りとます
霞空、朝が喉元に突きつけられている。丸いグラスに透明な液体を注ぎ、その中で踊る小さな海月たちを眺めている。銀紙の衣装を脱がし、乳臭い固形物を前歯で嚙み割った。無自覚な殺意を檻に閉じ込める。
電車に乗り込み、朝陽に体の重さを照らし出される。頬に溜まる熱。
瞬き、川。瞬き、丘。瞬き、トンネル。瞬き、波。瞬き、ささくれ。瞬き、波。アナウンスが降り注ぐ。開かれた。踵でアスファルトを鳴らす。
「どんな調子なんだ?」教授が聞いてくる。
「変わらずです」
「何か兆候とか、気づくことは?」いつものように教授は人任せ。
「特には」
「まぁ、そうだよな。そもそもその兆候を見分けるためのものなんだからな」
私は教授の言葉に頷く。もう充分なんじゃないですか。私は言葉を飲み下す。意味が無いと思うから。どうせ。そうは言っても成果が……可能性の森の中で、私たちは終着点という崖の面前だ。
君たちは言わば感覚器官のようなもので、ここの目であり、鼻であり、耳であり、そして指先だ。教授はいつも私たちにそう言った。私は首を横に振る。藁人形。釘の痛みも感じない。そうであるべきだ。
「先生」ノバが椅子に座ったまま、私を見上げる。いつも不思議に思う。どうやって彼女は笑顔を作るのだろう。「今日は気持ちの良い日ね」
「風を感じる?」
「うん。朝は海の匂いがする」
「そう?」
「うん」
「雲もほとんどないわ。少し霞みがかったような感じだけれどね」
「綺麗ね」ノバは窓の方に顔を向けた。「あたたかい」柔らかそうな眉が陽に透き通る。
ノバの食べ終えた後の食膳を取り、彼女の肩に一度手を置いてから部屋を出た。
先生、相変わらずヒドイ顔だぜ。ちゃんと食ってる?
通りがかりの男の子がまるで蝶のようにひらひらと羽ばたき毎に方向を見失いながら走り過ぎていく。躁か。私は骨張った左手首に巻きつけられた腕時計に右手を重ねる。
配膳ワゴンがいっぱい。毎日の事だが臓物を鼻腔に捻じ込んでいるような気分だ。中庭を通り抜ければ楽なのはわかっている。中庭は濃淡の緑を基調にして、色とりどりに息をしていた。まるで睫毛で散乱された光のような虹。そしてやはり緑色の口臭。
干乾びた小さな蜘蛛の死骸。まるでサルソラのように廊下の影の中を転がっていく。当てのない罠を作らせた私たちの罪だ。食べられない。代償になるかわからないが吐き気を捧げる。
「樹にも寿命はあるの?」ノバが尋ねてくる。
「あるわ」
「死んだらどうなるの?」
「みんな一緒よ。腐っていくの」ドブのような匂いを撒き散らしてね。
「最後は土に還る?」
「私もあなたも」
日々。ヒビ。顔。ノバの年の頃、鏡を割ったけれど、何も変わらなかった。最悪。
「今日の分のお薬は飲んだ?」
私の問いかけにノバは笑顔で頷く。朝露を振り払う柔らかな葉のように。
「じゃあ、指を出して」
「ねぇ、どうしても手の甲じゃダメなの?」星の数。
「目立つわ」
「私には関係ないもの。それよりもピアノを弾くのに支障が出るわ」
「ごめんなさい」
どうしようもない。つまらない決まりと慣習に飼い殺され、私は針を右手で摘まみ上げる。左手でノバの左手を包み込み、親指を陽のもとに呼び寄せる。乱され、消し去られゆく指紋。まるで複眼のような彼女の目。憎しみに濡れ、私を睨みつける。小さく声をかけてやってから、針を刺す。
ノバの笑顔は瞬きの時間分だけ蜃気楼に揺れ、そして気がつけばまたそこに笑顔。どこで勉強したのか。
針につけた血を試験管に落とす。赤黒い星の欠片。透明な蜜に溶け出す……変色。
このまま黙っていることもできる。
いや、できない。そんなことはできない。
「森の匂いに変わったね」ノバは風に鼻先を向ける。
白いカーテンが海に吸い込まれるようだ。部屋を満たす影。青すぎる空。霞が払われ、鮮明な青。私は願いを込めて、ノバの肩に手を置く。
「ノバ、右手を貸して」
笑顔が砕ける。緊張の糸。影までもが息を殺した。風と波だけが呼吸を繰り返す。先に息を吐き出したのはノバだった。笑顔を私に向ける。言葉、無。
昔の会話。無力に死ぬことと無力に生きること。誰にも誰かの死を選ぶことは許されていないわ。私たちは自分で自分の死に方を選ぶのよ。ここでは違う。ううん、先生。私の体が決めるのよ、全部。
私の左手で彼女の右手を包み込む。最後だから我慢するのよ。赤子のように綺麗な右手の親指に針を刺す。
変色した試験管の隣に置いた別の試験管にノバの血を垂らす。時間は崩れ、永遠の木々のさざめき。寿命……試験管が闇に輝く月のように鮮血の赤に染まる。
「先生、何色だった?」
「あ、青色よ。海の色。美しいわ」
ノバは笑顔を私に向けた。生きていくのね、私。
2020.12.21