霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.8

適応障害と診断されて11日目(10月25日)の夜にこの記事を書いています。

昨日から治療の拠点を東京に移すべく、会社の寮に戻ってきました。今の気分は…正直なところかなり落ち込んでいます。夕方早めの夕食を取り、そのまま眠気に耐えられず、眠ってしまった後の寝起きということもあるのでしょうか。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

とても疲れているのですが、今しか書けないこともあると思うので、頑張って書いていきます。

 

 

1.適応障害と診断されて10日目~寮へ、そして同期との飲み会~

治療の拠点を東京に移すべく、きちんと朝7時に起きて、実家を出る準備をします。朝食を食べたり、準備をしている間中、「あぁ、行きたくない」という言葉と溜息が止まりません。母は「行ってしまえば何とかなる」と言ってくれました。まぁ、実際、この感情や反応は実家に帰省した時にはほとんどと言っていいほど起こっていたものです。大学時代もお盆などに帰省すれば、お盆明けに「あぁ、行きたくない」とだらだらと駄々をこねては何とか新幹線に乗っていました。これは社会人になってからも変わらない感覚です。だから、仕方ないものと言えましょう。

ただ、父は「まだこっち(実家)にいた方が良いんじゃない?」と言ってくれました。これまでそんなことは言われたことがなかったですし、まぁ、今回は事情が事情だからそう言ってくれたのだと思います。が、今回ばかりは本当にその言葉に甘えてしまいたくなりました。本当にまだ実家にいたい…でも、適応障害になる前からずっとそうだったし…いつまでも実家でぬくぬくしてもいられないんだぞ。何とか自分を奮い立たせ、新幹線に乗り込みます。

何といっても、この日は昼過ぎから会社の研修同期(のうち3人で)と久しぶりに会って飲む予定があります。15時にとある駅に集合。まだその同期には私が適応障害になったことは言っていなかったので、どう切りだそうかななんて考えているうちにあっという間にその時間になってしまいます。ただずっと実家に帰りたすぎて、気分はかなり落ち込んだままでした。

15時。久しぶりに同期と会うも、なんかいつもの自分より変なんじゃないか、という感じがして、いても経ってもいられず、駅舎から出るときには「ちょっと面白い話がありまして…」という感じで自分の状態を打ち明けていました。打ち明ければもうすっきり。優しい同期は心配しながらも、「話聞かせてよ」と昼過ぎの飲み屋街へと私を誘ってくれました。

とある焼き肉屋に入り、3人で乾杯。モツが美味しい店ということで、お酒が入ってしまえば楽しい時間です。私は自分の治療話(このブログで書き連ねているもの)をかいつまんで話したり、同期の苦労話などを聞きます。みんな大変な中でも頑張ってるんだなぁ、と思い、自分も早く治さなきゃなぁ、とあくまで前向きな気持ちで思ったりします。話しているうちに、同期のグループLINEにも自分が「適応障害」になったことを打ち明けたくなり、打ち明けて見ると「飲みに行こうぜ!」とすぐに別の同期からも優しい声をかけてもらいます。「明日飲もう!」という話になり、なんて素敵な同期だろうと思わされます。

1件目を出ても、まだちょっと明るい。「次、何食べよっか?」となり、「温かいものがいい」、「おでんかな」と話している目の前におでん屋がありました。「いや、別におでん屋が目の前にあったから、おでんと言ったわけじゃないよ」などと笑い合いながら、2件目のおでん屋へ。仕事の話だけでなく、プライベートのことなども話しながら夜は更けていきます。

その飲み屋街の近くには小さな遊園地があり、2件目のおでん屋を出ると、3人でそこへ向かいました。途中綺麗にライトアップされた街並みを眺めながら、カノジョができそうという同期に、ここに来ることを勧めたりしながら歩きます。遊園地ではチープなお化け屋敷とジェットコースターを楽しみ、素敵な思い出。駅の方に歩いていき、私がウイスキー好きということもあって、アイリッシュ・パブに行くことになりました。「実はもうお店の予約は完了です」とデキる同期。

3件目のアイリッシュ・パブでも楽しくお酒を飲みながら、人生の話などをしてその時にはもう私は自分が適応障害ということも忘れていました。もちろん、適応障害になってみて、ちょっとだけ変わった人生観なども話したり、とても楽しい時間でした。

3人別々の電車に乗って、お別れ。別れた後も3人でLINEのやり取りをしながら帰ります。「3人で写真撮るの忘れた~」というメッセージがあり、ちょうど目の前には団子3兄弟的な風貌の交通標識が。その写真を撮って、グループLINEに投げ、お互い思い思いの標識を取り合います。

寮の部屋に戻ると、もうだいぶ酔っ払っており、そのまま就寝。これだけ酔っ払っていたら、薬は飲んじゃダメだな…そんなことを考えながら眠りにつきます。五十肩の湿布も貼り忘れて。

と、そんな感じで、素敵な1日が終わります。

 

2.適応障害と診断されて11日目~新しい心療内科、疲れと恐れ~

朝、アラームがかかる前に外の騒音で目が覚めます。二日酔い。まぁ、それもそうか。しかし、久しぶりの吐き気が胃の辺りを圧迫しています。そして、強い憂鬱感。昨晩薬を飲まなかったから仕方ないか。でも、二日酔いの気分の悪さもあるので、原因についてはまだ明確ではなく、自分の精神状態が上手く掴めません。

とはいうものの、久しぶりにトイレで嘔吐し、多少すっきりしてくると、これが適応障害による憂鬱感だということに気付いてきます。泣きたくなるのを何とか堪え、いざ予約していた病院へ。薬なしで電車に乗ったりすることに多少の不安感がありながらも、気持ちの良い暖かな天気が味方し、比較的まともな気分で病院へと到着します。

割と新しい病院なのか、受付の対応はまだこなれた感じが無く、少し不安な感じもありましたが、先生自体は優しそうな女性の方で細かく話を聞いてくれました。今までで1番お医者様とちゃんとお話できた気がします。ただ先生もまだあまり慣れてないのか、若干マニュアルに沿って私の話を聞いてくれている感がありましたかね(笑)。でも、ちゃんと話を聞いたうえで、私の状態や意図を把握してくれようとしてくれたのが何よりも嬉しかったです。

基本的に診断内容的には適応障害ということで変わりなく、治療法も同じ薬を用いた薬物治療ということになりました。ただ、診察のペースが2週間に1度と伸びたのが若干不安です。まぁ、都会のお医者様ですし、忙しいでしょうから仕方のない部分はありますね。少なくとも今日対応してくれた先生は優しかったので、この病院で良いかな、と思いました。次回の予定を組みましたが、違う先生になってしまうのが残念です。

 

今回の診察。基本的にはこれまでとあまり変わったことはありませんでした。しかし、実家近くで2回通院したお医者様の「基本的には患者の自由意志で復帰をお考え下さい」的な雰囲気ではなく、きちんと復帰のリスクについて説明してくれました。

私の話を聞く限り、今回の適応障害の要因は確実に「環境」ということです。だから、その「環境」が変わらない限りは、再発のリスクは免れられないとのこと。環境が変えられないか(つまり職場を変える等)上司と相談すべき、というアドバイスをくれました。私としても変えたいのは山々なのですが、もちろん会社の事情というものもあります。特に私が勤める会社は古い会社なので、転勤後すぐにまた転勤させることがかなりハードルが高く、休職と同じように今後の人事評にもおそらく残るものとなると考えられます。まぁ、私としては何回も言うように人事評なんてどうでも良いのですが、それでもその手続きをする上司の気苦労や、簡単には私の人生の幅を狭めたくないという想いも当然ながらあります。今後、職場で腫物のように扱われることは承知していますが、上からの圧力でそうなるのと、あくまで周囲の人々の自由意志でそうなるのとでは、私が立たされる状況も変わって来るでしょう。

いったい私はどうしたらいいのか…まぁ、やることは決まってます。とりあえず職場に復帰できたら、次の転勤まで耐える。それだけです。

 

病院での診療が終わった後、昨日連絡を取った同期から「何時から飲む?」と連絡がきたものの、私はそれを断らせてもらいました。二日酔いもありますし、薬を飲んでいないこともありますし、何よりも眠りが浅かったのかとても眠かったのです。再度日程調整する方向でお願いをしたところ、同期は快諾してくれました。

もうお昼です。電車に乗れば、大学時代に行きつけだったラーメン屋まですぐだったので、そこに向かうことに。久々に食べる味に「やっぱりこのラーメンが世界一だな」と思いながらも、そこまで感動できていない自分がいることを再確認します。感性が死んでるな…店を出て、久しぶりに学生生活を過ごした街を歩き回ります。もう4年も前ですが、一度歩き出せば、何度も散歩した道ですからどんな複雑な道を通っても、体が覚えています。そう言えば、大学時代も随分と思い悩んでいたなぁ、と何だか懐かしくなります。大学にもいかず、ずっと音楽や本や映画を楽しんでは、あれやこれやとこの世界や自分のことを考えて、ひたすら歩き回っていました。留年してしまったことは本当に両親には申し訳ないと思っていますが、かけがえのない時間でした。あの頃は世界について考えることは自分について考えることであり、自分について考えることは世界について考えることでした。どんなスタンスで、どんな手順を踏んで会社に復帰するかなんてことで頭を悩ませる日が来るなんて。ハヌマーンの「トラベルプランナー」の歌詞を思い出します。

 

あの日僕が侮蔑の目を向けた大人と同じ顔をして 

 

文脈は全く異なりますが、そんなことをふと思い、悲しくなります。

散歩に疲れて寮に戻ると、心配してくれた今日飲むはずだった同期から電話がかかってきます。30分くらい自分の事情を説明したり、相手の仕事の苦労話を聞きます。私が「それはお前も適応障害だよ」と言うと、「病院行けば診断書もらえるよな」と言って笑っていました。同期は心から私の事を心配してくれて、ウチに泊まりに来るか?と誘ってくれたりもしました。「こういうときって1人でいると色々と考えてしまうもんな」。そして、「たまたま折れてないだけで、いつどんなタイミングで心が折れるかなんてわからないもんさ」ということを話してくれました。研修のときから色々と会社や人生について話した同期です。本当に優しい人が私の周りにはたくさんいるんです。

私は何とか自分が回復に向かいつつあることを伝え、二日酔いと薬を飲んでいないせいで、ひどく疲れているということから、飲み会を延期させてもらったことを謝りました。電話が終わると酷く寂しくなり、早めの夕食を食べ、薬を飲み、クラシコ(サッカーのバルセロナVSレアル・マドリードの試合)を観賞。途中で、眠気に耐えられなくなり、ベッドへ。

そして、外の騒音で目が覚め、いまこの文章を書いています。

 

薬を飲んだはずなのに、気持ちが落ち着かない。明日は会社まで行ってみるつもり。明後日か明々後日にはとりあえず職場に顔を出して、簡単な書類作成だけでもやってみるつもり。でも、本当にできるのかな。こんなにいま不安で仕方ないのに。

今日、病院で聞いた言葉が思い出されます。

 

環境を変えない限り、再発のリスクは高いです。

 

考えてどうにかなる問題ではないです。 それに考えることも疲れました。今日は久しぶりに大学時代に吸っていた空気を吸うことができました。素敵な夢が見られればいいのだけれど。

 

※この記事を書いた夜に私が見た夢を書いておきます。

 

私が苦手な上司に「鳥みその絞り煮」を作れと言われる。私は作り方がわからないけど、とりあえず「はい。承知しました」と答える。さて、作り方がわからないぞ。先輩に聞きたいけど、みんなあちこちウロウロしていてなかなか聞きにいけない。上司は別グループの仲の良い人が作った「蟹みその絞り煮」にご満悦。私に「まだ鳥はできないのか?」と聞いて来る。私は「あ、すみません。作り方がわからないので調べてます」と答える。「あっそ」と素っ気なく私から視線を逸らして、また「蟹みその絞り煮」を囲んで談笑を始める。「鳥みその絞り煮」の作り方を聞きたいのに、先輩もその談笑の輪に入ってしまっている。私は仕方ないので、色々な書類を引っ張り出して、作り方を調べてみる。でも、調べ始めてすぐに、材料も調理場もないことに気付く。「あの、材料は…キッチンとかってどこに…」私の声はかき消されて上司に届かない。私があたふたしていると、再度上司から「まだか?」と言われる。「あの、作り方とか材料とかって…」、「お前、まだそんなこと言ってんのか?」。私は途方に暮れ、逃げたいと思う。

 

嫌な夢でした。外の騒音で目が覚め、死にたくなりました。

でも、まだ生きている。今日は初めてのハロショにも行けました(詳しくは以下の次回記事をお読みください)。

 

次回

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