霏々

音楽や小説など

七夕/青い薔薇/空港にて

 今日は七夕。舞台の上で歌い踊るRの姿を観るために、私は空港近くの劇場までやって来た。空港は目と鼻の先という具合だったが、どうしてか鈍色の空を滑る羽はずっと遠くに感じられた。Rのことは14歳ないし、15歳くらいのときから見ている。しかし、私と彼女の距離が縮まったことは一度としてない。先ほど見上げた飛行機が私とは関係のない世界をずっと飛び続けているように、私はいつだって舞台の下から見上げるばかりである。

七夕、空港にて

 Rは肝の据わった新人として、まず私の瞳の中に飛び込んできた。初めての大舞台でがちがちに緊張しきっている同期とは対照的に、「楽しいよ、笑おう」と舞台裏を駆け回っているような子だ。今日の舞台上の挨拶で、Rは「私も本当は自信なんてない。でも、私には自信があるんだと自分に言い聞かせて来たし、その自分の言葉に説得力を持たせるために努力も積み重ねてきた」とマイクに視線を注ぎながら言っていた。

「辛いとき、苦しいとき、がんばれないとき。私にだってある。でも、その苦しみの果てに、私には芸術があると思っている。心を失った芸術はつまらないわ。だから苦しみにも耐えようと思う。皆も苦しいときに、それに耐えるための『何か』を心の内に持っておいてほしい。そして、そういう『何か』の1つに私がいたら…皆が苦しいとき、私=Rちゃんもがんばってるはず、って思ってくれたら嬉しい」。

 彼女は感性が豊かで繊細。だから人一倍傷つきやすいし、自分や世界に失望して身動きが取れなくなることがあるのも私たちは知っている。しかし、それは決して弱さなんかではなく、人間としての強さの正しい在り方だと私なんかは思う。私たちが彼女に魅了される理由は人それぞれに色々とあるにせよ、しかし、共通して彼女のその弱さをも受け止める「強さ」に惚れている。

 

 15歳くらいの頃、Rは言わば早熟の天才「アンファン・テリブル」として舞台上で私たちを驚愕させた。単純な技術ももちろん目を見張るところがあったけれど、やはり何と言っても舞台度胸。そこに私は射貫かれた。けれど、ただ彼女が無神経な怖いもの知らずであったなら、私たちはそこまで彼女に惹かれたりしなかっただろう。現に、私が最も嫌いなタイプの1つに、「厚顔無恥」という属性がある。ただ声だけが大きく、行間に人間らしい色気を忍ばせられないタイプは見るに堪えない。

 女の涙を見たいという性癖はないにせよ、泣くつもりがなかったのに感極まって泣いてしまう姿なんかにはやはり心揺さぶられるものがある。Rはあまり泣くタイプではないにせよ、何度か言葉や歌詞を詰まらせた姿を見たことがある。Rには深く豊かで繊細な感性があり、それが時に彼女の涙腺の制御を狂わせる。最初からそういう姿を見て来たわけではない。しかし、舞台上で破天荒な振る舞いを見せながらも、舞台裏で震える同期に優しく前向きな言葉をかけていることは昔から知っている。そういう「人の心を知る優しさ」は歌唱などからも滲み出て来て、私たちの固い心の扉にぶら下がるベルを小さく鳴らしたりする。

 初舞台から数年したくらいからだろうか。彼女は変声期で思うように歌うことができなくなり、さらにそこにペストの類の大禍が追い打ちをかけ、17,18歳くらいの多感な時期を分厚い雲が覆ってしまった。それでも彼女はいつだって健気に努力を積み重ねてきたし、私はRばかりを見ていたから、注意深く歌う時期も、大胆に歌う時期も、リズムを突き詰める時期も、1つひとつの工夫や試行を重ねる姿が記憶に刻まれている。それでもおそらくは彼女の中で自分の声帯というものが理想とは程遠いという認識を持っているだろう。殊、発声という側面で言えば、初舞台でがちがちに緊張していた同期の方が恵まれたものを持っている。そんな同期に憧れ、刺激は受けれども、決して妬んだり僻んだりはしないのがRの品のあるところである。

 上品にしろ下品にしろ「品」というのは重要で、自分を律して立ち居振る舞いを操り演出するというのは「品のある」行動である。「品がない」というのと「下品」を同じものとして考える人もおられるだろうが、「品がない」というのは自分を律することができず、相手にどう見られるのかの演出ができないことである。例えば、ふざけて奇声を上げてみたりするのは「下品」かもしれないが、それを見て大多数が嫌悪感を抱くのではなく、「変わった面白い子ね」となればそれは演出に成功しているのであり、「品がない」という状態とはまた違う。先ほど私は「厚顔無恥」という言葉を使ったが、言ってみれば、他者を省みない「品がない」方向での「厚顔無恥」が嫌いなのであって、あえて身の程知らずな振る舞いをして見せる「厚顔無恥」というのは「下品」だけれど「品があって」魅力的とすら言える。

 Rという子は常に「相手がどう思うか」というところに気を回せるし、そのうえで「自分がどう振舞うべきか」という自制もよく効く。一口に豪胆と言い表せるような舞台度胸についても、見方を変えれば「自制」の表出であり、ただガキ大将的な豪胆さというのは別に魅力的には映らない。だいたいガキ大将なんてものは大概が小心者であるし。数珠繋ぎのように面倒だけれど、その気を回したり自制をする能力がまさに「品」であると思うので、私はつまるところRの「品があるところ」に最も惚れているのかもしれない。

 

 七夕に開催された彼女の生誕祭は、多種多様な演目が用意されていた。ジャズやロック、ファンクにダンスミュージック。セクションごとに自分が好きだと思える楽曲たちを選び、Rらしい舞台が繰り広げられていく。去年も一昨年も、私は彼女の生誕祭に参加させていただいている。運良く抽選も当たり続け、ご相伴に預かることができている。これは何も私の籤運が優れているのではない。昨今彼女が所属するグループが多くの新規ファンを獲得し始めてもなお私が当選できているのは、毎年劇場を大きいものに更新し続けているRの努力に他ならない。

 しかし、彼女のファンが増えるのは至極当然のことであり、毎年彼女の生誕祭に足を運ぶ度にRの進化というのを目の当たりにしている。何十曲と常人では考えられないほどの楽曲に挑戦した年もあれば、自らの師に対して課題曲を指定してもらった年もあった。自分にいま足りないものは何か。自分はいま何がしたくて、何をすればさらに成長できるのだろう。そういうことを考え続けている人間がやるであろうことを彼女はすべてやって来た。

 今年の舞台がどのようなものになるのかは私にも想像がついていなかった。しかし、ある意味では期待を裏切られることはなく、想像どおり、いや想像以上の感嘆が私の胸の内には残されている。それまでどう向き合ってよいか彼女自身も思い悩んでいた自らの声帯とも一種の和解を取り付けたようだった。挨拶の中では「好きとか嫌いとかに関わらず、自分はこの楽器(=声帯)を使って、皆に感動を届けるしかない」ということを言っていた。技術的な課題の克服があったことは当然として、しかしながら、精神面での一定の割り切りみたいなのもあったことが伺えた。

 彼女の声は自然に出ていたし、彼女の同期ほどの音色の煌びやかさというのがあるわけではないせよ、渋く味わい深い響き方をしていた。強弱、濃淡、甘さや苦さ、軽やかさや重さ、優しさや厳しさなど。どのチャネルにおいても自由自在に自らの歌声を操れており、その完成度は例年の比ではなかった。楽曲の持つ世界観と、それに加えて自分という人間がそれをどう表現するべきか、心や感性といった部分に加え、シンプルに自分という楽器をどう使うべきかまで心得ているRはまさに表現者と言って差し支えないほどに芸達者であった。

 踊りという側面でも彼女は、傑出した才能を持っている。というか、単純に「リズム感」が良過ぎるのである。まず彼女は指定された速さで机を叩く。それは正確無比で無駄がなく、縒れたりもしない。そういう基本的な技術がある。そのうえで何かメロディあるいは伴奏なんかを付けてやれば、Rはそれに適した一打の強弱や長短を変化させ、リズムにうねりを齎すことができる。そういう即興性も持ち合わせている。そして何と言っても彼女は耳が良く、勘も冴えている。現代音楽の複雑な音の交わり、リズムの組み合わせにおいても、彼女が煌めく1音を聴き逃すことはまずなく、「ここぞ」というタイミングで音を体で表現することができる。彼女の踊りを通して、私たちが聴き漏らしていた音楽を目で観ることができる。そういう才能がRには備わっている。

 しかし、今回の舞台では彼女はその踊りを派手に見せびらかしたりはしなかった。音楽に合わせ、軽く首を振ってみたり、まるで準備運動しているかのように気怠そうにリズムに体を揺らす姿からは、場を支配する圧倒的な力量というものを感じた。Rが身体操作性に優れ、一流のモデルや俳優のように一片の気味悪さみたいなのも感じさせない、限りなく洗練された立ち居振る舞いができることは知っている。激しく体を動かし、全身で音楽を表現できることも知っている。しかし、今回の舞台ではほんの僅かな顎の角度変化、一瞬のマイクの持ち替え、それらがすべてRの持つ音楽的センスの体現であった。楽曲が盛り上がってくると瞬間的にいつもの彼女の熱い踊りも観ることができる。しかし、それは「踊り」と区別されるものではなく、歌声や感情も全てを含めて、1つに統合されたまごうことなき「表現」であった。

 これを観て、私はRが表現者として分水嶺を越えたことを目の当たりにした。かつてのR然り、大抵の子らが「歌」と「踊り」を組み合わせることで「表現」を成立させようとする。それは芸を極める過程で誰もが通る道であろうから否定するつもりはない。しかし、本物の芸をするためにはそこを離れ、「表現」を成立させる手段として「歌」と「踊り」を利用することが必要になる。いや、これでも足りない。そこから更に突き詰めていけば、「自分が持つ世界を表現」する手段として、これら枝葉末節の技術を道具として用いているだけに過ぎないという領域に達する。まだまだこの道は長く遠くまで続いているものの、Rは確実にこの領域に足を踏み入れただろう。

 本日は七夕の生誕祭にて、Rの演者としての格が上がったことを確かにこの目で観たことはここに記録しておこうと思う。

 

 とは言え、私はこんなことを書くために夜更かししているわけではない。核心に触れる前に、最近観た映画について少し話す。玩具の冒険譚を描くこの作品は、私が幼い頃から幾度にも渡り新作が公開されて来た連作であり、先日その最新作が公開された。熱心に追っていたわけではないけれど、まず大抵の一般家庭において育っていれば、何度かは目にしたことがあり、私なんかは「一緒に成長してきた」と言っても差し支えない。

 物語の最初のコンセプトは、人形などの玩具が人間の目に届かないところでは、活き活きと人間みたいに動き回っているという単純なものであった。人間に見られそうになったら動きを止め、みたいな想像が容易な茶番に子どもは笑うし、そういう制約がある中で人形たちが色々な問題に巻き込まれていくという筋書きは普通に見ていて楽しいものである。しかし、私が大学に進学し、独り暮らしを始めた頃に公開された当時の最新作は少し力点がずらされていた。もちろんてんやわんやの冒険譚というところが主題ではあるのだが、人形の持ち主もまた私のように成長し、そして玩具を必要としなくなってしまう。人形たちは成長してしまった持ち主に対して不安や失望を覚えたりするのだが、最終的には様々な冒険を経て、また持ち主のもとへ戻って来る。そして戻って来た末に、玩具たちは成長した元の持ち主から、次の幼い持ち主のもとへと引き継がれていく。最後の場面では、車に乗って遠ざかる青年を女の子の手元から見送るのだが、これが非常に感涙を誘う。

 私とRたち偶像の関係はこれを裏っ返したようなものだ。私たちはずっとここで光り輝く舞台を見上げ続ける。しかし、彼女らは時とともに成長していき、そして時とともにこの舞台から去って行く。別の舞台に行く者もいれば、そもそも舞台から降りる者もいる。いずれにせよ、私たちが彼女らを見つめることができるのはほんの僅かな期間だけである。彼女たちはどうしたって大人になってゆく。それを止めることはできない。

 玩具たちの冒険譚は、回を追うごとに「自分たち玩具の役割」というのを少しずつ明確化してきており、それが1つのテーマとなっている。未だにこれらの連作は子供向けではあるのだが、初回のとき子供だった私たちも大人になり、そして自らの子供を連れて最新回を観に来るということが起こっている。なので、子供たちは玩具たちの喜劇的な冒険譚に笑い、胸を躍らせ楽しんでいるが、大人たちは自らの幼少期を思い出したりしつつ、同時に自らが大人として社会において役割を担うようになってきたことに対する使命感のようなものを玩具たちの中に見出す。

 玩具は玩具として子供たちを喜ばせ、健やかな成長に手を添えてやらなければならない。いずれ大人になり、自分たちが捨てられるとわかっていても、しかしそれが玩具の宿命であるとして、全力で子供たちを助けるために動く。その健気な振る舞い、そして逃れられぬ運命をどうにかこうにか受容していく背中に、何か強く共感する想いを感じる。

 私たちが玩具らのように愛らしいかはさておき、やっていることはだいたいがこれである。私たちは彼女らに歌って踊ってもらい、とても楽しい。最高の気分だ。そして、彼女らの成長を見つけるととても嬉しくなる。自分が何かをしてあげたわけでなくとも、それでも彼女らの成長が嬉しいのである。歌や踊りが上手になることだけじゃない。人間の持ちうる複雑な感情を発見し、それを表現する術を身に付けるのもそうであるし、また仲間との関わり合い方から見えてくる精神的な成長もまた私たちの好物であろう。しかし、彼女らの成長を一生見守ることはできない。およそ25歳ほどの年齢までを見届けたら、彼女らの多くは私たちの元から去って行ってしまう。一定数、彼女らを追いかけていく者もいるが、大多数がこの場に留まったまま、彼女らを涙とともに見送る。理由を説明するのは難しいが、何故か誇らしい気持ちになったりしたまま。

 今日、Rは確かに大人になっていた。辛いこと、苦しいことを受け入れ、それを表現として昇華できるようになった。単純な見た目としても鮮烈なほどに麗しく、無駄なく洗練された動作を繰り出す姿態に魅了される。1つひとつの言葉からは「品」を感じ、近い距離感で友人のように言葉を紡ぐこともあれば、私たちを上客としてもてなすような振る舞いさえできてしまう。そんな彼女は完璧な女性になった、と感心し、幾度も拍手を送った。

 それで満足だったのだけれど、1つの企画が私の心を揺さぶり、その揺さぶりは電車を乗り継いで家に帰ってくるまで、いや家に帰りこうして文章を捏ね繰り回している間もずっと続いている。

 生誕祭の企画として、彼女の歌の師が舞台上に招かれた。普段の練習の様子を見てもらいつつ、私たちもその練習に参加するという楽しい企画であった。歌の師からは、Rの担当色でもある「青」の薔薇が一輪送られた。「青い薔薇の花言葉は奇跡なのよ」と申し添えられた。Rと歌の師は、誕生日が隣同士であり同じ蟹座らしい。蟹座同士はお互いが相手のことを深く思いやれるいい関係を築くことができる、という話も紹介された。そんな師からは「皆さん、さっきこの子の印象について聞いたら色々答えてくれたわね。カッコイイとか、色々。そうカッコイイってのも間違ってない。でも、この子は本当に自分を捨てて人のことばかり考える優しい子なのよ」と愛のある言葉もあった。ここまでは1つ感動である。

「この子の歌、どう思う?」とさらに問いかけがある。私たちは「サイコー!」や「ステキー!」と叫んだ。でも、師に言わせれば「まだまだ」らしい。

「あなた、ともすれば気持ちのことだって頭でばっかり考え過ぎてしまう。でも、これからは肌を通して知ることも大事なのよ」

 この言葉が私を揺さぶり、色々なことを思い出させ、色々なことを私に考えさせた。平坦な言葉を使えば「恋愛してみなさい」ということでもあるけれど、偶像としてのRはもちろん恋愛なんてできない。仮にできたとしてもそれを公にはできない。Rに恋愛をしないように訴えたいわけではないにせよ、偶像における恋愛はなかなかどうして素直には受け入れがたいことがある。とは言え、それはそれとして、だ。

 Rは「はーい」と、それこそこの劇場にいるファンを思いつつ、師に対しても誠実に対応したと思う。なので、これはこれで何も問題はない。問題があるとすれば、私自身のことである。

 ここから先はしばらく私の話が続く。

 私は何につけてもじっくり考えなければ答えが出せないタイプである。即興的なやり取りも嫌いではないが、それはあくまで喜劇においてであり、深刻な悲劇についてゆっくりと時間をかけて検討し、自分なりの答えを見つけるようなことが好きである。こんな性分であるから、まぁ、異性からは基本的に相手にされない。もちろん社会からも大抵相手にされない。私がじっくり考えて90点の成果を出したとしても、数分の検討の末に85点を叩き出す奴らがこの世界ではのし上がっていく。

 そういう現実を目の当たりにして、段々と私は世界というものが嫌いになっていった。ちょっと考えればわかる誤りは膨大に存在し、そしてそれらを内包しながら世界はぐるぐると回り続けている。そして、それら誤りはいずれ先を尖らせ、私のような要領の悪い人間を突き刺してくる。

 だから私は人付き合いというのを放棄した。生きている誰かに教わらなくとも、本を開けば過去の素晴らしい人たちの素晴らしい考えを学ぶことができる。全てを本から学ぶわけではない。もちろん自分でも考えたりする。自分を被検体として扱い、自分がどんな刺激にどんな反応をするのかということも調べてみる。本と自然と自分があれば、大抵のことはわかる。しっかり感じ、しっかり考える。それが私が満足いく生き方であった。他人は関係ない。

「独りじゃないよ、とは言わない。たとえ独りきりでも、幸せになれるための何かは必ずあるはず。それを見つけて欲しい」

 今日の挨拶でRはそう言った。私はそれに強く共感した。私もそういう風に生きて来た。誰にも助けてもらわなかったとは言わない。誰にも迷惑をかけてこなかったとも言わない。でも、究極的には私は1人であり、誰よりも私が私自身を何とか立て直し、擦り剝いた膝に絆創膏を貼り、どうにかこうにかここまで歩いてきた。私のその考えは揺らがない。もちろん、Rの考えも揺らがないはずだ。

 けれど、歌の師は「肌を通して知れ」と訓示を与えた。その瞬間、Rを見る私の視線の中に何かが加わった。

 また私の話になるけれど、私の周りではこの半年くらいで実に色々なことがあった。これまで他者というのは、私が扱うべき課題であり、主題ではなかった。しかし、とあるきっかけで私は特定の人物と深く関わることになった。そして、その中でまさに「肌を通して知る」ことが沢山あった。理路整然と区画整理を続けて来た自分の内面は、いとも簡単に不調を来し、見たくなかった内面が外面にまで引き摺りだされたりした。この時になって、ずっと好んで観て来た「旅立ち」という映画を実感できた気がする。映画の中で主人公は恩師から「君は大聖堂について問われれば、その成り立ちや来歴を語ることができる。街の図書館で読んだ情報を諳んじることができる。しかし、君にあの大聖堂に足を踏み入れた瞬間の匂いや湿度の変化、そういうものは語れない」、「君は自分の完璧じゃないところを見るのが怖いんだろう」とそういう言葉を投げかけられる。私にもそれらの言葉が突き刺さる。私も何かを読んで、そして自ら頭の中で考え、色々なことを知った気になっていた。けれど、実際には触れ合ってみてしかわからないこともあるのだと思う。

 Rがどのような私生活を送っているか知らない。しかし、彼女の「品」はきっと彼女の孤独の中で研ぎ澄まされた深い思慮から生まれてきているものなんじゃないか。自分と他人は違う人間。だからよく観察して、相手に敬意を持って接する。そういう単純な規律の中には、どこか他人を諦めているところがあるんじゃないか。もちろん他人に対して愛情がないわけではない。けれど、この自分が抱える深く、鋭利でどうしもようない負の感情みたいなものは他人からはなかなか相手にされない。そしてその負の感情を手当たり次第にばら撒くのも、またそれはそれで「品がない」。

 どれもこれも私の空想でしかないけれど、私がRに惹かれる理由はもしかしたら、彼女の中に自分と類似したものを感じているからではないか。いや、彼女の中に同類的な要素が実際に在るのかは知らないが、少なくとも私はRに対して自分の孤独な心というのを投影できる。自分のどろどろとした負の感情みたいなものでも、Rのように崇高な人間であれば、やはりそのどろどろも崇高なものとして表出するのではないか。それこそが優れた芸術の在り方なのではないか。ついついそういうことを考えてしまう。

 けれど、私が何だかんだと人生を進めるうちに、「肌を通してしか得られない何か」を学んだように、いずれRも歳を重ね、そういうことを知っていく。偶像としてそれが許される、許されないという話とは関係なく。もちろん既に知っているという可能性も忘れていないけれど、それはそれとして。

 逆説的に言えば、あれだけ完全な表現者に見えたRでも、実情としてはまだ21歳の若者であり、色々なことを悟ってはいるけれど、かつての私のように頭でっかちの理想論者でしかないという見方もできるかもしれない。そう考えると、Rのことがより一層愛おしく思えた。彼女は彼女なりの世界の中で何とか自分というものを打ち立てようともがいている。好きな小説の中でそんな感じの一節があった。Rもまたどうにかこうにかして、自分というものを律し、誠実で「品のある」自分でいようとしているのだろう。けれど、それでもまだ知らないことも沢山ある。それが「若い」ということだ。

 

 Rの歌の師が去り際に言った「この子はいい子なんで。これからも優しく見守り続けてあげてください」という言葉が忘れられない。言われなくたって私たちはRの味方であり続ける。けれど、改めて思う。本当に私たちはRを見守っていかなければならない。どれだけ格好良く見えようと、豪胆に見えようと、繊細な感性と他者を思いやる心を持っていようと、実態はか細い「若者」である。そのことを再認識し、Rをこれからも見守っていこうと思う。後ろ姿が遠ざかっていくその日まで。