霏々

音楽や小説など

松永里愛バーイベ2026販促~配信を買ってみんなで楽しい3連休を過ごそう~

 ハロプロストリームから購入できます松永里愛バースデーイベント2026が素晴らしかったので、販促させていただきます。ファンクラブに入っているという前提条件が必要になりますが、それ以外はお金を払えば皆様に観ていただけるコンテンツになっていますので、ぜひ。

 

www.upfc.jp

 

 まず、購入していただきたい理由の1つ目としては、グッズで着ているのとは違う衣装を着ていらっしゃるという点です。ウェディングドレスにも見えるような白いドレスに白いヘッドドレス(ウェディングベールに見えなくもない)は儚さもあるのですが、そこには所々にドス黒い血の跡が。ゴシックと狂気を掛け合わせたような、天使にも悪魔にも見えるその姿を見たい方はぜひとも配信を購入してみていただきたい。あと、個人的にはほぼフラットなトゥシューズがめちゃくちゃカッコ良くて好きでした。トゥシューズで足をパタパタとリズムを刻む姿は、トゥシューズの使い方としても尋常ではなく、何かそれだけで特別な表現であるようにも思えます。

 

 これまで数年間のバーイベはある意味で「挑戦」というテーマがあったようにも思います。曲数や難易度、そういったところに意識が向けられていた一方で、今年のバーイベは「自分の趣味に合う」という観点が強かったのかな、と。特に配信がなされる第1部の序盤は、里愛ちゃんの雰囲気に合うお洒落な曲が沢山聴けます。

 ボカロの名曲「右肩の蝶」はハロプロの先輩である、佐藤優樹さんがカバーしたことによって、そのさらにカバーという形が使えるようになりました。お洒落なジャズテイストでありながら、ハイテンポかつ攻撃的な楽曲は切れ味鋭い里愛ちゃんにとても似合っておりました。頭に手を当て、リズムに身悶えする姿は、ハロプロという文脈においてはなかなかお目にかかれないほどにアーティスティックでした。シャウトも迫力の中に、里愛ちゃんらしい憂いを感じ、心の奥底が抉られるような想いでした。

 

Misery ~愛の天秤~ 」や「ベイビースパイダー」と言った序盤曲は、「右肩の蝶」と合わせて、めちゃくちゃクールでカッコイイ松永里愛を堪能できますし、各グループのパフォーマンスに対して新しい解釈を逆に付与できるようなクオリティでした。

<ああ、これは表現者だな>

と、感じさせるような圧巻のパフォーマンスだったのですが、3曲披露してMCに入ってみれば、大阪弁で捲し立てる姿があまりにも軽妙で変な気持にもさせてくれます。

 ベラベラと喋って「水、飲みな」と笑かしてくれた後で始まったのが、またもつばきファクトリーから「月夜のパ・ド・ドゥ」。つばきファクトリーの繊細な楽曲たちが里愛ちゃんによって色づけられていくのですが、ただ繊細で儚いとか、そういうところを超えてどこか狂気のようなものを感じさせるのが里愛ちゃんのすごいところ。Cメロの畳みかけるところなんかは、原曲でもあまり感じたことのない、落ち着かなくなるような切迫感すら感じました。

 松浦亜弥さんの「ずっと好きでいいですか」も、何だか里愛ちゃんが歌うと普通の恋心というのとは少し違くて。恋の切なさ、失恋の悲しみというよりは、特定の事物に対する執着心、人生における苦難と孤独、そんな感じに聴こえるのがまた素敵ですね。

 そして、ヘッドドレスを剥ぎ取り、床に落とし、少し乱れた髪を手櫛でかき上げ、「四の五の言わず颯と別れてあげた」。Juice=Juiceで歌われるのとはまた全然違った雰囲気に仕上がっていました。個人的にはこの曲がこの日のハイライトでした。脱力した姿で歌う姿はあまりにも美しく、そしてラストのフェイクのメロディラインは原曲を踏襲しながらも里愛ちゃんらしく不安定なアレンジに描き変えていたり。アイドルの中に表現者の部分がしっかり仕込まれていて素敵でした。

 

 ここまでで一通り、松永里愛の持つ狂気という部分は表現しきったように思います。「うわさのナルシー」は軽快に、爽やかに。里愛ちゃんのリズム感の軽やかさ、表現の艶やかさみたいなのを最大に表現しきったように思います。その後のMCでは、チェキの抽選&会場練り歩きをしてクールダウンとなりました。仁愛ちゃんが15歳を迎え、「夢見る15歳」を歌っていたことを踏まえ、自分も15歳の時に同じ曲を歌っていたことなどを話されておりました。その頃は私もハロプロの現場にほとんど行けていなかったのですが、当時の映像などがフラッシュバックしてぐっと来ました。

 後半戦は熱く、楽しく、ということでライブ初披露となる「結論から言ってちょうだい」から始まりました。「I 無双 Strong!」に関しては、全然イメージなかったので、どういう経緯で選曲に至ったのかちょっと聞いてみたいところですが、生憎私は里愛ちゃんの連絡先を知らないのでこの疑問は一生飲み込んでおこうと思います。「I surrender 愛されど愛」に関しては、やはりモーニング娘。の楽曲ということでリズムが大事になって来るわけですが、何と言うか私はモーニング娘。に対して、上半身でチャカチャカとリズムを刻んでいるイメージがありまして。それに対して、里愛ちゃんは土台である下半身があまりにもしっかりしているので、なんか聴き味が全然違いました。これだけ刻まないリズムで1mmも縒れたりせずに歌い切れるのが逆にすごいと思いました。

 最後のMCを挟みまして「Survive~生きてく為に夢を見んだ」でこちらもブチ上がる楽曲ではあるんですが、実は私はあまりちゃんと聴いたことがなく、サビを聴いて「んー、こんな曲もあったような」くらいでした。でも、里愛ちゃんがバーイベで歌ったからこれから好きになりたいと思います。そういうことって沢山ありますよね。どういう曲なのか、ということも重要ですけれど、結局は「誰が歌ったか」というのも非常に重要で。誰かを好きになるということは、自分の世界を広げてもらえる、ということです。たとえそれが、アイドルとファンという関係であっても。ラストは「46億年LOVE」で愛たっぷり、音楽たっぷりで終わりました。アウトロをステージに残して走り去っていく姿は少女のように軽快で、ステージが始まったときのあの何とも言えない不穏な空気はすっかり霧散していました。

 

 というわけで以上、簡単にはなりますが、販促のための感想文でした。里愛ちゃんは、昔からずっと伸び盛り。でも、ここに来て、さらに表現者としての風格が一段と増したように思います。ただ「推しのアイドルを応援しよう」という気持だけでなく、「カッコイイアイドルが見たい!」という気持ちまで持ち出しても十分に満足がいくステージだったように思います。

<Juice=Juiceは最近知ったけど、誰を推そうかな>

 そんな人にもぜひ、この3連休に観てみてほしい。ファンクラブに入っていればたった3,000円で観られますから。2,3日ランチをお弁当にしろ、なんて言いません。一生懸命働いて、お金を稼ぎ、それをぜひ里愛ちゃんに使ってあげてください!みんなで里愛ちゃんをもっと好きになろう!

七夕/青い薔薇/空港にて

 今日は七夕。舞台の上で歌い踊るRの姿を観るために、私は空港近くの劇場までやって来た。空港は目と鼻の先という具合だったが、どうしてか鈍色の空を滑る羽はずっと遠くに感じられた。Rのことは14歳ないし、15歳くらいのときから見ている。しかし、私と彼女の距離が縮まったことは一度としてない。先ほど見上げた飛行機が私とは関係のない世界をずっと飛び続けているように、私はいつだって舞台の下から見上げるばかりである。

七夕、空港にて

 Rは肝の据わった新人として、まず私の瞳の中に飛び込んできた。初めての大舞台でがちがちに緊張しきっている同期とは対照的に、「楽しいよ、笑おう」と舞台裏を駆け回っているような子だ。今日の舞台上の挨拶で、Rは「私も本当は自信なんてない。でも、私には自信があるんだと自分に言い聞かせて来たし、その自分の言葉に説得力を持たせるために努力も積み重ねてきた」とマイクに視線を注ぎながら言っていた。

「辛いとき、苦しいとき、がんばれないとき。私にだってある。でも、その苦しみの果てに、私には芸術があると思っている。心を失った芸術はつまらないわ。だから苦しみにも耐えようと思う。皆も苦しいときに、それに耐えるための『何か』を心の内に持っておいてほしい。そして、そういう『何か』の1つに私がいたら…皆が苦しいとき、私=Rちゃんもがんばってるはず、って思ってくれたら嬉しい」。

 彼女は感性が豊かで繊細。だから人一倍傷つきやすいし、自分や世界に失望して身動きが取れなくなることがあるのも私たちは知っている。しかし、それは決して弱さなんかではなく、人間としての強さの正しい在り方だと私なんかは思う。私たちが彼女に魅了される理由は人それぞれに色々とあるにせよ、しかし、共通して彼女のその弱さをも受け止める「強さ」に惚れている。

 

 15歳くらいの頃、Rは言わば早熟の天才「アンファン・テリブル」として舞台上で私たちを驚愕させた。単純な技術ももちろん目を見張るところがあったけれど、やはり何と言っても舞台度胸。そこに私は射貫かれた。けれど、ただ彼女が無神経な怖いもの知らずであったなら、私たちはそこまで彼女に惹かれたりしなかっただろう。現に、私が最も嫌いなタイプの1つに、「厚顔無恥」という属性がある。ただ声だけが大きく、行間に人間らしい色気を忍ばせられないタイプは見るに堪えない。

 女の涙を見たいという性癖はないにせよ、泣くつもりがなかったのに感極まって泣いてしまう姿なんかにはやはり心揺さぶられるものがある。Rはあまり泣くタイプではないにせよ、何度か言葉や歌詞を詰まらせた姿を見たことがある。Rには深く豊かで繊細な感性があり、それが時に彼女の涙腺の制御を狂わせる。最初からそういう姿を見て来たわけではない。しかし、舞台上で破天荒な振る舞いを見せながらも、舞台裏で震える同期に優しく前向きな言葉をかけていることは昔から知っている。そういう「人の心を知る優しさ」は歌唱などからも滲み出て来て、私たちの固い心の扉にぶら下がるベルを小さく鳴らしたりする。

 初舞台から数年したくらいからだろうか。彼女は変声期で思うように歌うことができなくなり、さらにそこにペストの類の大禍が追い打ちをかけ、17,18歳くらいの多感な時期を分厚い雲が覆ってしまった。それでも彼女はいつだって健気に努力を積み重ねてきたし、私はRばかりを見ていたから、注意深く歌う時期も、大胆に歌う時期も、リズムを突き詰める時期も、1つひとつの工夫や試行を重ねる姿が記憶に刻まれている。それでもおそらくは彼女の中で自分の声帯というものが理想とは程遠いという認識を持っているだろう。殊、発声という側面で言えば、初舞台でがちがちに緊張していた同期の方が恵まれたものを持っている。そんな同期に憧れ、刺激は受けれども、決して妬んだり僻んだりはしないのがRの品のあるところである。

 上品にしろ下品にしろ「品」というのは重要で、自分を律して立ち居振る舞いを操り演出するというのは「品のある」行動である。「品がない」というのと「下品」を同じものとして考える人もおられるだろうが、「品がない」というのは自分を律することができず、相手にどう見られるのかの演出ができないことである。例えば、ふざけて奇声を上げてみたりするのは「下品」かもしれないが、それを見て大多数が嫌悪感を抱くのではなく、「変わった面白い子ね」となればそれは演出に成功しているのであり、「品がない」という状態とはまた違う。先ほど私は「厚顔無恥」という言葉を使ったが、言ってみれば、他者を省みない「品がない」方向での「厚顔無恥」が嫌いなのであって、あえて身の程知らずな振る舞いをして見せる「厚顔無恥」というのは「下品」だけれど「品があって」魅力的とすら言える。

 Rという子は常に「相手がどう思うか」というところに気を回せるし、そのうえで「自分がどう振舞うべきか」という自制もよく効く。一口に豪胆と言い表せるような舞台度胸についても、見方を変えれば「自制」の表出であり、ただガキ大将的な豪胆さというのは別に魅力的には映らない。だいたいガキ大将なんてものは大概が小心者であるし。数珠繋ぎのように面倒だけれど、その気を回したり自制をする能力がまさに「品」であると思うので、私はつまるところRの「品があるところ」に最も惚れているのかもしれない。

 

 七夕に開催された彼女の生誕祭は、多種多様な演目が用意されていた。ジャズやロック、ファンクにダンスミュージック。セクションごとに自分が好きだと思える楽曲たちを選び、Rらしい舞台が繰り広げられていく。去年も一昨年も、私は彼女の生誕祭に参加させていただいている。運良く抽選も当たり続け、ご相伴に預かることができている。これは何も私の籤運が優れているのではない。昨今彼女が所属するグループが多くの新規ファンを獲得し始めてもなお私が当選できているのは、毎年劇場を大きいものに更新し続けているRの努力に他ならない。

 しかし、彼女のファンが増えるのは至極当然のことであり、毎年彼女の生誕祭に足を運ぶ度にRの進化というのを目の当たりにしている。何十曲と常人では考えられないほどの楽曲に挑戦した年もあれば、自らの師に対して課題曲を指定してもらった年もあった。自分にいま足りないものは何か。自分はいま何がしたくて、何をすればさらに成長できるのだろう。そういうことを考え続けている人間がやるであろうことを彼女はすべてやって来た。

 今年の舞台がどのようなものになるのかは私にも想像がついていなかった。しかし、ある意味では期待を裏切られることはなく、想像どおり、いや想像以上の感嘆が私の胸の内には残されている。それまでどう向き合ってよいか彼女自身も思い悩んでいた自らの声帯とも一種の和解を取り付けたようだった。挨拶の中では「好きとか嫌いとかに関わらず、自分はこの楽器(=声帯)を使って、皆に感動を届けるしかない」ということを言っていた。技術的な課題の克服があったことは当然として、しかしながら、精神面での一定の割り切りみたいなのもあったことが伺えた。

 彼女の声は自然に出ていたし、彼女の同期ほどの音色の煌びやかさというのがあるわけではないせよ、渋く味わい深い響き方をしていた。強弱、濃淡、甘さや苦さ、軽やかさや重さ、優しさや厳しさなど。どのチャネルにおいても自由自在に自らの歌声を操れており、その完成度は例年の比ではなかった。楽曲の持つ世界観と、それに加えて自分という人間がそれをどう表現するべきか、心や感性といった部分に加え、シンプルに自分という楽器をどう使うべきかまで心得ているRはまさに表現者と言って差し支えないほどに芸達者であった。

 踊りという側面でも彼女は、傑出した才能を持っている。というか、単純に「リズム感」が良過ぎるのである。まず彼女は指定された速さで机を叩く。それは正確無比で無駄がなく、縒れたりもしない。そういう基本的な技術がある。そのうえで何かメロディあるいは伴奏なんかを付けてやれば、Rはそれに適した一打の強弱や長短を変化させ、リズムにうねりを齎すことができる。そういう即興性も持ち合わせている。そして何と言っても彼女は耳が良く、勘も冴えている。現代音楽の複雑な音の交わり、リズムの組み合わせにおいても、彼女が煌めく1音を聴き逃すことはまずなく、「ここぞ」というタイミングで音を体で表現することができる。彼女の踊りを通して、私たちが聴き漏らしていた音楽を目で観ることができる。そういう才能がRには備わっている。

 しかし、今回の舞台では彼女はその踊りを派手に見せびらかしたりはしなかった。音楽に合わせ、軽く首を振ってみたり、まるで準備運動しているかのように気怠そうにリズムに体を揺らす姿からは、場を支配する圧倒的な力量というものを感じた。Rが身体操作性に優れ、一流のモデルや俳優のように一片の気味悪さみたいなのも感じさせない、限りなく洗練された立ち居振る舞いができることは知っている。激しく体を動かし、全身で音楽を表現できることも知っている。しかし、今回の舞台ではほんの僅かな顎の角度変化、一瞬のマイクの持ち替え、それらがすべてRの持つ音楽的センスの体現であった。楽曲が盛り上がってくると瞬間的にいつもの彼女の熱い踊りも観ることができる。しかし、それは「踊り」と区別されるものではなく、歌声や感情も全てを含めて、1つに統合されたまごうことなき「表現」であった。

 これを観て、私はRが表現者として分水嶺を越えたことを目の当たりにした。かつてのR然り、大抵の子らが「歌」と「踊り」を組み合わせることで「表現」を成立させようとする。それは芸を極める過程で誰もが通る道であろうから否定するつもりはない。しかし、本物の芸をするためにはそこを離れ、「表現」を成立させる手段として「歌」と「踊り」を利用することが必要になる。いや、これでも足りない。そこから更に突き詰めていけば、「自分が持つ世界を表現」する手段として、これら枝葉末節の技術を道具として用いているだけに過ぎないという領域に達する。まだまだこの道は長く遠くまで続いているものの、Rは確実にこの領域に足を踏み入れただろう。

 本日は七夕の生誕祭にて、Rの演者としての格が上がったことを確かにこの目で観たことはここに記録しておこうと思う。

 

 とは言え、私はこんなことを書くために夜更かししているわけではない。核心に触れる前に、最近観た映画について少し話す。玩具の冒険譚を描くこの作品は、私が幼い頃から幾度にも渡り新作が公開されて来た連作であり、先日その最新作が公開された。熱心に追っていたわけではないけれど、まず大抵の一般家庭において育っていれば、何度かは目にしたことがあり、私なんかは「一緒に成長してきた」と言っても差し支えない。

 物語の最初のコンセプトは、人形などの玩具が人間の目に届かないところでは、活き活きと人間みたいに動き回っているという単純なものであった。人間に見られそうになったら動きを止め、みたいな想像が容易な茶番に子どもは笑うし、そういう制約がある中で人形たちが色々な問題に巻き込まれていくという筋書きは普通に見ていて楽しいものである。しかし、私が大学に進学し、独り暮らしを始めた頃に公開された当時の最新作は少し力点がずらされていた。もちろんてんやわんやの冒険譚というところが主題ではあるのだが、人形の持ち主もまた私のように成長し、そして玩具を必要としなくなってしまう。人形たちは成長してしまった持ち主に対して不安や失望を覚えたりするのだが、最終的には様々な冒険を経て、また持ち主のもとへ戻って来る。そして戻って来た末に、玩具たちは成長した元の持ち主から、次の幼い持ち主のもとへと引き継がれていく。最後の場面では、車に乗って遠ざかる青年を女の子の手元から見送るのだが、これが非常に感涙を誘う。

 私とRたち偶像の関係はこれを裏っ返したようなものだ。私たちはずっとここで光り輝く舞台を見上げ続ける。しかし、彼女らは時とともに成長していき、そして時とともにこの舞台から去って行く。別の舞台に行く者もいれば、そもそも舞台から降りる者もいる。いずれにせよ、私たちが彼女らを見つめることができるのはほんの僅かな期間だけである。彼女たちはどうしたって大人になってゆく。それを止めることはできない。

 玩具たちの冒険譚は、回を追うごとに「自分たち玩具の役割」というのを少しずつ明確化してきており、それが1つのテーマとなっている。未だにこれらの連作は子供向けではあるのだが、初回のとき子供だった私たちも大人になり、そして自らの子供を連れて最新回を観に来るということが起こっている。なので、子供たちは玩具たちの喜劇的な冒険譚に笑い、胸を躍らせ楽しんでいるが、大人たちは自らの幼少期を思い出したりしつつ、同時に自らが大人として社会において役割を担うようになってきたことに対する使命感のようなものを玩具たちの中に見出す。

 玩具は玩具として子供たちを喜ばせ、健やかな成長に手を添えてやらなければならない。いずれ大人になり、自分たちが捨てられるとわかっていても、しかしそれが玩具の宿命であるとして、全力で子供たちを助けるために動く。その健気な振る舞い、そして逃れられぬ運命をどうにかこうにか受容していく背中に、何か強く共感する想いを感じる。

 私たちが玩具らのように愛らしいかはさておき、やっていることはだいたいがこれである。私たちは彼女らに歌って踊ってもらい、とても楽しい。最高の気分だ。そして、彼女らの成長を見つけるととても嬉しくなる。自分が何かをしてあげたわけでなくとも、それでも彼女らの成長が嬉しいのである。歌や踊りが上手になることだけじゃない。人間の持ちうる複雑な感情を発見し、それを表現する術を身に付けるのもそうであるし、また仲間との関わり合い方から見えてくる精神的な成長もまた私たちの好物であろう。しかし、彼女らの成長を一生見守ることはできない。およそ25歳ほどの年齢までを見届けたら、彼女らの多くは私たちの元から去って行ってしまう。一定数、彼女らを追いかけていく者もいるが、大多数がこの場に留まったまま、彼女らを涙とともに見送る。理由を説明するのは難しいが、何故か誇らしい気持ちになったりしたまま。

 今日、Rは確かに大人になっていた。辛いこと、苦しいことを受け入れ、それを表現として昇華できるようになった。単純な見た目としても鮮烈なほどに麗しく、無駄なく洗練された動作を繰り出す姿態に魅了される。1つひとつの言葉からは「品」を感じ、近い距離感で友人のように言葉を紡ぐこともあれば、私たちを上客としてもてなすような振る舞いさえできてしまう。そんな彼女は完璧な女性になった、と感心し、幾度も拍手を送った。

 それで満足だったのだけれど、1つの企画が私の心を揺さぶり、その揺さぶりは電車を乗り継いで家に帰ってくるまで、いや家に帰りこうして文章を捏ね繰り回している間もずっと続いている。

 生誕祭の企画として、彼女の歌の師が舞台上に招かれた。普段の練習の様子を見てもらいつつ、私たちもその練習に参加するという楽しい企画であった。歌の師からは、Rの担当色でもある「青」の薔薇が一輪送られた。「青い薔薇の花言葉は奇跡なのよ」と申し添えられた。Rと歌の師は、誕生日が隣同士であり同じ蟹座らしい。蟹座同士はお互いが相手のことを深く思いやれるいい関係を築くことができる、という話も紹介された。そんな師からは「皆さん、さっきこの子の印象について聞いたら色々答えてくれたわね。カッコイイとか、色々。そうカッコイイってのも間違ってない。でも、この子は本当に自分を捨てて人のことばかり考える優しい子なのよ」と愛のある言葉もあった。ここまでは1つ感動である。

「この子の歌、どう思う?」とさらに問いかけがある。私たちは「サイコー!」や「ステキー!」と叫んだ。でも、師に言わせれば「まだまだ」らしい。

「あなた、ともすれば気持ちのことだって頭でばっかり考え過ぎてしまう。でも、これからは肌を通して知ることも大事なのよ」

 この言葉が私を揺さぶり、色々なことを思い出させ、色々なことを私に考えさせた。平坦な言葉を使えば「恋愛してみなさい」ということでもあるけれど、偶像としてのRはもちろん恋愛なんてできない。仮にできたとしてもそれを公にはできない。Rに恋愛をしないように訴えたいわけではないにせよ、偶像における恋愛はなかなかどうして素直には受け入れがたいことがある。とは言え、それはそれとして、だ。

 Rは「はーい」と、それこそこの劇場にいるファンを思いつつ、師に対しても誠実に対応したと思う。なので、これはこれで何も問題はない。問題があるとすれば、私自身のことである。

 ここから先はしばらく私の話が続く。

 私は何につけてもじっくり考えなければ答えが出せないタイプである。即興的なやり取りも嫌いではないが、それはあくまで喜劇においてであり、深刻な悲劇についてゆっくりと時間をかけて検討し、自分なりの答えを見つけるようなことが好きである。こんな性分であるから、まぁ、異性からは基本的に相手にされない。もちろん社会からも大抵相手にされない。私がじっくり考えて90点の成果を出したとしても、数分の検討の末に85点を叩き出す奴らがこの世界ではのし上がっていく。

 そういう現実を目の当たりにして、段々と私は世界というものが嫌いになっていった。ちょっと考えればわかる誤りは膨大に存在し、そしてそれらを内包しながら世界はぐるぐると回り続けている。そして、それら誤りはいずれ先を尖らせ、私のような要領の悪い人間を突き刺してくる。

 だから私は人付き合いというのを放棄した。生きている誰かに教わらなくとも、本を開けば過去の素晴らしい人たちの素晴らしい考えを学ぶことができる。全てを本から学ぶわけではない。もちろん自分でも考えたりする。自分を被検体として扱い、自分がどんな刺激にどんな反応をするのかということも調べてみる。本と自然と自分があれば、大抵のことはわかる。しっかり感じ、しっかり考える。それが私が満足いく生き方であった。他人は関係ない。

「独りじゃないよ、とは言わない。たとえ独りきりでも、幸せになれるための何かは必ずあるはず。それを見つけて欲しい」

 今日の挨拶でRはそう言った。私はそれに強く共感した。私もそういう風に生きて来た。誰にも助けてもらわなかったとは言わない。誰にも迷惑をかけてこなかったとも言わない。でも、究極的には私は1人であり、誰よりも私が私自身を何とか立て直し、擦り剝いた膝に絆創膏を貼り、どうにかこうにかここまで歩いてきた。私のその考えは揺らがない。もちろん、Rの考えも揺らがないはずだ。

 けれど、歌の師は「肌を通して知れ」と訓示を与えた。その瞬間、Rを見る私の視線の中に何かが加わった。

 また私の話になるけれど、私の周りではこの半年くらいで実に色々なことがあった。これまで他者というのは、私が扱うべき課題であり、主題ではなかった。しかし、とあるきっかけで私は特定の人物と深く関わることになった。そして、その中でまさに「肌を通して知る」ことが沢山あった。理路整然と区画整理を続けて来た自分の内面は、いとも簡単に不調を来し、見たくなかった内面が外面にまで引き摺りだされたりした。この時になって、ずっと好んで観て来た「旅立ち」という映画を実感できた気がする。映画の中で主人公は恩師から「君は大聖堂について問われれば、その成り立ちや来歴を語ることができる。街の図書館で読んだ情報を諳んじることができる。しかし、君にあの大聖堂に足を踏み入れた瞬間の匂いや湿度の変化、そういうものは語れない」、「君は自分の完璧じゃないところを見るのが怖いんだろう」とそういう言葉を投げかけられる。私にもそれらの言葉が突き刺さる。私も何かを読んで、そして自ら頭の中で考え、色々なことを知った気になっていた。けれど、実際には触れ合ってみてしかわからないこともあるのだと思う。

 Rがどのような私生活を送っているか知らない。しかし、彼女の「品」はきっと彼女の孤独の中で研ぎ澄まされた深い思慮から生まれてきているものなんじゃないか。自分と他人は違う人間。だからよく観察して、相手に敬意を持って接する。そういう単純な規律の中には、どこか他人を諦めているところがあるんじゃないか。もちろん他人に対して愛情がないわけではない。けれど、この自分が抱える深く、鋭利でどうしもようない負の感情みたいなものは他人からはなかなか相手にされない。そしてその負の感情を手当たり次第にばら撒くのも、またそれはそれで「品がない」。

 どれもこれも私の空想でしかないけれど、私がRに惹かれる理由はもしかしたら、彼女の中に自分と類似したものを感じているからではないか。いや、彼女の中に同類的な要素が実際に在るのかは知らないが、少なくとも私はRに対して自分の孤独な心というのを投影できる。自分のどろどろとした負の感情みたいなものでも、Rのように崇高な人間であれば、やはりそのどろどろも崇高なものとして表出するのではないか。それこそが優れた芸術の在り方なのではないか。ついついそういうことを考えてしまう。

 けれど、私が何だかんだと人生を進めるうちに、「肌を通してしか得られない何か」を学んだように、いずれRも歳を重ね、そういうことを知っていく。偶像としてそれが許される、許されないという話とは関係なく。もちろん既に知っているという可能性も忘れていないけれど、それはそれとして。

 逆説的に言えば、あれだけ完全な表現者に見えたRでも、実情としてはまだ21歳の若者であり、色々なことを悟ってはいるけれど、かつての私のように頭でっかちの理想論者でしかないという見方もできるかもしれない。そう考えると、Rのことがより一層愛おしく思えた。彼女は彼女なりの世界の中で何とか自分というものを打ち立てようともがいている。好きな小説の中でそんな感じの一節があった。Rもまたどうにかこうにかして、自分というものを律し、誠実で「品のある」自分でいようとしているのだろう。けれど、それでもまだ知らないことも沢山ある。それが「若い」ということだ。

 

 Rの歌の師が去り際に言った「この子はいい子なんで。これからも優しく見守り続けてあげてください」という言葉が忘れられない。言われなくたって私たちはRの味方であり続ける。けれど、改めて思う。本当に私たちはRを見守っていかなければならない。どれだけ格好良く見えようと、豪胆に見えようと、繊細な感性と他者を思いやる心を持っていようと、実態はか細い「若者」である。そのことを再認識し、Rをこれからも見守っていこうと思う。後ろ姿が遠ざかっていくその日まで。

短冊(松永里愛さんへ)

 このところ眠たい日々を過ごしている。「眠たい」というのは「退屈だ」という意味ではなく、言葉そのままに「睡眠不足」である。「寝不足は寝るしかない」とかつての偉人も言っていたけれど、寝たとてその眠りは低質/短小の錆びたティースプーンみたいな眠りだ。危なっかしく角砂糖を一つ掬い上げるだけで終わってしまう。

 そんな日々に取り立てて苛立ちや悲しさというのを感じているわけではない。ただ一昔前の僕であれば、ハロプロの血沸き肉躍る歌やら踊りやらに胸を高鳴らせ、そこからどうにかこうにか生きていくための希望みたいなものを引き摺り出していたはずだった。ワタヤノボルが女性の中から何か良くない存在を引き摺り出すように、僕もまた彼女らから何かよくわからない、けれどワタヤノボルが引き摺りだしたものとは真反対の何かキラキラしたものを引き摺り出していた。しかし、このところの愚かしい僕と言えば、「ぐっすり眠りたい」という切なる願いだけを頭に放牧して、面白いのかつまらないのかも判別つかぬYouTube動画を垂れ流すばかり。

 人生を変えて欲しい訳じゃない。あの頃に戻りたいわけじゃない。ただ、とても眠たくて何も区別のできない、ラクダ色の砂漠の砂の中で、僕は松永里愛さんのバーイベにはちゃんと申し込んでいた。果たしてこれまでの人生でどれくらい過去の自分を呪って来たかは数知れず、というところだけれど、今回ばかりは過去の僕を祝福しよう。ジャーマンスープレックスみたいなフォームで勢いよく投げ捨てられたブーケがたまたま座り込んだ僕の手の中に落ちて来た。

 そしてあと90分、ポンポさんが狂喜乱舞する時間を経た先で、7月7日がやって来る。織姫と彦星、もといベガとアルタイルはどれくらい離れているかというと、その距離約14.4光年。本当なら物理的限界値であるウサイン・ボルトも霞むくらいの光の速度で走っても14年以上かかる距離にいるというのに、彼らは年1で会えている。それってファンタジー。素敵やん。僕と里愛ちゃんとの距離と言えば、たぶん14.4光年じゃ効かない。デネブは2人よりも何千光年と離れている。「あれはデネブ・アルタイル・ベガ」「夏の大三角」って歌われても、デネブだけは実は仲間外れ。でも、同じくらい明るく見えるのは、デネブがとっても明るいお星さまだからなんだって。僕はデネブほど輝いてはいないけれど、でも、里愛ちゃんとはきっと何千光年も離れている。

 でも、こうして年に1度の逢瀬。その謁見の機を設けてくれているわけだ。有難くて、ざらざらとした出来立てのコンクリートに額を擦り付けてしまう。何度も何度も額を擦り付ける。血色の悪い大根のように、僕もそのまま削り消えて行ってしまいたい。そうしたらこの不眠の苦しみから逃れられるだろうか。けれど、消えて行ってしまうその直前……僅かな時間でも良い。無邪気な小学生がプラスチック製の下敷きで自分の頭を擦るようなスピードで僕も額をアスファルトに擦り付け、最後に小さな灯火を。マッチ売りの少女が見た最後の走馬灯を見ることができるのなら、僕は里愛ちゃんの夢を見よう。

 彼女の何にそこまで惚れたのだろうか。僕が彼女を見つけたのは代々木第一体育館。そこで里愛ちゃんは新人にもかかわらず「プラトニックプラネット」を堂々と歌っていて、その豪胆たる振る舞いに射抜かれた。奇しくも、2005年7月7日に生まれた里愛ちゃんはこのとき2019年12月4日に約14.4歳であり、女神の産声は光の速さで宇宙を駆け抜け、ようやく織姫と彦星を繋いだわけである。2人の再会、言わば再結合によるエレクトロルミネッセンスが僕の網膜を撃ち抜いた。眩い光が天を大地を照らし、この世界から夜が消えたという。これ以上ないってくらい、目は冴えている。白昼夢が何年も続いた。

 たぶんその白昼夢はまだ終わっていない。汚いものをただ受け容れるだけのルンバみたいな生活の中でさえ、僕の人生がそれなりに美しいと思えるのは、素敵なものに囲まれているから。ハウルはまじないをかけた宝飾類に囲まれながら眠っている。僕は魔法使いでないから、自分で魔法をかけることはできない。けれど、里愛ちゃんが与えてくれたいくつものキラキラとした魔法付きの飾り物に囲まれて、白昼夢を見続ける。大切なのは回転をやめないことだ。観覧車は止まらない。遊園地は24時間営業、365日開園している。

 里愛ちゃんの歌は独特の憂いを帯びている。人間っていうのが、何も考えることなく、何も傷つくことなく、ただメロディとリズムに身を委ねるだけの存在であったなら、里愛ちゃんはもっとずっと遠くのところまで飛んでいけた。アルタイルなんてケチなことは言わず、デネブまでひとっ飛びだ。いや、どうだろう。里愛ちゃんの歌声はもしかしたら才気に満ちたものではないかもしれない。歌姫なんて「一山いくら」ってくらいいくらでもいるけれど、そんな彼女らと比べたって、里愛ちゃんの声帯は天下一品って感じでもない。凡人ではないけれど、特注品ってほどでもないかもしれない。

 長い変声期に苦しんできたからなのか。或いは、自然や芸術に多く触れ、その感性を磨いてきたからか。あのとき見た、ほんの一歩でどこまでも飛んでいけそうな力強さは今でも失われていないのに、その繊細さ故に集めてしまった数多くの呪は彼女の身に重くのしかかっている。魔法を扱う才に恵まれ、しかしそれ故に戦争の道具にされ、自由を奪われたハウル。それでもその不自由から抜け出そうと、自由の仮面を顔に貼り付けて軽やかに振舞うハウル。けれど、夜に怯え、魔女に怯え、まじないの宝石箱の中で恐怖と眠るハウル。里愛ちゃんを見ていると、そういう制御できない力や感性の中で溺れる姿を想起する。何本もの鎖に繋がれ、空に還ることができない。

 けれど、エア・ギアにて主人公のカラスが「地球ごと飛んでやらぁ」みたいなことを言ったように、里愛ちゃんならこの水の惑星を鎖で繋いだまま、夏の大三角まで飛んで行ってくれそうな気がする。白昼夢だもの。それくらいは好き勝手に思い描いたっていい。

 里愛ちゃんの素敵なところ。それは夢を見させてくれることだ。目に見えないはずの音楽が、里愛ちゃんの身振り手振りを通して、僕たちに見えてくる。嬉しいとか悲しいとか、平板な喜怒哀楽の四象限に収まらない、人間の根源的な衝動やら渇望、あるいはそれらが転じて垣間見える希望であるだとか。「心の籠った」なんてちゃちなものとは一線を画す、何か不思議な気持ちを湧きあがらせてくれる歌声。14.4歳だった子供の頃は、太陽神ニカのように自由で、何でも可能にしてしまいそうなギャグマンガみたいな可能性を見せてくれた。けれど、今はそれを奥に秘めたまま、じっくりと暗い洞窟で熟成させた里愛ちゃんの一挙手一投足は、どこまでも繊細かつ煌びやかで目が潰れてしまいそうである。

 僕は相変わらず眠たいままで、こうして文章を連ねている今もまさに酷い頭痛に襲われている。冷蔵庫からハイネケンの瓶を取り出して、栓抜きを噛ませる。緑色の図体、蓋だって裏側まで緑だ。ハイネケンの特徴的な緑色の瓶は透明度が高く、紫外線を通しやすく、故に陽の光がホップと化学反応を起こし、独特な青臭さ=日光臭を香らせる。このわかりやすい、不思議な味わいが不眠によく馴染む。

 酒語りおぢは嫌われるのが世の常と言うけれど、何につけても僕は「語る」ということが好きだ。今だってもう何千文字と費やして、一回りも年下の女の子について語っている。酒語りおぢの方がいくらかマシと思えるほどに、僕の筆致は新聞を切り貼りした脅迫文めいている。でもいつしか人間は紙の新聞を取らなくなり、コラージュ状の脅迫文はこの世界から姿を消した。2012年、ロンサム・ジョージが死に、ピンタゾウガメは絶滅した。前年、テレビのアナログ放送が終了しているわけだから、僕は彼の死を地デジ対応のテレビで見ていたのだろう。ジョージが死に、そして僕たちは震災の痛みから立ち上がろうとしていた。

 僕たちの国は震災から復興しようともがき苦しんでいたけれど、僕は故郷を離れ、関東の片田舎で大学生活を送り、国とはたぶん違った方向性で苦しんでいた。コギト・エルゴ・スムだとかレゾンデートルだとか、ノブレス・オブリージュだとか、なんかそんなことを偉そうに考え、悩み、自分がどのように生きていくべきなのかをずっと模索していた。そんな中で、もともとハロプロ村には籍を置いていたので、全てを体現する宮本佳林大先生に導かれて、Juice=Juiceのファンになった。

 しかし、まぁ、現役でまだ活躍している大先生に対していくらかの無礼を働きつつも、2019年には松永里愛さんに出会い、僕はまた考えを新たにした。宮本佳林は「使命」の人だったが、松永里愛は「ゴースト」の人だ。繰り返し観てきた「攻殻機動隊」の中で、私達人間は「ゴースト」を追い求めた。体を機械化し、脳をコンピュータに置き換え、それでも「私が私である」という理由を探し求めた。里愛ちゃんは固く、揺らぎない「ゴースト」を持っていた。あまりにも克明にそれは描き出され、まるで日本画を学んだゴッホが被写体を縁取りしたように、ぐにゃぐにゃと曲がったり、歪んだりしながらも、「これなんだ」という力強さを里愛ちゃんからは感じた。

 僕というのはどうしようもない浮気性で、ハロプロ村に居ながらも、蘭学を学んだり「びいどろ」を手に取ったり、そういう感じで生きて来たように思う。決して、陽の当たる道ではなかったにせよ、そこにはいつも心を躍らせるものがいくつもあったし、寄り道上等とスタンプラリーを楽しんだ。だから、ハロプロや松永里愛ちゃんというものをちゃんとしっかりと追って来たわけではない。知らないこともたくさんあるし、アイドルが偶像というのなら、その偶像をさらに被写体にして、自分なりの解釈を含めて描いたりもしてきた。僕の心の中にいる里愛ちゃんは紛い物であり、本来の里愛ちゃんからは程遠いものになっているかもしれない。

 コピーにコピーを重ね、ガビガビのネットミームみたいになってしまった僕の中の里愛ちゃんはどれくらい正しい姿をしているのだろう。こんなガビガビでも「偶像は偶像だからね」と許してくれるだろうか。

 さっき僕は「陽の当たる道ではなかったにせよ」みたいなことを書いた。このとき、ふと東野圭吾の「白夜行」が脳裏を掠めた。

僕の人生は、白夜の中を歩いているようなものだった。太陽なんてなかった。でも、暗くはなかった。

 こんな悲劇的ではないにせよ、でも、おそらく僕らの人生なんてそんなもんなんじゃないだろうか。たぶんすべてに絶望してしまうには、まだ明る過ぎて。でも、決して太陽が見える、ってんでもなくて。そういう風にして生きていく。野田洋次郎も「嫌いになるにはもう少しで。好きになるには程遠くて。うまいことできた世界だ」と歌っていたっけ。

 そういう人生の中で、何かキラキラした白昼夢でも観れたなら「めっけもん」ではないだろうか。僕は「めっけもん」という言葉の意味を知らないけれど。

 

***時計の針がてっぺんを超える。ダンスフロアに転がるガラスのシューズ***

 

 眠過ぎて頭が痛くなってくる。でも、たぶん電気を消して、目を瞑ってみたとて、すぐには眠れないだろう。なんだったら既に電気は消している。むしろ、ブルーライト、消して。って感じだろうけれど、朦朧とした意識の中ではこのブルーライトが横浜の街の灯りのようにも見える。歯を磨いて、睡眠導入剤を所定量の倍、胃に放り込もう。さらに倍、ドン。

 てなわけで、松永里愛さん。お誕生日おめでとうございます。あなたの21歳が素晴らしい1年になりますように。僕もさっさと寝て、今日、1年に1度の逢瀬が叶う嬉しさを枕の下に忍ばせます。ラブレター・フロム・彼方(何千光年と離れた遠い場所からあなたを応援しています)。

絢爛たるスターの覇気~Juice=Juice Concert 2026 UP TO 11 MORE! MORE!~

水色でも黄緑色でも安心、だって桜木町だもん。

でお馴染みの桜木町は、ぴあアリーナMMにてJuice=Juiceに拝謁して参りました。

 

 事前情報なし、下調べなし、120分1本勝負でございます。平日ど真ん中、すいすい水曜日の浜っ子たちは初夏の日長に夕暮れに。街へ飛び出し、どこか少しだけ浮足立った様子。それもこれも我らが美少女戦隊Juice=Juice御一行による諸国漫遊の満願の地としてこの町をお選びいただいたわけですからね。そりゃあ町を上げて祝わねば。祭囃子に、神輿や山車や、踊れや歌え、そんな感じでさあね。

 

 桜木町駅からの道すがら、草臥れたサラリーマンを掻き分けると次第にJuice=Juiceのグッズを身に付けた同志たちが目につくようになってきます。いやはや、それにしても女性ヲタクが多いの、なんのって。「あれま、大層な別嬪さんでございますね。これからステージでもあがらっしゃいますのん?(not 京言葉, but 本心)」というくらい見目麗しい御仁たちと擦れ違います。いや、ヲタク特有の早足で追い越させていただきました。御無礼、失礼いたしやす。

 グッズを購入する資金もなければ、置いておく猫の額もないもので、パチンコ開店の如き最短経路でわき目も振らずに「もぎり」へと突き進ませていただきます。これは神の恩寵、荷物を抱える老婦を負ぶって結果会社に遅刻し続ける私の日頃の善行の成果ですね、アリーナ席はA7ブロックを与えていただき、しかも前方数列というところ。右端のブロックではありますが、臨場感ばっちりの素晴らしい席です。

 上着を脱ぎ、箪笥に仕舞い込んだ数少ないグッズであるTRIANGROOOVE2の青色Tシャツで臨戦態勢。広告やら何やらが終わり、前座もといオープニングアクトのロージークロニクルによる「ミザリー」が始まります。この曲、大好き。バカリズムのネタ「女子と女子」ばりに「この曲よくな~い?」とウキウキしてしまいます。ロージーはこの曲で一皮剥けた感じがありますよね。カッコイイし、難易度も高いので、明らかに表現力を含むパフォーマンス力が底上げされた感じがあります。が、何よりも大きいのが、あのちっこいメンバーたちがゴシック系のコンセプトに非常に合っているという発見ができたこと。

 

 ロージー御一行が下がりまして、警視庁からの有難い愛の籠ったメッセージが虚空の彼方へと飛び去り、ヲタクたちからは11種類の雄叫び。頃良き時季が訪れ、我々は「Juice!」と気持ちを1つにしていきます。客電落ちまして、ヲタクの歓声。メンバー紹介VTRでは、「1番、リーダー、段原瑠々」とウグイス嬢が背番号付きの紹介をしてくれます。ステージ頭上の渦巻き型のセットが明滅し、ボルテージは最高潮。

 ほぼ最前の僕の震える眼差しは闇を捉えたまま、気づけば背後の中央ステージにメンバーが降臨なさっている。例の春キャベツ柄の衣装はキュートかつエレガント。後頭部、背中、膝の裏と僕たち振り向き勢の視線は彼女たちの後ろ姿を捉え、「後ろ姿でこんなに神々しいんだとしたら、正面から見たら目が潰れるのでは!?」と思わず目を細めてしまうほど。どうか、どうか、いきなり振り向いてくれるな。木々の隙間から初めてシシガミに見つめられたアシタカのように右腕の呪が暴れ出しちまう。

 今大会の第一声は「ブラバレ」にて工藤由愛選手。前回大会でも「盛れミ」にて工藤由愛選手の第一声から始まったわけですが、今大会はかなりしっとり目の開会宣言となりました。続く、松永里愛選手の演歌を彷彿とさせる響くはヴォイス。りあてゃ教幹部代理補佐を務める私めにとっては大変誉れとなる、ゆめりあいスタートに脊髄から震え上がります。

 ズダッダッダッダといきなりテクニカルな16分の裏拍攻めに、僕のペンラも前後小刻みにキツツキダンス。呆気に取られているうちに「ブラバレ」が嗚呼、最高にドラマティックに駆け抜けていきます。何と言っても14歳とは思えない仁愛氏の堂々とした立ち居振る舞い、またアメコミかマリリンモンローか的な「アウっ」も聞かせていただき、不肖「駅から徒歩15分おぢ」の僕としても無事悩殺されないわけにはいきませんでした。

 続けて「ひとそれ」はもはや見過ぎているのか何なのか。これは前世の記憶か何なのか。目の前で繰り広げられる何やかやが幾重にも重ねられたモーショントレイルかのように、「あれ、いま佳林ちゃんが…」なんてことにもなりながら、しかしやはり「オアシス」を歌うその御姿は、金朋ではなくてれいれいで。旧ハロドリ(新しい番組名が未だに覚えられないTwitter世代)で見たばかりだから。バカだからぁ(CV: 和田まんじゅう)。もう普通に泣いてまうって。青い炎のJuice=Juiceも赤い炎のJuice=Juiceも常に僕たちは大好きだから。バカだからぁ(CV: 和田まんじゅう)。

 2/3πほどの円における「弧」に登り、今にも落ちるんじゃないかっていう向井秀徳もびっくりの「きわっきわ」で「チョイチャン」がスタート。メンバーカラーの演出と横並びの演出は健在で、「これだからJuice=Juiceはおっかねぇんだ。くわばらくわばら」という勢いを見せてくれました。れいれいのボイパもなんかいつもと違った記憶があるようなないような、これもまた前世の記憶なのか、来世からのテレパシーか。楽曲は終盤に差し掛かり、階下に御降臨なすった女神たち。僕は恐れ多くも双眼鏡を覗き込み、里愛ちゃんの背中を見つめる。肩越しに見える工藤由愛ちゃんの真っ直ぐな眼差し。タコの吸盤のような真ん丸なお目々はしっかりと里愛ちゃんを捉えています。小さく「こくり」と頷き、由愛ちゃんは原材料1品目の元気玉をぴあアリーナMMに放ちます。いやーん、おぢ、ぎゃん泣き。

 MCの内容は忘却の空。デケレベレベレルトナサラナシテ、とか言ってましたっけ。

 メンバー紹介するから歌って、的な煽りを受け「ガルビー」を予感したヲタクどもは小さく咳払い。いよいよ出番か。ったく、待たせてくれたもんだぜ。てな感じで、「かなーえーよーよー」と歌い上げました。

 打って変わって「好きって言ってよ」。僕の大好きな曲。この洒落たシャッフルビートを乗りこなし、Bメロは8ビートに乗り換え、またサビでシャッフルだぜ。落ちサビからのソロパート回しはいつものように素晴らしい完成度。そして、「四の五の」へと繋がっていくのですが、なんですか。この洒落洒落バトンタッチは。ドーブル・ムラっけバトンくらい凶悪じゃあないですか。特にエバちゃんのフェイクが響く、響く。なんか当初って、「うわ、みっぷるのフェイクやばっ!」→「エバちゃんもフェイクやるんだ!小型犬みたいでかわゆ!」→「うっわ……さすがにれいるるのフェイクはやり過ぎだわ。なんならちょっと引いたもん」という流れじゃなかったですか? それがもう今回はエバちゃんで高まり過ぎて、れいるるのフェイクが「ほーん、いいじゃん」くらいに感じられてしまいましたもん。f(t+α)-f(t)がちょっと小さくて、「ほーん」ってなっちゃったんだもん。ホーンテッドマンション。

 洒落バトンが決まった後に、一転、明朗晴天バグパイクこと「ネバサレ」。黒髪とぅるっとぅるっ姉さん(羽化済)こと、いちか姐さんの魂のフェイクも見ごたえバッチリでございました。

 ここからはユニットコーナー。「五月雨」、「ボダラ」ときちんと盛り上がります。1番を2人で歌い、2番をもう2人で歌い、ラストは4人で歌うという編成です。ということは11人しかいないから、3ユニット目は段るる大先生の再登板か、12人目のJuice=Juiceである僕たちの出番かなと思っていたのですが、当然答え合わせの結果は前者。とは言え、ここで僕が特筆したいのは3ユニット目の「ノクチルカ」の完成度。

 まず以って、いちか氏・仁愛氏の2人による1番が素晴らしい出来でした。まじで「音楽わかってるぅ!」って感じのグルービーな感じ。フィーリングいいね、って感じ。2人の高音成分多めで、余裕すら感じる豊かなビート。もうこの時点で100点に加えてスーも差し上げたいくらいの出来。しかし、やはり圧巻は段るる大先生と僕たち私たちのりあてゃ姐さん。磯野家は長男のカツオばりに「姐さん、、、」と叫びました。いちにいデュオ(「1・2デュオ」の提唱者に立候補します)の高音タッグとは打って変わって、るーりあデュオはリンボーダンス(北極)くらい低い。が、ただ低いのとは違う。こちらもこちらで「音楽が分かり過ぎている」感。無量空処くらいの脳負荷を感じる高度かつ濃密な音楽と音楽の語り合い。東大全共闘と三島由紀夫の討論会に来たのかな、ここは五月祭かな、というレベルのバチバチに圧倒されました。

 それから全員揃っての「禁断少女」。みなさん、僕がなんて言うかなんてもうわかっていると思いますが、それでも言わせてください。「里愛ちゃん、声、かわいすぎ」。港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ~♪ うん、それから落ちサビのみっぷる→エバちゃんのバトンも素晴らしかったね。エバちゃん、ほんといいわぁ。毎回毎回、見るたびに上手くなって、安定感増して。ほんとーに、真面目よね。ちゃんと鍛錬の後が見える。素敵すぎて、おぢ本日2度目のぎゃん泣き。

 新曲の「クラクラ☆クライマックス」も良かったですね。いくつもフレーズがあったけれど、どれもキャッチーなのでとても覚えやすく、振り付けもわかりやすくて、どう乗ったらいいのかがすぐに理解できました。こういう可愛い系の曲もいいわね。「四の五の」「盛れミ」「甘えんな」「ブラバレ」と強い感じの新曲が続いていましたからね。

 さくらち煽りMCからの「フィエスタ」。思えば2024年年末。YouTubeに動画が公開されて私たちは「なんて素敵な年越しなんだ!」と狂喜乱舞しました。アップフロントありがとう!ちょっと遅めのクリスマスプレゼントか、ちょっと早めのお年玉か知らんけど、僕たちギザうれしす!って感じでした。あの頃は「盛れミ」旋風が巻き起こり、ぴあアリーナMM2Daysが開催されるなんて夢にも思っていなかった。でも、確かにあの「フィエスタ」が僕たちハロヲタに突き刺さったんです。あの超絶怒涛のヲタコール、情熱・灼熱の新生Juice=Juice、段原新体制。しっかりとあの延長線上に今、僕たちは立っています。そんなことを噛み締めながら、今日も今日とてヲタクは声を重ね、「フィエスタ!フィエスタ!」と拳を振り上げます。これが僕らのアンセム、「Seven Nation Army」なんだ!

 もはや記憶を繋ぎ止める僕の海馬は駄馬となってしまった。人参ぶら下げられ、涎を垂らしながら「はぁ、はぁ」息も絶え絶え、パカラパカラ、ダート2000mの終盤にて僕らは最後まで逃げ切れるのか。そんな弱音には「ドーン!」と喪黒福造に扮してなどいない、りさち、みっぷる、りあてゃに「甘えんな」と指銃(しがん)を打ち込まれます。続く「ナイモノラブ」はもはや「あーたん」コールの記憶しかないくらい。いや、「あーたん」コール以外にも、とにかくヲタク達の超絶怒涛のコール、コール、コール。手を変え品を変え、変幻自在・多種多様なコールが散りばめられた本楽曲はもはや技のデパートことニドキング。

「プラプラ」、「プラブラ」はまあ言うことなしで、どっちが「プラ」でどっちが「ブラ」なのかもわからないほどに、僕たち私たちファミリーはてんてこ舞い。でも、「もはやどっちでもいいよね!ニコッ」「楽しんだもん勝ちじゃん!ニコッ」って感じになりながら、「STAGE」ではれいれいの新装開店したボイパに口あんぐりの、トイ・ストーリー・マニア入場口=ウッディ状態。

 と思っていたら、ここに来て遂に遂にの「盛れミ」。もうわけはわからんけど、ここを逃すわけにはいかない。桶狭間ばりの勢いで僕たちは「死ぬ気スイッチ」を連打して、大合唱を披露しました。なのでここでもやはり記憶飛びの全国中年記録保持者である僕らしい跳躍を見せることができたと思います。

 

 これにて一通りステージが終わりましてアンコールタイム。体は疲れているのに、目はバッキバキ。ああ、どうか真琳ちゃん。「アドレナリン・ダメ(子守歌Ver.)」を僕に歌って聞かせておくれ。グリーン・ダカラを2, 3口。確かなオアシスが口の中に広がります。

「MoL」を聴きながら、なるほどなぁ、オリメン時代はみんなちょっと鬱屈した感じがあったから、そういうメンバーが「MoL」を歌うことで光差した感があったんだな、というようなことを思いました。言い方が良いのか悪いのかわかりませんが、今のメンバーが歌うと最早「お楽しみターイム!みんなー、ビンゴ大会でもやっちゃう?」的な感じにさえ聴こえたように思います。でも、やっぱりこの曲は幸せでいいわね。

「未来へ」でタオルを回し、今日も平和に閉会式宣言か…いや、待てよ。まださくらちの予言花火を見ていないぞ。そして、今回は「盛れ!」「盛れ!」公演だよな。これはきっと最後にもう一回「盛れ!」が……………

由愛ちゃん:盛れ・ミ・アモーレーーーーーー!!!!!!!

炎:ぼわーーーー!!!!!!

ヲタク:ぅぉおぼぼばばばるぅええぇぇ!!!!

という感じでラストにもう1回、「盛れミ」を頂戴し、景気よくライブが終了いたしました。前回の武道館は、この2回目の「盛れミ」にすべての魂を置いてくる感じがして、それはそれで最高でした。でも、今回公演の2回目の「盛れミ」は何と言うか、後夜祭感がハンパなく。結局、文化祭本番よりも後夜祭の方が楽しいじゃんね。オールスター感謝祭も後夜祭の方が面白いし。だって、松居一代さんが年間で3360回もブログを更新しているなんて知らなかったし。

 

 まぁ、冗談はさておき。今回もまた素晴らしいライブでした。Juice=Juiceの単独ライブは前回のQueen of Heartsの武道館公演ぶりでしたね。色々と私生活がバタついており、なかなかハロプロ関連のライブにはいけないのですが、今回はどうにかこうにか予定を調整し、運良くチケットも当選し、観に行くことができました。本当は「応援しに行く」という言葉を使ってみたいところですが、私には観る以外何もできないので。

 この間のひなフェスでも思ったことですが、今のJuice=Juiceは本当にスターとしての覇気が凄い。一流ミュージシャンのように自信に満ち溢れ、より多くの人たちに観られ、そして魅了しているという自信が滲み出ているように思います。そんな姿に、どこか「遠くに行ってしまったな」という感覚を覚えました。

 不思議なことにこれまでテレビやら何やらでJuice=Juiceが取り上げられ、「盛れミ」を披露しているのを見ても、「ああ、ようやくみんなJuiceの魅力に気付いたのね」「僕は前からその良さを知っていたし、特に僕の彼女たちを好きな気持ちには変化はないけどね」くらいに思っていました。が、実際に売れた(あるいは売れかけている)彼女たちを見ると、その立ち居振る舞いが以前のものとは全然違うように見えて、そこで初めて彼女たちの「ステップアップ」のようなものを心から実感できたように思います。神輿は担がれてようやく神輿になるのだな、と。

 私は今回ステージの下手側端の方の席だったのですが、仁愛ちゃんが特によく来てくれたように思います。14歳とは思えないような堂々としたパフォーマンスはもちろんですし、改めて手足・指先の長さが凄いなぁと小並感を心の内で呟きました。最後の「未来へ」で「終わってほしくないよー泣」と泣いていて先輩に慰められている姿はめちゃ子供で、でも数十秒後には走り回り、飛び回り、笑顔を振り撒いたり、という感じなのもまた子供で、本当に魅力的な子だなぁ、と思いました。

 みっぷるは白過ぎて最早透明、ビジョンが透けていましたし、きらきら初夏のシャイニーボイスにもしっかりとした芯が出来たようにも感じました。さくりんごは、ビジュ・スタイルがエグイ+ダンス凄いという持ち前の強みがありながらも、歌で違いを作る大事な役割も担うようになってきました。3flowerはいちかしの垢抜けもあってか、1番アイドルらしい世代になりましたし、努力の積み重ねでエースへと登り詰めたエバちゃん、シルエットと見せ方で輝くりさち、圧倒的な音楽センスと感性の豊かさで彩るいちかし、というそれぞれの良さも見せてくれています。

 ゆめりあいはもうシンプルにプリキュア。全ての公演+挨拶回りが終わり、最後に期ごとにポーズを決めるところで抱き合うと、ここだけ女性の黄色い悲鳴が上がっていました。戦力としての重要度合いで言ってもゆめりあいはかなりのものですけれど、ここまでヒーローのように我々を救ってくれるペアは、ハロプロの中でもそうなかったんじゃないかと思います。まーどぅーとかも人気でしたけど、あれとはまたちょっと違うというか。なんか不思議な光り輝き方をしているなぁ、と。

 れいるるは、本当にここまでJuice=Juiceを連れてきてくれてありがとう、という感謝しかありません。るるちゃんは先日の旧ハロドリで、ゆかにゃからの手紙で号泣していましたし、本当に色々な葛藤を抱えながら、それでも持ち前の馬力でここまで引っ張って来てくれました。れいれいも同じように圧倒的なスキルとビジュアルがありますが、そんなれいれいでさえ、「今回のツアーでは自分に失望してしまった」的なことを言いながら涙を流していましたので、そのどこまでも謙虚な姿勢に痺れてしまいました。

 

 これからJuice=Juiceはどこまで大きな夢を叶えてくれるのでしょう。この風船がどこまで大きく膨らんでいくのか。どこまで高いところに僕たちを連れて行ってくれるのか。今はとにかく高く、高くへ。というその好奇心を大切に。行けるところまでみんなで行こう!そういう気持ちです。しかし、カールじいさんじゃないですけれど、メンバーにしろヲタクにしろ、はたまたグループそのものであっても、いつか「私の冒険はここで終わり」という瞬間が来るでしょう。けれど、何かが終わる度に「さあ、あなたの新しい冒険を始めて!」とまた次の何かへと想いは引き継がれていきます。それがハロプロというものでもあります。

 がんばって上を目指している今、こんなことを言って水を差すのは申し訳ないのですが、それでもいつか風船が割れ、「もうここまでか」という時が来たとしても、カールじいさん風に言えば、僕にとっては「いいんだ。家はただの物だからね」という気持ちでございます。かつて夢見たものがどこかで終末を迎えようとも、そのときになったらまたきっと新しい何かが見つかると思います。そのようにして、僕たちはハロプロを愛し続けて来ました。

 行けるところまでどこまでも行ってみよう。ここはまだ夢の途中。もっと大きく、高いところまで。今日の里愛ちゃんのMCでも「日本、いや世界に向かって」というような言葉がありました。その心意気は素直にカッコイイと思いますし、応援したいと思います。でも、もしどこかで「もうこれ以上は」となっても大丈夫。安心して。思えば、ハロプロというもの自体、娘。の黄金期からの色々な変遷があったわけですからね。僕たちはただ有名になっていくことだけを価値とはしていない。ヲタクに元気になってもらいたい、世界を平和にしたい、そういうような気持でアイドル活動をしてくれる貴女たちを僕たちはしっかりいつまでも愛し続ける。骨は拾うぜ。

 だからしっかり安心して。僕たちも頑張って神輿を担ぐ。プレッシャーに押しつぶされそうなときは、僕たちがいることを思い出して。絶対に裏切らないのが僕たち私たちヲタクの使命。背中は任せて、思いっきり飛べ。どこまでも遠くまで、どこまでも軽やかに。

 

 言いたいことがぐるぐるしたように思いますが、何となく今日のMCを通してメンバーから「頑張りたい」という前向きな気持ちの中にほんのちょっとだけ、やっぱりどうしても「怖いかも」というのがあるのかなと感じました。僕たちもどうしたって今の調子の良いJuice=Juiceに期待してしまう部分がある。背負わせてしまう部分がある。でも、背負わしてしまっているものを補うだけの心からの応援をしっかりと捧げていけたらなと思った次第でした。

 それではもう1時を回りましたので、これくらいで終わりにしたいと思います。今日は(日付跨いだけど)とっても最高なライブをありがとうございました!!!!!!!!!!!

平和の光明見たり~ハロプロ研修生実力診断テスト~

 ハロヲタを続けてもう10年以上になるわけですが、いつだって研修生のことはぼんやりとしか追えておらず、デビュー前夜くらいの期待がかかってようやく名前を覚えるくらいの体たらくでした。しかしながら、最近ハロヲタになってくれた友達が不思議なことに研修生から入った子なので、私もそれにつられて研修生をよく見るようになりました。故に、ここまで気持ちを入れて実診を観たのは初めてだったかもしれません。とは言え、私は数日遅れで配信視聴をし、友達は現地参戦だったので、私もまだまだではありますね。

「Twitter」もとい「X」なる文明の利器により、視聴前からベストパフォーマンス賞含め、ノミネートメンバーは何となく知っていました。その状態で配信視聴を始めたので多少バイアスもあるかもしれませんが、私も私なりに採点まがいのことをしながら観させていただきました。巷では「採点」のような行為に強く反発するリベラリストもどきの方々がいらっしゃいますが、そういう輩に限ってABC分析やらMBTI分析なんかをやりたがるであろうという偏見がありますので、とりあえず私は私なりに楽しむために「採点」をさせていただきました。ハロプロソートなんかも別に楽しいと思うんですよね。下位メンバーを晒すみたいなことはやめた方がいいと思いますけど、自分が好きなものに順番をつけてみるのくらい許容されてもいいのでは。こういうのを嫌う人間ほど、「仕事と私、どっちが大切なの?」とか聞いてきそうですし。ま、これも偏見ですけど。

 余計な話は脇に置いておいて、実診の感想を書いていきます。が、その前に僕の採点についてGPTに整理してもらいました。

 

点数(降順):98,96,95,94,93,92,90,90,88,88,86,86,85,84,82,81,80,78,78,76,74

平均86.4点、中央値86点、標準偏差6.95。点数は74〜98点に分布しており、高得点帯を中心にしつつ一定のばらつきが見られる。評価はやや高めだが、点差は比較的素直に付けられており、極端な点数集中は少ない傾向だった。

 

 上位から簡単に感想を書いていきます。

 まずは98点、石川華望ちゃん。これはもうパフォーマンスの途中から優勝を確信しました。もともと凄い子だとは思っていましたが、前回よりも断然地に足が着いたパフォーマンスになっており、ちゃんとした基礎の上に覇気まで纏って、「ハロプロのアイドル」として誰よりも中心を貫いていました。新メンバーにも上手い子、雰囲気のある子など色々いますが、「ハロメンとしてデビューさせるなら」で考えたときに、この子よりもしっくり来る子はいなかったと思います。特に近年のスキルフルであることが求められるハロプロ界においては、文句なしの一等賞でしょう。

 次に96点、鈴木もあちゃん。ダンス賞を取りましたが、そのダンスは言わずもがな、歌までもが去年とは比較にならないくらい伸びており、一番度肝を抜かれた子です。と言っても、例の研修生フリークの友達の情報では「もあちゃんがヤバイ」とのことだったので、先日のひなフェスでも注目していました。キレキレのダンスを踊るもあちゃんは確かに幕張メッセの大きな会場でも目を惹く存在であり、そんな事前の期待感があった中でさえ、なお今回の実診では一層の輝きを感じさせてくれました。

 続いて95点、岸田桃果ちゃん。広島アクターズスクール出身とのことで期待をしていましたし、先日の紹介動画ではギターの弾き語りをしていたり、パフォーマンスは間違いないだろうと踏んでいました。その足腰のしっかりとしたパフォーマンスは「さすが」の一言でしたが、あまりにも当たり前に出来すぎるので私の中では点が伸び切らなかった印象(それでも3位、95点ですからね。驚きです)。たぶんハロヲタが求めているのは、命を削っている感だったりするので、その辺りの殻の破り方、覇気の出し方みたいなのがわかってきて、よりハロプロの文脈に沿えるようになれば来年の実診は固いんじゃないでしょうか。

 94点、服部琉愛ちゃん。最後出番ということもあり、ちょっと下駄履かせてしまいましたかね。でも、本当にきらきらとしたパフォーマンスで、選曲「大きい瞳」というのも相まって、彼女の強みである純正アイドル感をいかんなく発揮できたんじゃないでしょうか。歌やダンスがスキルフルかと言われれば、もっと評価できる子もいたかもしれませんが、彼女の美しいアイドルシルエットのサイドステップに6期3人の面影を見た方もたくさんいるのではないでしょうか。

 93点、大野愛莉ちゃん。これも終盤選手なのでちょい下駄履かせてしまいました。が、大人っぽいふてぶてしさと、子供っぽい全力感が共存するという奇跡に脳味噌を撃ち抜かれました。研修生フリークの友達曰く、近所のおばちゃんと親戚の姪っ子が同居しているということですが、やはり愛莉ちゃんの不思議な魅力はこのアンビバレントな感じ。けれど、その大きな棍棒を躊躇いなく振り回せるその豪放磊落とも言える「大物感」「タレント性」はある意味では最もデビューに近い存在と言えるかも知れません。

 ほか、高得点はつけられなかったですが、ビビっと来た子たちについて。

 まずは樋口愛海ちゃん。相変わらずのバタバタ感ですが、橋本代表も仰っていたようにダークな感じからキュートな感じまで世界観の作り込みが非常に上手で類まれなるセンスを感じました。「癖になる」とはこのことで、今回の実診前後で1番自分の中での見え方が変わった子でした。パフォーマンスにおける説得力(シンブルに歌・ダンスのスキルはもちろん、キメるところでキメ切る力など)が出てくれば、いずれ佐藤優樹ちゃんやそれ以上のスーパースターになれる気もしますね。

 続いて、みんな大好き佐伯詩春ちゃん。ごめんなさい、点数はあり得ないほど低くつけてしまったんですが、でもそんなの関係ないよね。なっきーも「最小限のダンス」と評していたように、「こんな踊らなくていいんだ」という感じで、既成概念もぶち壊してくれた孤高のカリスマ。これまでの研修生動画では受け答えもふわふわしてるし、やる気あるんだかないんだかみたいな、終始「なんでこの子が?」みたいに思っていたわけですが、この子を採用したアップフロントはやっぱり凄い。OCHA NORMAをバックダンサーにパフォーマンスして欲しい部門第1位でした。

 んで、たぶん気づいた方はいないと思いますが、上述の点数について。実は21人しか点数をつけていないんですよね。理由はわざわざ言わなくてもわかると思うんですが、色々と思うことや考えることもあったし、シンプルに涙が溢れて画面が観られなかったということもあります。単なる大舞台に対する緊張感だけでそうなったわけではないと思います。周囲からの期待。周りと自分を比べてしまう焦り、不安。そういうのが手に取るようにわかりましたし、土壇場で頭が真っ白になってしまって何もできない……細かい砂が指の隙間から零れ落ちていくように時間が流れ過ぎていく恐怖感。観ているこちらも「うわ……やば……」と総毛立ちました。

 けれど、ただそれだけじゃないんですよね。やっぱり彼女がそこまで追い詰められたのは、強く強く「ハロプロでデビューしたい!」と願っていたからだと思います。だからこそ、私も最後の最後、オケが鳴り止むまで「がんばれ!」「がんばれ!」と涙を拭いながら拳を握り締めていました。

 タレント、アイドルというのは水物で「努力したから」とか「長く続けたから」とかそういうのでどうこうできるものではありません。デビューできるかどうかの瀬戸際で見せられた心揺さぶる2分弱のパフォーマンスも、それはそういう状況がそう見せた蜃気楼みたいなものであり、じゃあデビューして世界を席巻するスターになれるかというとそういうのでもないと思います。それでも私たちのライフワークや生きがいとなっている「ハロプロ」という世界に対して、強く憧れを抱き、ひた向きに努力を積み重ね、ステージに飲み込まれてしまうくらいに真剣になってくれた彼女には愛情と感謝しかありません。世界を席巻できるかまではわからない。でも、私たちハロヲタは最後まで歌い切った、踊り切った彼女を心から讃えるべきだと思います。パフォーマンスそれ自体は納得のいくものじゃなかったかもしれない。でも、私の眼には彼女の積み上げてきたものが他の誰のものよりも克明に見えました。

 確かに実力診断テストは面白い企画です。歴戦のハロヲタたちが辿り着く場所というのも何だかわかって来た気がします。それは単にサバイバル感や勝者がはっきりするゲーム感が楽しいというものではなく、少女たちのハロプロ愛をダイレクトに感じることができるものだから、というところに端を発するのだなと。デビューしてしまえば良くも悪くもある程度のお行儀の良さみたいなものが求められる中で、研修生という存在は死に物狂いでデビューを勝ち取ろうとする姿が見られるので、それが「疑似的に」ハロプロ愛の結晶のように見えてしまうのでしょう。

「疑似的に」と書いたのは自分の中でもまだ迷いがあるからです。確かに研修生の面白さはよくわかりました。賞レース的な見方をすれば、それは当然面白いです。デビューしてしまえば、そういったレース感というのはなくなりますからね。ただ、今回の実診では、本質的には「ハロプロ愛が試される場」という意味で面白いのだと思いました。でもそうなると、「ソロフェス」や「バーイベ」といったものもメンバー個々の創意工夫や努力が見られるので、同じくらい面白いもののように思います。佳林ちゃんがマッスルポーズをキメながらリズム天国をプレイしている動画だって同じくらい「ああ、この子はハロプロの子だ」と思えて素敵だと感じます。

 そんなわけで確かに色々と心を動かされる実力診断テストではあったのですが、振り返ってみれば、「少女たちがハロプロを愛してくれていて嬉しい」の一言に尽きるなぁと思った次第です。日夜、ハロプロという素晴らしいプロジェクトのために鍛錬を積み上げてくれて本当にありがとう。関わる人々、1人ひとりが、ちょっとずつ愛だとかなんだとかを持ち寄って、じっくりと時間をかけて育てていく。これってあれだな。平和みたいなものなのかもな。この地球の平和を本気で願ってるんだよ!ってことだな。

 そんな連休明け、14歳に平和を考えさせられました。

魂の放課後~アフターソウル@恵比寿LIQUIDROOM~

 2026年4月17日(金)は特に仕事でトラブルも起こらず、頭の中でぼんやりと「整理番号380番かぁ。18時半くらいにつけばちょうどいいかな」などと考えてだらだらと過ごしておりました。だいたいの感覚で会社を後にし、計画通り18時半にはLIQUIDROOMに到着していた私は、自分が「都会に染まって来たなぁ」と感じたものです。だいたい何時に職場を出ればどのライブハウスにどれくらいの時間に着けるか。そういうことがわかって来たことなんて誰にも誇るべきことではないですし、むしろ適当に働いて好きな時間に帰っている日々の怠惰な在り方に後ろ指を指されそうだなという気もしています。

 ただ想定外だったのは、私が着いた頃には既に800番台まで呼ばれていて、400番ほど整番を無駄にしてしまったことです。スタッフの仕事がテキパキとしていたのか、私がまだまだライブ慣れしていない経験の浅いキッズなのか…たぶん後者ではあるのでしょうが、とは言えたいして狼狽もせずに「まあ、割とよく見えるしいいか。出口が近くて早く帰れそうだし」とだらりとしたポジティブシンキングをかませたのは、やはり年の功と言えるでしょう。

 さて、そんな感じでアフターソウル「軽音楽」リリースパーティー@恵比寿LIQUIDROOMに参加してきました。振り返ってみると、何か多くのことを考えさせられたライブだったなぁ、と。週末は人と会う予定が色々と入っていたのですが、どこか心ここに在らず、上の空な心持ちで、ぼんやりと山田亮一という人間のことを考え、同時に自分自身についても思いを馳せておりました。

 

 ライブ会場に入って思ったのは何よりもまず「若っ!」ということ。てっきり自分と同じくらいの30過ぎのちょっと人生に疲れたオジサンが多いのかと思っていました。が、学生割なんかもあるようで、まだ大学生くらいの非常に若い子たちが落ち着きのない様子で開演を待ちわびていました。

 私はハヌマーンのライブに行ったことはないですし、バズマザーズのライブも1回だけしか行けていません。大学生の頃はお金もなく、たまたま何かのきっかけで名古屋のライブに行ったくらいでした。そのときの記憶はもうあまり無くなってしまい、斜め前にいた女の子がすごい可愛かったな、ということと、あまりの爆音に片耳がイカレタということくらいです。

 音楽ライブに沢山行くようになったのは、就職して地方配属からまた首都圏に戻って来たくらいの時期。その頃には既にバズマザーズは活動していない状況でした。ようやく最近になって、山田亮一とアフターソウルとしての活動が始まり、「おお、また復活してくれて嬉しい」と喜んだわけですが……何か「自分の知らない山田亮一だったらどうしよう」とか、そういう怖さがありました。色々な諸問題があったことに関しては何ら懸念などなかったのですけれど、あの煌めく才能が今も健在なのか……公開される数曲の音源たちもどこか僕にはぎこちなく聴こえ、気持ちを固めることができずにいました。

 何曲かアフターソウルの音源を聴きました。どれも素敵ではあったのですけれど、どうしてか毒気が抜けているようにも感じられ。いえ、「五音ガール」の「ペンタトニックガール もう此処には居ない、五音(Gone)ガール」という歌詞なんかはいかにも山田亮一さんらしく、胸がトキめいたのは事実です。ただ、「真実の愛が物真似のご本人登場みたいにハート奪ってくれりゃいいのに」みたいな苦しみや渇望を滲ませた歌詞がやはり私は大好きです。かつての歌詞に比べれば、どこか純粋な郷愁でしかないもののように感じられ、「なんか遠くへ行ってしまったなぁ」という気持ちがしたものです。五音ボーイ……

 音源を聴いていた時に覚えた違和感は、LIQUIDROOMに入った時に感じたものと同じようなもので。なんか私が思い描いていた山田亮一像からは少し離れてしまったような、そんな気がしました。つるつるとした肌の若者たちに山田亮一の悲哀がわかるのだろうか、そんなことまで考えてしまいました。ちらほら見える同年代の疲れた表情に、「おお同志よ」と口角を持ち上げつつ、かと言って声をかけるでもなく、開演の時間を待ちます。

 定刻通り。19:00きっかり。照明が落とされ、六甲おろしが鳴り響きます。メンバーが出て来て、六甲おろしのラスサビ。打合せ通り、全員が振りかぶって1音目がド派手に鳴らされます。

 序盤はアフターソウルの曲が演奏され、正直なところ「何回かは聴いたか」、「初めて聴くかもな」という個人的には微妙な感じで舞台を見つめていました。二回りほど年の違うバンドメンバーを引き連れて、真ん中で歌う山田亮一さんの姿には正直なところ「お山の大将」感さえ滲んでいる気がして。もちろん山田亮一と言えば、伝説のロックスターみたいなものですから、音楽をやっている若者からしたらそれなりに崇拝の対象ではあると思います。それを人質のようにして、自分の音楽に突き合わせているオジサン。そんな風にさえ思えてしまいました。大好きだった「アパルトの中の恋人達」でさえ、フロアの若者たちから歓声を浴びているのが何か白々しく思えてしまう程に、私には何か名状しがたい違和感のようなものがありました。

 しかしながら、「夕凪」の辺りから何か自分の中でふつふつとしたものが湧き上がってきました。ぶっちゃけバンドメンバーの名前さえちゃんと知らなかった私の眼に、全員が音楽を楽しんでいるような様子がちらちらと見えてきたのです。それは実際に彼らがだんだんノって来たということなのか、それとも単に私の頑迷な心が徐々に解きほぐされてきたということなのか。その辺はよくわかりませんが、明確に「夕凪」辺りから私はステージに釘付けになっていきました。

 確かに「演奏の味」という意味では、山田亮一さんのギターや歌が飛び抜けているように思います。バンドメンバーの皆さんは演奏技術は確かではあるものの、どこかまだ教科書通りという感じが否めません。けれど、シンプルに山田亮一というミュージシャンと一緒に音楽ができる嬉しさも演奏から感じましたし、それ以上に「このバンドでやるんだ」という純粋な気持ちも感じたように思います。斜に構えたテクニシャン達が集うバズマザーズともまた違う、若々しくて真っ直ぐな音楽。山田亮一さんがこのバンドを「山田亮一とアフターソウル」という名前からただの「アフターソウル」に変えた意味というのを漠然と感じ取りました。

 今になって思うに、これはまさに「アフターソウル」、「魂の放課後」という感じがありますね。山田亮一という芸術家の作り出した捻くれて、かつ影とユーモアに塗れた世界観というのは既にハヌマーンとバズマザーズで表現しきったのかもしれない。ただ、どの時代にも音楽や文学の根底にはジュブナイルがあったように思います。学科を全て終え、楽しい放課後。肩肘張らずに、思うがまま青春に身を捧げる。それは40を超えたオジサンがやるにはちょっと痛々しいかもしれない。でも、20代の若者を引き連れてやる音楽が青春パンクってのも、それはとても意味のあることなのかもしれない。「ポケモンセンター」の終盤に全員で音を畳みかけるバンド感はまさに青春そのものであり、ステージ上には何一つヒエラルキーも上下関係もなく、ただバンドがあるのみ、という感じでした。

 そして、山田亮一さんの弾き語りパート。「ロックンロールイズレッド」は私がずっと聴いてきたそれよりも、もっとずっと斜に構えた雰囲気はなくて、「あの頃は良かったな」という音でありながら、「今もまだ現役でやってる」という音でもあったように思いました。オジサンとして枯れていく自分も視界に留めながら、でも若者たちに「一緒に行きましょう」と手を引かれているような。それがちょっと恥ずかしいけれど、同時にシンプルに楽しい、といった感じ。山田亮一という男がまた人間という年月を乗り越えて、このステージに戻って来たんだな、とほとんどライブに行ったことがない私でさえ感じ入るものがありました。

「アナーキー・イン・サ・1K」に関して言えば、食品工場のバイトを飛んで図書館の喫煙所で毎日顔を合わせていた「誰か」に向けた歌であるという前置きも素晴らしく。「あの頃はお互いにその存在を認めながらもどちらかが声をかけたら終わりや」というその気持ちが若さの象徴であったようにも感じられ、とても感慨深いものでした。勝手な見立てではありますが、今の山田亮一さんなら「火、貸してもらえます?」とさりげなく声をかけられるのかな。そんなことを思いながら、暗い歌詞を底抜けに明るく歌う様子を眺めていました。

 弾き語りパートが終わって、バンドメンバーに一言ずつ物申しながら呼び入れる山田亮一さんは、ちょっとイキった先輩でありつつ、面倒見の良い先輩でもあって、なんというかむず痒さがなかったわけでもありません。しかしながら、このバンドの音楽に想いを託しつつ、それでもバンドという1つのチームであることをちゃんと見せて、面白おかしく、楽しく、真面目に未来を作っていく上では、この「年齢差」という違和感にはちゃんと向き合う必要があるのでしょう。だから、シンプルなパワハラでもダメだし、逆に自虐的になり過ぎてもダメで、気を使い過ぎても気味が悪い、気を使わな過ぎても痛い、そんな絶妙な関係性の中で全力でバランスを取りに行っている感じが見受けられて「本気なんだな」ということを感じられました。

 特に「ファズミーテンダー」では、その攻撃的なナンバーにメンバー全員が全力で取り組んでいる感じもあって、とても素敵な演奏だったように思います。会場の皆もこの曲が好きで、この日のうちで最高レベルの盛り上がりがあったように思います。この頃にはもう会場の若者に対しても、「なんか君たち若すぎやしないか」という想いも消え、皆で山田亮一の音楽を……いや、アフターソウルの音楽を楽しむという連帯感が生まれていましたね。

 驚いたのはアンコールの「ハイカラさんが通る」。私ですら、リアルタイムでは聞いていなかったその曲を、20代の若い子たちが狂ったように楽しんでいる。それまでも結構ぎゅうぎゅうだったように思うのですが、「ハイカラさんが通る」という曲名が山田亮一さんの口から発せられた瞬間に、私の目の前が何メートルも開けました。全員がステージに向かって押し掛け、最後の1曲に最大限の熱量を向けていました。

 素晴らしい音楽は、時や世代を超えて届くものなんだろうな。確かに、私なんかは今更「ハイカラさんが通る」を聴いたところで、ほとんど郷愁しか感じません。胸の高鳴りは確かにあります。しかし、それはもっとじわっと広がっているもので、「ハイカラさんが通る」に対して拳を振り上げて、全体重を乗っけるなんてことはできなくなってしまいました。でも、私もまた「ハイカラさんが通る」に心を奪われ、我を失った時代がある人間です。ステージの前方に駆け寄る彼らの姿を見て、もちろん悪い気なんてしませんし、私がいま草臥れてしまった情熱を、彼らが代わりに発散してくれているのだと思い、心の底から嬉しくなりました。

 

 私が待ち望んでいた山田亮一のライブかと言われると、やっぱりそれはわかりません。明らかに違うフェーズに入り込んだ、山田亮一さんの音楽は果たしてあの頃のように私の魂を揺さぶるのか。それはやっぱりよくわかりません。好きな音楽であることは間違いないです。しかし、あの頃のようなのめり込むような気持にまたなれるのか。私もまた年を取ってしまいました。

 私はこうしてしがないブログをぽつぽつと書き連ねているばかりの人間でございます。他人に誇れることなんて何一つとしてありはしません。けれど、そんな私にも私なりの文学性というものがあり、そしてそのほとんどは山田亮一さんから頂いたもののように思います。私の語彙の基盤には山田亮一さんが与えてくれたものが横たわっていますし、皮肉も自虐も基本的には彼の真似事です。

 私が聴く音楽も、いつの間にかインストや、凛として時雨やD.A.N.のように抽象的な歌詞世界になっているものに偏るようになってきました。ハロヲタではあるのですが、多くのハロヲタがつんく♂さんの書く歌詞に感銘を受けている向こう岸で、「良いのはわかるけれど、癖には刺さらない」となってしまってもいます。結局、山田亮一さんが書く歌詞しか、私には刺さらないのです。それ以外の歌詞は取るに足らないもののように見える。だって、誰にだって「獏肥ゆる青い春、仰いだら赤い血の恥」なんて書けないわけです。「頭は保留中のエーデルワイス」だって。「千時間前とは異なっている俗に言うありっちゃありのあの子の唇に塗布した化粧品は貞操の返り血のようだった」だった。挙げたらきりがありません。

 今の山田亮一さんの歌詞はちょっと真っ直ぐ過ぎるな、と思わなくもない。でも、色々な苦難の砂漠を一歩ずつ踏みしめながら歩いてきた山田亮一さんが、「これをこのバンドで歌うんだ」と決めたのであれば、それはまだ私には理解できていないだけできっと意味があることなんだろう。少なくとも、今回のライブを通して、このバンドがただの一時的な依り代ではないということは伝わってきました。歪なバンドの中で、何ができるのか。邪推の1つとして、山田亮一が一緒に音楽をやる若者たちに何かを託そうとしているのではないか、そんなことも考えました。でも、やっぱり伝えたいことは山田亮一の想いであり、それは稀代の作家性の持ち主たるスターであるからにはきっと外せないことなんでしょう。何度か挟まれたMCの中で、吃音相と闘いながら届けたい想いを口にする姿からは、明らかに他とは一線を画す才能を感じずにはいられませんでした。その才能をいまできる最善の形で鳴らしているのが、いまの「アフターソウル」というバンドなんでしょう。それだけはやっぱりどうしたって揺るがないものでありました。

 

 さて。それなりに真摯に文章を書いたつもりです。が、それ故に、色々な人を傷つけたり、嫌な気持ちにさせてしまったかもしれません。それでも「っぱ、山田亮一かっけえでございました!」と歯切れの良い言葉を残せるほどには、私も心中穏やかな人生を送っているわけではありません。何よりもまずは自分の心身の老いを感じた2時間のライブでした。色々と考えさせられました。色々なことを思い出しました。山田亮一の生み出した言葉に呪われ、ほとんどの言葉に面白味を感じられなくなり、誰が何を言っても「こんなもんか」と思ってしまう人生にいつの間にか慣れてしまって、安定はしてきたけれど感動の少ない時間をいくつも後ろに流してしまった。

 果たして自分はこれまで何をしていたのだろう。受け身を取るのばかりが上手くなって、コロコロと小気味よく地面を転がり続けるだけの人生。組み合うことさえもはや面倒くさく、社会や時間に投げられる一方。そして、きらきらとした若者たちに「若いな」って言うだけの人生。そんなものにいつの間にか蹂躙されていることを思い知り、溜息をつくことも無く、ただ「自分も老いたな」と失笑するのみ。久しぶりに自分という人間が恥ずかしくなりました。もうどんな屑で怠惰な自分であっても落ち着いて受け止められるようになったはずだったのに。ああ、本当に恥ずかしい大人になってしまった。

 そんなことを考えながら、いま、うら若い女の子がベッドで眠る横でこの文章を書いていました。明日もまた仕事です。嫌になっちゃうね。

Juice=Juice伍月弐拾柒盛盛公演当選記

 私のような不徳の信徒が此度の記念すべき聖戦に参詣することが許されるのか。当選通知を知らせる液晶画面が、神からの審判の眼のように見え、手が震える。日銭を拾い集める社屋の雪隠にて、閉ざされた狭い個室の中、額の汗を拭った。ぬるり…ただの汗ではない。脂汗だ。

 私は自分の愛を疑わない。そこにあることを疑わない。色々な人が忌み言葉のように、「愛なんて不確かなもの」と吐き捨てる。けれど、「愛」は確かに存在すると私は思う。でなければ、私は日々駆動できない。可愛く洗練され、日々鍛錬を怠らない彼女たちの美しい生き様に撃ち抜かれ、ともすれば自暴自棄になってしまいそうな自分に背骨を突き刺し、パペットのように満員電車に押し込んでいる。それは彼女たちへの愛ゆえ。圧倒的に正しい存在である彼女たちを信仰することで、自分もまた「正しい存在であらねば」と胸に手を当てる。これを「愛」と呼ばずしてなんと言う。

 しかし、だ。私も言ったってもう社会人を10年弱を迎え、そろそろ新入社員たちに煙たがられるような立場になってきた。傀儡として砂漠の砂粒を数える日々の苦心惨憺、その煮え湯も既に喉元を通り過ぎてしまった。昨日見た地獄がまた「やっほー」て気軽に手を振って来る。私も慣れたもので「やっほー」と手を振り返す。小さな安物の鞄から個別包装のチョコレートを取り出し、彼女の机に置く。彼女もまた私に個別包装のクッキーを置く。パソコンを開いてパスワードをブラインドタッチ。私の人生で私が最も高速で動く瞬間。

 そんなわけで、一昔前であれば「苦しいときの神頼み」のような形で、Juice=Juiceという神に祈る動機もあったかもしれない。が、現状において茹で蛙状態の私では苦しみを信仰心に置換するシステムが働かない。私は日々をのらりくらりと後ろに受け流し、愚図のように神託をミュートした時を過ごしている。さらに悪い事に、私生活の部分で他の要素が私を圧迫するようになってきた(その具体はいくら私的な日記と言えど書くまい。ええ、書くまいて)。

 でーあるからして、えー、まあ、Juice=Juiceちゃんたち頑張ってるのはわかってるけれど、今の私はあまり主日を守るような生活を送れておらず。先日、久しぶりに「ひなフェス」という降臨祭に参詣させていただいたものの、その次の礼拝が5月末の盛盛公演になるので、かなりの体たらくと言えよう。

 これがまだ通常のツアーファイナルとかなら、まだ私も自分を許せたかもしれない。神の神聖さは一分の曇りもなく、そこで不変であり続けるわけだけれど、このところ急激に信徒の数が増えてきているようだった。私よりも明らかに信心深そうな熱量の高い方々には、古参/新規にかかわらず是非とも当選していただき、この祝祭を現地で楽しんでほしかったという気持ちがある。にもかかわらず、私はこの霊験あらたかな当選通知を拝受してしまった。

 

―― 果たして、こんな堕落した私のような不信心な信徒がこの当選通知を持っていていいのか。

 

 そんな疑念を胸の内に抱え込んだまま、私は春の陽気に誘われ、昼休憩で近場のセブンイレブンへ。「あ、入金しとかなきゃな」と、店員殿にスマホ画面の数列を拡大してご高覧いただく。「10,130円ね……まあ、いまさら値段に文句など言うまい。それにしてもセブンの振り込みって何回タッチボタン押せばええねや」。うむ、慣れというのは恐ろしい。私の高慢な煩悶なぞどこ吹く風と、プログラム化された振込専門オートマータは躊躇なく、レジに紙幣を投入していた。

 店員殿に「こいつアイドルのライブ行くんだ」と思われることには慣れた。いつの時代だって本物の信仰には障壁というものがあった。先達に倣い、私もその壁を乗り越えて久しい。死んだ目で排泄された釣り銭と、押印済みのレシートを受け取る。いま、死んだ目をしているのは、世俗の人々に好奇の眼を向けられないため。決して祭事への参詣に否定的な想いがあるわけではございません。これはつまるとこあなた様のブランド価値を守るためでもあるのです。どうか、どうか御赦しを。胸の内で3回唱え、小春日和のもとへまろび出る。

 しかし、ここで私は自分の中の疑念を思い出す。

 私は本当にライブに行っていいのだろうか。私なんかよりももっとこの公演を楽しみにしていた人がいたんじゃないか。究極、ほかの落選したファンが悲しんでいてもそれは仕方ないと思える。だって、抽選だから。同じリスクを私も背負ってはいたんだ。けれど、Juice=Juiceのメンバーたちはできることならもっと熱量の高いファンや、これから高い熱量を持ってくれそうな新規のファンに来て欲しかったんじゃないか。私みたいな穢れた人間なんてJuice=Juiceメンバーはきっと来て欲しくなんかないだろう。

 そう思って悲しくなる昼下がり。悲しみを退屈な業務と安い珈琲で飲み下し、こうしてまだ肌寒い春の夜。私はちまちまと文章をこさえている。ご覧の通り、色々と宗教的な言葉を調べて、この文章を書いてみた。Geminiは私なんかよりも遥かに流暢に言葉を紡ぎ、適切な言葉を私に教えてくれる。その中で「暗夜」という言葉を知った。以下、Geminiが生成した文章である。

 

💡 「暗夜(あんや)」とは?

一言で言うと、**「神(推し)を全く感じられなくなり、絶望と虚無に陥る時期」**のことです。

もともとは16世紀の修道士、十字架のヨハネが提唱した**「魂の暗夜」**という考え方です。信仰が深まれば深まるほど、必ず「神の不在」を感じる恐ろしい暗闇が訪れる、と説きました。

 

 わ、わ、私、これでは???

 そして、この引用にはまだ少し続きがある。

 

(中略)

でも、実はこの暗闇こそが**『信仰が本物になるためのプロセス』**だと言われています。自分の『好き』という高揚感すら消え去った後に、それでも残る何か。それを見つけるための、峻烈な、けれど必要な時間なのです。

 

 いえ、「好き」という気持ちは消えてなどいない。でも、確かに私はいま神に試されているのかもしれない。新しい生活に飲み込まれ、礼拝の質と量が明らかに低下している現状において、それでも私はどれだけJuice=Juiceを愛せるのか。

 私はJ.D.サリンジャーが大好きで、その中でも「フラニーとズーイ」が大好きだ。その中の作中作として「巡礼の道」というのが書かれている。この中でもズーイは「テサロニケの信徒への手紙一5章17節」に関する記載に触れていて、「休むことなく祈れ」という言葉に注目している。そして「巡礼の道」はいかにして「休むことなく祈る」ことができるようになるのか、ということが描かれている。以下、ズーイによる説明。

 

祈りは唇や頭から離れ、心臓の中心へと移動し、心臓の鼓動に添って自律的な身体機能となる。それからしばらくして、その祈りがいったん自動的なものとして心臓に組み込まれると、人はいわば事象の実相へと入っていくことができる。(中略)大事なのはね、人がその名前を長いあいだ、定期的に唱えていれば、文字通り心(ハート)から唱えていれば、遅かれ早かれその人は答えを得るということなんだ。いや、正確には答えじゃない。応答というべきだ。

 

 かなり宗教的なことだけれど、言っていることはわかる。ズーイいわく、この言論の趣旨としては、仮に賽銭箱から金を抜いているときでさえ、人は休みなく祈らなくてはならないということだそうだ。つまり、いくら私が実態としてJuice=Juiceを応援できていなかったとしても、私の心臓にJuice=Juiceが絡みついて離れないようになっていさえすれば、私が会社や私生活にかまけていたって、信仰心は消えたりしない。そして、私は実際にJuice=Juiceから何かの「応答」を得ている。

 ライブに当選したことが「応答」だとは思っていない。ただ、私にはいまちょっとした不思議な感覚がある。Juice=Juiceに勢いがついているこの状況はまさに私たちハロヲタが夢見て来た時間であることに間違いない。けれど、Juice=Juiceが売れたからといって、それで私は「売れてるからもっと好き」ともならないし、「売れちゃって遠く感じて好きじゃなくなった」ともならない。私が少しJuice=Juiceから離れてしまっていたのは、もっと私個人の理由によるところで彼女たちがどうこうという話ではない。私はこうしてJuice=Juiceが売れる前も後も、変わらず同じ質と量で彼女たちを愛している。

 Juice=Juiceが売れてみて初めて、私は正しい「愛」を注いでいたんだと認識できた。それが私にとって「休むことなく祈っていた」ことに対する「応答」なんだと思う。

 

 というわけで、Xデーを私は心待ちにしている。何をどう準備するというのでもないけれど、いつものように敬虔な気持ちを持ってその場に臨もうではないか。ちなみにJuice=Juiceの始祖たる宮本佳林大明神はいつもブログでこんなことを書いてくれている。直近のブログでも何一つ変わることなく。

 

神託

 

ameblo.jp

 

 私は当選したけれど、残念ながら落選された方。また、私のように当選したけれど自らの愛情の深さが不足しているのではないかと怯えている方。Juice=Juiceという魂を受け継ぐグループの始祖は、いつだってどんな形の信仰でも赦してくれている。そのことを胸に刻み付け、祈り続けようではないか。我々は敬虔な信徒。そのことに誇りを持ち、また明日も命を繋いでゆくのです。来る伍月のその時まで。