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音楽や小説など

sora tob sakana ~長く、短い1日~

sora tob sakanaの解散が2020年5月22日に発表されてから、はや3ヶ月が経ってしまいました。そして、解散(予定)の9月6日まで1週間程度しか残されておりません。

 

sora tob sakana Official Website

 

先日、8月5日にはsora tob sakanaとしての最後の音源となる、ラストアルバム「deep blue」が発売されましたが、新作が発売された嬉しさとともに私はとても悲しい気持ちになりました。正直なところ、私はかなり後追いのファンなのですが、彼女たち(そして、照井さん)の生み出す音楽の唯一性を考えると、やはりめちゃくちゃ「惜しい」と思ってしまいます。せめてサカナの音楽を誰かが歌い継いでいってはくれはしまいか、と考えてしまいますね。こういう考え方は、メンバーを軽視し、音楽のみに焦点を当てているようで反感を買ってしまうのかもしれませんが、しかしハロプロを好む私からすると、この「歌い継ぐ」ということは非常に有効な「慰め」になると思うのです。もちろん、推しメンの卒業などはとても悲しいことなのですが、彼女の後輩たちが楽曲を歌い継いでいってくれるのは、その何倍も嬉しいことだったりします。

と、余計な話をしてしまいました。そろそろ、この記事をちゃんと書き進めていきましょう。

 

 

 

◆ 記事の概要

sora tob sakana(オサカナ)の解散に際して、私の胸に積み重なった悲しさと熱をどうにかすることが最大の目標です。軸としては、これまでのオサカナについて、主に楽曲を中心に振り返り、「"sora tob sakana"とはなんだったのか?」(某雑誌オマージュ)ということを個人的にまとめようと思います。ただし、そこには私の主観が多分に含まれますし、「私がどう思ったか」ということがかなりの頻度で顔を出してくることでしょう。なぜならば、私にはオサカナを総括し、世に提示するような資格はないからです。

※なお、記事を書くにあたっては、Wikipedia様の情報を全面的に信用しております。

 

◆ 私とオサカナの出会い

もし記事を読んでくださる方がいるのであれば、私という人間の「オサカナ的来歴」をやはり知りたいのではないかと思いますので、一応書きます。これからオサカナについて書くわけですが、「うん。この人の言うことだったら聞いてみようじゃないか」、あるいは「こんな奴の言うことなんて聞いてられるか」というような判断をしていただくためですね。まぁ、本心を言えば、所謂「馴れ初め」というやつを喋りたいだけなんですが。

 

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私が書いた他の記事を読んでいただければわかると思いますが、私は「凛として時雨」というバンドをこよなく愛しています。故に、私とオサカナの出会いはこの記事になります。2016年の11月にアップされた記事ですから、初アルバムの「sora tob sakana」が発表されて数か月後というくらいですね。

記事の中では「夏の扉」のMVが紹介されていますが、実はこのMVを最初見たときにはそこまでピンと来ていませんでした。サビ辺りだけ聴いて「そんなにポストロックかな? 全然toeっぽくないけど?」という印象でした。この段階ではたしかハイスイノナサの照井さんがプロデュースしているということにも気がついていなかったような気がしますね。対してハイスイノナサの音楽に関しては、「まだ私には早いかな…好きな曲もあるけど…」という認識があったかなと思います。

それからいつの事だったか全然覚えていないのですが、少なくとも「alight ep」でメジャーデビューする前には、「広告の街」の演奏動画にて、私の中で「オサカナ」と「照井さん」が繋がるというビッグイベントがありました。

 

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多分、ハイスイノナサの楽曲を漁っていて、そのうちに辿り着いたような気がしますね。「おぉ、超かっけぇじゃん!」となり、「sora tob sakana…どこかで聞いたな」ということで先述の記事に思い至り、「なるほど!そういうことね!」と1人で首肯したものです。たしかに、ポストロック(というよりはマスロック)だな、と。

この時から少しずつオサカナを気にかけるようにはなっていったのですが、それでも私の中ではまだピンと来ていない部分がありました。私の感性が腐っているだけなのですが、何となく「キャッチー過ぎるな」ということを感じていたからかもしれません。「もっとマスロックとの融合や、前衛的なものがあればなぁ」なんてことを偉そうに考えていました。「広告の街」のキメのところなんかはめちゃくちゃ複雑ですが、サビは結構キャッチーだったりしますし(そして、これもまた完全な言い訳ですが、オサカナに虜になるには、公式の質の高い映像作品が少なかった…気がします)。

ただ、そんな私のオサカナに対する甘い理解を一新してくれたのが、メジャーデビューを機に発表された「Lightpool」でした。

 

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もうMVの美しさ、楽曲の雰囲気にやられてしまい、「そうそう!これを待っていたんだ!」となりましたね。改めて資本投資(プロデュース、マーケティング)の重要性に気付かされます(もっと本質を見抜く、目と耳を鍛えなければと思わされます)。

この「Ligntpool」で提示された、マスロックの無機的で洗練された印象と、デジタルな都会感、そして少女のカラフルで有機的な感じの融合というのが、私的にはドンピシャだったわけです。そして、このメジャーデビューEPが私が買ったオサカナの初音源となるわけです。「alight ep」ではお察しの通り、「Lightpool」だけでなく「鋭角な日常」にもかなり心を惹かれました。が、この段階では「秘密」や「Brand New Blue」といった名曲たちにもまだピンとは来ていないというのが正直なところではありました。

つまり、私は先述の通り「凛として時雨」みたいな攻撃的で神秘的なオルタナティブロックが好きな人間なのです。ですから、「秘密」や「Brand New Blue」が持つ世界観を理解する力がなかったわけです。というか、そういうものを求めてすらいなかった…ただそれを改めることになったのが次作の「New Stranger」だったわけです。

「alight ep」でオサカナにベタ惚れした私ですが、「New Stranger」のMVでオサカナの持つもう1つの側面に気付かされたわけです。

 

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イントロ(テーマ)の複雑で細やかなギターリフや、アニメ「ハイスコアガール」の雰囲気を踏襲したゲームっぽい電子音もさることながら、ここでも私はまずMVの映像美にやられました。特に、寺口夏花(なっちゃん)がいかにも田舎っぽい家の中でゲームをするカットや、神﨑風花(ふぅちゃん)が夕暮の田園風景の中を歩くカットに心を打たれました。田舎者の私は非常に郷愁的な気持ちにさせられました。楽曲的にはより攻撃的でマイナー調な「Lightpool」の方がやはりまだ好きだったのですが、「こういうノスタルジーなものも合うな。というか、子供っぽい声質だから、むしろこういうのが強みなのかもしれないな」と私は知った風なことを思うわけです。

そして、シングル「New Stranger」を購入し、同シングルに入っている「silver」を聴いて、「うわ!めっちゃいい!これオサカナで1番好きかも!」と私はまた驚嘆するわけです。「なるほど、彼女たちの幼い歌声はこういうシックな雰囲気とも合うのね」と私の中でオサカナに対する印象が少しずつ変わっていきました。もちろん「発見」という最高にマスロックテイストな楽曲から「照井さん味」を感じたのも、オサカナの印象を固める上で重要なインシデントでした。

と、ここまで来ると、私がいかに間抜けだったかがわかります。そのことを私に気付かせてくれたのが、さらに次作の「World Fragment Tour」です。

私はほぼリアルタイムで「World Fragment Tour」の記事も書いているのですが、実はこの頃はまだオサカナの素晴らしさをわかりかけているくらいの時期だったことを白状します。もちろん、この頃からかなりオサカナにはのめり込んでいましたし、リードトラックである「knock!knock!」には「Lightpool」や「silver」と同等の衝撃を与えられましたが。

 

eishiminato.hatenablog.com

 

アルバムの全楽曲をレビューしてみたわけですが、本心から言うと、「knock!knock!」のレビューこそが私の最初の動機でした。しかしながら、個人的に「もっとオサカナを知りたい!理解したい!」という想いもあったため、「これを機にどっぷりとオサカナワールドに浸かろうではないか」と決心し、上記の記事を書き進めました。そこでそれまでの私だったら聴き飛ばしていたであろう「燃えない呪文」に出会います。「燃えない呪文」は照井さん作曲ではなく、君島大空さん作曲の楽曲です。いかにも照井さんらしいマスロックテイストはほとんどなく、甘く淡く、「唄を聴かせる」感じの楽曲にてオサカナちゃんたちの個性に気付かされました。

おそらく上記の記事を読んでいただければわかると思いますが、このタイミングでの私はメンバーの名前すらまともに言えないくらいのファンでした(なんとなく「神﨑風花ちゃん、好きだな」というくらいのものです)。しかし、この「燃えない呪文」にてメンバーの個性が気になり、楽曲だけでなく、メンバーにも目を向けるようになりました。そして、メンバーに焦点を当てながら、「World Fragment Tour」の記事を書き進めるうちに、「sora tob sakana」というグループがどういうグループで、照井さんがどういう風にプロデュースしたいのか見えてきたわけです。

その答えがジュブナイルです。

「World Fragment Tour」の記事を書いているときには、「ジュブナイル」という言葉にどうしても辿り着けなかったのですが、「sora tob sakana」を知れば知る程にある種の「ピーターパン・シンドローム」的な少年期やイノセンスに対する「こだわり」みたいなものを感じるようになっていきました。後々に、照井さんのインタビュー記事で、そのことが裏付けされて、私はとても感動したものです。

 

realsound.jp

 

この記事を読んだからこそ「ジュブナイル」という端的な表現に私も思い至ったわけですが、確かにそれこそが私の中に引っかかったものでもありました。「Lightpool」では無機的な楽曲に少女特有の有機的なニュアンスが融合していたところに惹かれました。「New Stranger」では先述の通り、まさに「ジュブナイル」的な映像美に、「燃えない呪文」では彼女たちの透き通るノスタルジーな唄声に。

何よりもその少年期の「儚さ」を感じたのは、アルバム「World Fragment Tour」付属のライブBlu-rayでした。バンドセットで楽しそうに歌うオサカナちゃんたちを観て、月並みですが「エモいなぁ」と胸がじんじんしました。そして、もともと好きだった楽曲だけでなく、「Brand New Blue」や「Lighthouse」、「秘密」などの聴き飛ばして来た楽曲たちの素晴らしさにも気づかされたわけです。同時に「Summer Plan」や「魔法の言葉」、「まぶしい」、「帰り道のワンダー」などを聴き、「過去楽曲までさかのぼらなくちゃダメだこれは!」と決心しました。オーディオコメンタリーで見え隠れするメンバーの人間的な個性にも惹かれるものがありました。なんて無垢そうな子たちなんだろう、と感じました。

 

さて、長くなりましたが、これが私とオサカナの馴れ初めになります。

そんなわけで私はかなり後追いのファンなわけです。「alight ep」新規が「World Fragment Tour」で本格的にオチたのが私です。ですから、ちゃんとオサカナを愛し始めてからはまだ1年ちょっとしか経っていないんですよ。これからが楽しみだったのに、そんなタイミングで解散なんて…とかなりショックなわけですね。

ですが、せっかく好きになったのだから、解散まではちゃんと応援し、解散後もオサカナが提示してくれた世界を愛し続けるために、もっと「sora tob sakana」という存在を深く理解したいのです。彼女たちが紡いできたものが何だったのか。私の中で暫定的にでも定義したい…私は感性が鈍く、頭が良くないので、何かを理解するためには「定義」が必要なのですよ。「定義」という言葉があまりに無機質なら「神話」という言葉と置き換えても良いです。「神話」という言葉がアレなら「文学」としても良いです。「文学」という言葉が格好つけ過ぎと言うなら、「物語」という言葉にしましょうか。「物語」という言葉が臭いなら、やはり「定義」という言葉にしましょう。

 

◆ sora tob sakana ~長く、短い1日~

上述の通り、かなりの後追いである私が「sora tob sakana」という一連の歴史を一言で総括するのであれば、それは「長く、短い1日」と言えましょうか。というか、オサカナの紡いできたものを「長く、短い1日」に喩え、まとめ直してみたいと思います。

 

1.新しい朝

sora tob sakana と照井順政の出会い

2014年の夏に「sora tob sakana」はテアトルアカデミーという子役が強い?芸能事務所のアイドルプロジェクトの第2弾として結成されました。あえて正確に引用はしませんが、「未完成から完成へ。空を目指して」というのがグループコンセプトで、子役志望の少女たちのパフォーマーとしての成長を応援してもらうというのが大まかな趣旨だったようです。

初オリジナル曲は「Dash!!!!」で、こちらは照井さんが関わるより前の楽曲です。メンバーも5人だったようです。佐藤さん、小西さんは割と初期の段階で卒業し、ラストメンバーの1人でもある山崎愛(まなちゃん)は遅れての加入になります。

 

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こちらの「Dash!!!!」も一風変わった音像で良い曲ですが、今のオサカナのイメージとはかなり異なっていますね。

 

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対して、照井さんはオサカナ結成に先駆けて「PIECE」というアイドルのプロデュースを手掛けていたそうです。リンクのトレイラー映像の1曲目「銀河鉄道」なんかは、まさに現在のオサカナに通じるものがありますね。

 

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この辺りの初期の諸々の経緯については、上記の照井さんのインタビュー記事がかなり細かく書いてあるのでそちらを読んでいただければと思います。要旨を私なりにまとめると、照井さんの持つハイスイノナサ的な前衛的な音楽観をどのようにして少女たち(オサカナたち)に落としむのか、ということに苦労したそうです。その中で、ポストロック的ストイックさとアイドル的な熱情を結び付ける「接着剤」として「ノスタルジーというのがキーワードだったようです。また、個人的にとても共感できたのが、芸術・エンターテインメントにおける「アイドル」という切り口の有用性ですね。芸術を突き詰める中で失われてしまうポップさみたいなものが、アイドルでは強制的に必要とされると私は思っています。だからこそ、芸術とエンターテインメントのバランスが良くなり、作家の世界観が見えやすくなります。つまり、「sora tob sakana」という間口の広い照井ワールドがあり、そこからさらに照井ワールド全開の「ハイスイノナサ」へと聴衆は足を踏み入れる…みたいな導線が生まれると思うのです。然るに、複雑な音楽ジャンルをやっている人こそ、音楽で食べていきたいのであればアイドルのプロデュースをやるべきだな、と。それか、toeみたいにバンド以外の収入源を持っているか、です。と、話がオサカナから逸れましたね。

こんな感じで、「sora tob sakana」としての1日は、複雑に絡み合った思惑の中でスタートするわけです。「商品としての子供(言い方が汚くてすみません)」が照井さんの芸術性とエンターテインメント性の狭間で、とんでもないプロデュースをされていく…そしてその落としどころとして「ノスタルジー」、つまり「ジュブナイル」という原理原則が用意されたわけです。

 

・初期楽曲(「sora tob sakana」、「cocoon ep」)に見るコンセプト

初期のオサカナを特に「sora tob sakana(アルバム)」と「cocoon ep」としてみましょう。上記リンクのインタビュー記事にもある通り、オサカナの最初のオリジナル曲は照井さん作曲のものではありません。そして、照井さんが楽曲提供やプロデュースを担い始めるタイミングでは、既に一定のファンがついていたそうです。故に、照井さんはそれまでのオサカナの活動と地続きのプロデュースをする必要がありました。

ポストロックやマスロックを得意とする照井さんの作る楽曲は「広告の街」に代表されるようにかなり複雑なリズム、構成、フレーズ等が用いられます。そんな中、「sora tob sakana(アルバム)」には「My notes」や「新しい朝」など、比較的ノリやすいリズムや構成の楽曲が散りばめられています。もちろん、普通に世間に流通している音楽に比べればかなり複雑なところもありますが…しかし、単純な8ビートやわかりやすくハーフテンポなども用いられているという意味では、やはり「ノリやすい」「盛り上がりやすい」楽曲が後期に比べると多い印象です。これはやはり照井さん「以前」のオサカナを意識してのことと思います。

また、アイドルシーンの中で地位を確立できていないオサカナが、固定ファンを多く獲得するための商業的な戦略上、そういった「ポップさ」が求められたということもあるでしょう。ほか、単純にメンバーのスキルやモチベーションの問題もあったかもしれません。


www.cinra.net

 

ネットを探すと照井さんは結構色々なインタビューを色々な時代に受けていて、どれも面白いのですが、私がオサカナと出会う前に読んだこのインタビューが結構印象的でした。

インタビューの終盤で「ハイスイノナサの核心」について問われ、「他者の世界観を変えたい」というようなことを言っていました。他のインタビューでも「新しい価値の提示」などが語られており、照井さんの中には一貫して「啓蒙」という属性があることが伺えます。※私はハロヲタなので、やっぱりつんく♂さんが好きなのですが、つんく♂さんもまた日本人のリズム感を養うべく「リズム天国」というゲーム制作に真剣に携わったそうです。

芸術というのは自己表現であり、故に「自己満足の世界」という側面もあるのですが(私のこのブログのように)、しかし「なぜ自己表現をするのか?」と言われれば、そこにはやはり「他者に自分を理解してもらいたい」という部分があるのも必然でしょう。しかし世の中と言うのはなかなかにわからずや。ですから、「自分が理解される世界に塗り替えてやろう!自分の作品で!」というのは、芸術に対する一種のモチベーションになり得るだろうと私は思います。照井さんやつんく♂さんはまさにそういったマインドを持っている人だと私は勝手に解釈しています。

と、話が逸れたように思いますが、なぜ照井さんの「啓蒙」という属性について喋ったかと申しますと、オサカナの初期の楽曲を聴いてみると、まさにこの「啓蒙」という言葉が1つのキーワードになっているように思ったためです。

 

例えば「帰り道のワンダー」なんかは鉄琴を使った可愛らしい音像と明るく楽しい雰囲気で、オサカナの中のかなり取っつきやすい楽曲だと思います。しかし「ら・ら・ら」の合唱なんかは思わず皆で歌い合いたくなるところですが、実は裏では複数の楽器がかなり複雑なフレーズを演奏しており、ポストロックと言っても通用するくらいのポリ・フレーズです。楽曲構成的にも、実はかなり複雑です。

 

Intro

A1-1 ♪待ち合わせ待ちぼうけ

A1-2 ♪いつもと違う道が

B1 ♪帰ろう、さぁ (コール&レスポンス)

C1 サビ)♪歌いながら行こう

D1 ♪ら・ら・ら

E ♪ら・ら・ら ※アウトロかな?と思ってしまうようなしっとり感

F ♪あの子も連れてく

G コール&レスポンス

C2 サビ)♪帰り道の魔法

H1 大サビ)♪流れていく時間が

H2 大サビ)♪明日何があるかな

I コーラス+イントロのリフ+コール&レスポンス

D2 ♪ら・ら・ら ⇒ やばめ

 

音符マーク(♪)を付けたところは目安の歌詞ですが、ざっと書き出してみると大サビのHメロまで実に多彩な楽曲であることがわかります。子供っぽく楽しい雰囲気に騙されそうですが、音楽的にはかなり複雑なわけですね。

したがって、この「帰り道のワンダー」に顕著なように、照井さんの目標の1つは自分の持つ音楽的素養を如何に、sora tob sakanaというポップな媒体を用いて表現するかということだったと思います。先述の通り、ジュブナイル」というのがその落としどころです。つまり、「子供らしさ」「元気でポップな感じ」という化けの皮によって、照井さんの前衛的な音楽が上手いことデフォルメされ、私たちにしっかりと届いて来るのです。そして、私たちは知らず知らずのうちに、照井さんによる「啓蒙」を享受しているのです…なんて。

 

・リアルタイムなイノセンス

 1つ前では「帰り道のワンダー」という曲を参考に、どのようにして「ジュブナイル」が落としどころとして機能したかについて喋ってみました。しかし、ほかの楽曲にも「帰り道のワンダー」のような、ポップさと照井ワールドのせめぎ合い、そしてジュブナイルへの帰結は見て取れると思います。

しかしポイントとなるのは、その「ジュブナイル」のリアルタイム性です。

つまり、実際に中学生くらいの子供だったオサカナちゃんたちが歌うだけで、照井さんの楽曲が一気に少年期的な懐かしさや美しい思い出を想起させるわけです。「新しい朝」・「帰り道のワンダー」・「タイムマシンにさよなら」のように元気な楽曲でも、「夏の扉」・「夜空を全部」・「Summer Plan」のように情緒あふれる楽曲でも、「My notes」・「広告の街」・「夢の盗賊」のように攻撃的な楽曲でも、「魔法の言葉」・「ケサランパサラン」のような可愛らしい楽曲でも。

メンバーのいかにも子供っぽい、癖が無く、甲高く、無垢さを感じさせる歌声が「心の綺麗さ」を浮かび上がらせ、それだけで胸が締め付けられます。月並みな言葉を使えば、「等身大」な感じが素敵ですよね。

 

・1章のまとめ~新しい朝~

初期のオサカナは、様々な思惑や試行錯誤の中で、いわゆる「楽曲派」のアイドルグループとして歩みを始めました。照井さんの音楽センスがもちろん主軸にはなるわけですが、sora tob sakanaというブランディングを図る上ではジュブナイルというのが1つのキーワードになっていたようですね。様々なタイプの楽曲が生み出されるわけですが、どれもが「懐かしさ」や「無垢さ」を感じさせ、そのエッセンスとなっているのがオサカナちゃんたちの歌声です。

私たちはオサカナの楽曲を聴くことで「あぁ、子供の頃が懐かしいな」なんてことを思ったりするわけですが、でも決して「懐古的」というのでもないんですよね。そこにはリアルタイムなジュブナイルがあり、とってもフレッシュな感じがします。

鳥のさえずり、朝露で煌めく、太陽の光。今日という日の始まりに、また希望や期待が自然と膨らんでくる。また楽しく素敵な1日が始まるんだ。

そんな風情を感じさせてくれるのが、この初期のオサカナに顕著な要素かなぁ、と思います。というわけで、曲名にもなっている「新しい朝」という文言を本章の見出しにさせていただきました。楽曲的には「Summer Plan」のイメージですかね。

 

2.彩光溢れる青空

・メジャーデビュー

ついにメジャーデビューに漕ぎ着けたオサカナのデビュー作「alight ep」、初のアニメのタイアップとなった「New Stranger」辺りについてお話します。

メジャーデビュー前のオサカナには上述の通り、飾らない子供らしさがありました。もちろん「広告の街」などはかなり前衛的で、緻密に作り込まれた楽曲ではありますが、大多数の楽曲はどちらかと言えば、「リアルタイムなジュブナイルを感じさせるものがありました。

既に申し上げている通り、私がオサカナと出会ったときには、この「リアルタイム性」にピンと来ることができずにしばらくの間目を離してしまいました。

ただし、メジャーデビューというニュースと一緒に飛び込んできた「Lightpool」のMVに私は度肝を抜かれることになります

映像の鮮やかさ、楽曲の緻密さ、攻撃性という部分はもちろんのこと、幼気な少女たちがどちらかと言えば「無機的」な表情でパフォーマンスをしていることにかなりやられました。こうして書いていると、何となく1章の頃のオサカナには子供が子供らしくはしゃいでいるような印象があったように思います(「広告の街」なんかは違いますよ。何度も言いますが)。しかし、メジャーデビューを果たした「Lightpool」のMVでは、どこかそういった「子供らしさ」というものが薄められています。いや、確かに子供は子供なのですがどこか「憂い」を含んでいるように見えるのです。その憂いのもたらす影が楽曲に深い陰影を付与し、ただただ一辺倒に「元気な子供」という段階を払拭しています。

映画「A.I.」のデイビッド(少年のロボット)や、攻殻機動隊タチコマなどに見るような「高機能」と「幼さ」の融合みたいなものを感じました。まぁ、この2者のキャラクターはだいぶ違うのですが。つまり、オサカナちゃんたちは「少女」という媒介者でしかなく、彼女たちが反映しているのはより鋭く複雑で、同時に色鮮やかなもののように感じられたのです。まさに「Lightpool」のMVで、メンバーの身体に色鮮やかな自然と眩い都市の光が投影されたように。

「Lightpool」、「鋭角な日常」、「New Stranger」、「発見」という圧倒的な楽曲たちを歌う、子供っぽい高く硬質な、そしてどこか甘いオサカナちゃんたちの声がその楽曲の解釈を広げてくれます。映画「A.I.」では主人公はやはり少年のロボットでなければならないでしょうし、攻殻機動隊タチコマが最後に人間のために身を挺すのがあんなにも胸を締め付けるのは彼らの無垢な精神性を物語る玉川砂記子さんの声があるからこそ。つまり、この頃のオサカナからは「装飾され、鮮烈に描写されたジュブナイルを感じます。

 

・メンバーの成長と、時間軸の乖離

 

lp.p.pia.jp

 

オサカナちゃんたちもこの頃はsora tob sakanaという普通ではないアイドルコンセプトに染まって来たのか、あるいは単に思春期だからなのか、「秘密」のようなストレートに恋愛を歌う楽曲が恥ずかしいと感じているようです。とは言え、これまでのオサカナにそういった恋愛要素があまりなかったのも事実で、これは照井さんが与えたオサカナに対する1つの変化点だと思います。「Brand New Blue」では初めて照井さん以外の人が編曲を担当していますが、これもまた変化点ですね。

しかし「秘密」や「Brand New Blue」の歌声を聴くと、明らかにそれまでのメジャーデビュー前よりも大人びていることに気がつきます。ただ地声で歌うだけでなく、吐息を混ぜたりして、柔らかく歌えるようになった…とテクニックだけで語るのであれば、そんな感じになってしまいますが、ただディレクションされた通りに声を出すのではなく、楽曲の世界観を想像し、自らに落とし込んで歌うということができるようになってきた感がありますね。

このようなオサカナちゃんたちの心身の成長により、作品はsora tob sakanaとしての創造性を獲得するに至ったと思います。メジャーデビュー前は、照井さんがいかに優れた楽曲を作るか、という部分が大きく、メンバーたちはあまり深く考えることなく、元気に歌っていることが求められていたように思います。しかしながら、成長し、心もより立体的になり、メンバーたちにも「表現」ということができるようになってきます。これまで散々と話してきたように、「Lightpool」では圧倒的に作り込まれた楽曲やMVに対して、あくまで少女でありながらも、この世界の深淵を感じさせるような微妙な無機質さを纏い、楽曲表現に努めています。対して、これまでの子供らしい路線で言えば「Brand New Blue」なんかは非常にアイドルっぽい楽曲ではありますが、どこか「子供らしさを演じている」ような雰囲気があります。

つまり、1章でのオサカナちゃんたちは目の前に見えているものをそのまま歌っており、メジャーデビューしてからのこの2章のオサカナちゃんたちは、楽曲を通して見える世界観を歌っている…とでも言えば良いでしょうか。すなわち、「リアルタイム」でなく、どこか自分たちの現在地とは時空間的に乖離した世界について想像し、表現することができるようになったわけです。照井さんがそのように仕向けて楽曲を用意したのか、それとも彼女たちの成長が照井さんにそういう楽曲を作らせたのか。鶏が先か卵が先かみたいな言葉を良く聞きますが、私としてはそういう因果的関係性ではなく、お互いが手を取り合って一緒に成長してきた、と考えたいところですね。

 

sora tob sakanaの希少性

他のアイドルを持ち出して申し訳ないのですが、例えばハロプロのアイドルなんかはまさに「表現」ということを磨き続けているアイドル集団です。おそらく他のアイドルでも、活動していくうちに表現力が付き、より情緒的なパフォーマンスをすることができるようになっていきます。オサカナちゃんたちもその例に漏れず、活動に伴って(というよりも、単純に大人になるにつれて?)表現力が向上してきたわけです。

しかしながら、オサカナちゃんたちの凄いところは、決して「やりすぎない」というところです。いや、「やりすぎない」というよりは、「無垢さを大切にしている」というところでしょうか。あくまで子供らしさを忘れない、というのはそもそものグループのコンセプトであった「ジュブナイル」を実現する上で非常に重要だと思います。同時に照井さんの作る、ポストロックやマスロックを下地にした楽曲では、あまり成熟した人間臭さのようなものが似合わないようにも思います(ハイスイノナサやsiraphのボーカルには、タイプは違いますが、例えば演歌のように慕情を込めた歌い方ではなく、美しく流麗に楽器のように聴かせる歌い方ができる人が選ばれているように思います)。

その点で言うと、オサカナちゃんたちはもともとが子役事務所出身ということもあってなのか、「子供らしく見せる」ということに優れたものがあるような気がします。

歌う楽曲の世界観が、そんな彼女たちの「子供らしさ」を倍増させます。そして、メジャーデビュー以降はどちらかと言えば、実年齢よりも若い自分たちを「表現」するようになってきたというのは、彼女たちの出自を踏まえれば、パフォーマーの素質を存分に活かす采配だったように思うのです。

 

・「silver」という楽曲

私はオサカナの楽曲の中では1番「silver」をよく聴きます。単純にカッコ良く、オサカナ以外の楽曲からの流れからでも馴染みが良く、摩擦なく聴くことができるというのも大きな理由なのですが、同時にオサカナちゃんたちの良さが際立って感じられるようにも思うのです。

Wikipediaを読んでいて気がついたのですが、この「silver」はメジャーデビュー以前の1章で紹介した「cocoon ep」発売よりも前に披露されているそうです。「New Stranger」で音源化されるまでに、およそ1年半という時間が経っています。いろいろな事情がそこにはあるのでしょうが、私がこの記事を書き進めるにあたって都合よく読み解けば、「silver」という楽曲にはメンバーの成長が不可欠だった、と言えるのではないでしょうか。

曖昧な旋律だったり、甘い裏声だったり、Bメロでは意外とリズムが難しかったり、と技術的な成熟も求められる楽曲ではあります。しかしながら、もっと複雑な楽曲をオサカナちゃんたちは歌ってきているため、単純に技術的な成熟が必要だったというわけでもなさそうです。それよりは、このアンニュイな楽曲の世界観を表現するためには、精神の成長が必要だったのではないでしょうか。

歌詞を読んでみると、よりわかりが良いかもしれません。

 

・あーそっか世界は整備された道を歩けば怪我をしない

・銀色に秘められた思いは歌に溶けてく

 美しい思い出の残り香を残して

 

これらの歌詞に見るように、大人になってしまった自分を俯瞰して見て、美しい過去の想い出の中に身を浸しているような、いわば「懐古的」な世界観がこの楽曲にはあります。自らが身を湛える思い出の海の色が「銀色」というのも、どこか切なく、幻想的で素敵ですよね。

これもまた1つの「ジュブナイル」の形ですが、決して「リアルタイム」なジュブナイルではありません。だって、昔を想っているわけですから。そして、元気であってもダメですし、かと言ってただの無機質であってもダメです。そこには「郷愁的」な部分と「憂い」が必要です。また「あーそっか」という冷めた言葉の表現があることからも、井上陽水の「少年時代」的な凝縮された寂寥感みたいな抒情性があり過ぎても、ちょっとおかしくなるでしょう(と言いつつも、オサカナの世界観と井上陽水の「少年時代」の世界観にはシンパシーのようなものも感じますが)。

この微妙な「silver」の世界観を表現するためには、かなり成熟し、洗練された精神性が必要になってきます。直接的でもダメで、やり過ぎてもダメ。少しだけ背伸びした少女が、(大人からすれば「ほんのちょっと」な)昔のことを想っているという構図なのです。歌っている人物は少女でなければなりません。同時に、少女が抱く「郷愁性」ですから、あまりに情念が漂ってもおかしなことになります。それを可能にするのは、リアルに少女であり、同時に子役的な見せ方を理解するオサカナちゃんたちだけだと私は思います。パフォーマンスに定評のあるハロプロのアイドルたちにもそう簡単にはできることではないでしょう。

というわけで、私は「silver」という楽曲が好きなわけです。まぁ、インストであってもかなり好みドストライクの楽曲ではあるのですが。

 

・2章のまとめ~彩光溢れる青空~

メジャーデビューを迎え、プロデュースにも力が入り、同時にメンバーたちの幼少期からの卒業・成長が見られるこの期間は、まさに「太陽が昇り、じりじりと暑さが増してくる午前中」というイメージがあります。柔らかい朝陽とは違い、昼の光は世界をカラフルに映し出して、空を仰げば、光り輝く青空がどこまでも広がっています。メジャーデビューしたことによって、アニメのタイアップなどもなされ、世界も広がりました。

オサカナちゃんたちの成長に合わせて、楽曲の世界観も厚みや深みが出て来て、非常にわくわくするような時期ですが、それでも初期からのコンセプトである「ジュブナイル」を忘れないことで、本当に稀有なアーティストになりつつあった時期でもありますね。

ちなみに、最初にも書いたように、この記事では、オサカナの歩んできた道のりを1日に喩えてみようと思っています。太陽の位置に合わせて、長く、短い1日の中でオサカナちゃんたちが健やかに歳を重ねていっているという部分も合わせて想像していただければと思います。

 

3.青春と遭遇する午後

・これまでの流れのおさらい

「アルファルド」から始まり、主にフルアルバム「World Fragment Tour」を中心に、「ささやかな祝祭」、「流星の行方」、「flash」と各種タイアップ曲を次々と発表していった時期についてまとめたいと思います。「World Fragment Tour」発売後には、玲ちゃん(風間・玲・マライカ)の卒業という大きな転換点もありますが、この時期にはメンバーたちも女子高生真っ盛りという感じで、まさに「青春」を体現する機関となります。

極端な言い方をすれば、2章までのオサカナは「楽曲の世界観をメンバーが表現する」というベクトルでしたが、ここからは少しずつ「メンバーの個性を楽曲で表現する」というベクトルが生まれ出してくる時期になったように思います。既に2章の段階でその片鱗は見えていたわけですが、前述の通り、「silver」以前と以後でそれが割かし明確に分けられるように個人的には感じます。1章から3章までの照井さんとオサカナちゃんたちの関係性を私なりに簡単な図にまとめてみました。

 

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sora tob sakana結成時は「1章~2章」の図のように、どちらかと言うと照井さんの中にある世界観をその成分レベルで解釈し、表現することしかできていませんでした。しかし、照井さん自身そういった子供らしい解釈と表現をうまく利用しようと考えていたでしょうから、それはそれで正解になってはいたと思います。実際に、初期のオサカナでしか表現し得ない世界観というものがあったと私も思います。

次にメジャーデビューを決めた辺りからは、「2章~3章」の図のように、オサカナちゃんたちの解釈や表現のレベルが高まり、照井さんのイメージを自分たちなりに落とし込み、自分たちで世界観を構築し直すことができるようになってきたように思います。その最高峰が個人的には「silver」という感じですね。

しかし、3章の「World Fragment Tour」辺りからは徐々に「3章」の図のように、照井さんがオサカナちゃんたちの持つ世界観からインスピレーションをもらい、彼女たちの世界観を再構築するような形での楽曲制作という雰囲気も生まれてきたように思います。そして、ここからは「オサカナちゃん」⇒「照井さん」⇒「オサカナちゃん」⇒…という形での、イメージ共有のループが作れるようになり、よりグループとしての一体感が生まれてくるようになります。それに伴い、より有機的で人間的な交流という側面も感じるようになってきたのがこの時期だと思います。

 

・自分自身との遭遇

この章のタイトルを「青春と遭遇する午後」と書きましたが、それじゃあ「青春」って何だろうね、と自分で書いておきながらよくわかっておりません。人それぞれ、タイミングによっても言葉の意味は変わって来るでしょうが、とりあえず1つの見方として「青春」=「自我」という風にも考えられるのではないでしょうか。

例えばアルバム「World Fragment Tour」のリード曲ともなっている「knock!knock!」はアラビアンなテイストを入れたりしてまさに「世界旅行」を彷彿とさせ、その不可思議な世界旅行ではたくさんの「未知」と遭遇することができます。青春というものはある意味ではそういった「未知」のものと数多く遭遇し、視野を広げ、世界の色々な側面や成り立ちというものを知り、そこから刺激を受けて、自らを成長させる時期ですよね。そしてさらにその先には、「今まで知らなかった自分」との遭遇も準備されています。「自分ってこういう人間」、「自分ってこういうのが好きで、こういうのが苦手」、というようなことを理解し、自らの個性=パーソナリティを発見し、時にはそれを誇りに思い、時にはそれに苦しみ…ということをするのだと思います。

フルアルバム「World Fragment Tour」を通してざっと考えると、「sora tob sakanaってどんなアイドルなんだろう?」、「アイドルってどういうものだろう?」、「普通の女子高生とはどう違うのかな?」、「これからの私たちの未来って?」という自問自答がなされているように思います。詳しくは過去に書いた記事がありますので、そちらを読んでいただければとても嬉しく思います。

 

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照井さん以外の作曲があったり、「ありふれた群青」のように照井さん作曲でも、かなりシンプルで普遍的な楽曲があったり、とオサカナちゃんは多種多様な世界との遭遇を果たしています。繰り返しになりますが、そのような出会いによって、人間は自らの幅を広げ、成長してゆくのですね。

「ありふれた群青」の歌詞には「これが恋かはわからないまま、しまい込んでいたドキドキが、眠れない夜に、天井の隅っこで育っていく」とあり、めちゃくちゃ青春の恋愛っぽい世界観が表現されています。決して確証があるわけではありませんが、おそらくこの歌詞を歌うときには「秘密」を歌っていたときのような恥ずかしさというものはあまりなかったんじゃないでしょうか。大人になり、そういった恋愛感情というものの美しさを知ったからこそ、全編通してソロパートでありながらも濃密な世界観を感じさせてくれるのだと思います。ただ、やはり重要なのは「やり過ぎてはいない」ということでしょう。あくまでそこには「純真」しかないのです。「会いたくて震える」ようなおどろおどろしい情念やヒステリックな感情までは知らず、照井さんやオサカナちゃんたちが表現しているのは、「初恋の持つ不可思議な一瞬のきらめき」だけです。

これもまた「ジュブナイル」の1つの表出ですよね。1章では「リアルタイムなジュブナイルがあり、2章ではそこから脱却し「若干の懐古を含むジュブナイルが表現されていました。3章ではその両者を感じながらも、私は「等身大のジュブナイルという言葉を使いたい気分です。 「ありふれた群青」は言わずもがな、「嘘つき達に暇はない」や「暇」などもやはりオサカナちゃんたちの等身大です。そして「WALK」は「sora tob sakana」としての等身大だと思います。

この「等身大」感がどうして生まれるのかというと、3つの図で示したように、オサカナちゃんたちからインスピレーションを受けた照井さんが世界観を再構築し、それをまたオサカナちゃんたちが自分たちなりの解釈を以って、表現し直しているというループ構造があるからでしょう。オサカナちゃんたちは照井さんの楽曲を鏡にして、自分自身と遭遇し、自分たちのパーソナリティやアイデンティティのようなものを再認識しているのだと思います。

 

・容赦なく過行く午後

「World Fragment Tour」を発売した2019年3月13日から僅か2か月後、2019年5月6日にメンバーの玲ちゃんが卒業することになりました。ここから約1年後の2020年5月22日に、sora tob sakanaの解散が発表されることになります。

「World Fragment Tour」ではオサカナちゃんたちの個性が光り、今後の活動にもさらなる期待が高まっていた時期だけに、メンバーの卒業というのはなかなかショッキングな出来事でした。玲ちゃんの持っていた芯の強い部分はグループにとっても非常に重要なものだったように思います。しかし、そういう「別れ」も含め、1つの青春性の結実がそこにはありました。

玲ちゃん卒業後は連続でアニメのタイアップがあり、3人体制への移行後も一見順調そうな活躍を見ることができました。この連続タイアップは活動全体を安定させるうえでとても重要な援護射撃とも思えます。しかしながら、1つの素敵な時間の…つまり、素敵な1日の終わりをも予感させるような部分があったように私には思います。1章から2章までは、早朝から午前中にかけて、じわじわと太陽の高度が上がっていくワクワクがあり、3章序盤のアルバム「World Fragment Tour」では午後2時頃までの光り輝く1日を見ることができました。気温も最高潮に達し、心身ともに成長したオサカナちゃんたちの美しく、健康的な姿が非常に眩しいです。

まだまだ太陽は暑く、1日は終わりません。しかしながら、午後2時を回ると、少しずつ太陽の高度が下がり、影がその色を薄め、徐々に背を伸ばしていきます。玲ちゃんの卒業とともに、オサカナはそういったフェーズに知らず知らずのうちに足を踏み入れていったように思います。

「ささやかな祝祭」はアニメ「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」とのタイアップ曲です。

 

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これまでのオサカナには無い、「パーティ」チックな楽曲で聴いているだけで楽しくなります。別の作品で喩えるのはあまり褒められたものではありませんが、漫画「ONE PIECE」の1つのセクションが終わった後の宴会シーンのような趣がありますよね(ルフィが肉を食い、ゾロたちがお酒を浴びるように飲み、チョッパーが踊り…街全体が麦わらの一味と肩を組み、訪れた平和を心の底から楽しむ。そんな感じです)。ですが、最後の「ら・ら・ら♪」の合唱なんかは、どこかパーティの終焉を感じさせるような切なさがあり、そこが得も言えぬオサカナらしさ、つまり「ジュブナイル」を感じさせる場面でもあります。

これは本筋からは外れるところですが、この「ささやかな祝祭」の衣装とダンスがとても可愛くて好きなんですよね。曲名についても、「ささやか」という言葉がとても好きです。思いっきり楽しそうな曲なのに、「ささやか」なんです。メンバーの卒業というある意味悲しい出来事の後で、葛藤を内に抱えながらも、にっこり笑って見せるような。そんなちょっとした切なさが素敵です。

「乱反射の季節」はこれまでのオサカナらしい、ギター・ベース・ドラムというロックっぽさを前面に出した印象がある楽曲です。スティールパンの音色は軽やかで、楽曲を華やかに彩っており、メロディラインは透き通っていて美しいです。が、何といっても私は「ブルー、イエロー、オレンジ、グリーン」がこのシングルでは大好きですね。もともとMaison book girlが好きで、「ポエトリーリーディングって世界観強めのアイドルには良いな」と思っていたので、オサカナの「ポエトリーリーディング」というだけでとても心惹かれるものがありました。飾り過ぎない、淡々とした口調がオサカナちゃんたちの無垢さを際立たせ、どこか神聖さすら感じます。照井さんの詩がまた本当に冴えています。神秘的な側面と、とても生活感のある側面が融合しており、「ポストロック」と「ジュブナイル」の融合を達成するsora tob sakanaのコンセプトを体現する楽曲となっています。1つの代表作と言っても良いかもしれません。また完全なポエトリーリーディングではなく、一部合唱が入ることによって、その無垢なる神聖さは極限まで高められていますね。

この「無垢なる神聖さ」が4章にまでつながる架け橋を描いているように私は思います。

「流星の行方」は歌声を聴いていると、かなり甲高く、子供っぽい雰囲気があります。が、オケはフルートやバイオリン、ティンパニーなどのクラシック要素により壮大で荘厳な印象があります。ですが、終盤にはギター・ベース・ドラムといったロック要素も強く打ち出され、非常に豪華に仕上げられています。

flash」はハイコアガールとのコラボということで、ゲーム音のようなものも駆使され、「New Stranger」を彷彿とさせる部分もありますが、やはり壮大さがあり、重厚な物語を感じさせるものがあります。MVは光に溢れ、無垢なオサカナちゃんたちの姿は手が届きそうで、決して届かない神聖さに満たされ、触れるものを焼き切ってしまうような雰囲気さえ纏っているように思います。

 

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シングル「flash」には、「パレードがはじまる」、「踊り子たち」という難曲が入っております。特に「パレードがはじまる」の方は、イントロからAメロにかけてが激ムズで本当に「よくパフォーマンスできるなぁ」といった感じです。ラストツアーの東京公演では途中カウントが分からなくなって飛ばしてしまう場面も見られましたが、次のパートを歌う子が上手く挽回しており、そのミスを経ることでむしろ一体感が高まるような部分も見えたのが記憶に新しいです。しかし、あくまで音源の方は、迷いなど見られず、完全に楽曲の世界観を表現しきっているように感じられます。照井さんとオサカナちゃんたちで細密に作り上げる世界観には、凡人には足を踏み入れることのできない、秘密の合言葉があるように思えるほど。「踊り子たち」は「パレードがはじまる」に比べればずっとわかりやすい気もしますが、それでも「実際に歌ってみろ」と言われると、一緒になって口ずさむことすらままならない難解さがあります。7拍子の楽曲をさらっと歌い上げる姿には、やはり「パレードがはじまる」に共通して、そう易々とは近づけない神聖さを感じます。

「ブルー、イエロー、オレンジ、グリーン」はまだ辛うじて、過去のオサカナたちが持っていた「子供らしさ」を軸とした親しみやすい「ジュブナイル」というものがあったように思います。しかし、そこには「ジュブナイル」を突き詰めてきたsora tob sakanaの1つの到達点である「神聖さ」が漂い始めます。つまり、メンバーの卒業という苦境を乗り越え、同時に年齢的にももう大人へと足を踏み入れ始めた彼女たちは、もはや「子供ではない」次元へと足を踏み入れたわけです。このとき「子供らしさ」を軸に据えた「ジュブナイル」というものに縋り続けることができないという事実に気付くのです。「World Fragment Tour」の時点でもオサカナちゃんたちはもうかなりの大人にはなっていましたが、それでも女子高生らしい「青春感」がまだ「少女」というカテゴリーにぎりぎり指先を引っかけていたように思います。そのぎりぎりを切り取るように、「暇」や「ありふれた群青」、そして「WALK」という楽曲が生まれました。そして振り返ってみると、「ささやかな祝祭」に見たあの懐かしく切ない感じは、まさに「卒業式」の楽しさのように私には思えます。

「少女」らしさから生まれる「ジュブナイル」はここで潰(つい)え、sora tob sakanaは「ジュブナイル」の新しい軸を模索することになります。そのヒントとなったのが、「ブルー、イエロー、オレンジ、グリーン」で示唆された「神聖さ」だと私は思うのです。大仰な表現になりますが、1つ考えてみていただきたいことがあります。

Q. 天使は子供ですか?

全国チェーンの「サイゼリヤ」の壁や天井にはなんか天使の絵がやたらと描かれているイメージなんですが、その天使たちは赤ちゃんみたいな感じで描かれていた気がします。でも、その天使たちが外見の通り、赤ちゃんや子供たちと同じ知性ではないだろうということは、私だけでなく多くの人が無意識のうちに理解するところではないでしょうか。天使たちは確かに子供の様相を呈していますが、むしろ本当の人間の赤ちゃんのように完全に無知で無垢なる存在を守ることができる、知恵と神聖な力を有しているようなイメージがあります。

まぁ、急になんの話をしているんだ、という感じでしょうけれど、何かこの「流星の行方」辺りからのオサカナにはそういった天使の持つ神聖さが漂っているように思うのです。「少女」というステージから降りざるを得なくなった彼女たちが、踏み込んだ新しいステージは、何というか上述のような「天使」というイメージに近いもののように私には思えるのです。「少女」でもなく、「大人」でもない存在。それらの分類を超越したところから、「ジュブナイル」という世界観を作って行くのです。

再登場ではありますが、井上陽水の「少年時代」のように、人間臭い領域から少年期の美しい記憶を思い返す方法もまた「ジュブナイル」を描く1つの方法だと思います。しかし、そのためには「自己」を「少年期」から遠く離れた「大人」という位置に持っていく必要があります。つまり、「少年期」から離れれば離れるほど、「少年期」を省みることによる効果が高まり、「リアルタイム」性とは真逆の力による美しさが生まれるのです。

しかし、sora tob sakanaはそういった方針は取りませんでした。理由は色々とあるでしょう。照井さんのセンスがそっち方面ではなかった、とか。しかし、文章映えする言葉で1つ書き出すなら、彼女たちは「アイドル=偶像」という道を選んだんだと思います。つまり、オサカナちゃんたちは「ジュブナイル」の「象徴」になったのです。確かに、彼女たちはもう幼気な「少女」ではありません。しかし、幼気な「少女」が象徴する「無垢さ」を掬い上げ、凝縮し、それが放つ眩い光そのものとして…「神聖なジュブナイル」として自らを位置づけることになったのだと思います。

個人的には「ささやかな祝祭」より後の楽曲たちには、親しみやすさが減り、どこか近づきがたいものを感じるようになりました。1章の「Summer Plan」のように一緒になって「楽しい時間」を共有するわけでもなく、2章の「Lightpool」のように未来に期待を膨らませるでもなく、3章前半の「ありふれた群青」のように等身大な気持ちに切なくなるでもなく、ただただオサカナちゃんたちの崇高で神聖な無垢なる輝きに魅せられているというような感じが強いのです。言わば、人間らしい「共感」という部分がかなりの割合で排除されたような感じなのです。

オサカナちゃんたちはもう私たちの手の届かないところに、柔らかく神秘的なベールの向こう側へと、すぅっと移行していってしまった…というような表現が私個人的にはしっくりと来るのです。

 

・3章のまとめ~青春と遭遇する午後~

本当ならば、「ささやかな祝祭」くらいまでを3章としてまとめるべきでしたが、何となく「flash」までを3章にまとめ込みました。

序盤はまだ昼下がりのキラキラとした世界に好奇心を膨らませ、ちょっとお昼ごはんの後の心地良い眠気を感じたりしながら、「青春」という実に多義的な言葉の迷宮を漂っている感じがありました。様々な世界に触れ、新しい自分を発見し、人を想ったり、その想いを表現する力をつけたり、そういう風にして少女は青春を駆け抜けていきます。しかし、ややもすると白く光り輝く校庭には校舎の影が伸びていきます。空を駆ける雲がたまに町を覆ったりしながら、少しずつ陽は落ちていきます。涼しげな風がカーテンを揺らし、ちょっとした気怠さが心地良さになってみんなを包み込んでいく午後。

そして、訪れる放課後。ある子は彼氏と手を繋いで帰ったり、ある子は部活に励んだり、ある子は遅くまで教室に残ってだらだらとお喋りを続けたり。それぞれの生活とそれぞれの価値観の中で、ささやかな時間を過ごします。

すっかり日が暮れる頃、「ささやかな祝祭」を催し、きっちりと句点を打ってから、手を振り合ってみな家路につきます。

藍色の空に1番星が輝き、火照る身体の熱を冷ますように、夕暮時の冷ややかな風を感じます。ほんのりと心の底に孤独が訪れ、瞼を閉じると今日という長く、短かった1日が思い返されます。悲しいというのでもないのですが、どこか「今日が終わってしまうんだ」という感覚が付き纏い、それでもどちらかと言えば、こざっぱりとした気分に唆され、頬が緩むような感じ。もう自分は「ただの子供じゃないんだ」という感覚が芽生えます。

空の端っこに残る燃えるようなオレンジ色の光。でも、空はもうほとんど夜を迎え出している。小学生が縄跳びをやめて、家の中へと戻って行く。ドアの隙間から零れる温かく柔らかな灯り。私も帰らなくちゃ、と思いながら、もう一度空を見上げると空にはもういくつか星が浮かび、月が笑っている。なんて神秘的な景色。高台に登ると、夜景に染まりだす町の美しい光の海が見える。自分もそこへ同化していく…

 

と、とても煽情的でセンチメンタルな言葉を書き連ねてしまいましたが、そういった容赦のない時間の流れと、切ない一瞬の変化がこの辺りの時期にはありますね。

「knock!knock!」で世界の広がりを感じ、「暇」や「ありふれた群青」で等身大な自分を発見し、「ささやかな祝祭」というセレモニーを以って青春を駆け抜けました。別れもあり、少女からも脱却しなければなりません。「ブルー、イエロー、オレンジ、グリーン」では少女の目に神秘的な光景が映り、その神秘的な架け橋を渡るべく、駆けだした先に「流星の行方」や「flash」という楽曲たちがありました。

そして、終わりはもう目の前にまで迫っていたのです。

 

4.日没、消えて、また生まれる

・解散

2020年5月22日にsora tob sakanaの解散についての発表がありました。コロナウイルスによって世界が混乱している最中での発表でした。コロナウイルスによって人々の価値観や生活スタイルが大きく変わり、そこに上手くコミットして、自分たちの価値を維持し、あるいは高める人たちもいれば、混乱したまま自分の立ち位置を失ってしまう人たちもいましたね。

sora tob sakanaというプロジェクトの終了にコロナウイルスの影響がどの程度関与していたのか、私にはわかりかねますが、しかし個人的にはコロナウイルスとは関係なしに、ただ「来るべき時が来たのだ」という印象です。

既にこの記事はかなり独りよがりな雰囲気をぷんぷんと漂わせていますが、さらに私の独りよがりな解釈を話すのであれば、そもそものこのsora tob sakanaというプロジェクトのコンセプトには「少女性」というものがありました。「成長していく過程を応援してもらう」という部分に、照井さんの持つ「ジュブナイル」という感性を交え、その媒介者としての「少女」であるオサカナちゃんたちが配備されたのがグループの始まりです。「少女」という時間的な幅を持った観念があり、「少女」と「少女でないもの」の間には明確な境界線のようなものはないものの、確かにその2者は別物として存在しているのです。「ささやかな祝祭」より後では、「少女」という局面から脱却したオサカナちゃんたちが、持ち前の「神聖さ」を切り札にして、何とか「ジュブナイル」を演出してきましたが、それは太陽が沈んでからも空の端が白く光っている間ほどの一瞬しか効力を持ちえない、希少な魔法なのです。

ですから、sora tob sakanaという存在には「少女」という観念と同じように、どこかに時間軸上の終わりがあるはずでした。他のアイドルと同じように、ただそれがこの2020年という動乱の時期にやってきたというだけだと私には思えます。

※実際に「deep blue」付属のブックレットを読むと、コロナ以前から解散についての話し合いが為されていたと書いてはあるわけですが。

解散発表時のメンバーや照井さんのコメントを読むと、私の勝手な解釈がいかに独りよがりなものか思い知らされますが、しかし、sora tob sakanaというプロジェクトを、結末があり、1つのまとまりのある物語と考えたような場合には、ここがまさに幕引きのタイミングであったことに、少しだけ納得させられます。もちろん、唯一のものが終わってしまうことに対するとてつもない悲しさはあるのですが(解散発表後、まさに気持ちはディープ・ブルーでした…なんて冗談を言えるくらいには、状況を受け入れられるようになりましたが、そんな冗談を言ってしまうくらいにはまだまだ当惑しているというのが正直なところです)。

 

・日没

ラストアルバムの「deep blue」をこの「日没」という時間に対して割り当てたいと思います。まさに日没後の濃紺な夕闇を想起させられます。そして、「deep blue」という世界観を表明する「信号」という楽曲。

 

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sora tob sakana史上、最も神秘的で重厚な楽曲です。もはや「少女性」や「ジュブナイル」なんて感じさせないほどに。「deep blue」付属のブックレットでは、原点回帰や「らしさ」の進化という方向性ではなく、「いま感じていること、オサカナで表現したいこと」を念頭に作られた楽曲とのことです。歌詞にはコロナ禍での社会の状況を踏まえて心に芽生えたことを散りばめたそうですが、そんなことを感じさせないほどに、断片的かつ抽象的な言葉たちによって紡がれています。しかし、「呼び合う」や「そっと君の手を握って」という人間同士の、人間らしい繋がりを考えさせる言葉が多く、それがどこか人間社会を超越した存在からの愛や警告のようにも感じられます。楽曲のバックには人間の声をエディットしたような音が鳴っていますが、これもまた人間を超越した存在の人間には理解できない言葉のように感じられます。そういった世界や宇宙の意思のような、意味を失った声たちを、天使であるオサカナちゃんたちが翻訳して歌にしてくれているような雰囲気がありますね。

終始、古代文字のように解読が難しく、断片的な音像が積み重なっていくような雰囲気のある楽曲ですが、「風のない星を彷徨う♪」からの最後の短い展開は一気に親近感を感じさせ、悲しみに暮れる私たちに寄り添ってくれるようです。そして、終曲へと。

MVのラストのスマートフォンによる光の点滅はモールス信号になっているそうです。私はモールス信号を理解していない人間なので、本当かはわかりませんが、「ありがとう」という言葉を表しているそうです。

何というか、これまでのsora tob sakanaの歩みと照らし合わせると、ありきたりな喩えになってしまいますが、どこか「かぐや姫」のような展開を感じます。不可思議な因果によって神秘的な誕生をした少女が人間として成長し、そして大人になるタイミングでふっと月へと帰っていってしまう…みたいな。と、総じてこの「信号」を以って、sora tob sakanaという1つの物語は終焉を迎えます。原点回帰ではなく、「いまsora tob sakanaとして表現できるもの」を突き詰めた結果、今までにない表情や感慨を以って、きちんとした物語性のある終わりへと到達できたのは何よりも嬉しいことです。こんな素敵な楽曲での終幕を見ることのできる私たちはきっと幸福なんでしょうね。

 

・眠りの中で…

「deep blue」の再録曲たちですが、これについては各々での意味を見出す以外に何もできることはないでしょう。音楽的な話をするのであれば、単純にボーカルの再録ということでなく、楽器の再録やリアレンジも為されているそうです。過去の音源のイメージが強いため、少し慣れないところはあるかもしれませんが、全体として大人っぽく、豪華でありながらもマットな感触に仕上げられているように思います。

一般的に手に入る音源は、寺口夏花・風間玲マライカ・神﨑風花・山崎愛の4人時代からのものになります。途中、玲ちゃんの卒業があるのですが、今回再録された楽曲たちは全て4人時代の楽曲となります。故に、4人バージョンから3人バージョンという変化を楽しめます。が、決してそういった編成変更だけでなく、オサカナちゃんたちの声の変化を楽しむことができます。初期の頃と比べると、やはり声は大人びていますし、世界観の表現にもより深みが増しています。が、ここでも「やり過ぎない」というところが徹底されており、オサカナらしい「ジュブナイル」や「ノスタルジー」を存分に感じることができます。ただし、どうしたってもうあの頃のリアルタイム性のあるキラキラ感には届かないものがあります。

その届かなさを、今のリアルタイムな時間軸にいるオサカナちゃんたちと一緒に楽しむというのが、この再録曲たちのコンセプトだと思います。単純にオサカナちゃんたちの成長に感じ入るというのも正しい楽しみ方ではあります。けれど、こうして再録を行う意味を考えると、「やっぱりオサカナの曲って良いよね!」と再認識することが目的なんだと思います。言わば、「ライブ感」こそが得たいものだったのかな、と。

このラストアルバムには「ライブ映像」も「ライブ音源」も付いてきますが、それらとはちょっと違う「ライブ感」。言葉にするのは難しいですが、解散の前にもう一度、sora tob sakanaの素敵な楽曲群をレコーディングすることで、何か自分のやってきたことを確かめると同時に、今の自分を見つめ直したかったんじゃないかと。

 

3年間続けてきた部活の最後の練習日に、まだまだぺーぺーの頃に教えてもらった雑務をもう一度、気持ちを込めてやってみる…みたいな感じと言えば良いのでしょうか。

「入った当初はこんなくだらないこと意味があるのか」と思いながらも、それを3年間やり続けたことの痕跡は確かに自分の体には残っていて。今一度、その雑務を「これが最後」と思ってやってみると、不思議と感慨深く、楽しく素敵な部活生活だったと思い返せる。その雑務の意味を理解し、そして「かなり上手くできるようになったな。まぁ、慣れてしまって適当にやってしまう部分も増えたけど」という実感と同時に「結構、この雑務、好きだったかも」と思い直すような。

 

うまく伝えられませんが、ただ卒業アルバム作成のために古い写真を並べてみるのではなく、ずっと昔のことも割と最近のことも、「もう一度、今の自分の手で」やり直してみることの価値を確かめたかったんじゃないかと思います。

それは夢の中で過去を追体験するのと似ているかもしれません。私は過去に見た夢と同じような夢を見ることが結構あるのですが、不思議と完全に同じ夢というのではなく、過去に見た夢と同じような世界の中で、確かに過去とは違う今の自分があれやこれやと行動をしているのです。時に私は小学生に戻り、好きだった子と手を繋いだりもするのですけれど、私の心は今の私の心そのものなのです。だから、リアルな実感はありつつも、どこか既に懐かしくて、同時に幸福感もひとしおなのです。真面目に「夢なら覚めないで~」という感じです。

 

ラストアルバム「deep blue」で再録した理由や意味については確かなことは言えませんが、集大成と言うほど大仰なものではなく、本当に言葉では尽くせない上で書いたような、何か「実感」のようなものが欲しかったんじゃないかと私は思います。そこには少なからず、sora tob sakanaの楽曲はやっぱり本当に良いよね」という再認識への渇望があったのではないでしょうか。

長く、短い1日が終わり、夢の中でその1日を思い出す…あるいは追体験をする。幸福だったんだな、と改めて思う。

この記事では、そんな風に解釈をして、まとめたいと思います。

 

・死と生

自分でも適切な言葉が見つからず、困っているのですが、sora tob sakanaとしてのラストに据えられたのが「untie」という楽曲です。

 

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アルバムの中では「ribbon」からの流れとして「untie」なので、その意味を感じて欲しいとブックレットには書いてありました。「ribbon」がアイドルとしておめかしをして紐を結ぶ楽曲とするなら、「untie」はアイドルを終え、リボンの紐を緩め、解くことになろうかと思います。「解放」と言っても良いかもしれません。「解放」という言葉を聞くと、何らかの「抑圧」から自由になるというイメージを持つかもしれませんが、もう少し言葉の成り立ちの通り、「解(ほど)けて、放たれる」というのが私の中でのイメージです。

輪唱になっているのも、sora tob sakanaという1つの結び目だったオサカナちゃんたちが、ばらばらになり、各々自らの人生を進み始めることを示唆しているようにも感じられます。これもまた文字通りの「解散」であり、「解けて、散り散りになっていく」という意味を表しているように思います。そして、そうやって解けた後にも、時折声が重なったりと、そういうのも素敵ですよね。

 

こういう言葉を使うと、色々なところから反感を買いそうですが、この「untie」という楽曲にはなぜか私は「安らかな死」を感じます。「信号」が終わり、再録曲が始まった段階で、オサカナちゃんたちはもう深い眠りの中に誘われています。そして、とある瞬間、ふと目を覚まします。瞼を開けると、深い水色に染まった夜の部屋の中に自分1人きり。カーテンは開いているのですが、窓の外の町にはところどころ街灯の明かりが灯っているものの、ひと気というものが感じられません。どうやらこの世界には親も友達もいないみたいです。そうして、自分が既に死んでしまっていて、何かの拍子で別の世界にふっと吸い込まれるようにして、ここに来たのだということを悟ります。仮に輪廻というものがあるとするなら、ここは輪廻の狭間で、きっと神様たちが次の生まれ変わり先を考えている間の、仮住まいにいるんだろう。普通の人たちはおそらく、この仮住まいで目を覚ましたりはしないのだ。私はたぶん偶然、何らかの拍子で目を覚ましてしまい、この不思議な世界に過去の記憶と意識を保ったまま存在している。本当に静かな場所…けれど、そうこうしているうちに、少しずつ意識が薄れていく。たぶん私はこのまま瞼を閉じて、もう一度眠りにつく。そして、次に目を覚ますときは、過去のことはすっかり忘れてしまっていて、新しい命として新しい人生を歩むことになる。そういうことが不思議と手に取るようにわかる。また、あんな素敵な人生であれば良いけれど…

そんな風にして、死から生への眠りの中へと再び沈み込んでいくような、神秘的な雰囲気がこの「untie」にはあるように思います。

 

それは確かに「死」のような感触を持っているのですが、不思議と「生」の予感を孕んでいます。次に目を覚ますのは、またあの新しい朝の「おきろーーーーー!!!」という声かもしれません。連綿と続く時間や空間の中で、また長く、短い1日が始まり、それは泡のように膨らみ、弾け、消えて、そしてまた生まれていくのでしょう。

 

・4章のまとめ~日没、消えて、また生まれる~

ラストアルバム「deep blue」によって、sora tob sakanaの歴史は幕を閉じることになります。キラキラした朝から始まり、色とりどりな光に包まれた午前、そして柔らかく素敵な午後へと時間が流れていき、気がつけば日は沈み、町のささやかな灯り明滅に後押しされるようにして、眠りの中へと階段を降りていきます。

朝に生まれ、元気いっぱいの少女が少しずつ成長していき、陽が沈むころにはすっかり美しい大人になっているという不思議な1日ですが、それは長いけれど、とても短い1日でした。そして、素敵な1日でもあります。織り重なった時間は結び目となり、確かな感触を残しましたが、眠りについてしまうとそれは解け、すうっと消えていってしまいます。そんな淡く、美しい1日。でも、どうしてかすべてが無くなってしまったというのでもないようです。確かに、もうその1日は失われてしまったわけですが、しかしこれからも何かが生き続けていく予感…というか確信が私たちには残されています。

sora tob sakanaは終わってしまいますが、彼女たちが残したものは、これからも生き続けていきますし、何よりもオサカナちゃんたち自身がこれからも生きていってくれます。

 

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◆ 最後に…

sora tob sakanaが解散してしまうと決まった時は、本当に悲しく、朝までウイスキーを飲み続けました。ちょうど「凛として時雨」の長編記事を書き終え、「ミッドナイト・ゴスペル」の記事を書いている頃でしたかね。時雨の記事を書き終えたことでだいぶ燃え尽きていましたし、「ミッドナイト・ゴスペル」の入り組んだ死生観と向き合っている最中ということもあって、精神状態としてはちょっと異様な状況でのこのバッドニュースの知得だったわけです。

かなり塞ぎ込んだように思いますし、酔いに任せてとんでもない罵詈雑言だらけの記事を書いてしまいましたね(今は存在しません)。誰も読んでいないブログでよかった(笑)。

思いのほか精神的なダメージがでかく、1か月くらい経ったのちに、sora tob sakanaをモチーフにした自作の物語でも書いて自己療養に努めようと思ったのですが、やはり私には建設的に物語を組み立てる能力や意志が欠落しており、上手くはいきませんでした。代償として、この記事を書いたわけですが、もともとが自己療養を目的としたものなので随分と個人的な世界観について書き連ねたように思います。史実や分析に関係なく、私の抱えるイメージがかなりの分量でこの記事にはばらまかれていますが、あれらは私が自らの創作物の中に落とし込もうとしてできなかった残骸だと思っていただければ幸いです。

しかし、こうしてやはり書き出してみることで、私は随分と落ち着きを取り戻したように思います。いつの間にか解散まであと1週間というところまで来てしまいましたが。とは言え、比較的落ち着いた精神状態で解散に臨めそうで良かったです。

唯一心残りがあるとすれば、ライブに1回も行けなかったということです。

既に書いております通り、私はかなり後追いのファンで、「さて、そろそろライブに参戦せねば」と重い腰を上げようとしたところで、コロナの奴がやって来てしまいました。そして、出鼻を挫かれた段階で、追い打ちのように解散のニュース。そういった経緯もあって、余計に私は落ち込んでしまったわけです。自分が日程を合わせられる範囲で、いくつもライブの申し込みをしたのですが、どれも残念ながらチケットをゲットできず…かと言って、転売屋などから買うのも癪なので、もう配信に専念することに決めました。

そのようにして、私が決意を固めた頃に、会社から「異動」の内示が。この土地には2年ほどお世話になり、沢山の良い経験をさせてもらいました。他の記事で書いている通り、現在私は地方に配属されておりまして、次の異動ではコロナ真っ盛りの東京への配属と相成りました。地方で比較的伸び伸びとやって来たわけですが、これからは東京でのボロ雑巾のように酷使される未来が待っているわけです(勝手な想像ですけれどね。素敵な職場であることを願います。望み薄ですが)。

とは言え、sora tob sakanaの節目と、私の人生の1つの節目が比較的短いスパンでぽんぽんと訪れるというのは、何らかの意味があるのかもしれません。あくまで個人的に私の人生において。

喪失と再生について、この記事を書く中で色々と考え、感じました。私にとってもまた、長く、短い1日が終わるのでしょう。そして、また、長く、短い1日が始まるのでしょう。オサカナちゃんたちと照井さんが見せてくれた美しい世界を胸に、これからも死にたい私なりに死ぬまでは死んだように生きていきましょう。こうやって自己療養のために文章を書き連ねながら。