霏々

音楽や小説など

神﨑風花presents「学生最後の春休みvol.2-神﨑風花とサカナとアコースティック-」@LOFT9 Shibuya

会場を出ると、薄汚れた渋谷の路地は俄雨に洗われた後だった。空気も幾分か冷ややかになっていて、ライブ会場に併設された小さなカフェテラスにはほんの2人ほどがばらばらに座っているばかり。

薄着で来てしまったことを後悔しながらも、あっという間に雑踏に紛れ込んでしまうと、さっきまでの暖かな切なさはぐっとボリュームを下げられ、その分だけ空いたスペースをノイズが満たしていく。あの小さな会場でちらちらと瞬いていた同志の涙を反芻しながら、ひとつの物語が終わった後の空気を吸い込んだ。

 

…的な時節の挨拶を挿し込んだところで、ライブの感想を…というよりは、なんて言うか「ジャーナリング」的な心持ちでだらだらと今の心境について書いておきたいなと思いますね。

 

2024年3月20日(水・祝)、えっと今日はなんの祝日でしたっけ(2月のままになっているカレンダーを捲り、確認)。そうか「春分の日」か。春というにはまだ少し寒いかな、って感じの天候でしたね。冒頭に書いた雨の雰囲気はもうすっかりと消え去り、今は暖かい自室の中でコーヒーを飲みながら、こうしてぱたぱたとキーボードを叩いております。

 

2020年9月6日にsora tob sakanaが解散して、3年半が経ったんですね。ふぅちゃんにとっては、普通の大学生として過ごした約4年間。その最後の春休みにまたステージの上に戻って来てくれたわけです。 

ところで、過去にもsora tob sakana関連の記事は、楽曲レビューや解散のタイミングで書いています。

 

eishiminato.hatenablog.com

 

私とオサカナの馴れ初めは、上記の記事に書いた通り、2016年の1つのネット記事でした。好きなバンドのドラムがアイドル界隈に明るく、記事内で彼女たちが紹介されていました。が、その時点ではあまりピンと来ておらず、あまり漁らないままに時が流れまして、再度オサカナに注目したのは「Lightpool」のMVが公開された2018年の5月でした。当時私は就職したてで、実習という名目で北関東の地方都市に飛ばされていましたね。

新しい環境、新しい人間関係、新しいライフスタイルで結構ストレスが溜まっていて、会社に行くまでの道のりによくオサカナを聴いて癒されていました。未だに「鋭角な日常」を聴くと、あの季節の割にはやけに暑くて、胸の内には苛立ちを抱えていたあの頃を思い出します。

それから少しずつオサカナにハマっていくのですが、北関東での3ヶ月くらいの実習を終えた後は、今度は甲信越方面の地方都市に本配属が決まり、東京のライブシーンからは少し離れることになりました。いつかライブに行きたいなぁと思いながらも、なかなか東京に足を運ぶのも大変で、「2年くらいすれば東京配属になるだろう」と高を括り、オサカナのライブのために予定を調整したりなんてことはせずに退屈な日々を送っておりました。

が、そのうちにコロナウイルスの恐怖が世界を支配し、オサカナが解散を発表し、最後に解散ライブに行かなきゃ…!とチケットを申し込むも外れ、ネット配信で彼女たちの有終の美を見つめていました。そして、その頃、奇しくも私の東京への異動の内示が出て、何とも言えない「すれ違い」が私とオサカナの間ではありました。結局、私は一度も彼女たちのライブに行くことができないまま、彼女たちがいない東京の街に戻ってきたわけです。

 

いくらか私の個人的な話になりますが、オサカナが解散した1か月後の10月に私は東京配属となったのですが、その新しい環境と私の中の何かがあまりにも合わず、「適応障害」を発症して、会社に行けなくなりました。もともと強い虚脱感や希死念慮を感じることが頻繁にあったので、単純に環境変化に適応できなかったというのでもなく、むしろ私が潜在的に抱えていたいくつかの問題がそのときに「適応障害」という形で噴出しただけだと今では思っているのですが、そこから中々に大変な日々が続きました。

今でもまだ立ち直れたとは言えないですが、何とか復職はできましたし、何とか破綻しないように気をつけながら生活を営めています。ここまでやって来るまで、いくつもの不安定な日々がありましたが、調子の良い日も悪い日も色々なものが私の支えになってくれました。その中でも、何か純真で美しい力みたいなものが欲しいときは、よくオサカナの曲を聴いていました。「えふ」というアカウント名で生存確認ができる神﨑風花ちゃんの存在も、私にとっては非常に支えになっていました。

 

今日までの日々を語るに足るオサカナ関係の特筆すべき思い出というのはありません。ただ彼女たちの歌声と、照井さんの音楽を聴くのは、私の生活における重要なルーティーンであり続けました。いつでも瑞々しい何かを頂いていたように思います。

あ、そう言えば、オサカナのライブには結局行けずじまいでしたが、siraphのライブには行けましたね。照井さんの音楽はハイスイノナサの頃から好きでしたし、もちろんsiraph自体もよく聴いているので、ライブに行けたのは喜ばしい出来事でした。とは言え、心の中ではどこか「あの頃コネクトできなかったオサカナと間接的に繋がっている」という感覚に酔い痴れたりしていましたね。それくらいオサカナへの気持ちは消えない炎として私の中で燃え続けていました。

 

そんなこんなで、ふぅちゃんが大学卒業前にイベントをやるという情報がX上で流れてきました。「今度こそ、ふぅちゃんに会いたい!」という思いから、チケットを申し込もうとしたのですが、即完ということで…イベントで話していましたが、もう30秒くらいで売り切れてしまったそうですね。結局、オサカナちゃんたちには誰にも会えないまま、自分の人生も流れていくんだろうと打ちひしがれていたところ、3/20昼公演(vol.2)だけ追加販売されると、天から蜘蛛の糸が垂れてきました。今回は抽選。運にはあまり自信がないのですが、駄目元で申し込んでみたところなんと当選!オサカナが活動していたときに全く現場に行けていなかった私なんかが当選してしまって良かったのだろうかと思わないでもなかったですが、せっかく神様がくれた機会だったので、今日という日を素直に楽しみにしながら2週間を過ごしていました。

 

そして、ようやく今日という日がやってきました。

昨日、会社で飲み会があって、それが割とストレスフルな飲み会だったので、家に帰って来たからも追い酒をして意識を吹き飛ばしたまま眠りについたせいで、若干の二日酔い。それでも熱いシャワーを浴びて、何とか意識を目覚めさせ、電車に揺られ、渋谷まで。LOFT9は初めての会場だったので、少し緊張しました。が、ちらほらと聞こえてくる会話の中で使われるお馴染みの単語たち、うっすらと会場に流れているオサカナ楽曲、お洒落な内装の中で時間を潰しているうちに少しずつリラックスしてきました。

そして、会場が少し暗くなり、そこから1~2分待っていると、音楽が大きくなって、拍手とともに照井さん、森谷さん、それから神﨑風花ちゃん。茶髪で、現役時代よりも髪を伸ばして、大人な印象。私の席がド・センターライン上でしたので、前席の人の後頭部が丸被りして、なかなかふぅちゃんのお姿は見づらかったのですが、それでも何とかちら、ちらっと覗き見たふぅちゃんはとても可愛くて、愛おしかったです。白いシャツに水色のゆったりとしたカーディガン姿が、素晴らしく美しかったです。sora tob sakanaとして活動していた頃からは確実に大人になっているのですが、あの印象的な少女が成長したら…というあの頃の同一直線状にいる変わらない彼女の姿に涙腺が緩みました。

歌声は、最初の方は少し発声しづらそうでしたが、楽曲が進むにつれて声に潤いが戻り始めました。やはりふぅちゃんらしい真っ直ぐで、丸みはあるけれどどこか少年っぽさも感じる硬質な歌声が私は大好きです。桜の和菓子みたいな、上品で控え目な甘さ、それから何と言っても香り高い。歌声だけでなく、喋っている声もとても可愛くて、やっぱり好きになってしまいます。

 

ここでセトリをば。

 

1.夜空を全部

2.広告の街

3.魔法の言葉

4.flash

5.tokyo sinewave

6.Lighthouse

 

MC多めで、楽曲数はそこまでって感じでした。が、どれも素晴らしい演奏。「広告の街」は、3人とも「めっちゃ不安」みたいな感じでやっていましたが、ほぼオリジナル通りのアレンジで演奏されていましたね。ふぅちゃんも全くリズムがブレずに完璧に歌い上げていました。相変わらず照井さんのギターはめちゃくちゃムズそうでしたね。

ふぅちゃんの実感として「『広告の街』がきっかけで好きになったってよく聞く」というのがあるらしく、「だから、セトリには入れようと思った。アコースティックでやったこともなかったし」と言っていましたね。

魔法の言葉では、お客さんがクラップを入れていて、初めてのオサカナのライブだったので「みんなすげー!」となりました。ふぅちゃんのダンスも、小さくでしたが可愛らしくて素敵でした。

全体的にふぅちゃんは、歌声もダンスもとても大人っぽくなっていた印象です。音源やバンドではなく、アコースティックだからこそのなのかもしれませんが、昔はもっとがむしゃらに歌って踊っていた印象がありました。が、どこか余裕というか柔らかさを感じるパフォーマンスで、ダンスは本当にリズムを取ったり軽く手ぶりを入れる程度だったのですが、リズムの取り方がかなりアーティスト然としていて、音感の良さというかグルーヴ感のようなものを感じました。

アレンジ的には「tokyo sinewave」が何だかとても艶やかな感じで、完成度が高かったように思います。照井さんのギターもエグかったですし(演奏前に「不安だ…」と漏らす照井さんに、「裏でできてたし大丈夫だよ。ここは楽屋」と明るく励ますふぅちゃん。それにさらに「他人事だと思って…!」と嘆く照井さん、というやり取りがとても微笑ましかったです)。「flash」は歌い終わった後、本人が言っていた通り、めちゃくちゃ歌うのが難しい楽曲なんだなと再認識。

楽曲のイントロがかかる度に、「おぉ!」とか「きたー!」という歓声が上がっていて、私も一緒にテンションが上がっておりました。それと、楽曲が終わった後の拍手が、何と言うか誰も言葉にはしなかったのですが、「これが最後だろうから」と本当にみんなが全力で手を叩いていて胸が熱くなりました。特に「広告の街」の演奏後の拍手は、あまりの素晴らしさになかなか鳴り止まなかった印象です。

 

MCではオサカナ時代の話がほとんどで、解散後のふぅちゃんの生活に関することはほぼなかったと思います。私は作品ベースでしか追って来られなかったので、天体の音楽会の話なんかは初めて聴くことばかりでとても面白かったです。King Gnu新しい学校のリーダーズ、崎山蒼志とも共演経験があるというのは初耳でしたし、当時ライブに行ける環境であれば、ぜひとも参加したかったイベントでしたね。「こんなに売れるんだったら…」みたいな文脈で、「King Gnuのステージ、当日観られなかったのが残念」と言うふぅちゃんの悔しそうな顔がとても可愛かったです。

好きな楽曲やパートに関する話もあり、ふぅちゃんは相変わらず「flash」や「まぶしい」という疾走感のある楽曲が好きということでした。好きなパートでは、「まぶしい」の「まぶしい♪」や「Lighthouse」の「おいでよ♪」を上げていて、照井さんに「感想に雪崩れ込むところが好きなのね」と分析されていました。オサカナの楽曲制作における歌割は、照井さんが楽曲作成時に決めているそうで、「勝ち取った、ってわけじゃないけど『まぶしい♪』のパートを貰えたのが嬉しかった」とふぅちゃんは懐かしそうに語っていました。照井さんは好きな楽曲に「夜間飛行」を上げ、「一時期擦り続けていた」と自虐っぽく言っていましたが、ふぅちゃんはそれに被せるように「照井さんはわかりやすい」と軽くイジっていました。「大き目のライブでは『ribbon』を1曲目に持ってきがち」とか、「『Summer Plan』は2曲目が多い」とか。照井さんは反論するように「『ribbon』は中盤に持って来る楽曲じゃないし、そうなると必然的に最初か後ろの方になる。『Summer Plan』は2番バッターっぽいよいね」と返し、何となく2人を納得させていました。

森谷さんは一番のオサカナのヲタクみたいで、「帰り道で『World Fragment』聴いてると泣きそうになる」とか「曇りの日に、部屋から外を眺めてるときは『信号』聴きたくなる」とか、それだけではなく「音源データを貰ってるから、勝手にボーカルとコーラスだけのトラックを作って聴いてる」とかまで言っていましたね。いやー、実に羨ましい。

 

ほかにも色んな話を聞けましたが、一旦レポ的なものはこの程度で。

 

というわけで…てな感じで…うん、そうですね。今回のイベントでも1番大事なことを。

まずは今回のイベントは、ツイ廃疑惑が出るほどふぅちゃんを応援しているお祖母ちゃん含め(旅行から帰ってきた直後が、今回のイベントチケットの発売日だったらしく、疲れて寝ていたところにお祖母ちゃんのLINEでチケットが即完したことを知ったふぅちゃん。お祖母ちゃんは常にTwitterでふぅちゃんのエゴサをしているらしく、おそらく私(ふぅちゃん自身)よりもヲタの名前に詳しいらしい)、お母さんが物販をしていたり、お兄さんが特典会のサポートをしていたり、ふぅちゃんの家族が総出で彼女をフォローしていたそうです。そんな良好な家族関係が、ふぅちゃんの純真さを作り上げているのかなと思いました。同時に、孫・娘・妹の晴れ舞台を応援しに来た、という事実がこれが彼女にとってのラストステージになることを想起させて悲しくもなります。

そして、それまでは曖昧に濁されていましたが、最後にはふぅちゃんの口から「次がステージ上で歌う最後の曲になる」という事実がアナウンスされました。

大学を卒業して、会社に勤め、社会人になる(「会社に勤める」までは言っていたか、ちょっと忘れてしまいましたが)。だから、この「最後の春休み」のイベントが、私が立つ最後のステージ。今日の夜の部、vol.3はトークイベントだから、歌を歌うのは次の曲が最後。

「1,2,3,4」という掛け声とともに始まったのは、「Lighthouse」。楽曲終盤、バックサウンドが消えた最中、「物語は続く」と歌われ、会場全体がぐっと涙を滲ませる瞬間がありました。

 

私はsora tob sakanaというアイドルに、イノセンスジュブナイル、純真さ、無垢さ、少女性みたいなものを感じてきました。それは1つの側面としては、「子供」だけが持ちうるものという部分もあるかと思います。だから、10代のうちにオサカナが解散したということには、ある程度の納得感がないわけでもありませんでした(もちろん解散せず、活動を続けてくれている方がずっとずっと嬉しかったのは言うまでもありませんが)。彼女たちは解散時点ですでにその生き様というか、アーティストコンセプト的なものが完璧に達成されてしまっていたように思っていました。なっちゃん、まなちゃんはおそらくもう芸能活動していないでしょうし(玲ちゃんは芸能活動を続けているみたいですね)、ふぅちゃんも細々とTwitterを更新したりしていましたが、目立った活動のようなものはなかったように思います。そのことがより一層、オサカナというグループを1つの作品として固定化してくれていたように思います。

けれど、私にとってはオサカナの中心的な存在であるふぅちゃんが、たまにTwitterを更新し、(オサカナ楽曲ではないにせよ)弾き語り動画を載せてくれたりしているので、なんというかオサカナというグループや、楽曲アーカイブのようなものが、まだ失われずに繋がれているような気がしていました。いつかどこかで、何かのタイミングで、例えば今回の「最後の春休み」イベントのような形で、復活してくれる余地みたいなものが残されているように思っていました。

かつての姿そのものではないにせよ、向井秀徳NUMBER GIRLを復活させたり、小山田壮平がALを始めたり、なんていうかそういう奇跡がまだ起こるんだ、って信じていたいような。照井さんと神﨑風花ちゃんがいれば、何とかなるんじゃないかって。

ふぅちゃんは将来、芸能活動を続けてくれるんだろうか。怖くて知りたくないけれど、それだけがずっと気掛かりでした。でも、残念ながらその望みは、ひとまず今日の時点では断ち切られてしまいましたね。正直とても悲しいですし、会場にいた何人もの人がその事実に涙を流していました。

しかし、それがただ「悲しい」という感情からもたらされた涙なのかというと、少し違う気がしています。かなり言語化するのが難しいのですが、例えならすぐに出せて、あれはまさに「卒業式」という感じでした。ただ学校を卒業するというだけでなく、これまで毎日やっていた部活動もやめて、新しい土地に移り住み、もうきっと会うこともなくなる。悲しいし、寂しいけれど、同時に新しい生活にできるだけ幸福な気持ちで送り出してあげたい、そして成長したその姿を目にして感動のあまり流れ出る涙。そんな感じですかね。

オサカナ自体すでに解散しているので、「何を今さら」って感じもわかるのですが、今日は今日でまた1つの物語が終わったという感じがしました。ふぅちゃんは「物語は続く」と歌っていました。たしかにふぅちゃんの人生という物語は続いていきますので、それは全力で応援したいと思っています。けれど、もうオサカナの歌は誰も歌わなくなってしまう。オサカナが解散して約4年間。細々と紡がれてきた可能性の糸が、今日を以ってぷつんと切れてしまいました。それは単にふぅちゃんが芸能活動を引退し、一般の女性になったという単なる肩書上の問題ではないかもしれない。晴れやかな表情、大人っぽい雰囲気を纏って、最後に「学生」としてオサカナを歌うふぅちゃんの姿は、本当に最後の灯でした。名実ともに「大人(社会人)」になったふぅちゃんは、もう少女性というところからも飛び立って、sora tob sakanaっていうアイドルではなくなる。

子供らしい無垢さを表現してきたオサカナだからこそ、様々な意味合いにおいて、今日のイベントが区切りになったという感じがしています。

 

2020年の解散時、彼女たちは少女のままスモークの霧の中に儚く消えていきました。

2024年、残された神﨑風花という可能性は、自身が少女から大人になる瞬間(まさに「最後の春休み」)を私たちに見せてくれ、もはや幻想すら上書きして、本当の意味でのオサカナの終わりを刻みつけてくれました。

羽化する彼女への祝福、本当の終わりを見た寂寥感。それらが瞳を潤ませました。

 

改めて今までありがとうございました。これからの人生も本当に応援しています。また色んな現実との折り合いがついたときにでも、姿を見せたり、歌声を聴かせてください。変わらず、良いときも悪いときもオサカナを聴いて、何とか生きていこうと思います。

 

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言葉がまとまらないまま、書いては消してを繰り返しているうちに、頭の中はぐちゃぐちゃ。日は暮れ、今頃はvol.3が開演していますかね。

酷い文章になっていると思いますが、この何とも表現しがたい感情のほんの1割くらいは文字にして記録に残せたでしょうか。これからもオサカナを聴きながら、今日感じたことを思い返し、いつの日か、きちんとした言葉にできますように。

 

 

《追記》

仕事をしながら、生活をしながら、どうにかこうにかこの胸に湧き起こった感情を整理できないかと考え続け、数日が経ちました。まだ自信はないですが、考えまくった現状の暫定的な到達点として書き記しておきます。

 

まず、照井さんのShowroomや、vol.1, 3を見た上で思うのが、照井さん含め制作陣がオサカナちゃんたちの持つピュアで気高い想いや人生を強く尊重していたことに対する感謝の念です。活動している彼女たちは彼女たちなりに色々と思うところもあったと思いますが、大前提として彼女たちに近いところにいる大人が、彼女たちが自身の活動を振り返って「黒歴史」と思わないような、気高いものを作ろうとしていたことが何よりも尊いと感じました。これがあったからこその、オサカナのイノセンスジュブナイル、ノスタルジーなどが先鋭化され多くのファンに突き刺さったのだと思います。

 

そのうえで、ラストライブの霧の中に消えていくオサカナちゃん達、という演出はあまりにも完璧すぎました。

それは多くの御伽噺で、例えばシンデレラとかで、「その後、シンデレラと王子様は幸せに暮らしましたとさ」と結んでいくような、そんな潔ささえ感じる最後だったと思います。「いやいや、その後も嫁姑問題とか、夫婦間のセックスレスの問題とか色々あったやろ」なんて言うのは無粋ですし、全く意味の無いものだと思うのと同じくらい、オサカナのラストは素晴らしいものでした。

だからこそ、私たちはあまり彼女たちの「その後」について考えないようにしてきたのかなと思います。しかし、それでも私たちは相も変わらず日常の中で疲弊し、絶望してきましたから、何か美しい灯のようなものをまた体の内に取り込みたいと思わずにはいられませんでした。そんな中で、ふぅちゃんがゲリラ的に更新をし始めたTwitterのカラオケ動画や、弾き語り動画、そのほか写真や言葉などは、「めでたし、めだたし」で終わった御伽噺のその後の美しい続きを感じさせてくれ、我々の生きる活力になっていたと思います。

それが今回の「最後の春休み」では、何か綺麗に蓋を閉められていた物語の封を切り、私達にまた温かく切ない何かを与える機会になってくれたと思います。ただ幸せにその後の人生を生きていくと約束した主人公が、いま再び私たちの目の前に姿を現し、「いやね。まぁ、色々あるし、色々思い出すけどさ。まぁ、今日くらいはあの美しい日々…ほら、一緒に皿洗ったり、暖炉の掃除をしたりしたじゃんか。ああいう日々を思い出しながらさ、そうは言ってもこれから先のことについても話そうや」と言ってくれているような気がしました。ふぅちゃんが、ステージから降りて、一般の社会人として生きていく。そういうこんなにも切なく、意味があって、とても暖かい「蛇足」をつけてくれたことが、私はとてつもなく嬉しく、そして涙が幾筋も零れ落ちてしまいます。

私たちが生きる世知辛い現実の延長線上に、またふぅちゃん、ないしオサカナちゃんたちの現実も確かにあり、あれは素晴らしい御伽噺ではあったけれど、でもそれだけじゃない。同じ美しい思い出を分かち合いながら、これからも何とか生きていこうぜ。そういうグサリグサリと突き刺してくるような、確かな実感が胸に迫る。何よりもあんなに可愛いふぅちゃんの笑顔に、さしずめシャーロットのコトンのドレスが残していった右の掌のレモン・イェローの跡のような、印象的な感傷を感じる。「みんなが画策しているような気がするのだ、ぼくを幸福にしてやろうとして」って感じの、幸福な哀しみを感じずにはいられない。

 

そういう様々な感情が綯い交ぜになって、あのとき見た御伽噺が、「あれは良い御伽噺だったね」という実感をいまさらになってぶつけてきて、途方に暮れつつも、その途方に暮れている感じが何とも不幸せで、幸せだ。打ち上げの中で「沼らせる、ってのが果たしていいものなんだろうか」と言っていた言葉の意味を、今になって感じている。

そうだ。沼っている場合ではない。

物語は続いていく。