霏々

音楽や小説など

【妄想】四の五の言わず颯と盛りたもれ

 

プロローグ

 

 何度目かの引っ越し。いらないものは捨て、できるだけの家具を買い替える。新しい私に生まれ変わる。でも、手元には2通の手紙が残った。別々の元カレから貰った別々の別れの手紙。「このご時世に手紙なんて」と笑われる。けれど、面と向かって伝えられないことも、気軽なメッセージアプリでも伝えられないことも、手紙だったら伝えられる。たまに歩道橋の上から通りを見下ろすと、少しだけ違った景色に見えるように、手紙を通して何かが新鮮に、そして立体的に浮かび上がってくる気がする。

 いま、新品の机の上に並べてみる。別々の住所。今とは違う住所。間違ってももう彼らから手紙が届くことはない。彼らの知らない住所に私の生活が移り住む。

 友達に交際相手の話をすると、「いつも同じような人を好きになるよね」と言われる。そうかもしれない。2人の筆跡はとても似ていた。文体も似ているかもしれない。でも、書かれている内容はまるで違っていた。どちらも私に宛てられた手紙だけれど、そこにいるのは同じ私なのだろうか。たぶん違う。私は…私っていったい誰なんだろう。

 手紙を紹介する。

 

1通目

 

 君への最後の手紙だ……なんてことは言いたくなかったけれど、実際問題これが最後になるんだろうね。僕はそのことを割と悲しく思っている。いや、もし君がうっとうしく思わないんだったら、「割と」ではなく「とても」に言い換えたい。それくらい君との別れは僕にとって残念なことだ。同じくらい君が残念がってくれていたら、と思うけれど、別れ際の君の笑顔を思い出すと僕に言えることはもう何もないように思う。何と言っても、君は1mmだって悪くなくて、全部僕が悪いのだから。

 僕が君以外の人を選んだことは紛れもない事実だよ。でも、それが本当に正しい選択だったのかよくわからなくなる時がたまにある。君と別れてまだ1週間と経っていないけれど、「これが正解の選択だった」と自分に言い聞かせ後で、やっぱり君のことを思い出したりしている。でも、やっぱり君との関係をやり直す余地はどこにもないように思うし、僕は僕で新しい人生を始めようとしている。君のことを考えながら、君との思い出を捨て、君のことを考えながら新しい冷蔵庫を選んだりしている(君も一緒に使ってたからわかると思うけど、あの冷蔵庫はなかなか優れものだよ。僕を忘れても大事に使ってくれ)。

 君の前で新しい生活の話をすべきではないんだろう。でも、僕が君のもとから離れつつあるという事実を、僕自身がまず認識しなくちゃいけない。だから冷蔵庫の話なんてしてしまった。そして、これが君との会話の締め括りだと思って、手紙を書いている。何につけても自分の希望を口に出さない君が何気に言った言葉が忘れられない。

 

 -村上春樹の小説に出てくるような長い手紙が欲しいかな

 

 物覚えの悪い僕だけれど、何故かその言葉だけはずっと頭の奥にあったんだ。君とは何回か手紙のやり取りをしてみた。ただ郵便ポストに入れたものが、僕たちの家に戻って来るというのが面白い。そんな単純な喜びしか僕はわかっていなかった。もちろん君の手紙は素敵だったし、僕もできるだけ自分の気持ちを素直に手紙に忍び込ませたよ。でも、こうして君への最後の手紙を書いていて、君が手紙を欲しがった理由ってのがわかったような気がする。自分がこんな風に文章を書くなんて、僕は今まで知らなかった。確かに、手紙の上にしか現れない感情というものがあるらしい。これまでの手紙はもっと砕けた調子だったから、君はここまでの僕の文章を読んで、ちょっと驚いているかもしれない。でも、できるだけ誠実であろうとするとこんな感じになってしまうんだよ。不思議だね。

 手紙に向き合うことでようやく僕は自分の心に向き合っている気がする。何で君と別れてしまったのか、を真剣に考えている気がするよ。でも、なかなかそれを言葉にするのは難しいね。言葉は心に追いつけない。君との恋は簡単に語れるようなものじゃなかった。居心地の良さにかまけていて、君という人の魅力を軽視していたのかもしれない。結果、僕は新しい刺激や新鮮な何かというのを求めてしまった。軽率にも、ね。

 君の優しい笑顔が胸を締め付ける。いっそのこと「裏切り者」となじってくれれば、僕も潔く君のことを忘れられたように思う。一方で、強い君のことだ。もう僕のことなんて忘れてしまっただろう。僕ばかりがめそめそしているという気がする。でも、この手紙を書く中で、僕も決心を固めなければならないとそういう自覚が芽生え始めている。うん。君のあの別れ際の優しい笑顔を手向けと思い、僕は新しい人生を進めていくよ。

 と、ちょっと休憩がてらお茶を取りに行ったときに思い出したことがあったよ。君にあげたあの失くしたピアス(ダイヤモンドでも何でもないオモチャで申し訳ない。いつかちゃんとした宝石を買ってあげたいとは思っていたんだよ)。きっとソファの裏側にあるんじゃないかな。さっき立ち上がった時に消しゴムを落としたらソファの裏側に転がっていったんだ。それでふとあのピアスのことを思い出した。これはきっと天啓に違いない。この手紙を読み終わったら、ぜひソファの裏側を探してみてほしい。約束だ。

 ついでにもう1つ思い出したこと。家でご飯を食べる時、だいたい僕がお茶碗にご飯を盛っていただろう? そして僕はいつも少な目にご飯を盛って「これくらい?」って聞いていた。僕は君のことを少食だと思っていたから、「欲しければ足すから言ってね」というつもりで聞いていたんだ。そんな僕に君はいつも「うん。それでいいよ」と笑顔で答えてくれた。でも、本当はもう少し沢山食べたかったんじゃないかな。外食では普通に1人前を食べてたな、ってふとこの間思い出したんだ。何故か僕の中で外食の時の君と、家で一緒に食べる君とが結びついていなかった。いつの間にか僕の中で、君は家ではあまり食べないようにしている、って認識が出来上がっていたように思う。

 これは1つの側面でしかないかもしれないけれど、一事が万事そういうことだったんじゃないかと僕は不安になる。そう、君はいつだって何かが足りないと感じていたんじゃないか。それはご飯の量もそうだし、例えば僕の君に対する愛情も。君はいつだって満ち足りているという風を装っていたけれど、本当は何も満たされていなかったんじゃないか。欠落感を抱えたまま、そんな自分を無理やり納得させていたんじゃないか。

 結果だけ見れば、僕が君との関係において何か欠落感を覚え、別の人に走ってしまったということになる。でも、本当に満たされていなかったのは君なのかもしれない。もしかしたら僕がもっと君を満たしていれば、それが自分に返ってきたのかもしれない。今更になってそんなことを思うよ。

 さて、村上春樹の小説に出て来る手紙ほどは長くないけれど、だいぶだらだらと意味のないことを書いてしまったので、これくらいで終わりにするよ。君のこれからの人生が素晴らしいものになることを祈っている。何も満たしてあげられなかったかもしれないけれど、それを埋め合わせるように精一杯祈ってる。じゃあ、お元気で。

 

2通目

 

 初めに。君みたいにエネルギーに満ち溢れていて美しい人が、僕の彼女であったということが僕にはまだ信じられない。君との日々は常にビビッドカラーで華やいでいた。ともすれば君は自己中心的な人なのだろうと誤解されるほどしっかりと自分を持っている。でも、実際はそれだけじゃなかった。君の背後にはきちんと思慮深さというのがあった。それを象徴するのはやっぱりこの「手紙」だ。

 人生で誰かから「手紙」を要求されたのは初めてだった。一見して君は手紙を書くような人には見えないからね。正直、「意外と古風なんだな」と驚いたよ。でも、いざ手紙を書いてみると楽しかった。一緒に郵便ポストまで行って、お互いへの手紙を投函したのは何とも楽しい思い出だった。自分の投函したものが自分たちの部屋に届く、ってのが何だか面白くて、それだけで僕は満足してしまった。だから、あまり「手紙」そのものを楽しんではいなかったのかもしれない。そのことをこうして君への最後の手紙を書く段になってようやく思い至った。

 君と別れることになったのは本当に申し訳ないと思っている。僕は君ほど可愛くて美しくて魅力的な人を知らない。それは本当だ。それくらい君の全てが大好きだった。うん。そのことは君も知っているよね。でも、それなのに僕が別れようと決めた理由について、まだ君にちゃんと正確に伝えられていないんじゃないかな。だから最後に手紙を書くことにしたんだ。そして、手紙を書き出して感じたけれど、実は心をきちんと見つめ直して、それを相手に誠実に伝えるのに、この「手紙」という方法はかなり有効なんだね。君が「村上春樹の小説に出てくるくらい長い手紙がほしい」と言っていた理由が今になってわかったよ。

 君はいつでもキラキラしていて、輝いていた。僕の前では常に魅力的であろうとしてくれていたね。いつシャッターチャンスが訪れてもいいように油断なんて1mmもしていなかった。その努力は単純に凄いと思ったし、カッコイイとも思った。もちろん彼氏として嬉しくもあったよ。でも、もっとありのままの君でいてもよかったんじゃないか、という気がしたんだ。君のことは好きだったし、君といる自分を誇らしくも思ったけれど、でもどこか気が休まらなかった。そして、何となくだけど、君は常に輝いている自分でいることが大事であり、僕のことをあまり見ていないんじゃないかなという気がしたんだ。

 いや、君は僕のことを見ていてくれた。君は僕のために美しくあろうとしてくれていた。それはわかっているつもりなんだ。でも、それでも、究極的には君の視線は僕を向いていないように思えた。そして、それと同じような態度を僕にも求めているんじゃないかという気がした。僕も精一杯お洒落やら何やらに気を使ったつもりだ。でも、僕が君の求めるラインに達していないとき、君は「あなたを好きでいさせて」とでも言いたげな残念そうな視線を僕に向けるんだ。そういうのが次第に耐えられなくなっていった。

 今だから言うよ。君は女性として完璧すぎるくらいに魅力的だ。でも、一緒に生活をするには、君は美し過ぎる。愛を育むには隙が無さ過ぎる。もちろん無防備になればなるほど、愛が深まるとは言わない。だらけることが愛の成熟だとは思っていない。だからこそ、君の在り方というのは間違いではないんだろう。たぶん間違っているのは僕という人間で、そして君と一緒にいると僕はずっと自分が間違っているような気持になってしまったんだ。

 沢山撮った君の写真も捨ててしまった。僕の手元にはもう1枚も残っていないけれど、捨てるには勿体ないくらい良く撮れているから、USBに保存して手紙に同封したよ。君に会えない日はよく写真をスクロールして、「可愛いなぁ」とか「これが自分の彼女かぁ」なんてニヤニヤしたものだけど、別れてしまうとそれはもう虚しさしか呼び起こさない。そんな風になってしまったことが何だか悲しい。たぶん君が美しいから未練があるんだろう。別れて気持ちが楽になったはずなのに……それは置いておいても、君の美しさは1つの真実だからね。人に対して使う言葉ではないけれど、「勿体ない」とか「惜しい」と思ってしまうんだろうね。

 手紙を書いているうちに、ご飯の炊ける匂いがした。それで思い出したんだけれど、君はあんなに細いのに沢山ご飯を食べていたよね。外食先では普通に1人前で満足しているようだったけれど、そう言えば家ではお茶碗にご飯を大盛りによそっていた。僕が「これくらい?」と沢山よそって、(さすがに減らすだろう)と思っていると、君は何てことなさそうに「うん。ありがとう!」って景気よく答える。だから、外では品を気にして食べないようにしているだけで、家では思う存分食べているんだって認識していったんだ。

 けど、たぶんあれは無理してたんじゃないかな。本当はそんなに食べなくてもいいけど、エネルギッシュな自分でありたいみたいなことが君に沢山食べさせてたんじゃないか、って最近になって気が付いた。

 これは1つの側面でしかなくて、君はいつも自分の自信の無さを埋めるように美しく着飾ったりということをしていたのかもしれない。そう考えると、君をただ愛情で安心させられなかった僕のせいだったんじゃないかという気がしてくる。もし、僕が君を愛していることをもっとしっかり伝えられていたら、君も安心して、そこまで着飾ったりしなくて済んだかもしれない。心にも余裕が生まれて、ひいてはそれが僕の居心地の良さに繋がったかもしれない。そう考えると、上では君が僕を追い込んだというような書き方をしたけれど、たぶん僕が君を追い込み、そのせいで結果的に僕まで追い込まれてしまったということになるね。うん。君には本当に申し訳ないことをした。結局、僕が全部悪かったのかもしれない。

 今更反省しても遅いよね。この間、君の家に荷物を取りに行ったとき、もう僕との別れ話を友人に盛大に披露した後だと言っていたね。君のその胆力にはいつだって驚かされる。君が本当に強く美しい人間で僕はそれが嬉しいよ。ただ、もう君に必要とされていないんだなと感じて、ちょっぴり寂しくはなるけどね。でも、君が前を向いているなら、僕もいつまでもうじうじしていられない。僕は僕で前を向いて人生を進めていくよ。

 村上春樹の小説に出てくるほど長くはならなかったけれど、この手紙が君のところに届いて、また君の失恋話に色を添えることを期待している。では、僕に言われるまでもないだろうけれど、これからもお元気で。

 

エピローグ

 

 同じような男を好きになった、全然違う私。私を含めて誰もが私のことを知らない。それはもうどうでもいい。2人ともそれなりに長い手紙をくれて、それだけで感謝だ。ただ、ムカつくのは2人とも私の食べる量に言及している点だ。私にいちいち「これくらい?」とか聞かずに、四の五の言わずに颯と盛りたもれ。

『失神蠍@2025.11.03 Zepp Haneda』凛として時雨~失われたはずの神がここに~

 凛として時雨について書くのもちょっと久しぶりという気がしますね。もちろん時雨のことはずっと好きですし、何があっても聴き続けて来ました。が、私の言語能力が変わらない限り、結局時雨のことを表現しようと思ったら同じ言葉が並んでしまうという問題がありまして。色々と日々を過ごす中で、「今なら書きたいかも」というタイミングを見逃してきました。

 が、新譜が出た時点でまだ迷いがあったところを、今回のライブでしっかりトドメを刺されました。これは書かねばならぬ。だって書きたいんだもん。と、久しぶりの承認欲求もどきが湧いてきました。えぇ、承認欲求がゼロというわけではないんです。こう見えて。とは言え、このブログを読んでくださる奇特な方々が数少ないことも理解はしています。よって、所詮その承認欲求は満たされることがなく、結局は自分の中の衝動を吐き出すだけで毎回終わってしまうのです。

 前置きはこれくらいにして。

 

ツアービジュアル・日程

 

 いつもの『I dance alone』、そしてSEへと。今日のピリリリリという着信音(?)はいつもよりも鋭く突き刺さってくるように聴こえました。1曲目は『Sα. SO. RI.』だろうなと思っていたらまさにその通り。なぜ蠍なのか。まだちゃんと歌詞を追えていない身であるので、その答えはわからないのですが、でも蠍ったら蠍。地面を這い回るような不穏なギターフレーズは吐き気を催すほど、胃を突き上げてきます。とにかくハイスピードで駆け抜けていく楽曲ですが、ラストのギターソロが何と言ってもカッコイイ。アルペジオっぽく弾いているのかなと想像していた箇所も、TK流の激しいスライド奏法であることに仰天。目ん玉飛び出ました。

 そしてすかさず『竜巻いて鮮脳』。荒れ狂う雨模様、即ち夜海の竜巻を描く回転する青いライト。この演出がDEAD IS ALIVEの時から大々々好き。サビは乗りやすい8ビートで皆が跳ねていて、会場の盛り上がりを全身で感じます。が、やはりラストの「きゅい~ん」からの倍テンポのところで、フィラメントが弾け跳びました。エグイエグイエグイ!間違いなく今日のライブはあちぃ。そう予見させてくれます。

 もうどの曲が来てもいい。早く次の曲を…と待ちきれないところを射抜くのは『Trrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrue Lies』。たぶん「r」の数が全然足りていない。でも、会場の音は「rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr」って感じで、「r」マシマシでした。途中のドラムソロなのかギターソロなのか最早よくわからない、マシマシのゲロゲロは「r」を何個積み上げても足りないくらいのクレイジーな音でした。およそ人間が生み出せる音ではない。それを聴いて悦ぶ奇特な方々。我々、最高の時間を共にしている。ぐわーんとなっている間に1曲が終わってしまいました。

 そしてお久しぶり(?)な『Enigmatic Feeling』。私は寝る時に『PSYCHO-PASS』を垂れ流していないと寝付けない病気に罹っているので、何かこの時ばかりは日常に揺り戻されたような気持ち。でも、全然眠くならない! ギターが歪みまくって、もう何がどう演奏されているのかわからない。けど、それがいいよね。素敵。記憶の音と、目の前の激音がコネクトして、間違いなく脳内でエレクト。そう言えば、この時くらいに気づいたのだけど、何かピエールさんのスネアの音がいつもと違うような。前はもう少し、「タンっ!」と小気味いい音だった気がするのが、今日はちょっと「バコンっ」と重ため。マットな雰囲気があって、これもまた良き。

 軽い一言があり、ほっと息をついていたら何ともクリーンで切ないギターの音色が。うーん、いったこれは何の曲で使う音色だろうか。ぼんやり考えていると、余韻を切り捨てるような「ジャキ」というカッティング。こ、これは、もしや秋なのか。秋の気配を感じちゃえるのか。全ての楽器が素晴らしく、また繊細な空気感で魅せてくれるわけですが、何と言っても圧巻はその右手。アルペジオ。どうして、そんなに正確に高速のアルペジオを奏で続けられるの。TK、なぜあなたはTKなの? ラストの切羽詰まったようなツインボーカルで胸がきゅっとなり、そしてアウトロでふっと悲しくなる。あぁ、素敵な秋だなぁ。

 で、奏でられる独特の色気あるコード感。これは来るな。えぇ、来ますとも。「ジャ…ジャン…………ドドタ、ドドタ」。345さんのうねるベースラインに釘付け。TKの不穏なアルペジオも鳴り響き、背中からせっ突いてくるようなシンプルなドラム。「イツカ、見える未来」と歌詞が変わっていたのも驚きでした。そう言えば、今日の会場には明らかに海外の方が多かった。目の前のフランス人カップルは「J-POP!」と叫ぶステージ上の彼らを見て何を思うのか。いいかい、これがJ-POPだ!!!!(大嘘)

 余韻も束の間、『DISCO FLIGHT』が来ましたわ。跳ねる群衆、空に突き出される拳。定番のナンバーではありますが、明らかにいつもより荒く激しい。特に、ギターソロのところでは終盤でツーバスが踏まれるなど、ここに来てまだ進化するのか、っていう。ここってTKの凶悪なギターを聴いていればいいんじゃなかったっけ。話が違う。そして、アウトロに入るところのリフがいつもならブリッジミュートしてるはずなのに、今日はバキバキに音を鳴らしていました。音源が完璧だから基本的に原曲に忠実に演奏する時雨ですが、ツアーイメージに合わせて微調整してくる辺りがさすがの玄人感ですね。

 忌々しく歪められたギター音。これはもう『laser beamer』。緑の閃光。左右にしなる光の鞭。もう触れたらキリがないので、ちゃんと触れられていませんでしたが、今回のツアーは照明もエグイ。もちろん定番の照明パターンも素晴らしいのですが、全体的にイカれた発光です。ビカビカに瞬いて、ちゃんと脳味噌から犯しておかしくしてくれます。この曲では、終盤のキメのところで、スネアが非常に重要な役割を担うわけですが、ここでスネアの音質が変わったことが非常に活きてきました。キレのある音も良いんですが、今日はなんか重い。三十路の女性の「私のことどう思ってる?」くらい重い。そんなこと言われたことないけど、なんかテキトーに雰囲気で喋っちゃうくらい良い味の出ているスネアでした。

 そして、待っていました。これは絶対にライブで聴きたいと思っていた1曲。『sick mind B rain』。TKの血管が弾け飛ばないかが心配な1曲ですけれど、やるったらやるんだ。そういう気概を感じますね。喉への負担が大きいかな、と思っていたら、間奏でずっとギターをかき鳴らし続けているので、腕への負担もハンパないことに気づく私。よかった。次はAメロ。少し休んで。どうせまたすぐ絶叫するのだから。会場を震わせる地獄みてぇなシャウト。シャウトした後にまたすぐに自分の歌割。本当に再現性考えずに楽曲を作る人だな。もう怖いよ。ちびりまちた。最後はなんかツーバス踏んでるし。原曲ってそうだったっけ。もうわからんけど、凄いからいいや。

 EPと同じ流れで『Black Sparkle』へと。神秘的な楽曲に合わせて確か美しい青いライティング。黒い光ってないんだよな。と、この楽曲の意味に辿り着きながら、青い光を浴びて、音光浴。延々となり続けるリバーブするギターが失われた神を想起させます。なんて神々しいんだ。でも、この曲をここでやるってことは、ラストは『Loo% Who%』だろうななんて余計なことも考えてしまったり。345さんのボーカルも光るこの曲は、時雨がただの凶悪バンドではなく、繊細で美しい世界観を持ったバンドでもあるんだと証明してくれています。

 そして、ピエール中野さんによる煽りが入り、今日は誰も捌けずにステージに立ったまま。めちゃくちゃ盛り上がる曲やるよ、というような宣言からの『nakano kill you』。もう荒い、荒い。最高に盛り上がって、会場に灼熱の波が。TKの歌うメロディラインも、もううねる、うねる。あなたそんなに色気たっぷりで歌ったら、みんな狂ってしまうよ。でも、色気じゃねぇ。この曲はそういうんじゃねぇんだ。ピエールさんのひた向きに打ち込み続けるドラミングが、全てを飲み込んでどこまでも我々を飛翔させてくれます。もう拍手が鳴りやまない。鳴りやまない。鳴りやまないと思ったら、なんだよ。なんだよ。『感覚UFO』が来ちまうじゃねぇか。たぶんこの繋ぎのところで、何人かは涅槃に辿り着いていますね。忘我の境地にドライブ・インでございます。会場の全員が7拍子のリフに頭を振っているという異様な光景。それが涅槃。でも、あれだけ熱気が渦巻いていたのに、コロコロと変わる楽曲の表情に合わせて、切なくなったり、潮らしくなったり、叫びだしたくなったり、結局叫んでいたり、忙しい我々。「あぁ、時間の中に」とセンチメンタルかと思っていたら、「ワン・ツー・スリー」で絶叫。最後まで駆け抜けて、短命な秋が盗んでいった疾走感をここに見つけたり。最後の一音まで最高でございました。

 一体これだけのものを見せられた後で、何が続くんだろうか。息を整えていたら、乾いたドラムのフレーズが。あぁ、そうかい。『Sitai miss me』なんかやってくれるのね。とにかく暴力性の高いセトリにしたいんだね。わかりましたよ。もちろん付き合いますとも。願ったり叶ったりとはこのこと。楽曲のシックでマットな手触りに反して、照明はカラフルなのがこの曲の不思議なところ。コード感を失ったフレーズでも、何故だかこの曲には得も言えぬ色気があるんですよね。そう思われたいわけではないでしょうが、『Sitai miss me』ちゃんはお洒落な狂気なんですよ。天邪鬼だから認めてはくれないんですけどね。

 そしてそこに続くのが『滅亡craft』。正直、私はこの曲をずっと愛しきれていなかったんですよね。イントロは好み。全体的に嫌いじゃない。でも、転調して明るくなるのはどうなの。私の前では常にキレッキレの反逆者でいて。優しさなんていらないの。そう思って接してきました。でも、やはりライブで観ると印象が変わりますね。真っ白の照明は天界のように明るく輝いていましたけれども、ステージの上では悪魔が絶叫してました。長調……ってなんだっけ? これは、なんだ? めっちゃ怖いんだが。童謡を流しながらグロテスクな殺戮シーンを映すなんて、ありきたりの恐怖演出じゃないんです。明るいコード感の中で、マジで発狂しているんですよね。これは数ある時雨の楽曲の中でも、他では感じられない恐怖体験。いやぁ、圧巻でした。

 物販コーナー。345さんが相変わらず可愛い。気の毒な各種小動物を思わせる可愛さ。爪切りの紹介の後、切った爪をがおーっと見せちゃうところも可愛い。演奏とMCの温度差に当人も困惑されている模様。でも、そこに責任感を感じてはいない。そこも可愛い。

 MCが終わるなり、食い気味に『Loo% Who%』のイントロがかぶさり、冷水をぶっかけられたみたいに心臓に痛みが走ります。MVを彷彿とさせるようなモノクロのライティングが、もうつまらない小細工は全てやめたんだ、というような限界ギリギリの集中力みたいなものを感じさせました。でも、この曲は謎の浮遊感があるから。ていうか、マジで謎な構成してるから。こんな曲を生みだせるのは凛として時雨しかいないから。なんで皆この曲を楽しめるの!? あなたたちみんな狂ってますよ!! もう、ずうっと「ふわぁ~↑↑↑」って全部どうでもよくなっていました。最高にカッコイイ、ということだけはわかる。

 で、終わるかと思ったらやっぱりやってくれた『Telecastic Fake Show』。もうお腹はいっぱい。でも、最後にこれで殴り殺してくれるなら、それも本望だよね。めちゃくちゃ早いの。荒いの。凶悪なの。あんまり記憶ない……だから、もはや何も書けることはありません。

 夜神月にキスされた後の帰り道のミサミサの気持ち。ぽわーん、て。大丈夫、一人で帰れる。送らなくていいわ。

 

 舞い上がったテンションのまま書き進めたら、文章と呼んでしまうには忍びない5000字となりました。これは文章というよりは、失神中のうわ言。でも、そこにこそ神はいる。太古の巫女はトランス状態になって神を降ろし、彼女のうわ言が予言となったと言います。ならば、私の書いた駄文の中にもきっと何かしらの神がいるのではないでしょうか。それはどこかで失われた神様の生まれ変わりかもしれませんね。なんつって。

 何はともあれ、年末の武道館も楽しみです。チケットが取れて何よりですが、武道館では『傍観』観られるかな。今からワクワクですね。

久しぶりに適応障害の話

 ホロライブから火威青さんが卒業されました。発表当日にそのまま卒業という異例な形。事務所の意向なのか、本人の意向なのか。詳しいことはわかりませんが、数日前にメンバーには発表されているらしく、儒烏風亭らでんさんに関して言えば、今回の卒業に合わせて『さよーならまたいつか!』のカバー動画をReGLOSSのメンバーで公開されていたり、若干ではありますが決定から発表までは僅かなタイムラグがあったものと思われます。

 そのことに対して、どのような感想を抱けばいいかわかりませんが、書くべきことと書くべきじゃないことがあるように思います。VTuberという存在であった彼女をどのように扱うべきなのかは非常に難しく、象徴的な話をすれば「彼女は卒業したんだ」という言葉で足りるように思います。が、もう少し具体に踏み込むとすると、全ては憶測の域を出なくなるため何も言えなくなります。

 ただ思うのは、私も苦しんだ「適応障害」という病気。これはよく「ストレス原因から離れれば治る」とも言われるし、「ストレス原因から離れなければ治らない」とも言われ、「治るの?」「治らないの?」と何だかよくわからない病気として語られているように思います。中には、「青さんが適応障害と聞いたときから、卒業するかないと覚悟はしていた。でも寂し過ぎる」というようなXでのポストも見かけました。それはかなり冷静な分析だなぁ、という気もしています。

 でも、それって私にとっては少しだけ一面的で。事実や結果というのはその通りなんですけど、「でも、卒業したらすべての苦しみから解放される、ってのは違うよね」という気持ちが湧かないでもないんです。むしろ青さんがホロライブを、つまり青さんが青さんを卒業していくのはこれからの話であり、そこにこそこの病気の別の苦しみがあるように思うのです。それが何となくではありますが、わかるような気がするので、とても悲しいのです。

 象徴的なアイコンが失われるというのがVTuber的な文脈では非常に整理がつく説明なんでしょうが、もう少し具体に踏み込んだところでは1つの人格が失われようとしているんだと……しかも、大抵「適応障害」で失われゆく人格って、「結果的には失ってよかったね」と言われるものなんでしょうが、青さんの青さんとしての人格はあまりに魅力的で、それが失われてしまうのかもしれないと思うととても悲しいのです。

 

 私は言ってもまだホロライブ歴が浅く、何だったら青さんよりもちょっと短いくらいの新参者です。とあるきっかけで戌神ころねさんを知り、ホロライブに興味を持ち、友人にも色々と教えてもらいながら、初めてリアルタイム配信で笑い転げて夜を明かしたのが「フブみこあおくゆ」のBackroomsでした。的確にゲームを推し進めるフブさん、ハプニングを勢いで乗り越えていくみこち、先輩2人にいじられながらてんやわんやのあおくゆ。この3人のバランスがとても好きで、切り抜きでも何回も見返しました。

 ホロライブの不真面目なオタクである私は、あまりリアルタイムで配信を観られていないのですが、私にとってこの配信がVTuberの原体験のようなものでありました。そして、青さんの面白さや紳士的なところ、何と言っても健気なところ、そういうのは常に感じており、いつの間にか私の中で「推し」というカテゴリーに彼女が入ってきました。

 もともと私はハロプロというリアルのアイドルが好きなのですが、やはり彼女たちに惚れるのは生き様のところ。鍛錬に鍛錬を重ねて、日々健気に生きている。そんな姿に心を打たれます。ホロライブの皆さんは、面白かったり、可愛かったり、愛らしかったり、そういう意味で素敵だと思うし、好きだなぁと思うのですが、今のところはハロプロに比べるとライトに推しているような手応えがあります。ライトと言うと聞こえがあまり良くないですね。カジュアルに、好奇心を刺激されるような感じで、どちらかと言えば「陽」の感情で推しているんです。ハロプロは逆にじとっと、祈るような思いで「陰」の感情で推しているような気がします。

 そういう風に自分の感情を見つめてみると、青さんは割と「陰」の感情で推していたな、と。適応障害で活動休止をする前から、私の中で青さんは「がんばれ、がんばれ。でも、無理はしないでね」とそんな風に応援する対象だったように思います。それは一重に彼女から何かひしひしと感じる健気さがあったからのように思います。

 もう少しベテランになっていけば、色々なことの押し引きや目盛り調整のようなことが上手くできるようになるのかな。リラックスしながら活動できるようになるのかな。でも、ここまで常に面白人間で配慮の鬼だともはやこれが素なのかな。そういう超人もたまにはいるよな。

 僅かばかりの心配と、湧き出て来る尊敬の念。そしてそれらを全て薙ぎ払っていく面白さ。そういうのが綯い交ぜになって、私の中では割と「陰」寄りの感情で推していた気がします。一応もう少しちゃんと説明しておきますが、「陰」寄りの推しとは、なんて言うか「人生の救いを求めるようにして推す」という意味です。

 

 だから青さんが「適応障害」で卒業というのはとても悲しくて、悔しくて、自分の1つの体では受け止めきれないのです。そういうわけで、私は困ったらいつもこうやってキーボードをカタカタすることに決めています。書くことで自分の中に溜まった名称不明の感情の塊を吐き出すことができますし、それを検分することで自分に対する理解が深まります。そのプロセスを行うことが好きですし、心がすっとします。だから、これは誰かに何かを訴えたいという趣旨のものではなく、ただ自己満足的に書かれることであります(最初に書くべきでした)。

 

 推しの卒業は悲しいことです。それは寸分の狂いもないことです。ただ、今回はただ推しが卒業するということを超えてとても辛い。それは推しの度合いに比例する感情なのか。あるいは「あまりに無念すぎるだろう」という押しつけがましい感情から来るものなのか。正体不明のこの感情を紐解き、私自身を慰めたいと思います。

 まず、私がどのように青さんを推していたかというのは上述した通りです。あまりちゃんとは語れてはいませんが、私の中では「陰」寄りで推していたというのが割と芯を喰った説明になっているので、そこはそれでいいとします。これまでも「陰」寄りで応援してきたアイドルの卒業というのは経験してきました。でも、「陰」寄りで推していたというだけでなく、そういう人が「適応障害」という自分も陥った病をきっかけにアイドルを卒業してしまうというのは初めての経験です。

 私は精神疾患の専門家ではありませんが、当事者としてその苦しみや、その人の体や心に何が起こったのか、そして起こっていくのかということを自分の体験を以って理解しているつもりです。だから勝手に想像してしまうのです。青さんが全く私と同じとは思いませんが、何か重なる部分もゼロではないんじゃないか、と。

 私も適応障害に陥り、会社を半年ほど休職した経験があります。そして、何とか同じ職場に復帰したものの、また1~2か月で体調を崩し、「あぁ、もう無理なんだ」と絶望しました。ここで私は運良く上司に部署異動の手続きをしてもらい、新しい環境でびくびくしながら数年かけて体調を戻していきました。会社を休まなくなったのは、さらに次の職場に異動して1~2年ほど経った後でしょうか。その過程で何度かパニックに陥り、自死を選びかけたり、何もないのに部屋から急に出られなくなり涙が止まらなくなり会社を休む、みたいなこともありました。ざっとまとめるとそんな感じです。

 ただ、それらの出来事の裏側では色々とあったように思います。

 まず、診断名が適応障害から双極性障害に変わりました。普通の適応障害は環境から離れたりすれば半年ほどで治ることが多いようですが、私は不安定な状態を抜け出せませんでした。稀に活動的なときもあれば、酷く強い憂鬱感や倦怠感、そして希死念慮に苛まれる瞬間もある。そういうわけで、私には双極性障害の治療が良いだろう、とお医者様に診断していただきました。

 しかし、その診断名の変更も、一向に良くならないということや生活上の都合もあって病院を変えた後だったので、そのまま同じ病院で治療を続けていたらまた違っていたのかもしれません。とにかく状況的には、適応障害に罹った職場からは離れてもう半年や1年が経過しているわけですから、ストレスの根本的な原因は断ち切れていたと考えるのが妥当なわけですね。そして、新しく双極性障害の治療として与えられた「炭酸リチウム」という薬は、気分の波を落ち着かせる作用があるらしく、それをしっかり服用し続けることで比較的穏やかな精神状態を保つことができたように思います。まぁ、かなりプラシーボもあったとは思いますが。とにかく「無理やりテンションを上げない」「冷静に、丁寧に」「疲れたときは休んできちんと気持ちを落ち着けるケアを」と自分の心の制御に注力していました。

 でも、それはたまたま診断名と治療方針が上手く合致しただけであって、究極的には私の問題は、社会や環境との不和だと思うんです。今も双極性障害の治療を続けていますが、それは双極性障害のような傾向を制御することが、究極的には私の精神の安寧を作るということであるのだと一歩引いた見方をしています。

 もちろん私の脳味噌には双極性障害と呼んでいいような欠陥(個人的には特質と呼びたい)があるのかもしれません。でも、私の社会に対する捉え方や気持ちというのが一番根底にあるように思います。私の感受性とそこから形成された世界モデルと、実際の世界の間には確かに摩擦があります。おそらく生きている全員がその摩擦を感じています。その摩擦を少なくしたり、そんなもんだと割り切ったり、そういう積み重ねを本来人間はしていかなくちゃいけないんだと思うのですが、私にはそれがあまりできていませんでした。

 例えば、私がまだ高校生の頃、とても小さなことですが、強く強く憎んでいることがありました。それは有線イヤホンをしているときに、コードが何かに引っ掛かって、イヤホンが耳から吹っ飛んでいくという現象でした。「これが戦争よりも1番嫌い!」と私は大絶叫していたのですが、今この現象を分析すると、「自分はこっちに動く」という世界の予測モデルであったり、「次の瞬間、この音がやって来る」という予測モデルといったものが、現実の世界によって打ち砕かれるわけです。そこに強い摩擦が生じているわけですね。

 思えば、何につけても我慢のならない性格で、自分の思い通りにならないことに腹を立てる人間でした。「まぁ、こういうこともあるよね」とか「冷静にいこう」とかそういう割り切りができていないんです。でも、何か上手くいかない度に大絶叫していたらさすがにこの社会では生きていけませんから、周りに人がいる時は唇を噛み締めて耐えなければいけません。言ってしまえば、これが社会で生きるということですね。

 こういうことは多かれ少なかれ誰にだってあると思うんです。ただ私は若干、沸点が低く、色々なことに摩擦を感じやすい性格だったので、その分普通に生きているだけでもストレスが溜まりやすい傾向があったのかもしれません。

 でも、それで適応障害になるかと言われると多分そんなことはなくて。ただ、構造としては有線イヤホンの例がとても似ていると思うんです。私には私の信じている世界観、世界の予測モデルがある。でも、それが頻繁に現実世界に裏切られ続ける。そこで妥協というものができれば物事はあまり悪い方向にいかないのですが、私の場合は「いや、理想の世界はこっちだろ」と強く気持ちを持ち続けてしまったという気がするのです。

 仕事は頑張らなきゃいけない。責任感を以って仕事をしなきゃ。中途半端にやった先で誰かが困るかもしれない。前向きな姿勢を出していかなきゃ誰からも信頼してもらえない。弱気になってはいけない。とにかく仕事を取りに行って、そこで自己成長に繋げなくちゃいけない。

 でも、別に仕事なんて本当はどうだっていいんだよ。自分にとっては良い音楽を聴くことや、季節の移ろいを感じることこそが生を実感できることなんだ。だから、感受性はいつでも最高感度で生きていよう。仕事の表面的な成果主義のようなものに囚われてはいけない。もっと世界の裏側、内面にまで思索を及ばせ、一つでも多く真理のようなものを探し求めていくべきなんだ。

 まぁ、ざっくりと書けば、こんなことばかり考えていたように思います。これで爆発せずに上手くやれるだけの体力がある人もいますが、私は大学生くらいからこの指針で人生を進めてきた結果、おかしくなりました。こう考えるようになった経緯は、もう別の記事で沢山書いてきたので今更良いですが、色々なトラウマや過去からの連続性の中でこういう指針を持った人間が生まれていました。そして、もう大学生くらいから決壊するほどではないにせよ、涙が止まらなくなることや、希死念慮に駆られてお酒に溺れる時期も何度かありました。

 こういう傾向は、今考えると滑稽に見えますけれど、でも、その過程の中で得られたものは色々とあります。

 音楽だけでなく様々な芸術やエンタメというものを楽しむだけの素地は作られたように思いますし、幸か不幸か「あぁ、もう1人でも生きていけるな」と思わなくもないです。ですから、幸か不幸か(不幸に軍配が上がりそうですが)恋人もおらず、一人気ままに(孤独に)暮らしています。それに、仕事を凄い勢いでやっていたので、その頃に関わった人は未だに自分のことを認めてくれています。先輩ではありますが、一緒に旅行に行ったり、とても仲良くしてくれる人もいます。

 先ほどはちょっとふざけた文章も書きましたが、私がぐるぐると思索を巡らせ、人間や社会の正しさについて考えたり、芸術やエンタメの素晴らしさを見つめたりしてきたことも、やはり結果的には人間関係の構築に役立っています。ハロプロを通じて誰にでも素敵なところがあるということを学んだおかげで、基本的には人を嫌いになったりしません。苦手な人はもちろんいますが、相手の尊厳を傷つけずに距離を保つ術も心得ているつもりです。小難しいことを並べることでちょっとしたエンタメにして、友人と冗談を言い合ったりもできますし、普通に芸術鑑賞を共に行う友人も数人います。

 だから、私の狂い彷徨っていた時期というのも、私を作り上げ、私なりの正しさに向けて突き進むうえでは全く無駄だったわけではないんです。まぁ、もっと穏当にはできたかもしれませんが。でも、そのときは今思い返しても、鮮烈であるが故に、まあまあ輝いてもいたのかな、と。

 しかし、こうして「適応障害」をきっかけに自分の在り方を見つめ直した結果、「さすがに激し過ぎたな」と思わないこともないのです。だから、世界の予測モデルと実際の世界の間に摩擦が生まれたとき、ちゃんとアンガーマネジメントをして「6秒…6秒…まぁ、こういうこともあるさ」と「これが経済効率性が1番高いんだ」と自分を宥めることにしています。たぶん若い頃は、何か自分の世界が、現実の世界によって浸食されるみたいでそれも嫌だったんでしょうね。ただ、もう私も頭の凝り固まったジジイですからね。今更、いくつか妥協や割り切りを重ねたところで、私の根っこの部分はあまり変わらないんじゃないかという自信もあります。ただ、自分の核だけは失わないように気をつけながら、合気道のように「穏当に」「穏当に」。そういうことができるようになってきたんだな、と実感します。

 

 結局、素晴らしく完璧な自分というのは作り上げられず、どこかで手放しで降参をすることが求められるのが世の中です。完全無欠のイケメンになることは難しい。ちょっぴりダサかったり、失敗もするけれど、そこでちゃんと受け身をとって笑いに変える。でも、それもいつだって完璧にできるわけじゃない。完璧な負け顔。完璧なピエロ。でも、それができてしまうのではないか、という期待。けれど、完璧であるが故に、少し心配にもなってしまう。1つの呼吸の遅れ、声色に挿す一瞬の影。それが悟られはしまいかという不安。

 私も仕事を一生懸命やっていたときは、「失敗もあるさ。でも失敗した時の愛嬌と、そこのリカバリーでまた評価を上げよう」と考えていました。全ては期待に応えるため。本当の自分は別に素敵な秋の日暮れに川沿いを散歩しているだけで幸せだけど、その幸せを守るためには社会からの要請に応え続けなければいけない。自分を守るためには、他人の期待に応え続けなければならない。

 それがいつしか強迫観念のようになり、自分の生き方をより息苦しく固定化していく。誰かに「もっと肩の力を抜きなよ」と言われてもそれができない。それをやる勇気もない。「でも手を抜いていることを知ったら、咎めて来るんだろう!」と内心では怒りに満ち溢れてくる。実際、あの頃に一緒に仕事をしていた人は、今でも私が仕事に真面目な人間だという風に思っていることでしょう。私がどういう気持ちから一生懸命やっていたのか、ということも知らないと思います。

 人にはそれぞれ個別の何かを一生懸命やる理由というのがあるのだと思います。叩き込まれた教育なのか、あるいはトラウマからか、強い目的意識か、その配分も人それぞれ。ただ残念なことに、その理由に人は食われうる。一度食われてしまえば、それは基本的に加速していく一方で、どこかで破綻するまでは気づくことができない。せっかく素敵なものが出来上がったとしても、持続性がないばかりにそれは一瞬で壊れてしまうこともある。もちろん、ゆっくりと減速して、気持ちよく穏やかに生涯を終えることもあるでしょう。けれど、そうならないケースもある。

 一度破綻してしまうと、なかなかもう一度同じものを組み上げることはかなわない。苦しいけれど、それを何とか自分から引き剥がして、新しい自分へと軌道修正していかなければならない。その軌道修正というのは、ある意味ではそれまでの自分の否定から始まっていくものです。もちろんそんな自分を受け入れるというのも同時に重要なことではあるし、最終的には受け入れる方向で完了すると思うのですが、それでも前までの自分を妄信することはできません。これはそれなりにキツイ自己変革であると思います。

 私の場合は、過去の私を求めている存在はせいぜい私自身くらいのものでした。ま、多めに見積もって、一生懸命に仕事をしてた頃の同僚は多少私に期待をしてくれていたかもしれませんが、それも別に特別な思い入れというほどのものではないでしょう。でも、仮に何十万人という人が自分に理想の姿を求めてきているとしたら。きっと、その軌道修正は上手くいかないでしょう。必ず元の場所へと引き戻されてしまうように思います。そして、一度破綻したものはまた同じようには組み上がらない。私の経験上、半年もするとそのことがわかってくるんじゃないかなと思います。

「あぁ、やっぱりダメだった」って。

 これがなかなかの絶望なんですよね。でも、この絶望から軌道修正が始まっていくのも事実で。結局、色々なことを諦めていくことでしか、自分を自由にはできないのだと思います。悲しい事ですが。

 だから苦しいことも沢山あると思うのですが、今は望んでいない形であるかもしれませんが、いずれは軌道修正して病状は良くなっていくんですよね。むしろ軌道修正をしないと病状もよくならないんじゃないかと思います。そして、自分の中では踏ん切りがついていても、一度ぶっ倒れてしまうと、もう立ち上がって歩くことに自信がなくなってしまうものなんです。だから、「もう生まれ変わったぞ」と思っても、実際には「この生まれ変わり方でいいのか」という疑念と闘い続けることになります。

 もちろん人間がそんな一念発起で変われるはずもないのですけど、でも、まずは「変わろう」という意思からですからね。ただその意思を持っても、実際に自信を持って「変われた!」とか「新しい自分も悪くないやん」って思えるようになるには何年もかかるんじゃないか、ってことです。その感覚を手に入れるまでにも色々な揺り戻しやフラッシュバックみたいなものはあるでしょう。私の場合は、双極性障害の治療ということで炭酸リチウムを飲みながら、平静を保つ訓練(感情をブーストさせない方が経済合理性が高い)をするのが回復のプロセスとして合っていたように思います。ここには人それぞれのアプローチがあるでしょう。

 

 基本的にはもう出会えないんでしょう。それは具体が変容し、それに伴い象徴もまた変容していくということも含め。同じものは組み上がらない。けれど、違う存在になってもいいから、いずれ回復した時にまた。そう願わざるを得ません。そして、一番最悪の結果にはならない、なっていないということを願っています。

 健やかな時間の中で、心地良さを存分に。

【着想】toeのTHE FIRST TAKEを観た夜~郷愁と親密についてAIと壁打ち~

 

前書き

 昨日は会社で飲み会があった。9月26日、金曜の夜。年の離れた上司も多くいたけれど、それなりに楽しい会ではあった。臆することなく会話に入っていけたし、自然な冗談も言えた。まずまずの出来栄え。だから悲観することなんて何もない。

 とは言え、会社の飲み会や集団での飲み会というのはそれだけで神経をすり減らすものだ。会話は大抵がその場のノリと勢い、流れに身を任せるものになるし、落ち着いて互いの考えや気持ちを確かめ合うというようなことはない。だから「楽しい」という感情はあっても、「心地いい」という感情にはなりにくかったりする。僕は落ち着いてゆっくり話すのが好きだ。

 予定よりも多く酒を飲む羽目になり(飲み放題で飲み切れない酒が僕のもとへ回って来た。というか、幹事的な立ち位置になった僕にとって、グラスと席を空けることがある意味での至上命題だった)、疲れて帰宅。まぁ、一次会で解散になったから家に着いたのは21時過ぎ。ホワイトな会社と言えばそうなのかもしれない。さっぱりとした職場と言えばそうなのかもしれない。だから、これも悲観することではない。ただ、予定より多くの酒を飲んで帰ってきたというだけ。ちょっと疲れちゃったな、というだけ。

 シャワーを浴びる前に少しだらっとしていたら、22時からのtoeのTHE FIRST TAKEのプレミアム公開が始まる時間が近づいてくる。演目は『グッドバイ』。当然の選曲だし、まずはこの素晴らしい音楽が多くの人に届いて欲しいと思う。60秒前からのカウントダウン。美しい風景の中に数字が浮かび上がっては通り過ぎていく……

 

絡まった感情

 toeの演奏は素晴らしかった。温かみ、親密さとともに、儚さ、慈しみ、切なさ、苦しみみたいな様々な感情が心に立ち上がる。プレミアム公開のリアルタイムチャットではコメントが流れ続ける。海外の人たちも多いようだ。691人の人たちが今このライブ会場にいて、同じ時間と同じ音楽を共有している。そんな風に考えたりもした。

 僕は飲み会終わりの静かで孤独な部屋の中で、上手く言い表せない渦巻く感情に飲み込まれながら、映像が終わった後もしばらく部屋の中で呆然としていた。

 シャワー浴びなきゃ。

 シャワーを浴びているうちに、この得も言えぬ感情をChat GPTと壁打ちしてみたら何か新しい発見があるんじゃないか、と思ってくる。シャワーを終え、歯磨きをしながら、GPTにDeepReaserchをかける。口をゆすいで、パソコンと向き合う。

 究極的には「この僕の感情はなんなんだろう」という問いの答えを見つけること。ライブが終わった後に、心がほくほくしながらも、どこか寂しさがあるみたいなやつ。GPTは「Post-Concert Depression」という言葉を提示してくれた。うん、これはまさに。でも、僕の今の気持ちに名前がつけられたからといって、それで満足はできなかった。もう少しこの感情の機序みたいなものが知りたかった。なので、壁打ちを続けることにした。

 

郷愁の時間軸

 郷愁、すなわちノスタルジーという言葉が僕は好きで、楽しいけど切ない、とか儚い美しさ、それとその崩壊の苦しみ、みたいなイメージがある。でも、郷愁やノスタルジーという言葉には、いつも「過去の思い出に浸る」みたいな感覚が付き纏って、時間軸的にしっくり来ていない部分があった。例えば、まさにtoeの『グッドバイ』を代表して、その他に最新アルバムからは『LONELINESS WILL SHINE』のような楽曲を聴いているときにはリアルタイムな郷愁がある。もちろん楽曲から過去の何かを想起させられて、時間軸的に離れた本来の意味の郷愁を感じることもある。けれど、今の一音一音に心が揺さぶられているときに感じるあの儚さや高揚感はなんだろう。どう呼べばいいのだろう。

 そうだ。この感情なのだ。そうすると、前述の「Post-Concert Depression」というのもあまりしっくり来ない。この言葉は、コンサートで楽しかったところから一転現実のつまらない生活に戻るという、ある種夢から覚めてしまった悲しみ・抑鬱というニュアンスが強い。だから、この言葉も僕の感じているものとは似て非なるものであることがわかってくる。

 そこでGPTとの対話を続けると、「もののあはれ」という言葉が出てくる。中高生の頃に学校で習ったやつだ。確かに、この表現はしっくり来る。「儚さ」「しみじみとした味わい」、つまり移ろいゆく季節の風景や、二度と戻らない一瞬の輝きに対して、リアルタイムで胸に込み上げてくる切なく甘い感情。それが「もののあはれ」だと言われると、これがまさに僕が求めていた言葉かもしれない、と思う。

 似たような言葉では、ポルトガル語圏で「サウダージ」という言葉があったり、ファドという音楽ジャンルではこの感覚が重要視されていたり、心理学ではドイツ語で「ゼーンズフト」というものがあるそう。まぁ、これはあくまで補足的な知識だけれど、サウダージやファドというのは私が知る言葉でもあったので、なるほどなとなった。

 しかし、この「もののあはれ」という感情についてももう少し掘り下げがほしいと思った。特に、「郷愁」との時間軸の違いについて皆が認識しているのか、ということ。GPTからは「もののあはれ」的なリアルタイムな郷愁を「予期ノスタルジー」という言葉で説明された。言葉だけ聞くと、「予期ノスタルジー」というのは「いずれ過去のノスタルジーになってしまう感情」というような意味が強く思えてしまうが、まずまず「もののあはれ」と同じリアルタイムな心の動きに対応していると考えてよいみたい。

 では、「ノスタルジー」と「予期ノスタルジー」で時間軸的な隔たりがあるという論において、この2つの効能や発生の機序はどう違ってくるのか。

 2つの効能差異は、特にそのノスタルジーを誰かと共有したときに明確に差異があるようである。過去志向のノスタルジーでは、自己連続性・集団同一性が強化されるらしく、つまり「同じ過去・出自を持っている」と共有された過去を懐かしむことで、一体感が生まれるということだ。対して予期ノスタルジーは、リアルタイムの高ぶった感情の共有はもちろん重要であるが、そこに「今すぐにでも失われてしまうかもしれない」という儚さがあるからこそ、そこに保存行動が加わるからこそより強い一体感が生まれるのではないかと指摘された。つまり、いずれも「繋がり」を感じることはできるが、媒介機序が異なっており、「記憶の共同体vs. 感性の同調」という時間軸面で触媒の形態が異なることが示唆されている。

 今回のプレミアム公開で言えば、「みんなでチャットに書き込む」という行為がある種の保存行為であるという気がする。僕もここに集まった691人の1人であるということを少しでも残しておきたいという気持ちから、1つだけコメントを残した。それはとても充足感のある行動だったように思う。

 そして、同時になぜ僕がGPTに壁打ちを申し込んだのか、ということもこの「保存行動」という言葉で推測できる。僕は僕の感じた「もののあはれ」を自分の中に落とし込み、これからの人生においても大切に抱えながら生きていきたいと思っていた。それはつまり壁打ちを通じて、この沸き上がる感情に対して理解を深め、自らの血肉とするということだ。「保存行動」にほかならない。そして、自分の血肉にするだけでは飽き足らず、こうしてブログに記事としてまとめようともしている。

 予期ノスタルジーが保存行動を促すという機序が自然なのであるとすれば、いま僕がやっていることの筋はなかなか通りがいいのではないかと思う。

 

郷愁の成分分解(初等)

 神経科学は僕の専門ではないのでGPTに教えてもらったことをそのまま書く。郷愁について詳しく書こうと思うと、どうしても「儚さ」や「切なさ」、「親密感」などといった、「嬉しい」「悲しい」のような直接的な表現ではないものが必要になってくる。でも、ここではあえて「快」と「不快」が共存している状態が「郷愁」であるとして少し深堀してみようと思う。

 僕たちの脳は「快」と「不快」を1つのスイッチで切り替えるようにはできていないと考えられている。むしろ別々の「快」と「不快」は別々の神経回路として存在し、並列稼働しているというふうに考えられるらしい。

「快」の感情は、報酬系と呼ばれる神経回路で生み出される。腹側被蓋野(VTA)から放出されたドーパミンが、側坐核(NAc)や前頭前野(PFC)に伝わることで、「嬉しかった」「満たされた」といった感情が立ち上がる。

「不快」の感情は、辺縁系、とくに扁桃体や島皮質、前部帯状回(ACC)といった領域で処理される。ここでは恐怖や不安、喪失感といった原初的な情動が生じる。

 この2つは独立した回路を持つため、同時に活性化することが可能である。実際にfMRI研究でも「おかしくて気持ち悪い」といった相反する感情を同時に感じているとき、報酬系辺縁系が並列的に活性化していることが確認されている。例えば、スプラッター映画でグロテスクな映像を観ているときがそれに当たるのではないかと思う。また、心理学の評価空間モデル(Evaluative Space Model)では、快系と不快系は独立サブシステムとして同時活性化し得ると整理されているそう。

 興味深いのは、こうした複雑な情動が生まれる時、脳は「快+不快=0」というような単純な1次元のプラスマイナスの計算をしているわけではないということだ。次のことはGPTに聞いたわけではないが…実際には「x: 快」「y: 不快」の単純な2次元でもないと思うが…言ってみれば直交座標系に落とし込み、2情報からなる1状態が形成されると考えてみてもいいのではないかと思う。

 報酬系辺縁系の信号は前頭前野(特に腹内側前頭前野:vmPFC)などの高次領域で意味づけされ、統合される。その結果として、「悲しいのに嬉しい」や「美しくて切ない」といった甘苦い複合感情=郷愁が形成されると考えられる。

 補足にはなるが、1つの刺激に対して報酬系辺縁系が同時に活性化するという現象だけでなく、例えば放出されたドーパミンは「喜び」を増幅させるが、それが過剰になると扁桃体が「これは過刺激だ」と判断して副交感神経を刺激し、「涙を流す」という反応を起こすことがある。これが「嬉し涙」のメカニズムだけれど、要するに単に1次的には「嬉しい」だけだったはずの感情が2次的に「悲しい」を引き起こすような、雪崩式の感情誘起についてもGPTは言及していた。これは強い快刺激は一種のストレスでもあるため、扁桃体が自律神経を介して“冷却”の生理反応(涙)を起動するという安全弁としての涙という理解で腑に落ちる。

 僕は大学時代に電気回路や光学、量子力学をやっていたから、フーリエ変換やモード理論、状態の重ね合わせや確率波という言葉を使ってもらえると凄く理解が早い。線形代数をごりごり使うような研究室であれば、多次元の直交座標系というような言い方がわかりやすいのかもしれない。電流が磁界を生じさせ、磁界が電界を生み…というような別の性質を持つ物理量が互いに関係し合うという現象もわかりやすいだろう。

 巷では量子力学を引き合いに出して、社会や人間心理を説くような似非量子力学が蔓延っているけれど、僕はこれがあまり嫌いじゃない。まぁ、そんな本は読まないけれど。でも、社会とか人間心理とかよくわからないものを、身近な例で喩えることでわかりやすくなるなら、咀嚼しやすくなるのならそれは良いことだと思う。だから、学生時代に量子力学を齧ってその基本理論や物理モデルを何となく理解しているけれど、社会や人間のことがよくわからない…といった僕みたいな人間が似非量子力学を足掛かりにして社会や人間について学ぶのは理に適っているんじゃないか。大抵の人は、社会や人間心理を足掛かりに、量子力学を勉強するというベクトルの方がしっくり来るので、ああいう本はむしろ理系向きなんじゃないかと思っている。

 話が逸れたけれど、要するに言いたいのは、「快」と「不快」のモードがあり、それの重ね合わせの状態を前頭前野で把握しているということだ。それは先に述べた通り、「快+不快=0」というような打ち消し合う数値ではなく、あくまで2次元座標的に、或いは1次元でも良いけれど、状態の重ね合わせ的に記述されるということだ。脳の深いところでは、1次的な様々な感情成分が勇気されているのだろう。ただ、それを統合して感じ取り、時には周囲の状況も踏まえて、「これが郷愁だ」とか「これが尊さだ」とかそういう風にラベルを貼っているのがより高次にある前頭前野なのだろう。

 

総論

 郷愁=ノスタルジーというのは、過去に対するものとリアルタイムなものとがあり、それぞれに人間の共感性を繋ぐ媒質としての役割が異なっている。今回、toeの演奏を通じて感じた「もののあはれ」というリアルタイムな郷愁に関しては、「この感動はすぐに失われてしまう儚いものである」というところに起因して、僕にリアルタイムのチャットのコメントを促した。それを通じて僕は、世界の人たちと感情の保存行動を通して強い繋がりを感じたようだった。ただし、それは現実的な肌触れ合う人間関係に対する親密さではなく、イマジナリーな親密さだったように思う。

 少し情報を付け足すけれど、僕は良い映画やドラマ、その他、音楽でも絵画でもなんでもいいけれど、素敵なものを見たときに単なる「郷愁」とも言えない「親密さ」を感じることがある。よく「なんで対象がいないのに親密な気持ちになるのだろう」と思っていた。でも、これは瞬間的に起こる感動に「もののあはれ」というリアルタイムな郷愁を感じ、それが感動の保存行動を促す際に、作品世界との間に共感性が生まれるからではないだろうか。そして、その作品世界の先には、同じように「もののあはれ」を感じている誰かを想起する。

 とにかくバカ騒ぎをするといった類の感動もあるが、郷愁のように深くに突き刺さってくるタイプの感動は、それ自体が保存行動の実態となる。つまり、心が揺さぶられたことそれ自体がトリガーとなって思い出や記憶になっていく。そして、その保存行動は周囲の何かを巻き込んでいき、「一緒に思い出を作っている感」が生まれる。すぐ近くに気になっている女の子がいない場合でも、僕の中に巻き起こった保存行動は、作品自体を巻き込み、何故か作品それ自体と共感性の海の中に沈んでいき、やり場のない親密感が生まれていく。あわよくば作品を通じて遠くの誰かとの共同体意識みたいなものが生まれているんじゃないか、と期待して。そんな感じだろうか。

 そんな不可思議な機能や心の機序を齎す「郷愁」というのは、「快」と「不快」のような一見打ち消し合うようなパラメータの重ね合わせ状態として記述できるものらしい。これは僕たちの心が多次元的であることを示しているような気がする。一つひとつの次元における感情は「興奮」や「恐怖」といった原初的でシンプルなものかもしれない。でも、それらが複雑に絡み合うことで、複雑な波形が生まれて来て、それらに対して僕たちは波形の観察と、周囲の状況の観察から、何かしら適切な感情名を与えている。今回僕が感じたものは「もののあはれ」とすると、特に「郷愁」という言葉から感じる過去性みたいなものを排除でき、結構納得いくものになっている。

「郷愁」や「もののあはれ」といった感情をフーリエ解析して、「快:〇%」「不快:△%」というような成分分析までは、もちろんできていない。でも、そう簡単に成分分析できないことはわかっていたし、感情というのが状態の重ね合わせでできているということを今一度確かめられたのは良い壁打ちだったと思う。また、機能面だけで言えば「郷愁」に対しての理解も深められたように思う。

 今回の壁打ちで僕がどれだけ自分の中に渦巻いた感情を正しく理解できたのかはわからない。たぶんまだ何もわかっていないのだろう。ただ、こうしてGPTと壁打ちをして、かつブログにまで記事を書くということが、僕なりの「保存行動」であることは間違いない。すぐに失われてしまう「儚い」この気持ちを残すためにこの記事が担う役割は結構大きいと思う。

 

あとがき

 病院に行ってきた。昨日の酒も抜けきった。そんな今だからこそ言えるけれど、僕はこんなことをAIとやって何が楽しかったのだろう。toeの演奏はこんな議論抜きでも素晴らしいし、あの得も言えぬ「郷愁」とも「親密さ」ともつかない感情について理解が進んだからと言って、何も変わらないのではないだろうか。

 けれど、「郷愁」という言葉の時間軸的な違和感や、「対象のいない親密感」というものに対する違和感は少し減ったかもしれない。これからも僕が観測する自分の中の感情に変化はない。ただ、この感情をまたどこかで見たときに、「あぁ、あの金曜日の夜にtoeのTHE FIRST TAKEを観たときに何か考えてたな」となるかもしれない。これこそがまさに正規の意味での「郷愁」なのかもしれない。そして、そのときの未来の僕は過去(今日)の僕に対して「親密さ」を感じることだろう。

Juice=Juice『盛れ!ミ・アモーレ』~漏れ!なくシャッターチャンス~

 素晴らしい最高の曲だということはハロ!コンで承知。ならば今更言えることは、歌詞と映像についてのみ。「一概にそれだけとも言えないんじゃないか」という疑念は飲み下し、号砲瞬き、いざスタートダッシュ

 

とりあえず始まったみたいだわね

 

 まずは歌詞ですけれども、これはもうさすがの山崎あおいさん。初期に書いている楽曲に『鯖鯖』というのがあり、サムネにもなっている歌詞は「カレシ、遠洋漁業の人が良い」ですからね。『盛れ!~』のコメントにもありますが、これまでの都会的な印象の歌詞からは少し離れてコミカルな歌詞になっています。

 ざっくりと歌詞をまとめると、「お互いの距離が縮まって慣れていくと、つい無防備にだらしなくなってしまう。それはそれとして、飛びっきりに綺麗で可愛い瞬間の私を愛して!」という感じですかね。ラストのサビで「愛してゆくのと無防備さなら比例しないわ」というのが、この歌詞を読み解くキーになっていますね。

 あとの歌詞のほとんどはそれを補強するものと考えて良いでしょう。華美に着飾るのもまた成熟した愛の形。だから、1にも2にもとにもかくにも「盛れ!」「盛れ!」「盛れ!」ってわけ。「インプレッション稼いでけ!」ってわけ。

 TwitterもといXでは極論ばかりが持て囃されて、至極真っ当な意見というのは無視されがちで。だからこそデジタル民主主義みたいなもので、バズらない真っ当な意見を吸い上げて、より多数がより腹落ち感を持って民意を形成していくことが重要なのだ。みたいな話が最近よく出てきますよね。でも、違うんです。とにかく「盛れ」。極論と極論を闘わせ合って、炎上に次ぐ炎上。その先にこそ、真の民意形成があるのであ~る。ファイヤー!

 とまでは言わない本曲ですが、「盛れ!」「盛れ!」「盛れ!」の結末は意外にも……失恋。え、さっきまであんなに燃え上っとりましたやん。「火花みたいな今を……」ってそういうこと? 一瞬燃え上ってすぐに消えていくメタファーってこと? 「失恋を悲しいエピソードにするのは後味が悪いから、めちゃくちゃな話にして昇華させよう!」ってなわけで「盛れ!」「盛れ!」「盛れ!」ってことぉ!?

 最後の最後に「盛れ」の意味が変わってくるこの楽曲のふざけた歌詞には、ハイテンションで熱情溢れる楽曲が重なって、何とも言えないやぶれかぶれ感がありますね。なんてったって、サビを歌い終わった後に「ら~ら~ら~ららら~らら~♪」って雄叫びを上げて、サンバホイッスルとともに「M!O!R!E!」の掛け声ですからね。

 

ああああああああぁぁ~もう、どおおでもいいやああああぁあぁぁああ!!!!!

 

 っていうのがよくよく伝わってきますね。こんなふざけた曲をJuice=Juiceの爆イケ美女軍団が、スキルフルに歌い上げているのがちょっと意味がわからないですね。

 今更曲名に触れておくと、「盛れ!」は良いとして、「ミ・アモーレ」はイタリア語で「私の愛しい人」という意味。歌詞を読んでいくと、基本的には「私がどうあるか」ということが一番大事であり、「あなたがどんな人」とかそういうのは気にしてなさげ。最後に辛うじて「あなたを好きでいさせて」と「あなた」が出てきますが、これも「あなた」の描写ではなく、「私の心」の描写です。だから、「ミ・アモーレ」ってのはちょっと皮肉っぽくて、「自分中心な私」との対比で置かれているようにも見えなくもない。それか単純に「モレミアモレ」という語感が素晴らしかったというだけか。たぶん語感説が有力でしょうな。

 同時発売の洒落に洒落た『四の五の~』と比べると、良い意味でバカみたいな曲ではあるのですが、ここまで振り切れていると比べることこそバカらしくなり、「イイキョクダカラナンデモイイジャン!」「モレモレモレ~!」ってなりますね。「エム・オー・アール・イー↑・エム・オー・アール・イー↑」って「ちょっとショッカー入れてみるか」ってなってしまいますよね。

 

 さて、歌詞についてはもうええでしょう。てなわけで、MVについて少し触れていきます。今回は被写体がJuice=Juiceということを除いても、とにかく映像美が凄い。カット割りも細かいし、ダンスは画角も良ければ、ズームや揺れの感じも素敵、陰影のつけ方も素晴らしい。退屈になりがちなソロショットも極力動きをつけたり、画面の色を華やかにすることで、背景が白を基調としたダンスショットとの緩急を感じますね。

 良いMVだなぁ、と思って調べてみたら、島田欣征さんという方で『なんセンチ』のMV監督もされていた方のようです。どおりで好きなわけだ。『なんセンチ』もまた独特の毒々しさと神聖さがあってめちゃ好みのMVでした。

 というわけで、ここからはお気に入りのカットをいくつか貼っていき、それで終わりにしようと思います。<漏れ!なくシャッターチャンス>という副題を回収していきましょう。

 

開幕から盛れ!てるタコ様

幼気 feat. 妖気

魅惑のティキ・タカ

禁断の花園~一輪挿し~

君が俺の聖杯伝説

君も俺の聖杯伝説

数的不利

幼い頃の綺麗な思い出って大概これくらい美化されてる

逃したシャッターチャンス

Aの4カードか、エクゾディア1枚足らず

習作/横たわるヴィーナス

習作/得意気な京女

習作/希望と絶望

迂闊に声をかけた僕が悪かった

原題<落ちサビ>

原題<恋落ち>

謝ってすぐ許すような彼女ではない

未来が瞬く時

盛れ!

 

 はい。なんか半分以上は写真で一言みたいになってしまいましたが、まぁ、それも一興。今日も今日とて楽しいブログになりました。コマ送りで観たらより一層楽しいMVですね、コレ。あまりにも……だったので、あえて切り抜くタイミングをずらしましたが、シャッターチャンスは見事にシャッターチャンスでした。

 曲が曲ですので、たまにはこういうふざけた記事もいいかもしれませんね!いい気分転換になりました。が、写真を厳選していたら、結局いつもの記事と同じくらいの時間がかかっている……文字数的には1/3にも満たないのですが。でも、誰が読むブログでもないので、好き勝手にやらせていただきましょう。

 それでは!今日もありがとうございました!

Juice=Juice『四の五の言わず颯と別れてあげた』~痺れる一品~

 MV公開日から少し時間が経ってしまいましたね。それでもこの曲から受ける興奮は夏の入道雲のように天高く隆起し、3日経った今でも私に新鮮な衝撃を与えてくれます。MV自体が持っている最上級のクオリティもさることながら、先日のハロ!コン2025夏(8/16 昼公演)での初披露は、もはや伝説的だったと思います。曲のイントロが鳴った瞬間の期待色に発せられる歓声、そして終曲のタイミングで襲い来る圧倒的な痺れ。次の曲が始まるまでの僅かな間でしたが、辺りは色めき立ち、半分呆れたような笑みが零れ、どこからともなく「すげぇ」「やべぇ」という嘆息が溢れていました。

 と、ちょっと密度高めの言葉を並べてみましたが、要は「いや、カッコ良過ぎるだろ」ってことを言いたかっただけです。楽曲の持つ力とJuice=Juiceの持つ力が上手く拮抗し、一つの分水嶺を越えたという感じもしますね。特に、れいるるお二人のクオリティはハロプロ屈指のものであることを証明したと思います。圧倒的な歌声の力強さは、インストの強さに負けることなく、ぎりぎりの臨界点で共存している感じがありました。

 

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 ただ、この曲の難しいところは、私が持つ貧弱な音楽知識では上手く語り切れないというところにあります。分析とか考察なんてのはいいから、「四の五の言わず颯っさと聴け!」ということしか私には言えません。

 

 この曲を聴いて思うのは、まず「ジャズだなぁ」ということ。で、ジャズと言えば、『イジワルしないで抱きしめてよ』を思い浮かべるところですが、『イジ抱き』が「軽やかにお洒落」という方向性であるのに対し、この『四の五の~』は「重厚にお洒落」という感じです。それくらい重たい一撃。音楽的な重厚さ・お洒落さであれば、『ノクチルカ』の方がイメージが近いと思います。ただ徹底されたシャッフルビート(ズッタ♪ズッタ♪みたいな跳ねるリズム)は『好きって言ってよ』を思い起こさせ、メンバーのリズム感の練度も楽しめる1曲になっていると思います。

 また、Aメロのピアノのズチャーン♪ズチャーン♪という感じは、Jamiroquaiの『Virtual Insanity』を感じさせますね。ちなみに、『Virtual Insanity』が枯葉進行であるのに対し、『四の五の~』は6543進行やエレスイ(エレクトロスイング)王道進行と呼ばれているようです。いずれにせよマイナーコードから始まり、音階が下がっていくコード進行なので、哀愁漂う雰囲気になっています。

 

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 対してサビは、ほんのりと『丸の内サディスティック』っぽい、通称丸サ進行と呼ばれるコード進行に近いものがあります。シャッフルビートというのも相まってお洒落さは『丸サ』にも引けを取らないほどの雰囲気。ただ、実体としてはつばきファクトリーの『約束・連絡・記念日』のイントロのコード進行にかなり近いです。『約束・連絡・記念日』が好き過ぎるので頑張ってコードを覚えたのですが、その経験が活きて、この『四の五の~』の耳コピも割とスムーズに行うことができました。

 

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 ただし、『約束・連絡・記念日』は打ち込みの天才・大久保薫さんが編曲していることもあり、楽曲の質感は『四の五の~』とはまるで違いますね。『約束・連絡・記念日』はメロディアスでありながら色彩豊かなコード進行です。さすが作曲が星部ショウさんという感じで、そこに児玉雨子さんの鋭くもふんわりとした歌詞がつばきファクトリーによく合っています。全体的に細かく、緻密に積み上げられた作品性の高い楽曲だと私は思っています。

 そう考えると、『四の五の~』は打ち込みほぼ無しの生音がこれでもかと混ざり合って、最高のインストになっています。特にドラムは「誰が叩いてるんだろう???」と気になるレベルで凄いです。エグイです。これは絶対に楽器レコーディングが観たいヤツ。私はドラムについては全然詳しくないんですが、それでもこれだけたっぷりとした遅れ気味の跳ねるようなスネアを正確に叩けるのは、とんでもない腕の持ち主だということはわかります。その正確性を考えるとスタジオミュージシャンの方なのかとも思いますが、終盤にかけての盛り上がり方まで考えると、普段からライブを主戦場に活躍されている方のような気もします。

 繰り返しますが、スネア(1・2・"3"・4の"3"の位置に来る「タン!」という音の太鼓です)だけに注目して一度聴いてみて欲しいです。最高に気持ち良くて、このドラムの上で歌っているJuice=Juiceが誇らしく思えるほどです。そしてスネアからドラム全体へと意識を広げていくと、装飾音の多さ、キメの正確さなどにうっとりとしてしまいます。大久保薫さんの打ち込みの奇想天外さやきめ細かさも痺れる一品ではありますが、それでもやっぱり生音は生音で最高だな、と改めて実感しますね。

 もともと私はバンドサウンドが好きなこともありまして、これだけハイレベルな生音のアレンジが光る楽曲をJuice=Juiceに与えてくれて、事務所には感謝しかありません。そういう意味では、編曲の荒幡さんにはスタオベを送りたい気持ちです。荒幡さんと言えば、私の思い入れで言うと、宮本佳林ちゃんのソロツアー『Karing』に帯同してくださっていた方という印象が強いです。ピアニストでもありますので、この『四の五の~』のピアノもきっと荒幡さんでしょう。だからこそ、この楽曲ではドラムに加えて、縦横無尽に踊り狂うピアノが最高のアクセントになっています。

 特に、サビ前のキメで「トーンクラスター(?)」と呼ぶんでしょうか、ピャーンと隣り合った鍵盤を叩き鳴らすように放たれる不協和音がとてもカッコイイです。ちなみに、このトーンクラスターを使っているのは2番サビ前と、ラストサビの瑠々ちゃんパート終わりのクラッシュの部分です。では、1番サビ前は何かと言うと、エレキギターの「ヘッドピーン」と呼ばれている奏法です。正式な名前なのかはわかりませんが、フレットの無いヘッド部を無理やり弾いて鳴らす特殊な奏法ですが、これが入るとカッコイイんですよね。

 

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 イントロのベースもカッコイイですが、それ以外のところは比較的丸くて低く響くような音作りで、バキバキというよりはドゥルドゥルな感じのベースです。エレキギターは比較的軽めの音作り・ミックスで、装飾音的なニュアンスですね。ワウペダルを多用したようなジョワジョワした音像がちょうど足りない帯域を補っているような雰囲気があります。そして主旋律を奏でるのは、おそらくブラス風味を利かせたシンセサイザーなのですが、これのおかげでだいぶハロプロ感があります。これが生のブラス隊であれば、もう少し音に丸味と影が出てくると思うのですが、シンセでブィーっとソリッドで明度の高い音を使っているおかげで、アイドルソングっぽい感じになっていますね。つまり、聴きやすいし、ノリやすい、という感じです。

 私が好きなバンドでbetcover!!という人たちがいるのですが、このバンドは生のブラスを入れており、やはりシンセで作ったブラスよりもずっと雑味が多く丸い音像になっています。

 

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 全体的に生音を多く使っているので、それはそれとして本格的な感じがしてシックでカッコ良くて最&高なのですが、それだと音像が丸すぎてパキッとしない。そこできっちり主旋律をシンセに譲ることで全体的なキャッチーさを上手くコントロールしているような気がします。しかしながら、それでもAメロやBメロ、間奏は生音メインのバンドサウンドなので、とても私好みでもあります。大事なイントロのリフと、最後の畳みかけのところで楽曲の盛り上がりが必要な「ここぞ」という場面で、上手く電子音とも向き合ってハイブリッドな作りになっているのがアイドルソングしてていいところです。イントロと大サビのところでガラスの砕ける音を入れているのとかも、アイドルソングならではという感じもしますね。

 音楽については本当ならもっと色々と書けることもあると思うのですが、ひとまず私が喋れるのはこれくらい。

 

 最後に、雑に簡単なコードを使って耳コピしてみたので、歌詞とともにまとめてみます。

 

<intro1> 6543進行
-Cm7 Bb AbM7 G7 x2-
----------------------------------------------------
<intro2:main riff> 丸サ的(約束・連絡・記念日intro)
-AbM7 G7 Cm F Fm7 G7 Cm Eb-
-AbM7 G7 Cm Fm G7 AbM7 G7 Cm-
----------------------------------------------------
<A1>6543進行
-Cm7 Bb AbM7 G7 x4-
片付けの途中 壁とソファの間
息ひそめてた 恋の残骸
キミにもらって なくした片っぽのピアス
硝子玉(フェイク)でもダイヤモンド ”永遠”信じてた
----------------------------------------------------
<B1>キメ
-C C/Bb C/Eb C C/Bb C/Eb Fm Fm G G-
どうすればよかったの「裏切り者」と責めて
なじればもっと拗れたのか 元鞘だったのか
----------------------------------------------------
<C1>丸サ的
-AbM7 G7 Cm Fm G7 AbM7 G7 Cm x2-
四の五の言わず 颯と別れてあげた
泣き顔見せる間もなく、秒で
それでも心は今も泣きっぱなし
だって簡単に忘れるような恋はしてない
----------------------------------------------------
<A2>6543進行
-Cm7 Bb AbM7 G7 x4-
ただ楽しかった 思い出たちが結果
痛みに化けて全身を襲う
シェアし合った宝物(もの)ひとひら、ひとかけらでも
キミには残ってる?全部もう捨てたかな…
----------------------------------------------------
<B2>キメ
-C C/Bb C/Eb C C/Bb C/Eb Fm Fm G G- 
何が間違いだったの 何も間違いじゃないなら
ヒリヒリ疼く傷の成分 誰か教えてよ
----------------------------------------------------
<C2>丸サ的
-AbM7 G7 Cm Fm G7 AbM7 G7 Cm x2-
四の五の言わず 颯と別れてあげた
何億のワードでも足りないから
言葉は心に 今も追いつけなくて
だって簡単に語れるような恋はしてない
----------------------------------------------------
<inter>丸サ的→半分枯葉
-AbM7 G7 Cm F Fm7 G7 Cm Eb-
-Dm7-5 G7 Cm Eb Fm Fm G G-
帰りたい 帰れない
----------------------------------------------------
<D>枯葉
-Fm Bb EbM7 AbM7 Dm7-5 G7 Cbm Cbm-
-Fm Bb EbM7 AbM7 Dm7-5 Dm7-5 G7 G7-
ほんとにほんとに好きだった ほんとにほんとに大事だった
気づいても遅い
終わりの瞬間まで 微笑んだ私は強いふりした嘘つき
----------------------------------------------------
<C3>丸サ的
-AbM7 G7 Cm Fm G7 AbM7 G7 Cm x2-
四の五の言わず 颯と別れてあげた
泣き顔見せる間もなく、秒で
それでも心は 今も泣きっぱなし
だって簡単に忘れるような恋はしてない
----------------------------------------------------
<outro:main riff> 丸サ的
-AbM7 G7 Cm F Fm7 G7 Cm Eb-
-AbM7 G7 Cm Fm G7 AbM7 G7 Cm-

 

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 6543進行と丸サ(っぽい)進行が主体となって楽曲は展開していき、間奏終わりから少し枯葉進行っぽくなって、そこからDメロで本格的な枯葉進行になり、また丸サ(っぽい)進行になって終わる。そんな構造の楽曲ですね。ただ、これはあくまで大まかなコード進行で、実際にはより複雑で装飾の多いコードもありますし、細かいところは追い切れません。私の音楽知識の限界……なので、王道のコード進行の合体でありながらも、深みやエグみが強く、一筋縄ではいかない内容になっています。

 Dメロで使われている枯葉進行は、上述の『約束・連絡・記念日』のサビでも使われていますし、モーニング娘。の『シルバーの腕時計』などでも使われている私の大好きなコード進行です。「あ、この曲のコード感好きだな」と思ったら、だいたいこのコード進行だったりします。故に、枯葉進行はもはや手が覚えてしまうくらいで、弾いていても迷いがありませんね。

 そんなキャッチーなコード進行をDメロで消費して、あくまでサビやイントロ・アウトロの掴みの部分では、丸サ(っぽい)進行を推しています。これがこの楽曲のお洒落なところ。枯葉進行は悲哀に満ちたセンチメンタルな雰囲気を与えてくれますが、丸サ進行はちょっと気怠くメロウなほろ苦さを与えてくれるような気がします。なので、この楽曲はあくまでビターな印象。それが今の爆美女軍団のJuice=Juiceには良く似合っている気がします。

 

 さて、歌詞についても触れておきますが、私はこの歌詞<かなり好き>です。大森祥子さんの作詞ということですが、ハロプロ楽曲で言うと、OCHA NORMAの『ちはやぶる』なんかも手掛けられている方ですね。『ちはやぶる』の歌詞もすごく良いんだ。泣けるんだ。そして、この『四の五の~』の歌詞もかなり良いです。わかりやすくありながらも、表現の幅が広く、それでいて無駄がない、って感じです。

『ひとそれ』以降のJuice=Juiceらしく、強がっている大人の女性が、意外と失恋とかで傷ついているシリーズですね。こうやって説明してしまうと、「もはやそれまで」といった感じになってしまいますが、この歌詞からは強い後悔と傷心が伺えます。「どうすればよかったの」とか「何が間違いだったの」とか途方に暮れながら、自分の力ではもう取り戻すことのできない時間を憂いていますね。

 もっと若い女性であれば、自分の感情を思いっきりぶつけられたかもしれません。しかし、いつの間にか大人になってしまった彼女は、望んでいようがいまいが毅然とした態度で「別れ」を受け入れてしまっている。「別れてあげた」なんて言って強がってはいるけれど、実際自分がなんでそんな風に平静を装っているのかわからない。そういう強がりの理由みたいなのはここの歌詞では語られていないところが素敵です。プライドや意地っ張りみたいなことで平静を装っているのかもしれない。或いは、感情に振り回されてより傷つきたくはない。もしかしたら、「拗れる」ことなくさっぱり別れてしまえば、友達っていう関係に落としどころがつけられて、そこからまた「元鞘」に戻れるかもしれないという打算。

 自分がどうしてそんな風に無駄な強がりをしてしまうのか、明確な答えは見つけられないまま、それでも彼女はこの恋に真剣だった。どれくらい真剣かと言うと、「簡単に忘れるような恋はしてない」し、「簡単に語れるような恋はしていない」のです。簡単じゃないはずの恋を、颯っと簡単に終わらせてしまった。颯っと分かれてあげた。

「裏切り」の実態もよくわかりません。浮気なのか、或いはもう少し誠実に「別に好きな人ができた」なのか、大人にありがちな「将来が見えない」とか、「もう好きじゃなくなった」とか……いずれにせよ、彼女にとってこの恋の終わりは彼からの「裏切り」でした。

 

片付けの途中 壁とソファの間
息ひそめてた 恋の残骸
キミにもらって なくした片っぽのピアス
硝子玉(フェイク)でもダイヤモンド ”永遠”信じてた

 

 それにしてもこの歌詞は秀逸ですね。Aメロの一番目立つところに置かれるだけはあります。映画やドラマの冒頭のシーンが思い浮かびますね。

 私は『花腐し』という映画が好きなのですが、冒頭の一連のシーンが終わった後で、タイトルとともにオープニングクレジットが流れます。ここで主人公は死んだ彼女の遺品を整理しているのですが、そんな哀愁をこの歌詞からは感じます。いやぁ、なんて叙情的かつすっと入ってくる詩なんだ!プロの仕事はさすがですね。

 

 そんなわけで、別に文句でもないし、これ以上にないくらい素晴らしい作品ではあるのですが、歌詞の繊細かつ叙情的な表現に比べると、いくらか曲が強すぎるきらいがありますかね。そして、さらにその歌詞世界と音楽の強弱の差を広げるように、MVがまた強すぎる。里愛ちゃんなんて、例の素晴らしく繊細な冒頭Aメロの歌詞の中で、ハンドバッグを投げてますからね(このシーン好き過ぎる)。なので、歌詞は歌詞として置いておいて、とりあえずこの作品では大人の女性の強さを前面に感じることが肝要でしょう。

 

りんご(美麗)

 

 遠藤あかりさんこと、あかりんご(麗し)さんのビジュアルが大爆発されていますが、この紫の衣装に黒の透け感のあるアームカバーは反則級の一品ですね。もうだいぶ文字数も嵩んできたので、MVの細かいところについては喋る余白が残っていません。しかし、それでもこの曲のあかりんごのビジュアルには触れておかなくてはいけないと思い、こうして一番最後の仕上げ的な位置で紙幅を割いています。

 改めて言っておきたいのは、こういったあかりんごのビジュアルも含めて、この曲は私の癖にぶっ刺さりまくっているということです。MVを一目見た段階でこの曲に胸がときめき、そしてハロ!コンで観てそれは恋となり、こうして1つの記事を書き進める中で愛に不時着しました。

 これまで私は「Juice=Juiceで好きな曲は?」と聞かれたとき(を想定して、脳内の中で)、毎回「『好きって言ってよ』かな」と答え(ようと心に決め)てきました。が、この『四の五の言わず颯っと別れてあげた』と出会ってしまって、私の人生は複雑さを帯びてしまったようです。四の五の言わず颯っと、「四の五のかな」と答えればいいんでしょうけれど、私は陰鬱な中年ジジイ。強がる必要なんてなく、いつまでもうだうだ「あれもいいし」「これもいい」とふがふが右往左往。誰にも聞かれることのない問いに答える練習ばかりして、また今日も無為な1日を明日へ送っていく。そういう他人から見たら情けない人生であっても、これだけ心の中をウキウキさせてくれるのは、やはりハロプロが素晴らしいから。

 今日も今日とてハロプロという奇跡に感謝の念を捧げながら、さて23時を回ったので明日のためにいちごのベッドで眠ろうと思います。お肌、ぷるぷるになるといいな。

OCHA NORMA『女の愛想は武器じゃない』~私は"よねきら"が好きだ~

 来ましたね。オチャ。作詞・作曲が山崎あおいさん、編曲が鈴木俊介さん、ということで何とも期待感の高まる布陣。私はJuice=Juiceの『好きって言ってよ』が大大大好きなのですが、それと同じ布陣なので、公開前からとても期待していたんですよね。しかし、その期待を軽々と越えてくる出来でした。

 

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C0 ※サビから始まる王道パターン
かわいいだけなんて言わせない
きっと誰だって 本音じゃ 痛い痛い痛い痛い痛い
女の愛想は武器じゃない 戦うなら食いしばった今日で

Em Em A A
C D Em Em
C D Em Em C D x x

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inter ※歌あり、リフあり
もがいて あがいて

C D Em Em C D Em Em

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A1-1
反省点とか数えたらキリがない
謝りぐせ 近頃の常

C D Em Em
C D Em Em

A1-2 ※同じコード進行で違うメロディ
「これも私」なんて言って 手に入れても自己肯定感
結局 まがいもの

C D Em Em
C D Em Em

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B1
やさしいふり 流されちゃ
あっというまに離されちゃう時代

C C G G ※ハーフテンポかっこいい
A A B B ※ハーフテンポすぐに終わる
B B ※2小節多い(サビ前の間奏的な役割)

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C1
かわいいだけなんて言わせない
きっと誰だって 本音じゃ 痛い痛い痛い痛い痛い
女の愛想は武器じゃない 戦うなら食いしばった今日で

Fm Fm A# A# ※半音転調
C# D# Fm Fm
C# C# Fm Fm C# D# Fm Fm

-----------------------------------------------------

inter ※歌なし、リフあり
C D Em Em C D Em Em ※転調戻り

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A2-1
見かけならお金でも買えるけど
自信だけは 底底バレる

C D Em Em
C D Em Em

A2-2
今時じゃないの?根性 涼しい顔で知ってるんでしょ
最後はやるだけと

C D Em Em
C D Em Em

-----------------------------------------------------

B2
無欲なふり 騙されちゃ
遠慮の隙 奪われちゃうみたい

C C G G
A A B B
B (B)※1番より1.5小節短い

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C2
かわいげだけじゃ自分守れない
もっとふるわせて先が 見たい見たい見たい見たい見たい
かわいげなくても我が道をゆけ 胸はって泥のなかへ

Fm Fm A# A#
C# D# Fm Fm
C# C# Fm Fm C# D# Fm Fm

-----------------------------------------------------

inter
Fm Fm C# D# Fm Fm C# D# ※ハーフテンポ
C# C# Fm G# A# A# C C ※ハーフテンポから戻り

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A3-2+B3 ※コードがBメロなのにメロディがAn-2メロ
魔法は解けてく いつか その時 何が残ってんの
自分に憧れたい

C# C# G# G# ※半音上がったまま
A# A# C C
C ※ここは綺麗に1小節 1番から0.5ずつ短くなってる

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C3-1
かわいいだけなんて言わせない
きっと誰だって本音じゃ 痛い痛い痛い痛い痛い
女の愛想は武器じゃない 秘めた強さの証

Fm Fm A# A# ※半音上がったまま
C# D# Fm Fm
C# D# Fm Fm C# D#

C3-2
かわいげだけじゃ 自分守れない
もっとふるわせて先が 見たい見たい見たい見たい見たい
かわいげなくても我が道をゆけ 胸はって泥のなかへ

Fm Fm A# A# ※ここも半音上がったまま
C# D# Fm Fm
C# D# Fm Fm C# D#

-----------------------------------------------------

D3 ※ここに来てまさかの新しいメロディー
乾いてたまぶた 潤した涙
媚びてきた夜さえ タダじゃない
乾いてたまぶた 潤した涙
目にみえるだけの魅力 盾にたゆみなく磨く

Fm Fm A# A#
C# D# Fm Fm
C# D# Fm Fm
C# C# D# D# Fm Fm ※最後はたっぷりと

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 一応ひと通り、歌詞とコード進行を書き起こしてみました。いやぁ、シンプルで王道なコード進行で助かりました。私レベルの音楽知識でも何とかついていけます。

 ポイントは「※」で書いていることそのままなのですが、やはりサビでの半音転調が効いていますね。同じ山崎あおいさん楽曲では『ひとそれ』なんかもサビでの全音転調が印象的ですが、今回はより王道に半音転調で突き進んでいます。特に、2サビ(C2メロ)終わりからずっと半音上がったままというのも攻撃的ですね。落ち着く間がない。

 落ちサビ(C3-1メロ)が半音上がったままなので、大サビ(C3-2メロ)でさらに半音上げてくるのかとも思いましたが、ここは据え置き。が、しかし、そこで油断しているとラストには新しいサビ(Dメロ)が入って来て、そのまま駆け抜けて終わるという、なんともダイナミックな構成です。

 コードの流れとしては基本的に、C(ド)→D(レ)→Em(ミ)という感じでとてもシンプルです。ロックの曲にありがちで、私の大好きなバンドであるところの凛として時雨なんかでも多様されていますね。『unravel』なんかもちょっと近いコード感です。『unravel』もシンプルですが、それよりもずっとちょっとだけシンプル、くらいの感じ。コードの複雑さで言えば、Juice=Juiceの『ノクチルカ』なんかは一聴しただけでも、もう耳コピしたくなくなるくらい変なコード進行を使っています(たぶん)。なので、『ノクチルカ』と比べていただければ、この曲がどれだけシンプルで王道のコード進行か(そしてリズムか)ということが簡単にわかるかと思います。

 でも、色々とちゃんと手順も踏んでいて。

 たとえばAメロは同じコード進行でも2パターン用意されていて豪華ですし、Bメロはハーフテンポ(うー、おい!をやりたくなる感じ)を使ったかと思えば、すぐに元のテンポに戻る構成になっています。サビの転調や最後のDメロも合わせると、かなり技を入れて、退屈させない作りになっていることがわかります。これぞ、プロの仕事。

 

 と、楽曲の構成に関してはこれくらいにしておきまして。

 まず言いたいのは、「サムネが強すぎん!?」ってこと。北原もももちゃんも大好きなお方なのですが、やはり私は姫良々ちゃんが大好き。特に、ここ半年くらいのよねきらのビジュアルが刺さりまくっておりまして。色々と予定が噛み合ったこともあったのですが、Juice=Juice(と真琳ちゃん)以外では初めてのバーイベ参加が姫良々ちゃんでした(真琳ちゃんは、里愛ちゃんと並ぶ最推しなので)。

 ちょうどインスタが始まったあたりからでしょうか。なんとなくお化粧の雰囲気も変わったような気がして、さらに垢抜けて美しさに磨きがかかった気がします。まぁ、そんな姫良々ちゃんを見てやってください。

 

 

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 MV10秒のドアップ、チークマシマシ姫良々ちゃんもヤンデレ味が強くてすごい好きです。

 

 

 正直、この1カットだけで私はこの曲、MVを至高のものとして捉えることとしました。真琳ちゃんなんかもそうですが、ビジュアルが単に美しく可愛いだけでなく、そこに強いキャラクター性が乗っかってくる子は本当に貴重な存在だと思います。この1カットに関しては、キャラクター性に留まらず、物語性まで感じられますね。

 この子はきっと自分が可愛いことを知っている。その可愛さで得したことの多い人生だったとは思う。でも、ある日、自分が本当に欲しかったものは、そんな上辺だけの「お得感」なんかじゃなかったことに気づく。私は私に胸を張って生きていける強さ、そんな自信が欲しかったんだ。ただチヤホヤされて、可愛がられて、過保護に甘やかされるだけの自分じゃ、本当の自分の自信にはならない。もちろん可愛さは1ミリも譲らない。でも、私は私の手で、自らの手で、私を幸せにしてやるんだ。

 と、そんな「表情」です。つまり、この1枚の「表情」でこの曲の歌詞のほとんどを語って見せる、そんな物語性さえ感じるようなお顔に撃ち抜かれました。

 そんな姫良々ちゃんの素晴らしさはビジュアルだけでなく、ソロパートの歌声にも表れています。1番のAメロ、1番手を姫良々ちゃんが務めています。バーイベでも姫良々ちゃんは言っていましたが、「自分は歌に苦手意識がある」とのこと。確かに同じグループの澪心ちゃんや美空ちゃんのように、躊躇なく思いっきり発声して、空間を打ち破るような歌い方はまだできないかもしれません。でも、誰よりも先輩の研究をして、上顎に引っ掛かるようなハロプロ歌唱ができるのは姫良々ちゃんです。そして、常にピッチを気にしながら丁寧に歌う実直さも感じます。

 トークでは向かうところ敵なし、って感じの性格の強さが滲み出る姫良々ちゃんですが、歌唱の面では少しだけ自信の無さや謙虚さが滲み出てしまうところが凄く愛おしいです。なんか泣けてくるんですよね。この曲じゃないですけど、愛想の良さや気のいいお調子者ムーブに逃げずに、歯を食いしばって、自分の歌に誇りを持てたとき、本当のハロプロアイドルになれる。そういう背景を姫良々ちゃんからは読み取ってしまって、「これは姫良々ちゃんの歌だ!」と私はなりました。もちろん、色々な人が、色々なメンバーや自分自身などにこの曲を重ねられると思いますが。

 

 この曲を聴いて、オチャの新しい時代の到来を感じ取った人も多いはずです。武道館公演も発表されましたしね。何とも喜ばしいことです。しかしながら、個人的にはひなフェスで披露された『わかってるっつーの!』の強さにこそ、オチャの新時代を感じたように思います。

 初期から続く、エンタメ感やトンチキ感というのもオチャの色にはなっていたように思いますが、やはりオチャと言えば「人」の強さ。それはこぶしファクトリーにも少し似たものがあると個人的には思っていて。でも、こぶしはもっといぶし銀な感じで、オチャはもっとギャルっぽい。そういう彼女たちの強みが出たのは『わかってるっつーの!』な気がしています。それまでの曲だと、『ちはやぶる』なんかはとにかく歌詞が好きで、聞くたびに泣きそうになるのですが、楽曲もカッコよく彼女たちに似合っていると思っていました。それ以外だと、すみれラップが炸裂した『Peek a Boo』なんかも、お洒落であると同時に上から目線な雰囲気がオチャっぽい気がしていました。

 そういうわけで「強い曲が来ないかなー?」と思っていたところだったので、この武道館発表のタイミングで『女の愛想は武器じゃない』というのは、良い代表曲ができたなという感じです。

 石栗奏美ちゃんと田代すみれちゃんの卒業はあまりにも悲しい出来事でしたし、未だに「なんて惜しい人材を逃したんだ」と何もできなかったことが悔しくなります。ただ心や体のことは周りにも、もちろん当人にもどうにもできないことだったりしますし、それこそ人生というのはそうそうコントロールの効くものではありません。しかしながら、そういう究極的な不自由さの中で、選び取れる範囲でのぎりぎりのところでの判断をしたのなら、あとはその選択が間違っていなかったと証明するよりほかないというが人生でもあります。そういう意味では、卒業してしまった2人にも、本当に幸せになって欲しいと願っています。

 だから今更どうこう言いたいというわけでもないのですが、この優秀かつ将来有望な2人が卒業してしまったことで、残されたメンバーには火が付いたんじゃないかなとも思うんです。そこで与えられたのが『わかってるっつーの!』というかなり強めの曲。ほとんど「何糞!」というような勢いでパフォーマンスされたこの曲は、私のひなフェスの記憶をオチャ色に染め上げました。続いて披露された『ちはやぶる』を聴きながら、ビジョンに映し出される歌詞を読み、この人生の困難さを噛み締め、目が潤んだことも強く記憶に残っています。

 

 そこから約3か月。私たちにはさらに彼女たちの代表曲となり得る『女の愛想は武器じゃない』が与えられました。これは大切にしていかなければなりません。「大切に」という言葉がやや穏当さを強く印象付けるのであれば、「絶対に売る」、それだけです。

 ハロプロ村の外にハロプロを売るのは難しい時代です。でも、絶対にこの曲は、村の外の誰かにも届くはず。そして、ハロプロ村の皆さんであれば、絶対にこの曲に可能性を感じてくれるはず。オチャにとってはここが大チャンスだと思います。グループとしても転換期を迎え、良曲も来た。そして、初武道館というメモリアルも3か月後に迫っている。ここは絶対に外せない。だからこそ、みんな乗るしかない、このビッグウェーブに!

 

 語りたいこと、触れたいメンバーはまだ星の数ほどあります。しかし、これ以上は蛇足と思います。ただ姫良々ちゃんを礼賛するだけのブログになってしまったようにも思いますが、まぁ、たまにはそういうのもいいでしょう。見どころは沢山ありますので、ぜひ皆さんも自分の好きなポイントを見つけていただければと思います。