霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.64

適応障害と診断されて220日目(5月22日)にこの記事を書いています。

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

前回記事ではGW中の私の生活について書きました。およそ2週間というかなり長めの休暇期間を経て、会社を辞める決心がついたので、そのことを記事の中心においていましたね。そして、今回は前回記事でも少し予告した通り、会社とのやり取りを経て「まだ辞めなくてもいいんじゃないか」と考えるようになったので、その内容について話したいと思います。

 

 

1.カレンダー

適応障害と診断されて…/復職して…

 

205日目/休み(GW)
金曜日。午前中に両親と話し、おそらくは仕事を辞めることになろうということを話した。色々と言いたいことはあるのだろうけれど、この2週間じっくり考え、話し続け、ようやく自分の中でも踏ん切りがつけられたと思う。自分らしく生きるための代償として、今後私が切り捨てることになるであろう様々な可能性や信頼というものはおそらく安いのではないかと思う。自分らしさを獲得するために勇気を出す局面なのであろう。そう自分に言い聞かせてみる。

 

206日目/休み(GW)

土曜日。若干遅寝遅起きの習慣がついてしまい、今日も遅めの起床。起きて少し急いで支度をして診察へ。GW中に薬が効き過ぎている感じがあったので、スルピリド錠を1日3錠から2錠へ減量してもらい、ロフラゼプ酸エチルはこれにて終了。頓服薬でペロスピロンを追加してもらった。昼食は大好きなラーメン屋に。仕事を辞めて実家に帰ったらもう食べに来る機会がほとんどなくなってしまうので、心して食す。やはり素晴らしく美味しかった。帰宅後、スマホショップでスマホケースを買い、床屋へ。昼寝を挟んで、少しブログの記事を書き進める。体内時計を戻すために入眠ルーティンをして、通常時より30分遅い就寝。

 

207日目/休み(GW)

日曜日。夜中3時半に中途覚醒があり、そこから眠れなくなる。だらだらと動画を観続けてしまい、結局眠れたのは朝の6時を回ってから。10時ごろに目を覚まし、また動画を観てダラダラと過ごす。昼食を部屋で食べた後、地方勤務時代のお世話になっていた先輩に連絡を取る。会社を辞めようと考えていることを話すために、7時くらいから電話をさせてもらう約束を取り付ける。ブログの記事を少し書き進め、夕食を買いに外出。早めの夕食を済ませ、7時から1時間くらい先輩と電話。自分の考えを尊重してくれたし、先輩の身の回りの話も色々と聴けて楽しかった。先輩はバイクの免許を取るらしい。今までバイクには興味なんて持っていなかったけれど、一緒にツーリングしたいと言ってくれたので一考してみようと思う。入眠ルーティンをして眠る。明日からまた会社だ。

 

208日目/38日目

月曜日。夜中3時半にまた中途覚醒。そこから結局眠れないまま朝を迎える。やはりロフラゼプ酸エチルの断薬の影響が出ているのか。朝の時点ではやはり仕事に対する気持ちは湧いて来ず、今日のうちに退職の意向を伝えようかという気持ちになっていた。そして、久しぶりの通勤電車はやはり疲れる。午前中は少し眠気と疲労感がありながらもゆるゆると仕事をこなす。午後からは産業医と職場の上長を含めた面談があり、そこで「個人的気質」の問題がありながらもやはり職場環境との不整合が問題となっているという見解を頂き、配置換えについても前向きに検討してもらえることに。最終的な判断は主治医の意見も聞いたうえで決定となるが、配置換えの準備が整うまで勤務継続が難しければ一度休職してからの配置換えもアリというところまで提案してもらえた。退職しようと考えていたところなのでまた悩むが、1つ選択肢が生まれたのは良いことだった。この日は夜勤もあるため、6時過ぎまで働いた後、休憩。3時間近くの休憩時間のうち1時間程度しか仮眠できなかった。が、できなかったものは仕方ないと割り切って、眠れなかったことはあまり考えないようにする。

 

209日目/39日目

夜勤はもうアルバイト感覚で過ごすと決め、とにかく時間が過ぎ去ることだけ考えながら働いた。色々と歩き回り疲れる夜勤だった。朝はフレックスを使って早めに帰宅。シャワーを浴びて、朝ご飯を食べ、就寝。しかし、1時間くらいで目が覚めてしまう。そこからは「攻殻機動隊S.A.C」の動画を観ては寝てを繰り返すという1日。途中、2回目の首吊り失敗時に壊してしまった部屋の物干竿について寮長に確認してもらうなどのイベントもあった。もちろん、首吊りで壊したとは言えないので適当に誤魔化したが。結局朝の7時から夜の7時までほぼ寝たきり状態の1日で、この日記をつけている今もかなり心身共に疲弊しているが、とりあえず入眠ルーティンをしっかり行い、明日に備える。今日は中途覚醒無く、しっかり眠れるといいな。

 

210日目/40日目

水曜日。昨日は日中に昼寝をし過ぎたせいで、結局夜中1時過ぎまでダラダラとスマホをいじってしまった。2時ごろに中途覚醒が一度あったものの割とすぐに再入眠でき、そのまま朝6時半まで眠れた。テレワークなので出勤時間分ゆっくり眠れたのが良かった。が、やはり夜勤の疲弊感と眠気は拭えない。午前中はやるべきことを割とスムーズにこなせた。午後はマスト案件をダラダラとこなし、昼食を食べ過ぎたのか若干の頭痛もあったけれど、何とか1日を終えることができた。買い物にも行って、動画を観て楽しみ、少しだけブログの記事も書き進められた。明日は職場に出勤なので今日は早めに寝よう。

 

211日目/41日目

木曜日。昨晩は寝る直前に公務員試験の勉強をやってみたりしたせいで、頭が活性化してなかなか寝付けず。このままではヤバいと思い、入念なストレッチ(15分:軽く汗ばむ程度)から横になってたっぷり深呼吸(10分)、からのボディスキャン瞑想で気づけば5分くらいで寝付くことができた。結果1時間程度予定より夜更かしになったものの、入眠ルーティンを作れていると実感。朝は眠気があったものの夜勤の疲れは8割くらい取れていた。久しぶりの雨。仕事は今は基本的に軽めなのでゆるゆると働くことができた。途中眠気を感じるくらいのゆるゆる感。それでもやはり1時間程度残業をすると疲れも出て来る。苦手な上司ともいい塩梅の距離感で立ち回れた。帰宅後どっと疲れが押し寄せて動画を観ながら寝そうになる。いつもより30分遅めのお風呂。でも、明日はまたテレワークだし、朝も遅いので、ちょっとくらいの夜更かしならまぁいっか。という感じで、今日も終わっていく。

 

212日目/42日目

金曜日。早朝に騒音で目が覚めるも、遅めのテレワーク勤務開始なのでたっぷり8時間程度眠ることができた。晴れているし朝からの調子は良さそう。午前中はかなりダラダラと働く。午後は会議や社内の発表などがあるので、それなりにしっかりと勤務。テレワークならば体調は悪くならなそう。やはり対人関係でストレスを感じる部分が多いようだ。勤務終了後、インスタのストーリーで凛として時雨のTKが「当日券あり!」と言っていたことを思い出し、寮を飛び出すもよくよく調べて見たら、ライブ自体が前日のものだった。せっかく外に出たのでラーメンを食べて帰る。夜はだらだらと動画を観ながら過ごした。

 

213日目/休み

土曜日。朝から診察。会社から提示してもらった今後の方針の何パターンかについて主治医に助言を求める。が、結局それは自分の人生なのだから決めるのは自分自身だと言われてしまう。まぁ、その通りだ。結局自分で自分の人生に責任を負うのが怖いのだろう。他人のせいにできる余地がある方が楽だ。しかし、この病気を治すためには、自分でちゃんと人生と向き合う必要があるのかもしれない。周囲の目を気にし過ぎた結果、自分で自分を追い込むことになり、その何年もの蓄積がこんなところへ自分を連れてきたのだとも思う。自分の人生に責任を負う勇気を持ち、むしろその自由を楽しめるようになりたい。早めの昼食を食べて帰宅。午後から職場の上長とWEB面談。自分で決めて、異動の希望を出した。異動したからと言って事態が好転するとは限らないが、ダメになったら実家に帰ればいい。やれることはやっておく。これが自分のスタイルなのだと思うことにした。夕方頃、ふと散歩したい欲に駆られ、電車に乗ってある神社まで足を伸ばす。神社は静かで、少し物悲しさがあった。誰かが池のほとりで横笛の練習をしていた。近くにある公園では子供や老人がたくさんいて、それぞれに土曜の夕刻を楽しんでいた。自販機で買ったアイスを食べながら少し広めの公園を一周する。自分が人生に求めるものはそんなに多くない、目の前のような景色が見られるだけで充分なのに。そんな感覚を久しぶりに覚え、何だか切なくなる。散歩から帰宅して夕食にお寿司を食べた後、両親と電話。診察のこと、会社のことを伝え、状況が少しずつ変わっていくことに安心してくれたみたいだ。でも、「あまり期待しないで。いつでも実家に帰ってきて良い、というスタンスを崩さないで」と伝えた。申し訳ないけれど、そこだけが今の自分のセーフティネットなのだ。自分が心で求めているものと、自分が目指そうとしているものにまだまだギャップがあるのかもしれない。今日の夕方みたいなものを求めているとして、自分が会社に残ることで得られるもの・我慢しなければならないもの、その間には隔たりがあるように感じる。本当に自分は自分の意思で「異動」という選択肢を選んだのだろうか。何というか、まだまだ自分の中にある自分を監視する「目」の言いなりになっている気がする。夜に久しぶりに酒を飲んだ。日が変わるまで酔っ払って過ごし、遅くに眠る。

 

214日目/休み

日曜日。心が疲れていたせいか、あるいは昨日の深酒のせいか(二日酔いではないと思う)、ずっと眠たくて起き上がることができなかった。元sora tob sakanaの神﨑風花ちゃんが再開したTwitterでおすすめのアニメを募集しており、それに対するコメントで多かった「ゴジラS.P」を観ながら、寝たり起きたり。夕方までそんな低空飛行を続ける。夕食を買いに出たが、それが本日唯一の外出。ブログを更新し、その後はまたダラダラとして過ごす。夕方にシャワーを浴びたので夜はお風呂に入らなかった。入眠ルーティンもせずだらだら動画を観続けていたらいつの間にか夜中の1時を回っていた。バナナマンのラジオを聴きながら眠る。何もしない1日だった。寮の廊下を抜ける風がどこか切なくて、感傷的な気分に支配されていた。

 

215日目/43日目

月曜日。昨晩は寝るのが1時過ぎだったため、少し遅めの起床。本日もテレワークの為、気持ちはかなり軽い感じ。テレワークの開始について上司と連絡を取ったところ、「やることないならそんな朝早くから始める必要ない」と言われたので、予定より遅く開始することに。今日働かなかった分はどこかで残業しないと勤務時間が足りなくなるので、できることなら毎日規則正しく勤務したかったが、まぁ上司なりの気遣いなのだろうと思い素直に受け入れることに。会社から持って来たBluetoothのマウスの電池が切れたため、朝一でコンビニに買いに行った。それからテレワーク開始時間までは創作物を書いたりなんだりしてゆっくりと過ごす。土曜から少し感傷的な気分になっていて、ともすれば希死念慮が湧いてきそうだったけれど、買い物と文章を書くことで若干気分が好転したように思う。業務自体はまたダラダラと負荷がかからない程度に済ませた。急ぎの要件も早めに片付いたので一安心。疲れたらベッドに横になって休憩したりしながら無理なく働けたと思う。夕飯を食べた後はだらだら動画を観て過ごす。途中で眠気に襲われる。今日こそちゃんと寝るために風呂に入り、入眠ルーティンをこなす。明日は出勤なので英気を養いたい。

 

216日目/44日目

火曜日。3時50分頃に中途覚醒があるも、久しぶりにたっぷりと眠れた感がある。寝起きから若干の頭痛があり、やはり職場に行きたくない気持ちが症状として現れているのか。希死念慮まではいかずとも、何となく疲労感があり、心がなよなよしている。職場では朝方に苦手な上司から指導があったものの、「これはアドバイスに過ぎない」、「別にすぐにできるようにならなくても大丈夫」と自分に言い聞かせ、平常心を保つ。テレワークの時はフレックス勤務のコアタイムだけを勤務時間として欲しいと上司から打診があった。基本的に残業少なめにしている私の現状ではテレワークの度に勤務時間がマイナスになってしまうけれど、と意見してみたが、「そこはうまくやってマイナスにならないようにしてくれ」とのこと。ちょっと無理難題だと思ったけれど、やれるだけはやってみようと思う。おかげでこの日から出勤時にはそれなりの時間の残業をしなければならない。業務量も調整してもらっているので、無駄残業のようになってしまって申し訳ないが、上司の命令ということで納得しよう。とは言え、この日は16時間ファスティングもやれ、残業前提で動いていたから焦ることも無く自分のペースを保つことができ、多少は体調に良い時間を過ごせただろう。拘束時間が長いことにはやはり疲れはしたが。入眠ルーティンをして、ほぼ時間通りに就寝。

 

217日目/45日目

水曜日。結構たくさん夢を見た気がするが、中途覚醒もほぼ無く眠れた。いつもより若干早い起床だったけれど、この日はテレワークで勤務時間もコアタイムだけなので、朝はゆっくり。部屋を暗くしたままベッドの中で「大豆田とわ子と三人の元夫」を観てから、ゆっくりと起きる。朝ご飯をちゃんと食べ、シャワーを浴び、それでもまだ時間があったので創作物を書き進める。そして、公務員試験の勉強も少ししてみた。政治とか金融とかは苦手分野なのでとても難しい。選択問題に出て来る言葉1つひとつがよくわかっていないので、調べながらの解答になり、亀の歩み。勤務自体は特段追い込まれることも無く、やるべきことをできる範囲内で進められたので良しとする。自宅でできなかったことをリストアップして明日に仕事を持ち越す。たいした量じゃない。休憩時間にはHSP関連の動画をいくつか観た。HSPが関わってはいけない人、という動画で紹介されている人物の特徴がほぼほぼ苦手な上司のキャラだったので、「もう無理に関わろうとしない方が良いな」と思う。自分も苦手で相手も苦手、そんな絶妙な距離感が私とその上司の適切な距離感というやつなのかもしれない。お互いの為にもそれくらいの感じでいた方が良いだろうと開き直ることにする。夕方買い物に出掛け、夕食後はだらだらと動画を観たり、創作物の校正をして時間を過ごす。今日も入眠ルーティンをしっかりとやって眠ろうと思う。

 

218日目/46日目

木曜日。夜中2時頃に中途覚醒があり、そこからも浅い眠りが続く。昨晩にふと「フラニーとズーイ」に出て来るバガヴァッド・ギータ―の一節「人は仕事をする権利を持っている。しかしあくまで仕事そのものに対する権利のみである。仕事の成果を求める権利はない。成果を求める欲望が、仕事の動機であってはならない。またそこに怠惰の入り込む余地があってはならない」を思い出す。今までこの言葉の意味を理解しきれていなかったが、少しだけ腑に落ちた気がする。働く以上は成果を出すべきだという考えが先行し過ぎて自分を追い詰めていたのかもしれない。強い目的意識が自らの精神を縛り付け、息苦しくなっていた。「こうすべきだ」という考え方はすなわち「成果を求める欲望」なのだ。それを切り捨てるべきだと感じた。この日は日勤からの夜勤の日。日中はここ数日の中では1番忙しなく、良く働いたと思う。疲れた。

 

219日目/47日目

夜勤前の休憩は1時間くらい浅い仮眠ができたものの、やはりなかなかじっくりと眠ることはできずに、疲れが残った。暇な時間の多い夜勤だったけれど、その間に普段はあまり話せていなかった同僚と2人きりで話すことができた。自分が苦手な上司や先輩を同じく苦手と言ってくれたので、少し安心。やっぱりあの人たちは良くない人たちなのだと思う。無理に関わろうとするだけこっちが不幸になると思った。こういう考え方はあまり良くないであろうことはわかるけれども、背に腹は代えられない。憎しみが生まれる前に良い距離感を保つことが相手の為にもなるだろうと思う。夜勤の後はやはりとても疲れて1日中寝たり起きたりを繰り返した。ぐっすり眠ることができなかったので体はかなり辛い。結局、ベッドの中で1日過ごし、そのまま風呂にも入らず歯も磨かず、寝落ちした。

 

2.カレンダーのまとめ

GW明け2週間の内容についてまとめました。この2週間はテレワークも多かったため、体調を上手く維持しながら切り抜けられたと思います。ただ、夜勤も2回あり、その度にとても疲れました。やはり夜勤は苦手なのだと思います。

仕事自体はそんな感じで何とか乗り切りましたが、GW明けすぐに色々と自体が展開しました。

まずは産業医との面談がありました。色々と発病の経緯や、もともとの私の人格的な傾向についても話し、「異動後2週間でそこまで異常が出たのはやっぱり人格的な傾向だけとは言い切れない。その異動初日での上司の態度にトラウマ意識があるから症状がなかなか治まらないという気がする」ということで、産業医の方から職場の上長に対して異動の打診をしていただけました。それまでは上長も「異動は最終手段」という風に考えていたようですが、その最終手段を使うべきなのだと理解してくれました。私自身、あまり異動には乗り気ではなかったのですが(なんか負けたような気がしますし…)、ようやく気持ちに踏ん切りがつけられたように思います。まぁ、その時にはもう会社を辞めるつもりでいたので、「辞める前にものは試しか」と思えたのも大きかったです。

その週の最終日にはたまたま若手社員が会社の上役と面談する機会があって、そこでも「異動について検討しているから安心して良い」と言われました。それから「うちの会社は色々と悪いところも沢山あるけど、人を大切にする会社であることは間違いないから、何でも言ってくれていい」と言ってもらえました。私が会社をなかなか辞める決心ができなかったのも、そういう風土の会社であると私も感じていたからでした。

今でもまだ会社を辞めたい、辞めよう、という気持ちは残っています。しかしながら、会社がそこまで譲歩してくれるなら、まだもう少しだけ頑張ってみようという気もしています。言えるうちに我儘を言っておこうと思いました。

ただ、やはり日々辛いことは辛いです。苦手な上司といかに関わらないようにするか。いかに落ち着いた気持ちで仕事をこなすか。いかに体調を安定させるか。正直そんなことばかり考えているので、毎日が綱渡りのようでとても疲れます。はやく実家に帰って休みたいと思ってしまいます。そして、どうしても夜勤はキツイ。肉体的にかなり疲弊しますし、それによって当然の如く精神面にも不調を来します。

職場の上長は「異動は検討しているがそうすぐに決められることでもない。時間がかかるから、それまで休職が必要なら休職してもらっても大丈夫」と言ってくれています。その一方で「有休とか使いながらでも良い。せっかく今の環境にいれるのだから、今の内に勉強できることはしておいた方が後々の役に立つだろう」とも言われました。その言葉自体には納得しているものの、納得できているからこそ少し危険も感じています。今の私がどれくらい頑張れるのか。無理をすればまた命を絶とうと衝動的な行動をしてしまうかもしれません。そうならないように、いつでもブレーキを踏む準備はしておかなければなりません。

 

そんな感じで、会社を辞めようと決心したGWでしたが、その後産業医との面談や会社の上役の方との面談を通して少しだけ気持ちが変わったこの2週間でした。

まだまだどうなるか私自身わからないものの、「辞めても良い」と思えたことは、いい塩梅に力を抜いて仕事と向き合うためにもとても重要なことだったと思います。会社がある意味では下手に出てくれたことも後押ししてくれている気がします。プレッシャーを感じずに働くというのが私の最も目指すべきところです。病気という後ろ盾があることはもちろんですが、仮に病気が完治しても、自分の気持ち次第でどうとでもなるのだと思います。病気は私が変わるためのきっかけなのだと思い、変化を恐れずやれることはやっていきたいと思います。もし、気持ちを楽に生活ができるのであれば、10年近く希死念慮に悩まされてきた私にも「生きたい」という気持ちが目覚めるかもしれません。そうなりたい、と今は思っています。そのためには本当に辛くなったら逃げるという選択を取るべきということも忘れずにいたいと思います。

 

3.安全基地と心理的安全性

ベンチに座る母親と一人で遊ぶ子供との間にはまるで1本のゴム紐による結びつきがあるようだ。子供は好奇心から母親から少しずつ離れて遊びの範囲を広げていくが、ある一定距離まで行くと不安からまた母親のもとへと戻って来る。そこで情緒が安定するとまた好奇心から行動範囲を広げていく。

これがすなわち、子供にとって母親が安全基地になっているという例らしいです。私の両親はいつでも率先してそういった安全基地であろうとしてくれていました。しかしながら、私のちっぽけなプライドや「周りの眼」に対する怖れから、私はそういったものを両親に求めないようにして過ごして来たように思います。それでもたくさん甘えていたとは思いますが。しかし、甘えることと両親に安心を感じることはまた別物なのだとようやく私にもわかって来ました。

私はずっと誰にも心を開くことができずに、他人との比較の中でしか自分の人間的な価値を見出すことができずにいました。大学生くらいになってようやく私はそうやった比較に対して嫌悪感を感じるようになり、そこからはより人間を嫌いになり、比較することすらやめて、1人きりの殻の中に籠るようになりました。誰にも本心は言わず、心の中で自分と社会に対してひたすら呪詛の言葉を並べていたように思います。

ですから、私はとにかく孤独でしたし、その孤独を受け入れようともがいていました。他人との比較を嫌うのであれば孤独を受け入れるよりほかないと考えていたわけですね。そして、私はいつしか「早く死んでしまいたい。消えてしまいたい」と思うようになっていました。それがさらに心と体に染みついていき、気がつけば「死ぬこと」が生きる目標になっており、「いつか自ら命を絶つそのときまで死んだように生きよう」という指針ができあがっていました。そんな10年近くを過ごしていました。

最も小さなコミュニティである親子関係ですら私はうまく構築できずにいたのだと三十路になってようやく気づくことができました。しかも、適応障害なんていう病気にかかって初めて気づけたのです。安全基地という言葉を知って、私に足りなかったのはこれなのかもしれないと思うようになりました。広い心で受け止めようとしてくれていた両親ともまともに向き合うことができず、私は差し伸ばされた手をはたき落とし、1人で孤独の中へと沈んでいたように思います。そんな状態はとにかく「不安」だったのでしょう。「不安」でいることを私は恥じ、強がり、とにかく私を孤独に仕向けた社会と自分自身の傾向とを憎みました。「不安」を抱えたまま生きることに嫌気が刺し、いつの間にか私は死を望むようになっていました。要するに、私は「安心」を求めていたのでしょう。

「安心できる場所」を私はずっと求めていました。しかし、それは私には既に用意されていたものだったのです。一人暮らしを始めてから、実家への帰省から帰って来た後はいつも心が塞ぎ込んでいました。私はそれを認めるのが嫌で気づかないふりをしていました。でも、おそらく私は実家に帰ることで安心感を得ていたのです。そして、そこから離れることに恐怖していたのです。「安心できる場所」が実家であるなんて恥ずかしくて、受けれることができませんでした。はい、全て私のつまらないプライドです。

ですから、「不安」であることを「当たり前」のこととして受けれるようにしていきました。孤独に不安に怯えていることこそが人生であり、その孤独や不安を取り繕うために、弱い自分を隠して強がることがこの社会で生きていくということなのだと考えていました。そして、そんなハードモードを強いる社会を憎み、人生というものを呪い、できることなら早く死んでしまいたいと思っていたわけですね。

会社に勤め出し、私は誰も私の事を知らない新しい場所へとまた放り込まれました。何とか私はそこでまた外面ばかり良い自分をコミュニティの中に作り上げることに終始しました。おかげで1つ目の職場ではどうにかこうにか信頼関係を構築できたと思います。それでも私はやはり誰にも心を開くことができず、優秀で感じの良い人を装いながら、心の内では常に死ぬことを願っていました。いつまでも「安心」することができず、「この孤独は誰にも理解されまい」といつも仲良くしている人たちですら恨んでいました。そして、どんどんと私が「安心」するために頼れるのは、自らの「外面」だけになっていきました。その「外面」が機能しなくなったら…と考えると恐怖心が巻き起こりました。そんなときに私のもとへ転勤の辞令が出されたわけです。

私の職業柄いつまでも同じ土地に留まれないことはわかっていました。ですから「仕方ない」とは思いつつも、ようやく作り上げた「外面」がまたリセットされることには恐怖しました。新しい場所でもまた頑張って「外面」を作り上げなくては、と自分で自分を追い込み、いつの間にか強迫観念のようなものができあがっていたのです。そして、運悪く私が新しく配属されたところは、古い体質のパワハラまがいの教育が横行している場所でした。私の「外面」は否定され、不安は最高潮に達し、私はパニックになってしまいました。

結局、私は会社を休職することになり、実家に逃げ帰りました。

そして、何か月もかかって私はようやく自分の心を両親に打ち明けることができるようになってきました。そうしてやっとのことで私は自分には「安全基地」がなかったのだと気づくことができました。

そこからは少しずつ「実家」を私にとっての「安全基地」に変えていくことを始めたように思います。最初のうちは「もう両親しか頼れない」という気持ちでしかありませんでしたが、徐々に「自分で自分の認識を変え、両親を頼れる人たちにしていこう」という風に思うようになっていきました。そうしているうちに「安全基地」という言葉に出会ったのです。

さらに色々と調べ「心理的安全性」という言葉にも出会いました。主に「アンガーマネジメント」などで知られるこの言葉ですが、まさに私の今の職場はこの「心理的安全性」を一部の人たちが独占しているような職場でした。縄張り意識が強く、外部からやって来た私に対して最初はその排他性が強く出ており、それ故に私も「早く認められなくては」と焦ってしまったのです。もちろん根底には私自身の「安全基地がない」という問題もありましたが、そのような私自身の傾向と「心理的安全性」の不足した職場環境が相まって、私は適応障害なんてものになってしまいました。

 

今は自分自身で「両親」という入口から「安全基地」を作り上げる努力をしていこうと考えています。それと同時に会社ももう少し「心理的安全性」の高い場所へと配置換えを検討してくれています。もし少しでも私の中で「安心感」が向上するのであれば、私もまだ生きていくことができるのかもしれません。こんな歳になってから、また両親との関係を一から構築していく恥ずかしさや見っともなさも感じますが、正直これが乗り越えられなければ私はまた自死を試みるよりほかないでしょう。会社に我儘を言うことも本当に情けない限りです。でも、そこからでしか私は再出発できないのでしょう。

人生をもう一度やり直すくらいの気持ちで、しっかり前を向いて生きていこうと思っています。

 

4.最後に…

私は「フラニーとズーイ」という小説が大好きです。その中でバガヴァッド・ギータ―の一節が引用されています。

 人は仕事をする権利を持っている。しかしあくまで仕事そのものに対する権利のみである。仕事の成果を求める権利はない。成果を求める欲望が、仕事の動機であってはならない。またそこに怠惰の入り込む余地があってはならない。

 至上の主に心を定めてすべての行為をおこなわなくてはならない。成果にしがみつく心を捨てなくてはならない。成功に対しても失敗に対しても等しく平常心を失ってはならない(この部分に筆記者の一人の手で下線が引かれている)。なぜならヨーガの意味するところは、この平常心であるからだ。

 結果を案じつつ為された仕事は、そのような心配なしに、自己放棄の静けさの中でなされた仕事よりも遥に劣る。ブラフマンの知に避難場所を求めよ。結果を出すために利己的に仕事をなすものは惨めだ。

 

私はここで述べられているところの「結果を出すために利己的に仕事をなすもの」にあたるのだと最近気づきました。つまり、私は「外面」を整え、即席の安心感を得るために「結果を案じながら」でしか仕事をしてこなかったように思うのです。仕事さえ上手くできれば、私には居場所がありますし、それが私の根本的な不安を隠すための「即席の安全基地」として存在してくれていたわけです。しかし、そんな「即席の安全基地」を得るために私は常にびくびくしながら働かざるを得ませんでした。いつも自信がなく、失敗を恐れ、成功しても次に失敗することがより不安になるだけでした。正直、とても生きづらかった。そんな生き方は息苦しく、早く死んでしまいたかった。

でも、もうそういう生き方はやめようと思います。私はただ仕事を為すだけであり、そこに色々な意味を結び付けないようにしたいと思います。そうしなければ弱っている私はまたその息苦しさに負けて、死のうとしてしまうでしょう。

私にはまだ両親という安全基地が残されています。最悪はそこに逃げ込めるのです。決して無理をせず、まずは自分を大切にして、これから先は少しずつ自分が生きやすい人生を作って行きたいと思います。

 

次回

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