霏々

音楽や小説など

Death and the flower

Death and the flower

 

 部屋の中では淡いオレンジ色が燃えていた。ナイトランプだけが点いていたのだ。カーテンの外にはまだ夜が、静寂とともに腰を据えている。ここに引っ越して来たときから使い続けている何の変哲もない木製のローテーブルの上には、半分ほどまで減った安物のウイスキーのボトルと、コーラやジンジャエールのペットボトルやらが並べられていて、二つのコップにはまだ即席のコークハイが残っていた……二つ?

「この間ね、変な人と会ったのよ」

 彼女は顔を仄かに赤く染め、洞穴の様なくたびれた灰色をした座椅子にもたれかかりながら言う。僕は彼女の右手前に座っていた。実家から持ってきたと思われる変な花柄模様のついたクッションを尻の下に敷いて座っている。

「バイト先の先輩とバーに飲みに行ったんだけどさ。私、バーなんて行くのは初めてでちょっと緊張してたの。でも、なかなか良いところだったよ。やっぱり、こう、お酒を飲むうえで雰囲気とかって大事だな、って思った」

 僕は「確かにね」と答える。オレンジ色の光を放つナイトランプはローテーブルを挟んで僕の目の前にあった。手は届かない。間接照明的に部屋を照らすため、その首は上に向けられている。白熱球が火の玉のように煌々と燃え滾り、彼女の影を箪笥に映し出している。彼女がコークハイを取るために座椅子から背中を浮かせると、それに合わせて彼女の影が僕の部屋を舐めるように這い出す。跳ねた髪先の細い線までがきちんと影には反映されていた。

「最初は普通にその先輩と二人で飲んでたんだけど、途中で先輩が電話で席を立ってね。まぁ、そのときはまだ十時前だったし、電話の相手はたぶんバイト先かな。それで、私はしばらく一人でお酒を飲んでたの。何て言うお酒だったかな……たしか、モス、モス……モスなんとか……」

「モスコミュール」

「うん。多分それだ」彼女の笑い方はいつも切ないくらいに作品的だ。気を利かせたつもりの画家が「初恋」とか「郷愁」とか、そういうタイトルで描きそうな屈託のない笑い方をする。「まぁ、私はそのモスコミュールをしばらくの間、バーの中の音楽を聴きながらゆっくり飲んでたんだけどね。しばらくすると、一つ向こうの席に座った男の人が話しかけてきたの」

 僕は既に彼女の話に出てくる「先輩」という人物の性別について、やや気を揉んでいたのだけれど、そのうえ彼女に話しかけてきた、おそらくは先述の「変な人」の性別が男ということを聞いてほんの少し嫌な気分になる。どこかから雨音のような静かなノイズが聞こえてくる。それはまるで僕のどうにもならない微かな嫉妬心と共鳴しているように感じられた。

「その人はね、『もしかして、どこかでお会いしたことありましたっけ?』なんて言うの。私はちょっと呆れちゃって。だって、二十年前の映画の中の口説き文句じゃない? そんなのって」

「そうだね」僕の疑念はまだ螺旋階段のように続いていたけれど、しかし、彼女の話す素振りが全く以てさっぱりしたものであることを感じて、少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。無論、彼女の話し方が六月の紫陽花のようにもう少し瑞々しいものであったとしても、僕にはどうすることもできないのだけれど。

「だから私は『ごめんなさい。私の方はあなたに見覚えがないんです』って返した。うん、だって実際私には見覚えがなかったし、たとえもう少し険のない受け答えができたにしたも、まさかこんな初めてのバーで口説かれるわけにもいかないじゃない。私は先輩にバーでのお酒の頼み方は教わっていたけど、見知らぬ男の人からのお誘いの断り方は教わっていなかったし。冷たい態度を取っちゃって相手には悪いとも思ったけど、私から言わせれば、まだこういうところに手慣れてない女の子に誘いの言葉をかけてくるような無神経さがそもそもダメだったのよ。うん、とりあえず、私はそう思うことにして罪悪感をやり過ごすことにしたんだ」

 彼女はコップの中の黒い液体を飲み干すと、テーブルの上に置いた。僕は彼女に「次はコーラ? それともジンジャエール?」と聞きながら、先にウイスキーをコップに注ぐ。彼女は新しく買うカーテンの色を迷うみたいに、しばらく目を細めてテーブルの上の二つのペットボトルを見比べていた。

「選べないんだったら、上手い具合に混ぜてあげるよ」

 僕の提案に彼女はクスクスと、初夏の風に身を擦り合わせる木の葉のように笑う。笑いながら「じゃぁ、それでお願い」と彼女が言うので、僕は本当にコーラとジンジャエールを混ぜる素振りを見せたが、彼女は「冗談だってば」と僕の手首を掴んでそれを制す。僕の心からはもう嫉妬心が消え去っていたが、ザーッという微かなノイズはまだ止んでいなかった。それから僕はテーブルの上にある一つの花瓶の存在に気がつく。

「あれ? こんなのあったっけ?」僕はペットボトルを置く代わりに、ガラス製の花瓶に指先を向けながら尋ねた。これといって特徴のない、彼女の手首くらいの太さの花瓶だった。

「私が持ってきてあげたんじゃない」毅然として彼女は答える。

「そうだっけ?」

 僕は今ひとたび花瓶に目を向けてみた。赤いバラが刺さっている。それはとても浮世離れしているように見えたし、僕の家の中に洗練されたガラス製の花瓶やら深紅の薔薇やらが凛と佇んでいるということ自体が、何か論理にそぐわないような、そんな気がした。

「お土産よ。今日は大切な日でしょ?」

 彼女が断定的なものの言い方をするので、僕は「そうだったね」と返しながら何度か頷いた。僕の影も僕の背後で同じように頷いた。

「でね、私はちゃんと私なりにその変な人をあしらったつもりだったんだけど、でも、その人はなかなか自分のとこへ戻ろうとしないんだ。と言っても、その人はずっと一つだけ離れた席に座ってたから、そこが自分の場所ではあったんだけどね。でも、私の言いたいことわかるでしょう?」

 僕は「うん」と答える。そして、つまみのピーナッツを一つかじる。

「私はまた身体を前に向けて、モスコミュールを飲み始めたの。でも、その人は『うん。間違いない。僕はあなたにお会いしたことがありますよ』って、また話しかけてくるのよ」彼女は溜息を投げ捨てるようにそう言う。

「でも、会った覚えはないんだろう?」

「もちろん。すぐに私は、人違いじゃないか、って言ったわ。そしたら、その人は嫌な感じで笑うのよ。そうね。何て言うか、子供の稚拙な嘘を見抜いたような感じの、ちょっと私のことを小馬鹿にしたような笑い方だった。私はイラッとしたけど、あえて何も言わないように気を付けた。だって、私はこれ以上その人に関わりたくなかったから」

 相変わらず、微妙なノイズが辺りを満たしていたが、部屋の外は妙に静かだった。まるで雪が降った後の夜のように。積もり重なる純白の羽毛に、端の欠けた月が青白い光を投げかける。そんな景色が僕の頭の中に思い浮かんだ。

「で、結局、どっちを飲むの?」僕は空のコップを指さして言う。

「あぁ、じゃぁ、またコーラでいいかな」彼女は答える。

「コーラね」

「うん」

 僕はコーラの入ったペットボトルを再び手に取った。そして、適当にコークハイを作る。かき混ぜるものが欲しかったが、マドラーなんて洒落たものはそもそもうちにあるはずもなく、仕方なく僕は「自分で混ぜて」と言って彼女にコップを渡した。彼女は自分の箸でコーラとウイスキーを攪拌しながら話の続きを喋り出す。

「結局、その人は私の態度なんてお構いなしに話し出したの。『じゃあ、ちょっと考えてみてほしいんですけど、ここで僕があなたに向かって一、二、三、と声を発したとしましょう。もちろん、あなたは僕が一、二、三と順番に発したように聞こえますね? でも、ここで少しだけ条件を変えてみます。つまり、僕はあなたに向かって音速よりも早く移動しながら、一、二、三、と発するのです。まず、僕は一と言う。すると、一、という音があなたに向かって飛んでいきます。しかし、僕は音よりも早くあなたに向かって行っているわけですから、僕が二と発するときには、既に僕は自分の発した一という音よりもあなたの近くにいることになります。同様に、僕は自分の発した二という音を追い越した地点で、三、と発します。すると、どうでしょう? 三、二、一という順番で音はあなたに向かって行くことになるわけですから、あなたは僕が三、二、一と発したように聞こえますね。これはとても面白いことだと思いませんか?』……だってさ。まぁ、その人の言ったこと自体は理解できたけど、でも、それがどうだって言うの? 急にそんなこと言われても、よくわからないと思わない?」

「うん、まぁ、そうだね。強いて言うなら、仮にその男が一、二、三、と発したなら、君にはナス、イン、イチって聞こえるってことだね。三、二、一とは聞こえるはずがない」

「私もそう言ってやったわ。そしたら、その人、『あなたは頭の回転が速いですね』だってさ。さっきは馬鹿にしたように笑ったくせに、よくわからないよね。ただ気がついたら、結局なんでその人がそんなことを言ったのか気になってる自分がいたの。だから私つい聞いちゃったんだ。で、それがどうしたんだ、って。そしたら、その人はまたベラベラと喋り出すの。『僕が言いたかったのは、何が先で何が後なのかなんてことは、誰にもわかるはずもない、ってことです。結局、人は自分が知覚したものに対して、それらしい合理性を与えてものを解釈することはできますけど、真実など何も見えちゃいないんですよ。スイカは外側が緑で内側が赤色。緑と赤を混ぜると黒くなるから、スイカの皮の縞模様や種は外側と内側が混ざった場所。こんなことを言うと、何を馬鹿なことを言っているんだ、と笑われてしまうでしょう。でも、人間が勝手に、スイカの外側を緑色と名付け、内側を赤色と名付け、緑と赤を混ぜたものを黒と呼んでいるだけで、それが真実とは限らないんです。いわば、縞模様と種が内側と外側が混ざったものであるという論を誰かが否定するなら、僕はスイカが緑と赤と黒で出来ているということを否定してやろう、ってことです。何も確かなことなどない。音速を超えたものが音を発すれば、逆再生されたように人には聞こえる。じゃあ、世の中のあらゆるものが音速を超えてないだなんて、誰に言い切れるんです? それと同じで、光よりも早く移動すると時間が巻き戻されてしまう。なら何故、時間が前に進んでいるだなんて言い切れるんです? というか、そもそも時間にとっての前とは何でしょう。結局、人間は自分の都合の良いように……人間の脳みそが合理的に咀嚼しやすいように物事を捉えているんです。だから、あなたはあなたの記憶を探って、僕には会ったことがない、と結論付けたみたいですけど、それが本当のことかどうかなんて、あなたには決してわかるはずもないんです。僕たちは既に未来で会っていて、過去しか見えないあなたには、そのことがわからないだけかもしれない。つまり、僕があなたと会ったことがある、ということをあなたは否定することができないわけです』」

 彼女はまるでその男に憑りつかれたように喋った。言葉が途切れると、彼女はコップのコークハイを半分ほど一気に飲んだ。少しウイスキーが強かったのか、胃の中に流し込んだ後で、砂粒を噛み締めたみたいな苦い表情を浮かべる。

「まともに考えれば、色々と反論はできそうだけど」僕が彼女の話に対して何かしらの感想を述べる番だった。良い言葉が見つかりはしないかと視線を泳がせてみるが、見えるのは黒い影と、茎が深緑で花弁が深紅の薔薇だけだった。深い酔いと深いノイズが思考に霧をかける。「でも、その男が問題としていることそれ自体は正しいんじゃないかな。女を口説くときにうってつけの内容の話かどうかということは置いておいて」

「私もその時はちょっと酔っ払ってたし……ていうか、今も酔っ払ってるけどね。まぁ、だから、そういう捻じくれた論理みたいなのを考えるのはその時の私には難しかった。で、結局それからすぐに先輩が電話から戻って来て、それでその人も諦めたのか、また一人の世界に戻って行ったの」

「その男は何がしたかったんだろう? 話を聞いてる感じだと、何て言うか、君を口説くことが目的だったとは思えないんだよね」

 僕の言葉に彼女は眉をひそめる。「やっぱり、そうだよね」と彼女は言う。生まれたての赤子には遺伝子の異常で口も鼻も無く窒息死するのを待つしかない、といったような諦めが彼女を包み込んでいた。「何だかその人の雰囲気が不吉だったの。どちらかと言うと先輩が戻って来たから大人しく帰って行ったんじゃなくて、言いたいことを言い終えたから帰って行ったみたいな感じがあったし。でも、どうしてその人が私にそんなことを言ったのか、ということを考え出すとよくわからなくなる」

「あえて行動と言葉に辻褄を持たせないようにすることで、相手を不安がらせて楽しんでただけかもしれないけどね」

「うん。そうかもね。そう思うことにする」

 

 それから僕たちはまた意味のないことを喋り合いながら、アルコールの沼に一歩いっぽ足を踏み入れて行った。夜は一向に更ける気配を見せない。太陽が死んで、影が影の意味を失う。ある意味ではそれは僕が望んでいることだった。僕は終わらない夢を見ているのだろうか。ローテーブルには木目の鱗が這っている。川を遡上するある種の魚のように、僕の意識は木目の流れを辿ってどこかを目指していく。彼女に相槌を打ちながら、意味も無い放浪を続けることは心地の良いものだった。

しかし僕はどこかで、この夢のような世界にもきちんと終わりがあることを知っていた。どこか霊的な雰囲気を纏った除夜の鐘のように、或いは、無機質な忌まわしき目覚まし時計のアラーム音のように、僕の鼓膜には雨のようなノイズが貼り付いている。それは次第に大きくなっているような気がした。きっとどこかでダムは決壊し、この幸せな時間はいずれ凶暴な濁流に飲み込まれ、深い水の底に沈んでいってしまう。

「ねぇ、君にもこの雨音みたいな雑音って聞こえてるの?」僕はたまらずそう聞いてしまう。「聞こえてるよ」と、彼女は少し躊躇しながら答える。

「これは、何の音なんだろう?」

「知りたいの?」

「君はこれが何の音か知ってるの?」

 僕の問いに彼女は「うん」と静かに頷く。「ほかに好きな男ができたのか?」と尋ねられた時に女がするような、そういった仕草で。

「ねぇ、じゃあ、この音が何の音か教えてあげる代わりに一つだけ質問してもいいかな?」彼女は手に持っていたコップを、音を立ててテーブルの上に置くと、その底を覗き込みながら僕に言った。彼女の視線が僕に向けられないことに僕はほんの少し悲しさを覚えたが、そんなことはあっという間に過ぎ去り、僕は「いいよ」と答える。それから、彼女の神妙な面持ちから不吉を予期した僕はクッションの上で姿勢を正す。「私って、いつもあなたと一緒にいるでしょ。こうやってお酒も一緒に飲むし、一緒に映画を見たり、音楽を聴いたり、あなたと同じ時間を過ごしている。あなたのことなら何だってわかるの。それがあなたが私に求めたことだから」

 彼女の瞳は朧月のように、ぼんやりと光っている。ナイトランプのオレンジ色の光を受けて、黒く艶やかな睫毛は破滅的な傾向を持つピアニストの指先のように細かく震える。彼女の言葉は何かの拍子に時間の迷宮に迷い込む。古く長い橋が、深刻な天災によってある所から先を失ってしまったみたいにして、ただ無情に途切れたのだ。しかし、それも長くは続かない。僕はこれから為されるであろう彼女の質問を待つよりほかなかった。何故なら質問はまだ為されていないのだから。

「私が聞きたいのはね」彼女は言う。「私が誰なのか、ということ。私は過去の誰かなのか、それとも未来の誰かなのか」

 僕は考えるまでもなく、その問いに自分が答えられないことを知っていた。僕には彼女が誰なのかわからなかったし、仮にいくつかの思いつく名前を与えてみても、それはどれもしっくりとは来なかったのだ。名前や定義のような単一的なものを彼女に与えることは僕にはできなかったし、また、やりたいとも思えなかった。

「ごめん。僕にもわからないよ」

「そう」

 彼女は悲しげな落ち葉のように笑った。目の前に生けられた瑞々しい薔薇を羨むような感情が表情から見て取れる。僕も彼女の川底のアルミ缶みたいな落胆を自分のことのように残念に思った。何故ならそれはまさに自分のことであるから。

「じゃあ、行こっか」彼女はそう言ってテーブルに手をつく。立ち上がるとき、アルコールのせいで少しだけふらついた感じがあった。

「どこに?」

「そろそろ時間なのよ。ついでにこの音の正体も教えてあげるから」

 僕は彼女に倣って立ち上がり、そして、彼女の後に続いてこの狭い部屋を出た。洗面所の前を通りかかるとき、あの雨のようなノイズははっきりとした輪郭を持ち出し、そこに現れた。風呂場には灯りがついていた。

「開けて」

 彼女は風呂場の扉を指す。僕は言われた通りに風呂場の扉を開ける。そして、雨音の正体が乱れることなく降り続けるシャワーの音だということを知った。シャワーから落ちてくる水の粒が、風呂場に倒れている目の前の僕の身体を断続的に打っている。辺りには薔薇が咲き乱れているみたいに、赤い血が飛び散っている。安物の包丁が足元に転がり、首筋からはまだ血が流れ出ていた。

「どうして死んじゃったのかな」彼女も僕と同じように死んだ僕を見下ろしていた。彼女の言葉は、ここにいる僕とそこにいる僕、どちらに向けられたものなのかよくわからなかったけれど、僕はとりあえず「わからない。でも、たぶん、耐えられなかったんだと思う」と答えた。

「何に? 何に耐えられなかったの?」

 僕は一歩後ずさりする。それから、しばらく黙って考えた。その間も僕は横たわる僕から目を離せずにいる。いったい、僕は何に耐えられなかったのか。

「ねぇ。もう、行かなくちゃいけないんだろう?」僕は彼女に尋ねる。

「うん。もう、そんな時間だね」

 彼女は最後に、風呂場で横たわる僕に一瞥をくれると、静かに扉を閉めた。シャワーの水音はまだ続いている。

「ずっと、ここでこうしていることはできないんだろうか?」

「うん。でも、あなたはここにずっといることを望んでいるの?」

「いや……わからない。ただここよりも恐ろしいところには行きたくないんだ」

「それは大丈夫よ。少なくとも、もう向こうに戻ることはないから。あなたもいま見たでしょう?」

 彼女は僕の手を取る。そして、玄関へと僕を連れ立っていく。きっとこの部屋を出るときが本当の終わりなのだろう、ということを僕は直感的に知る。

「僕はどうして死んでしまったんだろう?」

「それはさっき私が聞いたことよ」

「そうだった。でも、自分でもよくわからないんだ。おそらく、結局のところわかりやすい理由みたいなのは存在しないんだと思う。ただ、人間が作った言葉で表現するなら、たぶん僕は孤独だから死んだんだろう」

 僕の言葉を聞いて彼女は掴みかけていた玄関のドアノブから手を離す。そして、僕に優しく微笑みかける。

「あなたは孤独だから死んだ」

「きっと」

「でも、どうなのかな。今ね、私、あの人が言っていたことがわかったような気がする。原因と結果のどっちが先かなんて誰にもわらない。孤独だから死んだのか、それとも、生きているから孤独なのか。ただ一つだけ言えるのは、あなたが孤独だったから私がいたのよ」

 彼女が僕の手を取る。そして、再びドアノブに手をかける。

「ふふ。そうだな。うん、せめて君がいてくれてよかったよ」

 ドアの向こうの夜の空気は、虚無よりもずっと澄んでいるように感じられた。

 

2016.02