凍結星
夜の闇の中で、霧の粒子がよく目に見える。乳白色の亡霊が辺りを漂い、信号の明滅を受けて妖艶に身をくねらせる。吐き出す息の白さえも霧に飲み込まれてしまう。合成皮革の鞄はいつの間にか無数の水滴を身に纏い、蜘蛛の眼のように街灯の光を照り返す。
寒そうに肩を竦めて梁木は足早に通りを歩いていく。その半歩後ろを津野が追いかけていた。梁木も津野も黒いスーツに黒いコートという出で立ちだが、どうも簗木の方が野暮ったく見える。アルコールで頬は赤く染まっていたが、目尻の垂れ方のせいかどこか疲労感が滲んでいる印象があった。歳は三十半ばというところ。生まれてこの方、髪をセットしたことがないといった無造作なヘアスタイル……いや、スタイルと呼称することが憚られるほど、それは無造作を極めていた。髪は全体的に伸び過ぎている感が強いが、前髪だけ目に入ると邪魔なので自分で適当に切ったという感じだ。周囲の人(特に異性から)に気に入られようという意思が欠落していることがその風貌からよくわかる。
対して、津野は二十代の若い女性だった。速足で歩く簗木の後ろを追いかける姿は、どこか梁木の秘書のようにも見えるが、それにしては二人ともアルコールの赤らみがあるし、時刻も午前一時を回っている。それに何となく津野の表情は不愛想な印象があり、あまり秘書向きとは言えないだろう。目を見張るような美しい顔立ちであれば、そういった不愛想な感じも「クールさ」として捉えられるだろうが、それほどの美人というのでもない。しかし、地味ではあるが黒のスーツやコートもしっかりと着こなしていたし、髪もよく手入れされているのか、夜の闇の中でも街灯の光に照らされて、時折艶やかに輝いていた。
梁木は裏路地のとあるラブホテルで歩みを止め、津野の方を振り返る。「ここでどうだろう」と簡潔に質問を投げかけ、それに対して津野も簡潔に「はい。ここにしましょう」と答える。
梁木は少しだけ緊張した面持ちを見せたが、溜息のような何かを胃の底から吐き出し、苦笑いを浮かべると「じゃあ、入ろうか」と足を踏み出した。
部屋に入ると、二人はビジネスバッグを降ろし、それぞれにコートとジャケットを脱いだ。
津野は鼻筋がはっきりとしていて、目は丸く、不愛想だが社内では一応可愛くて人気のある女子社員だった。ジャケットを脱ぐと、紺色のセーターの胸元はふっくらと膨らみ……そういったところも男性社員から人気の理由ではあったが。
それらのことを梁木は無意識のうちに考える。そしてそれらの思考が無意識の円からはみ出して疚しさに変容すると、梁木は首を振って、いやな味のする妄想を一斉に追い出した。
「そうは言っても同じベッドで寝るわけにもいかないな」梁木は冗談っぽくそう言ってみる。「幸いソファがあるし、私はこっちを貰うよ」
ガラス製の丸テーブルがあり、それを挟むように二つ、一人掛けの真っ白な革製のソファが置いてある。梁木は入口から遠い方を選びそちらに腰を下ろした。
「いえ、私の上司なんですから、梁木さんがベッドを使ってください」
「そういうわけにはいかないだろう。こういう言い方は今のご時世セクハラになるのかもしれないが、津野さんは女性だ。いくら仕事上の関係性とは言え、女性をソファに寝かせて自分だけベッドでぐっすりできるほど私は神経図太くはないんだよ」
「そう言われましても……」
「上官命令だ……なんて、アメリカのドラマみたいなことを私に言わせないでほしいんだが。まぁ、命令とか性差別とかもうそういうの抜きにして、津野さんがベッドを使ってくれ。仮に佐伯と同じ状況になっても、私はソファを譲らないよ。昔から小心者でね。人に恨まれるくらいなら自分が不幸を被った方がマシだと考えてしまう性質なんだ」
「私は別に恨んだりは……」
「あぁ、わかってるよ。恨む、恨まないとかも関係ないんだ。ただ、二つ選択肢があったら、自分が不幸に見える方を選ばないと落ち着かないってことだよ。さっき一緒に酒を飲んだ時には、私には矜持なんて無いと言ったが、それこそが私の矜持と言っても良い。より不幸に見えるものを選び取れ。何とも私らしい素晴らしい矜持だ」
津野はじっと梁木を見つめ、発言の訂正を待ったが、しばらくして諦めると「わかりました。ありがたくベッドを使わせていただきます」と小さく頭を下げた。
梁木はやっと安堵したようにソファに身体を凭せ掛けた。シャンデリアを見上げる。装飾的ではあるが、プラスチック製で見るからに安物だ。そして、この状況をどう言い訳するべきか考える。誰に言い訳するでもないが、それでも考えずにはいられない。
まず、課内での飲み会があった。課長である金里、それから副課長である梁木、そして上から順に三笠、佐伯、津野の計五人。金里、三笠、佐伯の三人の終電が先に来る。梁木と津野の終電は四十分も遅いため、もう少し店に残っていくという話の流れになっていた。外は寒いし、駅のホームで四十分も待っていたら風邪を引いてしまう。梁木は金里から「津野ちゃんに手出すなよ」と背中を叩かれ、苦笑いを浮かべながら三人を見送った。津野の方だって選ぶ権利くらいあるだろう、などと考えながら珍しく酒に酔っている様子の津野に声をかけて、金里たちへ挨拶をさせる。
津野も飲み過ぎで気分が悪そうだし、もう少し店で水でも飲んで休んでいった方が良いだろうという判断もあった。そして、二人取り残された梁木と津野は四十分間二人であれこれ話をして時間を潰す。しかし、さてもうそろそろ時間だな、という頃合いになって、津野が「気持ち悪い」と言い出して、トイレへと駆け込む。梁木は腕時計に目を落として眉を顰める。そして案の定と言うべきか、二人は終電を逃してしまう。
まずはその事実を受け入れるために席に戻ることにする。タクシーという方法がある。しかし、どうせ終電を逃したのだったらもう少し飲んでいこうということになった。酒を吐いて気分が良くなったのか、津野がそう言い出したのだ。そして、また酒を飲みなおして、色々と話しているうちに、安いしラブホテルで始発を待とうということになった。
そこまで考えて梁木は頭を抱える。
どうしてラブホテルでなければならなかったのか。
タクシーで帰るという案はどこに消え去ってしまったのか。
津野がまさか自分に対して、何らかの性的好奇心を抱いているとは考えにくい。むしろ梁木に無理やりホテルに連れ込まれたと言いふらし、自分を職場から追い払おうとしているのだと考える方が、梁木には随分と自然なことのように思える。
いつの間にか姿を消し、おそらくは入口わきのトイレに入っている津野の方に梁木は視線を向けた。梁木はまだひんやりと冷たい自分の頬に手をあてがう。霧が立ち込める凍てつく夜の道を歩いているうちに少しは酔いが醒めたらしい。というか、むしろ酔っ払ってなどいないと思っていが、実は随分と酔っ払っていたのだろう。ほんの十数分前に自分たちが下した決断の愚かさが梁木には信じられなかった。津野がトイレから戻って来たら、やはりタクシーで帰ろうと言おう。今更遅いかもしれないが、今ならまだ取り返しだってつくことだろう。
梁木がそのように決心を固めているところに、津野が戻って来る。
「津野さん、やっぱりタクシーで帰ろう。もちろん金は私が出す。いくら明日が休みだからと言って、こんなところで寝るよりは自分の家で寝た方が良いだろう」
「今さらそんなことを言ってどうするんです?」津野はハンドタオルで手を拭きながら言う。「それにワインだってもう買っちゃったじゃないですか」
「ワイン?」
「忘れてしまったんですか? 道中、コンビニに寄って買ったじゃないですか。ホテルで飲みなおそうって話になって」
「ちょっと待て。そんな話……」
梁木が狼狽えているうちに津野はベッド脇までゆうゆうと移動し、鞄から一本の赤ワインを取り出す。どこのブランドなのか全くわからないが、ペンギンらしき模様がラベルには印刷されている。ラブホテルの薄暗い照明の中では、その色は赤というよりは深い闇の色に見えた。
「ほら、飲みましょう。せっかくですから」
津野はガラステーブルの上にボトルを置くと、洗面台に一旦引き下がり、コップを二つ持ってきた。テーブルを挟んで梁木の正面に座る。
「ワイングラスがないのが寂しいですが、まぁ、仕方ありませんね」
不愛想な津野に似合わない微笑が彼女の頬に宿る。しかし、その微笑はよく彼女に馴染んでいるようにも梁木には感じられた。梁木は知らない女を目の前にしているような気分になる。
乾杯、と味気ない丸型のコップを重ね合わせる。
津野はコップに口をつけたまま、梁木を見つめている。梁木は「やはり可愛らしいな」と思うが、そこには先ほどまでのどこか客観めいた冷静さがだいぶ失われていた。目を逸らし、ワインを飲み下し、自らの風体を瞼の裏に思い描く。それで少しだけ冷静な自分を取り戻す。
「もう気持ち悪くないのか?」
「はい。すっかり元気です」
「しかし、あまり無理はしない方が……」
「私、日本酒って苦手なんですよ。澄み過ぎてるっていうんですかね。アルコールがダイレクトにぶつかって来る感じがダメで。赤ワインみたいにエグみがあるお酒の方が気持ち悪くならずに済みます」
「わからなくもないが、それなら無理して日本酒なんて飲まなくて良かったのに」
「金里課長のご機嫌取りも大事な業務ですから」
梁木は溜息をつく。これじゃあ、アルハラにパワハラだ。そのうちセクハラまで加わるかもしれない。とは言え、あの不愛想な津野が「ご機嫌取り」なんてこと考えているとは。あれでご機嫌を取られたということになっている金里の方が可哀そうではないか。
梁木は「津野さんがご機嫌取りなんてこと考えてるとは思ってもみなかったよ」と苦笑いを交えて返す。
「まぁ、ご機嫌取りというのも違いますか。単純に保身ですよ。不愛想なだけでも煙たがられるのに、そのうえお酒の席で上司の勧めるお酒を断ろうものなら、もうどうしようもないじゃないですか。これでも私は最低限の礼儀を尽くしているんです」
「そういう喰ったようなこと、あんまり目上の人に対して打ち明けない方が良いだろうな。私にはいくら言っても大勢に影響はないが、頭に来る人間もいるかもしれない」
「それって、『自分はいいけど』って言いながら、実は自分が一番頭にきてる人が言うセリフなんじゃないですか?」
「いや、それはないな。本当に私はどうでも良い。ただ、金里課長には間違ってもそういうことを言わないでほしい。あの人の怒鳴り声を私は聞きたくないし、津野さんの仕事が私に回って来るのも困る。不満があるなら私が全部聞くから、頼むから金里課長を怒らせないで欲しい」
「梁木さんに不満を言えば、それは具体的に解消されるんですかね」
そこでようやく梁木は少し苛立ちを覚える。が、それを言葉や表情に表すほどの気力はない。ただ溜息をついて「望み薄だな」と苦笑いを浮かべる。
「怒らないんですね」
「津野さんは、私を怒らせたいのかな?」
「ある意味では」
「ある意味では、ね。何かの小説みたいな言い回しをする」
梁木の返答が気に入ったのか、津野は少しだけ楽しそうな笑顔を零し、ワインを啜った。つまみがないかとガラステーブルの上に視線を走らせ、それから諦めたようにもう一度コップに口をつけた。
「それにしても津野さんがこんなに喋っているのは初めて見たな」梁木はやや失礼かとも思いながら、彼女はそれ以上の失礼をまき散らしているのだから良いだろうと、そんなことを考えながら言ってみる。
「お酒が入ると饒舌になる人っているじゃないですか。あれ、私です」
「のわりに、皆がいたときはあまり喋ってなかったな」
「私よりもお喋りがいるとダメなんですよ。金里課長に佐伯くん。三笠さんはまだマシですが、それでも私よりはお喋りですね」
「対して、私は会話下手だから、そのお喋りを披露できるというわけか」
「まぁ、そういうことですね。会話下手なんて言うと、つまらない、取るに足らない人間と思われがちですが、私はむしろ美徳だと思いますよ。沈黙は金と言いますからね」
「沈黙は金、雄弁は銀。金ぴかよりはいぶし銀の方が私好みなんだがな」
「つまらない冗談を言ったら『オジサン』だって、誰かが言ってましたよ」
「もう三十四だ。いいオジサンじゃないか」
梁木は赤ワインを津野のコップに注ぎ足してやる。もう完全に気が緩んでしまっているのか、津野はコップを持ちもしない。まぁ、それならそれでいいさ。どうせこの場には自分しかいないんだ。そう思いながら、梁木は手酌で自分のコップにもワインを注ぐ。
「ところで、さっきはタクシーで帰るとかなんとか言ってましたね」
「もういいさ」
「どうして、もういいんですか?」
「外は霧が出てるし、何より寒い。今日はここで寝ていくよ」
「私とこうしているのが楽しくなったんですか?」
「あぁ、それもあるかもね。普段見られないものを見るのも刺激的だ」
「梁木さんは普段、女性と二人きりで飲んだりしないんですか?」
「私がそんなことをしている人間に見えるか?」
「正直に言いますよ。見えないです」
「だろう」
「でも、その割に落ち着いてますよね。普通、慣れない女性との会話にあたふたするものなんじゃないですか?」
「確かにな。でも、大学時代はアルバイトで女子中高生に勉強を教えていたし、それよりも前からずっと姪っ子の世話をしたりしてきたからかな。津野さんくらい歳の離れた女の子と話すのは意外と大丈夫みたいだ。むしろ落ち着くくらいだよ」
「不思議ですね。私も梁木さんくらいのオジサマとお話しするのは思ったより、自然体でいられて気分が良いですね」
「津野さんの場合、年齢というよりは私が君より無口だからというのが正しい気もするがな」
「ま、言うほど梁木さんも無口じゃないですけどね。金里課長の前では色々と機嫌よく相槌打ったり、柄にもないことしてるじゃないですか」
「仕方ないさ。それが私のしがない処世術なんだから」
梁木は自分が思ったよりもこの津野という女に対して心を開いているという事実に対して、不思議な感触の衝撃を受けていた。これまでおよそ一年間も同じ職場で働いていながら、こんなに二人きりで話したことはない。今までしたプライベートな会話だって、せいぜいが休みの日の過ごし方だったり、そのとき流行っていたことくらいだった。ゆえに、梁木が持っている津野のイメージは、休みにたまに散歩をして風景をスケッチする趣味があるということと、オリンピックみたいな流行りものには全く興味がないということくらいだった。
そう言えば、よかったら今度そのスケッチしたものを見せてくれないか、と言ったきりになっていたことを梁木は思い出す。自分はそれほどまでにこの津野という女に興味を持っていなかったのだ、と改めて思い知らされる。
「ところで、話を戻すようで悪いんだが、どうしてホテルなんかに誘ったんだ?」
「さぁ。どうしてだと思いますか?」
「あのな――」
「質問してるのは私だぞ」梁木の言葉を先取りするように津野が言う。「でも、本当に気になるんですよ。梁木さんはどうして私がホテルなんかに誘ったと思います?」
梁木は再び頭を悩ませる。どうして津野が自分なんかをラブホテルなんかに誘ったのか。しかし、どれだけ考えても答らしい答えは出てこない。唸り声を漏らし、ワインを飲むことくらいしか梁木にはできることがない。
「じゃあ、質問の仕方を変えます。普通に考えてどんな可能性が考えられますか? 別に私と梁木さんという関係性ではなくて、一般的な男女がモデルだったとして」
「それは……まぁ、相手と寝たくなったから誘ったというのが普通だろうな」
「正解です」津野は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「それは一般的な男女というケースであれば、正解ということだよな」
「私と梁木さんは一般的な男女ではないと?」
「私ほど一般的な人間もいないとは思うが、今回に限ってはイエスだ。いや、英文法的にはノーと答えるべきなのか。よくわからないが、今回に限っては、私たちは一般的な男女とは言い難い」
「どうしてですか?」
「年齢差というのもある」
「私と梁木さんは十も離れてないです。十以上歳の離れた男女がラブホテルに来ることは、少しばかり珍しくともあり得ないということはないでしょう」
「確かに年齢を持ち出すのは、あまりに根拠薄弱だな。訂正する。が、年齢なんて抜きにしたって、津野さんが私に興味を……ましてや、性的な興味を持つはずがない。私は自分がいかに性的な魅力のない男かということは嫌というほど熟知している。例えば、着ているものや髪型、立ち振る舞いに外見、体臭、それから思想や知識、業務遂行能力、身体能力。会話の上手さ、ユーモアセンスなんてものもあるな。挙げればきりがないが、そういった全てはあるいはセックスアピールでしかない。残念ながら、私には今挙げたものの中で自慢できるものなんて一つもないし、それどころかそれらの能力値を伸ばそうと努力する気すらない。自分で言うのもなんだが私は能力もやる気もない低能な猿だ。かと言って、猿の群れに放り込まれたところで、猿の社会においても私は弱者の立場に追い込まれるだろう。世間で変わり者呼ばわりされる連中だって、何かの能力には秀でていて、その部分に興味を惹かれる別の変わり者がどこかにはいるかもしれない。しかし、私はただのゼロだ。何もない。存在しないものには興味を惹かれることはない。だから、津野さんがどうこうという以前に、私に性的であろうと性的でなかろうと興味を惹かれる人間なんていないんだよ。私はどこまでも一般的で特徴のない人間であるからこそ、今回は一般的な男女の枠組みには収まらない。ゆえに、津野さんが私をホテルに誘ったのには、特別な理由があると私は思う」
「まぁ、梁木さんの言わんとしていることもわかりますけどね」津野はコップを指で突き、ソファに座り直す。「にしたって、酷い自己否定ですね。自虐趣味でもあるんですか?」
「別に自虐をしているつもりはないよ。ただ自分のあり様を客観視するとそうなるし、また私自身がそういう人間でありたいと思っているだけだ」
「そんな崇高なものじゃないよ。ただ色々なことが面倒になって、もう自分をすり減らすことにしか興味が持てなくなっただけなんだ」
「ふふ。梁木さんはどれだけ人生に疲れ果ててるんですか」
「私も自分で自分を不思議に思うよ。でも、高校三年のときだったかな。ほら、体育の体力テストでシャトルランってあっただろう?」
「梁木さんの時代にもあったんですね」
「たった十の歳の差じゃないか。そう年寄り扱いしてくれるなよ」
「先に年齢差を持ち出したのはどっちでしたっけ」
「まぁ、細かいことは気にするな。ともかく、そのシャトルランのときのことなんだが、私は一応運動部に入っていたし、当然少なくとも八十を超えるのがノルマみたいなものだった。しかし、走っているうちにふと足が止まって、たった三十回でやめてしまった。周りからは『なに不良ぶってるんだよ』みたいな野次を飛ばされた。私は笑いながら『急に面倒になったんだよ』と答えたが、私自身、自分がどうして途中で足を止めてしまったのか、よくわからなかった。けれど、歳を重ねるにつれてその時の自分のことが少しずつわかるようになっていったんだ。あのときの私は決して嘘はついていなかった。自分で言い訳したその言葉通り、『急に面倒になった』んだ。そのときはただ体力テストのシャトルランで足を止めたに過ぎなかったけれど、次第に私は色々なタイミングで色々な競技の足を止めていった。そして、気がつけば今の私が出来上がっていた。もう正直、私に何が残されているのかもよくわからないが、それでもとにかく私は私の持っているものをすり減らして、あらゆる足が止まる瞬間を待ち望むことしかやりたいこともなくなってしまった。だから、繰り返すけれど、津野さんをはじめとして、誰も私なんかに興味を持つことはないんだ」
梁木は自分の言葉に納得するように、深く何度も頷く。そして、それから天井を見上げた。良く見るとシミだらけだ。どうして天井なんかにシミができるのか、梁木にはよくわからなかったけれど、まぁ、こんな場所だ。想像もつかないような様々な出来事がこの部屋、あるいはこの上の部屋で巻き起こったんだろう。
梁木はそのシミを残した人間の生活を夢想し、鳥になって空を飛ぶことを夢見る少年のような表情を作りかける。が、それらが模られる前に津野が口を開き、梁木の顔には何かの予兆を孕んだ表情の緩みだけが残った。
「そんな風にすり減らした先にいったい何があるというんですか?」
梁木は自分の手元に視線を落として考える。伸び過ぎた爪は土色が染みつき、爪の付け根は酷くささくれが目立っていた。栄養不足で頭もまともに回らない。梁木はそう思う。
「すり減り切ったもの。つまり、本来の自分がそこで待っている」
梁木と津野はあっという間にワインのボトルを空けてしまった。
それから津野はビジネスバッグからボールペンと何も印刷されていないA4用紙を取り出してガラステーブルの上に置く。ずっと前に、梁木さんは私の描いた絵を見たいと言いましたよね。津野の言葉に梁木は頷く。津野は微笑み、今から梁木さんの絵を描いてあげますよ、と言いながらガラステーブルからワインのボトルとグラスを降ろして床に置く。一度、梁木を椅子から立ち上がらせ、然るべき位置へ梁木を椅子ごと移動させる。津野も自らガラステーブルを持ち、完璧な構図を求めてラブホテルの一室の中をさまよう。そして、位置と空間の関係性を十分吟味したのちに、津野は自分の椅子をそこへ引き摺り、あとは梁木を正面に見据えてスケッチを始めた。
梁木は津野を正面に見据えて、一定の姿勢を取り続けた。ほんの数分前までは、あれだけ何やかやと言葉を交わし合い、薄暗い部屋の空間を雑多な会話で満たしていたのに。今やそれは夜明け前の通り雨がアスファルトに藍色の名残をのこすが如く、ほのりと香る程度の陰影へと衰退してしまっていた。猥雑なディティール。高級品を模した安価な雑具。やたらと大きな薄型テレビの画面は、部屋の在り様を黒く反射する。梁木の網膜の上に、それらの断片が織り重なり、幻惑的なコラージュアートを作り上げる。仄暗い照明は廃色の橙。倒錯する意識。アルコールに手招かれ、いつの間にか梁木は眠りへと歩を運ぶ。
満月の光が山々の尾根に溜まる雲を照らし、幻想的な陰影を空に描き出している。川沿いを吹き抜けていく風を感じ、半透明な羊たちの夜間飛行を想う。
僕はほとんど街灯の光のない川沿いを歩いていた。手の届く範囲のものは全て、まるで一度墨の中を潜らせたように黒く染まっていたが、顎を持ち上げるとまずは満月。それから張り巡らされ、炯々と光る星々。僕は遠く離れた彼女のことを想って、少しばかり胸が苦しくなる。けれども、今日の夜風はとても快い。街灯の点を繋ぎ合わせるように流れる音楽に合わせて、ついステップを踏んでしまう。まるで古いミュージカル映画のように。
I’m singing in the rain.
Just singing in the rain.
雨も降っていないのに僕は唄い、むやみにタップを踏む。あまり良い出来とは言えないが、そこには純粋で無垢な衝動のようなものがあった。美しい景色、美しい季節、美しい愛情に美しい衝動。僕は僕が一個体生命であることを喜ばしく想い、手を伸ばしても届かない月や星々との隔絶性にどうしようもない幸福を感じることができた。他者として彼女を愛することができる。それがこれほどにも素晴らしいことだとは。
ともすれば僕たちは、世界が僕を中心点とした円運動の見せるメリーゴーランドであり、円盤に打ち込まれた馬や何や、そして絢爛たる装飾や、悪意をそぎ落とした音楽、それからそこで笑顔に塗れる人間たちすべてを総じてそれがメリーゴーランドであるのだと定義したくなってしまう。しかしながら、僕たちの皮膚は僕と他を避けがたく別ち、光の足が空間上の距離を現し、距離によって隔てられた存在の不明瞭さを時間という糸で縫い合わせた、そんな物理学的法則に則った世界観の中で生きている。そういった隔絶性に対する認識を経て、僕たちは逆説的に真理を通して1の腕に抱かれているのだと実感できるのかもしれない。
そのようにしなければ、僕は拡張する宇宙の中で、とてつもない速度で遠ざかっていく彼女とともにいることはできない。僕の想いは一定の限界速度を持った光。僕の想いはあらゆる空間を最短距離で飛んでいくことができる。しかし、空間は僕自身の重みによって引き伸ばされ、想いは空間に置き忘れられる。岸に向かって息を切らしながら泳ぐ。いくらもがいても、足掻いても、波は沖へと僕を流し、彼女の影は点となって消えてしまう。僕を押し流す波が胃の中に流れ込んでくる。僕の血液は海水となり、海間で透明に溶けていく。
目を開ける。
光に目が眩む。あまりにも強い光だ。光は目に見えない。なぜなら僕らが目にするものは、ものではなく、すべて光なのだから。
葡萄と消毒液。僕はその煙に包まれ、後悔の匂いを浮き輪にして、しばらく波に身を揺らす。ゆっくりと身体が左右に、上下に揺れ……船酔い。誰かがパンパンに膨れた胃を気まぐれに握ったりして遊んでいる。ひどく不快だ。それからこめかみに釘を打ち込んだような鈍痛。違う、釘じゃない。螺子だ。いくつも山を持った螺子。それを無理やり押したり引いたりするものだから、がりがりと頭蓋骨が削られてしまう。ひどい音だ。
しばらく梁木はそのようにして、夢と現実の狭間で、身体の痺れと格闘していた。そして、五分ほどそうした後に、急に椅子から立ち上がり、足を縺れさせながら、壁にぶつかっては跳ね返りを繰り返し、トイレへと駆け込んだ。胃を裏返すように、黴と酸の混じった匂いがする液体を吐き出す。水風船を針で割ったように勢いよく。胃の痙攣を感じる。その胃の痙攣は梁木の意思とは無関係に、何かを拒絶していた。自分の意思とは無関係に示される強い拒絶の反応について、梁木は場違いに覚醒した脳の一部で思考し、馬鹿みたいに生命の神秘を想う。
吐き気が収まるまで、自分が吐き出したものの泡立ちを梁木は見下ろし続けた。次の吐き気の波がやって来ないことを確信し、そしてその泡立ちも見飽きるとようやく立ち上がる。完全に自分の身体とは隔絶されたその嘔吐物に一瞥をくれると、レバーを捻って水を流す。水は渦となり、渦はそこに広がる混沌を飲み込んで、暗黒の中へと消えていった。あとには素知らぬ顔をした透明な水面が顔を表して、また次の何かを待つこともなく腰を据えていた。
部屋に戻り、ガラステーブルの上に置かれた絵を眺める。ボールペンだけで描かれたモノクロの絵。梁木と同じ職場で働く若い女が、酔いの憂さ晴らしに描いた絵。ホテルの内装とその中心には黒い影があった。
梁木はベッドの上で眠る津野をしばらく立ったまま眺めていた。
ふと首を捻り、壁に掛けられた薄型テレビの艶やかな黒の画面に映る人間の姿を見つける。自分だ……自分か?
そして、おもむろにスーツを脱いで、ワイシャツを脱いで、下着を脱ぐ。津野が包まる布団を剥ぎ、良い匂いのする彼女に梁木は覆いかぶさった。
2019.12.03