霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.63

適応障害と診断されて213日目(5月15日)の午後にこの記事を書き始めています。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

前回はGW前までの内容を振り返って書きました。

今回はGWに考えたことなどを振り返りたいと思います。ちなみに、GW実家に帰ってゆっくり生活しておりましたので、これから書くことはいずれも実家でのお話です。

 

 

1.GW中にしたこと

誠に残念なことにGW中は心行くままゆったりとした生活を送っていたために、日記をつけていませんでした。なのでいつものように日割りのカレンダーで書き記すことができません。昨日のような今日があり、明日のような今日がある、といった感じで取り留めのない日々を過ごしておりました。その中でも色々と心に残っていることを時系列的整合性を無視して書き並べたいと思います。

 

実家の部屋掃除

GW中に唯一頑張ったことと言えば、実家の掃除です。先日母方の祖母が亡くなり、いま現在母方の祖父は1人で暮らしています。母としてはその事が気掛かりであり、できることなら一緒に住みたいという風に考えているようです。私もそうした方が良いだろうなぁと思っています。もちろん、父は多少気疲れするかもしれませんが。

ただ実家はマンションであまり広いとは言えない間取りのため、一緒に暮らそうと思ってもなかなか難しい面があります。私が問題なく生活していれば私の部屋を使ってもらって良かったのでしょうが、生憎私はこんな状態ですし、タイミングというのはなかなか難しいものだと思わされますね。

ただ色々と部屋を整理していけば何とか一緒に暮らせるのではないかとも考えています。特に母に至っては祖父と一緒に暮らすことを理由に家を買い換えることまで考えているようだったので、それもまぁ全然良い選択肢ではありますが、金銭面的な課題もありますからね。なので、まずはできることから始めてみよう、ということで実家の掃除を本格的に進めました。

母は既に仕事を辞めているので時間があるように思えますが、それでも1人で本格的な掃除をやるというのは絶対に疲れることですし、必然的に時間が有り余っている私も手伝うことになりました。というか、私の方から何とか母の重い腰を上げさせ、まずは両親の寝室から大掃除を始めました。実際に掃除を始めてみるといらないものが多く、特に「これは誰々からの貰い物で…」と捨てられずにいるものがたくさんありました。譲ってくださった人には申し訳ない思いもありますが、使えるものと使えないもの、使うものと使わないものを決めて一気に捨てたり売ったりしました。新婚旅行のときに使った海外で使えるドライヤーやアイロンなど、約30年前の代物などもあり、母としては少し懐かしさもあったものの捨てることにしました。何でも多少は思い入れがあるものですから捨てるのには心苦しい部分もありました。が、やはりより家を快適にしたいという思いの方が強く、断腸の思いで整理を進めます。

別日には私の部屋の掃除もしました。遊び尽くした家庭用ゲーム機なども全部処分しましたし、習い事の道具、小学校の習字道具なども全て処分しました。夏休みの課題で作り郵便局長賞を貰った貯金箱なども捨てました。もしも私の人生の軌跡を残すのに十分なスペースの飾り棚などがあれば取っておいても良かったのですが、生憎そんなものはありません。なので、もう思い切って全部捨てていきました。思い出として残しておいても嵩張らないもの、本当に大切なもの以外は処分しました。今では小中高と使い続けた勉強机も椅子も棚もありません。そのようにして、大学入学時から徐々に物置小屋と化していった私の部屋も随分とすっきりしました。

 

そんな風に掃除を進める中で頭の片隅にあったのは、「清算」という言葉です。GW前に私はまた自殺未遂をやっており、正直なところいつ死ぬか自分でもわからない状況です。もし私が死んでしまったら、父や母には私の部屋を掃除することなんてできないでしょう。あるいは思いを断ち切るために、一気に全部捨てるということもできたかもしれませんが……いや、きっとできなかっただろうと思います。

せめて私が死ぬときには私の部屋がある程度片付いていた方が良いだろうと思いました。「やれることはやれるうちにやっておこう」という気持ちがありました。

ただそういった投げやりな気持ちだけでなく、「これまでの人生を清算したい」という気持ちもありました。これまで私は「生きること」を恐れて生きてきたように思います。人生というものと真っ直ぐ向き合わずに、人に言われるがまま嫌々生きてきたのです。でも、この適応障害という病気になって、少しずつ「ちゃんと生きよう」と思うようになりました。ちゃんと生きるためには、ちゃんと「生活」と向き合わなくてはなりません。どうやったらより快適に生きることができるだろか。そんなことを考えるように段々となってきたように思います。

そのような「より快適に」という個人活動の一環として、この大掃除というのは非常に大切なもののように思えたのです。そして、この「より快適に」というのは母の当面の目標である祖父と一緒に暮らすということにも繋がると思います。私の部屋が多少なりとも片付けば、私が実家にいない間は祖父に使ってもらうこともできます。これはきっと生活における選択肢の幅を広げることにも繋がるんじゃないでしょうか。

 

山のように出たゴミは車で直接清掃センターに持っていき、一気に捨てました。初めて利用しましたが、捨てる前と捨てる後の車の重量を比較して10kgあたり60円という低価格で即日処分ができるのです。とても便利ですし、粗大ごみで出すよりも安いし楽チンで、何より爽快感がありましたね。結果、GW中に何回か清掃センターに赴き、およそ100kg近くのゴミを処分したんじゃないかと思います。

そんな大掃除が今年のGWの大きなイベントの1つでした。コロナだからこそできたことかもしれません。

 

家の見学

上でも書きましたが、母は家を買い換えることを考えており、不動産屋のキャンペーンに参加して色々な家を見て回っていました。新築物件や売り出し中の物件を見学することでキャンペーンに応募でき、抽選で当たれば、自分が家を買う時にかなりの値引きがあるというものだそうです。不動産屋としては購買意欲を掻き立てることができるので、Win-Winなイベントと言えますね。

私もそのうちの1つの家を母と見学に行きました。お医者様が新築で建てた家を見学しましたが、なかなか凄いこだわりを感じる家でした。広いガレージやテラス、ドデカいアイランドキッチン。太陽光発電システムが搭載されていたりもしましたね。お金があればこんな家にも住むことができるんだーと何だか感慨深さがありました。

ただ不思議と「この家に住みたい」とは思わなかったんですよね。その理由はやっぱり人それぞれ理想とする家があるからなんでしょう。私の場合、6~7畳くらいのスペースがあれば十分かなぁと思っています。基本的に物は少なくて良いという考えですし、狭い部屋の方が落ち着きます。あぁ、でも本棚とCDの棚は欲しいですかね。でも、それ以外は本当に別に贅沢したいとも思いませんし、広いスペースがあっても散らかす場所が増えるだけです。実際、学生時代にはちょっと広めの部屋に1人暮らししていたのですが、ほとんどゴミ屋敷みたいな感じになっていました。スペースがあっても何だか落ち着かなくてゴミで埋めてしまうんでしょうね。

ただ、そんな風に生活していた理由の1つには、「生活に時間をかけたくない」という気持ちがあったからだと思います。別に生きていたくないし、いつ死んでもいい。だから生活に時間や労力を割くくらいなら、1冊でも多く本を読みたいし、1秒でも長く音楽を聴いていたい。そんな考え方をしていました。

適応障害になってから、部屋が綺麗になった気がします。それはもちろん、病気休暇中に暇だったから部屋の掃除をするようになったということもあるのですが、少しずつ「生活」というものに向き合えるようになってきたからだと思います。基本的にそれまでの私は「生活を向上させたい」なんて思いは全く持っていませんでした。「生活を向上させたい」なんてものは愚かな欲でしかないと考え、切り捨てていたのです。「自己実現」なんてものは卑しいエゴでしかないと考えて、軽蔑していたのです。でも、「生きる」ってそういう投げやりなことではダメだったんですよね。生活パターンでも、考え方でも、具体的な身の回りの物でも、「昨日よりもちょっと良く」と考えて実行するからこそ「生活」というものが作り上げられていくのだと思うようになりました。

私にとっては毎日が生きづらく、息苦しく、こんな人生なんて生きるに値しないと思っていました。それは私だけが他人と比較してどうこうということではなく、本気でこの世界のありとあらゆる生活が無意味に思え、誰一人として生きる価値などない。なんでみんな平気な顔して生きているのだろうと不思議で仕方ありませんでした。

でも、簡単な話で「生きづらい」のであれば、「生きやすく」変えていけば良いのです。そして、みんなそうやっているからこそ「生きて」いけるのだと何となくですがわかってきました。ありきたりな言葉ですが「生きるために生きている」という感覚が少しずつわかってきたのです。私にとっては「こんな世界でなんて生きていけないよ」と考える方が、真っ直ぐ人生と向き合うよりも楽だったから、そういう生き方を選んでいたのだと思います。生活のあれやこれやを考えることが面倒だったから、そんなこと考えないで良いように、楽をするために、本や音楽の世界に逃げ込み、生きることから逃げ続けていました。まともに「生きよう」と思っていない人にとっての日々はただただ堕落していく息苦しいものでしかなく、そんなことを続けていたらいずれ死んでしまいます。だから、私は毎日「死」に捉われて生きていました。

家の見学会から話は逸れましたが、掃除の話と合わせて、そんなようなことが肌身を通して実感できたのは、このGWの1つの成果と言える気もします。

 
母方の家系を辿る、母を知る

祖父と母と一緒に母方の実家の方に行ったのも良い思い出です。

祖父の従姉妹にあたる人に初めて会いました。世間話をしたり、物のやり取りをしたり、そんなことをして1時間近くをその人の家で過ごしました。親戚や近所の話がメインで私にはわからないことばかりだったのですが、こんな私にも色々なところに血の繋がりがあり、そのおかげで今の私がこうして存在しているのだと改めて認識させられました。帰り際には庭に生えているタケノコを鍬で掘り返してくれました。タケノコご飯にして美味しく頂きました。

そして、いま私が会社の寮で暮らしている辺りに実は遠縁がおり、母も幼い頃は近くまでたまに遊びに来ていたということもそこで初めて知りました。母の子供の頃の話を聞くことはそんなになかったので、それも何だか新鮮で面白いものでした。

そんな母の実家探訪とは別に、帰省後すぐに母と晩酌を交わしながら色々と深く話し合う時間も設けられました。それまで私はどちらかと言うと自分が考えてきたことなどを両親に対して話すような人間ではありませんでした。それは反抗期と言うほど強く出てはいなかったと思いますが、何と言うか「こういう息子であればそんなに問題ないでしょ」と思われるような言動をしてきたという気がします。いや、そんなに褒められるような息子ではなかったと思いますが、「あまり深いところまで干渉して来ないで」というバリアを張っていた気がしますね。両親だけでなく、ほとんどあらゆる人に対して私は心を閉ざして来た気がします。

最初はただの気恥ずかしさや面倒くささというくらいの理由だったと思いますが、大学に入ってからというもの私の頭上にはずっと希死念慮のようなものがあり、それはほとんど私の人格の全てを覆っているように感じていました。でも、誰かと人間関係を築く上ではその希死念慮を大っぴらにすることはできません。常に私には「隠さなければいけない本当の私」というものがあったように思います。本当はずっと「死にたい」と考えており、私の頭の中は死生観や生きる意味といったことでパンパンだったにもかかわらず、それを誰かに対して話すことはできなかったのです。なぜならそんなことを話せば「重い奴」と思われ、遠ざけられると思っていたからです。

当然ながら両親に対しては希死念慮のことなんてそう易々とは言うことができません。それは両親を最も悲しませることであるでしょうし、打ち明けたところで私の本当のところを理解してもらえるとは思いませんでした。この「どうせ理解してもらえない」というのは両親に限ったことではありませんでした。故に、私は自分でも気づかないうちに人間不信のような状態になっていたのかもしれません。そのような状態でありましたから、私の中でどんどんと孤独感というものは大きくなっていき、私は私個人の裁量によって自らの命を終わらせるのだという考えに捉われるようになってきました。

そんな堕落していく生活の中で、私は適応障害という病気にかかりました。

自殺未遂までやらかしたところで、もはや1人の力ではもう一度社会生活を営むことなどできない状態にまでなりました。そこで「もう潮時だろう」という感じで、少しずつ両親に対して私がこれまでどういう気持ちで生きてきたかということを話すようになっていきました。

今回のGWでは、特に母とたくさん会話を重ねました。子供が親に言ってはいけないであろう、「死にたい」という気持ちについてできるだけ丁寧に説明しました。同時に、これまでの人生の様々なポイントで私が感じていたことを話しました。悲劇のヒロインを気取っているわけではありませんが、私にはそもそもの根本的な欠陥があるのだということを話しました。ずっと深い人間関係を避けてきたこと、心を開くことに臆病になっていること、そんな自分の矮小さを隠すことばかりに躍起になっていたせいで、もう疲れ果ててしまったこと。今はもう一人では立ち上がることが困難で、バックアップをしてもらわないと、まともに社会生活を営む勇気も出ないということなど。

本当に情けない姿を沢山見せたと思います。それでもとりあえずのところ両親は私という言わば「負債」を背負う覚悟をしてくれました。私が仕事を辞めて実家に帰ることも受け入れると言ってくれました。その言葉でどれだけ救われたか。逃げ帰る場所があるということが本当に私にはありがたかったのです。冷たい海から引っ張り上げられて、船室で温かい風呂に入れてもらったような心地でした。

そんな風に色々と私の話をした一方で、母のことも色々と知ることができました。母の結婚する前のこと、母が結婚に至るまでのこと、結婚してからのこと。そんなことを色々と聞かせてもらいました。

そこで私はほとんど母のことを知らなかったのだと気づきました。いや、ただ知らなかったというだけではありません。私がほとんど母を信頼していなかったということにも気づいたのです。もちろん両親にはこれまでとんでもなく甘えてきました。金銭的なこと、生活のこと、色々な場面で両親に甘えてきたと思います。しかし、それは「ただ甘えている」だけで「信頼している」というわけではなかったのです。言わば、ただ餌を与えてくれる都合の良い人たちという風に心の底では思っていたのでしょう。本当にどうしようもない人間です。

しかし、こうして病気になって本当の意味で「頼りたい」と思ったときに、ちゃんと相手の事を知ろうと思いましたし、誰かと初めて腹を割って話すことができたと思います。普通の人たちが普通にやってきたことを私はこんないい歳になって初めてやったのです。「どうせ理解されない」と逃げずに、ちゃんと「理解してもらおう」と初めてちゃんと思い、そしてそれはただ一方的に私の考えを話すのではなく、相手の事をちゃんと理解しようという気持ちにも繋がったのだと思います。初めて「孤独ではない」という気持ちが芽生えたように思います。

 

少し大仰に言葉を連ねた気もしますが、だいたいの意味においてはそんな感じです。私はこのGWで初めて人と腹を割って話しました。そして、私がここに存在している因果の半分について、そのちょっとしたあらましを知ることができました。これからも少しずつ色々と両親のことを知れたらと思います。

そして両親だけでなく、誰かとちゃんとわかり合えるようになりたいと思います。人間関係を恐れず、まっとうに人と関われるようになりたいと思います。

 

2.仕事について

このGW中には、仕事をどうするかということについても沢山考えました。正直、これ以上仕事を続けることは苦しいと思っていたので、どうにかして辞める決心ができないかと考え続けました。

自分で言うのもなんですが、私のいま務めている会社は結構良い会社なんです。色々と時代から取り残されている感のある古い組織ですが、体力はありますし、福利厚生なんかも手厚く、また様々な経験をさせてくれる会社でもあります。良い人にも沢山会ってきました。夜勤や転勤といった問題はこれからも続いていくのでそれらは大きな不安要素ではありますが、上手くやれればとても「おいしい」会社であると私自身思っています。

しかしながら、今の私にはなかなかこの会社を続けていくことが難しい。苦手な上司、苦手な夜勤、苦手な業務とも向き合って何とか復職してから、周りに迷惑をかけながらも2か月近くやってきました。が、結局、GW前にまた自殺企図をしでかしてしまいました。もうそろそろ潮時なのかもしれないと思います。

続けるか、辞めるか。

私が健康であれば続ける方が圧倒的に賢い選択であると思います。健康でない現状であっても、休職とかしながら何とか続けた方が良いのではないかと思ってしまいます。しかし、そんな風に体調が上向かない時間をだらだらと続けることに価値はあるのでしょうか。年齢的にも転職を考えるのであればかなりギリギリのところです。今の年齢であれば、転職も比較的しやすい気がしています。続けられるなら続けた方が良い。ただ、こんな体調で続けていくことが現実的に可能なのか。いっそのこと思い切って転職をしてみた方が良いんじゃないだろうか。でも、転職活動も上手くいっていないし、転職したからと言って病気が確実に治るという訳ではない。結局、どの選択肢を取ってもリスクは伴う。ならば、どれが最もリスクが低く、妥当と思われる選択なのだろう。

そんなことをぐるぐると考え続けていました。

しかしながら、前の章で書いた通り、両親と腹を割って話す中で、父も母も仕事を辞めてニートでも何でも良いから、苦しむくらいなら帰っておいでと言ってくれました。今の仕事を続けられればお金もちゃんと稼げますし、色々なことを諦めなくて済みます。例えば、母の「新しい家を買いたい」という願いを叶えるにあたって、それを後押しすることだってできます。ほかにも所謂「良い暮らし」というものだって継続してやっていけます。幸運なことに私は社会人になってからというもの金銭面で困ったことは一度もありませんでした。何でもやりたいことはやれるし、お金があることで得られる自由というのにもそれなりに味をしめていたわけです。しかし、もし仕事を辞めて実家に帰れば、そういったものを諦めなくてはなりません。

でも、私の今の体調では何より欲しいのは「安息」なのです。「良い暮らし」なんて別段欲しくもありません。もともと物欲は小さく、本や音楽さえあれば、極端な話、散歩さえできれば私は幸福を感じることができます。ですから、もう色々なことを投げうって、実家に帰ろうかと思いました。

 

その考えをさらに後押ししたのが、「自分らしく生きる」ということでした。

ちょっと上に書いた通り、私は何でもかんでも「どれが1番確からしい選択だろうか」ということを考えてしまいがちです。まぁ、誰でもそうだと思いますが、なかなか自分の選択に自信が持てず、何かを選択するにあたって「理由」を強く求める傾向があります。

例えば今の私の現状で言えば、①休職せずに今の職場で頑張る、②休職を挟んで気持ちの整理をつけてから復帰する、③休職してその間に転職活動を頑張る、④会社を辞めて実家に帰る。という感じで、優先順位をつけてしまいます。④の選択肢を取るほど追い詰められてはいないと思う。③の選択肢が妥当かな…いや、でも②ならやれそうな気がする。てか、②と周囲に見せかけておいて③をやってみても良いしな。とは言え、①が絶対に無理かと言えば、もう少し頑張れそうな気もする。そんな風に自分勝手に優先順位をつけて、できるだけそれに準じようとしてしまうのが私という人間なのです。プライドが高く、変化することに対して勇気を持てない。だから、なかなか勢いで行動をすることができない。そして、そもそも多少苦しいのなんて当たり前なんだから、我慢できるのであれば我慢すれば良い、という考えが抜けないのです。

結局、人生というのは我慢の連続だと考えており、私の場合、その我慢を辞めるハードルがやけに高いのかもしれません。そして、そのハードルの高さは、私自身にプレッシャーをかけ、余計な必要以上のストレスを私に与えている気がします。

私の中には私を律しようとする目があり、そのせいで「本当はこうしたいのに」という行動をなかなかとることができず、そのことで余計なストレスを抱え込んでしまうのだと思います。誰でもそういう部分はあると思いますが、今の私はそれが少し強迫観念じみており、ちょっとでも「こうすべきだ」と考えるとそれに対してアレルギー反応を起こして、疲れやすくなったり頭痛が出たりするのではないかと考えています。

そして、そのようなステージから降りるためには、一旦そういうの中の「目」を殺すしかないのかなと思うようになりました。

つまり、自分の中では最も優先順位が低い④の選択肢をあえて取ることで、「優先順位通りに生きなくたって、意外と何とかなるもんさ」と肌で実感したいという風に思うようになったのです。「もう考え無しで会社を辞める」という行動こそが、ある意味「儀式」のようなものとして私には必要なんじゃないだろうか。そう考えてみてようやく私は「会社を辞めてもいいんだ」と思えるようになってきました。

GWの2週間の間、考え続け、そして実家を離れるときに「会社を辞めることになるかも」と両親にも話し、了承を得ました。

会社の寮に戻ってからは、地方時代にとても良くしてもらった先輩にも電話して「会社を辞めることになるかもしれないです」と話しました。すると、先輩も私の考えを認めてくれ、応援してくれました。

 

ここまでが、GW中のお話でした。

 

3.現状

GW中には「会社を辞める」決心をした私ですが、先週1週間会社に行き、そして産業医との面談や、会社の偉い人との面談を通して、少し考えが変わってきました。それについてはまた次回記事でお話ししようと思っています。

ただ、「もう会社を辞めても良いんだ」、「会社を辞めても両親が守ってくれる」という安心感が私の重荷をだいぶ軽くしてくれたように思います。そのおかげもあって、少しだけ会社で感じるストレスは小さくなった気がします。不思議なもので「辞めよう」と思うことで「続けられるかも」となったのです。

とは言え、やはりまだ体調は万全でないので、今回の記事を書き上げるのにもかなりの時間がかかってしまいました。土曜の午後から書き始め、本日日曜はほぼ1日中寝て過ごし、ようやく夕方頃になってからこの記事の執筆を再開した次第です。

まだまだどうなるか私も先が見えない状況ですが、色々な変化がありそうなので、それを不安に思うのでなく、「最悪実家に帰られる」という安心感のもと、少しでも楽しんでいきたいと思います。

 

最後に…

やはり少しずつ文章を書くのが下手になって来ている気がします。頭がうまく回らないと言いますか。早く健康になって、自分の思うような文章が書けるようになりたいです。

それと、少しだけまた新しい創作物を書き始めました。途中でダメにならずに最後まで書き上げられると嬉しいです。

 

次回

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