霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.58

適応障害と診断されて157日目(3月20日)の朝にこの記事を書き始めています。今週の月曜日に祖母が亡くなり、コロナ等の影響で少し遅れていた告別式に参加するために帰省し、今もなお実家でゆるりと過ごしております。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

前回は復職2週間目として、なかなかキツい1週間を過ごしたという内容を書きました。心が揺さぶられる場面もありましたが、それ以上に頭痛などの自律神経失調症に見られるような症状に苦しめられた次第です。

 

 

ざっくりまとめると、週末にやや回復できたおかげで月曜日・火曜日は比較的調子良く過ごすことができました。が、火曜日にちょっと頑張り過ぎたこともあってか、水曜日はかなり体調を崩してしまいました。そして、木曜、金曜は実家に戻って来たので実質的に仕事に行ったのは今週は3日だけになります。

が、土曜日現在。まだ頭痛が引いておりません。

 

1.カレンダー

適応障害と診断されて…/復職して…

 

150日目/休み

土曜日。昨晩の夜更かしが響いて、朝はゆっくり目。体も重い。でも、休日というだけでかなり気持ちは晴れやか。朝からブログを書いて投稿。平日はなかなか暇がなくて触れなかった分、ギターを触って時間を過ごす。昼前に寮を出て、いつもの愛するラーメン屋へ。相変わらず感動する味。帰りに漫画を色々と買う。夕飯の弁当も仕入れるも、スーパーを出たらとんでもない嵐でびしょびしょに。午後は漫画を読んだり、昼寝したりして過ごす。夜、風呂上がりに地方勤務時代の先輩から電話があり30分くらい話す。先輩もこっちに転勤してくるかもという話や、近しい職場の人が自殺をしたことなどを聞く。色々ある。自分も色々あったと思い返す。

 

151日目/休み

日曜日。いつも通りの時間に起床するも、二度寝で1時間ほど余計に眠る。朝は少し創作物を書き進める。その後、2時間ほど散歩に出かける。帰宅後昼食を食べ、軽く昼寝。午後に両親と1時間ほど電話をする。電話は久しぶりで復職後初めてだったので、色々と話を聞いてもらう。やはり事態は自分の体調vs会社の要求というところか。あとはゲームをしたり、動画を観たりしてダラダラと過ごす。夕食後にまた創作物を書き進めるもあまり捗らない。

 

152日目/11日目

月曜日。頭痛はかなり微弱で、かわりに若干のそわそわ感、動悸を感じる。おそらく休み明けの出勤ということで、神経が昂ってしまったのだろう。午前中はそのそわそわ感を携えつつ、休憩多めで何とか乗り切る。昼休みにだいぶどっぷりと手指のマッサージと昼寝に見せかけた瞑想。午後からは若干持ち直し、会議では初めて出るものだったので最初はちんぷんかんぷんだったけれど、自分の提案も1つ出来て、今後の検討候補になったので嬉しかった。日曜に「無理せず」と割り切れていたため、残業もほぼ無しで帰宅。なかなか落ち着いて過ごせた1日だったと思う。あとは帰宅後にもう少し創作物が捗れば…。夜中、祖母が亡くなる。

 

153日目/12日目

火曜日。朝からやはりそわそわ感があったが、いつもより30分遅く会社に行くと決めていたので、マインドフルネス瞑想をしてまずは気持ちを落ち着ける。出社後午前中は何だか集中できずにふわふわと過してしまうが、昼前にお使いを頼まれる。初めて行くところへのお使いだったのでちょっと緊張したが、無事完遂。会社に戻って来てから、ちょっとてんやわんやな状況で仕事を進めることに。2時間程度残業して帰宅。帰宅時にやけに早歩きになっていることに気がつき、交感神経が昂っていると自覚。リラックス多めで過ごそうと決意するも、SNSに時間を取られてしまった。ちょっと反省。

 

154日目/13日目

水曜日。朝から、というか昨日の夜から腰が痛い。原因は不明。お使いで電車に乗っている間、変な姿勢だったか…? 出勤後、1時間程度で久しぶりに頭痛が出てきた。午前中には休職中にお世話になっていた上司との久しぶりの面談もして体調を報告。「前の職場の方が良かった?」とやんわりと配置転換っぽい話も振られたが、今はその時期でもないし、配置転換してもらったからと言って体調が良くなるわけではないので、「今のところでもう少しやってみたい」と答える。が、昨日の残業で疲れが残っていたせいか、午後から頭痛が酷くなり始め、「あぁ、しんどい」と思い出してからはもう吐気や眩暈まで出てしまった。頭もほぼ回らなくなり、何とか上司に早めに上がらせてもらうことを伝え、フレックスのコアタイム終了と同時に帰宅。帰路もずっとフラフラして、何度も嘔吐しそうになる。日の出ているうちに夕食、お風呂を済ませ、夜8時には就寝。自己否定をしたいわけではないが、満足に働けないことがやはり悔しい。

 

155日目/休み

木曜日。コロナの関係で遅れていた祖母の告別式に参加すべく、朝出社してからすぐに退社させてもらう。が、緊急事態宣言のこともあり、田舎特有の何とも言い難いしがらみのせいで結局参加はできず。最後まで付き添っていた両親から色々な話を聞き、とりあえずそれで納得をする。良く褒めてくれる祖母で、とても可愛がってもらっいた記憶がある。大学入学からずっと地元を離れていたこともあり、なかなか会うことはできなかったけれど、色々と負荷やストレスのかかる生活を経て、私の実家の近くに引っ越して来てからは帰省するたびに会いに行くこともできていた。最後は認知症のせいで食べたり飲んだり、点滴も受け付けなくなり、衰弱して穏やかに逝けたとのこと。冥福を祈る。

 

156日目/休み

金曜日。朝から祖母の故郷を訪れ、仏壇に手を合わせる。久しぶりに会う叔父夫婦や従姉妹とも少しだけ話した。従姉妹には子供も生まれていて、恥ずかしがっていたのが可愛い。仏壇参りまで終わると、もはやすることもなくなり、できていなかった役所手続きをして午前中を過ごす。午後はライブ動画を観た後で、1時間ほど散歩に出かける。いつも精神をすり減らすようにして歩いていた道も、少し違った気持ちで歩くことができた。そして、これからどう生きていくべきか。帰宅後、映画「ゆれる」を観賞。学生時代に1度観て以来だったけれど、やはり面白い。オダギリジョー好きだなぁ。

 

2.カレンダーまとめ

まず土曜日からですが、隔週くらいのペースでやっぱりあの大好きなラーメンを食べたくなりますね。散歩のついでにもなるので、雨予報の中、傘を持って家を出ました。そして、いつもの通りその味に感動させられます。神の食いもんだな、これは。

と、帰りの電車の中でどうも雲行きが怪しくなり、そこから酷い嵐に。駅の書店で贔屓にしている漫画の最新刊をいくつか買い、そしてついに「チェンソーマン」も買ってみることにしました。もう12巻まで出ている漫画を1巻から買っていくのは少し気が引けましたが、「おませちゃんブラザーズ」、「サンドリ(有吉のラジオ)」、「松永里愛ちゃん(Juice=Juiceのメンバー)」という3枚のカードが揃ったので購入に踏み切りました。あ、私は基本的に買い物でも奥手なので、気になっていても3つの偶然が重なるまではなかなか手を出すことがありません。なので、「チェンソーマン」はもともとちょっと気になってはいたのですが、ついに3つの全く異なるところからのオススメがあったので買ってみた次第です。

と、カレンダーのまとめからはちょっとずれましたが、そんな風にして嵐も含め、土曜日はそれなりに刺激的な休日でした。そして、夜には地方配属時代の先輩から電話があったのですが、それについては気が向いたら後で話そうと思います。

日曜日は散歩したり、両親と電話したりして、比較的に穏やかな1日を過ごしました。その甲斐も合ってか、平日に抱えていた頭痛はかなり軽減されたように思います。

月、火と出社しながらも比較的調子良く過ごすことができたのですが、火曜にはちょっとやりたいことがあって残業をしてしまい、その結果水曜日は大きく体調を崩してしまいました。やっぱり無理は良くないということですね。

そして、木、金は会社を休み、祖母の告別式などに参列するために帰省をしました。これを書いている土曜日の今も実家におります。

なので、今週は実質3日しか働いていないのですが、水曜日に出た頭痛が未だ若干残っており、そして実家にいるのに軽いそわそわ感や動悸もあります。いくら実家と言えども、環境の変化がそうさせるのでしょうか。ほんの少しだけ落ち着かない感じがあります。復職してまだ間もないのに、会社を休んでしまっているという罪悪感も原因の1つにはあるのでしょうか。なんだか堂々と休んでいられないんですよね。先週はちゃんと平日5日間働いたという実績があったので、土日はゆっくりと過ごすことができたんですが…

 

それにしても、土曜の先輩との電話、日曜の両親との電話、祖母の死、Twitterでの色々な人との関わりなどを通して、何だか色々と考えてしまう1週間だったように思います。今のところそれぞれの出来事に対しての感想を細かく書いていく予定はありませんが、次の章ではいま考えていることなどをまただらだら書いていこうと思います。

 

3.生きていくの?

適応障害って何だろう、ということについて色々と考えを巡らせていました。何となく病名だけ聞くと、「うまく環境に適応できなかった」という印象が強いのですが、よくよく考えて見ると「適応」という言葉自体、人によって考え方が異なるなぁと思います。

むしろ私が抱く「適応」のイメージから言うのであれば、「うまく環境に適応しようとし過ぎた」というのが「適応障害」であるように思います。同じように「適応障害」になった人はおそらく賛同してくださる方が多いのではないでしょうか。そして、それに賛同してくださる方の一部分には「生きるのってなんでこんなに大変なんだ?」と思っている方もいるんじゃないでしょうか。私なんかは皆が比較的平気そうな顔をして、時には希望を感じながら生きていることが、まったく理解できませんでした。いやいやいや、もうどうしたって生きることなんてハードなだけで、絶対に早く死んだ方が得でしょう。死にたくても生きているせいで、恐怖なんてものを感じてしまい、死ねないだけ。そもそも生まれて来なきゃこんな袋小路に追い込まれることなんてなかったのに、とずっと考え続けていましたね。

なんでこんな風に思ってしまうのかというと、その理由の一つが私の場合「適応障害」でした。これは明確な病名がつく以前からの「適応障害」です。

つまりですね、私の中では「適応」という言葉のイメージは、インフルエンザウイルスみたいなものだったのです。インフルエンザというよりは、もっとSF的な感じで「史上最悪の変異型ウイルス兵器」、あるいはドラゴンボールのセルみたいなイメージとでも言えばわかりやすいかもしれません。環境に合わせて自らの遺伝子配列をどんどん書き換えていき、あっという間に環境に適応した機能を手に入れてしまう。これが私の「適応」に対するイメージでした。

社会というのは刻々と変化していきますし、転勤などを期に身の回りの環境はがらっと変わります。新しい環境に放り込まれ、「ここでは左腕はいらないから、右手の指を10本にしておけ」と言われた場合、私なんかは「イエッサー!」と躊躇なく左腕を切り落としてしまうような人間です。明確にそう言われなくても、「ここの環境に適応するためにはどんな自分であるべきか?」ということを考え、できるだけそれを達成しようとしてしまいます。たとえ、それが自分を殺し、全く新しい人間になることを求められていようとも、可能な限りそうできるように自らを強制してしまいます。

別段、新しい環境に放り込まれなくたってそうです。もちろん環境に慣れてくれば、ある程度そうやって自分を大きく殺す機会は少なくなるでしょうが、それでも日々「今の自分はこの環境において適切か?」ということを考えてしまい、その度に自分を殺してしまいがちです。自分はそういうことが器用にできるという過信もありますし、また同時に本当の自分というのは醜い存在だから、それを取り繕わなくてはならないという自己否定の想いもあります。だからこそ、私は過剰に環境に「適応しよう」としてしまうのかもしれません。

でも、そのようにして生きることはとても苦しいことです。

絶えず自分を環境から求められる姿に変化させようとすることは、絶えず今の自分を蔑ろにし、あるいは否定し、自らを矯正し続けることにほかなりません。私がどれくらい徹底的にそれを行えてたのかはわかりませんが、少なくとも私に何かを「期待」し、あるいは「要求」してくる社会というもの全般を憎むくらいには、そういったことに取りつかれていました。求められればそれに応えようではないか。そして、一時の虚栄心を享受する。でも、そんな虚栄心には際限がないし、より自分を追い詰めるだけだとわかっている。ただその場を上手くやり過ごすことができればそれで良いのに、それでも何故かうまくやろうとしてしまう。本当はただ1人きりにして欲しいだけなのに。

私は学生時代に「もう他人や社会には何も期待するまい。1人きりでも、音楽と文字と季節さえあればそれで充分幸福に生きていける。だから、頼むから放っておいてくれ」と何度も願ったものです。

それくらいには私は「適応する」という行為を永遠に続く地獄のように感じて生きてきたように思います。

 

でも、そもそも私は「適応」という言葉の意味をはき違えていたのかな、と最近思うようになりました。「与えられた場所で咲きなさい」とか「自分の個性を活かしなさい」とか「自分らしくやっていけばいいよ」というような言葉の本当の意味を私は理解できていませんでした。何故ならば私がやるべきことは、求められたように左腕を切り落とし、右手の指を10本に生やすことだったからです。でも、意外と多くの人はそういうことをやっていたわけではなかったようです。もう少し現実的に、左腕が邪魔なのであれば、ちょっと半身の体勢になってみるとか、指を10本に増やすことは無理とさっさと諦めているようでした。その代わりに自分のできることを自分なりの方法で提供する。そんな感じでやっているんでしょう、きっと。

テトリスで言えば、私以外の要因によってもうだいたいの形が出来上がっている。故に、何となく求められる形というのがわかってくる。だからそれに合わせて、私はこう…何とかして無理やり自分というブロックの形を変えようと試みるわけです。でも、そんなことはほとんどできるはずもなく、ただただ自分を痛めつけるだけです。私たちにできることは、L・Rボタンで自らのブロックを回転させ、現状の最適解となるように自らの収まる向きを調整するくらいのものです。

そのような無理な自己変容を伴わない周囲との関係性の構築こそが、すなわち「適応」という言葉の本当に意味するところなのでしょう。

 

だから、私はそもそもの病名がつく前から、「適応」という行為において「障害」を抱えていたということになります。何もそんな風に自分を無理やり小さい箱に押し込めるみたいなことに躍起にならず、ただただ自分という存在を受容し、理解し、現在の環境との間で妥協案を模索することだけをやればよかったのです。そもそも体だって硬い方ですからね。関節を外して、スポーツバッグに収まるなんて芸当は私にはできません。

今回、ちゃんと病名がついてみて、ようやくそんなことがわかるようになってきました。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶと言いますが、私は本当に愚かな人間だと思わされます。でも、そんな愚かな私でも、実際に自分が経験してみることで、今までの苦しみばかりの生き方はやめても良いんだと思えるようになってきました。

 

今までは本当に生きていくことが辛く、早く死の瞬間が訪れることを心待ちにしていました。こんなに苦しみに満ちた人生であれば、いずれ自死を選ぶであろうということが常に念頭にありました。それ故に自暴自棄な生き方をしてきたようにも思います。

でも、そんな苦しみに満ちた人生を選ぶ必要はなかったのかもしれません。環境に合わせて自分を変えるというのは大切なことではあるのでしょうが、しかし、そこには交渉の余地があるということを忘れてはいけません。そして、交渉して上手くいかなければ、新しい場所を探すだけです。私たちにはそれぞれに自分の形というものがあって、それをできるだけストレスなく収められる場所を探す、あるいは作っていく。そういう作業がすなわち「生きていく」ということなのだと思うようになりました。

「何のために生きていくの?」、「こんな苦しいのに何で生きていくの?」という自問をこれまでずうっと繰り返して来て、「生きるというのは虚無で苦しいもの」という答に今まで縋りついてきました。なぜなら「死は虚無であり、生きることの行く末はその死という虚無である」からです。そう思えばこそ、私は「虚無に苦しく生きていこう」と思っていたわけですね。

でも、それ以外の解もある。

今は「少しずつ自分という形にあった生き方を作っていくこと」が生きていくことなんだと思っています。今までは自分を変えることばかり考えていたから辛かったのです。これからは世界との関わり合いの中で、より自分に合った生き方を作り上げていき、より生きやすい環境を作って行きたいと思っています。それがすなわち環境に適応するということなのでしょう。

 

最後に…

祖母の死。そして、地方勤務時代の先輩の近しいところであった自死。私自身の自殺未遂や希死願望。相も変わらず「死」に対して色々と考えることはたくさんあります。

ほんの数か月前なら、私なりの考えに則って、それらを受け止め、言葉にすることもできたとは思いますが、今の私はまだ移行期間。今の私には何かを言うことはとても難しいです。頭痛と眠気に襲われている今は特に。

そんなわけで今回の記事はこれにて終了です。

来週は夜勤もやってみることになりました。いったい、これから私はどのような人生を選んでいくことになるのでしょう。悩みや逡巡、戸惑いは尽きないですが、とにかく今の自分を受容し、その上でどんな局面においてもただ自分が進みたい方向へ進んでいければ良いと思います。人生を連続したものと考えると辛いことも多いですが、ただの点の連続と考えれば、向かうべき方向は自ずと見えてくるはずです。

 

次回

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