さて、sora tob sakana <World Fragment Tour>のレビュー、中盤戦に入りたいと思います。
*アルバムレビューは前半・中盤・後半の3つに分けてあります。
と言いながらも、まずは仕事の愚痴から。
前半戦を書き終わってからの仕事がまた過酷でして、朝8時からの勤務でそのまま17時まで働き、2時間ちょいの仮眠を取った後、また20時半から翌日の朝8時半までという勤務でした。最近はほとんどがこんなような勤務だったので、そろそろ身体が悲鳴を上げだしまして、睡眠不足⇒耳鳴り⇒肩こり⇒眩暈と症状が重なっていき、昨日はそんな過酷な夜勤明けの後、吐き気まで催しました。実際に嘔吐して、一発目は透明な水っぽい嘔吐物だったのですが、その1時間後は黄緑色の嘔吐物が(この色、初めて使いましたね)…何となくピッコロ大魔王の姿が頭に思い浮かび、それから不安に駆られてGoogle先生に診察してもらいました。調べたところによると、黄緑色の嘔吐物は「胆汁」らしく、なぜ「胆汁」なんかを吐くに至ったのかまではわからなかったものの、前述の隅眠不足等の症状から自分が「自律神経失調症」であることに気がつきました。
そんな感じで昨日は夜勤明けの間、「眠たいのに眠れない」、「起き上がれば眩暈」、「強烈な吐き気」にかなり苦しめられました。今日は変則的なお休みで、昨日のような症状はほとんどなく、だいぶリラックスできております。明日、明後日は夜勤のない普通の勤務なので、よかったよかった。
さて、昨日から今日にかけて自分を優しく包んでくれている「燃えない呪文」のレビューから入りたいと思います(仕事の愚痴と見せかけて、疲れてるアピール…と見せかけて、実はレビューへの導入でした。なんて、言いながらも、本当は黄緑色の嘔吐物が不安過ぎて、誰かに聞いてほしかっただけです笑)。
M5.燃えない呪文
こちらの楽曲も「M4.タイムトラベルして」に続いて、照井さんではなく、君島大空さんという外部の方の作詞・作曲となっております。正直、私は君島大空さんを存じ上げておらず、この機会にYouTubeで調べて数曲聴いてみました。
サイケデリックな曲調の中にも、「燃えない呪文」に通じるような柔らかい触り心地を感じます。
こちらはライブ映像ですが、より「燃えない呪文」に近い優しい音像です。泣いている赤ちゃんが次第に泣き止んでいきます。そんな柔らかさ(そして、何よりもギター上手過ぎ! 「タイムトラベルして」作曲の大二朗さんもめちゃくちゃ上手でしたが、君島さんはどちらかと言えばクラシックギターの上手さですね)。
前述のような体調不良に苦しんでいた昨日の私を慰めてくれた「燃えない呪文」。そこからちょっと復活して、病み上がりの気怠さに寄り添ってくれる「燃えない呪文」。君島さんの楽曲からは、共通してどこか「治癒力」のようなものを感じます。
さて、ここからはちゃんと「燃えない呪文」自体のレビューをしたいと思います。
ブックレットのインタビューによると、君島さんはオサカナの「夜空を全部」の世界観と地続きなものを作りたかったらしく、確かに楽曲のテーマは「夢の世界を信じている少女」というところにあるように感じました。対比して言うなら、「夜空を全部」は「好奇心」や「焦燥感」というものがベースにあり、この「燃えない呪文」は「儚さ」や「懐古心」というものがベースにあるように思います。音像がロー・ファイなところもそのような「懐かしさ」を増強していますね。
君島さんは上の参考動画にもあるように、とても上手にギターを弾きますが、「燃えない呪文」にはとくにギターを使っている感じはありません。特徴的なのは、管楽器を複数使っているところでしょう(私は管楽器に疎いので楽器の種類まではわかりませんが、ブラスのような温かい音とフルートのような澄んだ音がとてもバランスよく絡み合っています)。あとは基本的には、ドラム、ベース、ピアノというシンプルな構成です。音像は厚く、聴きごたえはありますが、リズム的な余白が多く、ゆったりとした心持で聴くことができる上質な子守歌のような楽曲となっています。あと、別に改めて書く必要もないと思いますが、3拍子の楽曲です。
歌詞の世界観は上述の通り、「儚さ」・「懐古心」というところにありそうです。
ブックレットのインタビューで君島さんは「15歳くらいのときの気持ちを思い出して書いた」と答えていましたが、個人的には「15歳の気持ちをそのまま書いた」というよりは、「現在の君島さんが15歳を振り返って書いた」という感じを強く受けました。つまり、英文法で言えば、「燃えない呪文」は「間接話法」・「過去分詞形」のようなニュアンスが強いです。対して、君島さんが参考にした「夜空を全部」は、照井さんが「15歳らしい夢見る感じ」をキラキラと描いており、英文法で言うところの「直接話法」・「進行形」みたいなニュアンスがありました。この辺りの関係性も含めて聴き比べると、楽曲をより楽しめると思います。
また、この楽曲単体で言えば、マジック・アワー(青と赤が混じり合った夕焼け)感を感じます。夕暮れ時の、子供がそれぞれ家に帰っていくあの寂しくも、また次の日を楽しみにする感じ。君島さんは当初、この「燃えない呪文」を「呪いの曲」と呼んでいたようですが、それは、そんな幼い頃の美しさ=イノセンスへの憧憬があったからでしょう。既に失ってしまったものだからこそ、そこに憧憬という想いが生じるはずです。そういう意味で、「呪い」なのであり、照井さんもこの楽曲のそんな「毒気」を評価していました。
ある日の午後ニューヨークの街灯がともり、車の駐車燈がともり始めるーある車は燈(ひ)をつけ、ある車はまだつけていないといった頃ー そんな午後のかすかに感傷的な十五分間、わたしはアイラ・ヤンカウァーという少年とわが家のアパートのカンバス地の日よけの向かいの歩道の端でビー玉遊びをしていた。-(中略)-あの魔法のような十五分間にはビー玉遊びで負けても、それはただビー玉を失くしたというだけのことなのだ。
1枚の写真と、ある小説の中の1節。これらが私が辛うじて提示できる「燃えない呪文」の空気感です。私の提示できるものだけでは、本当に重要なことは伝わらないでしょうから、ぜひご自分で一聴していただければと思います。
最後に、アルバム<World Fragment Tour>における「燃えない呪文」の立ち位置について簡単にまとめてみます。
ブックレットの中の照井さんの楽曲紹介では、「燃えない呪文」の持つ「異世界感」がアルバムのコンセプトとなる「ツアー」という言葉を引き出したそうです。確かに、アルバムの中でも随一の重厚な空気感を持っている「燃えない呪文」。これまでのsora tob sakanaの楽曲はどちらかと言えば、緻密でありながらも軽やかさを持っている楽曲が多かったように思います。汚れない純白さ。それが、どこか手の届かないところへ軽やかに飛んでいけるキラキラとした力を感じさせてくれていました。対して、この「燃えない呪文」という楽曲は、「手の届かない場所」を目指すという方向性は同じでありながらも、「手の届かなさ」を強く表現しているところが、これまでのオサカナらしくもあり、オサカナらしくないという部分を表現しているという風に感じました。この「異色さ」が、1つの同じ枠組み=パッケージでありながらも、次々と異なる世界を回っていく「ツアー」という言葉を引き出したのだと思います。
※素晴らしいライブ映像が公開されましたので、後付けさせていただきます。
オサカナたちの優しい声。そして、君島さんの素晴らしいギターテクニック。酔い痴れます。
M6.嘘つき達に暇はない
この楽曲は正直、レビューしたくない楽曲です。というのも、あきらかに様々な音楽的特徴・コンセプトがあるにもかかわらず、私の浅はかな音楽知識では、それを理解し、言語化することができないからです。なので、かなり的外れなレビューになってしまうと思いますが、どうかご容赦を(自分の愚かさを露呈することはなかなか辛いことであります)。
まずは、楽曲の構成ですが、
「Intro⇒A1⇒間奏⇒A2⇒B⇒サビ⇒間奏⇒A1⇒B⇒サビ⇒C⇒(サビ)⇒大サビ⇒outro⇒intro」
とでも簡略的に書き表すことができますでしょうか。
構成自体は比較的J-POP的なわかりやすい流れとなっております。
「サビ」・「Cメロ」・「大サビ」は5拍子となっており、それ以外は基本的にはシャッフルビート(*後で説明します)の4拍子です。
まずは、「Intro」と「Aメロ1」、それから「Aメロ2」のリズムについて説明します。例の如く、PC素人丸出しのExcel技術で申し訳ございません。
「Intro」ですが、最初はギターを基本としたビートしかなく、それがご覧のように「表・裏」と行ったり来たりするようなリズムになっているため、リズムにノるのが難しくなっています。そのノリにくいリズムのまま「Aメロ1」に入っていきます。が、ここでいきなり「Aメロ1」を説明するとこんがらがりますので、先に「Aメロ2」の説明に入ります。
「Aメロ2」は何も考えなければ、1拍の頭に強いビートがある、よくある「四つ打ち」的なリズムになっています。しかし、音楽に乗ろうとするとわかると思いますが、ただの「四つ打ち」ではなく、どこか跳ねるような感じがあると思います。その正体が「シャッフルビート」と呼ばれるリズムです。簡単に言えば、1拍を3分割して、その3分割した1番目と3番目にビートを感じるリズムのことで、「Aメロ」に「シャッフル」という行を書いていると思いますが、そこの「・」を感じるリズムのことです。日本の昔ながらの「ちゃんか、ちゃんか、ちゃんか、ちゃんか」みたいなお囃子のリズムもシャッフルビートですね。
「Aメロ」の歌唱パートはこのシャッフルビートを活用したメロディとなっています。(「シャッフル」の「・」の位置に、「歌」のメロディがうまくハマっているのが表を見ればわかると思います)。このおかげで、どこか陽気で跳ねるような雰囲気が生まれています。私は、シャッフルビートって好きですね。以前、バズマザーズというバンドの「Goodbye my JAM」という曲のレビューでも、いかに私がシャッフルビートが好きかと言うことを語っているので、ここでは割愛させていただきます。ちなみに「Aメロ2」の7拍目のドラムに、シャッフルビートがちょこっと顔を出しています(おそらく、です。私はあまり耳が良くないので聴き分けられないのです)。
そのように「Aメロ」のビートがシャッフルであることを理解した上で、再度「Aメロ1」に戻ります。先に紹介した「Intro」の「表・裏」のリズムと「シャッフルビート」が混合されたようなポリリズム(複数のリズムの組合せ)によって「Aメロ1」が構成されていることがわかると思います。
なお、この「Aメロ2」のような「四つ打ち」感と「シャッフルビート」感を融合させると、何となくロカビリーっぽくなる気が(個人的に)しています。
どうでしょう? 何となくこの「嘘つき達に暇はない」の「Aメロ2」のノリってロカビリーっぽくないですかね。私の頭がおかしいのでしょうか。
さて、そんな感じで「Aメロ」が終わるとJ-POPらしく「Bメロ」に入っていきますが、「Bメロ」は「8ビート×シャッフルビート」のようになり、「Aメロ」よりも少しノリやすくなります。
*「Aメロ」の「四つ打ち」を言葉で表記すれば「ドン・ドン・ドン・ドン」となり、「Bメロ」の「8ビート」を言葉で表記すれば「ドン・タッ・ドン・タッ」となります。「Aメロ」の偶数拍の「ドン」が、「Bメロ」では「タッ」に変わったことで、よりJ-POPやJ-ROCKっぽくなり、耳馴染のするものになっています。
「Aメロ」と「Bメロ」を通して、シャッフルビートの跳ねるようなニュアンスは続いていますが、「四つ打ち」と「8ビート」というビートの変換があることで印象が変わります。また、「Bメロ」ではベースの音階が目まぐるしく移動するので、コード感も生まれてより耳馴染するようになり、楽曲全体の中でも1番聴いていて心地良いパートとなっています。
そして、「Bメロ」の後は「サビ」がやってきます。
「え? これがサビでいいの?」と不安になる「らーらーらららーらー♪」と合唱するだけの「サビ」です。しかしながら、リズムは「5拍子」と捉えにくい。せっかく「ららら♪」合唱でわかりやすいはずなのに、リズムが5拍子だからノリにくい。照井さんのあまのじゃくな一面を感じさせますね。
その後、間奏を挟み、またJ-POP的に「A⇒B⇒サビ」と繰り返されます。2回目のサビが終わった後は、間奏が無くそのまま「Cメロ」に入ります。この「Cメロ」も曲者なのですが、もはや説明するのが面倒になってきたので、「5拍子であり、AメロからBメロへ移行するときのビート減+メロディアスなベースラインによるノリやすさ向上」が組み合わされていると簡単に紹介しておきます。ライド・シンバル(「カン・カン」という音)が裏の偶数拍で鳴らされているところもニクいところですね。
そんな「Cメロ」についてよりも私にはもう少し紹介したいところがあります。それは「C⇒(サビ)⇒大サビ」という構成です。テクニカルなところは「(サビ)」のところ。なぜ( )を使ったのかというと、これまで「サビ」として無理やり機能させてきた「ららら♪」合唱が、ここではほとんど「間奏」として機能しているからです。<World Fragment Tour>のレビュー(前半)で「M2.knock! knock!」のレビューを行いましたが、「knock! knock!」では「間奏」がまるで「サビ」みたいな強い印象を与えていました。それが、この「嘘つき達に暇はない」では逆に「サビ」が「間奏」に変貌しています。まぁ、もちろん「ららら♪」合唱の音量を減らして、楽器を前面に押し出すことでより「間奏」っぽく聴こえるようにしたり、という配慮もあってのことですが。
さて、これにて「え? これがサビでいいの?」という複線を回収できたかと思います。
そのようにして入り組んだ構造の最後を飾るのは、まだ見ぬ「大サビ」です。ここでまた新しいメロディが出てくるか、と感心してしまいますね。正直、わかりやすく盛り上がるメロディラインではないと思いますが、オサカナらしくキラキラしていて儚いメロディラインとなっています。
やや理屈っぽいレビューになりましたが、最後にこの「嘘つき達に暇はない」の曲想について、個人的な見解をば。
あえて歌詞を紹介するようなことはしませんが、「退屈な日常でも、刺激的なマジックでカラフルに変えてやるぜ!」という感じの楽曲です。
「嘘」で今日も世界を楽しくしてやっている、あぁ、忙しい。
曲名には「嘘」とありますが、「嘘」は「手品」や「フィクション」と読み換えることができるでしょう。豪華客船の中で繰り広げられる楽し気なショー、という雰囲気を私は感じました。トリックスター的な楽曲の構成とも合致していますね。ブックレットの照井さんによる楽曲紹介でも、「明るく、風通しが良く、盛り上がれる曲」とあったので、おそらく私がこの楽曲から受けている印象もそこまで間違っていないように思います。
M7.暇
「嘘つき達に暇はない」という楽曲の後に現れるのが、この「暇」という楽曲。歌詞という歌詞もなく、オサカナたちが「あー、ひま」と言ったり、テレビの中から音楽(「嘘つき達に暇はない」、「Lightpool」、「knock! knock!」)が聞こえてきたり、本当に「暇だから適当なことを口走っている」といった感じの楽曲です。アルバムの中の心地良い緩衝地帯として機能していますね。
面白いのは、前曲で「嘘つき達=煌めくフィクションを生み出すオサカナ達、には暇がない。あぁ、忙しい」と歌っているのに、ここではそんなオサカナ達が「ひま」と連呼していることです。つまり、ここではオサカナたちは普通のその辺の女の子であり、アイドルなんて「テレビの向こうの存在(テレビ越しに聴こえてくるsora tob sakanaの楽曲)」でしかない、というわけです。このメタ構造が素晴らしい。
「M3.FASHION」もアイドル=偶像のファッション性について言及するような楽曲でしたが、この<World Fragment Tour>というアルバムを通して、照井さんが「アイドルとは何なのか?」という問いの答を作品の中で模索しているような感じを受けます。
なぜ、いま「アイドルとは何なのか?」という疑問が湧いてきたのか。
それは、照井さんが自らの世界観を「アイドル仕様」に落とし込むという、これまでのsora tob sakanaのプロデュース方法から抜け出そうとしていることが関係していると思われます。 アルバムのレビュー(前半)の「アルバムの概要」でも述べましたが、今作は「世界観」から「メンバー」を軸とする転換が図られています。つまり、オサカナたちのパフォーマーとしてのスキル・個性が成育してきたからこそ、「アイドルとしてのオサカナたち」を切り取るための楽曲が、今回のアルバムでは製作されているわけです。
この「暇」という楽曲も、「アイドルでないオサカナたち」を切り取ることで、結果的に「アイドルとは何か?」、「sora tob sakanaとは何か?」ということの考察を深めているように思います。
M8.ありふれた群青
この楽曲に関しては、ブックレット内にある照井さん本人による楽曲紹介をご覧になれば、それで十分だと思います。
◇ブックレットの楽曲紹介のとても簡単なまとめ
オサカナたち、メンバーの個性を引き出すための、ありふれた恋を描くシンプルな楽曲。すべてがソロパート。そんな曲が、この<World Fragment Tour>というアルバムの中で、最初に生まれた楽曲。アルバムのコンセプトを端的に述べています。
さて、個人的な意見を付け加えるとすれば、「M6~8」までのこの楽曲の流れが、アルバム構成上、非常に秀逸だということくらいです。「ありふれた群青=青春」という曲名の通り、この楽曲ではオサカナ達は、アイドルではなく普通の女の子です。もちろん、こうやって歌というパフォーマンスをしている時点で、彼女たちはアイドルなわけですが。
「M6.嘘つき達に暇はない」は「私たちはアイドル! みんな楽しんで!(あぁ、忙しい、忙しい)」というオサカナたちが自分たちを「アイドル」として認識している楽曲です。「暇はない」という曲名が、「アイドル」を「職業」として捉えているようにすら思わせます。
「M7.暇」は「あぁ、今日もひま(…テレビからは遠い世界にいるアイドルの音楽)」と、オサカナたちは意図的に普通の女の子として描かれています。しかしながら、ここでは、オサカナ達は自らがパフォーマンスをしているという自覚さえありません。
「M8.ありふれた群青」は、オサカナ達は自分たちがパフォーマーとして登場していることを自覚しながらも、歌っている内容はアイドルらしいキラキラしたものではなく、どこまでも平凡で日常的なもの。普通の女の子の歌。M6は「過剰なアイドル演出」、M7は「過剰な普通の女の子演出」が曲のコンセプトになっている一方、このM8は「アイドル」と「普通の女の子」の境界線が非常にあいまいです。できる限り飾らない普段の自分で、歌をうたうこと。それだけがコンセプトであり、「パフォーマンスをしているんだからアイドルと言えばアイドル」ですが、「飾らず素朴に歌っているのだからアイドルというよりは普通の女の子」とも取ることができましょう。「M8.ありふれた群青」はそんな「あいまいさ」を楽しむ楽曲だと私は思います。
そんなアイドルを様々な視点から切り取るこのM6~8までの流れは、アルバムの骨格となり、「世界旅行」のコンセプトが「アイドル性の探求」にあることを示唆しています。
最後に…
冒頭でも「中盤」になってしまったことのお詫びをしましたが、ここでも再度お詫びをさせていただきます。毎度々々、だらだらと長くなってしまって申し訳ございません…
どうしてもレビューを書いている間に楽しくなってしまい、文章が長くなってしまうんですよね。今日もおよそ4時間近くこの記事の執筆にあてているわけですが、いい加減疲れてきました。よって、この辺りで一区切りをつけて、次回の「後半戦」で本アルバムとの最終戦に備えようと思います。
心身ともにキツい今日この頃ではありますが、こうやって寸暇を見つけて、音楽と向き合っている時間だけが私の救いとなっています。ありがとう、アーティストたち。ありがとう、アイドルたち。
※2020年9月6日を以ってsora tob sakanaの解散が決まりました。
この記事を書いているときから、本格的にオサカナのことが好きになったわけですが、本当に稀有な存在である彼女たちの作品がもう見られなくなるのかと思うのと、とても寂しいです。そんな苦しみを紛らわせるために、オサカナの紡いできた時間を自分なりに総括するために、活動をまとめるような記事を書きました。
よろしければこちらも読んでいただければと思います。