霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.20

記念すべき(?)20回目の記事を、診断されて26日目(11月9日)の朝に書き始めています。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

今回は診断されて25日目(11月8日)、つまり昨日のことについて書いていきます。昨日は日曜日、前職場で仲良くなった友人に会いに地方に行った時の話を中心に、その前後も合わせて書いていきます。

 

 

1.適応障害と診断されて24日目~凛として時雨の配信ライブ~

診断されて24日目の夜に凛として時雨の配信ライブを視聴しました。心療内科を受診し、「本格的な休暇が必要では?」とアドバイスを受け、鬱屈とした思いを抱えて2~3時間散歩をして帰って来た後から配信ライブを視聴しました。

内容については、記事にまとめてみたので、興味がありましたら以下のリンクをご覧ください。

 

eishiminato.hatenablog.com

 

ライブレポート記事の中でも書いているように、楽しい素敵なライブではあったのですが、刺激の強いライブでもありました。しかし、同時に自分の病状を把握する上で1つの大事な指標にもなってくれました。

ライブは想像していた通り、激しく緊張感があり、かなり刺激的でありながらも、MCすらないというかなりストイックな内容でした。このところ何をする気力も湧いてこず、死んだように過ごしていたのですが、久しぶりにテンションが上がったように思います。が、そんな大好きなライブにのめり込んで30分近くが経過した後に、少しだけ「ざわざわ」と落ち着かない感じが近づいてきます。僅かにあの適応障害の症状としての不安感みたいなものも頭の隙間に感じ始めます。

結局のところ配信ライブは最後まで大人しく観切ることができたのですが、観賞後にはただの興奮の名残だけではない、病状としての落ち着かなさがわずかに残りました。疲労感もあります。

まぁ、要するに何が言いたいかというと、「たとえ大好きなものであっても、強い刺激を受けると症状が出てしまう」ということです。これは私の現状を知る上で1つの重要な指標となりました。お医者様に昼間に言われ、歩き回っている間に自分の頭でずっと考えていたことが具象化したわけです。

まだ治ってなんかいない。

薬で緩和したり、復帰に向けた強い想いで今まで自分は良いところまで回復してきたという実感がありました。ただ、そうはいってもまだ復帰には早いということは、職場に行くリハビリを経て、自分でも理解できていました。まだ回復し切ってはいないけど、良いところまで来ているはずだ……たしかにそれはそれで間違っていないのでしょう。しかしながらお医者様が言うように、まだ私は治療が必要な段階なんだと思います。好きなものでさえ、負荷を感じ、症状がぶり返す。もちろんその度合いについては量や程度の問題という部分があるわけですが、それにしても好きなバンドのライブを1時間楽しめないという状況は決して健康的とは言えません。

この病気に罹りお休みをいただいている中でいくつも映画を観たり、音楽ライブを観たりしてきました。でも、そう言われてみれば、途中の休憩なしで通しで見たものはなかったように思います。だからきっと症状が顕在化しなかったのではないか。もちろん、凛として時雨のライブほど刺激が強いものではありませんでしたから、ある程度耐えられていたということもあったでしょう。

いずれにせよ、この配信ライブの視聴によって、私は活力を得る一方で、回復過程いおける自分の現在地を再認識したわけです。そして、その再認識はまた翌日にも起こることになります。

 

2.適応障害と診断されて25日目~地方に遊びに行く~

前日の夜、23時前には眠りにつきましたが、3時を回った辺りでふっと目が覚めます。外で騒音がしたとかそういうことではなく、何か夢に肩を叩かれたみたいに、眠りの方から不意に追い出されたような感覚でした。きっと配信ライブのせいで神経が高ぶっているのだろうと思います。さて、少し水を飲んでもう一度寝よう。朝は早いんだ。そう思ってもなかなか寝付けません。結局うだうだと眠れないまま夜を更かし、ようやく疲れから眠りにつけたのは6時ごろ。遅くとも7時過ぎには起きなくてはなりません。

結局1時間とちょっとの仮眠を挟み、何とか体に鞭を打って起き上がります。前回の記事で書いていたか忘れてしまいましたが、実は前日も別の予定をドタキャンしていたのです。どうしても気分が滅入ってしまい、誰にも会う気がしなかったためです。理解のある友人で「全然良いよ」と再度日程を調整してくれました。まぁ、そんなことがあったので、できれば今日はちゃんと約束通り、地方の友人と遊びに行きたいという想いがありました。ただ、ただでさえここ数日の滅入り様が激しかったにも関わらず、寝不足ということもあります。でも、そこまで気分は滅入っていない……いまいち自信が持てないながらも時間に急かされるように寮を出て、電車に乗ります。

友人が待つ地方都市の駅に降り立ったのは昼前。そこから友人の車に乗せてもらって、昼食を食べに行きます。古く趣のある街並みにまるで隠れ家みたいにしてあるイタリアン料理店へと連れて行ってくれました。移動中の車の中でこそ、私の病気の話題にはなりませんでしたが、美味しい料理を食べているうちに自然と私の病気の話に移っていきます。事前に私の病状のある程度までは話していたので、それをより詳細に伝えるような感じです。

このブログでは何回も書いていますが、

・発症の主たる要因は私自身の制御を誤ったこと

・前職場と新職場のギャップが不運にも大きかったことが私自身の制御を誤った背後要因であること

・ある程度そういった原因について整理はできているから、深く思い悩んでいるわけではないこと

・ただ症状が残っており、それは骨折のようなものだと考えて欲しいということ

そんなことを話していきます。もう何回この説明をしましたかね? ブログにも書いていますし、誰にどのような話をしたかもう覚えきれていないので、逐一「これは話したっけ?」と尋ねる羽目になりました。

昼食を終え、山奥の方へとドライブをしていきます。ドライブをしながら、友人の仕事の愚痴を聞いたりしていましたが、実はこれが少しだけ辛かったです。いま目の前にいる人は毎日大変な環境で働いており、自分なんかがしてきた苦労よりもずっと大変な苦労をしているのに、なんで自分はこんな風に仕事を休んでいるんだろう。そう考えないわけにはいきませんでした。でも、それは私が受け入れるよりほかない、厳然たる現実です。笑顔で相槌を打ちながら、久しぶりに感じる長閑な田舎の風を感じます。

ちょっと有名な滝があるということで、そこに連れて行ってもらいました。山奥のひんやりとした空気が心地いいです。でも、ちょっと寒いかな。滝までの山道は少し急な下り坂で、足を踏み外しそうで怖いです。おそらく薬の副作用で若干運動能力が低下しているのでしょう。日常生活にはあまり支障がないものの、こういった局面では常に頭の周りを取り囲んでいるぼんやりとした感じがはっきりと思い出されます。また、滝の音は凄まじく、感動すると同時に少し圧倒されてしまいます。HSP(Highly Sensitive Person)という気質の人が感じる「圧倒されてしまう」という感覚はこういうことかな、とちょっと思いました。が、滝は滝で美しく、壮大で非常に見ごたえがありました。なんにせよ、こうやって自然に触れるというのも久しぶりの事で、なかなか良いものですね。

滝を見終わると、そのまま車を走らせて、少し行ったところにある温泉に行きました。ご老人ばかりの客層。そんなに大きな温泉ではなく、露天風呂からは田んぼや村落を横切る道路が見えます。男だから良いけど、女性はなかなか露天風呂には行けないだろうななんて思いながら、湯に足を入れた瞬間……あつっ! ぎりぎり耐えられるくらいの高音の露天風呂を楽しみ、長閑な空気や温かい太陽の光、山の冷たい風、そんなものを感じながらのんびりするのもなかなか素敵な時間でした。

温泉から上がり、再びドライブをしながら地方都市の中心街へと帰ります。帰り道では仕事観についてじっくりと話し合いました。

その友人は1つしか職場が無い、私と比べればだいぶこじんまりとした会社に勤めています。ただ専門的な技術や知識も必要になるため、やった分だけ給料も沢山貰えるというような会社です。友人が就職活動中に考えていたことは「転勤とか嫌だし、面倒だし、落ち着いて働きたい」ということと、「自分がこれならできると思ったことを仕事にすべき。だって仕事ってそんなに甘いものではないから」ということだったようです。そして、そんな友人から「そんなに繊細なのに、今の会社でやっていけるの?」と私は言われてしまいます。

それは私も非常に悩ましく思っていることです。仮にこの病気が治ったとて、私の会社は2~3年で転勤が基本ペースですし、海外勤務はそう多くないものの、県を跨いでの転勤なんてざらです。業務内容も多岐に渡り、転勤する度に仕事を1から覚え直していかなければなりません。また夜勤の多い業種でもあります。

私は人見知りで、内向的で、体力に自信が無く、自分で言うのは少し恥ずかしいですが割に繊細な人間です。豆腐のメンタルです。そんな私に本当に務まる仕事なのかと問われると「いや、無理っぽいな」と自分でも思ってしまうほどです。そして、私はその友人の話してくれた仕事観についてはよくわかっているつもりです。というか、少なくとも就職活動を始める前までは、私もその友人と同じく、落ち着いた環境で自分にできると思しきことをやって働いていこうと考えていました。大学の研究室でやっていたことの延長線上にあるようなメーカーで研究開発に携わる未来を想定していました。

しかし、幸か不幸か、私が就職活動をしていた時期は売り手市場で、受ける会社のほとんどから内々定がもらえるような状況でした。詳しく話すととても長くなりますし、しかも一貫性を欠くので、とりあえず核となる部分だけお話をすると、そんな「よりどりみどり」みたいな状況の中で、私はふと自分の未来について考えてみました。

Aという選択肢を選べば、ある工場を拠点に今後の人生を送っていくことになるだろう。そこには今の自分にもある程度想像がつき、おそらくは自分が得意とする地道に物事を探求したり、自らの裁量で進められるような業務が待っている。いかにも理系というような自分と近い思考パターンを持った人が多いだろうし、まぁ、出会いは少なくても安定した収入、仕事ということでいずれ結婚だってできるかもしれない。将来的には管理職のような方向を目指すこともできるし、技術屋としてそのまま突き進むという方向性もある。様々な転機はあるだろうけれど、それでもある程度のところまで自分の人生がイメージできる。

対して、Bという選択肢は、あまりに未知すぎる。転勤は多いし、きっと落ち着いた人生を送ることはできない。業務だって自分があまり得意ではない、様々な人と関わり合いながら進める仕事が多く、おそらくは「じっくり考える」という自分の得意とする部分は発揮する場面があまり多くないだろう。会社に引きずり回され、消耗するだけの人生になるかもしれない。でも、様々な土地で様々な経験ができることは間違いない。予測不能というのは不安と同時に刺激的でもある。

どちらを選ぶかで私はかなり迷いました。今でも決め手が何なのかよくわかりません。私を知る人のほとんどは「Bという選択肢は向いてないんじゃない?」というアドバイスをくれました。でも、あまのじゃくな私はそう言われるたびに「A」という選択肢が気になってしまいました。それもきっと私が決断をしたときの理由の1つでしょう。でも、それ以上に私が「B」という選択肢に惹かれたのは、私が生きる上での矜持が「自分が好きと思える文章を書くこと」だったからでしょう。何度も言うように私はいつ死んでも構わないという想いで生きてきましたし、そんな私が私の人生でやるべきことはただ自分が「良い」と思える文章を書くことだけです。もちろん、その頃にはもう私は文章を書いて食べていくということが自分にはできないということを悟っていました。それは単に技術による面が大きいわけですが、同時に生活手段が文章を書くことになってしまうという怖さもありました。私は誰かに届かせるために文章を書くことができません。私はただ私のためだけに文章を書くのです。それだけが私の人生で許された唯一の自由なのです。まぁ、そんな風に考えていたわけです。

というわけで、気がつけば私は明らかに困難と思える「B」の選択肢を選んでいました。事実、私はこれまでに研修時代も含め、実に多くの土地で生活し、多くの人々に出会ってきました。それらは私に負担であると同時に、刺激となり、私に沢山の文章を書かせてくれました。そこには今回のこの「適応障害」というイベントも含まれています。

ただ、ここに来て問題となってくるのは、「そんな生き方が本当に持続可能なのか」ということです。別にいつ死んでも良いとは思っていますが、やはりいざ死ぬとなっても恐怖は大きいですし、今回こんなことになって、もはや書くという意思すら奪い取られ、感性が殺されるということも知りました。それは私が望む自由ではありません。もしかしたら私はもう1度「A」という選択肢について考慮してみるべきなのかもしれない……最近はよくそんなことを考えます。

と、そんなことまではその友人に話せませんでした。私が話せたのは「B」という無謀な選択肢に何か惹かれてしまったというところまでです。

 

かなり話が逸れましたが、そんな相容れないようで、相容れるような仕事観について話したのち、私たちは車を適当な駐車場にとめ、公園でコーヒーを飲みながら電車の時間まで話し込みました。

「こうやって話していると、だいぶ元気に見えるでしょう? でも、本当は今すぐそこの砂場に倒れ込んで、そのまま沈んで消えていってしまいたいと思っているんだよね。昔から人の目ばっかり気にして、カッコつけることしか考えて生きてこなかったからさ。いくら弱みを見せて良いって言われても、適当に笑い話に変えてしまうし、人当たりの良い人間であろうとしてしまうんだよ。ま、誰でもそういうことってあると思うけど」

まぁ、だいたいそんなことを話しながら、時間を潰しました。私なりに自分の弱さを伝えてみたつもりですが、本当のことを言うと、この時の私は既に適応障害の症状で、慢性的な不安感や落ち着かなさに心の内では悶え苦しんでいました。

笑顔で別れ、電車に乗り、泣き喚きたいのを堪えながら、自分の腕で自分の体を強く抱きしめ、吹きだす汗とじっとしていられない体を時折不自然がられない程度に揺り動かしてただ時間が流れ過ぎていくことを待つしかできませんでした。本に集中してみたりするもあまり長くは続かず、次第に文字が躍り出して吐き気が押し寄せてきます。目を瞑り、奇妙な夢に現を抜かし、またはっと目が覚めては、本に集中する。そんなことを繰り返し、ようやく寮に戻って、夕食を取り、薬を飲みます。

こんな寮でも、1人きりになると落ち着くことができました。

それでもまだ気持ちが落ち着かないところがあったので、両親と1時間くらい電話をしたのち、凛として時雨の配信ライブのレポート記事を書き始め、それが書き終わったのは日付が変わった頃でした。そこまでして、ようやく気持ちが落ち着き、眠りにつくことができました。

 

総じて、久しぶりに地方に帰り、素敵な時間を過ごせた日ではありました。また、自分の人生を見直すうえでの色々なヒントを得られた日でもあります。ですが、そんな素敵な1日であったにも関わらず、やっぱり私は適応障害の症状に苦しめられます。そう言えば、お酒を飲まずにこれだけ普通の友人と時間を過ごしたのは初めてですね。お酒さえ入ってしまえば、その時ばかりは大抵の嫌な症状は忘れられるのですが、どうも素面では気の置けない友人でもダメみたいです。これも1つの自分の状況を表していると言えるのでしょう。

 

3.判断のつかないことだらけ

心療内科というものは初診こそ時間をかけて症状を聞いてくれますが、2回目以降はものの15分で診療は終わってしまいます。患者も多いし、仕方のないことだとは思います。でも、それ故に、どこまで自分の状態を詳しく知ってもらえているかはわかりません。だから、お医者様の言葉は15分の信頼感という前提のもと考えを整理していきます。

【お医者様のアドバイス】…いくらか前回記事と内容がダブります。

・環境因による適応障害から回復するための3つの方法

 ①退職(環境をガラッと変える)

 ②休職して治してから復職

 ③薬の服用をして症状を抑え込んだうえで、継続的に働き、徐々に薬を減らす

 この場合、既に職場で明確な症状が出ている私には③という方法が不可能ということが既に分かっています。現在、私が上司からのグレーな提案で②と③の間の微妙な状況に置かれているということは、きちんと説明することができませんでした。しかし、お医者様の言い方からすると、負荷を感じてそれに伴って症状が出ているのであれば、「休職が妥当でしょう」とのこと。

 

・自殺未遂の話

 本来なら入院してもらいたいけれど、とりあえず次やったら入院ってことで。そして、負荷によってそういうパニック状態になるリスクは依然としてあるようなので、極力負荷は避けるように。

 

・増薬について

 職場でなくても日によって安定しない日があるのであれば、薬を増やしても良いんじゃないかとのこと。あまり安定している状態とは言えないし、安全を考えるのであれば、少しでも薬を増やしてまずは安定を目指した方が良いのではないかということ。特にこれまでで1か月弱が経ち、薬による緩和の効果も得られ、副作用も落ち着いてきたからこそ、きちんと回復に向けた手順を踏んでいくのもアリとのこと。

 個人的に薬は増やしたくなかったので、いったん断ることに。これについてはもう少し様子を見たい。特に、これまでは自分で自分に与えてきた負荷が大きすぎたのかもしれない。負荷の無い状況で安定するかを先に見るべきなんじゃないかとも思う。

 

【自分の気持ち】

先週の水曜日に上司と面談して、グレーな方法を提案してもらった。しかし、グレーはグレーなりにやってもらわなければいけない業務もある。木曜、金曜とそのグレーな方法で休んでみたけれど、グレーな方法を取っていることに対する罪悪感が若干あり、またその「やらなければいけない業務」に取り組むための気力が湧いてこず、そんな自分に失望してしまい辛かった。

無気力の原因はおそらく「復帰が遠のいたこと」です。「もう少し猶予を貰えたから少し肩の力を抜いて、しっかり休んで治そう」と思ったら、それまで張り詰めていたものが切れてしまったのだと思います。今は「復帰したい」という想いが消えかかっていります。それよりは「ゆっくり休みたい」という想いが強くなりつつあります。もちろん、「時期はわからないけれど、いずれ復帰したい」という想いはあります。私はまだこの新しい職場で2週間しかやっていないし、職場や業務が好きとか嫌いとかそういうことすらまだ自分の中には出来上がっていません。だから、いずれ復帰してまたトライしたいという想いはあるけれど、それが「できるだけ早く」という風には、今はあまり思えていません。

ただ、そんな「休みたい」という想いが、本当に治療の必要性から来る理性的な感情奈なのか、ただの甘えなのかは自分でもよくわからないです。もちろん第一目標は完治ですから、その状況は「どうしたら治るかわからない」というところから来ているように思います。もしかしたらある程度の緊張感があるグレーな方法を継続することで、復帰への想いを保ったまま治療していった方が良いのかもしれない。でも、そのグレーなやり方で心は少し辛いというのは事実。それが実際的に症状の悪化やパニックを引き起こすリスクにまでなり得るのかは、自分でよくわからないところがあります。耐えられるのか、耐えられないのか、それが自分ではイマイチわからないのです。でも、もしかしたら「耐える」・「耐えない」という話をしている時点でダメなんじゃないかとも思います。お医者様的には、たぶんそういう考えのもと、「休んだ方が良い」とアドバイスしてくれたのかもしれません。

 

これ以上は、私にもいま明確に言えない部分があります。本当に気持ちを包み隠さず、取り繕うことなく言うのであれば、「傷病休暇でじっくり休みたい」です。でも、これがいま一時の気持ちの緩みから来る「甘え」なのかもしれない、とも思ってしまいます。せっかく上司からは様々な提案をしてもらっているので、それに応えたいという想いもあります。でも…………でも…………やっぱり自分にはまだ判断がつきません。どうすべきなのか、自分でもよくわからないのです。

 

今日もまた上司と面談をセッティングしてもらいました。お医者様との話をフィードバックする場です。でも、3時間後の面談に向けて、まだ私の中では「こうしたい」という判断ができずにいます。いや、口を開いてすぐに飛び出て来るのは「休みたい」という言葉であることは間違いありません。でも、本当に休んでしまっていいのか…

上司はきっと困るでしょうが、もはや私には判断できないことです。医者でない上司にもきっと判断はできないでしょう。お医者様はちょっと独善的に「休職だ」と判断をします。

ま、どうなったところで死ぬわけじゃなし。この予測不能こそ私が人生に求めるものだったはずです! …本当に???

 

次回

eishiminato.hatenablog.com