霏々

音楽や小説など

Angry Blue

 太陽が南中をわずかに過ぎたくらいの時分、荒廃した街のコンクリートの道の上を、瓦礫やその隙間から伸びる腰の丈くらいの雑草を避けるようにして、一人の女が悪戦苦闘しながら歩いていた。今はもう誰も、それこそ浮浪者さえ寄り付かなくなっている幾つもの崩れかけのビルが、嘗てはこの街のメインストリートであったであろう車道に短い影を落としている。砂利やらガラスの破片やらがコンクリートの亀裂に挟まっていて、或いはそこに収まりきらずに道の上にまばらに散乱していて、女が足を踏み込む度にこの静かな都市にジャリ、ジャリという無機質な音が響く。時折、小鳥などが瓦礫の山の上で一休みする様子や、雑草と瓦礫の隙間に消えていく様子が見られたけれど、それ以外にはこの辺りには生物の気配というものが全く感じられない。女は心細さを打ち消すように歩調を速め、瓦礫や雑草やビルの影の合間を縫うように一目散に道を進んでいく。額からは汗が流れ、熱気の籠った麦わらの帽子を一度頭から取り外すと、長い髪を翻して空気を入れ替えてから、また帽子を被り直した。左腕には小さめの木製の三脚を抱え、背中には汚れないように布で包装したキャンバスと画材の詰まったリュックを担いでいる。線の細い彼女がそれらの荷物を身に着けながら、この荒々しい道を進むのはなかなか酷なことのように見えるが、生憎、この場所にはそんな彼女を慮って足を止めるように諭したり、ましてや彼女の荷物を一つ持ってあげたりするような人間、或いは生き物などは何一ついなかった。ただただ、初夏の陽射しが天から真っ直ぐに彼女を突き刺し、そんな彼女を不憫に思った崩れかけのビルたちも、この時分では彼女に向けて自分の影を伸ばしてやることはできなかった。

 彼女は禅の修行に精を出す僧侶のように、ただひたすらと無心に足を踏み出していたが、さすがに途中で疲労感に負け、一度日陰で休憩を入れることにした。ビルの外壁に背中をもたせかけて、麦わら帽子を脱ぎ、砂利の上に腰を下ろして汗を拭ったところで、彼女はようやく海の匂いがすることに気が付いた。どうやら目的地まではあと少し、というところらしい。耳を澄ませてもまだ波の音は聞こえなかったが、彼女は手元に転がっていた鉄屑がかなり錆びているのを見つけて、海が近いことを確信し、ほんの少し顔を綻ばせた。ふくらはぎを揉んだり、簡単なストレッチをしたところで、彼女は腰を上げる。細い足首が少し見えるくらいの長めのスカートについた汚れを軽く払ってから荷物を担ぐと、「よし」と気合を入れ直して、また道を真っ直ぐ進んで行った。

 

 ずっと真っ直ぐ行った先。そこで道が途切れているのが見えた。耳を澄ませば、何となく波の音が聞こえるような気もするが、疲労で乱れた呼吸音が邪魔して朧気にしか聞こえない。彼女は額の汗を腕で拭い、それから帽子と髪の中に溜まった熱気を一度追い払ってから、また足を踏み出した。彼女がこの区画に足を踏み入れた時と比べると、今現在、彼女が立っている場所は若干開けた雰囲気があった。相変わらずメインストリート沿いに建物が並んでいたが、背の高いビルが少なく、崩れて瓦礫になっているものが多かったからだろう。頭上には拳大の真っ白な雲を幾つか含んだ青空が広がり、それは彼女の目線のずっと先の方まで続いていた。三百メートルほど歩いたところで彼女の眼にはようやく空よりも濃い青色を示す水平線が映った。

 まるで世界の果てのような道の終わりに、今にも指先で触れることができそうなくらいの所まで来ると、彼女は荷物を比較的平らで清潔そうな瓦礫の上に置いて、子供のように駆け出した。長く険しかったメインストリートは彼女が話で聞いていたように、まるでそこから先が異空間に吸い込まれてしまったみたいに突然断絶されていた。道の両側の建物も道と同じような感じで、どこまでも広がる海に向けて真っ二つにされた木箱のようにその口を広げている。コンクリートの地面は損傷が激しく、ところどころ茶色い土が覗いている。彼女は道のギリギリまでゆっくりと歩いて行き、吹き付ける海風に麦わら帽子を飛ばされないように右手を頭の上に置きながら、そっと崖の下を覗き込んでみた。崖の影の中で、海は夜のように深い青色で、そこに岸壁で砕け散った白い波の紋様が浮かび上がっている。ここから水面までだいたい建物三、四階分くらいの高さだろうか。下の方からは風が吹きあがって来ていて、女の栗色の髪が麦わら帽子を包み込むように舞った。一通り崖の下の景色を堪能すると、彼女は海に向かって突き出したコンクリートの一角に腰を降ろし、おずおずと足を崖に向かって降ろしてみた。ふわふわとした高揚感と背筋に走るムズムズとした緊張感に、ふと童心が思い返される。けれど、そんな彼女の精神的な若返りに後ろ指を刺すような人間はここには誰もいない。彼女は慣れてくると子供のように足を交互に蹴り出しながら、気が済むまで目の前に広がる青い海を眺めた。

「これが海かぁ」

 潮風と初夏の陽射し。それから波の音、海の匂い。何と言っても、これだけの雄大な景色を独り占めしている、という思いが彼女の心を癒した。翼の縁が黒く、嘴が黄色の中くらいの大きさの白い鳥が一羽、滑るように空を飛んでいく。美しい光景だった。それから女は立ち上がり、一旦世界の果てに背を向け、荷物を置いたところまで戻る。背中に布を捲いたキャンバスと画材の入ったリュックを担ぎ、左腕に三脚を抱え、そこからすぐ左手の建物に入った。入口の扉は壊れていて、建物のすぐ外に転がっていた。窓ガラスは全部割れている。

 乾いた足音が建物の中に虚ろに響き渡る。入口の正面には胸くらいの丈の壁が四、五メートルの幅で真横に伸びていて、嘗てこの部屋がロビーとして機能していたことを窺わせた。壁紙はほとんど剥がれていて、残っていても黒ずんで汚れている。剥き出しのコンクリートがひんやりとした空気を建物の中に漂わせていた。ガラスを失ったただの四角い穴の窓からは光が差し込んできていて、壁際に密生した雑草の首の辺りに温かな陽光を投げかけている。女は目的の場所はこんな所ではない、といった具合で、まずはこの廃墟の一階部分を探索し、一番西側、つまり部屋の半分が海の底に崩落して、海に向かって口を開いている部屋に入ると、そこから海と空を眺め、首を傾げた。そして彼女は三脚を抱えたまま引き換えし、今度は階段を見つけて廃墟の上の階を探索し始める。二階は部屋に続く道が崩れ落ちていたため諦め、また階段を上に登り、三階を目指す。三階は壊滅を逃れ、まだ訪問者を受け入れるだけの形を成していた。そして、海織はまた一番西側の海を望める部屋を探す。

 彼女がその部屋に足を踏み入れてまず最初に見たのは、海でも空でもなく、一人の人間の影であった。こんな場所で人に遭遇するとは思ってもみなかったため、彼女は若干怯んだ様子を見せたが、ふと、その後ろ姿に既視感を覚えたようで、恐る恐る声を掛けた。

「あの」

 部屋の南西側と北西側の壁はほとんど崩れていて、南西側には先程メインストリートの崖っぷちから眺めたのと同じ水平線が見える。北西側には、ここと同じように突如異空間に吸い込まれたようにして出来上がった、大海と大地を隔てる岸壁の境界線がどこまでも遠くまで連なっている様子が展望できた。部屋の隅に座りながらその境界線を睨んでいた青年は女の声に気が付き、驚いたように振り返る。目を細め、暗がりで立ち尽くす彼女の顔を凝視しながら女の次の言葉を待っているようだった。

「もしかして、悠くん?」女は麦わら帽子を右手で取り外しながら、少し顔の位置を下げて言った。それから長い栗色の髪についた帽子の癖を簡単に指先で梳きほぐした。

「誰、あんた?」女に「悠」と呼ばれた男はぶっきらぼうにそう返すと、座ったまま身体を捻り、女を下から険しい表情で睨みつける。が、それは何も敵対心から来る険しさではなく、どうやら煌めく水面の眩しさに網膜を突き刺されていた後遺症から来る、一時的な顔面上のみの険しさのようだった。しかし、女はそんなこと知る由も無く、自分の柔らかい声音とは対照的な男の挑発的な視線に少々の憤りを感じ、できるだけそれを隠そうとはしながらも「忘れたの? 海織よ」とやや厳しい口調で返した。

「悪いけど知らないな。それにおれの名前は悠じゃないよ」

「そんなわけないでしょ。どっからどう見ても、悠くんじゃない」

「悠はおれの兄貴の名前だ。俺の名前は「悠」じゃなくて「ヨウ」。漢字は「葉っぱ」って書いて「葉」な。人間失格のあいつと同じだ」男はユーモアのつもりなのか、気取った風な喋り方でそう言った。

 海織と名乗った女は、その葉と名乗った男の言葉の真偽を確かめるように、その体躯、それから顔をじっくりと眺めた。しかし、外の景色が明るい分、この廃墟の中には濃密な影が垂れ込めていてうまく判別することができない。

「悠くんは弟がいるなんて言ってなかったけど」と問い詰めるように海織は言った。

「あいつは俺のこと嫌ってたからな。多分、兄貴の知り合いで俺の存在を知ってた奴なんて一人もいないよ。まぁ、俺の知り合いで兄貴知ってる奴は割といたけど。そんなことより、あんたは誰だよ。兄貴の女かなんかか?」

「人の女、みたいなレッテルの張り方やめてくれる? 別に女を見くびるなとか、差別はやめろとかそういうんじゃないけど、何かの付属品みたいな感じで呼ばれるのは単純に気分悪いわ。そうでしょ、悠くんの弟くん?」

「ふん」葉は海織の皮肉に軽く鼻を鳴らす。「わかったよ。でも、兄貴とはどういう関係だったんだ?」

「どうして出会ったばかりのあなたにそんなこと言わなきゃいけないのよ」

「別にいいじゃんか。一応、おれはあいつの弟なんだ。兄貴の知り合いとこんなわけのわかんないとこで出会ったんだから、それくらい聞いたっていいだろう?」

「そうかしら」

「そうだよ」

 葉は決めつけるように海織に言い放った。海織はやや不服な思いだったが、葉の言う通り、こんなところで出会ったかつての知り合いの弟に対して何も話を誤魔化す必要は無い、と判断してか、諦めたような芝居がかった溜息を漏らしてから口を開いた。

「まぁ、そうね……ほとんどあなたの言う通りよ。高校のときの女だけどね」

「なるほどね。苦労しただろ?」

「何が?」

「あんな兄貴と付き合うなんて正気の沙汰じゃないよ。大事な青春の一ページを無駄にしたんじゃないか?」

「そんなことないわ。悠くんは良い人だった。頭も良かったし、優しかった。それに純粋な人だったわね。あなたの希望に沿えなくて残念だけど、まぁ、一般的な甘くてほろ苦い青春の思い出ってところかしら」

「でも、結局別れたんだろ?」葉は手元に落ちていた石を拾い上げ、それを海に向かって投げながら言った。

「それは仕方ないわよ。大学は別々だったし、それに私たちの関係ってなんて言うか……あんまり親し過ぎるような感じじゃなかったの。そんなにベタベタしなかったし、所謂、清い交際、ってやつよ」

「だから大学に進学すると同時に、そんなに仲良くなかったクラスメイトみたいな感じで別れたわけか」

「べつにそこまでじゃないわ。それに正確には別れたのは大学に入る直前だったから、たまたま、タイミング的に他のクラスメイトみたくさらっと疎遠になっただけで……でも、それの何が悪いの? 確かに、味気ないし、ちょっと冷めた関係みたいだけど……」

「「ちょっと」じゃないだろ。「だいぶ」だ」

「……でも、後腐れなくて清々しいじゃない。それに一緒にいて私はちゃんと幸せだったわ。物足りなさみたいなのもあったにはあったけれどね。ていうか、あなた、さっきからだいぶ不機嫌な感じだけれど、もしかしてお兄さんのこと嫌いなの? 何か気に喰わないところでもあるの?」

「あぁ、全部気に喰わないね。あんたはそう思わないかもしれないけど、少なくとも、俺はあいつと二十年近くも一緒に暮らしてきていつも嫌な思いをしてたけどな。あいつを好きになるなんて、あんたは俺の両親と同じで変わりもんだよ」

「変わり者はあなたの方だと思うけど」

 そこから二人はしばらくの間、沈黙の中でお互いを睨みつけていた。あまり良くない雰囲気が廃墟に立ち込め始めていたけれど、波の音はどこまでも清らかで、不思議と険悪な沈黙はいつまでも続かなかった。葉の方が先に視線を外し、短い溜息を漏らしながら口を開く。「で、あんたは何しにこんなとこまで?」葉は海織の持っている三脚やら何やらをちらりと見やる。「絵でも描きに来たのか?」

「そうね。大学の課題なのよ」

「へぇ、そうか。でも、珍しいな、こんな何にもない世界の終わりみたいなとこまで来るなんて。近頃の美大生ってのは皆キャンバス背負って瓦礫の山を昇ったりすんのか」

「普通の人は教室とかで描くんじゃない?」

「部屋ん中で風景画なんて描けんのかよ」

「風景画を描く人は少ないの。皆、抽象画やらなんやら、よく分からないの描いてるわね」

「あんただけ流行遅れの風景画の練習ってわけか。写真撮った方が早いだろうに」

「別に流行とかそんなの関係無いわ。それに写真と絵は全然別物よ。私はただ綺麗なものが描きたいの。周りの皆が奇を衒ったみたいにしてやってるようなものは、もうウンザリだわ」海織は眉間に皺を寄せながら言う。そして大きく息を吐き出すと、荷物を全部コンクリートの床の上に置いた。麦わら帽子が海風で飛ばされないように三脚の脚の下に縁の部分を差し込む。

「周りの人間がやってるようなの、っていったいどういうやつなんだ? 周りの人間は綺麗なものを描いてないのかよ」

「そうね。どちらかと言えば、なんていうかな……大抵が独善的で、自尊心とか自己陶酔とか、そういうものの具現化でしかないような気がするのよ。あとは、課題だからとりあえずちゃっちゃと終わらせよう、みたいな芸術でも何でもない代物よ」

「難しい言葉はわからないけどね。まぁ、でも俺からしたら、そんな重たそうなものを担いで、この陽射しの中をこんなとこまで歩いて来るなんていう、あんたの方がどうかしてると思うけどな。馬鹿か狂った人間にしかそんなことはできないよ。少なくとも、聡明でセンスのある人間はそんなことはしないね」

「あなたに何がわかるのよ。私は誰よりもまともだわ。こんな綺麗な景色があるんだから、それを見ながら描いた方が、あんな狭っ苦しい教室で描くよりも良い絵ができるに決まってるじゃない。それをしようとしないボンクラこそ狂ってるわ」

「そんなもんかね」

「そうよ。だいたいあなたこそ、なんでこんなところにいるの? 荷物が見当たらないけど、まさか散歩でこんなとこまで来たっていうわけじゃないでしょう?」

 海織の問いに葉は小さく笑うと、そこからゆっくりと立ち上がって、この廃墟の天井を支える柱へと近づいて行った。海織はその立った時の姿を見て、やはり自分が高校生の時に付き合っていた彼そのものではないか、という風に感じていた。髪型や雰囲気は変わっていたが、背格好がそっくりなのだ。海織に見つめられながら、葉はその柱の影から一冊の小さな本を取り出した。親指と中指で背の部分を挟み込み、それを自慢げに海織に見せつけながら口を開く。

「散歩、兼、読書だ」

 海織は呆れたように両手を腰に置いて、横目で葉のことを見やった。「それ、本気で言ってるの?」

「わざわざ、まず来ないと思われる客人の為に冗談を仕込んでおくほど俺も暇じゃない」

「……本当にただの散歩と読書の為にここまで来たの? 何か別の目的があるんじゃないの?」

「別の目的、って例えば?」

「……それこそ写真を撮るとか」

「あのね、俺はわざわざ独創的かつ芸術的な写真を撮るためにこんなところに来るほど馬鹿じゃない。こんな荒廃した景色を撮って何になるって言うんだ? あんたらみたいな都会育ちにとってはこういう光景は物珍しく見えるかもしれないけど、こんな景色、世の中にはいくらだってあるぜ? 多分、知らないのはあんたくらいのもんさ」

「あなたも悠くんの弟なら都会育ちでしょう?」海織は額の汗を拭い、前髪を整えながら言う。「それにここからの景色は綺麗よ。世界的にはありきたりなものなのかもしれないけど、少なくとも安っぽくて下らないモダンアートに取り囲まれたありきたりな街角よりもよほど綺麗」

「それはどうだろうな。この廃墟を見てみればわかると思うけど、こんなもん人間の愚かさのモニュメントみたいなものじゃないか。勝手にこんな無機質な物建てまくって、そんでちょっと住みづらくなったからって、自分達が建てたものほったらかして皆出て行ったんだ。糞した後にそのまま立ち去る動物と一緒さ」

「そうかもしれないわね。でも、たとえ比喩でもそういう汚い言葉を使わないでくれる? あなたのそういうところ、お兄さんは嫌ってたんじゃない?」

「さぁな。あいつは俺のどういう部分が嫌い、とかは言ってなかったからなぁ。でも、間違いないのは、俺が「糞」とか言わなくなっても、兄貴は俺のこと好きにならないってことだ。あの糞野郎め」

「はぁ。あなたって本当に学習能力がないのね。正直、見てくれはとってもお兄さんそっくりだったから、私、ずっと悠くんにからかわれてるだけじゃないのか、って思ってたけど、どうやらそうじゃないようね、葉くん?」

「その通り。存在しない弟を作り上げて元カノをからかう、か。まぁ、たしかにあいつがやりそうなことだ。事実、俺は小学生のとき、三日ばかしの間、あいつの他にあともう一人兄貴がいるって思い込んでた時期があったよ。あいつに騙されてな。俺がその是非を母さんに問うたら、母さん、顔を真っ青にして父さんのところに駆けてったよ。それで隠し子がいるとかいないとかで結構揉めちゃったな」

「ふふふ、悠くんはお母さんも騙したのね」

「なんで嬉しそうなんだよ、あんた」

 葉は呆れたように柱に寄り掛かって、本の栞を挟んでいた箇所を開き、集中して読むでもなく、そのページの文字の織りなす不可解な図形を眺めた。その時、急な突風が廃墟の中に吹き込み、ページがパラパラと捲れていく。葉は栞を取ってしまったことを後悔しながら、チッと舌打ちをかました。

「あなた、今いくつなの?」海織は風に舞った髪を整えながら、葉に尋ねる。

「おい、俺の質問は無視かよ」

「なぁに、質問って?」

「はぁ。もういいよ。代わりに俺があんたの質問に答えてやろう。俺はこの間の五月で三十六になったよ」

「冗談言わないでよ。私と悠くんがまだ二十二歳なのに、弟のあなたが三十六になるわけないでしょ」

「じゃぁ、俺の方が兄貴ってことなのかもしれないな。畜生、あいつずっと兄貴面しやがって」

「ふふふ、あなたもお兄さんに似て面白い冗談言うわね。幾分か言葉は汚いけど」

「はぁ? あんなやつと似てるとかそれこそ冗談きついぜ。俺はあいつに似ないようにこれまで努力して生きて来たんだ。あいつと似てる、なんてことがあったら俺は今すぐにでもここから飛び降りて海の藻屑になってやるよ」葉は喋りながら、柱を離れ、壁の無い壁際まで歩いて行った。「おい、突き飛ばすなら今がチャンスだぜ?」

「別に突き飛ばしたりはしないわよ。死ぬなら、勝手に死んでちょうだい」

「冷たいんだな」葉は笑うと、右足を上げてそれを崖の向うに伸ばしてみせた。青い背景にほんのりと日焼けした意外とがっしりしている脚が重なる。

「ちょっと、危ないでしょ!」海織は慌てて駆け寄って、葉の来ていたTシャツの裾を引っ張る。その時、急な突風が下から吹き上げて来て、二人はバランスを崩しながら部屋の中央あたりまでよろめいて行った。海織はどすんと尻餅をついて、ケラケラと笑っている葉に向かって「ここであなたが落ちたら、まず私が疑われちゃうじゃない」と弾む心臓を抑えつけながら叫んだ。そこでまた葉が子供っぽくケラケラと笑う。「何がそんなにおかしいのよ」

「いやね、今のあんたの台詞、どっかで聞いたことあるな、って思って」

「はぁ?」

「だから、「私が疑われちゃうじゃない」ってやつ。思わず助けちまったイジメられっ子に「別にあんたの為じゃないし。あんたが死んだらクラスの雰囲気が悪くなると思ったから助けたのよ」みたいな台詞。よくあるじゃないか、わかるだろ?」

「わからないわよ。ていうかね、私、自殺しようとする人とか、本当に嫌いなの。まるで、自分さえ死んでしまえばあとはどうでもいい、みたいな感じでしょ。無責任すぎると思わない? 死体が残る自殺方法だったら、死体の処理はどうするんだ、って話だし。死体が残らない方法でも、たとえば、今こっから飛び降りるとかね。そういう方法だと、あなたを知ってる人は何日間も行方不明のあなたを探す羽目になるわ。それに、どっちにしたって残された側は自殺した原因はなんだろう、って頭を悩ませることになるのよ。あなた達腰抜けが思っているよりも、「死」ってものは大きいんだから」

「まぁ、一理あるな。あんたの有り難い説法の前半部分には俺も納得だね」

「それは後半部分には反対だってこと?」

「そうだな。二種類の反論があるな。まず、一つ目は、あんたのその説法は自殺したいと思ってる人間には通用しない、ってことだな。他人がどうなるか気になってるような奴は最初っから自殺なんてできないよ。自殺しようとするやつは、とりあえず目の前の絶望から逃げたいだけなんだ。そんな奴がさっきのあんたの話を聞いたら、自分勝手に曲解して、余計絶望に囚われるだけさ。何よりも「腰抜け」って言葉はいただけない。俺が本当に自殺志願者だったら、「死ぬのにも勇気がいるんだ」なんて叫びながらこっから一直線に飛んでったと思うね。そして二つ目はな、「死」なんかべつに大きくはない、ってことだよ。「死」が大きいものだ、なんて後に残される側の勝手な理屈だな。別に「命を軽々しく扱え」ってわけじゃないけどさ。かといって、何よりも尊いもの、ってわけでもない。そもそも物事に大小なんてものは存在しないんだよ。平和だろうが、宇宙だろうが、ダンゴムシだろうが、スプーンだろうが、結局は全部粒子の集合体でしかない。学校で習っただろう、「すいへいりーべー」だかなんだか、そういうやつを。細かく見ていけば、もっと違うこともあるのかもしれないけど、所詮、そういった粒の一時的な集まりが全てなんだ。だから、俺の右手とこの廃墟の埃との間に境界なんてものは存在しないだろうし、俺と海を隔てるものも無い。それをさも人間様の命だけは特別だ、みたいな考え方は古い宗教の名残でしかないね。まぁ、俺の考え方も「科学」っていう宗教から来てるものだとは思うけどさ。だからさ、結局のところ残される側の人間ってのは「死」っていうものについて、その本質を知りたくはないんだ。「死」を考えるということはつまり「生」を考えるってことだ。もし、「死」や「生」ってやつが空虚なもので、色んなものと等価値でしかない、なんて答に行きついたとしたら、俺みたいな考え方を知らない人間からしたら、それは結構恐ろしいものだろう? それに、誰かが死んだら悲しい、っていうステレオタイプの反応も「死」を重く見る原因だろうな。悲しい思いをしたくないから、「死」ってものを祀り上げてる。実際、その悲しみなんてものは単なる喪失感にしか過ぎないってのに。若い頃からヘアスタイルを気にしていた中年が鏡に映る薄くなった頭を見て思う感情と同じだな。自分の生活や記憶の中で重要な位置を占めるものが無くなる喪失感ってのは誰にも耐えがたいものだろう。それは誰か人間のようなものであるかもしれないし、昔の恋人の写真とかそういう具体的な物かもしれないし、自分の行動原理である信念のようなものかもしれない。どれも各個人にとっては重要であるかもしれないけど、絶対的な客観性の中において重要度が設定されているわけじゃない。だから、命は大切だ、とか、想い出は大切だ、とか、信念は大切だ、とか、一般的にそういうふうに持て囃されてるものも突き詰めれば等価値でしかない。つまり、個人的なものなんだよ。そういう全てのものが。だから、「死」を軽々しく考えるな、ってのはその自殺志願者の周りで生きてる奴らの勝手な理屈だよ。自分が大切だと思ってる「命」ってものを、他人にも軽々しく取り扱ってはほしくない、っていう単なる願望さ。それをこれから死のうとしてる人間に向かって叫んだって、死ぬ側にしてみれば「勝手な事言ってんじゃねぇ」って話さ」

 葉は喋り疲れたみたいに溜息をつきながらその場に腰を下ろした。尻餅をついたままコンクリートの上に座り続けていた海織は「随分、お喋りなのね」と呟いたが、葉はそれを無視したまましばらく黙って意味も無く頬を掻いてたりしていた。海織も所在なさそうに波の音を聞いていたが、ふと、自分の手が今にも葉の腿に触れそうなくらい近づいているということに気が付くと、特に言葉を発するでもなくその場から立ち上がる。そして、スカートの尻についた埃を手で払ってから画材を置いたところまで歩いて行った。

「どうして自殺の話になんかなったんだっけな」葉が力無い言葉を発する。

「あなたが急にそこから飛び降りようとしたりするからでしょ」

「そうだったけな」片膝を立ててそこに体重をかけるようにしていた葉は、急にその体勢に飽きてしまったかのように、今度は天井を見上げるようにしてコンクリートの床の上に寝転がった。砂埃がそこら中に散布されたような床だったから、決して清潔とは言えなかったが、彼はまるで気にしていないようだ。「絵、描くのか?」

「そうよ。そのために来たんだもの」

 海織は三脚を立て、キャンバスを包装していた布を取り外すと、それを三脚の上に乗っけた。「留め具」を失った麦わら帽子は風でふわりと部屋の奥へと流されて、四隅の所で壁にぶつかり、そのまま地面に落ちた。海織はその帽子をしばらくの間見つめてから、あそこならもう風で飛ばされることも無いだろう、と判断すると、それからリュックの中から小さなペンケースを取り出す。

「うそ……全部、折れてる」

 それは海織の独り言みたいなもので、声は波の音にその意味を消されるくらい小さかった。葉はその意味を失った音が気になったようで、ちらりと海織の方を見やったが、その言葉が自分に向かって発せられたものでないことがわかると、また天井に視線を戻した。海織はペンケースから取り出した全て芯の先の折れた三本の鉛筆のうち二本をまたペンケースの中に戻した。手元に残った一本を左手の指の間に挟みながら、またリュックの中に右手を突っ込み、しばらく指先の感触だけを頼りに何かを探している。葉はそのガサゴソという物音にまた海織の方が気になったようで、彼女の皺の寄った眉間や、風に揺れる栗色の毛先や白いロングスカートの裾を眺めていた。

 海織は雑然としたリュックの中からカッターナイフを見つけると、そのカバーを取り外し、銀色の刃先の光り具合を確かめる。刃で反射した柔らかい光がコンクリートの上に、小動物が戯れているような陽だまりをちらちらと映している。

「それで俺を刺すつもりか?」

「死体の処理の仕方を思いついたらね」

「海に落とせばいいだろう?」

「ダメよ。どこかの岸に上がっても困るし、船に吊り上げられても困るしね。海に捨てるにしても、一回きちんとバラバラにしないと」海織は悪戯な笑みを浮かべながら、右手に持ったカッターナイフを葉に振って見せた。それから近くの柱に身体を持たせかけながら、芯の折れた鉛筆の先を削り始める。

「俺は絵のことってあんまり知らないんだが、風景画を描くときってのは鉛筆で下絵を描くもんなのか?」

「普通は描かないんじゃないかしら。それに、私も下絵を描くつもりで鉛筆を削ってるわけじゃないわ。本格的に描き始める前に一回簡単なスケッチを描いておきたいの。油絵ってすごく感覚的な表現ができるけど、鉛筆のデッサンには写実性が求められるでしょ? だから物質の性質みたいなものを把握するのにとっても便利なのよ。雲はこういう感じで、波はこういう感じ、みたいな。もちろん、全部感性に任せて描いてみるのも刺激的だとは思うけど、私は自分を表現するとかそういうことよりは、今は綺麗なものを描きたい気分なの。だから、絵に深みを持たせるためには大事な工程だと思うのよ」慣れた手つきで鉛筆を削りながら海織が言う。どこか得意気な面持ちだが、葉の興味深げな視線に気が付くと唇を真っ直ぐ結び直した。

「結構真剣なんだな」

「当たり前でしょ。美大の卒業証書が欲しくて美大に通ってるわけじゃないわ」

「将来は絵で食べてくつもりなのかよ」

「できることなら、ね。もちろん、そんな簡単に絵で食べていけるなんて思ってないわ。純粋な、自分の描きたいことだけを描いて食べていくのはさすがに不可能だと思うし……そりゃぁ、絵を描いて食べていくんだとしても下らない広告のデザインだとか、そういう仕事が基本にはなるでしょう。でも、自分の納得できる素敵な絵を描いて、それを誰かに気に入ってもらえるような仕事が百回に一回でもできるなら、私は画家になりたいわ」海織はそう喋っている間もずっと鉛筆の先を削り続けていた。しかし、どうやら鉛筆の芯の損傷は想像よりも激しかったらしく、良い感じに形が整ってきたところで芯が根元の辺りからぽろっと取れてしまった。彼女は映画の役者のように露骨に肩を落とし、溜息を浮かべると、少々苛立ちながらもまた芯を削る作業に取り掛かった。「もちろん、願いは画家になることだけれどね。それでなかったら、さっさとお金持ちと結婚して優雅な生活を送りながら自由気ままに絵を描いていく、っていうプランもあるにはあるのよ。そんな「妻としての仕事の片手間」みたいな描き方で良いものができる気はしないけれど、それでも絵の無い生活よりはマシね。まぁ、当分はその選択肢に飛びつくようなことはするつもりないけど……あのね、あなたはそうは思わないかもしれないけど、私って意外とモテるのよ。だから、結婚しようと思えば多分できちゃうはずよ。でもね、そんな水みたいにただ低い所に流れていくようなものの決め方はまだ嫌なの。両親には画家なんてやめてさっさと結婚しろ、みたいに言われるけどね。女の幸せは結婚の先にある、みたいなこととかさ。でもね、私は幸せになりたいから絵を描いてるわけじゃないの。それに幸せになりたいから生きているわけでもない。素敵な奥さんになってご亭主に大事にしてもらいたいわけでも、子供の為にあちこち走り回りたいわけでも、微笑ましい家族写真を棚の上に飾りたいわけでもないのよ。もちろん、何も考えずにそんな幸せを受け入れられたらいいな、って思う時もあるわよ。でも、私、まだそんな怪物みたいに恐ろしいものとは正面切って向き合えないわ。きっとそんな幸せを受け入れてしまったら、今の私の中の絵に対する情熱みたいなものは消えていってしまう。せっかく私の中に灯り始めたものだもの。まだ失いたくはないわ。その火が決して消えないくらい大きくなるまで、若しくはすっかり消え去ってしまうまでは、薪をくべ続けてみたいのよ。こういう感覚って、あなたわかるかしら?」

 海織が葉に質問を投げかけた時には海織の手はすっかりと仕事をやめてしまっていた。カッターナイフの先に引っ掛かっていた木屑が柔らかな風で吹き飛ばされる。

「随分とお喋りなんだな」葉は負けず嫌いな子供がするように、得意気な表情を浮かべながらさっきのお返しと言わんばかりにそう返した。視線は天井に注がれたままだ。それからちらっと振り返り、海織の不機嫌そうな顔を見つけると、追い打ちをかけるように「知ってるか? あんたと俺は初対面なんだぜ」と半笑い気味に言う。そして海織の反応も見ぬまま、また天井に視線を戻した。

「知ってるわよ。だいたい、あなただってさっき初対面の私に向かって自分勝手な自殺論を語ってくれたじゃない。今時いないわよ、そうやって自分の持論を得意気に披露する目立ちたがり屋の男って」海織は床に寝転がっている葉に向かって言い放ったが、葉の方は口角を上げて鼻を鳴らすばかりで、目を合わせようともしない。海織は葉の反論が出てくるのを待ってみたけれど、返ってくる気配が無いので仕方なく言葉を続ける。「まぁ、私も他人のことを言えないってのはわかってるけど。でも、私はあなたのお兄さんと仲良くしてたわけだし、それにあなたはまるで虫に集られてるみたいに嫌がると思うけど、あなたやっぱり悠くんにそっくり。あなたが汚い言葉も吐きもせずに黙ったまんまだと、つい、昔の知り合いを相手にしてるみたいに話しちゃうのよ」

「俺が兄貴と似てるからつい喋っちゃう、ねぇ……まぁ、百歩譲って俺と兄貴が似ているとしても、あんた、俺の兄貴とそんな腹の内をぶちまけるような会話なんてしたこと無かったろう?」

「そんなこと、なんであなたにわかるのよ」

「わかるさ。俺も不本意だけれど、これでも兄貴のことは結構よく理解してるつもりなんだ。だからな、兄貴がそんな真剣っぽい話に興味がないことくらい知ってるんだよ。もし、こっちが少しでも真剣そうなそぶりを見せたら、あいつは「へぇ、そっか」なんて眉を下げて深刻そうな面で頷きながらも、内心では「こいつ痛々しいな」とか「必至かよ」みたいなことを考え始めるような奴なんだ、あいつは。きっと真剣になったことなんて一度もないんだろうし、それには、まぁ、同情もするけどさ。にしてもあいつほど他人の心がわからない奴を俺は知らないね。ま、俺も他人の心がわかるような優しい人間ではないけどさ。それともあんたはそんな兄貴の本質に気が付いていなかったのか? 兄貴の糞みたいな本質には気が付かないで、ベラベラとさっきみたいな演説をかましちゃって、それで兄貴に引かれて捨てられたとかそういう訳じゃないよな」

「違うわよ。私たちがダメになった理由はそういうんじゃないの。まぁ、でも、悔しいけどあなたの言う通りね。私は悠くんに向かって夢を語ったり、自分の価値観みたいなのをひけらかしたりしたことは無かったわね。けど、それは悠くんだけが悪いっていうわけじゃないわ。あの時は私もまだ子供だったし、自分の中に確固たる考え方みたいなものはなかった。それは悠くんも同じで、だからこそ必然的に私たちの間にそういうのが無かっただけよ。それに、悠くんだけがそういう「真剣になることを知らない」人間ではないでしょう? 今の世の中、そういう人間が多いんじゃないかしら。まぁ、たとえちゃんと信念を持って生きてる人がいても、そういうことを声高に叫んだりする人間は、今の世の中じゃ影でクスクス笑われる対象よね。事実、あなたもさっき私のこと馬鹿にしたような雰囲気だったし」

「それは悪かったよ。ただ単純に、あんたが言う「今の世の中」風のリアクションを取ってみたかっただけさ。別にあんたを貶めようとか、そういうつもりはないよ。ちょいとからかっただけ。つまりコミュニケーションの一種だな」

「随分と挑発的なコミュニケーション方法ね。そんなんじゃ、あなた社会に出て誰ともコミュニケーションなんて取れないわよ」

「大きなお世話だね。俺はちゃんと場の空気に合わせてこういう態度を取ってるだけだよ。さっきまで攻撃的な口調だった奴が、変にしおらしくしても気持ち悪いだけだろう。だいたい俺とあんたは初対面なのに、最初から険悪な感じだったじゃないか」

「あなたの言葉遣いがいけないのよ。あなた、私に会った瞬間になんて言ったか覚えてる?」

「さぁね。俺はニワトリよりも記憶力が悪くってね。あいつらは三歩分も記憶が保つけど、俺はたった二歩分しか記憶が保たないんだ。まったく、ニワトリ様には畏敬の念を抱くよ」

「あらそう、じゃぁ、私が教えてあげるわよ。あなた、私の顔を睨んで「誰、あんた?」って言ったのよ。あなたにしてみれば初対面の相手よ? だいたい、今でも私のこと「あんた」って言ってるし。仮にも私はあなたより年上なのよ。失礼だと思わない?」

「悪かったな。礼節なんて授業を俺は義務教育で習って来なかったんだ。文句があるなら国か時代にでも言ってくれ」

「はぁ、ほんと呆れたもんね」海織はまさに呆れたような仕草で以って、汚い床に寝転び続ける葉の姿を見下ろし続けていた。そしてふとやるべきことを思い出したように、鉛筆の芯を削る作業を再開した。余裕そうな表情を浮かべている葉に、海織は何かを言ってやりたいような気分ではあったけれど、良い皮肉も思いつかず、仕方なく鉛筆を削り続ける。

 太陽はまだ高く、廃墟の中にはまだ濃密な影が垂れ込めていたけれど、波が一つ、二つと押し寄せては返していく度に徐々にその色味は薄まっていき、空の端は青から白、そして薄い黄色へと移り変わっていく。風だけは不定期に建物の中に吹き込み、優秀な家政婦のように良き折に海織の足元に落ちた鉛筆の乾いた木の皮をさらっていく。波の音と鉛筆を削る音。葉も海織に向かって何かを言ってやろうか、と一度彼女の方に視線を流してはみたものの、特にこれといった言葉も出てこなかったので、手元の文庫本を寝転がったまま広げて文字を眺め出した。が、横になったままでは文字が影に飲み込まれてうまく判別できないことに気が付くと、そのまま本を顔の上に開いたまま置いて、目隠し代わりに使った。手は頭の後ろで組んで枕代わりにする。

 しばらくして海織は鉛筆を削り終わると、小さめのスケッチブックをリュックから取り出し、葉がさっき身を乗り出しかけた辺りまで行った。空とコンクリートの境界線ギリギリまで行くには多少勇気が必要だったが、大抵の場合と同じように好奇心は恐怖心に勝る。深く息を吸い込むと、潮の匂いに混じって空から降り注ぐ夏の香を感じる。心地よい風が汗の滲んでいた首筋を撫でていく。海織は葉の顔に文庫本が乗っかったままであることを確認してからしばらくの間、そこで宗教的儀式に興じる僧侶のように、自分の身体を包み込むものの存在を感じていた。小指の先から睫毛の先まで神経を集中させ、描くべき情景を思い浮かべる。

 公式の型には少々準じていない瞑想を終えると、海織はその場に座り込み、スケッチブックの新しいページを開いて、一枚の絵を描くというよりは、波であったり海岸線であったり雲であったり、そういった絵のパーツにあたる部分を一つ一つ丁寧に陰影をつけながら描き出していく。最後に三脚の位置まで戻り、この崩れかけのコンクリートの部屋の内装をデッサンした。床に寝転ぶ葉の姿は省こうかどうするか少し考え、せっかくなので描くことにする。葉は自分がデッサンの対象になっていることも知らず、机の上に置かれた孤独な花瓶のように見事に被写体の役割をこなした。およそ一時間くらいだろうか。海織はそんな風に紙の上に濃淡の色鮮やかな鉛の線を走らせていた。

 

 太陽が傾き、廃墟の中に少しずつ光が侵食してくる。海織がデッサンを始めた時には部屋の西側を縁取るくらいだったのが、今ではコンクリートに寝転がった葉の踝辺りを埃っぽい光が温めている。逞しいとは言えずとも健康的な足首だった。海織は最後にその光の当たった足首を新しいページに簡単にデッサンし、それが終わるとスケッチブックを三脚の下に置いた。海織がリュックの中から絵の具と筆を取り出し、いよいよ本格的に絵を描こうかというところで、定められた時刻に動き出す機械のように、葉が横たえていた身体を起こす。文庫本は顔の上から右腿の上に落下し、その衝撃でページが閉ざされるとそのまま埃っぽい床の上に鎮座した。葉は眩しげに目を擦りながら、自らの足首に刻まれた光と影の境界線をじっと見つめる。

「どれくらい寝てた?」葉は海織の方に開き切っていない目を向け粗雑に言い放った。「まさか、一日経ったとか言わないよな」

「あなた凄いわね。隣に初対面の人間がナイフ持って突っ立ってたっていうのにぐっすりと寝られるなんて。それも何の断りもなしに。そんなことできるのはロッキーくらい度胸のある人間か、愚か者よ」

「ロッキーって誰だよ」

「昔の映画よ」海織は自分が言い放った「愚か者」という言葉が葉に響いていないと感じると若干不服そうな面持ちでそう言った。「でもやっぱり、ロッキーなんてあなたには勿体ないくらいね、愚かしき者よ」

「まぁ、好きに言えばいいけどさ。ところで、俺の質問に答えてくれるか? 俺はどれくらい寝てたんだ?」

「さぁね。私、時計持ってないし、時間のことなんてさっぱり。まぁ、でもだいたい一時間くらいかしらね。結構真剣にデッサンしてたからあんまり時間の感覚がないんだけど」

「一時間か」葉は寝ている間に変な癖のついた前髪を右手でくしゃくしゃに掻き毟った。それから鼻の先と目の下に浮き出た油をTシャツの裾で拭う。それが自分の思っていたよりも大量のものだったからなのか、軽く舌打ちをかますと落ちていた文庫本を拾い上げページをパラパラと捲った。「あぁ、くそ、失敗した」とぶつぶつ呟きながら今度は後頭部を掻き毟る。「本が台無しだ」

「別に私のせいじゃないわよ」

「わかってるよ。別にあんたのせいだなんて言ってないだろう。ったく、何で体動かしてないのに寝てる間に汗が出るんだろうな。理不尽な世の中だよ」

「世の中は関係ないでしょ。ちなみに、寝てる間は身体を動かす必要が無いから、体温を下げようとして寝汗をかくらしいわよ。高校の生物の時間に先生が言ってなかった?」

「そんなこと習わなかったね。だいたい「セイブツ」っていう科目名が悪いよな。「イキモノ」ってしてくれれば、まだ親しみが持てるんだけどな」

「あはは。たしかに小学生みたいな子供にはウケが良さそうね」海織は皮肉の手応えを確かめるために葉の表情を窺ったけれど、寝起きの葉には自分の聞きたいと思ったこと以外の情報は耳に入って来ないらしく、独り残念そうに、ページとページの間に汗の痕がついた手元の本を見下ろしていた。「ねぇ、その本、なんていうの?」

「別に大したことないよ、こんな本。当たり前のことが当たり前に書かれてるだけだ。学校の教科書よりも簡潔かつ的を射ている普通の本」

「誰が書いたの?」

「さぁね。まぁ、幸運なことに人間が書いた本だよ」

「当たり前でしょう。猿が書いたなんて言われても信じられないもの」

「ふん、猿だったらまだマシだね。世の中には指人形みたいな空っぽの人間が書いた文章が溢れてる。いや、まぁ、本を書くだけまだ豆くらいの中身はあんのかもしれないけどさ。少なくとも俺の兄貴は本なんて書けなかっただろうからな」

「なんでそこで悠くんが出てくるのよ」

 怪訝そうな顔を向ける海織から葉は本のページに視線を移すと、顔の脂が浸みこんでしまったページをTシャツの裾で軽く撫でながら首を傾げた。何か言葉を言いかけて口を開いたが、やはり思い直して口を閉ざす。しかし、思い直して今度は少し言い淀む感じで小さく口を開いた。

「あいつはな、まさに指人形みたいな空っぽ人間だったんだよ」

「だから、なんでそんなことを今持ち出すのよ。あなたそんなに悠くんのことが嫌いなの? 実のお兄さんなのに?」

「実の兄貴だからムカつくのさ。空っぽの人間の生態ついて考察しているとな、それと同時にあいつのことを思い出すくらいムカつくんだ。あいつは空っぽのくせして偉そうなことペラペラ喋りやがるし、何よりも自分が空っぽだってことに気がつこうとすらしないんだ。いつだって勉強ができて言葉が達者な自分が得意なんだ。あいつはとにかく自尊心を喰らって生きてるような奴なんだよ。他人から褒められるような、憧れられるようなことなら何だって器用にこなしてた。能力をひけらかして常に自分より愚かに見える人間を探して、そんでもってそういうやつらを見下して生きてきやがったんだ。ずっとな。自分こそが本物の空っぽの愚か者だってことにも気が付きもしねぇでさ。自信たっぷり、裸の王様まっしぐら。そのくせ謙虚で心の優しい人間の仮面をずっと被ってたんだ。まぁ、あいつの周りの人間は……そう、あんたも含めてだな。あいつのその馬鹿みたいに薄っぺらい仮面には気づきもしなかったけどな。でも、まぁ、何人かは気が付いていたと俺は信じたいよ。そうじゃなかったら、俺が独り狂ってるみたいになる」

「悠くんのことはともかく、あなた、やっぱりおかしいわよ。そんなにお兄さんのこと嫌いになれるなんて。それに、独りで何の目的も無くこんなところまで来てるくらいだもの」

「あんただって同じようなもんだろ」

「私には絵を描くっていう目的があるわ。「読書と散歩のためにこんなところまでやってきました」なんて馬鹿げたこと言うあなたとは違うのよ」

「俺だって絵が描けたら三脚とキャンバスを担いで来たさ。まぁ、来るにしても季節は選んだと思うけどね。この糞暑い中、大袈裟な荷物背負って瓦礫の山を越えてくるようなあんたの方が狂ってるね」

「はぁ……まぁ、この際、私が狂っていようとあなたが狂っていようと、そんなことはどうでもいいわ。それにあなたのお兄さん、つまり悠くんが器用貧乏だってことも認めても良いわ。でも――」

「器用貧乏だって?」葉は半分呆れ返ったような笑いを口の端に湛えながら海織を睨みつけた。

「そうよ。悠くんは確かに何でも器用にこなせちゃう人で、その分真剣になる機会は少なかったと思うわ。でも、素直だし真面目だったと思う。反対に、私はそんな風には思わないけれど、あなたの言うように内心では人を馬鹿にしてる部分もあったのかもしれない。でも、そういうのは極力表に出さないように気を配っていたわ。謙虚であろう、優しくあろうって努力していたと思う」

「はっ、それは違うね。あいつは薄々気づいてたんだよ、自分が薄っぺらい人間だってことにさ。なのに、それを受け入れもせず、とにかく自分の空っぽさを見抜かれないように必死になって良い人のフリをしていただけさ。それは「良い人になろう」なんていう理想に向けたポジティブな思想なんかじゃない。自分を正当化したまま逃げ切ってやろうっていうみっともない浅はかな計略みたいなもんさ。結局、あんたもそんな兄貴に騙されてたってわけか。ほんと同情するね」

「ねぇ、あなた悠くんと何かあったの? どうしてそこまで自分のお兄さんのことを嫌いになれるのかしら。あなたがそうなる経緯を知らない私にとっては、あなたのその怨念みたいな行き過ぎた嫌悪感は理解不能よ」

「別に何にもないさ」葉は海織から視線を外し、太陽の光を受けてガラス細工のように光る水面を眺めた。気が付けば、太陽がいよいよ今日の降下曲線の進路を決定し始めるような時刻だ。「あいつと一緒に生活してただけだよ」そう小さく呟くと、立ち上がり、ゆっくりと歩きだし、部屋の三分の一ほどにまで広がった日向の中へと入って行った。葉の身体の周りでは空中に舞っている塵が金色に輝いている。あまり濃くはない腕の毛も金色に染められ、軽く日焼けした身体には健康そうな青年の生気が宿っているように見える。しかし、そんな輝く陽光に照らされた葉の裏側には、明確な縁取りは叶わぬ仄暗い影が浮き出ていた。海織は葉の漏らした「生活してただけ」という言葉の意味を脳の中で解読させながら、目ではその瞬間、瞬間の塵の舞い方や、陽を受ける頬骨の明るさや、風に揺れる影のコントラストを画家のそれで仔細に捉えていた。不意に湧き上がる制作意欲に利き手の人差し指がぴくりと跳ねる。が、生憎手には筆を持っていなかった。画材はまだ床の上に並べられているだけで、森の奥の岩石のようにひっそりと沈黙を守っている。葉はそんな海織とその道具たちの沈黙を感じ取ったのか、ふいに振り返ると「何だよ」と不満げな表情を海織に向けた。

「別に何でもないわよ」海織は葉から視線を逸らすと、床に並べた絵の具の内の何本かを手に取った。特に意味のない単なる誤魔化しの動作であったけれど、それまで海織の中で張りつめていた何かがその瞬間に消え失せる。ようやく正常を取り戻した身体が、脳の中で処理させていた言葉を発する。「ねぇ、本当にただ一緒に生活してただけで悠くんのこと嫌いになったの?」

 海織の問いかけに葉は少しの間黙り込んでしまったが、ふと最初の一言を口にすると、溢れるようにして次から次へと言葉が零れていく。

「別に暴力を振るわれたとか、言葉でけなされたとか、そういうことはない。あいつは寧ろ家でも優等生を気取ってて……って言っても勉強に励んでたわけじゃないが。まぁ、いつもの調子で気の利く天才を気取ってはいたな。おれの家でホームビデオを回したところで、よくいる粗雑で好感の持てる男が映るだけだな。あとは、親不孝で誰もが蔑みたくなるような俺が画面の端に時たま見切れるくらいか。まぁ、そんなわけだから、観察力の無い奴はきっと俺が勝手にできの良い兄貴に引け目を感じて捻くれてるようにしか思わないだろうな。確かに、そういう面も少なからずあると思うよ。認めてやるさ。でもな、おればっかり自分の非を認めなくちゃならないってのもおかしな話だろう? どっかの心温まるハッピーエンドストーリーみたいに、悪い老婆を殺してそれで終わりっていうのと同じさ。まともな話にしたけりゃな、たまにはお姫様も自分の愚かな点を箇条書きに黒板に書きだして、登場人物全員でそれについての意見交換をするくらいはやらなきゃダメだ。だからな、おれが兄貴のことを嫌いな理由は、あいつがそういうことを決してしようとしないとこなんだ。そりゃぁ、ぱっと見れば、あいつはそつなくお姫様役でも王子様役でもこなしている風に見えるだろう。でも、そもそも児童向け映画じゃないんだから、何から何までそいつの都合の良いようにストーリーだとか、現実の感情論を捻じ曲げることなんて無理なんだよ。製作費も製作期間も足りない単なるホームビデオだぜ。修正は効かないし、美しい装飾を施すことも不可能。あいつが如何に自分の都合の良いように話を進めて行ったとしても、おれからしたら、それであいつを非難しなくていい、という理由にはならない。一見、王子様に見えてもやってることが人殺しだったなら、おれはその点をきちんと弾劾してやりたいんだ。そしてできることなら、「あぁ、なんて素敵な王子様なのかしら」って腐った目ん玉をトロンとさせてる奴らの頭を片っ端から引っ叩いていってやりたいのさ。腕力には自信がないけど、あんたがその三脚を貸してくれるって言うなら、進んでその役を引き受けるぜ」

 海織は黙って葉の長い言葉を聞いていたが、苦々しい表情で自分を見つめる葉の視線に気が付くと、「まぁ、とりあえず、あなたが相当、悠くんのことを嫌っているのはわかったわ」と言葉をかけた。葉はその言葉に満足するべきか、それとも満足せざるべきか、心持ち今までよりも大人しい表情で考えていたが、結局、言うべきことは言ったはずだ、と自分に言い聞かせるようにして頷いた後、太陽の光から身を隠すように柱の所まで歩いて戻った。

 水平線と重なるようにして一群の雲が見える。海織はそんな風景を目の端に止めつつ絵を描く準備をしながらも、どこか落ち着かなげに葉の喋ったことを思い返していた。葉の言っていることに納得できたわけではなかった。が、共感しても良いと思える箇所もいくつかあった。ただ、葉の中には実の兄に対する必要以上の嫌悪感があることも感じており、そのことに対する違和感は、葉の弁解ともつかぬ言葉を聞いても決して拭えなかった。柱にもたれ掛かるようにしてしゃがんだ葉の横顔に浮かんでいる、怒りとも軽蔑と自己嫌悪ともつかぬ複雑な表情を見ていると、たとえ血の繋がっている相手だとしても、ただ一緒に生活しているだけの相手に対して感じることのできる嫌悪感をはるかに超えた何かがあるようにしか思えなかった。それは、こんな辺鄙な所まで来て兄を毒づいていることからも推測できることだった。海織自身が、どうしようもできない美術や自分自身の現状に対するストレスを、三脚やら画材やらと一緒に抱えながらここまでやって来たことと同じように。

 

 傾きかけている太陽が海織を焦らせる。絵の具を木製のパレットの上に何色かおいて、空の色を作った。それから海の色。どちらで水平線を象るか、海織はキャンバスと、パレットと、それからコンクリートのフレームから覗ける煌めく水平線とを見比べながら髪の毛を耳に掛ける。葉は柱の周りを落ち着かなげにうろうろと歩き回ったが、海織が絵の制作に取り掛かった様子を見ると、大人しくその場に座り込んで柱に背中をもたせ掛けた。それから、本を取り出し、ページを捲る。数行に目を走らせ、何とか物語の中に入り込もうとしてみたが、上唇の汗が気になったり、背中がかゆくなったり、どうにも文字に集中することができない。諦めて、ページの間に指を挟み込んだまま本を閉じ、ふと視線を上げた。部屋の隅っこで海織の麦わら帽子が風を受けてパタパタと震えている。随分と高度の落ちた太陽が投げかける陽光に、この崩壊しかけている一室は半分くらいまで浸食されてしまっているが、その麦わら帽子の一角にはまだ冷たい影が気の弱い子供みたいに怯えるようにして陣取っていた。海織は正面で仁王立ちしながら輝く海やら空やらに鋭い視線を向け、キャンバスに筆を走らせている。葉の座り込んでいる位置からはキャンバスの裏面しか見ることができなかったが、時折キャンバスの上空を彷徨うようにして震えている筆が海織の天からの声を聞いて、迷いなく白の上に一線を為す様子は窺えた。どんな絵が描かれているのか。葉は自分の指が本のページの間に挟まっていることも忘れ、海織と彼女のその指先に目を向ける。何かの拍子に目が合いそうになると、葉の方から視線を逸らした。そして、影に埋もれたコンクリートの破片のその形に興味を奪われたかのように振る舞う。海織はそんな葉の所作が時々気になったが、彼の目尻の歪んだ皺と唇の端が小刻みに震えるのを見て、声をかけるのを諦め、また絵の制作に戻る。キャンバスに向けて伸ばした右手の甲に温かな太陽の光が当たる。それが、今度は肘の辺りまで徐々に上がって来て、胸、肩、頬と段階的なタイムスリップをしているかのように、あっという間に海織を包み込んだ。葉の方はそんな光から逃げるようにして柱の影に隠れていたが、暗い影の中でカバーのかかった本の表紙を見下ろしているのか、それとも部屋の隅を見つめているのか、或いはただ眠っているだけなのか、海織の方からは判別ができない。憔悴しきっているようにも見えたし、何かを考え込んでいるようにも見えた。額に浮き出た汗の粒たちが互いに引かれ合い、一筋の線となって海織の鼻筋の脇を流れていく。気が付くと、全身汗だくで、肩から肘、そして手首にかけて確かな疲労感があった。海織は左手に持っていたパレットを一度床に置き、今一度、キャンバスに塗られた青を一歩引いたところから眺めてみた。まだ完成には程遠いが、絵の骨格のようなものはほとんど出来上がったように見える。全部思いのまま、というわけではないが、不完全な中にも、これは、と思えるような色合いが表現できている箇所もいくつかあった。これがまた明日などに見返してみた時に、その輝きを失っていなければ、と海織は祈るような思いで一仕事終えた後の一息を吐いた。

 空はいつの間にか青が霞み、白、それから黄色が太陽の周りから滲みだしている。海はそれとは対照的に、昼間に見たよりも深い色になっているのが不思議だった。風が出て来たのか、波の音もやや大きく聞こえ、もはや見慣れてしまったように思えたが、やはり圧巻たるどこまでも続く断崖絶壁の海岸線を白い泡が縁取っていた。そんな光景を眺めていると、また筆を取りたくなってくるが、どう考えても今日はこれ以上描くのは無理だった。正直言って、ここに来るまででなかなか疲労を溜めこんでしまっていたし、知恵の輪みたいな葉との会話と、感性をすり減らすようにして色を表現したせいで、今はもう立っているのもやっと、みたいな感じだった。海織はぷつんと糸が切れた操り人形みたいにその場に座り込んだ。その時になってようやく陽光の突き刺すような熱さと、吹き付ける風の荒々しさに気が付いた。風に千切られた雲がまるで特大の紙ふぶきのように淡い色合いの空の上に散らばっている。

「もう絵は描き終わったのか?」葉は海織の方に顔を向けて言う。今は二人の視線は同じ高さにあった。

「そうね。今日はもう終わりかしら」海織はスカートの裾を少し気にしながら答える。「こう見えてね、絵を描くのって結構疲れるのよ」

「ずっと立ちっぱなしだしな」

「えぇ。あなたは良いわね。ずっと座ってぼーっとしてたの? せっかく持ってきた本も全然読んでなかったみたいだけど」

「本を読むのも結構疲れるんだよ」

「ずっと座りっぱなしだし?」

「あぁ」葉は海織から視線を外して、瞼の上から指で強めに目を押した。暗闇の中で鮮烈な光が弾ける。「なぁ、あんたは何で絵を描こうと思ったんだ?」

 唐突な問いに対して、海織はやや狼狽したが、それから怪しむような視線を柱の影の中に向ける。「どうして急にそんなことを聞くの?」

「……ただ気になっただけさ。人はいつ、どういうタイミングで絵描きになろう、って思うのか。どうして絵なんて描くつもりになるのか。あいつも……いや、あいつは関係ないか」

「あいつ、って悠くんのこと?」

「あいつ、絶対絵を描こうなんて思わなかっただろうな」

「そんなことないわよ。私みたいに本格的に絵を描いていたわけじゃないけど、結構器用に漫画のキャラクターとか描いてたと思うわ」

「それは別に「絵を描こう」って思ったから、描いたわけじゃないよ」

「絵を描こうって思わないで、どうやって絵を描くって言うのよ」

「……あんたなら、わかってるだろ。さっき、あんただって「本格的」とかなんとか、そういう言葉を使ったじゃないか。所詮、あいつが絵を描く目的なんて、「あら、結構上手じゃない」みたいなこと言われたい、とかそういったものさ。あんたとは違うよ」葉の声は今までに比べるとどこか生気に欠けている印象があった。海織はその葉の暗闇からの声音に、僅かではあるがどこか懐かしいものを感じる。

「まぁ、でもそれは別に悪い事でも何でもないじゃない。だって、悠くんは絵描きになりたいわけじゃないんだもの。私だって、たまに日記みたいなものをつけるし、何か物語みたいな空想をすることもあるけど、それは何も小説家になるためじゃないわ。なんとなくやってみたくなって、やってるだけよ。彼だって、それくらいの気持ちで何となく絵を描いただけでしょう。趣味とまではいかなくても、そういった類のものよ、きっと」

「趣味ね。便利な言葉だよ、ほんと。どことなく洒落て聞こえるじゃないか。日常にただ追われているだけじゃなくて、余暇を楽しむ術を持っていますよ、みたいに。何かの雑誌で前髪をやたら気にしたような連中が言いそうな言葉だ。まぁ、しかし、別段「趣味」というものに対して批判をするつもりは無いよ。どう言ったらいいんだろうか」葉は影の中で姿勢を変えた。それから首筋の汗が乾いたところを爪で掻き毟る。「難しいな。どことなく「趣味」という言葉に対する嫌悪感はあるんだが、よくよく考えてみるとそんなに嫌っている風にも思えない……というか、そんなものに怒りの矛先を向けるのは見当違い、というような気がしてくる。もしかしたら、おれは単に虚栄心みたいなものが嫌いなだけなのかもしれない。何か……本職のために……そうだな……家という生活空間の中の余剰スペースを上手く使うために、押し入れや出窓や、ちょっとした地下室を作るような、そういった目的と実行を兼ね備えた趣味だったらうまく受け入れられるんだ。逆に、ちゃらちゃらとライトアップしてみたり、無駄な柱を部屋のど真ん中に敢えて設けてみたり、そういった類の装飾的な意味合いでの趣味というものに対しては、どうしても腹が立ってしまう。だから、おれはあいつが嫌いだったんだ。あいつの趣味に対する意識はきっと、外から見えるように敢えて屋根に暖炉の煙突をつけてみるような感じだった。本当は家の中は空っぽで、暖炉どころか、テーブルも椅子も何も無いのに」

「楽しむわけでもなく、ただ見せびらかすためだけの?」

「おおむね、そんなもんだろうよ。まぁ、実際にあいつが楽しんでいたか、どうか、っていうのはちょっとわからない。人に褒められて嬉しがっていたのは事実だし、それをあいつ自身が楽しいと思ってたなら、楽しかったんだろうよ。でも、あいつがそういった趣味に時間を割くということは、少なくとも宗教的な意味合いはほとんどなかった」

「どうして急に宗教の話になるのよ」

 海織の言葉に対して、葉はぴくっと反応した。影の中で海織からは良く見えないはずなのに、何故か、目が爛々と光っているのがわかった。どうやら、葉の中に潜んでいる獣の尻尾をうっかり踏んでしまったようだった。「あんただけじゃなく、今この世の中に生きてる人間すべてに言ってやりたいんだけどな。いちいち、「宗教」という言葉に対して過剰な反応をするのはやめてもらいたいんだよ」

「過剰に反応してるのはあなたじゃない」

「ちっ。まぁ、いいさ。どちらかと言えば、これは言葉の問題だ。どうやら怪しげな新興宗教やらなんやらのせいで本来の言葉の意味が捻じ曲げられてしまったみたいだからな。もし、おれが「宗教」っていう言葉じゃなくて、「熱中する」とか「一生懸命頑張る」とか、「人生の張り合いにする」っていう言葉を使っていたら、きっとあんたも勘違いせずに話が理解できただろう。ただな、おれが気に喰わないのは、何も信仰できるだけの信念も持ってない奴に限って、神だとか熱意だとか、そういうものを批判したがるってことだよ。まさに、おれの兄貴みたいにな。つまり、あいつが何かをするにあたって、何か信念や情熱を持っていたか、っていうことが問題なんだ。もっと言うなら、それが自分の宗教になるかのような勢いで以って、何かに取り組んだことがあるのか、っていうことだよ。毎朝決まった方角に向かって三度頭を垂れる何とか教の信者みたいに、自分へ何かを課して生きている人間がどれだけいる? 自分のやるべきことはこれに違いない、と自分に絶えず言い聞かせながら、それを実行するためにほかの色々なものを意識的に投げ打っている人間がどれだけいる? そういう点に限って言えば、おれも愚かな人間のひとりだよ。自分で何をやったらいいのか、まったく、何もわかってはいやしない。わかりたい、とは思っているが……まぁ、でも、そんなことはいい。自分のことはあっさりと棚に上げてしまうよ。けどな、おれが思うに、大抵の人間が、これこれこういうことを為すために自分の憐れにも短すぎる時間を捧げています、と考えてはいないはずだ。良い場合でも、良くわからないまま、何かを割り切るようにして流されているのがほとんどだろう。もちろん、そういう人間のことを名指しで個人攻撃するつもりは無い。どちらかと言えば、そういう状況を生み出している、人間の生来の愚かさ、つまり虚栄心やら何やらといった――そうだな、煩悩と言っても良い。もしくはそういう物から生み出された社会という巨大な怪物に対して、おれはまさに青年的な憤りを感じている訳だ。まったく我ながら幼稚で恥ずかしいけれどね。でも、余計なお世話かもしれないが、おれからしたら、結局のところそういう狭くて濁った水槽の中で生きていくしかない人間が、とても不憫で可哀想に思えて仕方ないんだ。割り切って、割り切って、それで残された僅かなスペースの中で、社会なんてものから与えられたごく一般的で常識的な微かな陽だまりに対して、真摯な感謝を捧げるしかできない人間が不憫でならない。どうやったらそんな風に聞き分けよく生きていけるんだ、と思う。気分の良い時には尊敬の念すら抱くね。ただ、きっとそういうのが大人になるってことなんだろうな……なんて、そんな知った風なことをあっさりと口にしてしまえるような人間にもおれはなれる気がしない。例えば、自分では何も考えもしないくせに、たまたま何かの成り行きで作っただけの、そんな哀れな子供を育てるために自分を犠牲にしてます、っていう大人がいるだろ? つまりさ、自己犠牲の喜びを知って本当の意味での大人になるってやつだ。あぁ、そうさ。ご立派だとも。涙が出るよ。けど、それってただ自分の可能性を見限った連中が、自分が生きていくための張り合いとして子供に寄り掛かっているだけじゃないのか? そして、もしその子供が死ぬようなことがあれば、簡単に「生きていけない」って言うんだ。自分で考え抜いて得たものでもないってのにな。自殺の話と一緒さ。今まで重要な位置を占めていた自分の命や可能性に限界を感じたから、それで苦しくならないように……それで自分の生が無価値だっていう風に考えてしまわないように、今度は自分の子供を代わりにその椅子に座らせるのさ。そして、それを愛だとか、なんだとか、勝手な名前をつけて呼んで……ほんとはただの依存に過ぎないってのに」葉は手元にあったコンクリートの破片を摘み上げ、泣き喚く子供がするようなある種の人間から見たらただ虚しいだけの動作で、それを海に向かって投げた。黄色い空と雲の谷間から海に向かって消えて行く。「まぁ、けど、こんなふうに言ったって仕方ないよな。自分の幼さを露呈するだけだ。もし今おれが喋ったことが録音されていたとしたら、おれだって聞き返したくはないね。もし椅子に縛り付けられて無理矢理にでも聞かされたりしたら、おれはきっと恥ずかしさで心臓が止まるよ。でも、それでも、おれはおれの兄貴にこの声を聞かせてやりたい。少なくともあいつよりはおれは正しいはずだ。もしそのことが、完全なる視点を持つ存在、まさに神のような存在から否定されたとしたら、今まで「兄貴のようにはならない」ということを自分の宗教として生きてきたおれにしてみれば、まさに地獄の炎で焼かれる苦しみを味わうことになるだろうな」

 海織は黙って葉の言葉を聞いていたが、彼の物言いが独善的で、それで他人を寄せ付けない鋭さを持っていたせいか、その言葉に秘められた論理を理解するまでには至らなかった。またその声音には彼の言う通り、ある種の稚拙さみたいのも含まれていたから、なかなか理解したいとも思うこともできなかった。そもそも何で急に彼の兄の話が出てきたのかもわからない。しかし、そんな彼の様子に感化されてなのか、こんなに暑いのに、と海織自身も感じていたであろうが、彼女の頭の中には、アイスリンクの上に底の擦り減ったスニーカーを履いたまま投げ出されて、くるくると二転三転しながら足掻いている葉の姿が浮かんでいた。そして、それを無様と思うよりかは、手を差し伸べてやりたい、と感じている自分がいることを彼女自身感じていたのも事実である。

 海織は秋の落ち葉のように乾いた数本の筆先と、それから陽光によってじわじわと水分を奪われ続けているパレットの上の絵の具たちにふと視線を向けた。洗ってやらなくては、とは思いつつも、座り込んだその場所から立ち上がることができない。というか、きっとそんなことはどうでもよかったのかもしれない。彼女はまたあっという間に視線の向く先を変えると、今では上半身が黒いヴェールで覆われているかのような葉のふくらはぎを見つめた。数時間前に、鉛筆でデッサンした彼の太いとも細いともつかないふくらはぎと、そこから先の部分は柱の影には収まりきらず、辛辣な陽光に晒されていた。彼の脚もまた、乾ききっていて、水を求めているように見えた。

「結局、あなたが気に入らないのは、あなたのお兄さんのようになってしまいそうな自分自身というわけ?」やや控えめに海織はそう口にした。控え目になったのは、葉の心境を慮って、というよりは、内容の理解が不十分であったことから来る、単純な気後れだった。「そうでもなければ、あなたの言い方は何もかもが気に喰わない、というように聞こえる。親という存在に対してまで文句を言っているくらいだもの。ねぇ、私はあなたが何かに対してとてもイライラとしていることはわかるけど、その原因が何なのか、そこだけはほとんどわからないわ。悠くんのことを持ち出す割には、すぐにどっか別の場所へ論点がすっ飛んでしまうし、かと思えば、また悠くんのところに戻ってきている。今日は死ぬほど暑いし、もう頭がおかしくなりそうよ」

「今日は言うほど暑くはないさ。まだ、夏はこれからだしな」葉はそうは言いながらも、随分と前から喉の渇きを感じていた。堪え切れずに、喉元に溜まった砂漠の砂を吐き出すかのような溜息を漏らす。

「喉乾いたわね。この辺りに水道はないのかしら」

「水筒くらい持って来いよ」

「もう空っぽよ」

「……たしか、一階のトイレの洗面台からまだ水が出たと思う。衛生面は保証しないけどな」

「よかった。まさか、この時代に喉が渇いて死ぬわけにもいかないものね」

 海織は立ち上がると、スカートについた砂埃を軽く手で払い、未だ座り込んでいる葉を見下ろした。影の中であまりはっきりとはしなかったが、葉の視線は海織に向けられているようだった。海織はその視線が何を言おうとしているのか、何となく感じ取ることができ、恥ずかしさのようなものから少し躊躇いはあったものの、暑さと乾きが頭を朦朧とさせるからなのか、言葉を飲み込む間もなく「あなた、ここに詳しいんでしょ。付いて来てよ」と口を滑らせてしまっていた。彼女が思っていたよりも一拍分早く出てしまった言葉だったから、不本意ながらその言葉の断片に彼を思いやる柔らかさが含まれていたが、彼女も言ってしまった手前、その場に彼を置いていくようなことができず、この崩れかけの部屋の入口のあたりで、葉の方から見たら「やや呆然」といった雰囲気を纏いながらただ立ち尽くしているしかできなかった。一方の葉は、考える振りのためにたっぷりと間を取った後でゆっくりと立ち上がる。一歩足を前に出すと、久々に彼の横顔に太陽の光が当たった。この数時間のうちに随分とやつれた様に見えるが、彼自身の身体よりも、どちらかと言えば、汗と埃で汚れた安物のTシャツの方が見るに堪えない有様になっていた。

 

 西側の壁がほとんど崩壊していた部屋の中とは異なり、建物の廊下では既に夕闇の藍色がひっそりと息を潜めていた。地下室に潜ったように空気も一回りひんやりとしている。東側のガラスの抜け落ちた窓からは、引き伸ばされたゴム風船のような薄い水色の空の中に白い月が浮かんでいるのが見える。海織は視線を上げて、そんな白々しい月を眺めた。何かこの世界の物足りなさを象徴するがの如く、端の辺りが欠けている。芸術家の卵としての本能なのか、そんな含みのある月の白さに一瞬心が奪われたものの、海織は後ろから葉がついて来ていることを忘れていなかったため、脚を止めることもせず、そのまま左に折れ曲がって湿ったような階段を降りて行った。管楽器の中に足を踏み入れたみたいに、二人の冷たい足音がこの建物の階段の壁を一階から屋上まで反響していく。海織の規則的な足音に対して、葉の足音はどこか音を鳴らすことに対して興を覚えたような不規則な拍子を刻んでいる。靴の踵が段の角に擦れたかと思うと、甲高い音で「ぱん」と、平らなところに片足が着地する音が弾ける。海織はそんな葉の靴音が気になって、踊り場からの折り返しの際に、退屈を紛らわせるように脚を蹴り出しながら階段を降りてくる葉の方をちらりと見やった。その視線に葉は気がつき、それからはどこか罰が悪そうな表情を浮かべながら、海織を見習って、ただ単調に階段を降りるように心掛けた。

 一階に降りても、この建物の中に漂う、というよりかは、ここの辺り一帯に漂う寂寞たる雰囲気はまったく変わらなかった。それどころか、陽が暮れてきたことで昼間に感じたよりもより鋭利な静けさを、海織は目や耳だけでなく、匂いであるとか肌に触れる空気の感触などから敏感に感じ取っていた。葉の方も何となく細めた瞼の隙間から、ドアを失ったコンクリートの額縁の外に広がる夕暮れの雰囲気を探っていた。そして、その冷たさの中に漂う一種の被虐的恍惚感に、胃の辺りから背筋にかけてそわそわとした微細な震えを感じていた。何となくではあるが、影を羽織ったような海織の背中や横顔から、葉は自分の感じている感触と同じものを彼女も感じているような気がして、心臓が少しだけ締め付けられるような心地よさも感じた。が、それを言葉にするでもなく、洗面所を探し求めてさりげなく視線を泳がせている海織に向かって「こっちだよ」と取り繕ったような声音で言葉をかけた。

「もうすぐ夕方になるわね」

「日が暮れる前に帰れよ」

「あら、やさしいのね。でも、もう少しやさしい人なら、か弱い女の子を家に送り届けるくらいまでするんじゃないかしら」

「自分で勝手に来たんだろ。勝手に帰れよ、一人で」葉は邪険な口ぶりで言いながらも、洗面所の中に海織を導いた。しかし、海織は何かを躊躇うような表情を見せたかと思うと、先に洗面所の中へと入って行った葉の視界からふと消失した。葉は「何事か」と入口の方に身体を向け直して、海織の消えた先を追った。が、すぐに事態を把握し、的確な言葉を投げかける。「女子トイレはたしか水が出なかったと思うぞ」

「あなた入ったの?」外から女子トイレの中に入った自分を見つめる葉に向かって、海織は咎めるように眉をひそめた。

「こんな場所で別にそんなこと関係ないだろ。まぁ、でも、一応最初に男子トイレの方に入ったさ。ただ、念のため、どっちの方が清潔そうな水が出るか確かめたかったんだよ。こんな辺鄙なところで腹でも壊したら悲惨だろ?」

「で、女子トイレの洗面台からは水が出ず、男子トイレの洗面台の水を飲んでもお腹は壊さなかったのね?」

「まぁな。もっとも、かなり鉄臭い水だったが。それにきっと新鮮な水じゃないと思うぞ。この建物の屋上で貯水タンクを見つけた。きっとそこから降りて来てる水だろう」

「ちょっと恐いわね」

「まぁ、この二、三日で急に致命的なまでに腐るってこともないだろうよ」

「その貯水タンクには、最後のメンテナンスの日付みたいなのはなかったの?」

「さぁな。そんなものは確かめてないよ。気になるんなら自分で確かめてきたらどうだ? ここで待っててやるから」

「そこまではいいわよ、別に。この際だからあなたを信じてあげる」

 トイレの中の壁にはいたる所に雷を描いたような亀裂が走っていたが、相当くすんではいたものの、鏡は割れずにきちんと壁に掛かっていた。また、特に不潔な匂いもしない。この生命の欠片も感ぜられぬ場所では、ただただ海からの潮風が香るばかりである。生物が存在しなければ、こうも清らかなる空気が保たれるのだ、ということを海織はふと頭の中で考えてみていた。葉は壁に寄りかかりながら、トイレの小さな窓から差し込む陽光が作る光の筋を目で追っているようだったが、海織が蛇口を捻って水を流し始めると、その水音に興味と視線が自然と移っていった。水は透明で、海織の手の甲で弾けると、床の上に飛び散り、そして砂漠の砂に消え入るように乾いたコンクリートに一瞬のうちに吸い込まれていく。海織の指先に付着していた絵の具が溶けだして、かつては清潔な白を示していたのであろうが、時の侵食によってクリーム色に変色した陶製の洗面台のひび割れに沿って青い線が引かれる。薄暗い中でも海織は先程キャンバスに描いた海の色を感じることができた。それから、彼女は掌を上向きに組み合わせ、流れ出る水を受け止める。そこに溜まった水を口に含むとその冷たさと、もちろんのこと水気を存分に咥内で楽しみ、それから軽くうがいをして温くなったそれを吐き出した。彼の言う通り錆びついた蛇口から落ちてくる水はなかなか鉄臭い。が、自分の有り余る体温が、わずかばかりではあるが、その鉄臭い水に移っていく感触は心地よくもあった。

「先に頂いて悪かったわね。どうぞ、あなたの番よ」

 葉と海織は狭いトイレの中で身体の位置を入れ替え、海織の方はそのままの流れでトイレの奥の方へと足を進めた。葉はそんな彼女の様子を目の端で捉えつつ、流れ出す水に手を差しだし、一通り手から腕にかけてを洗い流していく。汗と埃のベタベタとした皮膜が消えると、久しぶりに肌で新鮮な海辺の風を感じ、かなり爽やかな気分になった。ついでに組み合わせた掌に水を溜め、それで顔の汗と埃も念入りに洗い流し、首の辺りまで一息に水をかけていった。タオルなど持って来ていなかったから、Tシャツの腹のあたりをたくし上げ、汚いな、と思いつつもそこで顔を拭いた。ふと顔を上げると、目の前のくすんだ鏡に、幾分かすっきりとはしているものの、致命的な衰弱の色を湛えた青年の顔が映っている。無精髭が目立ち、濡れた前髪はだらしなく額に貼りつき、目元は飢えた獣のように微弱ながら鋭利な光を灯していた。流れ続ける水は洗面台を打ち、葉の鼓膜はずっと昔の雨音を思い出しながら震えている。このまま動けなくなりそうな気配が目眩のように襲ってきた時、鏡の中の自分が淡い影に埋もれた。それを機に海織の存在を思い出す。小さな窓から差し込む陽光に縁どられた金色の髪が海風に揺れている。

「たまにね、昔の自分が何を考えていたかわからなくなることがあるのよ」

「急にどうしたんだ?」

「……悠くんと付き合っていた時のことよ。つまり、高校時代の私、ってこと。あなたもそういうことない? たった数年前なのに、自分が何を考えて毎日を生きていたのか、わからなくなることとか」

「……さぁな。「ある」って答えても嘘っぽくなるし、「ない」って答えても嘘っぽくなる。だいたい、俺は今の自分が何を考えてるのかさえ、よくわかんないよ」

「そうかもしれないわね。ここに来て、結構あなたと話したりしたけど、私にはあなたが何を言いたいのか、結局良くわからなかったもの。私も大概迷走してる方だから、それも原因の一つかもしれないけれど。でも、やっぱりあなたの話がわかりにくいのはあなた自身に問題があるのよ。それか、まぁ、百歩譲って「全部暑さのせい」ってことにしてあげてもいいけど」

「別にいいさ。百歩どころか、一歩も譲らなくて結構。俺だって、今の自分の頭が冴えてるとは思っちゃいないよ。こんな訳のわかんない場所までやって来てるんだ。狂気以外の何物でもない。そうだろ?」

「ふふ。そうね。狂った二人の会話じゃ、噛み合うはずもないわね」

 海織は思わず笑いを零したが、葉の方も疲れたような表情の中で少し頬を緩ませているのを見て、引き締めようとした唇の筋肉をまた弛緩させた。結局のところ、葉も彼女自身も普通の街の売店なんかでは買えないものを求めてこんな荒廃したところまでやってきたのだ、という考えは、今まで踏み込めなかった距離まで近づくための良い後押しとなって、彼女の心を和ませた。葉の方も、逆光の中で緩む海織の口元を無意識のうちに目で追ってしまう。

「ところで、何を言おうとしてたんだ? 急に舞台女優みたいに喋り出したが……」

「そうやって馬鹿にするのはやめてよね」海織は目を細めてから、指で天井の方を指す。「さっき上であなたもかなり恥ずかしいことを言っていたじゃない。自分の行動を顧みてから発言したら?」

「なんだよ。お互い様じゃないか、そんなの。それに、俺の皮肉に一々突っかかって疲れないか? いい加減、無視するってことを覚えたらどうだ? なぁ、イカれた画家さんよ」

「はいはい、そうですね。ほんと、なんか疲れてきたわ。ただでさえ暑いってのに……てか、ここ暑いわね。風通しも悪いし」

「お前が日向に出てるからだろ。理不尽なこと言うよな」

「……ねぇ、用が済んだのなら一旦出ましょうよ。どっちにしても、いつまでもこんな場所にいる必要ないわ」

「まぁ、それもそうだな」

 トイレを後にし、また階段を上り始める。下りてくるときとは違い、今度は葉が先導する形になり、海織は低い位置から葉の背中を見上げることになる。その時、また海織の中に今日何度も感じた、あの既視感が沸き起こった。決して広いとは言えない背中で、鯖の骨のようなほんの少しだけ歪曲した猫背は、どこか頼りないようにも見えるけれど、そんなところが葉の感性が繊細であろうことを物語っている。踊り場の折り返しですれ違う時、海織と葉の視線が一瞬交錯する。

「さっきの話の続きだけどさ」海織が葉の背中に語り掛ける。「私、自分が悠くんに何もしてあげられたなかったんじゃないかな、って考えてしまうときがあるのよ。つまりね、私たちは確かに付き合っていたし、一緒にいる時間もそれなりにあった。でもね、自分の心を彼に見せてあげるようなことが上手くできなかったの。別に気持ちを隠したり、押し殺したり、素直になれなかったとか、そういう如何にも少女漫画で可愛い主人公の女が涙ながらに語るような、そんなのじゃなくてね。何て言ったらいいのかな……さっきも言ったけど、単純に、私は自分でも自分の心がどこにあるのかよくわからなかったのよ。きっと私は悠くんのことを好きだったんだろうけど、でも、その愛情みたいなのが何なのかよくわかんなくて、しかも、それの正体を突き詰めたりするのも何だか怖かったりして……結局ね、もしかしたら、私も悠くんも同じようなものだったんじゃないかな。あなたはお兄さんのことを空虚で愚かな存在だ、って言ってたけど、私もきっとそういう人間だったのかもしれない。お互い、お互いに惹かれていたはずなのに、それでせっかく一緒にいるようになったはずだったのに、そもそも自分というものが何も見えていなかったのよ。それも、その「惹かれている」って感情が自分のどこで湧き上がっているのかもわかっていないくらいに。それで、私はね……悠くんと別れてから、自分をちゃんと探してみることにしたの。絵を描くことを通してね。でも、もちろん、悠くんと別れるよりも前から私は絵を描くことが好きだったし、また周りからその技術を誉められてもいたから、絵描きっていうのは私の一つの未来像ではあったわけだけど、でも、自分が本当に書きたいものが何なのかわかってなかった。それこそ、周りの人が誉めてくれるから絵を描いていただけのようなものだった――ふふ、まるでさっきあなたが言ったお兄さんの批評と同じね。空っぽな動機で漫然と生きてる。あなたからしたら私もお兄さんと同じような醜い人間のように見えているのかもね」

「そんなことはないさ」葉は階段の途中で足を止める。海織の方に振り返ることもなく、踊り場の窓から外のオレンジ色の光を眺めた。その光は高校の頃のあの誰もいない放課後を――あの妙なセンチメンタリズムを身体に初めて感じた瞬間を葉に思い出させた。「別に俺はあんたを醜いなんて思ったりはしないよ。あんたは俺の兄貴とは違う。まぁ、あんたも俺くらいに頭のおかしい人間だ、ってのはさっき言った通りだけど、でも、やっぱりそんなこともないのかもしれない。あんたは少なくとも俺よりはみすぼらしくもないし、兄貴よりも薄汚くはない。それに、こういう言い方されんのはムカつくだろうけど、俺や兄貴とあんたじゃ性別が違うんだ。これは俺の勝手な価値観だけど、女なんて無神経で空っぽでも、盲目的な優しさがあればそれでいいんだよ。少なくとも、あんたはあのどうしようもない兄貴の為に自分の大切な、一度きりの青春時代を捧げたわけだし、しかも、別れてから兄貴と自分の関係性に関することで悩みまでしてくれたんだろ? そんな人間なんてそういないよ。そんな優しさに応えられなかった兄貴の罪は、まぁ、俺から言わせれば死罪に値するわけだが、少なくともあんたは自分を恥じたり、ましてや、兄貴と同じような存在だったなんて、自らを貶めなくたっていいんだ。そういうのはもうやめろよ。あんたはさっき、自分を知らなかった、みたいなこと言ってたけど、俺が教えてやるよ。あんたは糞が付くほど、優しい人間なんだ。俺の兄貴に対する憎しみがまた倍増するくらいに優しい奴だよ、まったく。なんであんたみたいな人間を俺の兄貴は――あぁっ、もし、夜道の暗がりの中をあいつが独りで歩いてるのを見かけたら、後ろからコンクリートブロックで頭をかち割ってやりたいよ。美しいものが無意識やら虚栄やら、ともかく兄貴みたいに薄汚いもので損なわれるのを見るのは、もう耐えられない。別に、こんなことを言うからって、あんたのことが好きだとか、そういう風に勘違いするなよ。ただ、俺はあんたのその計り知れない優しさみたいなのが美しくって仕方ない。もう頭がおかしくなるくらいだ。だから、もういいよ。兄貴を庇うような真似はやめろよ。全部あいつが悪いんだ。全部――」

 海織の右手が葉のTシャツの裾を掴む。窓から差し込む夕陽は葉を模した墨汁のような影を作り、その暗がりは海織をすっぽりと包んでいる。海織は視線を足元に落とし、そしてぽたぽたと灰色の乾ききったコンクリートに落ちていく黒のインクを眺めていた。波の音でも風の音でもない、おそらくはそれらが混ざり合い、そこに苦しみの嗚咽を被せたような音が階段に響き渡る。

「悠くん……もう、いいよ。帰ろう。日も暮れるしさ」

 青年は答えなかったけれど、ゆっくりと足を持ち上げ、そして階段の続きを登り始める。海織の手は汚れたTシャツの裾から滑り落ちた。静かな足音を響かせて、二人は三階の部屋へと戻る。

 

 海織は画材を片付けながら、水平線へと沈んでいく太陽を眺めていた。雲を焼き切るような焔色に染め上げ、空の反対側からは夜の藍を引きずり込もうとしている。海織にとっては海を見るのは今日が初めてだったが、その恒久的な水面の揺らぎはもう既に彼女の中の細胞の一つひとつにまで染み渡り、波音は郷愁の気配を醸し出すようにすらなっていた。青年は項垂れるようにじっと手元の本を見下ろしていた。よく見ると表紙の付け根には深い切れ込みが入っており、それは青年がその本を相当に酷使してきたことを物語っていた。すり減って、霞んだ本のタイトルは海織からは判読ができないもので、しかしながら、その青年の狂おしい佇まいや痛ましい血肉が、或いは文字のように、何かを示しているようにも見えたかもしれない。だからこそ、海織はその彼にとっての聖書の名が何であるかということを知らずして、彼を理解するに至った。

 片付けが終わると、海織はリュックを担ぎなおした。そして、布を被されて放置されたままのキャンバスに手をかけ、床に腰かけたままぼんやりと夜の始まりを見つめる青年を見下ろす。

「まだ帰らないの?」

「……あぁ、悪いけど送ってやれないよ、どうしたって」

「……それはいいけど……でも、こんなとこに暗くなるまでいるの、危なくない?」

「幽霊なんて信じてないし、こんなとこ不審者も寄り付かないさ。今日はなんか疲れたし、朝までここで寝る」

「……私もなんか疲れたな」

「お前は帰れよ。親が心配するぞ」

「どうだろう……まぁ、でも、帰るわ。お腹も減ったし、お風呂にも入りたいし」

「あぁ、そうしろ」

「うん。じゃぁ、またね」

「俺はもうここには来ないよ」

「別にこんな寂れたとこ限定で会うつもりもないわ。また、いずれ、どこか別の場所で、ってことよ」

「…………」

「……じゃぁ、また」

「…………」

 既に太陽は水平線の向こうに沈み、薄く引き伸ばされた燃え残りの空が最後の言葉を海に浮かべている。黒の背景を得たところでは、白色の星々が瞬いている。海織は青年の首筋を見ていた。それは震えながら何かを耐えるように、装飾された毅然を身に着け、青年の視線を真っ直ぐ、波の源を探すように遠くへと向けさせていた。彼女の足はこの廃墟の冷たい床に釘打ちされたように動けなくなっている。鼓膜は何かを欲していた。だから、それが得られるまでは彼女は動くことができない。けれど、青年は黙ったままだった。

「あ、そう言えばさ」たまらず海織は即席の話題を口にする。「私の絵、ここに置いていくけど、勝手に見ないでね。未完成の作品を見られることほど芸術家にとって恥ずかしいことはないのよ」

「はは、見ないよ。てか、もう芸術家気取りか。恐れ入るね、近頃の美大生には」

「筆を持ったら、もうその時点で絵描きになるのよ。いかなる人間であってもね」

「……そうか。わかったよ。見ないから、安心して帰れ。もう、陽も沈んだ」

「……うん。じゃぁ、もう帰るわ」足は動いた。けれど、やはりまだ身体のどこかがこの廃墟に繋がれたままだ。彼女はまた言葉を探す。「あのさ。これは別に何か特別な意味があって言うんじゃないけどね。ちょっと前に、古い映画を見たの。ありきたりで、たいした毒気の無い、言ってみれば普通の商業映画……でもね、なんか忘れられなくて。あらすじなんてものを説明しても何にもならないけど、でも、簡単に要約するならね、その映画は、椅子を買い続けて世界を変えた男の人の話なの……うん、これだけじゃ、意味不明よね。でも、それ以上でもそれ以下でもないんだ、実のところ。だからさ、結局、椅子を買うことでも何でも良いけど、とりあえず意味わかんなくても、なんかやってればそれだけで良いのかもしれないな、って。私もさ、まだなんで絵を描いてるのかよくわかってないんだけど――そう、それこそこんな場所にまでキャンバス担いできたりね。よくよく考えてみれば笑っちゃうようなことだけど。でも、今、私にできることってそれくらいしかないし、でも、結果だけ見れば、そんな突飛なことしでかしたのも、無駄じゃなかったかもしれない。あなたはもうここに来ないつもりかもしれないけど、私は絵が完成するまではここに通うことになると思う。だから――」海織は迷ったわけではなかったけれど、そこで言葉を区切った。それはただ、わざと間を持たせることで聞き手の注意を引き付けることを、無意識のうちに狙ってのことだったのかもしれないけれど、少なくとも彼女自身にとっては、ある種の願いを込める為に必要不可欠だった時間の量を示していた。「だから、また会う時があったらよろしくね。今日みたいに出会い頭から不機嫌なのはごめんよ」

 青年はやはり振り返ることはしなかった。だた、「わかったよ。またな」と背中を向けたまま手を振り、海織をその埃っぽい空間から追い出しただけだった。女のか細い足音が遠ざかっていくのが波音にかき消され、また青年を孤独なる静謐が蝕んでいくまで、そう長い時間はかからなかった。

 

 夜の中に佇む廃墟を振り返る。通りを駆け抜ける風が女の髪をふわりと持ち上げた。そして、誰が見ている訳でもないが、髪を直すためにふと頭に手をやったところで、あそこに麦わら帽子を置いてきてしまったことに気が付く。しかし、戻しかけた足をまた前に向かわせ、その帽子がまだ闇の中で一人物思いに耽る青年を見つめ続けているところを思い描きながら、女は長い長い道のりを家に向けて歩いて行った。

 

2014年