、それを見ながら描いた方が、あんな狭っ苦しい教室で描くよりも良い絵ができるに決まってるじゃない。それをしようとしないボンクラこそ狂ってるわ」

「そんなもんかね」

「そうよ。だいたいあなたこそ、なんでこんなところにいるの? 荷物が見当たらないけど、まさか散歩でこんなとこまで来たっていうわけじゃないでしょう?」

 海織の問いに葉は小さく笑うと、そこからゆっくりと立ち上がって、この廃墟の天井を支える柱へと近づいて行った。海織はその立った時の姿を見て、やはり自分が高校生の時に付き合っていた彼そのものではないか、という風に感じていた。髪型や雰囲気は変わっていたが、背格好がそっくりなのだ。海織に見つめられながら、葉はその柱の影から一冊の小さな本を取り出した。親指と中指で背の部分を挟み込み、それを自慢げに海織に見せつけながら口を開く。

「散歩、兼、読書だ」

 海織は呆れたように両手を腰に置いて、横目で葉のことを見やった。「それ、本気で言ってるの?」

「わざわざ、まず来ないと思われる客人の為に冗談を仕込んでおくほど俺も暇じゃない」

「……本当にただの散歩と読書の為にここまで来たの? 何か別の目的があるんじゃないの?」

「別の目的、って例えば?」

「……それこそ写真を撮るとか」

「あのね、俺はわざわざ独創的かつ芸術的な写真を撮るためにこんなところに来るほど馬鹿じゃない。こんな荒廃した景色を撮って何になるって言うんだ? あんたらみたいな都会育ちにとってはこういう光景は物珍しく見えるかもしれないけど、こんな景色、世の中にはいくらだってあるぜ? 多分、知らないのはあんたくらいのもんさ」

「あなたも悠くんの弟なら都会育ちでしょう?」海織は額の汗を拭い、前髪を整えながら言う。「それにここからの景色は綺麗よ。世界的にはありきたりなものなのかもしれないけど、少なくとも安っぽくて下らないモダンアートに取り囲まれたありきたりな街角よりもよほど綺麗」

「それはどうだろうな。この廃墟を見てみればわかると思うけど、こんなもん人間の愚かさのモニュメントみたいなものじゃないか。勝手にこんな無機質な物建てまくって、そんでちょっと住みづらくなったからって、自分達が建てたものほったらかして皆出て行ったんだ。糞した後にそのまま立ち去る動物と一緒さ」

「そうかもしれないわね。でも、たとえ比喩でもそういう汚い言葉を使わないでくれる? あなたのそういうところ、お兄さんは嫌ってたんじゃない?」

「さぁな。あいつは俺のどういう部分が嫌い、とかは言ってなかったからなぁ。でも、間違いないのは、俺が「糞」とか言わなくなっても、兄貴は俺のこと好きにならないってことだ。あの糞野郎め」

「はぁ。あなたって本当に学習能力がないのね。正直、見てくれはとってもお兄さんそっくりだったから、私、ずっと悠くんにからかわれてるだけじゃないのか、って思ってたけど、どうやらそうじゃないようね、葉くん?」

「その通り。存在しない弟を作り上げて元カノをからかう、か。まぁ、たしかにあいつがやりそうなことだ。事実、俺は小学生のとき、三日ばかしの間、あいつの他にあともう一人兄貴がいるって思い込んでた時期があったよ。あいつに騙されてな。俺がその是非を母さんに問うたら、母さん、顔を真っ青にして父さんのところに駆けてったよ。それで隠し子がいるとかいないとかで結構揉めちゃったな」

「ふふふ、悠くんはお母さんも騙したのね」

「なんで嬉しそうなんだよ、あんた」

 葉は呆れたように柱に寄り掛かって、本の栞を挟んでいた箇所を開き、集中して読むでもなく、そのページの文字の織りなす不可解な図形を眺めた。その時、急な突風が廃墟の中に吹き込み、ページがパラパラと捲れていく。葉は栞を取ってしまったことを後悔しながら、チッと舌打ちをかました。

「あなた、今いくつなの?」海織は風に舞った髪を整えながら、葉に尋ねる。

「おい、俺の質問は無視かよ」

「なぁに、質問って?」

「はぁ。もういいよ。代わりに俺があんたの質問に答えてやろう。俺はこの間の五月で三十六になったよ」

「冗談言わないでよ。私と悠くんがまだ二十二歳なのに、弟のあなたが三十六になるわけないでしょ」

「じゃぁ、俺の方が兄貴ってことなのかもしれないな。畜生、あいつずっと兄貴面しやがって」

「ふふふ、あなたもお兄さんに似て面白い冗談言うわね。幾分か言葉は汚いけど」

「はぁ? あんなやつと似てるとかそれこそ冗談きついぜ。俺はあいつに似ないようにこれまで努力して生きて来たんだ。あいつと似てる、なんてことがあったら俺は今すぐにでもここから飛び降りて海の藻屑になってやるよ」葉は喋りながら、柱を離れ、壁の無い壁際まで歩いて行った。「おい、突き飛ばすなら今がチャンスだぜ?」

「別に突き飛ばしたりはしないわよ。死ぬなら、勝手に死んでちょうだい」

「冷たいんだな」葉は笑うと、右足を上げてそれを崖の向うに伸ばしてみせた。青い背景にほんのりと日焼けした意外とがっしりしている脚が重なる。

「ちょっと、危ないでしょ!」海織は慌てて駆け寄って、葉の来ていたTシャツの裾を引っ張る。その時、急な突風が下から吹き上げて来て、二人はバランスを崩しながら部屋の中央あたりまでよろめいて行った。海織はどすんと尻餅をついて、ケラケラと笑っている葉に向かって「ここであなたが落ちたら、まず私が疑われちゃうじゃない」と弾む心臓を抑えつけながら叫んだ。そこでまた葉が子供っぽくケラケラと笑う。「何がそんなにおかしいのよ」

「いやね、今のあんたの台詞、どっかで聞いたことあるな、って思って」

「はぁ?」

「だから、「私が疑われちゃうじゃない」ってやつ。思わず助けちまったイジメられっ子に「別にあんたの為じゃないし。あんたが死んだらクラスの雰囲気が悪くなると思ったから助けたのよ」みたいな台詞。よくあるじゃないか、わかるだろ?」

「わからないわよ。ていうかね、私、自殺しようとする人とか、本当に嫌いなの。まるで、自分さえ死んでしまえばあとはどうでもいい、みたいな感じでしょ。無責任すぎると思わない? 死体が残る自殺方法だったら、死体の処理はどうするんだ、って話だし。死体が残らない方法でも、たとえば、今こっから飛び降りるとかね。そういう方法だと、あなたを知ってる人は何日間も行方不明のあなたを探す羽目になるわ。それに、どっちにしたって残された側は自殺した原因はなんだろう、って頭を悩ませることになるのよ。あなた達腰抜けが思っているよりも、「死」ってものは大きいんだから」

「まぁ、一理あるな。あんたの有り難い説法の前半部分には俺も納得だね」

「それは後半部分には反対だってこと?」

「そうだな。二種類の反論があるな。まず、一つ目は、あんたのその説法は自殺したいと思ってる人間には通用しない、ってことだな。他人がどうなるか気になってるような奴は最初っから自殺なんてできないよ。自殺しようとするやつは、とりあえず目の前の絶望から逃げたいだけなんだ。そんな奴がさっきのあんたの話を聞いたら、自分勝手に曲解して、余計絶望に囚われるだけさ。何よりも「腰抜け」って言葉はいただけない。俺が本当に自殺志願者だったら、「死ぬのにも勇気がいるんだ」なんて叫びながらこっから一直線に飛んでったと思うね。そして二つ目はな、「死」なんかべつに大きくはない、ってことだよ。「死」が大きいものだ、なんて後に残される側の勝手な理屈だな。別に「命を軽々しく扱え」ってわけじゃないけどさ。かといって、何よりも尊いもの、ってわけでもない。そもそも物事に大小なんてものは存在しないんだよ。平和だろうが、宇宙だろうが、ダンゴムシだろうが、スプーンだろうが、結局は全部粒子の集合体でしかない。学校で習っただろう、「すいへいりーべー」だかなんだか、そういうやつを。細かく見ていけば、もっと違うこともあるのかもしれないけど、所詮、そういった粒の一時的な集まりが全てなんだ。だから、俺の右手とこの廃墟の埃との間に境界なんてものは存在しないだろうし、俺と海を隔てるものも無い。それをさも人間様の命だけは特別だ、みたいな考え方は古い宗教の名残でしかないね。まぁ、俺の考え方も「科学」っていう宗教から来てるものだとは思うけどさ。だからさ、結局のところ残される側の人間ってのは「死」っていうものについて、その本質を知りたくはないんだ。「死」を考えるということはつまり「生」を考えるってことだ。もし、「死」や「生」ってやつが空虚なもので、色んなものと等価値でしかない、なんて答に行きついたとしたら、俺みたいな考え方を知らない人間からしたら、それは結構恐ろしいものだろう? それに、誰かが死んだら悲しい、っていうステレオタイプの反応も「死」を重く見る原因だろうな。悲しい思いをしたくないから、「死」ってものを祀り上げてる。実際、その悲しみなんてものは単なる喪失感にしか過ぎないってのに。若い頃からヘアスタイルを気にしていた中年が鏡に映る薄くなった頭を見て思う感情と同じだな。自分の生活や記憶の中で重要な位置を占めるものが無くなる喪失感ってのは誰にも耐えがたいものだろう。それは誰か人間のようなものであるかもしれないし、昔の恋人の写真とかそういう具体的な物かもしれないし、自分の行動原理である信念のようなものかもしれない。どれも各個人にとっては重要であるかもしれないけど、絶対的な客観性の中において重要度が設定されているわけじゃない。だから、命は大切だ、とか、想い出は大切だ、とか、信念は大切だ、とか、一般的にそういうふうに持て囃されてるものも突き詰めれば等価値でしかない。つまり、個人的なものなんだよ。そういう全てのものが。だから、「死」を軽々しく考えるな、ってのはその自殺志願者の周りで生きてる奴らの勝手な理屈だよ。自分が大切だと思ってる「命」ってものを、他人にも軽々しく取り扱ってはほしくない、っていう単なる願望さ。それをこれから死のうとしてる人間に向かって叫んだって、死ぬ側にしてみれば「勝手な事言ってんじゃねぇ」って話さ」

 葉は喋り疲れたみたいに溜息をつきながらその場に腰を下ろした。尻餅をついたままコンクリートの上に座り続けていた海織は「随分、お喋りなのね」と呟いたが、葉はそれを無視したまましばらく黙って意味も無く頬を掻いてたりしていた。海織も所在なさそうに波の音を聞いていたが、ふと、自分の手が今にも葉の腿に触れそうなくらい近づいているということに気が付くと、特に言葉を発するでもなくその場から立ち上がる。そして、スカートの尻についた埃を手で払ってから画材を置いたところまで歩いて行った。

「どうして自殺の話になんかなったんだっけな」葉が力無い言葉を発する。

「あなたが急にそこから飛び降りようとしたりするからでしょ」

「そうだったけな」片膝を立ててそこに体重をかけるようにしていた葉は、急にその体勢に飽きてしまったかのように、今度は天井を見上げるようにしてコンクリートの床の上に寝転がった。砂埃がそこら中に散布されたような床だったから、決して清潔とは言えなかったが、彼はまるで気にしていないようだ。「絵、描くのか?」

「そうよ。そのために来たんだもの」

 海織は三脚を立て、キャンバスを包装していた布を取り外すと、それを三脚の上に乗っけた。「留め具」を失った麦わら帽子は風でふわりと部屋の奥へと流されて、四隅の所で壁にぶつかり、そのまま地面に落ちた。海織はその帽子をしばらくの間見つめてから、あそこならもう風で飛ばされることも無いだろう、と判断すると、それからリュックの中から小さなペンケースを取り出す。

「うそ……全部、折れてる」

 それは海織の独り言みたいなもので、声は波の音にその意味を消されるくらい小さかった。葉はその意味を失った音が気になったようで、ちらりと海織の方を見やったが、その言葉が自分に向かって発せられたものでないことがわかると、また天井に視線を戻した。海織はペンケースから取り出した全て芯の先の折れた三本の鉛筆のうち二本をまたペンケースの中に戻した。手元に残った一本を左手の指の間に挟みながら、またリュックの中に右手を突っ込み、しばらく指先の感触だけを頼りに何かを探している。葉はそのガサゴソという物音にまた海織の方が気になったようで、彼女の皺の寄った眉間や、風に揺れる栗色の毛先や白いロングスカートの裾を眺めていた。

 海織は雑然としたリュックの中からカッターナイフを見つけると、そのカバーを取り外し、銀色の刃先の光り具合を確かめる。刃で反射した柔らかい光がコンクリートの上に、小動物が戯れているような陽だまりをちらちらと映している。

「それで俺を刺すつもりか?」

「死体の処理の仕方を思いついたらね」

「海に落とせばいいだろう?」

「ダメよ。どこかの岸に上がっても困るし、船に吊り上げられても困るしね。海に捨てるにしても、一回きちんとバラバラにしないと」海織は悪戯な笑みを浮かべながら、右手に持ったカッターナイフを葉に振って見せた。それから近くの柱に身体を持たせかけながら、芯の折れた鉛筆の先を削り始める。

「俺は絵のことってあんまり知らないんだが、風景画を描くときってのは鉛筆で下絵を描くもんなのか?」

「普通は描かないんじゃないかしら。それに、私も下絵を描くつもりで鉛筆を削ってるわけじゃないわ。本格的に描き始める前に一回簡単なスケッチを描いておきたいの。油絵ってすごく感覚的な表現ができるけど、鉛筆のデッサンには写実性が求められるでしょ? だから物質の性質みたいなものを把握するのにとっても便利なのよ。雲はこういう感じで、波はこういう感じ、みたいな。もちろん、全部感性に任せて描いてみるのも刺激的だとは思うけど、私は自分を表現するとかそういうことよりは、今は綺麗なものを描きたい気分なの。だから、絵に深みを持たせるためには大事な工程だと思うのよ」慣れた手つきで鉛筆を削りながら海織が言う。どこか得意気な面持ちだが、葉の興味深げな視線に気が付くと唇を真っ直ぐ結び直した。

「結構真剣なんだな」

「当たり前でしょ。美大の卒業証書が欲しくて美大に通ってるわけじゃないわ」

「将来は絵で食べてくつもりなのかよ」

「できることなら、ね。もちろん、そんな簡単に絵で食べていけるなんて思ってないわ。純粋な、自分の描きたいことだけを描いて食べていくのはさすがに不可能だと思うし……そりゃぁ、絵を描いて食べていくんだとしても下らない広告のデザインだとか、そういう仕事が基本にはなるでしょう。でも、自分の納得できる素敵な絵を描いて、それを誰かに気に入ってもらえるような仕事が百回に一回でもできるなら、私は画家になりたいわ」海織はそう喋っている間もずっと鉛筆の先を削り続けていた。しかし、どうやら鉛筆の芯の損傷は想像よりも激しかったらしく、良い感じに形が整ってきたところで芯が根元の辺りからぽろっと取れてしまった。彼女は映画の役者のように露骨に肩を落とし、溜息を浮かべると、少々苛立ちながらもまた芯を削る作業に取り掛かった。「もちろん、願いは画家になることだけれどね。それでなかったら、さっさとお金持ちと結婚して優雅な生活を送りながら自由気ままに絵を描いていく、っていうプランもあるにはあるのよ。そんな「妻としての仕事の片手間」みたいな描き方で良いものができる気はしないけれど、それでも絵の無い生活よりはマシね。まぁ、当分はその選択肢に飛びつくようなことはするつもりないけど……あのね、あなたはそうは思わないかもしれないけど、私って意外とモテるのよ。だから、結婚しようと思えば多分できちゃうはずよ。でもね、そんな水みたいにただ低い所に流れていくようなものの決め方はまだ嫌なの。両親には画家なんてやめてさっさと結婚しろ、みたいに言われるけどね。女の幸せは結婚の先にある、みたいなこととかさ。でもね、私は幸せになりたいから絵を描いてるわけじゃないの。それに幸せになりたいから生きているわけでもない。素敵な奥さんになってご亭主に大事にしてもらいたいわけでも、子供の為にあちこち走り回りたいわけでも、微笑ましい家族写真を棚の上に飾りたいわけでもないのよ。もちろん、何も考えずにそんな幸せを受け入れられたらいいな、って思う時もあるわよ。でも、私、まだそんな怪物みたいに恐ろしいものとは正面切って向き合えないわ。きっとそんな幸せを受け入れてしまったら、今の私の中の絵に対する情熱みたいなものは消えていってしまう。せっかく私の中に灯り始めたものだもの。まだ失いたくはないわ。その火が決して消えないくらい大きくなるまで、若しくはすっかり消え去ってしまうまでは、薪をくべ続けてみたいのよ。こういう感覚って、あなたわかるかしら?」

 海織が葉に質問を投げかけた時には海織の手はすっかりと仕事をやめてしまっていた。カッターナイフの先に引っ掛かっていた木屑が柔らかな風で吹き飛ばされる。

「随分とお喋りなんだな」葉は負けず嫌いな子供がするように、得意気な表情を浮かべながらさっきのお返しと言わんばかりにそう返した。視線は天井に注がれたままだ。それからちらっと振り返り、海織の不機嫌そうな顔を見つけると、追い打ちをかけるように「知ってるか? あんたと俺は初対面なんだぜ」と半笑い気味に言う。そして海織の反応も見ぬまま、また天井に視線を戻した。

「知ってるわよ。だいたい、あなただってさっき初対面の私に向かって自分勝手な自殺論を語ってくれたじゃない。今時いないわよ、そうやって自分の持論を得意気に披露する目立ちたがり屋の男って」海織は床に寝転がっている葉に向かって言い放ったが、葉の方は口角を上げて鼻を鳴らすばかりで、目を合わせようともしない。海織は葉の反論が出てくるのを待ってみたけれど、返ってくる気配が無いので仕方なく言葉を続ける。「まぁ、私も他人のことを言えないってのはわかってるけど。でも、私はあなたのお兄さんと仲良くしてたわけだし、それにあなたはまるで虫に集られてるみたいに嫌がると思うけど、あなたやっぱり悠くんにそっくり。あなたが汚い言葉も吐きもせずに黙ったまんまだと、つい、昔の知り合いを相手にしてるみたいに話しちゃうのよ」

「俺が兄貴と似てるからつい喋っちゃう、ねぇ……まぁ、百歩譲って俺と兄貴が似ているとしても、あんた、俺の兄貴とそんな腹の内をぶちまけるような会話なんてしたこと無かったろう?」

「そんなこと、なんであなたにわかるのよ」

「わかるさ。俺も不本意だけれど、これでも兄貴のことは結構よく理解してるつもりなんだ。だからな、兄貴がそんな真剣っぽい話に興味がないことくらい知ってるんだよ。もし、こっちが少しでも真剣そうなそぶりを見せたら、あいつは「へぇ、そっか」なんて眉を下げて深刻そうな面で頷きながらも、内心では「こいつ痛々しいな」とか「必至かよ」みたいなことを考え始めるような奴なんだ、あいつは。きっと真剣になったことなんて一度もないんだろうし、それには、まぁ、同情もするけどさ。にしてもあいつほど他人の心がわからない奴を俺は知らないね。ま、俺も他人の心がわかるような優しい人間ではないけどさ。それともあんたはそんな兄貴の本質に気が付いていなかったのか? 兄貴の糞みたいな本質には気が付かないで、ベラベラとさっきみたいな演説をかましちゃって、それで兄貴に引かれて捨てられたとかそういう訳じゃないよな」

「違うわよ。私たちがダメになった理由はそういうんじゃないの。まぁ、でも、悔しいけどあなたの言う通りね。私は悠くんに向かって夢を語ったり、自分の価値観みたいなのをひけらかしたりしたことは無かったわね。けど、それは悠くんだけが悪いっていうわけじゃないわ。あの時は私もまだ子供だったし、自分の中に確固たる考え方みたいなものはなかった。それは悠くんも同じで、だからこそ必然的に私たちの間にそういうのが無かっただけよ。それに、悠くんだけがそういう「真剣になることを知らない」人間ではないでしょう? 今の世の中、そういう人間が多いんじゃないかしら。まぁ、たとえちゃんと信念を持って生きてる人がいても、そういうことを声高に叫んだりする人間は、今の世の中じゃ影でクスクス笑われる対象よね。事実、あなたもさっき私のこと馬鹿にしたような雰囲気だったし」

「それは悪かったよ。ただ単純に、あんたが言う「今の世の中」風のリアクションを取ってみたかっただけさ。別にあんたを貶めようとか、そういうつもりはないよ。ちょいとからかっただけ。つまりコミュニケーションの一種だな」

「随分と挑発的なコミュニケーション方法ね。そんなんじゃ、あなた社会に出て誰ともコミュニケーションなんて取れないわよ」

「大きなお世話だね。俺はちゃんと場の空気に合わせてこういう態度を取ってるだけだよ。さっきまで攻撃的な口調だった奴が、変にしおらしくしても気持ち悪いだけだろう。だいたい俺とあんたは初対面なのに、最初から険悪な感じだったじゃないか」

「あなたの言葉遣いがいけないのよ。あなた、私に会った瞬間になんて言ったか覚えてる?」

「さぁね。俺はニワトリよりも記憶力が悪くってね。あいつらは三歩分も記憶が保つけど、俺はたった二歩分しか記憶が保たないんだ。まったく、ニワトリ様には畏敬の念を抱くよ」

「あらそう、じゃぁ、私が教えてあげるわよ。あなた、私の顔を睨んで「誰、あんた?」って言ったのよ。あなたにしてみれば初対面の相手よ? だいたい、今でも私のこと「あんた」って言ってるし。仮にも私はあなたより年上なのよ。失礼だと思わない?」

「悪かったな。礼節なんて授業を俺は義務教育で習って来なかったんだ。文句があるなら国か時代にでも言ってくれ」

「はぁ、ほんと呆れたもんね」海織はまさに呆れたような仕草で以って、汚い床に寝転び続ける葉の姿を見下ろし続けていた。そしてふとやるべきことを思い出したように、鉛筆の芯を削る作業を再開した。余裕そうな表情を浮かべている葉に、海織は何かを言ってやりたいような気分ではあったけれど、良い皮肉も思いつかず、仕方なく鉛筆を削り続ける。

 太陽はまだ高く、廃墟の中にはまだ濃密な影が垂れ込めていたけれど、波が一つ、二つと押し寄せては返していく度に徐々にその色味は薄まっていき、空の端は青から白、そして薄い黄色へと移り変わっていく。風だけは不定期に建物の中に吹き込み、優秀な家政婦のように良き折に海織の足元に落ちた鉛筆の乾いた木の皮をさらっていく。波の音と鉛筆を削る音。葉も海織に向かって何かを言ってやろうか、と一度彼女の方に視線を流してはみたものの、特にこれといった言葉も出てこなかったので、手元の文庫本を寝転がったまま広げて文字を眺め出した。が、横になったままでは文字が影に飲み込まれてうまく判別できないことに気が付くと、そのまま本を顔の上に開いたまま置いて、目隠し代わりに使った。手は頭の後ろで組んで枕代わりにする。

 しばらくして海織は鉛筆を削り終わると、小さめのスケッチブックをリュックから取り出し、葉がさっき身を乗り出しかけた辺りまで行った。空とコンクリートの境界線ギリギリまで行くには多少勇気が必要だったが、大抵の場合と同じように好奇心は恐怖心に勝る。深く息を吸い込むと、潮の匂いに混じって空から降り注ぐ夏の香を感じる。心地よい風が汗の滲んでいた首筋を撫でていく。海織は葉の顔に文庫本が乗っかったままであることを確認してからしばらくの間、そこで宗教的儀式に興じる僧侶のように、自分の身体を包み込むものの存在を感じていた。小指の先から睫毛の先まで神経を集中させ、描くべき情景を思い浮かべる。

 公式の型には少々準じていない瞑想を終えると、海織はその場に座り込み、スケッチブックの新しいページを開いて、一枚の絵を描くというよりは、波であったり海岸線であったり雲であったり、そういった絵のパーツにあたる部分を一つ一つ丁寧に陰影をつけながら描き出していく。最後に三脚の位置まで戻り、この崩れかけのコンクリートの部屋の内装をデッサンした。床に寝転ぶ葉の姿は省こうかどうするか少し考え、せっかくなので描くことにする。葉は自分がデッサンの対象になっていることも知らず、机の上に置かれた孤独な花瓶のように見事に被写体の役割をこなした。およそ一時間くらいだろうか。海織はそんな風に紙の上に濃淡の色鮮やかな鉛の線を走らせていた。

 

 太陽が傾き、廃墟の中に少しずつ光が侵食してくる。海織がデッサンを始めた時には部屋の西側を縁取るくらいだったのが、今ではコンクリートに寝転がった葉の踝辺りを埃っぽい光が温めている。逞しいとは言えずとも健康的な足首だった。海織は最後にその光の当たった足首を新しいページに簡単にデッサンし、それが終わるとスケッチブックを三脚の下に置いた。海織がリュックの中から絵の具と筆を取り出し、いよいよ本格的に絵を描こうかというところで、定められた時刻に動き出す機械のように、葉が横たえていた身体を起こす。文庫本は顔の上から右腿の上に落下し、その衝撃でページが閉ざされるとそのまま埃っぽい床の上に鎮座した。葉は眩しげに目を擦りながら、自らの足首に刻まれた光と影の境界線をじっと見つめる。

「どれくらい寝てた?」葉は海織の方に開き切っていない目を向け粗雑に言い放った。「まさか、一日経ったとか言わないよな」

「あなた凄いわね。隣に初対面の人間がナイフ持って突っ立ってたっていうのにぐっすりと寝られるなんて。それも何の断りもなしに。そんなことできるのはロッキーくらい度胸のある人間か、愚か者よ」

「ロッキーって誰だよ」

「昔の映画よ」海織は自分が言い放った「愚か者」という言葉が葉に響いていないと感じると若干不服そうな面持ちでそう言った。「でもやっぱり、ロッキーなんてあなたには勿体ないくらいね、愚かしき者よ」

「まぁ、好きに言えばいいけどさ。ところで、俺の質問に答えてくれるか? 俺はどれくらい寝てたんだ?」

「さぁね。私、時計持ってないし、時間のことなんてさっぱり。まぁ、でもだいたい一時間くらいかしらね。結構真剣にデッサンしてたからあんまり時間の感覚がないんだけど」

「一時間か」葉は寝ている間に変な癖のついた前髪を右手でくしゃくしゃに掻き毟った。それから鼻の先と目の下に浮き出た油をTシャツの裾で拭う。それが自分の思っていたよりも大量のものだったからなのか、軽く舌打ちをかますと落ちていた文庫本を拾い上げページをパラパラと捲った。「あぁ、くそ、失敗した」とぶつぶつ呟きながら今度は後頭部を掻き毟る。「本が台無しだ」

「別に私のせいじゃないわよ」

「わかってるよ。別にあんたのせいだなんて言ってないだろう。ったく、何で体動かしてないのに寝てる間に汗が出るんだろうな。理不尽な世の中だよ」

「世の中は関係ないでしょ。ちなみに、寝てる間は身体を動かす必要が無いから、体温を下げようとして寝汗をかくらしいわよ。高校の生物の時間に先生が言ってなかった?」

「そんなこと習わなかったね。だいたい「セイブツ」っていう科目名が悪いよな。「イキモノ」ってしてくれれば、まだ親しみが持てるんだけどな」

「あはは。たしかに小学生みたいな子供にはウケが良さそうね」海織は皮肉の手応えを確かめるために葉の表情を窺ったけれど、寝起きの葉には自分の聞きたいと思ったこと以外の情報は耳に入って来ないらしく、独り残念そうに、ページとページの間に汗の痕がついた手元の本を見下ろしていた。「ねぇ、その本、なんていうの?」

「別に大したことないよ、こんな本。当たり前のことが当たり前に書かれてるだけだ。学校の教科書よりも簡潔かつ的を射ている普通の本」

「誰が書いたの?」

「さぁね。まぁ、幸運なことに人間が書いた本だよ」

「当たり前でしょう。猿が書いたなんて言われても信じられないもの」

「ふん、猿だったらまだマシだね。世の中には指人形みたいな空っぽの人間が書いた文章が溢れてる。いや、まぁ、本を書くだけまだ豆くらいの中身はあんのかもしれないけどさ。少なくとも俺の兄貴は本なんて書けなかっただろうからな」

「なんでそこで悠くんが出てくるのよ」

 怪訝そうな顔を向ける海織から葉は本のページに視線を移すと、顔の脂が浸みこんでしまったページをTシャツの裾で軽く撫でながら首を傾げた。何か言葉を言いかけて口を開いたが、やはり思い直して口を閉ざす。しかし、思い直して今度は少し言い淀む感じで小さく口を開いた。

「あいつはな、まさに指人形みたいな空っぽ人間だったんだよ」

「だから、なんでそんなことを今持ち出すのよ。あなたそんなに悠くんのことが嫌いなの? 実のお兄さんなのに?」

「実の兄貴だからムカつくのさ。空っぽの人間の生態ついて考察しているとな、それと同時にあいつのことを思い出すくらいムカつくんだ。あいつは空っぽのくせして偉そうなことペラペラ喋りやがるし、何よりも自分が空っぽだってことに気がつこうとすらしないんだ。いつだって勉強ができて言葉が達者な自分が得意なんだ。あいつはとにかく自尊心を喰らって生きてるような奴なんだよ。他人から褒められるような、憧れられるようなことなら何だって器用にこなしてた。能力をひけらかして常に自分より愚かに見える人間を探して、そんでもってそういうやつらを見下して生きてきやがったんだ。ずっとな。自分こそが本物の空っぽの愚か者だってことにも気が付きもしねぇでさ。自信たっぷり、裸の王様まっしぐら。そのくせ謙虚で心の優しい人間の仮面をずっと被ってたんだ。まぁ、あいつの周りの人間は……そう、あんたも含めてだな。あいつのその馬鹿みたいに薄っぺらい仮面には気づきもしなかったけどな。でも、まぁ、何人かは気が付いていたと俺は信じたいよ。そうじゃなかったら、俺が独り狂ってるみたいになる」

「悠くんのことはともかく、あなた、やっぱりおかしいわよ。そんなにお兄さんのこと嫌いになれるなんて。それに、独りで何の目的も無くこんなところまで来てるくらいだもの」

「あんただって同じようなもんだろ」

「私には絵を描くっていう目的があるわ。「読書と散歩のためにこんなところまでやってきました」なんて馬鹿げたこと言うあなたとは違うのよ」

「俺だって絵が描けたら三脚とキャンバスを担いで来たさ。まぁ、来るにしても季節は選んだと思うけどね。この糞暑い中、大袈裟な荷物背負って瓦礫の山を越えてくるようなあんたの方が狂ってるね」

「はぁ……まぁ、この際、私が狂っていようとあなたが狂っていようと、そんなことはどうでもいいわ。それにあなたのお兄さん、つまり悠くんが器用貧乏だってことも認めても良いわ。でも――」

「器用貧乏だって?」葉は半分呆れ返ったような笑いを口の端に湛えながら海織を睨みつけた。

「そうよ。悠くんは確かに何でも器用にこなせちゃう人で、その分真剣になる機会は少なかったと思うわ。でも、素直だし真面目だったと思う。反対に、私はそんな風には思わないけれど、あなたの言うように内心では人を馬鹿にしてる部分もあったのかもしれない。でも、そういうのは極力表に出さないように気を配っていたわ。謙虚であろう、優しくあろうって努力していたと思う」

「はっ、それは違うね。あいつは薄々気づいてたんだよ、自分が薄っぺらい人間だってことにさ。なのに、それを受け入れもせず、とにかく自分の空っぽさを見抜かれないように必死になって良い人のフリをしていただけさ。それは「良い人になろう」なんていう理想に向けたポジティブな思想なんかじゃない。自分を正当化したまま逃げ切ってやろうっていうみっともない浅はかな計略みたいなもんさ。結局、あんたもそんな兄貴に騙されてたってわけか。ほんと同情するね」

「ねぇ、あなた悠くんと何かあったの? どうしてそこまで自分のお兄さんのことを嫌いになれるのかしら。あなたがそうなる経緯を知らない私にとっては、あなたのその怨念みたいな行き過ぎた嫌悪感は理解不能よ」

「別に何にもないさ」葉は海織から視線を外し、太陽の光を受けてガラス細工のように光る水面を眺めた。気が付けば、太陽がいよいよ今日の降下曲線の進路を決定し始めるような時刻だ。「あいつと一緒に生活してただけだよ」そう小さく呟くと、立ち上がり、ゆっくりと歩きだし、部屋の三分の一ほどにまで広がった日向の中へと入って行った。葉の身体の周りでは空中に舞っている塵が金色に輝いている。あまり濃くはない腕の毛も金色に染められ、軽く日焼けした身体には健康そうな青年の生気が宿っているように見える。しかし、そんな輝く陽光に照らされた葉の裏側には、明確な縁取りは叶わぬ仄暗い影が浮き出ていた。海織は葉の漏らした「生活してただけ」という言葉の意味を脳の中で解読させながら、目ではその瞬間、瞬間の塵の舞い方や、陽を受ける頬骨の明るさや、風に揺れる影のコントラストを画家のそれで仔細に捉えていた。不意に湧き上がる制作意欲に利き手の人差し指がぴくりと跳ねる。が、生憎手には筆を持っていなかった。画材はまだ床の上に並べられているだけで、森の奥の岩石のようにひっそりと沈黙を守っている。葉はそんな海織とその道具たちの沈黙を感じ取ったのか、ふいに振り返ると「何だよ」と不満げな表情を海織に向けた。

「別に何でもないわよ」海織は葉から視線を逸らすと、床に並べた絵の具の内の何本かを手に取った。特に意味のない単なる誤魔化しの動作であったけれど、それまで海織の中で張りつめていた何かがその瞬間に消え失せる。ようやく正常を取り戻した身体が、脳の中で処理させていた言葉を発する。「ねぇ、本当にただ一緒に生活してただけで悠くんのこと嫌いになったの?」

 海織の問いかけに葉は少しの間黙り込んでしまったが、ふと最初の一言を口にすると、溢れるようにして次から次へと言葉が零れていく。

「別に暴力を振るわれたとか、言葉でけなされたとか、そういうことはない。あいつは寧ろ家でも優等生を気取ってて……って言っても勉強に励んでたわけじゃないが。まぁ、いつもの調子で気の利く天才を気取ってはいたな。おれの家でホームビデオを回したところで、よくいる粗雑で好感の持てる男が映るだけだな。あとは、親不孝で誰もが蔑みたくなるような俺が画面の端に時たま見切れるくらいか。まぁ、そんなわけだから、観察力の無い奴はきっと俺が勝手にできの良い兄貴に引け目を感じて捻くれてるようにしか思わないだろうな。確かに、そういう面も少なからずあると思うよ。認めてやるさ。でもな、おればっかり自分の非を認めなくちゃならないってのもおかしな話だろう? どっかの心温まるハッピーエンドストーリーみたいに、悪い老婆を殺してそれで終わりっていうのと同じさ。まともな話にしたけりゃな、たまにはお姫様も自分の愚かな点を箇条書きに黒板に書きだして、登場人物全員でそれについての意見交換をするくらいはやらなきゃダメだ。だからな、おれが兄貴のことを嫌いな理由は、あいつがそういうことを決してしようとしないとこなんだ。そりゃぁ、ぱっと見れば、あいつはそつなくお姫様役でも王子様役でもこなしている風に見えるだろう。でも、そもそも児童向け映画じゃないんだから、何から何までそいつの都合の良いようにストーリーだとか、現実の感情論を捻じ曲げることなんて無理なんだよ。製作費も製作期間も足りない単なるホームビデオだぜ。修正は効かないし、美しい装飾を施すことも不可能。あいつが如何に自分の都合の良いように話を進めて行ったとしても、おれからしたら、それであいつを非難しなくていい、という理由にはならない。一見、王子様に見えてもやってることが人殺しだったなら、おれはその点をきちんと弾劾してやりたいんだ。そしてできることなら、「あぁ、なんて素敵な王子様なのかしら」って腐った目ん玉をトロンとさせてる奴らの頭を片っ端から引っ叩いていってやりたいのさ。腕力には自信がないけど、あんたがその三脚を貸してくれるって言うなら、進んでその役を引き受けるぜ」

 海織は黙って葉の長い言葉を聞いていたが、苦々しい表情で自分を見つめる葉の視線に気が付くと、「まぁ、とりあえず、あなたが相当、悠くんのことを嫌っているのはわかったわ」と言葉をかけた。葉はその言葉に満足するべきか、それとも満足せざるべきか、心持ち今までよりも大人しい表情で考えていたが、結局、言うべきことは言ったはずだ、と自分に言い聞かせるようにして頷いた後、太陽の光から身を隠すように柱の所まで歩いて戻った。

 水平線と重なるようにして一群の雲が見える。海織はそんな風景を目の端に止めつつ絵を描く準備をしながらも、どこか落ち着かなげに葉の喋ったことを思い返していた。葉の言っていることに納得できたわけではなかった。が、共感しても良いと思える箇所もいくつかあった。ただ、葉の中には実の兄に対する必要以上の嫌悪感があることも感じており、そのことに対する違和感は、葉の弁解ともつかぬ言葉を聞いても決して拭えなかった。柱にもたれ掛かるようにしてしゃがんだ葉の横顔に浮かんでいる、怒りとも軽蔑と自己嫌悪ともつかぬ複雑な表情を見ていると、たとえ血の繋がっている相手だとしても、ただ一緒に生活しているだけの相手に対して感じることのできる嫌悪感をはるかに超えた何かがあるようにしか思えなかった。それは、こんな辺鄙な所まで来て兄を毒づいていることからも推測できることだった。海織自身が、どうしようもできない美術や自分自身の現状に対するストレスを、三脚やら画材やらと一緒に抱えながらここまでやって来たことと同じように。

 

 傾きかけている太陽が海織を焦らせる。絵の具を木製のパレットの上に何色かおいて、空の色を作った。それから海の色。どちらで水平線を象るか、海織はキャンバスと、パレットと、それからコンクリートのフレームから覗ける煌めく水平線とを見比べながら髪の毛を耳に掛ける。葉は柱の周りを落ち着かなげにうろうろと歩き回ったが、海織が絵の制作に取り掛かった様子を見ると、大人しくその場に座り込んで柱に背中をもたせ掛けた。それから、本を取り出し、ページを捲る。数行に目を走らせ、何とか物語の中に入り込もうとしてみたが、上唇の汗が気になったり、背中がかゆくなったり、どうにも文字に集中することができない。諦めて、ページの間に指を挟み込んだまま本を閉じ、ふと視線を上げた。部屋の隅っこで海織の麦わら帽子が風を受けてパタパタと震えている。随分と高度の落ちた太陽が投げかける陽光に、この崩壊しかけている一室は半分くらいまで浸食されてしまっているが、その麦わら帽子の一角にはまだ冷たい影が気の弱い子供みたいに怯えるようにして陣取っていた。海織は正面で仁王立ちしながら輝く海やら空やらに鋭い視線を向け、キャンバスに筆を走らせている。葉の座り込んでいる位置からはキャンバスの裏面しか見ることができなかったが、時折キャンバスの上空を彷徨うようにして震えている筆が海織の天からの声を聞いて、迷いなく白の上に一線を為す様子は窺えた。どんな絵が描かれているのか。葉は自分の指が本のページの間に挟まっていることも忘れ、海織と彼女のその指先に目を向ける。何かの拍子に目が合いそうになると、葉の方から視線を逸らした。そして、影に埋もれたコンクリートの破片のその形に興味を奪われたかのように振る舞う。海織はそんな葉の所作が時々気になったが、彼の目尻の歪んだ皺と唇の端が小刻みに震えるのを見て、声をかけるのを諦め、また絵の制作に戻る。キャンバスに向けて伸ばした右手の甲に温かな太陽の光が当たる。それが、今度は肘の辺りまで徐々に上がって来て、胸、肩、頬と段階的なタイムスリップをしているかのように、あっという間に海織を包み込んだ。葉の方はそんな光から逃げるようにして柱の影に隠れていたが、暗い影の中でカバーのかかった本の表紙を見下ろしているのか、それとも部屋の隅を見つめているのか、或いはただ眠っているだけなのか、海織の方からは判別ができない。憔悴しきっているようにも見えたし、何かを考え込んでいるようにも見えた。額に浮き出た汗の粒たちが互いに引かれ合い、一筋の線となって海織の鼻筋の脇を流れていく。気が付くと、全身汗だくで、肩から肘、そして手首にかけて確かな疲労感があった。海織は左手に持っていたパレットを一度床に置き、今一度、キャンバスに塗られた青を一歩引いたところから眺めてみた。まだ完成には程遠いが、絵の骨格のようなものはほとんど出来上がったように見える。全部思いのまま、というわけではないが、不完全な中にも、これは、と思えるような色合いが表現できている箇所もいくつかあった。これがまた明日などに見返してみた時に、その輝きを失っていなければ、と海織は祈るような思いで一仕事終えた後の一息を吐いた。

 空はいつの間にか青が霞み、白、それから黄色が太陽の周りから滲みだしている。海はそれとは対照的に、昼間に見たよりも深い色になっているのが不思議だった。風が出て来たのか、波の音もやや大きく聞こえ、もはや見慣れてしまったように思えたが、やはり圧巻たるどこまでも続く断崖絶壁の海岸線を白い泡が縁取っていた。そんな光景を眺めていると、また筆を取りたくなってくるが、どう考えても今日はこれ以上描くのは無理だった。正直言って、ここに来るまででなかなか疲労を溜めこんでしまっていたし、知恵の輪みたいな葉との会話と、感性をすり減らすようにして色を表現したせいで、今はもう立っているのもやっと、みたいな感じだった。海織はぷつんと糸が切れた操り人形みたいにその場に座り込んだ。その時になってようやく陽光の突き刺すような熱さと、吹き付ける風の荒々しさに気が付いた。風に千切られた雲がまるで特大の紙ふぶきのように淡い色合いの空の上に散らばっている。

「もう絵は描き終わったのか?」葉は海織の方に顔を向けて言う。今は二人の視線は同じ高さにあった。

「そうね。今日はもう終わりかしら」海織はスカートの裾を少し気にしながら答える。「こう見えてね、絵を描くのって結構疲れるのよ」

「ずっと立ちっぱなしだしな」

「えぇ。あなたは良いわね。ずっと座ってぼーっとしてたの? せっかく持ってきた本も全然読んでなかったみたいだけど」

「本を読むのも結構疲れるんだよ」

「ずっと座りっぱなしだし?」

「あぁ」葉は海織から視線を外して、瞼の上から指で強めに目を押した。暗闇の中で鮮烈な光が弾ける。「なぁ、あんたは何で絵を描こうと思ったんだ?」

 唐突な問いに対して、海織はやや狼狽したが、それから怪しむような視線を柱の影の中に向ける。「どうして急にそんなことを聞くの?」

「……ただ気になっただけさ。人はいつ、どういうタイミングで絵描きになろう、って思うのか。どうして絵なんて描くつもりになるのか。あいつも……いや、あいつは関係ないか」

「あいつ、って悠くんのこと?」

「あいつ、絶対絵を描こうなんて思わなかっただろうな」

「そんなことないわよ。私みたいに本格的に絵を描いていたわけじゃないけど、結構器用に漫画のキャラクターとか描いてたと思うわ」

「それは別に「絵を描こう」って思ったから、描いたわけじゃないよ」

「絵を描こうって思わないで、どうやって絵を描くって言うのよ」

「……あんたなら、わかってるだろ。さっき、あんただって「本格的」とかなんとか、そういう言葉を使ったじゃないか。所詮、あいつが絵を描く目的なんて、「あら、結構上手じゃない」みたいなこと言われたい、とかそういったものさ。あんたとは違うよ」葉の声は今までに比べるとどこか生気に欠けている印象があった。海織はその葉の暗闇からの声音に、僅かではあるがどこか懐かしいものを感じる。

「まぁ、でもそれは別に悪い事でも何でもないじゃない。だって、悠くんは絵描きになりたいわけじゃないんだもの。私だって、たまに日記みたいなものをつけるし、何か物語みたいな空想をすることもあるけど、それは何も小説家になるためじゃないわ。なんとなくやってみたくなって、やってるだけよ。彼だって、それくらいの気持ちで何となく絵を描いただけでしょう。趣味とまではいかなくても、そういった類のものよ、きっと」

「趣味ね。便利な言葉だよ、ほんと。どことなく洒落て聞こえるじゃないか。日常にただ追われているだけじゃなくて、余暇を楽しむ術を持っていますよ、みたいに。何かの雑誌で前髪をやたら気にしたような連中が言いそうな言葉だ。まぁ、しかし、別段「趣味」というものに対して批判をするつもりは無いよ。どう言ったらいいんだろうか」葉は影の中で姿勢を変えた。それから首筋の汗が乾いたところを爪で掻き毟る。「難しいな。どことなく「趣味」という言葉に対する嫌悪感はあるんだが、よくよく考えてみるとそんなに嫌っている風にも思えない……というか、そんなものに怒りの矛先を向けるのは見当違い、というような気がしてくる。もしかしたら、おれは単に虚栄心みたいなものが嫌いなだけなのかもしれない。何か……本職のために……そうだな……家という生活空間の中の余剰スペースを上手く使うために、押し入れや出窓や、ちょっとした地下室を作るような、そういった目的と実行を兼ね備えた趣味だったらうまく受け入れられるんだ。逆に、ちゃらちゃらとライトアップしてみたり、無駄な柱を部屋のど真ん中に敢えて設けてみたり、そういった類の装飾的な意味合いでの趣味というものに対しては、どうしても腹が立ってしまう。だから、おれはあいつが嫌いだったんだ。あいつの趣味に対する意識はきっと、外から見えるように敢えて屋根に暖炉の煙突をつけてみるような感じだった。本当は家の中は空っぽで、暖炉どころか、テーブルも椅子も何も無いのに」

「楽しむわけでもなく、ただ見せびらかすためだけの?」

「おおむね、そんなもんだろうよ。まぁ、実際にあいつが楽しんでいたか、どうか、っていうのはちょっとわからない。人に褒められて嬉しがっていたのは事実だし、それをあいつ自身が楽しいと思ってたなら、楽しかったんだろうよ。でも、あいつがそういった趣味に時間を割くということは、少なくとも宗教的な意味合いはほとんどなかった」

「どうして急に宗教の話になるのよ」

 海織の言葉に対して、葉はぴくっと反応した。影の中で海織からは良く見えないはずなのに、何故か、目が爛々と光っているのがわかった。どうやら、葉の中に潜んでいる獣の尻尾をうっかり踏んでしまったようだった。「あんただけじゃなく、今この世の中に生きてる人間すべてに言ってやりたいんだけどな。いちいち、「宗教」という言葉に対して過剰な反応をするのはやめてもらいたいんだよ」

「過剰に反応してるのはあなたじゃない」

「ちっ。まぁ、いいさ。どちらかと言えば、これは言葉の問題だ。どうやら怪しげな新興宗教やらなんやらのせいで本来の言葉の意味が捻じ曲げられてしまったみたいだからな。もし、おれが「宗教」っていう言葉じゃなくて、「熱中する」とか「一生懸命頑張る」とか、「人生の張り合いにする」っていう言葉を使っていたら、きっとあんたも勘違いせずに話が理解できただろう。ただな、おれが気に喰わないのは、何も信仰できるだけの信念も持ってない奴に限って、神だとか熱意だとか、そういうものを批判したがるってことだよ。まさに、おれの兄貴みたいにな。つまり、あいつが何かをするにあたって、何か信念や情熱を持っていたか、っていうことが問題なんだ。もっと言うなら、それが自分の宗教になるかのような勢いで以って、何かに取り組んだことがあるのか、っていうことだよ。毎朝決まった方角に向かって三度頭を垂れる何とか教の信者みたいに、自分へ何かを課して生きている人間がどれだけいる? 自分のやるべきことはこれに違いない、と自分に絶えず言い聞かせながら、それを実行するためにほかの色々なものを意識的に投げ打っている人間がどれだけいる? そういう点に限って言えば、おれも愚かな人間のひとりだよ。自分で何をやったらいいのか、まったく、何もわかってはいやしない。わかりたい、とは思っているが……まぁ、でも、そんなことはいい。自分のことはあっさりと棚に上げてしまうよ。けどな、おれが思うに、大抵の人間が、これこれこういうことを為すために自分の憐れにも短すぎる時間を捧げています、と考えてはいないはずだ。良い場合でも、良くわからないまま、何かを割り切るようにして流されているのがほとんどだろう。もちろん、そういう人間のことを名指しで個人攻撃するつもりは無い。どちらかと言えば、そういう状況を生み出している、人間の生来の愚かさ、つまり虚栄心やら何やらといった――そうだな、煩悩と言っても良い。もしくはそういう物から生み出された社会という巨大な怪物に対して、おれはまさに青年的な憤りを感じている訳だ。まったく我ながら幼稚で恥ずかしいけれどね。でも、余計なお世話かもしれないが、おれからしたら、結局のところそういう狭くて濁った水槽の中で生きていくしかない人間が、とても不憫で可哀想に思えて仕方ないんだ。割り切って、割り切って、それで残された僅かなスペースの中で、社会なんてものから与えられたごく一般的で常識的な微かな陽だまりに対して、真摯な感謝を捧げるしかできない人間が不憫でならない。どうやったらそんな風に聞き分けよく生きていけるんだ、と思う。気分の良い時には尊敬の念すら抱くね。ただ、きっとそういうのが大人になるってことなんだろうな……なんて、そんな知った風なことをあっさりと口にしてしまえるような人間にもおれはなれる気がしない。例えば、自分では何も考えもしないくせに、たまたま何かの成り行きで作っただけの、そんな哀れな子供を育てるために自分を犠牲にしてます、っていう大人がいるだろ? つまりさ、自己犠牲の喜びを知って本当の意味での大人になるってやつだ。あぁ、そうさ。ご立派だとも。涙が出るよ。けど、それってただ自分の可能性を見限った連中が、自分が生きていくための張り合いとして子供に寄り掛かっているだけじゃないのか? そして、もしその子供が死ぬようなことがあれば、簡単に「生きていけない」って言うんだ。自分で考え抜いて得たものでもないってのにな。自殺の話と一緒さ。今まで重要な位置を占めていた自分の命や可能性に限界を感じたから、それで苦しくならないように……それで自分の生が無価値だっていう風に考えてしまわないように、今度は自分の子供を代わりにその椅子に座らせるのさ。そして、それを愛だとか、なんだとか、勝手な名前をつけて呼んで……ほんとはただの依存に過ぎないってのに」葉は手元にあったコンクリートの破片を摘み上げ、泣き喚く子供がするようなある種の人間から見たらただ虚しいだけの動作で、それを海に向かって投げた。黄色い空と雲の谷間から海に向かって消えて行く。「まぁ、けど、こんなふうに言ったって仕方ないよな。自分の幼さを露呈するだけだ。もし今おれが喋ったことが録音されていたとしたら、おれだって聞き返したくはないね。もし椅子に縛り付けられて無理矢理にでも聞かされたりしたら、おれはきっと恥ずかしさで心臓が止まるよ。でも、それでも、おれはおれの兄貴にこの声を聞かせてやりたい。少なくともあいつよりはおれは正しいはずだ。もしそのことが、完全なる視点を持つ存在、まさに神のような存在から否定されたとしたら、今まで「兄貴のようにはならない」ということを自分の宗教として生きてきたおれにしてみれば、まさに地獄の炎で焼かれる苦しみを味わうことになるだろうな」

 海織は黙って葉の言葉を聞いていたが、彼の物言いが独善的で、それで他人を寄せ付けない鋭さを持っていたせいか、その言葉に秘められた論理を理解するまでには至らなかった。またその声音には彼の言う通り、ある種の稚拙さみたいのも含まれていたから、なかなか理解したいとも思うこともできなかった。そもそも何で急に彼の兄の話が出てきたのかもわからない。しかし、そんな彼の様子に感化されてなのか、こんなに暑いのに、と海織自身も感じていたであろうが、彼女の頭の中には、アイスリンクの上に底の擦り減ったスニーカーを履いたまま投げ出されて、くるくると二転三転しながら足掻いている葉の姿が浮かんでいた。そして、それを無様と思うよりかは、手を差し伸べてやりたい、と感じている自分がいることを彼女自身感じていたのも事実である。

 海織は秋の落ち葉のように乾いた数本の筆先と、それから陽光によってじわじわと水分を奪われ続けているパレットの上の絵の具たちにふと視線を向けた。洗ってやらなくては、とは思いつつも、座り込んだその場所から立ち上がることができない。というか、きっとそんなことはどうでもよかったのかもしれない。彼女はまたあっという間に視線の向く先を変えると、今では上半身が黒いヴェールで覆われているかのような葉のふくらはぎを見つめた。数時間前に、鉛筆でデッサンした彼の太いとも細いともつかないふくらはぎと、そこから先の部分は柱の影には収まりきらず、辛辣な陽光に晒されていた。彼の脚もまた、乾ききっていて、水を求めているように見えた。

「結局、あなたが気に入らないのは、あなたのお兄さんのようになってしまいそうな自分自身というわけ?」やや控えめに海織はそう口にした。控え目になったのは、葉の心境を慮って、というよりは、内容の理解が不十分であったことから来る、単純な気後れだった。「そうでもなければ、あなたの言い方は何もかもが気に喰わない、というように聞こえる。親という存在に対してまで文句を言っているくらいだもの。ねぇ、私はあなたが何かに対してとてもイライラとしていることはわかるけど、その原因が何なのか、そこだけはほとんどわからないわ。悠くんのことを持ち出す割には、すぐにどっか別の場所へ論点がすっ飛んでしまうし、かと思えば、また悠くんのところに戻ってきている。今日は死ぬほど暑いし、もう頭がおかしくなりそうよ」

「今日は言うほど暑くはないさ。まだ、夏はこれからだしな」葉はそうは言いながらも、随分と前から喉の渇きを感じていた。堪え切れずに、喉元に溜まった砂漠の砂を吐き出すかのような溜息を漏らす。

「喉乾いたわね。この辺りに水道はないのかしら」

「水筒くらい持って来いよ」

「もう空っぽよ」

「……たしか、一階のトイレの洗面台からまだ水が出たと思う。衛生面は保証しないけどな」

「よかった。まさか、この時代に喉が渇いて死ぬわけにもいかないものね」

 海織は立ち上がると、スカートについた砂埃を軽く手で払い、未だ座り込んでいる葉を見下ろした。影の中であまりはっきりとはしなかったが、葉の視線は海織に向けられているようだった。海織はその視線が何を言おうとしているのか、何となく感じ取ることができ、恥ずかしさのようなものから少し躊躇いはあったものの、暑さと乾きが頭を朦朧とさせるからなのか、言葉を飲み込む間もなく「あなた、ここに詳しいんでしょ。付いて来てよ」と口を滑らせてしまっていた。彼女が思っていたよりも一拍分早く出てしまった言葉だったから、不本意ながらその言葉の断片に彼を思いやる柔らかさが含まれていたが、彼女も言ってしまった手前、その場に彼を置いていくようなことができず、この崩れかけの部屋の入口のあたりで、葉の方から見たら「やや呆然」といった雰囲気を纏いながらただ立ち尽くしているしかできなかった。一方の葉は、考える振りのためにたっぷりと間を取った後でゆっくりと立ち上がる。一歩足を前に出すと、久々に彼の横顔に太陽の光が当たった。この数時間のうちに随分とやつれた様に見えるが、彼自身の身体よりも、どちらかと言えば、汗と埃で汚れた安物のTシャツの方が見るに堪えない有様になっていた。

 

 西側の壁がほとんど崩壊していた部屋の中とは異なり、建物の廊下では既に夕闇の藍色がひっそりと息を潜めていた。地下室に潜ったように空気も一回りひんやりとしている。東側のガラスの抜け落ちた窓からは、引き伸ばされたゴム風船のような薄い水色の空の中に白い月が浮かんでいるのが見える。海織は視線を上げて、そんな白々しい月を眺めた。何かこの世界の物足りなさを象徴するがの如く、端の辺りが欠けている。芸術家の卵としての本能なのか、そんな含みのある月の白さに一瞬心が奪われたものの、海織は後ろから葉がついて来ていることを忘れていなかったため、脚を止めることもせず、そのまま左に折れ曲がって湿ったような階段を降りて行った。管楽器の中に足を踏み入れたみたいに、二人の冷たい足音がこの建物の階段の壁を一階から屋上まで反響していく。海織の規則的な足音に対して、葉の足音はどこか音を鳴らすことに対して興を覚えたような不規則な拍子を刻んでいる。靴の踵が段の角に擦れたかと思うと、甲高い音で「ぱん」と、平らなところに片足が着地する音が弾ける。海織はそんな葉の靴音が気になって、踊り場からの折り返しの際に、退屈を紛らわせるように脚を蹴り出しながら階段を降りてくる葉の方をちらりと見やった。その視線に葉は気がつき、それからはどこか罰が悪そうな表情を浮かべながら、海織を見習って、ただ単調に階段を降りるように心掛けた。

 一階に降りても、この建物の中に漂う、というよりかは、ここの辺り一帯に漂う寂寞たる雰囲気はまったく変わらなかった。それどころか、陽が暮れてきたことで昼間に感じたよりもより鋭利な静けさを、海織は目や耳だけでなく、匂いであるとか肌に触れる空気の感触などから敏感に感じ取っていた。葉の方も何となく細めた瞼の隙間から、ドアを失ったコンクリートの額縁の外に広がる夕暮れの雰囲気を探っていた。そして、その冷たさの中に漂う一種の被虐的恍惚感に、胃の辺りから背筋にかけてそわそわとした微細な震えを感じていた。何となくではあるが、影を羽織ったような海織の背中や横顔から、葉は自分の感じている感触と同じものを彼女も感じているような気がして、心臓が少しだけ締め付けられるような心地よさも感じた。が、それを言葉にするでもなく、洗面所を探し求めてさりげなく視線を泳がせている海織に向かって「こっちだよ」と取り繕ったような声音で言葉をかけた。

「もうすぐ夕方になるわね」

「日が暮れる前に帰れよ」

「あら、やさしいのね。でも、もう少しやさしい人なら、か弱い女の子を家に送り届けるくらいまでするんじゃないかしら」

「自分で勝手に来たんだろ。勝手に帰れよ、一人で」葉は邪険な口ぶりで言いながらも、洗面所の中に海織を導いた。しかし、海織は何かを躊躇うような表情を見せたかと思うと、先に洗面所の中へと入って行った葉の視界からふと消失した。葉は「何事か」と入口の方に身体を向け直して、海織の消えた先を追った。が、すぐに事態を把握し、的確な言葉を投げかける。「女子トイレはたしか水が出なかったと思うぞ」

「あなた入ったの?」外から女子トイレの中に入った自分を見つめる葉に向かって、海織は咎めるように眉をひそめた。

「こんな場所で別にそんなこと関係ないだろ。まぁ、でも、一応最初に男子トイレの方に入ったさ。ただ、念のため、どっちの方が清潔そうな水が出るか確かめたかったんだよ。こんな辺鄙なところで腹でも壊したら悲惨だろ?」

「で、女子トイレの洗面台からは水が出ず、男子トイレの洗面台の水を飲んでもお腹は壊さなかったのね?」

「まぁな。もっとも、かなり鉄臭い水だったが。それにきっと新鮮な水じゃないと思うぞ。この建物の屋上で貯水タンクを見つけた。きっとそこから降りて来てる水だろう」

「ちょっと恐いわね」

「まぁ、この二、三日で急に致命的なまでに腐るってこともないだろうよ」

「その貯水タンクには、最後のメンテナンスの日付みたいなのはなかったの?」

「さぁな。そんなものは確かめてないよ。気になるんなら自分で確かめてきたらどうだ? ここで待っててやるから」

「そこまではいいわよ、別に。この際だからあなたを信じてあげる」

 トイレの中の壁にはいたる所に雷を描いたような亀裂が走っていたが、相当くすんではいたものの、鏡は割れずにきちんと壁に掛かっていた。また、特に不潔な匂いもしない。この生命の欠片も感ぜられぬ場所では、ただただ海からの潮風が香るばかりである。生物が存在しなければ、こうも清らかなる空気が保たれるのだ、ということを海織はふと頭の中で考えてみていた。葉は壁に寄りかかりながら、トイレの小さな窓から差し込む陽光が作る光の筋を目で追っているようだったが、海織が蛇口を捻って水を流し始めると、その水音に興味と視線が自然と移っていった。水は透明で、海織の手の甲で弾けると、床の上に飛び散り、そして砂漠の砂に消え入るように乾いたコンクリートに一瞬のうちに吸い込まれていく。海織の指先に付着していた絵の具が溶けだして、かつては清潔な白を示していたのであろうが、時の侵食によってクリーム色に変色した陶製の洗面台のひび割れに沿って青い線が引かれる。薄暗い中でも海織は先程キャンバスに描いた海の色を感じることができた。それから、彼女は掌を上向きに組み合わせ、流れ出る水を受け止める。そこに溜まった水を口に含むとその冷たさと、もちろんのこと水気を存分に咥内で楽しみ、それから軽くうがいをして温くなったそれを吐き出した。彼の言う通り錆びついた蛇口から落ちてくる水はなかなか鉄臭い。が、自分の有り余る体温が、わずかばかりではあるが、その鉄臭い水に移っていく感触は心地よくもあった。

「先に頂いて悪かったわね。どうぞ、あなたの番よ」

 葉と海織は狭いトイレの中で身体の位置を入れ替え、海織の方はそのままの流れでトイレの奥の方へと足を進めた。葉はそんな彼女の様子を目の端で捉えつつ、流れ出す水に手を差しだし、一通り手から腕にかけてを洗い流していく。汗と埃のベタベタとした皮膜が消えると、久しぶりに肌で新鮮な海辺の風を感じ、かなり爽やかな気分になった。ついでに組み合わせた掌に水を溜め、それで顔の汗と埃も念入りに洗い流し、首の辺りまで一息に水をかけていった。タオルなど持って来ていなかったから、Tシャツの腹のあたりをたくし上げ、汚いな、と思いつつもそこで顔を拭いた。ふと顔を上げると、目の前のくすんだ鏡に、幾分かすっきりとはしているものの、致命的な衰弱の色を湛えた青年の顔が映っている。無精髭が目立ち、濡れた前髪はだらしなく額に貼りつき、目元は飢えた獣のように微弱ながら鋭利な光を灯していた。流れ続ける水は洗面台を打ち、葉の鼓膜はずっと昔の雨音を思い出しながら震えている。このまま動けなくなりそうな気配が目眩のように襲ってきた時、鏡の中の自分が淡い影に埋もれた。それを機に海織の存在を思い出す。小さな窓から差し込む陽光に縁どられた金色の髪が海風に揺れている。

「たまにね、昔の自分が何を考えていたかわからなくなることがあるのよ」

「急にどうしたんだ?」

「……悠くんと付き合っていた時のことよ。つまり、高校時代の私、ってこと。あなたもそういうことない? たった数年前なのに、自分が何を考えて毎日を生きていたのか、わからなくなることとか」

「……さぁな。「ある」って答えても嘘っぽくなるし、「ない」って答えても嘘っぽくなる。だいたい、俺は今の自分が何を考えてるのかさえ、よくわかんないよ」

「そうかもしれないわね。ここに来て、結構あなたと話したりしたけど、私にはあなたが何を言いたいのか、結局良くわからなかったもの。私も大概迷走してる方だから、それも原因の一つかもしれないけれど。でも、やっぱりあなたの話がわかりにくいのはあなた自身に問題があるのよ。それか、まぁ、百歩譲って「全部暑さのせい」ってことにしてあげてもいいけど」

「別にいいさ。百歩どころか、一歩も譲らなくて結構。俺だって、今の自分の頭が冴えてるとは思っちゃいないよ。こんな訳のわかんない場所までやって来てるんだ。狂気以外の何物でもない。そうだろ?」

「ふふ。そうね。狂った二人の会話じゃ、噛み合うはずもないわね」

 海織は思わず笑いを零したが、葉の方も疲れたような表情の中で少し頬を緩ませているのを見て、引き締めようとした唇の筋肉をまた弛緩させた。結局のところ、葉も彼女自身も普通の街の売店なんかでは買えないものを求めてこんな荒廃したところまでやってきたのだ、という考えは、今まで踏み込めなかった距離まで近づくための良い後押しとなって、彼女の心を和ませた。葉の方も、逆光の中で緩む海織の口元を無意識のうちに目で追ってしまう。

「ところで、何を言おうとしてたんだ? 急に舞台女優みたいに喋り出したが……」

「そうやって馬鹿にするのはやめてよね」海織は目を細めてから、指で天井の方を指す。「さっき上であなたもかなり恥ずかしいことを言っていたじゃない。自分の行動を顧みてから発言したら?」

「なんだよ。お互い様じゃないか、そんなの。それに、俺の皮肉に一々突っかかって疲れないか? いい加減、無視するってことを覚えたらどうだ? なぁ、イカれた画家さんよ」

「はいはい、そうですね。ほんと、なんか疲れてきたわ。ただでさえ暑いってのに……てか、ここ暑いわね。風通しも悪いし」

「お前が日向に出てるからだろ。理不尽なこと言うよな」

「……ねぇ、用が済んだのなら一旦出ましょうよ。どっちにしても、いつまでもこんな場所にいる必要ないわ」

「まぁ、それもそうだな」

 トイレを後にし、また階段を上り始める。下りてくるときとは違い、今度は葉が先導する形になり、海織は低い位置から葉の背中を見上げることになる。その時、また海織の中に今日何度も感じた、あの既視感が沸き起こった。決して広いとは言えない背中で、鯖の骨のようなほんの少しだけ歪曲した猫背は、どこか頼りないようにも見えるけれど、そんなところが葉の感性が繊細であろうことを物語っている。踊り場の折り返しですれ違う時、海織と葉の視線が一瞬交錯する。

「さっきの話の続きだけどさ」海織が葉の背中に語り掛ける。「私、自分が悠くんに何もしてあげられたなかったんじゃないかな、って考えてしまうときがあるのよ。つまりね、私たちは確かに付き合っていたし、一緒にいる時間もそれなりにあった。でもね、自分の心を彼に見せてあげるようなことが上手くできなかったの。別に気持ちを隠したり、押し殺したり、素直になれなかったとか、そういう如何にも少女漫画で可愛い主人公の女が涙ながらに語るような、そんなのじゃなくてね。何て言ったらいいのかな……さっきも言ったけど、単純に、私は自分でも自分の心がどこにあるのかよくわからなかったのよ。きっと私は悠くんのことを好きだったんだろうけど、でも、その愛情みたいなのが何なのかよくわかんなくて、しかも、それの正体を突き詰めたりするのも何だか怖かったりして……結局ね、もしかしたら、私も悠くんも同じようなものだったんじゃないかな。あなたはお兄さんのことを空虚で愚かな存在だ、って言ってたけど、私もきっとそういう人間だったのかもしれない。お互い、お互いに惹かれていたはずなのに、それでせっかく一緒にいるようになったはずだったのに、そもそも自分というものが何も見えていなかったのよ。それも、その「惹かれている」って感情が自分のどこで湧き上がっているのかもわかっていないくらいに。それで、私はね……悠くんと別れてから、自分をちゃんと探してみることにしたの。絵を描くことを通してね。でも、もちろん、悠くんと別れるよりも前から私は絵を描くことが好きだったし、また周りからその技術を誉められてもいたから、絵描きっていうのは私の一つの未来像ではあったわけだけど、でも、自分が本当に書きたいものが何なのかわかってなかった。それこそ、周りの人が誉めてくれるから絵を描いていただけのようなものだった――ふふ、まるでさっきあなたが言ったお兄さんの批評と同じね。空っぽな動機で漫然と生きてる。あなたからしたら私もお兄さんと同じような醜い人間のように見えているのかもね」

「そんなことはないさ」葉は階段の途中で足を止める。海織の方に振り返ることもなく、踊り場の窓から外のオレンジ色の光を眺めた。その光は高校の頃のあの誰もいない放課後を――あの妙なセンチメンタリズムを身体に初めて感じた瞬間を葉に思い出させた。「別に俺はあんたを醜いなんて思ったりはしないよ。あんたは俺の兄貴とは違う。まぁ、あんたも俺くらいに頭のおかしい人間だ、ってのはさっき言った通りだけど、でも、やっぱりそんなこともないのかもしれない。あんたは少なくとも俺よりはみすぼらしくもないし、兄貴よりも薄汚くはない。それに、こういう言い方されんのはムカつくだろうけど、俺や兄貴とあんたじゃ性別が違うんだ。これは俺の勝手な価値観だけど、女なんて無神経で空っぽでも、盲目的な優しさがあればそれでいいんだよ。少なくとも、あんたはあのどうしようもない兄貴の為に自分の大切な、一度きりの青春時代を捧げたわけだし、しかも、別れてから兄貴と自分の関係性に関することで悩みまでしてくれたんだろ? そんな人間なんてそういないよ。そんな優しさに応えられなかった兄貴の罪は、まぁ、俺から言わせれば死罪に値するわけだが、少なくともあんたは自分を恥じたり、ましてや、兄貴と同じような存在だったなんて、自らを貶めなくたっていいんだ。そういうのはもうやめろよ。あんたはさっき、自分を知らなかった、みたいなこと言ってたけど、俺が教えてやるよ。あんたは糞が付くほど、優しい人間なんだ。俺の兄貴に対する憎しみがまた倍増するくらいに優しい奴だよ、まったく。なんであんたみたいな人間を俺の兄貴は――あぁっ、もし、夜道の暗がりの中をあいつが独りで歩いてるのを見かけたら、後ろからコンクリートブロックで頭をかち割ってやりたいよ。美しいものが無意識やら虚栄やら、ともかく兄貴みたいに薄汚いもので損なわれるのを見るのは、もう耐えられない。別に、こんなことを言うからって、あんたのことが好きだとか、そういう風に勘違いするなよ。ただ、俺はあんたのその計り知れない優しさみたいなのが美しくって仕方ない。もう頭がおかしくなるくらいだ。だから、もういいよ。兄貴を庇うような真似はやめろよ。全部あいつが悪いんだ。全部――」

 海織の右手が葉のTシャツの裾を掴む。窓から差し込む夕陽は葉を模した墨汁のような影を作り、その暗がりは海織をすっぽりと包んでいる。海織は視線を足元に落とし、そしてぽたぽたと灰色の乾ききったコンクリートに落ちていく黒のインクを眺めていた。波の音でも風の音でもない、おそらくはそれらが混ざり合い、そこに苦しみの嗚咽を被せたような音が階段に響き渡る。

「悠くん……もう、いいよ。帰ろう。日も暮れるしさ」

 青年は答えなかったけれど、ゆっくりと足を持ち上げ、そして階段の続きを登り始める。海織の手は汚れたTシャツの裾から滑り落ちた。静かな足音を響かせて、二人は三階の部屋へと戻る。

 

 海織は画材を片付けながら、水平線へと沈んでいく太陽を眺めていた。雲を焼き切るような焔色に染め上げ、空の反対側からは夜の藍を引きずり込もうとしている。海織にとっては海を見るのは今日が初めてだったが、その恒久的な水面の揺らぎはもう既に彼女の中の細胞の一つひとつにまで染み渡り、波音は郷愁の気配を醸し出すようにすらなっていた。青年は項垂れるようにじっと手元の本を見下ろしていた。よく見ると表紙の付け根には深い切れ込みが入っており、それは青年がその本を相当に酷使してきたことを物語っていた。すり減って、霞んだ本のタイトルは海織からは判読ができないもので、しかしながら、その青年の狂おしい佇まいや痛ましい血肉が、或いは文字のように、何かを示しているようにも見えたかもしれない。だからこそ、海織はその彼にとっての聖書の名が何であるかということを知らずして、彼を理解するに至った。

 片付けが終わると、海織はリュックを担ぎなおした。そして、布を被されて放置されたままのキャンバスに手をかけ、床に腰かけたままぼんやりと夜の始まりを見つめる青年を見下ろす。

「まだ帰らないの?」

「……あぁ、悪いけど送ってやれないよ、どうしたって」

「……それはいいけど……でも、こんなとこに暗くなるまでいるの、危なくない?」

「幽霊なんて信じてないし、こんなとこ不審者も寄り付かないさ。今日はなんか疲れたし、朝までここで寝る」

「……私もなんか疲れたな」

「お前は帰れよ。親が心配するぞ」

「どうだろう……まぁ、でも、帰るわ。お腹も減ったし、お風呂にも入りたいし」

「あぁ、そうしろ」

「うん。じゃぁ、またね」

「俺はもうここには来ないよ」

「別にこんな寂れたとこ限定で会うつもりもないわ。また、いずれ、どこか別の場所で、ってことよ」

「…………」

「……じゃぁ、また」

「…………」

 既に太陽は水平線の向こうに沈み、薄く引き伸ばされた燃え残りの空が最後の言葉を海に浮かべている。黒の背景を得たところでは、白色の星々が瞬いている。海織は青年の首筋を見ていた。それは震えながら何かを耐えるように、装飾された毅然を身に着け、青年の視線を真っ直ぐ、波の源を探すように遠くへと向けさせていた。彼女の足はこの廃墟の冷たい床に釘打ちされたように動けなくなっている。鼓膜は何かを欲していた。だから、それが得られるまでは彼女は動くことができない。けれど、青年は黙ったままだった。

「あ、そう言えばさ」たまらず海織は即席の話題を口にする。「私の絵、ここに置いていくけど、勝手に見ないでね。未完成の作品を見られることほど芸術家にとって恥ずかしいことはないのよ」

「はは、見ないよ。てか、もう芸術家気取りか。恐れ入るね、近頃の美大生には」

「筆を持ったら、もうその時点で絵描きになるのよ。いかなる人間であってもね」

「……そうか。わかったよ。見ないから、安心して帰れ。もう、陽も沈んだ」

「……うん。じゃぁ、もう帰るわ」足は動いた。けれど、やはりまだ身体のどこかがこの廃墟に繋がれたままだ。彼女はまた言葉を探す。「あのさ。これは別に何か特別な意味があって言うんじゃないけどね。ちょっと前に、古い映画を見たの。ありきたりで、たいした毒気の無い、言ってみれば普通の商業映画……でもね、なんか忘れられなくて。あらすじなんてものを説明しても何にもならないけど、でも、簡単に要約するならね、その映画は、椅子を買い続けて世界を変えた男の人の話なの……うん、これだけじゃ、意味不明よね。でも、それ以上でもそれ以下でもないんだ、実のところ。だからさ、結局、椅子を買うことでも何でも良いけど、とりあえず意味わかんなくても、なんかやってればそれだけで良いのかもしれないな、って。私もさ、まだなんで絵を描いてるのかよくわかってないんだけど――そう、それこそこんな場所にまでキャンバス担いできたりね。よくよく考えてみれば笑っちゃうようなことだけど。でも、今、私にできることってそれくらいしかないし、でも、結果だけ見れば、そんな突飛なことしでかしたのも、無駄じゃなかったかもしれない。あなたはもうここに来ないつもりかもしれないけど、私は絵が完成するまではここに通うことになると思う。だから――」海織は迷ったわけではなかったけれど、そこで言葉を区切った。それはただ、わざと間を持たせることで聞き手の注意を引き付けることを、無意識のうちに狙ってのことだったのかもしれないけれど、少なくとも彼女自身にとっては、ある種の願いを込める為に必要不可欠だった時間の量を示していた。「だから、また会う時があったらよろしくね。今日みたいに出会い頭から不機嫌なのはごめんよ」

 青年はやはり振り返ることはしなかった。だた、「わかったよ。またな」と背中を向けたまま手を振り、海織をその埃っぽい空間から追い出しただけだった。女のか細い足音が遠ざかっていくのが波音にかき消され、また青年を孤独なる静謐が蝕んでいくまで、そう長い時間はかからなかった。

 

 夜の中に佇む廃墟を振り返る。通りを駆け抜ける風が女の髪をふわりと持ち上げた。そして、誰が見ている訳でもないが、髪を直すためにふと頭に手をやったところで、あそこに麦わら帽子を置いてきてしまったことに気が付く。しかし、戻しかけた足をまた前に向かわせ、その帽子がまだ闇の中で一人物思いに耽る青年を見つめ続けているところを思い描きながら、女は長い長い道のりを家に向けて歩いて行った。

 

2014年

Gray Scale

 終電車に乗ると、私はいつも頭が痛くなる。正面には脊柱までアルコールに溶かされたせいで硬い背凭れのされるがままになっている、半目を開け、意識を失っている男。右斜め前にはブランド物の鞄に品の無いキーホルダーをぶら下げている、何故か二本ずつ傘を持った、どう口を濁しても不潔な婆としか呼び表しようのない二人組の女。右隣には、半世紀前に路地裏に捨てられた中型コンポみたいな中途半端にでかい顔をした、その顔の大きさに比べて手足が異様に細く、足元だけ赤いエナメル製の靴で彩られているところが得も言えぬ同情を誘う女。終電車には人間の悲哀が満ち溢れているようで、私はまともに目を開けている事さえできない。その上、罰当たりなほどに内容の無いカップルの会話や、酒や女という悪魔にうなされている汗臭い男の唸り声を耳にするのも私には何だか苦々しく感じられ、大音量の音楽でそれを掻き消す。

 世界を捨て去り、暗闇に心を浮かべると、後に残るのは香水と酒と煙草の匂いだけ。香水も酒も煩わしいけれど、煙草の煙だけは私の心に纏わりつく。

 私はあれ以来ずっと探している。でも、どれもあの時のものとは違う匂いがするのだ。今では、あれはどこか違う世界で、少なくともこんなにグロテスクな場所ではないところで作られた煙草だったのではないか、なんて考えている。たとえば、ミス・ゴライトリーが吸っていたピカユーンとかいうブランドの煙草みたいに。それとも私があの時の匂いを見つけられないのはそんな文学めいた芳しい理由なんかではなく、ただ単に私の嗅覚が変容してしまったことにあるのか。

 不毛な思考の末、私は家の最寄り駅で電車を降り、イヤホンを外す。澄んだ夜の空気の上を過ぎ去る電車の走行音が駆けてゆく。眠りにつく住宅街の薄暗い道を古ぼけた学生アパートに向けて帰っている途中、鞄の中でケータイが鳴って一通のメールが届いた。用心の為に夜道ではケータイをいじらないようにしていたから、私はわざわざ道中のコンビニに立ち寄って、雑誌コーナーの前でメールを読む。ほんの数十分前に別れたばかりのバイト先の先輩からだった。この変なタイミングで彼からメールがあった時点で私は何かしら「ついに来たか」というような勘が働いたのだが、内容に目を通してみてその勘が外れてはいなかったことがわかる。もちろん、「メールでする内容じゃないだろう」というような落胆も若干あるにはあったが、私は彼からのお付き合いの申し出に対して、その申し出を受ける旨を伝えるための返信メールをその場で書き始めた。

 

     *

 

「ユリ、また彼氏出来たの?」

 そう言うヒロの言葉の中には、「どうせまた碌でもない男なんでしょう」、「どうせすぐに別れるんでしょう」という嫌味が含まれていた。ヒロは大学に入ってからできた一番最初の友達で、サークルの新歓で一目惚れした先輩から、この間の煙草とケータイしか目に入らない残念な彼まで、私の歴代の彼氏を全て知っている。そしてまだヒロには打ち明けていないはずなのに、まだ付き合い始めて一週間のバイト先の同僚のことまで既に勘付かれてしまっているようだ。何故こんなにもヒロは私の男事情に詳しいのか。そんなことはあって欲しくはないと心底思うが、私が忘れてしまっている男の名前だってヒロは覚えている、ということもあるかもしれない。

「なんで、まだ誰にも言ってないのにわかるのよ」私はそんな必要などまるでないのに、辺りを憚るような視線を昼時で込み合っている店内に向け、ヒロの言葉に応戦した。

 私の攻撃を受けてもヒロは余裕綽々の笑みを湛えながら、若干汗をかいたアイスティーの入ったグラスに触れることも無くストローを口に咥え、「だって、あんた煙草臭いよ」と言った。「また、家焼かれるんじゃないの?」

「もうその話はやめてよ。大丈夫、みーくんはあいつと違ってしっかり者だから」

 私はやや憤慨した面持ちでそう答えたが、嘗ての男に自分の家で寝煙草をされ、ボヤ騒ぎを起こしてしまった経験を踏まえつつ、「気をつけていかなければな」とわりに真剣に考えていた。ボヤ騒ぎの彼とは結局そのことが原因で半年前に別れてしまった。それからなんだかんだ二、三人の男を乗り換えたりしたけれど、インパクトで言えばあいつに勝る奴はいない。

「でも、どうしてそう煙草吸う奴ばっかり好きになるかね。なんかこだわりとかトラウマとかあんの?」

「別に煙草吸ってるから好きになるとかじゃないし」

「でも、今までの彼氏全員そうじゃん。なに、『ユリの彼氏募集要項』の中には『喫煙者であること』みたいな明文が入ってたりするの?」

「知らないよ。書いてないよ。てか、そんな募集要項作った覚えないし。私はただ……何となくカッコいい人探してて、それでたまたま目についた人が煙草吸ってるってだけ。煙草吸ってる男の方がなんて言うか……タフっぽいって言うの? なんかカッコ良く見えるじゃん。だから、別に煙草に対して思い入れがあるとかそういうんじゃないし」

「まぁ、私からしたらユリが彼氏作ったことがすぐわかって良いんだけどね」そう言いながらヒロはくんくんと鼻を鳴らした。「でも、このご時世煙草吸ってる人探す方がめんどくさいんじゃない?」

「だから、別に探してるわけじゃないし。それに意外と今でもいるよ、煙草吸ってる人」

「まぁ、目の前でこれだけ『魔性の女ユリ』の被害者の会の会員が増えていくのを見せつけられていれば、嫌でもわかるよね」

「誰が魔性の女よ」私は今になってヒロに「煙草臭いよ」と言われたことを思い出して、さりげなく服を匂ってみた。が、鼻風邪を引いているわけでもないのに、まったくわからない。全然気が付かなかったけれど、今朝に大学まで車で送ってもらった時に匂いがついてしまったのだろうか。

 一応断っておくが、私と今の彼氏とは付き合って一週間程度にはなるが、まだお互いの家に足を踏み入れるところまではいっていない。付き合う前からたまにバイト終わりにあの忌々しいポンコツ車で送ってもらったりはしたのだが。今朝も彼は爽やかな笑顔を装って、私のしなびたアパートの前までその半壊したような車を転がして来てくれたのだけれど、私は彼に目覚めのコーヒーを淹れてあげるというような気の利いたことはしなかった。

 私はストローに唇をつけているヒロを見ながら弁解の続きをした。「だいたい『魔性の女』っていうのは、その気もないのに手当たり次第の男に手出して、お金とかそのほかにも何やかんやと搾り取るような悪女のことを言うんでしょう? 私はいつも真剣だし、特に男に何か金品を求めるってこともないから」

「まぁ、たしかにね。ユリって意外と真面目だもんね」

「意外と、とかつけなくていいから。髪の毛だって別にそんなに明るくないし、大学にだってちゃんと行ってる。バイトが無い日は夜十二時前に寝るし、合コンもクラブもヒロに連れて行ってもらったとき以外行った事ないもん。どこからどう見ても真面目でしょ?」

「でも、これだけ彼氏を取っ替え引っ替えしてるのはやっぱ異常だよ。よく元彼のことすぐ忘れられるよね。だいたい二、三か月は引き摺らない?」

「引き摺らない。だって、私が別れる時って大抵もう既に気持ちは冷めてるから」

「じゃぁ、こっちはまだ好きな気持ちがあるのに、相手から一方的に『別れよう』とか言われたときはやっぱりユリも落ち込むの?」

「そんなことないからわからない」

「はぁ? もしかして、今までずっとユリの方からフッてきたの?」

「ケンカして別れたときとかもあるけど」

「あぁ、ボヤの彼のときとかね」ヒロは呆れたように笑いながら言う。

「その話はよしてよ。とにかく、私は何も取っ替え引っ替えしたくてしてるわけじゃないから。なんか知らないうちに気持ちが冷めてって、気がついたら別れてて、そしてタイミングよくカッコいい別の男が私に声を掛けてくるの。それで私としても断る理由が無いから仲良くし始めると向こうがあっという間に『俺と付き合わない?』って……はぁ、私、自分で言っといてなんか頭痛くなってくる……」

「やっぱりユリは天性の魔性なんだよ。付き合ったのにすぐに冷めるって、それって気持ちが無いのに色んな男に手出すこととほとんど一緒じゃない? 同時進行をしない、ってだけで」

「そうかもね……はぁ、私って性格悪いのかな……」

「性格悪い、ってのとはまたちょっと違う気がするけど。何て言うのかなぁ……やっぱりユリは何か恋愛に対して一種の破滅的な傾向があるよね。うまく言えないけど、『別れる前提で付き合ってる』みたいな」

 ヒロが言うような、「別れる前提で付き合う」みたいなことは考えたこともないけれど、思い返してみるとどこかそんな部分があったかもしれない、というような気がしてくる。何となく見下ろしたこの私の色の白い腕には、自分のものだから実感することはできないけれど、他の人よりも冷たい血が流れているのかもしれない。しかし、私だって確かに恋愛の初期段階においてはそれなりの体温の高まりといったものは感じているのだ。問題はどうしてそれが木陰で流す汗のようにすぐに冷たくなってしまうのか、ということだ。そして、どうしてそんな私に対して好意を持つ男がこうも次から次へと、まるで私の孤独に付け込むようにして現れるのか、ということもかなり不可解な問題である。

 私は溜息をついて、それまで騒々しい店内でヒロの声を聞くために前に乗り出していた身体の力を抜いて、椅子の背もたれに体重を預けた。ほんの少し顔を上に向けてみると、ちょっとだけ澄んだマシな空気が肺に入ってくる。非常口の方向を知らせる緑色に光る看板が視界に入った。

「ユリは自分で煙草吸おうとか思わないの?」重たくなった空気を入れ替えるようにヒロは話題を変えてきた。

「思わない」私は非常口の看板の真っ白な人型を見ながら答える。

「どうして?」

「どうして、って……お金かかるし、健康に良くないし」

「でも、煙草吸う人のことばっかり好きになるじゃん」

「それはまた別の話でしょ。だって、私はカッコよくなりたいわけじゃないもん。そんなこと言うんだったら、じゃあヒロこそプロレス好きならプロレス始めたら、って話になるじゃん」

「たしかにね」途切れたヒロの言葉の行方を追って、私が視線をヒロに戻すと、彼女はまたアイスコーヒーをストローで啜っていた。そして「それは一理ある」と付け足した。

 昼過ぎまで眠ってしまった日曜の午後くらいあっという間にそんな短い会話は過ぎ去り、ようやく頼んでいたパスタが運ばれてきた。このまま注文が叶わないまま年老いていくのか、と思っていたが、このサービス大国でそんなこともあるまい。私はヒロの分のパスタが来るまで待って、それからフォークを手に取った。

「で、今の彼はどんな人なの?」ヒロはパスタをフォークに巻き付かせながら私に質問を投げかける。

「バイト先の先輩」私は簡潔に答えた。

「バイトってあの洒落たレストランの?」

「うん」

「カッコいい?」

「まぁまぁ。今のところ家も焼かれてないし」

「芸能人で言うと誰に似てる?」

「うーん……あの、最近やってる刑事ドラマの……」

「あぁ、この間、詐欺事件の犯人に殺されかけた」

「違う違う、そっちじゃない」

「あぁ、じゃぁ、あの変な髪型のやつか」

「そうそう。でも、髪型はあんま似てないかも」

「髪型抜かしたら、ただの特徴ない男じゃん、あの人」

「目元が似てんのよ。切れ長の一重」

「へぇ。こないだのはパッチリ二重だったのに、本当に煙草以外に拘りとか趣向っていうのがないんだね」

「別に煙草じゃないから。性格で選んでんの、性格で」

 そんなような会話を、パスタを胃に流し込みながら器用に交わし、十二時四五分を過ぎたあたりでお会計をした。無論、それぞれがそれぞれ食べた分だけ支払うのである。そうでなかったら、私だってお冷で我慢なんてしないでアイスコーヒーを注文した。

「今日もバイト?」

 そう尋ねてくるヒロに私はできるだけさっぱりとした口調で「そうだよ」と答えると、ヒロはにやりと嫌らしい笑みを浮かべながら「よかったね。会えるじゃん」と言ってきた。「冷やかしの来店は困りますので」と私は口を尖らせながら返した。

 

     *

 

「お疲れ」

 そう私に労いの言葉をかけてきたのは何を隠そう現在の私の彼氏「みーくん」。本名、平田道則。高校の頃の愛称は「みっちー」だったらしい。が、しかし、全く以って親のネーミングセンスを疑う。名前を決める時に、自分の苗字を顧みる、ということをしなかったのだろうか。ヒロには刑事ドラマのあの俳優に似てるなんて言ってしまったが、顔も平凡だし通っている大学も平凡。まぁ、この殺伐とした巨大都市にのどかな地方から出てきたという点は、あるいは評価に値するのかもしれないが。

 そんな彼が実は愛煙家だった、ということは私にとってはちょっとした衝撃で、おそらくそのギャップにオトされたと見える。

結局煙草かよ。

 と、私は自分で下手なツッコミを入れてみるのだけれど、そんなことも数回繰り返していると、さすがに笑えなくなってくる。が、しかし、そんな安っぽいギャップに落とされたと言うよりは、本当は彼が自分の平凡さをきちんと認めていて、だからこそちょっとしたアクセントを欲して煙草に手を出したのではないのか、と私が勝手に彼の健気な心情を慮ってしまった故に恋にオチた、と言った方が正しいかもしれない。その何とも言えぬ「どうしようもなさ」みたいなところが私の心を、特に母性の領域に近い辺りを良い感じに擽るのだ。

「お疲れ、みーくん」

 私たちは勤務の後の解放感を分かち合いながら――といっても、これから店じまいに向けてまだ仕事がいくつか残っているには残っているのだが――とりあえず一段落を得たことに対してちょっとした安堵感を覚えつつ、レストランの厨房から勝手口へと抜けた。ここのレストランはとある駅近の雑居ビルの四階にあって、勝手口から非常階段の方に出ると、夜の十二時を軽く回ったこの時間帯でもまだ都会の街の光が溢れている通りが見下ろせた。隣の二階建てのパチンコ店の屋上も見下ろせる。ただの平坦な屋上で何もないけれど、何もないなりに闇の中にパチンコ台の影が浮かび上がって来るような気がする。耳を澄ませばあの世界の終わりみたいな騒音が聞こえてきそうだ。もう夜も遅いけれど、きっとまだあの屋根の下では、皆数字が合った、合わなかった、で一喜一憂しているのだろう。或いは、煙を燻らせながら。でも、別に煙草に恋をしているわけではない私からしたら、そんなことはどうでも良かった。そんなことを考えているうちに、みーくんは煙草をズボンの右ポケットから取り出して、自分で火をつけた。

 彼はその平凡な顔を緩ませながら、実にうまそうに煙を肺に送り込む。ここのレストランは従業員に勤務中の禁煙を課していたから、客が帰るまではたとえちょっとした休憩時間があっても煙草を吸うことは許されていない。長い勤務時間のあいだ我慢をしていたその分だけ、彼は深く、深く煙を吸い込む。その煙を構成する微細な粒子ひとつひとつまで味わうが如く。私の唇を求めるときよりも遥かに丁寧に。

「今日、ウチくるか?」彼は煙と煙の合間にそう尋ねてくる。「明日は大学ないだろ?」

「行っていいの?」

「もちろん。そのために掃除しといたんだ」

「わぁ、楽しみ」

 彼の家に行くのは初めてのことだった。出会ったのはここのバイトを始めた時だから、随分と昔、およそ半年以上前のことになるけれど、付き合い始めてからはまだ一週間程度しか経っていない。それまでは彼の家に行く機会なんかなかったし、ましてや、行きたいとすら思わなかった。まぁ、そんなことはさておき、今回の招待について言えば、私は少し彼を弾劾してやりたいような思いがある。女性には男の家に泊まる前に色々と準備が必要である、ということを彼は知らないのだろうか。そんな風に、無配慮な彼に対して私はやや幻滅を感じたりもしたが、彼のおそらくは平凡であろう下宿先を頭の中に思い描きながら、私は可愛らしい彼女を演じるための純粋無垢な期待に胸を膨らませる笑顔を装って、それを彼の方に向けた。もちろん、彼のあからさまな魂胆になんてまるで気が付いていないような、人当たりの良い白い前歯をちらりと覗かせながら。「あんま広くはないけど」と言う彼の瞳に、眼下の光を映したものとはまた違った光りが煌めくのが見えた。

 

 ホールの清掃を終え、裏で事務作業を続けている店長に挨拶をしてから店を後にした。私はそれとなく、店長の作業が終わるのを待っていようかと提案する様な雰囲気を醸し出してみたのだけれど、彼の方はそんな私の健気な心配りに気が付くことも無く、私の手を引いて行った。あくまで比喩的な表現であるけれど。

 都会の夜はまだ始まったばかり、といった具合で、すれ違う人々は上機嫌に頬を赤らめ、車のヘッドライトに影を映し出されては光と光の狭間に消えて行く。そんな景色にももう慣れてしまったな、と数年前の制服姿の私を思い出しながら、私は彼が差し出してくれた手を握った。四月最後のほんのり冷たい夜風がそうさせるのか、何故だか、やけにセンチメンタルな感情が私の頭に渦巻いているのを感じていた。まるで印象深い映画のワンシーンに取り込まれてしまったかのようだ。街の明かりに照らし出された街路樹が、去年の春を思い出させたかと思えば、コンクリートの上を転がっていくビニール袋が高校生の春を思い出させたりする。どれも瞬間的なイメージで取り留めのないものではあるけれど、そういうものひとつひとつが私の中に残していくものはどれも鮮烈で、私はこんな平面チックな彼の手などさっさと振りほどいてしまって、音楽でも聴きながら夜の街をどこまでも自由に、まるで時間旅行するかの如く歩き回ってみたいな、などと考えてしまう。

 それでも、私はよく訓練された犬のように彼に手引きされるまま、終電に間に合うようにやや速足に駅への道を歩いていく。気がついたら終電のアナウンスが頭上から降り注ぐ車両に乗り込んでいて、そこら辺の女の子と同じように男の人の大きな背中に守られながら、ドアの間際に立ち尽くしていた。吹き飛んでいく光の街を冷めた目で見送り、揺れる身体を彼に預けたりした。彼の服にほんのりと染み付いている煙草の匂いが鼻先を掠める。

 

 彼の下宿先はいたって平凡なものだった。が、別に平凡なことが悪いことだと言うつもりは無い。平凡。素敵ではないか。テレビにローテーブルにクッションが二つ、三つ。黒や白を基調にそれらのものが並び、後はベッドと本棚があるばかり。本棚に並ぶのは、おそらくは少年心を擽るのであろう有名な漫画数種類と、それから最近のコアな読者が好みそうな類の……これもまた漫画である。それと、大学で使っているのであろう参考書が何冊か。キッチンは綺麗だったが、それは整理整頓が行き届いている、というよりは「生活感が無い」と評した方が正確なようだ。別段、潔癖症であるとか神経質というわけではないけれど、それらのことを部屋に案内されて三十秒程で確かめ、心のうちで「合格かな」と呟いた私がいたことを否定するつもりもない。

「なんにもないけどさ……とりあえず、コレ飲もうぜ」

 そう言って、彼は一本のワインをどこからともなく取り出してきた。「私を酔わせてどうするつもり?」なんておばさん臭い台詞が喉元まで出かかったが、どうにかしてそれを飲み下す。私は当たり障りのないところで「わぁ、おいしそう」と返した。

 深夜番組の皮肉と自虐と独善的な満足感の入り混じった笑い声と、乾いたスナック菓子と安物のワイン。食べ合わせなんてものは考慮するだけ無駄だったけれど、彼の割にがっしりとした肩に凭れ掛かり、そんな凡庸なものであらかた晴らせてしまう憂さを晴らしながら夜は更けていく。アルコールに急かされる心拍を恋の贈り物だと思い込みつつ、交差する視線にはにかんでみたり、時にはあえてそっぽを向いてみたりする。テーブルの隅で今にも落ちそうになっている目覚まし時計の短針がゆっくりと傾いていく。カーテンを閉め切った部屋の中ではわからなかったけれど、その針先はもしかしたら今の月の位置を指し示しているのではないか、と夜に思いを馳せているうちに。

 

「そろそろ寝ようか」

 コマーシャルの途中で彼がそう話しかけてきた。この時になって私は初めて、彼の計画が順調には運んでいなかったことに気が付いた。少しだけ不機嫌そうな表情。灰皿の中は小指の爪ほどに短くなった煙草の残骸で溢れかえっていた。私はそっと彼の肩に手を乗せる。

「そうね、ワインももうほとんどなくなっちゃったし」

 私はそれとなく彼の反応を伺ってみた。明らかに私の返答が的外れであることを彼の歪められた眉が物語っている。そこまで露骨な反応をされてしまうともう少しからかってみたくなるけれど、これが原因でまた別れてヒロに再び小言を言われるのもあまり楽しいことではなさそうだ。

私は「でも、その前にシャワー貸してもらってもいいかな」と奥ゆかしい声で彼の耳元に語りかける。バスタオルの場所を指示する彼の微かに揺れている声音を背に受けながら、私は平凡だけれど清潔なバスルームへと向かった。

 

 翌朝、私はまるで年寄りのように決まりきった時刻に目を覚ました。アルコールの名残もあってか、最初は自分がどこで眠っていたのか良く思い出せなかったが、身体を捻った拍子に左腕が何かにぶつかったところで一息に全てを思い出した。狭いベッドの上で私は薄いシーツを身に纏い、下着にTシャツという格好で眠っていたようだった。息が詰まりそうなほど近くに彼の背中があったけれど、私の無造作に振り回された左腕の餌食になったにも関わらず、その背中はゆったりとした呼吸のリズムを保ったまま、静かな部屋で膨張と縮小を繰り返していた。静かにベッドから降りてカーテンを軽く開けてみると、灰色に輝く曇り空が見えた。その冷たそうな景色に喚起されて、私は自分の身体がちょっとだけ冷えてしまっていることに気が付いた。もう冬ではないし、晴れた日の昼間は夏を感じさせる陽射しが街を包み込むような季節だったけれど、こういう曇った空の日には、まだほんのりと冷たい空気がフローリングの床の上を這っていたりする。

 私は台所に向い、コップ一杯分の水を飲み干すと、それからトイレに行って次にシャワーを浴びにバスルームへと向かった。洗面台の脇には用意周到に準備されていた新品の歯ブラシ(と言っても、昨夜それを使ったわけだから完全な新品というわけではない)が、使い古された彼の歯ブラシの隣に並んでいる。冷たい二の腕を擦りながら、誰が見てるわけでもないのに、鏡の前で軽く前髪を整えた。自分でもその行動の意味が分からぬままTシャツを脱ぎ、下着を脱ぎ、バスルームの中へ足を踏み入れた。

 温かいお湯が出るまで、ぼーっと待ちながら、すりガラス越しに差し込んでくる薄暗い光に目を奪われる。そう言えば電気を点けるのを忘れていた。が、今更もう一度ドアを開けて電気を点けるのも面倒だ。と、そんなことを考えているうちに、差し出した指先に温かい湯が触れる。私はひと思いにその温かい雨の中に頭を突っ込み、乱れた髪に水を含ませていった。

 

 四隅に残った泡を最後に洗い流し、彼には少し悪いと思ったが昨日の湿ったバスタオルは無視して、綺麗に積み上げられている中の一つを手に取った。鏡に写った自分の身体に、どちらかと言えば落胆の方をより多く感じながら身体を拭いていく。バスタオルを頭から被ったまま部屋に戻ると、彼はまだベッドの上で一夜の充足感に浸りながらすやすやと眠っていた。平凡で、救いようがないほどに平凡で、なんだか一周回って可愛く思えてくるような彼だったけれど、その根底に潜む純朴さや温かさといったものは、やはり私の手には余る代物だ。少なくとも、冷めた目をして慣れた手つきで男を抱き寄せる私のような女が軽々しく触れてはいけない存在のようにも思えた。私はテーブルの上に放り投げられている煙草のケースから一本だけ失敬し、次いで百円ライターを空いている指で摘まみあげると、身体一つ分くらいの幅だけ開けたままになっていたカーテンの傍のクッションの上に座り、火を点けるともなく、何の気なしに煙草を咥えてみた。目を瞑ると、制服姿の私が脳裏に浮かび上がってくる。

 

      *

 

 初恋は……なんて言って、思い出されるものをきちんと追って行くと、一番最初のものは幼稚園くらいになるけれど、ごく幼少期の胸の高鳴りといったものを別にすれば、きちんと「初恋」と呼べそうなものは中学生のときの、相手は一回りも年上の母の歳の離れた弟にあたる男性、つまりは叔父さんだった。ただ続柄的には「叔父さん」だったけれど、当時のあの人はまだ二十代半ばだったし、私からしたら「お兄さん」と呼んだ方がしっくりきた。こんな話をヒロにしたら、きっと「どうせ、その叔父さんだか、お兄さんだかが煙草を吸っていたんでしょう」とからかわれるだろうけれど、まぁ、はっきり言ってしまえばその通りだった。だからこそ、私はこの話をヒロにすることができずにいる。

 その人の名は……私が使っていた呼び名は「秀介にぃ」というものだった。私の誕生日の時や、その他の行事ごとに何かと私の前に現れた彼だったが、私が彼に恋心を抱いたのは、実を言えば、彼の方から私に対して興味を示してきたことが原因だった。しかし、このことはもちろん私の母も父も与り知らぬことである。無論、私の方が秀介にぃに対して憧れを抱いていたことは、両親には筒抜けだったと思ってはいるけれど。対する秀介にぃの興味が私に向けられていたことは、私しか知りえない事実だった。というのも、彼は酷く繊細に物事を扱うことができる人で、彼の本心なんてものは彼にとって最も血の近い姉にして私の母である人物に対してさえ、ほとんど全くと言って良いほど公開されることはなかったようだ。頭がずば抜けて良く、ルックスもなかなかで一流企業に勤めていた。何事によらず「誤魔化す」ということに長けていて、彼は私の母はもちろん、父からも絶大なる信頼と期待を得ていて、無論冗談ではあるが、私の父は「たとえ俺が職を失うことがあっても秀介君がいれば、どうにかなるだろう」と酒の席で零してしまうくらいのものだった。

 私も最初の内はそんな彼にうまく誤魔化されていて、会う度に「いやぁ、綺麗になってきたね」とか「将来が楽しみだ」とか冗談めかして言う彼の言葉にただただほんのりと嬉しさを覚えるくらいだったのだけれど、中学三年生の受験を控えた正月、ちょっとしたことが私の心に変化を与えた。

 私はあまり乗り気ではなかったのだけれど、受験を控えた私に「きちんと神様にお祈りしなきゃ」と言う母に連れられて――ちょうどその年の年末年始は母方の実家に行っていたものだから一族ぐるみで、と言っても、秀介にぃと私の一家三人を入れても七、八人の集団で――そこそこに名のある神社へと初詣に出かけた思い出がある。本当ならそんなことせずにちゃんと自分の家で集中して勉強している方が良かったはずだけれど、残念ながら私の母も父も一世紀前のキリスト教徒のような信心深さを有している人達だった。「合理的なことは冷めたこと」と考えるような人達なのである。私はそんな両親をどちらかと言えば好きだったけれど、かといってほんのり積もった雪が足元を冷やすあの季節にあちらこちらと連れ回されてニコニコしていられるほど大人でもなかった。そんな私の曇った表情を察してか、秀介にぃは一族間の退屈な談笑から私を連れ出して初詣の客を喜ばせる種々雑多な出店に案内してくれた。今でも覚えているが、なかなかの田舎にある母の実家でもさらに正月の初詣ともなれば、みなの格好は自ずと伝統と文化と垢抜けなさによって上手い具合にコーディネートされるわけだけれど、その中で秀介にぃの格好は反旗を翻すかのように都会的な流麗さを示していた。たしか、黒いPコートを着ていたと思う。周りが袢纏やら腹巻やらで武装している中でだ。

 私も普段の自称「都会の女子中学生」らしい私服を着ていたから、私たち二人はその初詣の中でそれなりの異彩を放っていたとは思うが、それでも辺りには新年の浮かれた雰囲気が漂い、あまり変な視線は感じなかった。或いは、単に私自身が浮かれていて気が付かなかっただけかもしれないが。

「本当は自分の家でゆっくり英気を養っていたいだろうに」

 白い息を吐き出し、指先を擦り合わせながら、たこ焼き屋の列に二人で並んでいる間に彼がそう言ってきた。私は不機嫌な表情で「もう、ほんとだよ。だいたいこんな遠くの田舎の神様にお祈りしたって仕方ないじゃない。いざ受験日になって、神様が『さて、そろそろあのユリという少女でも助けに行きますか』ってなっても、向こうに着く頃には試験なんて全部終わっちゃってるよ」と返す。

「まぁ、早起きしても無理だろうな」楽しそうに彼は笑った。「それにしてもあの小さかったユリがもう高校生になるのか。何だか不思議な気がするな」

「あと五年もすれば、一緒にお酒飲めるようになるね」

「はは、じいちゃんとかにそう言われたのか」

「もう、一昨日からそんなことばっかり言われるの。時が経つのはあっという間、的な。秀介にぃだけは、そういうこと言わないと思ってたのにな」

「俺ももうおじさんなんだよ。ユリのお父さんなんかには、まだ若いなんて言われてるけど、十代の本当の若者からしたら、成人したやつなんて皆『おじさん、おばさん』だろう」

「でも、秀介にぃはまだ若いよ。結婚もしてないし」

「痛いとこ突いてくるね。結婚ね……ユリはしてみたいと思う?」

「私? 私は……わかんないな。何て言うか、彼氏も作れないのに結婚なんて、また夢の夢みたいなかんじ」

「でも、来年には法的に結婚ができる年齢だ」

「……そうね」私はどこか冷静な面持ちの秀介にぃに丁寧に諭すようにそう言われて、私は胸の奥がざわついた。何度かそういうことも友達と話したことがあるけれど、それはどこか別世界の話のようで現実味はなかったが、一回りも年上で社会に出ている人間、それも秀介にぃのように物事を正確に判断できる人間からそう言われて初めて、今まさに結婚というものが自分の身に起こりうることなのだ、と意識させられた。「結婚」という言葉が数か月後に控えた「受験」と同じような質量を持って肩に落ちてきた感じだった。

「もう、あっという間に大人になるんだ。そして、そういう大人の目で世界を見て行かなきゃいけない」独り言のように秀介にぃは小さく呟いた。それからはっと我に返ったように「ユリは結婚したい、とまではいかないまでも、付き合いたい男子とかはいないの?」と笑いながら聞いてきた。

「いないよ。うちの学校はブサイクで気色悪いのしかいないんだ」

「皆そう言うんだよ。男もそういう事を言ってるはずさ。でも、高校に入って数か月もすると大抵の奴が『あぁ、中学の方がマシだった』なんてことを言い始める」

「そういうもん?」

「そういうもんさ。でも、その傍らでちゃっかり付き合い始める奴らもいる。ユリもそうなるよ」

「そうかなぁ。けど、いまいち『好きになる』ってことがわかんないな。まぁ、優しかったり面白かったりする人もいるけど、なんて言うかそれだけでさ……じゃあ、一緒にデートしたいか、って聞かれたら、そんなことはないんだよね」

「ふふ、若いなぁ、ユリは」

「そう?」そんな言い方をされると、まるで子ども扱いされてるみたいで嫌だったけれど、秀介にぃの視線は穏やかで本当に私の若さを羨んでいるかのようだった。

「それに恵まれているよ。まぁ、中学生くらいの子供なら大抵そうなのかもしれないけど、きっとまだ本当の意味での寂しさとかを感じたことがないんだろうな」

「秀介にぃは寂しいって感じるの?」

「大人は皆感じてるんじゃないかな?」

「じゃぁ、寂しいからみんな結婚してるの?」

「どうだろうね。俺は結婚したことがないから」

「でも、寂しいと『綺麗な女の人とデートしたい』とか思うんだ?」

「ははは、そうだな。まぁ、普通の男はそうだろうな。俺も例外ではないと思うよ」

「じゃあ、どんどんすればいいのに、デート。秀介にぃって結構イケメンだし、一流企業に勤めてるんでしょ? それなりに綺麗な女の人だったらすぐに見つけられるんじゃない? それとも、理想が高いからそんな簡単にはいかないの?」

 

 私の言葉に彼は何かを考えるように目を細め、コートのポケットに手を突っ込んで煙草を取り出しながら、「理想が高いから、か」と小さく漏らした。煙草を咥えて火を点けると、ゆったりとした間を取ってから「でも、ユリとだったらデートしてもいいかもな。制服の可愛い高校に受かるんだぞ」と笑いながら言って、私の頭にぽんと手を乗せた。その時の彼には、それとなくわかる程度に大人の、男性の雰囲気が混じっていた。言葉は冗談っぽくても、私の後ろ髪を撫でる彼の指先と、煙草の煙を吐き出すときの渋い目つきが私の気を動転させた。

 

 たったそれだけのことで私の初恋は始まった。可愛い制服を着るために残り数か月の勉強も頑張った。第一志望校の受験日の一週間前、秀介にぃはケーキを片手に私の家に激励に来てくれたが、私は何故だか素直に彼に会いに行くことができず、一階のリビングで秀介にぃが私の両親と談笑しているのを思い浮かべながら、二階の自室に籠ってノートにペンを走らせていた。もちろん集中なんてできるはずもなかったけれど、今思えば私は「頑張ってるな」と彼が一人で私の部屋を訪ねて来てくれるのを期待していたのかもしれない。そして、彼はそんな私の期待を裏切らなかった。いつだったか、過剰な期待はもうウンザリだ、なんてことを言っていた彼があの日そのまま帰ってしまわなかったのは、きっとちょっとした気まぐれだったと思う。或いは周到に計算されたことなのかもしれなかった。彼の本意を探るのは頭のよくない私には難しいことだ。

 けれど結果から言えば、その日を境にまた彼から伸びる糸がさらに一本、まだウブな私の身体に捲きついてきたような感触を覚えた。階段を誰かが昇ってくる音が聞こえ、それから間もなく私の部屋のドアにノックがあった。「やぁ、邪魔してもいいかな」という声。私が「どうぞ」と答えると、おそらくは母が切り分けたであろうケーキの一切れを真っ白な皿に乗せて彼は私の部屋に入って来た。

「どう、順調?」

「まぁまぁ……」

「来週試験なんだってな。まぁ、あんまり根詰め過ぎないでこれでも食えよ。ユリの好きなケーキ買ってきたからさ」彼は雑然とした私の机の上からテキストを数冊取り上げると、そこにできたスペースに苺のショートケーキの乗った皿を置いた。たしかに苺のショートケーキは好きだったけれど、「ユリの好きなケーキ」なんて言われ方をすると何とも言い難い抵抗感を覚える。それから彼は、うっかりしていたというような表情で私に小さなペットボトルのジュースを手渡し、「ベッドの上、座ってもいいか?」と尋ねる。そして私の了解を待ってからベッドの端に腰を下ろした。彼の視線が私と同じ高さになる。

「ケーキありがとう」

「どういたしまして。まぁ、それくらいしかできることないしさ。湯島天神に御守り買に行く暇はなかったんだよ」

「別にそんなことしてくれなくて大丈夫だよ。私、ふつうに受かるし」

「お、強気だね」

「模試で合格八十パーセントって出てるし」

「へぇ、やるもんだな。でも、だったらそんなに勉強する必要ないだろ。俺だったら、どっか遊びに行っちゃうけどね」

「落ちたくないし……制服の可愛い学校だから」私は椅子をクルリと回して、ベッドの上の彼に背を向け、その代わりに机の上のショートケーキに向き合った。もちろん、私の脳裏には初詣での彼の言葉が浮かんでいたのだけれど、だからこそ、いざ口に出してみると何だか頬が熱くなってしまった。

「それは春が楽しみだな」、なんてこと無さそうに秀介にぃはそう言う。そんな無機質な態度を取られると幾分か気分が萎えてしまうけれど、まぁ、予想していただけに傷は深くはならなかった。「うーん、結構難しい問題解いてるんだなぁ」私がチラリと振り返ると、彼は先程机の上から取り上げたテキストの一冊を開いていた。

「数学の関数が苦手なの。なんかコツとかないの?」

「そうだな……」彼は問題集を見下ろしながら、右手をズボンのポッケに突っ込んだ。無意識のうちに、といった感じだったが、途中で自分のしようとしていることに気が付くと、視線を私の方に上げて、「ここ、禁煙だよな」と笑いながら言う。

「私は良いけど、ママが怒るかも」

「だよな」

「まぁ、でも、窓開けてくれれば良いと思うよ」

「外、むちゃくちゃ寒いぞ」

「私は構わないよ」

 彼は「じゃぁ、お言葉に甘えて」と言って、ベッドから立ち上がると窓の方へと二、三歩足を進めた。窓を開けると彼はライターを取り出し、咥えた煙草に火を点けた。張りつめたような夜空に煙と彼の白い息がベールをかける。じんわりと冷たい空気が足元に這い寄ってきた。

「寒くないか?」

「うん、秀介にぃこそ」

「俺は大丈夫だよ。煙草を吸うと寒さを感じなくなるんだ」

「嘘でしょ」

「ホントだよ。ユリも二十歳になって吸ってみればわかる」彼は窓の外を眺めていたからその表情は見えなかったけれど、私には彼が笑っているのがわかった。

そのとき、ふと私はずっと心の片隅で考えていたことを口に出した。脈絡もなく、私自身の心の準備もできていなかったのに、自然と零れた言葉はそういう時には大抵そうなるように不思議なほどに部屋の中によく響き渡った。

「秀介にぃはいま彼女とかいないの?」

「ん、俺がか?……いると思うか?」

「いる気がする。だって、秀介にぃモテそうだもん」

「そんなことないよ」今度は彼は振り返って、私に笑った表情を見せた。照れている、というよりは、見当違いな私の言葉に呆れ返っているように見えた。「そう思うんだったら、ユリの友達でも紹介してくれよ」

「やだよ」

「あはは。友達想いだな」

「そうじゃないよ」彼の瞳に視線を合わせながら言葉を投げかける私は、自分でも予期しないほどに大胆になっていた。「そうじゃなくて、私は……ねぇ、私じゃダメ?」

 彼は驚いたような顔を見せたけれど、それからすっと顔に浮かんでいた微笑を消すと、「そんなことないよ」と小さく答えた。

「それじゃあ……」

「あぁ、高校に受かったらな。考えとくよ」

「考えとく、って、それって結局何も考えることはないってことだよね」つまりは、受験勉強のし過ぎから来る気の迷いなんて、高校生になって数か月もすればすっかり晴れてしまうだろう、なんて思っているんでしょう?

 秀介にぃは左手の繊細そうな指先に煙草を挟み込んだまま、ゆっくりと私に向かって歩いて来た。冷え切った彼の指先が、まるで白地のキャンバスに置かれる絵描きの最初の一筆のように優しく私の頬に触れる。「違うよ。考えとく、ってのは、デートコースのことさ」

 私は頬を染めて彼の指に顔を支えられながら彼を見上げていたが、当の彼は自分の言った台詞があまり気に入らなかったらしく、苦い笑みを表情の上にちらちらと塗していた。彼は振り返り、また窓辺へと遠ざかっていくと星を探すように斜め上を見上げながら煙草の煙を吸って、そして吐き出した。窓を支えるアルミサッシで煙草の火を消し、そこについた灰の汚れを指で念入りに拭くと、彼は吸殻を掌の中に収めた。窓が閉められ、カーテンが引かれる。

「まぁ、とりあえず試験頑張れよ。こっちの制服の方が俺の好みだ、とかそういう出過ぎたこと言う人間は俺は嫌いだし。ユリが一番気に入るやつを着て来てくれればいいからさ」彼は擦れ違いざまに私の肩をぽんと軽く叩くと、そのまま部屋のドアを開けた。半分ほど身体を廊下に投げ出したところで少し振り返り、「誕生日、楽しみに待ってろよ」と笑いながら言い残すと、後ろ手にドアを閉めて廊下に消えて行った。階段をゆっくりと降りて行く足音が完全に消えると、私はまだ彼の温もりが残っているベッドへと飛び込んだ。そこに置かれたままになっていたテキストが跳ね上がり、雪崩のようにベッドから落ちるのも気にせず私は頭から布団を被ると、どこからともなく湧き上がってくる笑い声を、夢想して創り上げた雑木林の中の石造りの井戸の中に向かって叫んだ。

 私が布団の中でうとうとしかけていると、そのうちに秀介にぃを見送る母の声が階下からうっすらと聞こえて来た。私は頭の上から布団を剥ぎ取り、ベッドの上で耳を澄ませながら、彼が家から出て行く音を聞いていた。ドアが閉まる時の衝撃が家を震わせると間髪入れず、母の声が階段と廊下を駆けて部屋の中にまで飛び込んでくる。

「ユリ、お風呂湧いてるからねー」

「んー、わかったー」

 私はこっそりとカーテンの隙間から家の前の狭い通りを見下ろした。秀介にぃは冷たい電灯の光に照らされながら、そしてお決まりの煙草の煙を夜に浮かべながら、闇の中に吸い込まれるようにして消えて行った。

 

 彼が私のことを気にかけ、そして数か月後の私の誕生日にまた会ってくれる約束をしてくれた喜びを噛みしめながら、私は試験前最後の一週間を外目には淡々とした態度で過ごした。とは言っても感情を自制するのにも限度があるので、両親に緩んだ頬の理由を追及されることを恐れて、ほとんどは試験勉強を隠れ蓑に自室に籠っていたのだが。

 合格率八十パーセント。つまりはまず間違いなく合格するというお告げは見事に正しい未来を言い当てており、統計学の進歩には思わず恐ろしさを覚えるほどだ。そのうち私たち人間の全てはゼロとイチに置き換わって、一見複雑そうに見えて実は何てことの無い関数みたいに、とある入力に対してケースバイケースの色味の無い値を返すだけの存在になってしまうのかもしれない。苦手な数学だったけれど、それが六年間の義務教育を終えて私が学んだことだった。

 春、まずは梅が白い花弁を降らせ、それから取って代わるように色づいた桜が私たちを新しい環境に招き入れる。慣れるまでの間は時間がゆっくりと流れ、一日一日が充足しているような錯覚に陥るけれど、私のような抵抗力の無い人間は二、三週間もすればあっという間に当たり前の日常の中に絡め取られてしまう。気怠い春風に時間が流され、温かな陽光と冷涼な月光の間を行ったり来たりしているうちにさらにまた一、二週間が過ぎ、そしてちょうど疲労感が溜まってきた辺りで、個人的には嬉しいものの明らかにこの国を蝕んでいる黄金色の日々がやって来る。私の誕生日も一緒に引き連れて。

 秀介にぃからの合格祝いが無いことにやや苛立ちを覚えていたことすら忘れていた私にとって、ぼんやりとした休日の昼の微睡はそれを思い出す良い機会になった。学校から出された課題が机の上に積み上げられたまま、涼しげな風にページを捲られては閉じられ、という様子をベッドの上から眺めていると、何となく数か月前のことを思い出す。今は南国に群生する植物の大きな葉みたいに風に揺らめいているカーテンが、冷凍庫に入れられたみたいに凍りついていたあの季節。張りつめた夜空に向かって煙を吐いて、続いて為された彼からの約束。私は知恵の足りない女のようにただ漫然と胸を温めながら、彼が言ったように私の誕生日に期待していて良いのだろうか。期待がふいになってしまった時には、きっとそれはそれは重篤五月病にかかってしまうだろう。

 五月に入って一番最初の日曜日。日付は伏せておくけれど、それがその年の私の誕生日だった。前日の土曜の夜十時過ぎ。私は一週間ばかりの退屈な休暇をやり過ごすために買い揃えていた一抱えの本の一冊を開いて、その上の文字に向かって三秒に一回くらいのペースで熱の籠もった溜息を吐きだしていた。長く退屈な夜は辛辣だったけれど、そんな時、母が階段の下から私に向かって「明日は暇?」と大声で尋ねてきた。どこに連れて行かれるかわかったもんでもないから、私は「どうかなぁ」と怒鳴り返し、母からどうせ気分を落ち込ませられるであろう巡礼先が明かされるのを待ってみた。しかし、次の瞬間には母からの一言によってそれまで私の胸にあった不快なつかえもぱっと消え去り、私はまるで天国でひとっ風呂浴びてきた後にみたいに清々しい気分になっていた。

 翌日、私は家族の誰よりも早く起きて、窓の外の清々しい空気で肺を満たした。クローゼットの中から服を何着か選びだして、その日の雰囲気と上手く合いそうな何パターンかをベッドの上に並べてみた。散々頭を悩ませた挙句、結局「最終決定を見送る」という決断を下し、一旦階下の洗面台まで降りて行って、今日の顔の具合を確かめた。興奮でなかなか寝付けなかったから、目元に若干疲れの色が残っていたけれど、これくらいなら化粧でなんとか誤魔化せそうだ。しかし、まったく、なんだってあんな夜遅くに電話など寄越したのだろうか。報告が遅すぎる。もっと早くしてくれていれば気持ちの準備も、その他諸々の実際的な準備も可能だったのに。五月の風に合う涼しげなワンピースや、雲の上を駆けられそうなくらい軽やかなパンプスを買ったり、しょうもない指先をネイルで彩ったり、伸びすぎた前髪を切ったり、そういった準備も何も無しで、今日という日に臨まねばならないとは。そんな感じで、心の内で文句を並べ立てていたけれど、眉毛を整えているときに鏡に写った私の顔は、檻の中に突如としてバナナの木が生えてきた瞬間を目の当たりにした動物園の猿くらいに幸福そうな表情を浮かべていた。

 ある程度髪の毛やら眉毛やらを整えた後、何年かぶりくらいの爽やかな朝食を食べ、それからやっぱりシャワーを浴びておこうと思い直して、私は着替えを持って風呂場へと向かった。バスタオルを首にかけ、自室に戻り、鏡の前で念入りにドライヤーをかけた。流行りのメイクで日頃我ながら薄味と感じている顔面にささやかな華やかさを施して、それからフローリングを温める太陽の光を見て、念のため日焼け止めを手に取った。私が持っている中で一番高級なボディクリームで身体に膜を張り、一通り身体の最終調整が終わったところでベッドの上に並べられた服に視線を向けた頃には、既に秀介にぃがやって来る時間の三十分前になっていた。未だ風呂上りの簡素な格好でベッドの前に立ち尽くしていると、部屋のドアにノックがあった。

「準備できたの?」母が例の如く癇に障る声とともに部屋に殴り込んできた。

「今、服選んでるところ」

「あぁあぁ、そんなに散らかして」そう言いながら、母は残念ながら最終選考に漏れて床の上で干乾びていた服やらスカートやらを手に取って魔法のように一瞬で畳んでいった。そしてまるで洋服と会話できるみたいに正確に、クローゼットと箪笥の中の定位置に一着一着戻していく。「出したらしまうって、いったい何回言ったら覚えてくれるんだろうね、高校一年生さん」

「ちょっと黙っててくれる? 今、何着てくか考えてるんだから」

「あんた、秀ちゃんにまだ高校の制服姿見せてないんでしょ? せっかくだし見せてやったらどう?」

 母は「どうせ、何で休みの日に制服なんか着なきゃならないのよ、という反論をされるんだろう」というようなつまらなそうな表情を浮かべながら、なおも私の部屋に散らばった服を片付ける作業を続けていた。私も条件反射的に、母が予期していたであろうその言葉を口に出しそうになったけれど、その時になってようやく数か月前、この部屋で交わされた会話のことを思い出した。いざ思い出してみると、どうして忘れていたのかが不思議になるほどだけれど、私が思わぬ事態に呆気にとられているうちに、反論が聞こえないことを不思議に思った母が手を止めてこちらを振り返った。

「制服姿見せてやったら、あんたに入学祝をまだ渡してないこと思い出してくれるんじゃない?」

「はぁ」私は何となく母の言葉に素直に従うのが嫌で、わざと苛立たしげな溜息を零してみた。「そうだね。せっかくだし、綺麗なうちに見せとかないと。半年後とかに汚くなった制服着てるの見られても嫌だもんね」

 珍しく自分の提案に我が子が従順だった満足感からか、母は割に早く私の部屋を出て行った。最後に「ちゃんと部屋片付けとくんだよ」と言い残し、それからゴミ箱の脇に落ちていた糸屑をきちんとゴミ箱の中に放り込んだ後で。

 

 私がブラウスの袖に腕を通し、スカートを履いて、もう一度鏡の前で身だしなみを確認しているところで玄関のチャイムが鳴った。階下で母が秀介にぃを出迎える物音が聞こえる。「ユリ、準備できたのなら降りてきなさい」と母から声がかかり、私は気合を入れるために自分の頬を叩いた。

 

 その日の行程の詳細は、あれから五年の歳月が流れた今でも思い出すことができる。午前十時を軽く回った頃、彼はいつもの飾り気の無い洗練された服を纏ってやってきた。リビングで母たちと談笑しながら一杯だけコーヒーを啜ったみたいだったけれど、私が階段を下りていくと秀介にぃはすぐに腰を上げ、「へぇ、似合ってるな、その制服」と挨拶替わりの一言を投げかけ、そのまま私を連れ立って車で海岸線沿いを気ままにドライブしに出かけた。母には誕生日プレゼントを買いに行く、という風なことを言って家を出ていったのだけれど、秀介にぃはパーティに連れて行かれる子供たちのように綺麗に包装されたプレゼントを持ってきていて、私は私の知らない音楽の流れている車内でそれを受け取った。中身は青みがかった銀色がその日の空の色に良く馴染む、小さなサファイアが胸元で光っているティファニーのネックレスだった。見るからに高校一年生がつけるような代物ではなかったけれど、こういったものを貰って嬉しくないわけがなかった。高価であることなど重要ではないと考えていたけれど、いざティファニーのネックレスなんてものを受け取ってみると、自分がそれを着けるに相応しい女性であるという保証を受けたようで、体の内側から綺麗になっていくような感じまでした。

 女神が落とした涙の一滴のように煌く海を、車を運転する彼の横顔越しに眺め、アスファルトで反射する太陽の光に時々美しいサファイアをかざしてしてみたりしながら、私は人生で初めての恋人とのドライブを楽しんだ。「恋人同士である」というきちんとした取り決めを交わしあったたわけではないけれど、少なくともそれは私にとっては恋であることに間違いがなく、まだまだ子供の私が自分勝手に「私達って良いカップルだよね」なんて言ってみても、大人な彼は笑って頷いてくれるだろう。太陽の光と海の青で磨かれた風が身体を洗っていく。目を閉じ、耳をすませば、今でもすぐにその時の風を感じることができる。眩しさに目を細めながら煙草を吸っている彼の横顔。この世ではどんなものが美しいのか、ということをきちんと心得ていて、その存在を疑うことを知らなかった私。十六歳の柔らかい肌の感触は確かにそこに存在していた。

 ドライブを終えて家に戻ると、母と父と合流し、近所のこじんまりとしたイタリアンレストランに昼食を食べに行った。パスタとピザ、それから秀介にぃに分けてもらった一口のささやかなワイン。大人の味が喉元で熱く唸り、咳き込んだ私の胸元でブラウスの中にしまい込んだティファニーのネックレスが揺れた。食事が終わると誕生日ケーキがロウソクと共に運ばれてきて、薄暗い店内の中で私はロウソクの炎で頬を染めながらその火を吹き消した。煙の匂いと暗闇の中で網膜に揺れる幻炎が、今では鈍い痛みとなって思い返される。幸福の影に犯されるように私は今でもその日のことをふと思い出してしまうのだけれど、その度に私は迷子になったみたいに自分の今いる場所がどこなのかよくわからなくなってしまう。そして、そんな私をまだ見ぬ土地へと導くように、その日の午後のことが続けざまに頭の中に広がっていく。あの港町に散りばめられた色とりどりの灯りたち。徐々に遠ざかっていく景色のように、私は年を重ねるにつれて、その全体の様相をゆっくりと掴めるようになってきていた。

 昼食を食べると、私と秀介にぃの二人は映画を見に街へと繰り出した。母も父もワインのアルコールに当てやられて、休日で賑わう人ごみの中を歩くよりは、静かな家の中で涼しい風を受けながら酔を覚ましていたいと申し出てきたのだ。せっかくの誕生日に悪いけれど。そんなことを言われてしまって、その方がありがたいんだけどな、と内心では感じていた私は間の抜けた笑みを浮かべて「いいよ、全然」と返した。秀介にぃもほんのりと顔を赤く染めていたが、「大人三人がソファの上でくたばっているのを見てるよりも、最近流行ってる映画を見てたほうが楽しいだろう?」と私を連れ出してくれた。といっても、車は運転できなかったから、家族連れやら部活の仲間同士やらカップルやらでごった返す電車に乗ってだったけれど。昼過ぎの少し黄色い陽射しに温められながら、私は電車のガタガタと揺れるドアと背の高い彼との間に挟まれていた。ほんのりと香る煙草の匂いと芳醇なワインの香りが私を柔らかく包み込む。大人の匂いが制服姿の私を安心させてくれた。

 何も考えずに電車に飛び乗ってしまったせいで、いざ映画館について上映時間を確認してみると、私が見たかった映画の次の上映まで二時間くらい時間が空いてしまっていた。仕方なしに、とは言っても心の内では、「デートの時間が長くなった」と喜びながら、私は彼と一緒に休日で賑わうショッピングモールを歩き回り、時折彼の腕に手を回してみたりしながらスカートの裾を翻した。洋服や雑貨を見て回り、ゲームセンターで小銭を捨て、少し疲れてきたところで太陽の下に躍り出て木陰でアイスを食べた。学校の話、恋愛の話、将来の話、他愛も無い冗談。これ以上ないというくらい取り留めのない会話だったせいで、その内容なんて全然覚えていないけれど、木陰に吹き寄せる柔らかな風や、ちらちらと揺れる木漏れ日だとか、そういうものの感覚的なイメージだけは今でもしつこいペンキのように私の身体を色とりどりに染め上げたまま残っている。木漏れ日で煌めく品の良い銀の腕時計に視線を落とした彼が「そろそろ時間だな」と私に声をかけてきた。

 その時に見た映画は、数十分前に私達が交わした会話くらい取り留めのない平凡なラブストーリーで、今でもそのあらすじくらいはざっと説明できるけれど、説明したところでしないのと大差無いようなものだった。ただ、幼い私はその映画の世界にいともたやすく取り込まれて、ラストシーンで少し鼻を啜ったりした。薄暗い映画館を出ると、彼は「ユリは純情だなぁ。おれにはそういう純情さなんて、もう三分の一すら残っていやしないよ」と笑いながら言った。「昔、そういう歌があったんだよ」と付け足す彼に、私はまるで何も知らない子どものような扱いをされているようで少し腹が立ったけれど、彼がそばにいてくれるのなら、そういう自分の無知な所も好きになれる気がした。私は何も知らないまま、人形のように彼に大切にされているだけでいい。そんな風にもちょっぴり考えてしまっていた。

 映画館を後にして、その映画のエンディングテーマを何となく頭の中で流しながら、騒々しいショッピングモールの中を彼と並んで歩く。ふと目をやった大きなガラス窓から見える外の世界には既に夕闇が垂れ込めていて、港町は綺麗にライトアップされ始めていた。「小腹、空いてないか」と誘われて、フードコートでたこ焼きとジュースをご馳走してもらった。私が「なんか、わざわざあんな洒落たレストランなんて行かなくても、これで充分美味しいな」と言うと、秀介にぃはまたも「子供だなぁ」と私を馬鹿にする。

「そんなにムッとするなよ。まだ高校生なんだからそれで当たり前なんだよ」

「でも、さっきだって映画見て泣いてる私見て、馬鹿にしたようなこと言ったじゃない」

「馬鹿になんかしてないさ。単純に羨ましいんだ。そして、懐かしいのかもしれないな」

「懐かしいって……秀介にぃも、高校生の頃はわざわざ高級な蕎麦屋に行くよりも、カップラーメンの方が好きだった、とかそういうことあったりしたの?」

「まぁ、俺も昔は高校生だったからさ。好きな女の子を乗せた電車を走って追いかけるような映画に感動したこともあるよ。でもな、知らない間にそういうものを『子供騙しだ』って否定するようになって……で、今となってはもう何も感じなくなった。いや、むしろある意味ではまた好きになったかもしれない。よくわからないな。でも、これだけは間違いなく言えるけど、おれはカップラーメンより蕎麦の方が好きだよ」

「なにそれ」私は思わず笑いを零した。「でも、やっぱり大人はさっきの映画みたいなラブストーリーって『子供騙しだ』って思うんだ」

「うーん……いや、やっぱりそういう訳じゃないかもな。子供騙し、ってのはただのカッコつけに過ぎなくて単なる同族嫌悪……うん、そうだな、自己嫌悪ってところか。子供の頃の自分が抱いていた、実際に起こることなんてなかったちゃちな理想と照らし合わせたりして恥ずかしくなるのさ。憧れがいつの間にか妬みに変わって、『自分に不可能だったから現実にはそういうものは無いんだ』と思いたいって感じだな。そして、そういう失望の苦しさからなのか、いつの間にか、まともであることよりも普通であることに生きやすさを感じてあっという間に流されてしまうんだ。理想を失ってしまえばもうどこに向かって飛んで行っていいかわからなくなる……そしたら、あとは自分の足首に義務や責任という鎖を繋いで、ふわふわと変な場所へ流されないように普通っていう地べたに貼りついているしかないのさ」

「よくわかんないけど、それが大人になるってこと?」

「そう、それが大人になるってことだ。何もレンタルビデオ屋のアダルトコーナーに入れるようになった、とか、彼氏と温泉旅行に行ったとか、就職したとか、結婚したとかそういうことじゃないんだよ。ちゃんと知ってたかぁ?」

「はは、それくらいわかるよ」

 彼の脳内を蝕んでいたアルコールはとっくに醒めてしいるはずだったけれど、彼は何となくまだ酔いに浸かっているような感じで、ぼんやりと遠くの方を眺めながら、どちらかと言えばたまに自分自身に向かって喋っているような雰囲気があった。時折、あえて私にはわからないような言い回しを使ったりして、私を意図的に突き放すような話し方をした。そのくせ、思い出したように私に笑顔を向けながら他愛のない冗談を言ったりもする。それでも秀介にぃは彼なりに、私との会話を続けられるように色々と舌を回していたけれど、そのうちにそれも面倒になってきたようで、「そろそろ行こうか」と先に席を立った。私は慌てて後を追い、少し離れたところで私を置いて来てしまったことに気付いてその場で立ち止まっていた彼に追いつくと、私達はまた並んで歩きながら人で賑わうショッピングモールを後にした。

 外に出ると日中美しく輝いていた太陽は完全に沈み、近代的なビル群の影に隠れた月が雲を照らしているのが見えた。駅に向けてやや人の流れもあったけれど、私達は、このまま帰るのもなんだから、と夜の港町へとくり出すことにした。ゴールデンウィーク半ばの港町の通りは人でごった返していて、はぐれてしまわないように自然と私と秀介にぃの手は繋がる。空をうっすらと覆う雲に、ぼんやりと光りが反射するほどに執拗にライトアップされた街には、五月の生温い夜風が流れていて、浮き足立っている人々の笑い声を耳元まで運んでくる。騒がしくも煌めいている夜の街を並んで歩いていると、「すごい人だね」とか「オイスターバーだって」とか、そういう高揚感を示す反面、味気ない凡庸な言葉たちが後を次いで出てきた。私たちはなおも歩き続け、港を望める歩道橋の上までやって来た。そこもやはり人でごった返していたけれど、彼は不意にそこで立ち止まり、手すりの上に肘をかける。それから繋いでいた手を離し、ズボンのポケットをまさぐり、煙草の箱を取り出した。私も彼に倣って手すりに手を掛け、港の美しい光の海を眺めてみた。対岸の倉庫街はぼんやりとした光に包まれていて、手前の騒々しい光の羅列とは対照的に、どこか物哀しい雰囲気と人肌程度の温かみを感じさせた。がやがやという咽喉と舌の織りなす音が私の鼓膜を揺らしていたはずだけれど、頭の中ではその遠くの景色の中で足元のアスファルトを踏みしめる誰かの静かな足音が鳴っていた。そしてその倉庫街の無機質な屋根々々の上では、半分ほど欠けた歪な形の月が黒い雲の端に霞みがかって光っている。風が吹きすさび、周りにはもう闇夜だけしか存在しない。街から倉庫街へ、そして倉庫街から月へ、段階的な光の層は不思議なことに、遠くにいけばいくほど、薄弱とすればするほどにどこか宿命めいたように煌めいて、このままこの景色を眺めつづけていたら、これから先永遠にこの光たちが私の網膜にこびり付いて取れなくなってしまいそうな感じがした。そんな風に自分の夢想に吸い込まれそうになっていると、隣からほんのりと煙草の香が流れてきた。その匂いに私はまた街の喧騒を思い出す。

「きれいだね」

 私は手前の港の光を見下ろしながら、どこか「君の方が綺麗だよ」なんていう臭い台詞を期待して言ってみる。けれど、彼は何か苦いものでも口にしたような顔で煙を吐くと、ゆっくりと口を開いた。

「こういった人混みは苦手なはずなんだけどな……でも、やっぱりここは綺麗な街だよ」

「だよね、うん」私は頷きながら、また光の景色を眺めた。「今日はほんとに連れてきてくれてありがと。それにせっかくの休日なのに、一日中付き合わせちゃって……」

「ははは、そんな気遣いができるなんて、ユリももう大人だな」

「今日、一歳年を重ねましたからね。それに秀介にぃと喋ってるとなんだか私も大人になった気分になるの。高っかいネックレスも貰ったし」

「そんなに高くないよ。まぁ、高校生一年生にプレゼントする分には高級だって思われるくらいの丁度良いラインの値段ではあるけれど」

「はぁ……そういうことはプレゼントした相手に言わない方がいいよ。せっかく気分良かったのに、なんか一気に冷めちゃった」

「ははは、ごめんな。こんなんじゃ俺もまだまだ大人にはなれないなぁ……じゃあ、お詫びにまた何か買ってやるよ」

「ほんと?」

「あぁ。何が良いかな……」

 秀介にぃは煙草の煙を深く吸い込み、まるでこの星の数ほどの珠のような光の中から十六歳を迎えた少女へのプレゼントとして一番適当と思われるものを見つけようとしているみたいに目を細め、景色の中に視線を投げかけた。煙を吐き出すタイミングで「やっぱり高っかいものがいいよな」と言うので、私は「もちろん」と返す。

 彼は尚も難しそうな表情で、何が良いか、と考えを巡らせている様子だった。一流企業に勤める彼が思う高価なものってどんなものなのだろうか。いや、そもそも、私はどれだけの値段のものとつり合うことができるのだろうか。彼にとっての私の価値っていったいどれだけのものなのだろうか。

「なぁ、俺の勤めてる会社って、所謂一流企業だってこと知ってたよな?」

「うん、もちろん」

「……でも、悪いんだけどさ」彼は港の光を瞳に映しながら、物憂げに言う。「俺はまだ大人になりきれていないんだ……そう、もしも俺にもう少しだけ……地べたを走り抜いてくだけの気概があったら、ここから見える光を全部ユリにあげることができるんだけどな……」目を細め、秀介にぃはまた煙を吸い込んだ。「今はせいぜいこんなものしかあげられそうにない」

 私は目の前に差し出された煙草を唇に挟むと、恐る恐る息を吸い込んだ。咽返る私の視界の中で、物静かに燃える赤い光の線が蝶の羽のような紋様を描いた。

 

 帰りの電車は混みあっていて、私達が乗り込んだ時にはちょうど一人分の席しか空きが無かった。私は彼に勧められるままそこに腰を降ろし、吊り革を掴んだまま私に影を落としている彼を時折見上げたりしながら、懐かしい我が家へと運ばれていった。彼は私と目を合わせようとせず、一人、思索に耽る哲学者みたいに窓の外をぼんやりと眺めていた。彼が頭の中で何を考えているか、はたまた、ただ今日の綺麗な光の街を思い返しているだけなのか私は少し気になって、何とも言えない疎外感の中で頭を悩ませていたのだけれど、次の瞬間には、彼の「もう着くぞ」という声で眠りから覚めているような始末だった。

 家へ戻ると私達は快く両親に迎えられ、今度はフルーツがたっぷりなやつだったけれど、またケーキを食べながら談笑を楽しんだ。幻想的な時間は遠くに消え去り、時計の短針は老人が若返るみたいに折れた腰を伸ばしていく。秀介にぃは最後に「また来年も呼んでください」と私の両親に言うと、日付が変わる前までには一通りの片づけと、各々が寝支度を整い終えられるような時間を見計らって、あっさりと帰って行ってしまった。風呂に入り、開け放った窓から流れ込む夜風で髪を乾かしながら、何となくベッドの上に横になる。眩しいな、と蛍光灯の白々しい光から身を守るように腕をこめかみに回したことを境に、私の意識は港を望むあの歩道橋の上へと飛んで行った。

 

 目が覚めると電気は消えていた。カーテンの隙間からは鼠色に染まっている静かな街が見えた。墨が浸み込んだみたいな薄暗い部屋の中、目を凝らしてみる。そして今日が曇りなわけでなく単にまだ夜が明けていないだけだ、ということを小さい頃に買ってもらったままの安っぽい目覚まし時計の針を見て知る。鳥もまだ眠っているようで、閑静な住宅街はまるで幽霊の街みたいに静けさの底に沈んでいた。机の上には彼から貰ったネックレスが、まだ夜に支配されている太陽の薄い光でそれとなく煌めいている。昨日感じた幸福感のようなものは全てこの美しい装飾品の中に吸い込まれてしまったみたいに、何故かもう私の中には、光の海を眺めるときの彼の瞳のような、何とも言い難い鈍い虚無の灰色しか残っていなかった。

 

     *

 

 何故だか、こうして私は未だに十六歳のあの誕生日のことを思い出してしまう。もう五年も前のことだし、彼が本当に「また来年も」と言ったのかどうか……もしかしたらその言葉は勝手に私が作り上げてしまったものかもしれないが、しかし、私の十七歳の誕生日を迎えるころには、彼が好んで吸っていた煙草の吸殻よろしく、彼は一切の比喩表現的な意味抜きでの「灰」と化してしまっていた。死因は睡眠薬による自殺ということらしかったが、年頃の私に彼の死の詳細が教えられることは無かった。

 こんなことを思い出しているとどうしようもない気持ちになる。悲しみとも怒りとも言い表せない、少なくとも言葉なんていう塵みたいなものでは、正確には表現できない感情だ。溜息をつき、ベッドの上でまだ寝息を立てている平田道則を見やる。なぜ私は今、彼のこのどうしようもない部屋にいるのだろう。あの鈍い男の満足そうな寝姿はなんだ。昨日の夜の私の行動の全てがまるで煙のように空虚に感じられる。

 喉の奥がわななき、軽い耳鳴りがした。カーテンの隙間から覗く曇り空は、あのときの幻想的な夜明け前の空のようにも見えたし、高校の担任の先生から呼び出され、急遽学校を早退することになったあの雨の日をも連想させた。夏の日暮れに無感情に降りつける雨音が今も頭の中で鳴りやまない。

 指先に挟んでいた煙草を咥え直し、ライターを摘み上げる。秀介にぃの部屋には、何かの引用なのか、「海峡の向う側に僕にも緑色の灯光が見えたなら、或いは時間を戻してやろうという気にもなれたかもしれないが」というメモ書きがあったそうだが、それ以外に遺書と思しきものはなかった。そのメモにあった言葉の意味を私は未だに知りえないが、言葉など、やはり塵のようなものだ。私はあの港町で煌めく光たちを映す彼の漆黒の瞳を見た。その色は、文学的な表現を使えば、もしかしたら死の色だったのかもしれない。ただ、全ては過ぎ去り、今、私はこの見慣れぬ部屋の中、過去を思い出すことしかできない。煙草に火を点け、煙を吸い込む。もうあの時のように咽返ってしまうようなことはないけれど、でもやはり、あの時の匂いはしなかった。

 

2014年

The future should be what you endure

 僕が部屋の灯りを点けると、部屋の中をぼんやりとした黄色い光が満たしていく。冷たい夜風が、ほんの少し開け放っていた窓から入って来るので、僕は上着を一枚羽織ってから狭い部屋に一つだけ設けられているその両開きの小さい窓を閉めるために、そこへ歩み寄った。僕が窓に手を掛けると、ちょうどその時、ずっと下の方を二両編成の古ぼけた電車が高僧アパート群の隙間を縫うように走り抜けていき、その無骨な走りによって、トタンで組み上げていったような荒廃したこの街の無数のアパートたち全てが、まるで拍手喝采を送るようにガタガタと揺れる。

 空を見上げると、アパートの屋上に張り巡らされた電線が、気の利かない額縁みたいに白い三日月を切り取っている。それだけを見ると、僕はいい加減寒さに耐えかねて、吐き出した白い息を部屋から閉め出すように窓を閉めた。隙間風さえ入りたがらないような、というか、そもそも隙間ができるほどの設計さえされていないような、みすぼらしい部屋の中、僕は寒さで凍えた指先を擦り合わせてから、この部屋のほとんど唯一の家具であるベニヤ板を張り合わせて作ったクローゼットの扉を開けた。

「今、帰ったよ」

 美里はクローゼットの角に後頭部を立てかけながら、力無く座っていた。僕は彼女の腰辺りに手を回し、やけに軽いその身体を狭い部屋の中へとひっぱり出す。僕は畳の上に敷いたボロ切れみたいな布団に腰を降ろし、壁に背中を預けると、彼女を膝の上に座らせたまましばらくそうして彼女の穴の開いた背中を見つめて黙っていた。

 しばらくして、また電車が何十階分も下の方を走り抜けていき、僕はその振動ではっと意識を取り戻す。そして、畳の上に投げられていた両手でやっと扱えるくらいの大きさの銅製の捲きネジを手に取り、彼女の背中の穴へと差し込んだ。歯の噛み合う、ガチャという機械音がしてから、僕はそれを時計方向に両手を使って回していく。ただひたすら、さっきまで窓の外に見えていた三日月がその小さな額縁の外へと消えていくまで回し続ける。その間に電車はいったい何台このアパートの足元を通り抜けていったか。通り過ぎる度に数を数えてみようとは思うものの、結局一台までしか数えることのできない僕に夜は冷たく、どこまでもゆっくりと時間を押し流していく。けれど、この街の夜はきっと他の街の夜よりもずっと長くて、僕は指先から肘から肩から、挙句の果てには腰や膝や足首が痛くなるまでネジを捲き続けたのだけれど、それでも夜は決して明けることはなかった。

 いったい何時間、僕は彼女のネジを捲き続けたのだろうか。気が付けば、僕の膝の上に座り続けていた彼女の身体からうっすらと心臓の鳴る音が聞こえてきた。全ての空間が雪で満たされたみたいに静かなのだ、この部屋は。故に、僕が彼女のその小さな鼓動を聞き逃すはずもない。「もう少しだ」と思うと、身体の痛みは蜃気楼が風に掻き消されるみたいにどこかへと失せていった。徐々に彼女の身体に熱が帯びていく。百回捲く度に、彼女の体温は一度上がり、何千回と巻いた頃にはひっそりとした彼女の寝息が聞こえるくらいになる。僕はこの寒い部屋の中で、額から汗を流しながらネジを捲き続けた。

「おはよう」

 僕は彼女の耳元に小さく挨拶の声をかけた。優しく、一枚の羽毛すら吹き飛ばさないような空気を流し込むような喋り方だ。彼女の指先がぴくっと動いた。それは合図だった。僕は彼女の背中から捲きネジを取り外し、そっと抱き寄せる。

ヒロトさん」と彼女は、目を擦りながらこちらの方を振り返る。彼女の細やかな瞬きに合わせて、その可憐なる睫毛が鋭敏な震えを見せる。彼女は僕の名を口にした後は、いたって泰然とした態度を崩さず、そっとそのしなやかな手先を僕の手の甲に伸ばしてきた。僕は彼女の手が僕の手の甲に重なるよりも先に、手を翻すと、こちらから彼女の手をさっと握った。美里の手は、生き物の温かみを宿している。

「ごめんね。今日は忙しくて、美里を起こすのがこんなに遅くなってしまったよ」

「ううん、いいのよ。それよりも今日は寒いわね」

「あぁ。さっき窓の外に向かって息を吐いてみたんだが、これが、また真っ白んだ。まるで真冬だよ」僕はそう言いながら、さっき窓の外に首を出した時に見た三日月のことを思い出した。「今日は綺麗な三日月だったんだ」

 彼女は僕の予想通りに、楽しそうな驚きの声を漏らした。「ほんとうに?」と言うので、「ほんとうさ」と返す。

 彼女は奥ゆかしい動作で立ち上がると、僕の手を引き、月を見るために窓際へと歩いて行った。歩いた、と言っても、この狭い部屋では2,3歩の道のりではあるが。

「もう随分と低いのね。そろそろ、あの建物の影になってしまうわ」

「すまない。本当はもっと早く起こしてあげたかったのだけれど」

「ううん、それは全然かまわないのよ。ヒロトさんが謝ることはないわ。私、一目でも三日月を見られてうれしかったし、それに、私は三日月を見るためにこうしてヒロトさんに起こしてもらったわけではないもの」彼女はほんの少しだけ、僕の手を強く握りしめた。僕は窓の向うに視線を投げる彼女のその華奢な背中を抱き寄せ、彼女の薄い肩に顎を乗せた。彼女は頬を赤らめ、横目でちらりと僕の目の奥を確認する。 

ヒロトさん、目が真っ赤だわ」

「今日は本当に寒かったんだ。それにとことん乾燥していて、この街の空気はね、目に染みるんだ」

「嘘。ヒロトさん、きっと哀しいことがあったのでしょう」

「そんなことはないよ。仮にあったとしても、こうして美里がいる。哀しいことなんて何一つないさ。僕の目をもっとよく見てごらん」

 彼女は怪訝そうな顔で僕の瞳を覗き込んだ。黒く、真珠のように艶やかな彼女の瞳に僕がきっちりと写り込んでいる。僕は彼女の前髪を掻き分け、その猫のものよりも狭い額に口づけをした。 

「やっぱり、哀しいことがあったんでしょう」

「ははは、隠し事はできないな」僕は苦笑いを浮かべ、彼女胸に手を当ててみた。心音が次第に遠のいていく。

「何があったのか、聞かせてほしいわ」

「そうだな。もしかしたら、冬の空気と寂しげな月が僕に乗り移ったのかもしれない」

「冗談はよして」彼女は明瞭な声でそう言った。が、僕の掌に感じる心音は一秒ごとに弱くなっていき、肌は雪のように冷たくなっていく。何度経験しても、僕は未だこの感触に胸をえぐられるような気分になる。彼女はまた死んでいく。 

「また、明日、話そう。おやすみ」 

 彼女は僕の腕の中で、ゆっくりと瞳を閉じていき、そして、一人では立っていられなくなった。甘い吐息を残して、彼女の沈黙に沿うように空が白み始める。僕は彼女を抱えて、クローゼットまで歩いて行くと、彼女の頬に落としてしまった小さな水滴を指先で拭ってから、扉の向こうに彼女を寝かせてやった。

 

 結果から言って、僕は左手を失った。いや、左腕と言った方が良いか。今日の昼間のことだ。夕陽の差し込む部屋の畳の上に、僕はポケットに押し込んでいた札束を投げ捨て、金槌で叩き続けられているように痛む左腕の切り落とした断面の辺りを右手で掴みながら、僕はまとめていた紐が解けて畳に散らばった札の海の上に寝転がった。聴衆の狂ったような歓声が未だ耳に残っている。随分と反響があったことは単純に金銭面から見て嬉しいことだったけれど、おかげで気分は最悪だった。できることならば、あんな連中から金など受け取りたくも無かったけれど、絵を描くためには仕方ない。

 僕の注射痕だらけの左腕は、見世物として観客の目の前で切り落とした後、日ごろ世話になっている連中に売っ払ったのだけれど、こんな無茶をしたのは、別に気が狂ったとかそういうことではない。仮に気が狂ったというならば、僕は生まれてこの方気が狂っているということになるだろう。観客として僕のショーを見に来ていた奴らは、きっと気にしないだろうが、僕が腕を切り落とした理由はとても簡単で、一応背説明するとするならば、単純に金の為だった。僕は画家であるし、眼と右手さえあれば・・・いや、正確には眼と右手と薬さえあれば、仕事はできる。本来は「眼と右手と美里さえいれば」ということだったのだけれど、僕は美里を失ってから、彼女の身体に発条を組み込むまで、まったく絵が描けなくなってしまったのだ。そして、僕は全てを失うことを承知で薬に手を出した。

 薬を手に入れることなど、この灰や塵だらけの街では息をすることよりも簡単だ。この街に無いものなんてあるはずも無く、あえて、それでも何か一つ無いものを、と問われれば「それは、意味だろう」なんて言葉を軽々しく口にできるほど、この街にはなんでもあった。いや、決して豊かというわけではない。この街にブランド製品なんてものはないが、かと言ってブランド製品を欲しがるような馬鹿もいない。つまり、この街で生きていくために必要なものは何でもある、という意味だ。ブランド製品が欲しければ、この街を出て行けばいいのだ。

 そんなわけで、僕は絵が描けなくなると薬を求め、そして冴えわたる頭を壁に打ちつけながら絵を描き、金を得た。最初の内は良かったのだ。薬は少量でも良く効いたし、そのおかげで、薬の出費よりも絵で稼ぐ収入の方が多く、この荒廃した街で、僕はちょっとした名声すら勝ち得ることができたのだ。そして、溜まった金で、僕は美里の身体に発条を埋め込んだ。美里に事情を説明するには、僕は3度もあの永遠なるネジ捲きをしなければならなかったけれど、僕の深い愛情に彼女は泣きながら喜んでくれた。が、そんな幸せなどまさに流れ星のように一瞬の出来事で、僕が5時間もかけてネジを捲き続けても、彼女が目を覚ましていてくれる時間は十分もなかったし、次第に収入よりも出費がかさむようになっていった。そして僕は左腕を失った。

 

 天井のトタンはあのトランプタワーの一枚のように、このアパートの必要不可欠の一枚として、辛抱強く夕焼けの色を受けていた。僕は顔を傾け、左目に写ったクシャクシャの紙幣に手を伸ばそうとした。が、手ごたえは無い。僕は喉の辺りに熱い込み上げを感じ、歪む視界を手の甲で拭うと、ひとつ、重たい溜息を吐き出してから、右手でそれを拾い上げる。その皺だらけの紙屑を右手だけで破るのは容易ではなかった。

 

 やがて日が暮れ、冷たい夜が僕の首筋をなぞる。僕の耳にはまだ野次の音がこびりついていて、時間が進むにつれて僕の中に閉ざしていたあの鮮血の記憶が浮かび上がってくる。きっと、あの瞬間は薬を打った時と同じような物質が身体を駆け巡っていたのだろう。あの瞬間は痛みなど感じなかったし、静脈のどす黒い血と動脈の鮮やかな血とが混じる様子を見ても恐怖すらなかった。が、もう僕を救うものは僕の中に流れてはいない。例の物質は、全て僕の左腕の中で生産され、貯蔵されていたかのように、完全に失われていた。僕はさっそく手に入れた金で薬を買いに下まで降りて行こうかとも思ったけれど、残念なことに外が暗いのはわかるが、この部屋には時計というものがなかったうえ、窓の外を眺めてみても漆黒の雲が空を覆っていて月は見えず、いったい今が何時なのか全く見当がつかない。軽い混乱状態、いや、放心状態と言った方が正しいか、とにかくそういった冷静な自分でいられないこの状況においてはもはや、時間感覚などというものは肩甲骨を見て翼の名残を思うが如く、ただそういうものが嘗てはあったのだ、というシコリみたいなのを頭の中に微かに感じるだけだ。仮に時間がまだそんなに遅からず、薬屋の爺が酒を飲んでいるとすれば、今にでも下に降りて行って、彼に札束を投げつけ、釣銭をもらう時間すら惜しみながら、自分の左腕に注射の針を・・・左腕?

「そうか。もう左腕は・・・」 

 僕は呆気なく冷めた笑い声に包まれた。まったく、こんな笑える話があるだろうか。僕は一通り天井に向かって笑いかけてみたが、数分経ったくらいで、例の電車が通ったせいだろうか、僕と向かい合う彼は「カタカタ」と乾いた笑い声をあげただけだった。

 笑い疲れたせいで、僕はもう下へ降りて行って薬を買おうなんていう気は失せてしまっていた。下に降りるまでには何千段という階段を降りなくてはならなかったし、それに、僕は下に降りるということは帰りには上がって来なければならない、という歴然たる事実を完全に忘れていたのだ。仮に数千段の階段を降りることができたとしても、帰りにそれと同じだけの段数を昇るなんて、左腕も無いのに不可能である。

 

 そうこうしているうちに、夜は深まっていく。空気は冷たく、僕の身体は末端から徐々に冷たさを帯びていったが、窓を閉める気にも、布団を被る気にもなれず、ましてや、彼女を抱き寄せてネジを捲くような気にもなれなかった。ただただ、遠いような近いような天井を見上げ、背中に服の折り目や屑のような紙幣の凸凹を感じながら、横になっているだけだ。僕はとりあえず、頭の中でゆっくりと十を数えてみた。それくらい数えれば、その間に薬屋は閉まってしまうだろうし、そうすれば何かと色々と気持ちは切り替わって、そのうちに起き上がるだけの元気も回復するかもしれない、と、そう思っての行動だった。

 息を吐いて、吸って、という繰り返しの間に、たまに「一」と小さく唱え、右手の指を1本曲げる。だいぶ時間をかけて五まで数えたところで、ふと、短く笑って、次の一秒で左手の人差し指を曲げる代りに、右手の小指を再び開く。まるで、この世界のいたるところに、片腕初心者である僕の為に、左腕を失くしたことを気づかせてくれるアラームのようなものが設置されているような気がした。十秒ではなく、五秒にしておけば良かったと後悔したのはこれが初めてで、おそらく今後何度となく似たような失望を感じることであろう。

 僕はひとまず、永遠にも似た十秒を数え終わると、一つ息を吐き、わずかながら身体に力が入ることを確認してから、ゆっくりと身体を起こし、冷たくなって痛む左腕を擦りながら、窓を閉め、紙ペラを部屋の隅に寄せると、クローゼットの中から美里を取り出した。いつも通り、彼女を膝の上に乗せ、今日もまた寒いので、肩から、否、右肩から毛布を掛け、冷たくなった銅製の捲きネジを右手で掴み、彼女の背中の黒く冷めた穴へと差し込むと、いつものようにネジ捲きを始める。最初の内は片手でネジを回すことの難しさに若干戸惑ったけれど、だんだんと動作に慣れていき、両手でやっているときよりもスムーズに、とまではいかずとも、両手の時と比べてそんなに遜色ないくらいには滑らかに回すことができた。予想通りである。が、しかし、自分の頭の悪さを思い知るのはそれから数時間後であった。滑らかに、素早く、ネジを捲くことはできたのだけれど、両手でやっていた作業を片手でやるようになったのだ。当然、疲労が溜まるのは2倍も、3倍も早く、気が付けば、初めて彼女のネジを捲いてやった時のように、僕はこの寒い季節だというのに、汗を額から流していた。

 右肩から掛けていた毛布を降ろし、僕は上着の肩の辺りで額の汗を拭った。徐々に彼女の身体が温かくなっていくのを感じ、あと少しだ、と自分を励ましながら息を切らし、ネジを捲く。僕はいつものように、背中の捲きネジを抜き取ると脇に捨て、世界が夜だということも忘れて、「おはよう」と朝の挨拶を彼女の横顔にかけてやった。

「おはよう、ヒロトさん」 

 彼女は本当に、休日の朝にのんびりと起きてきた娘のような感じで、眼を擦り、小さな欠伸を含んだ気の抜けた表情で僕に挨拶を返してくる。僕はそっと彼女の右手に自分の右手を重ねた。 

ヒロトさん、どうしたの、その手!」

「なんでもないよ」僕はネジを捲く間の充分過ぎる時間を使って、失くした左腕についての言い訳を考えておけば良かった、と心底後悔しながら、そう返すしかなかった。

「なんでもないことないわよ。昨日まで・・・ううん、昨日なのかどうかは知らないわ。とにかく、この前ヒロトさんと会ったときには、ちゃんと左手があったのに! なんで・・・」彼女は口元に手を当てがいながら、刺殺体を見つけてしまった時のように、驚愕に青ざめた顔で僕を見上げている。美里は既に僕の膝の上からは離れていて、畳の上に膝をつけ前のめりになった身体を両手で支えているという格好だったけれど、部屋の隅に押しやられた例の紙幣の山を見つけると、身体を起こし、膝だけで歩いてその山の麓まで近づいていった。「このお金・・・もしかして、またあのお薬、使ってるの?」

 僕は黙ったまま彼女の方をじっと見つめた。美里はしばらくの間、僕の方に視線を向けていたけれど、僕が沈黙を守ることを決意していることを悟ると、また紙屑の山の方に目を向け直した。彼女はひとり、首を横に振り続けながら、「私、ずっと前から気になっていたのに、ヒロトさん、時間が勿体ないからよそう、なんてことばかり言って、私をはぐらかして・・・もう、どうしてこんな事に・・・隠し事はやめてって言ったじゃない!」彼女の甲高い叫び声はおそらくアパート中に響き渡っただろう。が、このアパートには人の揉め事に口を挟むような輩はいないし、この時間では既に泥のように眠っているか、酒を飲んで正気を失っているかだ。僕は彼女に叫ばせたいだけ叫ばせた。

 

「自分の腕を売るなんて・・馬鹿げてるわ! どうやって生活していくって言うの!」

「右手はあるし、絵は描けるさ」

「そういうことを言ってるんじゃないわよ。ねぇ、そこまでしてお金が必要なの? 絵を描くだけじゃお金は稼いでいけないの?」

「絵を描くためには薬が必要なんだよ」

「じゃぁ、絵なんて描かなきゃいいじゃない! お金を稼ぐための絵を描くのに、もっとたくさんのお金が必要なんて、おかしいわ」

「言い方が悪かったな。僕は、もう薬なしじゃ生きていけない身体になってしまったんだよ。もちろん、絵を描くためにも薬は必要だが、それの大前提として、ただ生きていくためにも・・・植物に太陽と水が必要なように、僕には薬が必要なんだ。どうしようもないことなのさ」

 美里はその洗練された目尻から涙を一筋だけ流す。それから、鼻を啜り上げ、湿気を含んだ息の塊を吐き出すと、僕の方に近寄ってきた。そして、僕の左腕の切断面(肩の可動部分から拳一個分くらいの所だが、今は決して清潔とは言え無さそうな包帯でぐるぐる巻きにしてあり、上着の中に引っ込めてある)の辺りに手を伸ばすと、服の上からそこを優しく撫で、「ごめんなさい、私のせいだわ」と力無い声で言う。

「そんなことはない」僕は力強く否定する。

「いいえ。ヒロトさんがお薬を使い始めたきっかけだって、私が死んでしまったせいじゃない。私はヒロトさんを苦しめるばっかりなんだわ」

「違うよ。僕は・・・僕は美里のいない世界なんて惜しくない。ましてや自分の左腕なんてこれっぽっちも。たとえ、美里が僕を苦しめる、なんてことが仮に起こったとしても、そんなことはどうだっていいんだ。さっき、僕は生きていくためには薬が必要だ、と言ったが、薬なんてものは、所詮、植物にとっての太陽や水くらいのものさ。美里は僕にとっての全て、つまり、世界なんだ。世界が無ければ、植物も何もかも、存在することはできないだろう。「何もかも」というのは、生命であるとか、そういったこととはもはや次元が違う。思想や感性や、全ての抽象的な存在についても言えることだよ」

 僕は熱を込めて、彼女に語りかけた。けれど、彼女は完全に口を閉ざしてしまって、部屋の扉の向う側で、下の階か、そのまた下の階か、それともずっとずっと下の階か、或いは上の階だったのかもしれないが、酒に酔ったと思しきこのアパートの住人が、廊下か階段で何やら悲痛な呻き声を上げる音が響いているのが聞こえるだけだった。それから数十秒もしないうちに、彼女は両手で顔を覆うと、声を上げてまるで赤ん坊のように泣き始めた。しかし、その声は突如弱まり、次の瞬間には彼女は畳の上に倒れ込んでいた。閉じた瞼の下には涙の川の跡が残り、心臓が止まってもなお魅力的な黒髪が、血の気の失せた頬に引っ付いている。呆気なく、彼女との時間は過ぎ去り、僕は彼女の追及を免れた安堵と、貴重な時間を無に帰してしまった後悔とに挟まれ、悶えながら畳の上に身体を投げ出した。

 夜はまだ明けない。僕は汗ばんだシャツを脱ぎ棄て、わずかに血の滲んだ不潔そうな包帯を見下ろし、右手で微動だにしない彼女の左手を掴み、そのまま目を瞑った。左腕一本分、少し寒いのを埋め合わせるように、彼女を隣に湛えながら灯りも点けたまま眠りに落ちていく。 

 翌日、小さな窓から差し込む鋭い朝日に瞼を貫かれ、日頃の睡眠不足と何故だか痛む左腕に闇雲な憤りを感じながら、身体を起こす。布団も敷かずに寝ていたため、右足の踝に畳の跡が刻み込まれてしまっていた。そこまで一通り自分の身体の点検を終えたところで、僕は自分の隣に横たわっている人影に気が付いた。その顔を確かめると、僕は誤って爪楊枝を飲み込んだみたいに飛び上がって、朝日をしたたかに纏っている彼女のもとへと駆けよる。

 白くきめ細かい肌は、朝露を装飾した蜘蛛の糸のように煌めいていて、夏の草原みたいに穏やかな腕の産毛が陽に透き通っている。血色の悪いはずの頬にも懐かしい温かみが宿っている。本当に、夜更かしをした次の日に、ただ昼過ぎまで寝ているだけのような優しげな表情に僕は天使のうなじを目の前にした時のように、純粋に見惚れて、ずっと前に沈めてしまった記憶の氷塊を深海から引き揚げると、僕はそれにそっと息を吐きかけてゆっくりと溶かしてから、目尻からその雫を流した。僕は冷たい彼女の手に右手を重ねる。そして、小さな窓から差し込む、窓の十字の支えの影付きの光を背に受け、彼女を容赦なく襲う懐かしき朝日から守った。陽の下で朗らかに笑う春の彼女の面影は、もう僕の記憶の中だけで、目の前の彼女自身からは完全に失われてしまっていた。僕の醜い影も左腕を失い、それと共に過去の姿を失い、この狭苦しい部屋の中、僕たち2人は、欠陥品の処理場に設けられた薄汚いゴミ箱の中に捨て去られてしまった、そんなうら寂しいような気分に襲われる。

 僕は涙を拭き、とりあえず、彼女を暗いクローゼットの中にしまった。部屋の中から彼女の姿が見えなくなると、何となく狭苦しく感じられた部屋も、自分の身体にぴったりとフィットするようなところを飛び越えて、やけに広々と感じられ、なんだか自分が、秋の夕暮のアパートの屋上に忘れ去られた洗いたての黒い靴下の片割れになったような、得も言えぬ寂しさに囚われた。風すら入り込まない部屋で、隅に押しやられた紙の束が光の塵を受けて満足そうにしている。左腕の無い人影越しにそれを眺めていると、無性に腹が立ってきて、マッチの頭から足先までとは言わなくても、あの赤い頭の部分さえどこかに転がっていれば、僕は眼を爛々とさせてそれを拾い上げ、たとえそれが涙に湿っているようなことがあっても、きっと何とかしてその紙屑に火をつけただろう。が、僕の部屋にはそんな哀れな赤い頭部すらおらず、紙幣に描かれた、今や、この街の誰もがその名前を知らぬ、いかにも博学そうな無数の顔ばかりが僕を睨んでいた。

 そこまで来て・・・ちょうど感傷と怒りが打ち消し合うような形で僕の中から一切の感情が消え去ったところで、僕は彼女を朝日に晒した過ちについて思い返していた。彼女の身体は、もはや陽の光すら受けられないのだ、少なくとも死んでいるときは。それは至って生物学的な理由であり、説明はそれだけで十分と言えた。まさか、彼女の真の姿は吸血であった、などと言い添える必要も無ければ、世にも珍しき「太陽の光アレルギー」持ちであると嘯いて同情を買うつもりもない。ともかく、僕は彼女の身体を辛辣な太陽の光から守らなければならなかったのだけれど、寝起きだったせいなのか、悠長に何十秒間も太陽のスポットライトの中で舞台のワンシーンさながら彼女の温かい顔を見下ろしてしまっていたし、そもそも腕を失ったことによる動揺のせいなのか、眠りに落ちる前、彼女をクローゼットの中にしまい込むという通例業務も忘れてしまっていた。まったく、僕はなんて馬鹿なのだろうか。切り落とした左腕の中には、実は脳みそがぎっしり詰まっていたんじゃないか、と疑いたくなる。

 

 それから僕は絵を描いた。太陽の光を受けた彼女の姿を一目でも見れたおかげなのだろうか。薬は必要なかった。何をヒントにそんなイメージが浮かんだのかはわからないが、この街ではない、どこかもっと清潔で洗練されていて、そして生き物が失われた静かな場所の雨上がり。朝なのか昼過ぎなのか、時間帯は良くわからないけれど、空はだいたいが雲の薄い灰色で、遠くの方には千切れた様に水色が見え隠れしており、地面には薄い膜のような雨水が流れていて空の色を銀色に変えて映し出している。右手には雨の水溜りの色と同じような鉄骨で骨組みされたガラス張りの建物があって、白とも青とも黒とも判別のつかぬ服を身に纏った僕(まだ左手を失っていない時分の僕である)が、力無くしゃがみ込んでいた。所々に、あの雨上がり独特の濃い色をした緑が、自然の美しさを主張する、というよりもむしろ、その場所の病院のような寂しい清潔さを印象付けるような形で描かれている。全体的に窓枠に積もったその年で初めての雪みたいな冷たい美しさが刻み込まれている感じの絵だった。

 

 気が付けば夜。粗く、完成度の低い絵ではあったけれど、初雪の如き新鮮味のある絵が描けた。僕の頭は、このアパートの何億段もあるであろう階段を一番下の階層から一段ずつ丁寧に数えながら上がってきた後のような、取り留めもない混乱の中にあったけれど、辛うじて夜であることがわかると、ついさっきしまい込んだばかりの彼女をまたクローゼットから引きずり出して、今日もまた、額から汗を流しながら、右手だけで永遠なるネジを捲いた。瞳を輝かせながら僕の描いた絵を覗き込む彼女の端正な横顔を思い浮かべながら。

 彼女の純粋なる笑顔を思い浮かべながらのネジ捲きの時間は、僕の心から水に沈めた鉛のような重たい感情を消し去り、そしてあっという間に彼女を覚醒へと導く。窓の隅には親愛なる黄金の半月が覗き、彼女が僕の絵をそっちのけで窓の方へ駆け寄ってしまわないだろうか、という心地よい不安に、小動物に指先を舐められているときのようなくすぐったい気分になる。また、僕の膝の上で彼女は体温と鼓動をゆっくりと取り戻していき、首筋からは生の匂いが漂い始める。僕はいつものようにそっと、おはよう、と声を掛ける。

 「おはよう。ヒロトさん」彼女の声は弱々しく、まだ深い眠りの余韻を引き摺っていた。彼女が僕の左腕の件でまだ怒ってやしないか、と少々不安ではあったけれど、今日一日かけて描いた僕の絵を一目でも見てさえくれれば、きっと機嫌を直してくれる自信は十分にある。なぜなら、彼女の為に描いた絵なのだから。

 僕は彼女の後ろ髪を優しく撫で、彼女が眠りから完全に目を覚まし、そしてあわよくば、視界の端に素敵な絵があることに気が付いてくれるのを待った。

ヒロトさん」

 彼女の声はまだ雪の日の夜みたいに静かだった。僕も小さな声で、どうしたの、と聞き返してみる。

「驚かないでね、私・・・」彼女はそこで一旦言葉を切り上げ、湿り気を帯びた溜息を部屋に浮かべると、彼女の腹へと回した僕の腕の上に熱い涙を零しながら、「眼が・・・眼が見えないの」と力無く言葉を添えた。

 僕はそれなりの大きさのハンマーで側頭部をガツンとやられたみたいに、一瞬のうちに何も考えられなくなり、無意識下で「嘘だろ」か、「そんな」か、どちらかの言葉を返す審議会を設けると、難航した話し合いの結果を待ちきれなかった唇が「そっか」と、待ち合わせに遅れた女の子の言い訳に対する返答みたいな感じで短い言葉を零した。彼女はこちらを振り返り、そして、涙に溢れた虚ろな瞳を僕に向けた。

「どうしよう・・・私、ヒロトさんの顔、見れなくなっちゃった」大袈裟な音響効果無しでも、彼女の心からの悲鳴が聞き取れる。彼女は小刻みに頭を横に振り、震える身体を自分で抱きしめながら「どうして」、「どうして」とだけ小さく唱え始めた。

「僕のせいだ」

 僕が朝日に彼女を晒したせいであることは明白だった。彼女よりはまだ本来の生き物に近い僕ですら、今朝の朝日は瞼越しにも凶悪であった。身体に発条を埋め込まれてただ僕の好き勝手に生かされている無垢なる彼女が、そんな凶悪性に打ち勝てるはずも無い。僕は彼女よりも一回り大きな身体をガタガタと震わせて、彼女の手を取った。彼女の両手を繋ぎとめてやりたかったけれど、生憎、僕には片手分しか持ち合わせていなかった。

「僕が、美里を朝日に晒したりしたから・・・」

「どうして・・・ごめんなさい・・・なんで」

「ただの不注意だったのかもしれない・・・それか、もしくは、気が狂っていたか」

「ごめんなさい・・・私、ヒロトさんの顔も、ヒロトさんの絵も・・・何も見れない」

「僕は馬鹿だ。美里をこんなにしてしまって」

「どうしたら・・・私、ヒロトさんを苦しめてばかりだ」

「ちくしょう! なんで美里ばっかり!」

「なんで私は・・・」

 彼女のか細い泣き声を僕は抱き寄せ、光から何からを失った彼女の瞳に無意味に被さる瞼にそっと唇をつけた。睫毛がふわふわと僕の下唇を持ち上げる。僕の心臓は憤りと絶望とに駆られ、一秒でも早く、一回でも多く残りの心拍回数を消費しきってやろうと、今にもはちきれてしまいそうに膨張と収縮を繰り返していた。そんな僕のそれとは反対に、彼女の胸中のはかなき生命は次第に減衰の一途を辿っていく。おそらく朦朧としていっているであろう意識の中、彼女はしゃっくり混じりの言葉を残す。

「ごめんなさい、私、色んな物をヒロトさんから貰って、こうして生きていられたのに・・・ヒロトさんが色んな物をかけて私にくれたものなのに、それを失くしていくばかりなんだわ。大好きなヒロトさんの顔も絵も、何も見えなくなっちゃうなんて。ごめんなさい、ヒロトさん。私、ヒロトさんの為に、ヒロトさんの描いた絵を見て、笑顔を見せてあげたかった」そこで彼女はひとつ区切りをつけ、そして鼻を短く啜り上げると、ぼろぼろだけれど、どこか清々しい一瞬の微笑を浮かべ、それから言葉を続けた。「でも、多分、今からでも、まだ時間はあるはずよね。ごめんなさい、もしかしたら、ただの嘘っぱちのように見えるかもしれないけれど、私、ヒロトさんが絵を描いてくれたの、わかるわ。こんな狭い部屋じゃ、絵の具の匂いなんて一発でわかるんだから。そう、ヒロトさんが何色の絵の具で、どの筆を使って、どんな絵を描いてくれたか、なんてことはね、簡単にわかってしまうのよ。だからね、感想と感謝をね、私にも表現させてほしいの」

 彼女は両の腕で僕を抱きしめ、そして僕の呼吸を探るように鼻先を震わせると、それからにっこりと笑って僕の唇に彼女の冷たくなりつつある唇を重ねてくれた。「ヒロトさんの絵、素敵よ。眼で見てあげられないのが、本当に残念だわ」精一杯の笑顔を僕に向けたまま、彼女はまた深い、深い眠りへと落ちていった。僕は関節だけになった彼女の身体をしばらくの間抱いた後、窓の額縁から黄色い半月が、彼女の瞳に写されることも無しに去っていくのを見た後で、再び同じ過ちを繰り返さぬよう、寂しさを特大の鉈で断ち切って彼女をクローゼットの中にしまいこんだ。独りの長い夜が僕を捉え、空が白み、果ては街がざわつくまで、僕は眠りに落ちることができなかった。

 

 太陽が傾きかけ、街にくたびれたような色を浮かび上がらせる辛辣なる光を投げかける時分、僕は朧気な夢にそっと幕を引き、この狭い畳の上に支配された世界へと戻ってきた。僕の気持ちは長い降下を潜り抜け、今では枯れ果てて粘土質の黒い土が剥き出しになった井戸の底にしっかりと腰を下ろしている。何もかもがフラットに感じられるようで、何もかもがまるで夢見心地のように、実体を為していない。訴えかけてくるのはせせら笑う白い太陽の影と、くすんだ畳と、色褪せたクローゼットと、左腕の無い一体の影だけで、もはや自分が生きている感じすらしなかったけれど、ほんの数秒前まで見ていた夢を思い出す暇も無く、僕の胃は間の抜けた呻き声を上げた。――「そういえば一昨日から何も食べていなかった」――戦地に送り込まれた兵士さながらの台詞が、僕の頭で蚤のように飛び跳ね、僕は手元に落ちていた紙切れを何枚か掴んでズボンの尻ポケットに入れると、ドアのフックに掛かっていた鍵を取って、部屋を後にした。

 錆だらけの赤黒いタイルを張り合わせて作った、トランプタワーを想起させるこのうらぶれたアパートは、荒廃した未来都市の遺物のように、その高さは著しく、そして「口」の字に廊下が張り巡らされていて、階層と階層とを縦横無尽に繋いでいる階段は今にも崩れ落ちそうで、遠く上方を見上げれば、黄色い雲が浮かんだ塵だらけの青い空が小さな点になって見える。生活臭とも工事現場の匂いともつかぬ、錆と油の匂いが立ち込めるこの細長いアパートには蟻塚の蟻みたいに無数の人間が生活しているはずだったけれど、実際に感じるところとしては、墓地を組み上げて作ったのかと思いちがえるほどに静かで、時折廊下に腰を下ろしている老人や身体に何か知らの不具合をきたしている(まぁ、僕も晴れてその一員になったわけだけれど)顔の浅黒い人間も、身動きというものをすっかり忘れてしまったようで、内気な亡霊のように、ただ何となく見えるだけである。僕はできるだけ廊下沿いに設置された堅実な階段を選んで(「口」の字の口の中を滅多切りしている自由奔放な階段を使っても良かったのだけれど(気にすることなど無いのかもしれなかったけれど)人目に付くことと、階段の老朽化が結果的に僕に齎してくれるであろう「昇天」ならぬ「降獄」を恐れたのだ)、馴染みの食事処が店を構えている階層まで降りて行った。一段、左脚を降ろす度に、その僅かな振動で左腕の付け根が痛み、一段、右足を降ろす度に僕の愚劣な行動による記憶が痛み、息を吸い込めば、塵の多さと空気の薄さに目が眩み、心臓が打ち鳴らされれば、それはやっぱり振動となって左腕の付け根が痛む。額から垂れる汗が階段を侵食してぼろぼろの鉄くずへと変えて、そのまま僕は錆びだらけのタイルごと下へと真っ逆さまに落ちていくんではないか、こんなことなら空の光を浴びることができる自由奔放な階段を使っておけばよかった、などという空想が湧き上がったりもする。そんなこんなの身体的かつ精神的な不安定性の中に埋もれ、そのうちに僕は「飯を食う」という目標を掲げることで、一先ずの安息を得られることに気が付くと、それからは頭の中で、米を一度噛む度に階段を一段下りる、というようなルールを設けて、ただどこまでも素直に脚を降ろしていくことに専念した。

 ちょうど丼三杯分の米を妄想の海の上で平らげたあたりで、僕はようやく本当の飯にありつけそうだった。尻ポケットに詰め込んだ紙屑は汗でほんの少し湿っているが、それでも本来の機能を果たすことはできるであろう、と確認してから、僕はスケッチブック程度の大きさの木製の看板がぶら下がっているだけの(それには当然、「営業中」と書かれていて、裏面にはきっと黒々とした文字で「休憩中」などと書かれているはずなのだろうけれど、僕はその三文字を見たことが無い。営業してなくたってこの店は「営業中」なのだ)飾り気がない、と言うよりはむしろ、汚らしいと表現した方が的確なドアを開けて店内に入った。

「おう、ヒロちゃん」

 店主が僕の方など見向きもせず、テレビに目を向けたまま背中で挨拶をしてきた。いったいどうして、こっちを見ることもせずに来客の正体が僕だとわかるのか、僕はいつも不思議に思うのだけれど、彼曰く、「何も視覚だけが情報源ってぇわけじゃねぇだろうが」、らしい。まるで犬だな、と僕は心の中で唱えたことすらあったのだけれど、その時に、偶然なのかそれもと意図的なのかの判断を下しにくい咳払いを、店長(僕はこの名で彼を呼ぶ)がしたので、なんだか心の中を覗かれているような気がして、この店の中にいる時は下手なことを口に出すことは当然として、下手なことを心の中で思うことすらやめることにした。齢、およそ五十といったとこだろうが、実際に聞いたわけではないから、もしかしたらまだ三十代という可能性も捨てきれない、その頑丈そうな身体に向けて、僕は、とりあえず何でもいいから早く作ってくれ、とだけ声を掛け、窓から差し込む西日の当たらない席を選んで腰を下ろす。

「金、持ってんのかい」

「あぁ。ほら、僕の身体を見てくれよ」こう言えば、僕は彼が言葉の意味に勘付いてテレビの画面から目を離してくれるに違いないとわかっていたから、できるだけ良く響く声を使って彼に向けて返事をした。そして、予想した通り、彼は眼をまん丸にしてこちらを振り返り、その髭を思う存分に纏った大きな口を開いて、空気に波紋を投げかける。

「おめぇ、その腕・・・」

「そうさ、売っ払ってやったよ。だから、金はあるし、こうしてまだ生きている。まぁ、店長が僕を見捨ててテレビを見続けるんであれば、そのうち餓死しちまうけどね」

「・・・わかった、飯、作ってやるよ。詳しい話は、飯、食いながらな」

 店長はやっとこさ重い腰を上げて、狭苦しいキッチンへと入って行った。熟練した音楽家が人知れずただ自分の為だけに音を奏でているときのような、それくらい心地の良い調理音が狭い食堂の中に響いた。フライパンとコンロの脚の部分がぶつかる音、包丁とまな板がぶつかる音、食材が焼ける音、まぁ、どれ一つとってもそれは洗練されていて、毎度のことながら調理のプロは実際に料理が出来上がる前から判別できる、という事実に僕は感嘆の息を漏らしてしまう。それは人生が佇まいに反映されることと同義であり、となれば画家としての僕はいったいどのようにして、その熟練の予兆を表現しているのだろうか。もし、左手で頬を掻く仕草が画家の素質を示すのだとしたら、僕はもう画家失格ということになってしまうかもしれないが。僕は音の絞られた、色彩感覚というもののネジが外れてしまったテレビの画面をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えて料理が出来上がるまでの時間を潰した。

「ほらよ」

 こんなうらぶれた店の割には、体つきががっしりとし過ぎていて、口調にはがさつさが滲み出ている料理人の割には、繊細な料理の皿が僕の目の前に並べられる。肉を揚げたものと緑をベースに選び抜かれたグラデーションの美しい野菜を炒めわせた料理。そして、奥ゆかしく、それでいてきめ細やかな、女性の理想形を料理で表現したらこうなるのであろう、というような味噌汁。さらに、何と言っても、その柔らかで温かな、いっそのことそのうえで寝てしまいたい、と思わせるような白く艶やかな米。疲れ果てて空腹に喘ぐ、もはや「性・食・眠」の欲求の区別もつかぬ哀れな僕は、そういった比喩を一通り頭の中で並べ立てた後、向かいの席の小さな椅子に腰かけるやたら身体の大きな店長に見守られながら、その完全なる料理にがっついた。

「おい、もっとゆっくり食えよ。こんなとこで喉に詰まってでもして死なれたら・・・って、おい、食べ方が汚ねぇなぁ。ったく」

「仕方ないだろう。左腕が無いんだ」

「なぁ、そのことだけどよ、ヒロちゃん。なんだって、左腕、切り落としちまったんだい。お前がまともに絵を描いたら、一枚につき腕3本分くらいの値はつくんじゃねぇのかい」店長は僕の手首くらいは太いその指を3本立てて僕に見せつけてきた。僕は眉間に皺を寄せてそれを睨むと、また箸を料理へと伸ばして、彼の言葉に答える。

「嬉しいこと言ってくれるんだな。でも、仕方がないんだよ。もう、僕はまともに絵を描けない。薬がいるんだよ。薬がさ」

「たしかに、ここんとこ薬の値が上がってるのもわかる。仮におめぇほどの絵描きがまともに絵を描いても、薬5、6本分くらいにしかならないかもしれねぇ」

「単純計算で、腕一本で薬2本てとこだな。それにショーもやったから、薬4本くらいにはなっただろう」

「そんな茶々は良いからよ。なんでだって大事な腕を・・・お母さんから貰った大切な身体を売らなけりゃならねぇほどのこのなのかよ。それにこれからの生活はどうしてくんだ? 不便でしかたねぇだろうが」

「僕の生活なんてたかが知れてるさ。それに、左腕が無くても絵は描ける。これは美里にも言ったことだ」

「そうだ。美里ちゃんだよ」店長は重大な失態を思い出した時のような、困り果てた表情をすると、身体をのけぞらせ、頭頂部を掻きながら悲鳴にも似た溜息(熊のような、という形容詞も足そう)を漏らしてから、僕に向けて言葉を続けた。「美里ちゃん、ヒロちゃんの腕見て、かなり動揺してただろ」それは僕にとっても突かれたらはっきりとした痛みを感じる箇所だった。

「美里は・・・」僕は続けるべき言葉に戸惑った。が、単なる会話の流れに乗っかる、という選択肢は取らないことに決定すると、箸を止めて、彼に言った。「美里は、失明した」

「は?」

「眼が見えなくなったって意味だ」

「んなもん、わかってるよ。おれはなんで美里ちゃんが失明したか、って言ってんだ。まさかおめぇ、薬で錯乱して・・・」

「薬じゃない」僕は端的に事実を述べた。そして止めていた箸を食器の脇に置き、それからもう一度「薬じゃない」とだけ言い添えた。

「じゃぁ、なんでだよ。事故かなんかか?」

「いや、僕のせいだ・・・さっきは薬のせいじゃないと言ったが、美里の失明の根源にあるのは、もしかしたら薬なのかもしれない」我ながら、はっきりとしない物言いだったけれど、正直になって物事を分析するというのは意外と難しいものなのだ。おそらくこれから長い独り言を撒き散らすであろう、ということを予期して僕はコップの水を一気に飲み干す。「美里を外に出したまんま寝ちまってたんだ。いつもなら、太陽から守るためにクローゼットに入れているんだが、その日は左腕も切り落として身体は憔悴しきっていたし、身体だけじゃなくて精神も憔悴しきってた。自分自身ですら左腕を切り落としたことをうまく呑み込めてないってのに、自分勝手に美里を起こして、そして左腕のことで言い争いみたいなものもしてしまった。美里が眠った時には僕はもうまともに起きていることすらできなくてね、それで美里を畳の上に寝かせたまま、僕も眠ってしまったんだよ。でも、それはやってはけないことなんだ。前にも言ったの覚えてるか? 美里はあの身体になってから、太陽の光を浴びてはいけないことになってしまってね。だから、僕は朝起きて美里に朝日が当たってるのを見て、それはもう心臓が止まるような思いをしたよ。で、急いで美里に駆け寄って、彼女を朝日から守ってやらなきゃ、って思ったんだが・・・でも、美里の身体を光が包んでいるのが、とても美しくて、懐かしくて、僕は何十秒もそのまま、そこで固まってしまった。眠気も覚めて、正気に戻ってから僕は彼女をいつものようにクローゼットの中にしまったんだが、どうやらもうその時には彼女は失明してたみたいだ。完全に僕の失敗だ。まともな僕であったなら、たしかにこんなことはしなかっただろうし、薬を打っていた訳ではないが、薬の為に腕を切り落として結果的にイカれてたんなら、それはきっと「薬のせい」ってことになるんだろうな。これを事故って言ってくれるなら、店長、あんたは多分に優しい奴だよ」僕は一通りの説明を終えると、ひとつ息を吐き出し、そして「水をくれないか」と空になったコップを店長に差し出した。彼は僕からコップを受け取ると、僕の演説に対する批評を一つとしてすることなく立ち上がり、真っ直ぐにキッチンへと向かう。蛇口から水が吐き出される音、コップの中で水が渦巻く音、僕はただそれを聴いていた。

「なぁ、事情はわかったし、別にヒロちゃんを責める気はねぇが、それでもよ。おめぇはいったい何がしてぇんだ? 薬もやめれず、美里ちゃんへの依存も絶ち切れず、まともな絵も描けず、ったく画家だってのによ。左腕も失くしちまうし、美里ちゃんを傷つけるし、こうしておれんとこにクズみてぇな面、見せに来るしよ。これからの未来に対して、おめぇは何を見出して生きてんだよ。おめぇの様子を見てると、ただ単に死ねねぇだけのように見えるが・・・なぁ、おれはいったいどうやっておめぇにきちんと前を向いてもらったら良い?」店長は水で満たされたコップを僕に手渡してくれた。僕は彼の言ったことを噛み砕きながら、コップの水を喉の奥に流し込む。あっという間に、それはまた空になり、僕は足元に突き刺さってくる黄色い西日を見下ろしながら、さぁな、と言った。彼は呆れたような溜息をつくと、空になった僕のコップを持ってまたキッチンの方へと水を汲みに行った。その後ろ姿は、獣のように頑丈で、全く以って弱々しい身体の僕とは正反対と言って良いほどに力強く見えたけれど、彼の言葉を聞いた後では単なる体つきによるものだけでもないような気がした。僕は食器の脇に並べてあった箸を再び指の間で挟み、冷めかけの飯を、茶碗ひとつ持てず、品性に欠けた動作で持って口元まで運んでいくが、それに関しての味の感想はおよそ5分前のものとはまるで違っていて、八つ裂きにされた味覚はゴミ箱の中へ投げ捨て、生物の反射として分泌される唾液と一緒にその味のしない飯を飲み込んだ。何ということだろうか、僕はそう、芝居めいた雰囲気に飲み込まれて大袈裟に言うのであれば、食事をするに値しない存在であったのだ。救い難く、いや、救われ難く、僕の心臓は感傷的過ぎる夕暮れを背景にした盤面の上で打ち鳴らされている。

「なぁ、こんなことされんのは、癪かもしれねぇがよ」

 店長は先程僕の机の上から持って行った空のコップに再び水を浸して、それを右手で持ってやってきたが、左手には枚数を数えるだけですら目が眩みそうなほどの紙幣の束を持っていた。僕はいったい何事か、と訝しげな表情を彼に向ける。

 「金があれば、美里ちゃんの眼も直せるんじゃねぇか? 死んだ人間をあそこまで生き返らせる技術があるんだ。眼くらいどうにかなるだろう? ただ、昨今はどこを向いたって、非合法的な物の取り締まりが厳しいからな、きっとおめぇの腕を切り落としただけじゃ、どうにもならんだろう」彼はまず右手のコップを机の端に置き、小脇に挟んでいた盆の上に食器を下げ、空いた机の上のスペースに紙幣の束を並べた。そして彼はまた盆を持ってキッチンへと引き返していく。

「たしかに、今、僕の部屋に投げ捨てられてる金だけじゃ、美里を直せないだろうな。2,3年前だったらどうにかなったかもしれないが」僕は一先ず店長に汲んできてもらった水に手を伸ばす。それから、目の前に差し出された彼の善意を推し量った。「ありがたいよ、そういうふうに手を差し伸べてくれるのはさ」僕はその査定が終わるまでの場面を繋ぐための言葉を適当に選んで彼に向けて放った。そして、査定が終わると、僕はどうしようもない遣る瀬無さを肩に背負ったような感じになり(やっぱりこの時も、両肩に背負うわけにはいかず、僕の身体は右に傾く)、「でも、これは辞退するよ。だいたい、僕は店長に迷惑をかけすぎている。それにこんな金、貸してもらったって返せやしないよ」と続けた。

「何も貸すとは言ってないだろうが。まぁ、おめぇが善意で返そうとしてくれる時がくれば、ありがたく受け取るけどよ。それに、多分だが、おめぇがまともに絵を描きさえすれば、そんなはした金あっという間に稼げちまうだろうし、単なる打算的な投資だ。損するのも覚悟のうえさ」彼は食器を水で洗い流しながら、僕の方を見向きもせず、そう言った。僕は彼の優しさに、ひどく自分が情けなく感じたし、それに、彼の為、というわけではないが、こんな自分とはさっさと決別をしなくては、という焦燥感のようなものも感じていた。

「こんな時、気の利いた連中だったら目尻に涙でも溜めながら・・・窓の外でも見ながら、爽やかな礼を言うんだろうけどさ」僕は実際に窓の外の夕焼けの影になった向かいのアパートの錆びれた壁に目を向けている。「だが、悪いが、この金は辞退させてもらう。その代わり、薬を売ってくれないか」

「何だと!」ガシャンと食器が割れたような音がした。相変わらず水は流されたままで、おそらくは砕け散った食器の破片に追い打ちをかけるが如く降りかかっている。「おめぇ、ふざけたこと抜かしてんじゃねぇぞ。薬が、全ての元凶なんじゃねぇかよ」彼は食器洗いを中断し、それでも蛇口が開いているという現在進行形の事実はすっかり忘れてしまったようで、アルミのキッチンの底を水が叩く音をバックサウンドに、地面を揺るがすような足取りでこちらに歩み寄ってきた。

「薬じゃない。美里が死んだことだ」

「ふざけんな。美里ちゃんに自分の罪をなすりつける気かよ」

「いや、そんなつもりはない。僕が言いたいのは、店長、あんたの力を借りずとも、僕は自分の力で美里の眼を直す。自分の力で絵を描いて、あんたに迷惑を掛けることも無く、金を稼ぐ。そうさ、僕は画家なんだ」僕は目の前に立ちはだかる彼を見上げながら言った。

「だったら、薬なしで描きゃぁ良いだろうがよ、画家さんよ」

「それは無理な相談だ。そんなことができたら、こんなことにはなっていない」

「はっ、そんなこと言うんなら、薬があったって、今までと何も変わりやしねぇだろうよ。今までと同じように、ずぶずぶの底なし沼にはまっていくだけさ。有り金全部掛けても良いが、そのうちにおめぇは右腕と目ん玉だけになっちまうぜ」

「そうはならない」僕は語気を荒げて言う。「美里は失明した。そしてすごい悲しそうだった。僕には頑張って笑顔を向けていたが、それが作り物だってことくらいわかるさ。だから、僕はもう美里を起こしたりはしない。美里に会うための時間も使って絵を描く。そして美里を次に起こすのは、美里の眼が直ったときだ」

 僕が真剣みのある声でそう言うと、彼は考え込んだような顔をして、向かいの席に腰を下ろした。椅子が軋む。それから、眉間にその太い指を当てがって苦悶の表情を隠すこともせず「それでも、おれはおめぇに薬を使ってほしくない」とその大きな身体からは想像ができないほど弱々しく言った。「薬は良くない。おめぇみてぇなタイプにはもともと合ってねぇんだ」僕はそれを聞いて、僕みたいなタイプってどういうことだよ、と乾いた質問をした。「薬は遊び半分でやるもんだ。そういう奴なら後戻りが効く場合が多いし、不謹慎かもしんねぇが、たとえ死んだって笑い話で済む。「あいつ、とうとう逝っちまったらしいぜ」みたいな感じでよ。でも、おめぇみてぇに薬にすがるような、本意気で使うもんじゃねぇんだ。おめぇみてぇなのが薬に頼ると、たいてい悲劇が起きる。そして、おれはその類の悲劇専門の劇団に自ら進んで役を貰いに行っちまう性質なんだ、これがよ」彼の声は力が無かった。僕は彼の言ったことをまたも割と真面目に考えてみたけれど、それがたとえ百パーセント理解できていたとしても、僕の決心は変わらないような気がした。彼の言葉を使えば、僕は薬を片手に悲劇の最終幕に突っ込んでいく向う見ずな主人公を気取っていたいのだろう。そして、その手の主人公の青年が大抵そうであるように、その眼先に見えているのは決して悲劇的な結末ではなく、楽園にも似た素晴らしく美しいおとぎ話の最終幕的な明るい未来なのだ。

 

                            *

 

 僕は薬を彼から3本受け取って、店を後にした。金は食事するくらいのものしか持っていなかったから、明日僕の部屋に取りに来てもらうように頼んだが、彼の顔は「金のことなんてどうでもいいんだ」と言いたげなほどに歪んでおり、さすがの僕も心が少々痛んだ。だが、それと同時に、彼が僕の部屋までわざわざ階段を登って来ることを苦にしていなさそうな、むしろ僕の様子を確かめるためには都合が良い、と考えているであろう、ということは僕にとっては、何となくほっと安息感を感じることであった。何故だか知らないが、僕にとっては彼の好意を踏みにじることよりも、現実的な彼の手を煩わせるようなことが気にかかっていたのだ。もしかしたらこの感じは、彼から素直に金を受け取れず、代わりに自分の金で薬を買う、という選択肢を選んだこととも何かしら関係があるのかもしれない。そんなようなことを考えながら、僕はまた長い長い階段を登った。ここに来るときには全く以って考えることを忘れていたが、左腕無しでこの長い階段を登るということは、想像を絶するほどに骨の折れることだった。まさに左腕の手助け無しに、純粋に自分の脚の力だけで階段を登るということがここまで疲れることだったとは。すっかり陽は暮れ始め、アパートの最上階が囲う空は紫色を湛え、「口」の字の向かい側の廊下などは完全に影に埋もれ、自分の直下の足元でさえ良く見えず、何かゴミが転がっていたりするのを見落として足を取られることも少なくなく、その度に左腕の無い僕は、右腕と身体全体を可能な限り駆使してバランスを取らねばならなかった。これもまた非常に体力を消耗することである。

 空もアパートも、景色全てが滲みだして、僕の眼はそれに順応するのに時間がかかり、どこかで誰かが自らの部屋の扉を開けた時の一瞬の光だけが僕の眼にちらちらと瞬く星のように写る。その僅かな瞬間、冷たい階段の手すりに這わせた右手の平にも力が込められる。僕にも帰るべきところは用意されているのだ。美里は狭くて薄暗い部屋のもっと狭くてもっと真っ暗なクローゼットの中にたった一人で寝ている。そして、彼女は当分起きることはないだろう。彼女よりもまず、僕が今、向き合うべきものは真っ白なキャンバス。今、目の前に見えている漆黒の闇とは対照的な、無地の無垢の無法の何もない純粋なる白。心を静め、神経を研ぎ澄ませてから、僕はそこに色を添える。それこそ僕がすることであり、結果的にはきちんと美里と向かい合うということになる。そして、ただ美里だけを想い、澄み渡る心の中に潜り込んで、色が織りなすイメージに手を伸ばし、この世の真理の一端に触れる。その瞬間にこそ、僕は自分が人間であることを実感できるのだ。

 赤褐色の鉄製の階段を一歩一歩踏みつける音が、静かに時間の経過を告げていく。振り子時計の振り子のように、僕の長くなった前髪は視界の先で揺れ、その先から時折汗の粒が滴り落ちる。冷たい空気中に僕の熱気が湯気となって浸みこんでいくのが見えた。この長い長い階段はどうしようもないほどに僕の不完全な身体を苦しめていたけれど、その苦しさを一歩ずつ踏み越える度に、僕の頭の中で物事が整理されていくような感覚があった。本来ならば一番美しいであろう純白のキャンバスに、どんな絵を描いていくか、無より美しいものを描くためにはどうしたらいいか。そんなようなことが僕の頭の中で思考されてゆく。そして真理の一端に触れるべく、僕がまずしなければならないのは、ただ数々の過ちを解消するために、ただ美里の眼に光を戻すために、一刻も早く自らの部屋に戻り、質素というよりはみすぼらしい電球に灯りを燈して、傷だらけの畳の上にキャンパスの台の脚を可能な限り水平に置き、筆を取り、色を混ぜ、線を引く、ということなのだと悟る。「美里の為に」、それこそが僕に与えられた唯一のもの。これまでの僕の過ちを思えば当たり前のことだが、しかし、たとえ僕が何一つ過ちなんてものを犯していなかったとしても、美里にほんの僅かでも幸福を与えてやることができるなら、僕はそうしない訳にはいかない。これ以上、僕は美里から何を奪おうと言うのだ。光を戻せ、彼女の瞳に。

 

 僕は汗を垂らしながら自分の部屋の扉を開けた。部屋の中は暗く、物音一つしなかった。電気を点け、とりあえず洗面台で顔を洗い、階段を登っているときに気になっていた長い前髪を鋏で切り落として、それから手を洗い、そして良く拭き、昨日描いた神経質な絵を壁に立てかけ、新しい白のキャンパスを台の上に置いた。僕は椅子を出し、それに腰かけて真っ白なそれと向かい合う。まだ、僕の頭の中には何も浮かんでこない。通電するには時間がかかる。眼を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。そのうちに電車が足元を通り過ぎ、建物がガタガタと揺れて、3度くらい生まれ変わりをしてしまうんではないか、と思わせるくらいに長いその揺れの間、僕は心の奥底に垂らした釣り糸に何かしら素敵な獲物が引っ掛からないかと待ってはみたけれど、ふわふわと浮かんでくるのは、ほんの数時間前から頭の中を過っている純白の平原だけだった。それでもなお、僕は混沌とした湖と向き合って、ひたすらその時を待つ。時には、いっそ銛でも持って水中に飛び込んでやろうか、と勇ましい発想をすることもあるのだが、いざ、靴下を脱ぎ、シャツを脱ぎ、としているうちに、その湖の水の得体の知れぬ危うさや、そこに潜む巨大なる肉食獣の魚影に慄き、その度に僕は脱いだものをもう一度身に纏い、再び桟橋の淵に腰を降ろし、釣竿を構えるよりほかないのである。白地のキャンパス。僕の虹彩を抜け、心臓に絡みついて、脳に蓄積される。眼を開けても、眼を閉じても白地のキャンパス。部屋の中でじっとしていると、少しずつ冷たい空気が僕の指先からどんどんと人らしい体温を奪っていくのだけれど、それとは反対に、悍ましい焦燥感から僕は額に、小ぶりな蝿ならばそこで溺れ死ぬことができそうなくらいの水量を有する汗の粒を浮かべている。その汗にまた焦り、次の電車がこのアパートを揺らしたところで、僕は正面切ってそれに立ちはだかることをやめた。いよいよ僕は自分の手の内を全て晒さなければならない時が来たようだ。準備はしてある。そのおかげで、明日になれば、部屋の隅に押しやられたこの忌々しい紙屑の大半が消え失せてくれるであろう。僕は店長から受け取った薬の一本を袋から取り出し、(いつものように左腕に打つわけにはいかなかったので)、口で注射器を加え、落ち着いて狙いを定めながら、右腕に針の先を刺した。汗が頬を伝い、それから顎に引っ掛かり、そこで一つ、舞台袖へと捌けていく指揮者のように気の利いたお辞儀をすると、流れ星のような一瞬の輝きを見せ、膝の上に落ちる。湿った空気を注射器を加えた口の端から漏らし、それでも気をしっかりっと持って徐々にピストンを押し込んでいく。血液の中に異形なる悪魔か、いや救いの天使が入り込み、そして無垢なる赤血球に寄生すると、全身へと、主に脳内に向かって、彼らは施しの進撃を開始した。これは善なる行いである。たとえ、人がそれに異議を申し立てようとも、神がそれを善とする。僕はそういった事を全人類、または自分自身に言い聞かせながら腕から針を抜き取り、口を開き、涎が淵を伝っている注射器を膝の上に落とす。先程汗が作った染みに、さらに唾液が不潔さを付け足していく様子が、僕の脳の中で歪な波形を描き、毒々しい色がその波間を埋めていった。不意に、腹の奥底の方からイメージが湧き上がってくる。釣竿の先端を微かに揺らす。僕はタイミングを測り、狙いを定め、慎重かつ大胆にそれを引き上げようと右腕に力を込める。僕は瞼を開いて、頭に写ったイメージに形を与えようと急いで筆を手に取った。が、筆を取った瞬間に、またあの疑問のような空白が僕の視界を満たしていく。そして、掴みかけたイメージは既に湖の底に消えてしまっていた。掴みかけた希望の光が消えるのは本当に一瞬の出来事であった。

 僕は朦朧とする意識の中、部屋に思いっきり反響させるように怒りの言葉を吐いた。くそっ、せっかく描けそうな気がしたのに。僕はあの神々しい店長に対し、破れぬ誓いを立ててしまったというのに。これでは美里を救うこともできないし、僕自身、救われることもできない。未だ僕は暗い夜の海のど真ん中で、どちらに向けて泳いでも良いか分からず、やみくもな動きに精を出し、胃の中に大量の海水を送り込むカナヅチの子供になったような気分だ。絶体絶命。その言葉が僕をさらに焦らせる。いや、いけない、いけない。焦ったってどうしようもない。芸術には時には辛抱だって必要だ。やけに高鳴る心臓を落ち着け、不安を薬が消し去るのを待つ間、僕はふと窓の外に月の欠片を探した。が、今日はどうやら空には雲が出ていて、星ひとつない空は、まるで絵のヒントになり得る一切の事象を僕から奪っているような感じだった。まったく、空なんか見たせいで、僕はまたどうしようもない失望感に囚われている。それよりも、何故薬は僕の不安を消し去らない? どうして絵のヒントを寄越さない?

 僕は筆を一旦置いて、とりあえずパレットに新しい色を落としてみることにした。が、何色を落としたら良いかすらわからない。これだ、という色の絵の具がひとつとしてない。いや、僕の心理状態を少しでも的確に描写しようと思ったら、ピンとくる色が一つだけあるにはある。試しに、僕はそれを木製のパレットの上に伸ばしてみた。茶色の背景にそれは映えるが、しかし。すがるように、その一歩目に続く足を出すが如く、僕は筆にその色を纏わせ、キャンバスに線を引いてみた。パッと見には何も変化が無いけれど、純白の彼女の肌の上に僅かばかりの陰りが挿した。僕はまたパレットの上のミルクよりも白いそれを筆で掬い、キャンバスの上に線を引く。油絵の具による生まれたての無色の山脈が、また歪な陰りをそこに写しだし、僕はまるで得体の知れぬ宗教行為が目の前で、今まさに繰り広げられているような、よくわからないが、非常に恐ろしく、それでいて好奇心がふつふつと湧き上がらせられている心境に達し、今までどこまでも平坦だった白い平原に夢中になって陰りを施していった。それから、いったい何度僕はパレットに添えた白を使い切り、またチューブから新たなる白を捻り出し、ということを繰り返しただろう。薬の作用によるものなのか、僕は衝動に任せて、とにかくチューブ一本分の白をキャンバスに塗りまくって、まさに狂人らしい行いによって、たとえ無限の真っ白な壁とそこに塗るための絵の具があったとしても表現しきれないほどの幸福を感じていた。が、ふとした瞬間、それと同時に僕は面前に凛と直立している、僕の衝動の産物を見直してみて愕然とした。そこには今さっきまで僕が恍惚として見惚れていたような、人間らしい血の通いも感じなければ、均整のとれた神聖さも、切り裂かれてしまいそうになるほどの悲痛なる叫びも、平坦な言葉で言えば「芸術性」なるものは、もはや全く、感じられない。空虚だ。いや、空虚なんて言葉を用いるにも値しない、言葉で表現しようと思っても、この世の言葉には必ず何かしらの記号的、または象徴的意味が付随するという真理から言って、どうしたって表現することのできない、無意味なものが僕の描いたそれである。何ひとつ話すことの出来ぬ赤ん坊でももう少し何かしら意味のある絵をかけるはずだが・・・僕はひとり、怖ろしくなり、白く歪んだキャンバスを畳の上に投げ捨て、新しいキャンバスをクローゼットの脇から持ち出して、台に立てかけた。白い絵の具は使い切ったし、もう、さっきのような愚行をすることもない。白が使えぬとなれば、当然、色彩表現に限界ができてしまうけれど、その敢えて切りつめられた環境において、僕は自分の経験値やセンスを存分に引き出して、世界各国の「目利き」が心酔してしまい、僕が求めるだけの金に変わる絵を描くことができるはずだ。僕は、自分を奮い立たせ、筆とキャンバスに全神経を集中した。生死の淵に立ち尽くしているような緊迫感が僕を鋭敏にする。しかし、相も変わらず僕の心には何一つ浮かんでは来ない。空虚な白だけが僕の心臓の空洞を埋めつくしている。僕は筆を持った右手の指先を焦りから、神経質に震わせていた。これだけの集中力が今の僕には秘められているというのに、いったいどうして何も浮かんでこない。どうして僕は僕を裏切る。どうして僕に美里を救わせてくれない。いや、だめだだめだ。焦らなくていい。まだ、時間も・・・そう、薬だってまだ2本ある。床に並べた袋入りの注射器をちらりと見下ろす。一度に2本以上使ったことはない。こんなものを使って健康もクソもあったものではないが、それでももしかしたら生命に関わることかもしれない。迂闊には、その選択肢を選ぶことはできないけれど、しかし。どうだろうか。今の僕なら、何か、ほんの少しのきっかけさえあれば。そう閃くや否や、僕は右腕を床に向けて伸ばした。

 

 空気は冷たい。夜が深まっている証拠だ。僕は無性に興奮している。舌と上顎で心臓を挟んでいるみたいに、とても脳に近い位置で僕の生命を感じる。血の赤、夜の黒、紙の白、筆の金。目の前がチカチカする。パレットを手に取り、とにかく思いつくままに色を絞り出す。けれど、ここで焦らない。さっきはそれで失敗したんだ。落ち着いて、自分をコントロールする。そして自分の中に潜む、湖の主をこの僕の唯一なる下僕、右腕で釣り上げる。それが最も重要なことだ。底に見えるのはなんだ。彼なのか、どうなのか。感じるままに筆をとれ。狭い部屋の小さき脳の中に写る、無制限の世界を、指先に伝わせろ。神経が凝縮していく。一秒一秒が、僕に確かな手応えをもたらしてくれる。眼球の裏側、網膜に僕のイメージを重ね、そしてそれに線と色を与えていく。一本目の線が、繊細でありながら、かつ、凛々しく、まるで秋の終わりの風に身を震わせる、若く青い花の一本の蔓のように、空間を切り裂いていく。

 その時、まさに一筋目の線を白に刻みこんだ瞬間、左目の左端に何か人影のようなものが写り込む。はっとして、僕はその影の方に視線を向けた。びっくりしたせいで、ただでさえ薬の影響で心筋の限界線を越えかねない心拍数が全身の細胞を痛めつけている。黒いコートに黒い手袋、そして灰色の肌に生気の無い緑色の瞳。殺したばかりの烏をそのまま頭に乗っけたみたいな、荒々しく長い黒い髪の毛。腐りかけたみたいな顎には特徴的な黒子と言うにはあまりにも大きすぎる、比較的色の薄いシミが浮かんでいる。その人物は、どこかで見たことがあったような気がしたが、うまく思い出せない。僕は背筋に凍るような戦慄を感じていたけれど、当の死神的人物は、僕の右足の脇に転がっている、3本の空の注射器の残骸に目を向けているばかりである。

 僕は、こうしている間にも薬の効果は薄れていっているのだ、ということに焦りを感じ、早く絵の制作に戻りたかったのだけれど、悍ましい形をした彼は、そこから一歩も動こうとしない。いや、視線一つ、瞼一つ、まるでそこだけ深い湖の底に沈んでしまっているかのように、ただ止まってしまっている。貧乏を象徴するような黄色い電球が、僕たち2人に光の粒を降りかけているけれど、今にも心臓がはち切れてしまいそうな僕と、今にも心臓が砂と化して崩れ去ってしまいそうな彼との間には、明確な差異があるはずであった。が、怖ろしいことに、僕と彼の間には、大股で二歩分というくらいの物理的距離による隔たりがあるにはあるにせよ、それ以外には全くと言って良いほど、僕と彼とを――どんな観点によるものでもいい――分けてくれるものがなかった。僕は彼の顎のシミを見つめ、彼は僕の右足の脇を見つめている。僕も彼も、この無駄に階層だけは積み重なった古びれた薄っぺらいアパートの一室で、ひとつの空間をわかちあっている。まるで、彼は、僕が彼の名、いや、彼に名なんていうものがあるのかすら、僕には良くわからなかったけれど、彼の正体のようなものを僕が暴くまでは、ずっとそうしているような感じがした。そして、僕は朧気な記憶を破滅への変遷途中にある意識で以って、言葉に変えた。 

「君は、たしか、美里の弟さんだったか」

 一度くらいは、僕は美里から彼女の弟の写真を見せてもらったこともあったかもしれない。今、目の前にいる存在は、彼に良く似ていた。そして、僕はこれが自分の幻覚、薬による幻覚であることに思い至る。薬で僕の思考、そして精神は無残にも引き千切られているはずだったのに、何故だか冷静でいることができた。しかし、冷静であっても、この幻覚に対する恐怖は消えたりはしない。

「君は、死んだはずだろう」

 彼は何も答えない。ただ、注射器の残骸に向けられていた彼の視線はいつの間にやら、僕の顔に向けられている。

「いったい、なんの用だ。こんなところにまで来て」

「姉貴を返せ」

「君から奪ったつもりはない」

「姉貴はお前のせいで、とても苦しんでいる。どうして、お前は姉貴を苦しませる?」

「僕だって好きで美里を苦しめている訳じゃない。それに、君がさっさと消えてくれたら、僕は絵を描いて、お金を稼いで、美里の眼を直すことだってできるんだ。たしかに、僕は今まで美里を苦しめてきたかもしれないが、これから救うんだ」

「いや、お前には救えない。絵を描くことだってできない。見てみろ、これがお前の描いた絵だ」

 彼はそう言って、足元に転がっていた白いキャンパスを、つまり、白い絵の具が塗られた白いキャンパスを僕に見せてきた。僕はその絵を見て、頭痛と吐き気を感じた。

「それを描いた時、僕はどうかしてたんだ。これを見てみろ。まだ、最初の一筆だけど、これなら君だって・・・」

 僕はそう言って、今さっき、確信を感じて描き始めた真新しいキャンバスに目を向けた。が、これはいったいなんだ・・・

「それがお前の正体さ。お前は何もわかっちゃいない。お前は、どこまでも空虚だ。このただ白い絵の具が乗っているだけの絵も、そこのただの線も、何一つとして意味の無い、狂った人間の口元から垂れた涎と何一つ変わりやしない。お前は色々なことを間違って解釈している。姉貴は別にこんな腐った世界に留まりたいとなんて思っちゃ、いなかったんだよ。狂ったお前の隣にもな。お前はまるで何かに憑りつかれたように、いや、この場合は「何か」なんて有耶無耶な言い方はやめた方が良いだろう。お前は、自分で勝手に作り上げた運命とやらを、何も必要が無いのに、勝手に背負い込んで、それを姉貴にも押し付け、さも自分が潔白であるかのように・・・いや、これも違うな。お前はお前自身のことは色々と棚に上げて、有象無象を悪とみなし、姉貴だけを天使の遣いのように考え、それを姉貴に押し付け、姉貴は望んでもいなかったのに、無理矢理、こんな世界に押しとどめ、情けないほどに愚劣なものを見せ、お前の空虚な絵を見せ、まるで、その空虚の権化であるかのような、はっ、笑わせてくれるほどに下らぬ未来を大仰に示し、錆びついた鎖で身体を縛っていたんだ。いいか、お前は姉貴の何でもない。血縁でもなければ、恋人でもない。せいぜい、お前が勝手に組み上げた運命とやらの、その相手だろう。お前がどんなに卑劣な願いをかけたとしても、その事実に変わりはない。お前は自分の不幸に、自分勝手に姉貴を巻き込んだだけだ。自分こそ正しい、みたいなことを嘯いてな。姉貴だって本当はわかっていたんだ。お前の言うことが全てまやかしであることなんてな。お前は、付け込んだんだ、姉貴の優しさに。優しい、優しい、姉貴だったからこそ、お前を見捨てはしなかった。自分が死んでしまってさえもまだ、お前を見捨てずにいた。そして、お前を見失ってしまいそうな自分を恥じ、そして律し、自らを洗脳したんだよ。お前こそ信じるに値する人間だ、と言い聞かせてな。いいか、それはお前が自分勝手に言う、姉貴だけが信じるに値する人間だ、というのとは全く違うんだ。お前はそれを自分の為に唱えるだろう。が、しかし、姉貴は違う。姉貴はお前の為に唱えるんだ。たとえ、同じことを唱えていたとしても、そこには決定的な差異が生まれてくる。言葉じゃない。人が意味を為すんだ。それくらい、どこまでも救い難く間抜けなお前にだって、まぁ、理解のできることだろう。お前は自分が絵を描くとき、姉貴に愛を囁くとき、いったい何を考えて、何を願って、何を祈っている? まさか、真実を得たい、なんていうエゴや崇高さを求めていやしないだろうな。見ろ、自分の身体を。どこまでも情けない。左腕は切り落とされ、指先は震えている。心臓は薬に侵され、脳は毒に侵されている。何という名の毒か、それくらいはわかるだろうよ。お前が言うのは、愛でもなければ、真理でもない。お前が求めているのも同様にな。どうだ? お前が最後にするべきことは何かわかったか。自分で首を切り落とす前にやることが何かわかったか? おい、聞こえてんのか?」 

 僕が瞬きをすると幻覚は消えていた。もう、外には電車も走っていない。僕は立ち上がり、描いた絵を部屋の隅に押しやり、クローゼットの中から美里を取り出した。それから、窓の外の暗く黒い曇り空を見上げる。背中のネジを捲く必要はもうなかった。僕は床に投げ捨ててあった、数時間前に前髪を切り落とした鋏を手に取り、美里が窓の外を眺めている様子をしかと目に留めた後、自分の首筋に、残された右腕で、鉄製の冷たい鋏を突き立てた。薄れゆく意識の中、ただ、明日、晴れることだけを願う。

 

2013年