霏々

音楽や小説など

茫洋 vol.1

 茫洋

 

 裕也は黒いキャリーバッグを引きずりながら駅を出ると、まずはゆっくりと息を吸い込んだ。まだ夏の香りが残っているものの、温度それ自体は少し冷ややかだ。それから湿度が違う。東京の乾いた空気に慣れてしまうと、こっちの空気が持っているじめじめとした諦観は重苦しいもののように感じられる。半袖のポロシャツから出た二の腕はじっとりと湿りながら冷たくなっている。

 駅から二十分程度歩くと裕也の実家が見えてきた。懐かしい、と感じると同時に、進んでしまった年月の分だけその場所の矮小さを目の当たりにすることとなる。別に東京が魅力的だと感じている訳ではないが、この場所のこの空虚さはどうも物悲しい。こんな場所で生まれてからの十八年間育って来たのかと思うと、まるで自分そのものまでがここと同じように矮小な存在になったように思えて、なんだか情けなくなってくる。とは言え、そこに嫌悪感や怨恨があるわけではなく、やはりどちらかと言えば馴染み深さの方をより多く感じ、自分がここで育った人間なのだと確認するような、そういった紐づけの悲しさと安心感に柔らかく包み込まれてしまうのである。

「ただいま」裕也はチャイムもなしに家の玄関を開け、中途半端な声で叫ぶ。

「あぁ、なんだ。言ってくれれば駅まで迎えに行ったのに。歩いてきたの?」裕也の母親が台所の方から覗き込んでそう言う。それから、おかえり、と少し遅れた挨拶をかけ、「お昼は食べた?」であるとか、「会社は慣れた?」であるとか、とにかく矢継ぎ早の質問がなされた。

 裕也はそういった懐かしい母親の声に、最初の方は逐一答えを返していたが、昼食、夕食、風呂と済ませ、父親、母親、それからこのあいだ成人したばかりの妹と晩酌を交わし始める頃には、もう既にこの場所に少し嫌気がさしてきていた。今日はもう疲れたから、と言葉を残すと一足先に歯磨きを済ませ、生活感の失われた自分の部屋へと向かった。向かう途中、父親から「明日、墓参りに行くんだろ?」と声をかけられ、「あぁ」とだけ返事をする。七年前からほとんど時間の進んでいない自分の部屋。ベッドの上の掛け布団は綺麗に整えられていた。

 

 翌朝、目を覚ますと九時十分前だった。既に家から父親と妹の姿が消えている。リビングに行くと母親が録画していたであろうドラマを見ていて、裕也の足音に気づくとすぐさま「おはよう。そうとう疲れてたみたいね」と言いながら、台所へと朝ご飯の支度をしに向かった。録画ドラマは一時停止されることもなく、テレビ画面は裕也にとって無意味な人間模様を描いている。

 座っているだけで朝ご飯が出てくるとはこりゃあ便利だな、などと考えながら米と味噌汁と焼き魚を順繰りに口に運んでいると、向かいに座った母親が録画のドラマを見ながら話しかけてくる。

「お盆も帰れないほど、仕事忙しいん?」

「いや、お盆のときこそ働かなきゃいけないんだって」

「まぁ、大きな鉄道会社だし将来も安泰なんだろうけどねぇ」

 残念そうに、とは言っても、どこか誇らしげに母親はそう言う。「仕事は順調? 楽しい?」という問いかけには「まぁ、嫌で辞めたいっていうことはない」とだけ返す。いつの間にか、母親の興味はドラマから息子へと移り、その息子の興味は見知らぬドラマへと移っていた。

 朝食を済ませ、それからシャワーを浴びると裕也は昨日父親と約束した通り、墓参りへと行く準備を始めた。お盆に仕事で帰省できず、彼岸もちょうど過ぎた九月の末にようやく休みを取ることができたのだが、そのせっかくの休みを帰省に使わなければならないということが少し不服ではある。また、裕也は自分が別に墓参りなどの錆び付いた風習には重要性を見いだせない世代の人間であることを自覚していた。しかし、そういうものをないがしろにもできずに、溜まった息を吐き出して見せることもなく、それこそ仕事をこなすような感覚で玄関へと向かう。ただ、その足取りはやはり重たい。そんな裕也へと母親が、墓場の場所はわかっているか、と尋ねてくる。わかっている、と答える。靴を履き、ドアノブに手をかけたところで「今日は夜、みんな遅くまで帰ってこないから」とまた声をかけられる。裕也は「はい、はい」とだけ簡単に答え、そのまま出かけてしまいたかったが、持っている情報は多いに越したことがない。「みんな、どこかに出かけるん?」と振り返り、母親から話を聞いた。結局、五分ほどの時間が奪われる。

 家を出る頃には海辺の少女のような水色だった秋空も、歩き出して十五分程度で老いた灰色へと変貌する。空気は相変わらず湿っていて、冷ややかであって、それでいて蒸し暑い。ズボンの尻ポケットに入れた財布がしなびていくのがわかる。

 日曜日にもかかわらず、いや、日曜日だからかもしれないが、道ですれ違う人の数は極端に少ない。東京ではいつも擦れ違いざまの道筋を探すために目を凝らしていたが、その鍛え上げられた眼が田舎の牧歌的風景に飼いならされ、馬鹿みたいに弛緩していくのを感じる。裕也は墓参りのための一式など持たず、財布と実家の鍵だけで出てきたが、それは最初から道すがらで道具を集めようと考えていたからであった。時季外れの墓参り道具を持って道を歩きたくはなかったし、かと言って慣れない車を運転するのも嫌だった。しかし、それ以外にも身軽でありたいという想いや、途中々々で道具を集めていくそのイベント性に子供っぽい面白味を見出していることが理由として挙げられた。辺りはひと気も無く静かだったが、イヤホンをして音楽を聴くと世界はより静かになった。

 あまり大きくはない町のスーパーで線香とライターを買う。当初は花もどこかで買っていく予定だったが、何となく墓石の灰色に合いそうな花が田舎特有の何の意味も成していない空き地に咲いていたのでそれを摘んでいくことにした。しばらく記憶を頼りに歩き進め、この道で合っているのか、と不安を感じ始めた頃にようやく墓場が見えた。

 人はいない。人は少ない、ではなく、いないのだ。それくらい寂しい場所だった。イヤホンを外してみても、音楽の数倍も静かな場所。そう言えば寺の場所は覚えていたが、その広い墓場の中の、家の墓そのものの場所がよく思い出せない。おおよその検討をつけて、墓石の迷路に足を踏み入れた。様々な家系の墓の間を練り歩きながら、自分の苗字を探す。頭上では鏡のように平板な雲が空に貼り付き、白く輝いている。足元には湿り気を帯びた土。そして、踏みつけられた何かの花弁。狭い通路の両側では多くの人たちが死に続けていた。「have been dead」と高校生の頃の英語の授業がふと思い出される。確かに人々は死に続けているのだ。言葉の綾でも何でもなく。

 ようやく自分が参るべき墓を見つけ、適当に摘んできた花を供え、線香に火を灯した。煙が真っ直ぐ昇っていく。風がない。手を合わせて、数年前に死んだ祖母の顔を思い出した。映像は思い出せるが、何かほかにもっと思い出すべきものがあるのではないかと感じる。しかし、何を思い出せばよいのかもわからないし、映像以外のものが裕也には思い出せなかった。決して嫌いというわけではないし、むしろ好きだったはずなのだけれど。仕事や何やらと全部一緒だ、と裕也は思った。自分は薄情者なのだろうか、と考える。自分には感情というものがないのだろうか。それを愚直に表に出すことは好きではないが、それでも自分には喜怒哀楽というものはある。では、自分に欠けているものが何であるのか。裕也はやはりいつものように、その欠けているものが愛情であるのではないか、という推論に辿り着く。

 ある映画の中で取り上げられた聖書の中の一文。「信仰、希望、愛。この三つはいつまでも残る。このうち最も大いなるものは愛」。自分には信仰も希望も愛もない。いや、自分だけではない。裕也の目には、全ての人間が本当の意味ではそれらを持っているようにはどうも映らなかった。みな何かを取り違えている。どこか歪んでいる。だから、裕也は考え方を変える。その三つは全て歪んでいてこそ得られ、意味と効果を為すものなのだと。それらを真っ直ぐに信用し、無条件に愛でている人間は、その愚直さ、盲目さゆえに既に完全ではないのだと。

 寺の敷地の中で聖書の文言について頭を悩ませている自分に気がつくと、裕也は思わず顔をしかめながら笑ってしまった。線香の煙は雲を目指して昇り続けている。しかし、それはいずれ灰となり、そして線香もまたそれより先はただ死に続けるのみである。摘んできた花は思い出と同じように、既に死んでしまったもの。思い出もいずれ枯れ、消えてゆく。花と同じように。裕也はイヤホンを付け直して音楽とともに墓場を後にした。仕事は果たされた。今、自分が生きている因果が裕也の背後で遠ざかっていく。