霏々

音楽や小説など

霏々 vol.1

 霏々

 

 出発地点はなんの変哲もないアスファルトの上の逃げ水。僕は自転車に跨って、視界の先に見える判然としない寝起きの意識みたいなそれを見ていた。その時に抱いていた感情を当時の僕は「無感情」という風に名付けていたと記憶しているが、いま思えばそれは「無感情」でも「無感動」でもなく、「感情」と「感動」そのものであった。

 特に誰かと話したわけではないのだが、いわゆる「思い出」なるものはもう少し形のはっきりとしたものらしい。異国の水平線に沈む太陽であったり、ジェットコースターの上で感じた風であったり、かつての女の胸の柔らかさであったり。と、まぁ、そういうカメラのフィルムに焼き付けられた光学的記録とでも言えばよいか(盲目の方には申し訳ない。しかし、盲目な方の網膜にはこの文章は映ることはないから気にすることもないか。などと、差別的な発言を何の後ろめたさもなく言える僕ではあるが、僕は決して差別的な人種ではない。なぜなら、僕には女の感じる性的な快楽を知る由もなく、友情で胸を熱くする人間の清らかな涙とも無縁な一人の孤独な男であるからだ。要するに、僕だって差別を受けている。これは悲劇的になっているのではなく、単純に全ての人間はひとえに風の前の塵に同じだと言いたいのだ。やれやれ、括弧の中が長くなってしまった)……もう一度、仕切り直そう。カメラのフィルムに焼き付けられた光学的記録のような代物が、彼ら人類にとっての「思い出」らしいが、僕は一般的な社会の中で自身の「思い出」について喋らねばならない場面に遭遇すると、脳裏に映し出されるは沙羅双樹の花の色。何らかの理を表すようなこともないただの白が、無限遠にまで広がっていく。

 とある有名な作家のインタビューで語られていたことだが、どうやら芸術家における創作とは、偽物の記憶について特定の技法を用いて表現するということらしい。つまり、「創作」という行為は「思い出す」という行為と似ているということをその作家は言いたかったようだ(冒頭からやけに鍵括弧が多い。文章力が乏しい人間がものを書くからこういうことになるのだ)。

 話を戻すが、僕は自らの記憶を振り返ってみても、宇宙人との戦争の経験もなければ、組織ぐるみの犯罪を暴いた経験もない。あるのは、夏の日に信号待ちのあいだ自転車の上から眺めたアスファルトの逃げ水くらいのものだ。話ですらない、断片的な不確定的イメージ。退屈な電車の中でウトウトしている最中に見るとりとめのない映像。誰がそれを与えたのかもわからない。そんな脈絡のないものが僕の記憶であり、思い出であり、僕の創作性ということになるらしい。少なくともかの有名な作家さんの持論によれば。

 僕は僕で作家として何かを残したいと思ったりもしたことがあったが、こう考えてみると僕に残せるものは大したことのないものらしい。それでも僕が何かを残すとか残さないとかに関係なく、思い出の役割が床冷えした胸の内を温めるものだとすれば、僕はそれを思い出さずにはいられない。そして、それはマッチの火のように儚いものであってはならない。売春のように一時の温かさでは足りぬ、我は穏やかで恒常的な家庭の愛が欲しいのである。要するに、僕は僕の暖を取るために何かを思い出し続けなければならない。

 僕は僕を温める為に、思い出し続ける。僕は僕を温める為に、創作性を発揮させなければならない。それが動機であり、唯一の目的なのだ。出発点は既に冒頭で用意してある。そこからいったいどこへ繋がるのか。僕には全く以て見当もつかないが、ともかく薪をくべなければならない。新聞紙につけた火。ぱちぱちと爆ぜるような音。薄暗闇の中で光る蝶。繊維に蓄えられていた化学的エネルギーが光学的エネルギーと熱エネルギーへと変化して、空間へと広がっていく。エネルギーが分散され、エントロピーが、無秩序が増大する。僕が辛うじて獲得できるものは、通り過ぎて行く光と熱の余韻だけ。アスファルトの逃げ水を種火に僕はうら寂しい焚火を始める。

 

 自転車の籠にはサッカーボールが入っている。それからサッカーシューズ。僕たちはそれをスパイクと呼ぶが、スパイクの邦訳は「尖ったもの」であり、履物を示すわけではない。スーパーマーケットの「スーパー」だけ取って、「程度の高さ」を示す言葉が駅前やら郊外やらに乱立する時代を生きてきた僕たちにとって、「スパイク」という言葉の違和感さえ気になりはしなかった。今日では「コンセンサス」だか「コンプライアンス」だか「コンピラサン」だかよくわからない外来語がブラックバスのように僕らの水瓶の中に流入してきており、そしてそれらがまぁ、おそらくはある程度正しい意味として使用されている世の中になってしまっている。昔懐かしき、「スーパー」だとか「スパイク」だかの時代は終焉を迎えようとしている。郷愁は僕の心を捉え、次々と余計なものを思い出させる。例えば、バケツ一杯分の砂糖が入ったスポーツドリンクのこととか。

 こちらの赤信号とあちらの青信号。ジリジリと太陽が首筋を刺してくる。郊外へと続く四車線の幅広の国道。車もほとんど通らないのに、信号が僕の前に立ちはだかって、そこに押し留め続ける。押し入れの中で、重なる布団が一番下の座布団を押さえつけているように。自転車のハンドルのゴムは今にも灼けて溶けてしまいそうだ。額から流れ出て、顎の先から滴る汗がここでは秒針の代わりとなって時を刻んでいる。僕は短く、小さな溜息を一度だけ吐いた。あちらの歩行者信号が点滅を始める。やっとか、と僕は思って、自転車のペダルに足を乗せる。その時、目の前を通り過ぎて行く車に隣のクラスのあの子が乗っているのが見えた。僕の心臓はたちどころにぎゅっと縮まり、無意識のうちに腕が額の汗を拭う。はっと我に返ると、左折しようとする別の車が僕の歩道の横断を待っていた。慌ててペダルを踏み込む。

 

 たったそれだけの話。それから先は特に語るべきこともない。というか、何があったかすら思い出せない。断片は断片らしく断片として在り続ける。それが定義であり、真理である。

 不思議と今になって思い返してみると、どうして僕がその子に恋心を抱いていたのかがよくわからない。まぁ、人を好きになるのに理由などないのだし。そんな馬鹿らしい青春ドラマ的言葉を自分が発するようになるなどと思ってもみなかったが、はてさて、どういうわけかそれ以上に適した言葉がこの世界には存在していないようだ。そして、その頃の僕はその悶々とした思いを誰にも相談することができず、ましてや、その当人に対して打ち明けることすらできるわけもなく、寝苦しい夜を過ごしていた。決して、地球温暖化ヒートアイランド現象の影響だけというわけでもない。しかしながら、不思議なことに年々南極の氷が溶けだせば溶けだすほどに僕の心は冷めていってしまう。汗の気化熱が僕の体温を奪うのと同じだ。いつからだろう、軽薄な笑みを浮かべて気になる異性に「可愛いね」なんて言えるようになってしまったのは。まぁ、こういったことは僕だけに限った事ではないのだろうが。

 とは言え、僕は僕なりの紳士学的態度からして、そういった軽薄な言葉はなるべく使わないようにしている。少なくとも、そういった言葉をソーシャル・コミュニケーション以外の場面で使ったという記憶はない(不誠実な弁明をする際に、高尚そうに聞こえる外来語がとても役に立つことを僕はいま実感している。そして、括弧の中というシェルターの中でわずかな安心感を得た僕は、「記憶はない」という述語に対して「ほとんど」という修飾語を付け足して告解による罪滅ぼしを試みる)。ソーシャル・コミュニケーションという言葉をご存じない方に、おせっかいとは思うが僕なりの説明をさせていただこうと思う。

 

 はす向かいの女子が、「どんな子がタイプなの?」と僕の左隣の男に質問をする。彼は「やっぱおっぱいの大きい子かな」と答える。正面の女子が「サイテー」と笑う。左隣の男が「いやいや、男なら誰だっておっぱいの大きい子が好きだろ」と僕に同意を求める。僕は「いや、俺は小さい方が好みだな。おっぱいは好きだけど」と答える。

 

 ザッツ・ソーシャル・コミュニケーション。

 

 まるで、全ての台本は用意されているかのようだ。僕は誰に命じられたわけでもないのに、それらしい演技をする。人はみな演者。これは誰の言葉だったか。引用元のはっきりしない言葉で僕の脳内は溢れ返っている。リファレンスのはっきりしない僕の言葉は、論文ならば即リジェクトされるだろう。出自不明の他人の言葉と、無用なカタカナ、それからもはやどこを強調したいのか、何を補足したいのかよくわからない種々の括弧。そもそも君には文章力というものがどういうものかわかっているのか。

アイ・ドント・ノー。あるいは、ジュ・ヌ・セ・パ。

 それが正解なのか、不正解なのか、「はなまる」なのか「がんばりましょう」なのか、よくわからないが、いずれにせよ僕にできるのはそのように用意されている台本を読むことばかりで、それ故に僕にはそれらしい起承転結のある思い出とかがないのかもしれない。唯一、僕の記憶にあるものと言えば、スポットライトを浴びる主役の男女越しに見る非常口の場所を示す緑の明り(「灯り」ではなく、「明り」であることを強調しておきたい)。あるいは、舞台の天井から落ちてくるまるで水色のワンピースに尾提髪をしたような灰色の埃くらいのもの。たとえば、僕が自転車に跨りながら眺めた、車に乗るあの子の唇を奪うのは僕以外の男の子だろう。なぜならば、僕が彼女とキスするなんてシーンが台本にはないのだから。僕に与えられたセリフは「そうだ、そうだ」という怒号と、示唆や暗示に満ちた論理の破綻した森の木々たちの歌だけだ。

 

 昔、旅人は帽子を森に忘れた。忘れ去られた帽子。旅人はあくる日、帽子を忘れたことに気がついて森へと戻って来る。帽子を見つけて、旅人はほっと胸を撫で下ろす。近くの川で水を飲み、満足気にまた街へと帰る。

 けれど、旅人は斧を森に忘れた。忘れ去られた斧。旅人はあくる日、斧を忘れたことに気がついて森へと戻って来る。斧を見つけて、旅人はほっと胸を撫で下ろす。近くの岩場で昼寝して、満足気ないびきをかく。

 そして、旅人はまた忘れ物をする。旅人は自分を森に忘れてしまった。