霏々

音楽や小説など

茫洋 vol.2

 帰り道。歩いているときに、裕也は中学の同級生に会った。最初は遠くて誰かよくわからなかったが、近づくにつれてその二人連れが日高浩輔と、笹山なんとかという女であったことを思い出す。イヤホンを外して、裕也も手を挙げて挨拶をする。

「おぉ、ユーヤじゃん!」

「久しぶり。コースケと……えーっと笹山さん?」

「うわ。ユーヤ君、私のこと忘れかけてたでしょ」

「いや、いきなりだったからさ。でも、ちゃんと思い出せたろ?」

「まぁ、それは誉めてあげるよ」笹山はにやっと笑って見せた。中学の時の面影が残ってはいたが、どうも雰囲気が違うような感じがする。中学の時はもっと内気な感じではなかっただろうか。「あ、でもね。今、うち、笹山さんじゃないんだよね」

「え、もしかして」

「俺たち結婚したんだ」日高浩輔が、こちらもやはりにやっと笑う。無意識のうちに視線は二人の左薬指へと向かう。そこにはめられた銀色のリングを認め、二人の顔に視線を戻す。二人はおそらく普通に笑っていたのだろうけれど、何故だか裕也の目にはその二人の笑い方が、どこか卑しいもののように見えた。「てか、ユーヤっていまこっちで働いてんのか?」

「いや、東京勤務なんだけど、いまちょっと帰省中で」

「へぇ、東京で働いてんだ」日高浩輔は目を丸くして驚いて見せる。「なに、結構有名なとこ? まぁ、どうせユーヤのことだから大企業なんだろ」

「ユーヤ君、昔から頭良かったもんね」

「普通の鉄道関係の仕事だよ。だからお盆に帰省できなかった代わりに、いま帰省してんだ。さっきそこで墓参り済ませて来たとこ」

「へぇ、せっかくの休みなのに偉いな。てか、帰って来てんだったら連絡くらいしろよ。あ、そうだ。今日、時間あんだったら夜一緒に飲まね? ヒロアキとかと飲む約束してんだ。せっかくだからユーヤも来いよ」

「や、悪いな。今日は別の用事が入ってんだ。すまんけど、今日は勘弁してくれ」

「ったく。まぁ、仕方ねぇか。今度、時間あるときはちゃんと連絡しろよ。たまに、ユーヤ生きてんのか、とか話題になんだけど、このままだとそのうち死亡説とか流れるぜ」

「じゃあ、今日ヒロアキとかに『生きてた』って報告しといてくれ。そんで、東京でバリバリ働いてるって」

「はは。あぁ、わかったよ。でも、ヒロアキのことだから『それ、幽霊じゃね?』とか言い出しそうだけどな」

「あはは。たしかにねぇ」元笹山が旦那の冗談に笑って手を叩く。裕也はその元笹山に何か言おうかとも考えたが、下の名前も覚えていないし、どう呼んでいいのかわからなかったから結局何も言わないことにした。

 そしてそのままお互い手を振り、別れ、裕也はまたイヤホンを耳にねじ込んだ。振り返ると遠くの方で二人が手を繋ぎながら歩いている様子がまだ見える。それからしばらくして、裕也は何となく胃の辺りに吐き気を感じていることに気がついた。最初はその理由が何だかよくわからなかったが、歩いているうちにその正体が嫌悪感であることがわかって来る。いや、嫌悪感なんていうのは嘘っぱちだ。本当はあの二人を妬んでいるだけではないのか。自分はまだ結婚できていない。現在東京には彼女もいるが、まだその彼女との結婚については現実味がない。だからこそ、そんな自分たちよりも先を行くあの二人を妬んでいるのではないだろうか。そういう風にも考えてみた。

 ただ、そんな風に自分の愚かさを見据え、善人を気取ろうとしても、自分の本心を騙すことはできない。自分がいま抱えているこの感情はまさしく嫌悪感であるということが裕也にはよくわかっていた。

 あの二人の幸福そうな笑顔。墓場で考えたことと同じだ。信仰、希望、愛。それらに満たされていると彼らは勘違いしている。曇った眼。この空と同じ灰色。この狭いコミュニティの中で一生を過ごしていく彼ら。帰省して自分が生まれ育った家屋を目にした時と似たような感覚。矮小さが痛々しかった。裕也はどうしても彼らのことが好きになれない。

 あの元笹山。現日高浩輔の妻。中学の時はよく自信なさげに笑っていた。所謂「イケてるグループ」の端っこに引っ掛かっていて、そこで周囲の人間のご機嫌取りをしていた。それが、日高浩輔に愛されたからなのかどうなのかは定かではないが、どこかで自信を持ち、あんな風に笑うようになった。率直に言って気色悪かった。

 日高浩輔にしても、裕也は中学の頃にはよく一緒にいて遊んだりしていたが、今考えるとどうして自分があんな奴と一緒にいたのかよくわからなくなって来る。見るからに視野の狭そうな顔。裕也は別段自分のことを優れているとも思っていなかったが、それでも、自分はああなりたくはない、という想いが込み上げて来ていた。何も日高浩輔がなんらかの愚かな行動を取ったというわけでもないが、それでも裕也は彼のようになりたくはなかった。

 裕也は信号待ちの間、軽いめまいを感じていた。しかし、それは身体的なものではない。間違いなく精神的なものである。網膜には冷たい墓石と若くさもしい夫婦の映像がこびりついている。ポケットの財布は熱を持ち、尻に貼り付いていた。額には汗の粒が浮き上がり、喉が渇いていた。どこかで休みたかったが裕也は昼飯を食べていないことを思い出す。食欲はなかったけれど、二日酔いの時と一緒で胃に何かを入れたら気分も多少マシになるかもしれない。腕時計を見ると一時半と、ちょうど店もすき始める時間だった。そして道路の向かいに、敷地だけは広いが明らかに人の入って無さそうなラーメン屋を見つける。こういうとき東京と違って田舎は便利だ。混んでいる店を探すよりも空いている店を探す方が断然楽だった。

 店に入ると案の定がらがらだった。券売機に硬貨を落とし、一番安い醤油ラーメンを頼む。何となくテレビが見える席を選び、コップに注がれた冷たい水を一息に飲み干す。二杯目からはセルフサービスらしい。裕也は立ち上がって水を汲みに行き、その場でもう一杯水を飲むと、再度コップに水を注ぎ足した。席に戻り、テレビを見やる。午後のニュースが意味も無く垂れ流されている。どうやら世界の歯車は今日も懲りることなく回り続けているようだった。厨房に目をやる。中年のおそらくは主婦。先程、裕也に水を持って来た女店員が奥にいる誰かと談笑している。東京でラーメン屋と言えば、ほとんどが男の職場だ。若かろうが、それなりの歳だろうが、みな何らかの自負やこだわりを持って働いているように見える。だが、こちらではどうやらラーメン屋という職業は、主婦のパート先ということらしい。どちらが良いとかではなく、ただそういう差異があるのだと裕也は思う。

 それだけ考えても注文したラーメンはまだ届かないようなので、裕也は自然と日高夫妻のことを思い出してしまう。しかし、日高夫妻それ自体を思い出すとまた胃がムカムカしてくるであろうことはわかっていたから、できるだけ別の思考材料を探す。そして、自分がすらりとついた嘘を思い出した。

 今日の夜に飲みに誘われたのを「用事があるから」と言って裕也は一瞬で断った。無論、裕也に今夜の用事などない。用事があるのは裕也ではなくて、裕也の家族の方だ。父親はゴルフ仲間と。母親は妹の友達の母親と。そして、当然妹もその母親に同行する。予定も仲間も持たないのは裕也一人だけだ。にもかかわらず、裕也は日高浩輔の誘いを一蹴した。いや、一蹴したというよりは一瞥したと言った方が近いか。単純に「面倒くさいから」という想いもあったけれど、実際裕也の中にあった感情としては、それよりも嫌悪感や恐怖感の方が強かっただろう。日高浩輔とその妻と一緒にいたあの時間と空間に裕也は耐えることができなかった。ならば、広明のような日高浩輔二号や三号がいる酒の席にどうして行くことができよう。

 それから裕也ははるか昔の成人式の日のことを思い出す。あの日は昼からずっと雨が降っていた。スーツや袴、振袖を来た人間がぞろぞろと列を成して歩いていく。色とりどりの傘たち。地方都市に建てられた近代的なビルを目指して、駅からは蟻の隊列のように人が連なっている。裕也もその一人として粛々と歩を進めていた。周りの連中はみな誰か友人と話し合いながら歩いている。しかし、裕也は誰とも事前に連絡を取らなかった。一人きりでこの隊列に紛れ込んでいるのは明らかに場違いだ。裕也は誰かと一緒に成人式に参列しなかったことを後悔していた。自分だけ一人というのは、それだけで精神的には来るものだ。中学や高校の頃、一人で昼食を食べていたクラスメイトのことをふと思い出す。陰気そうな顔つきに、自分だけの世界へと逃げ込んでいる人間特有の目の色。ついに自分がそっちの人間になってしまったのかと思うと、裕也は何だか情けなくて笑えてきたのを覚えている。とは言え、実際に会場へついてしまえば小中学生の頃の同級生や高校の頃の友人にも会ったりして、久しぶりの近況報告などに花を咲かせることになった。大人びていたり、また派手な髪形になっていたりしたせいか、最初は誰か全然わからなかったにも関わらず、喋ってみたら意外と昔のまんまで……みたいなことも刺激があり、それなりに楽しかった。しかし、そうやって時間が流れていくにつれて、裕也の心の洞穴の中には何か良くないものが溜まっていった。ストレスなどという乾いた言葉では表現しがたい、もっと生々しく、荒々しいものだ。過ぎ去ったものが見せる幻影、そしてその臭気に耐えがたいものを感じる。裕也は自分が大学進学と同時に無意識的にそれまでの全ての関係性を捨てていたという事実に思い至る。そして、それと同時にそうした理由にも気がつく。自分はここにいたくはないのだ、という感情。それが裕也を蝕んでいた。けれど、そんな個人的な感情で成人式のような半公的なものから逃げるべきではない。そんな想いからだろう、裕也は気がつくと酒で自分の感情を紛らわしていた。そして、成人式の会場から中学の同窓会の会場へ、それから昔に仲の良かった連中との二次会への会場へと、裕也は酒の濁流に飲み込まれるようにして流されていく。結局裕也は何故か最後の六人の中にまで残っていた。中学の頃は仲が良いふりをしていたけれど、実際は少し苦手だった男が裕也のほかに二人。そして、それなりに仲の良かった女が三人。店の勘定は知らない間に済まされていて、残った六人は次にカラオケへと向かった。そこで裕也はその三人の女のうち、一番小柄な娘とキスやら何やらをした。裕也とその女以外の二組の男女も似たようなことをカラオケボックスの中でしていた。女が言う。下は駄目。今、生理中なの。よかった、と裕也は酩酊状態の脳みそで思う。それから、それまでこらえていた吐き気が急に襲い掛かって来る。トイレへと駆け込み、ほとんど胃を裏返すような勢いで嘔吐した。しかし、どれだけ嘔吐しても、本当に身体の中から出したいものは出ないような感覚があった。それが精液なんてものではないことは、さすがに酩酊した頭でもわかっている。口を濯ぎ、元いた部屋へ戻ると五人は薄暗い部屋の中でわりにしゃんとしていた。大丈夫か、と声がかけられる。おそらく急に部屋を飛び出していった裕也に驚いて、それまでの熱が冷めたのだろう。衣服がだらしなくはだけた五人が、カラオケ用のテレビ画面の光に照らされて、それからぐるぐると万華鏡みたいに回った。倒れそうになるのをこらえながら、裕也は何か言い訳をしつつ、先にその場所から離れることにした。財布の中にあった札を適当に机の端に置き、「こんないらねぇよ」という誰かからの言葉には、わけもわからず「余ったら今度返してくれればいいから」などとほとんど叫ぶようにして言葉を返し、そして一目散にカラオケから出た。外では冷たい雨が降り続けていた。指先が凍り付く。けれど、何故か気分がよかった。カラオケのトイレでは吐き出せなかった醜い何かを、その氷のような雨が流してくれている感じがした。

 そこまで思い出したところで、注文していたラーメンが届く。食欲は完全に失せていたが、そもそも食欲なんてものは最初からなかったのだ。テレビで繰り広げられる世界各国のニュースをまるで他人事のように眺めながら、裕也はラーメンを啜る。思いの外美味くて、完食した。