霏々

音楽や小説など

短冊(松永里愛さんへ)

 このところ眠たい日々を過ごしている。「眠たい」というのは「退屈だ」という意味ではなく、言葉そのままに「睡眠不足」である。「寝不足は寝るしかない」とかつての偉人も言っていたけれど、寝たとてその眠りは低質/短小の錆びたティースプーンみたいな眠りだ。危なっかしく角砂糖を一つ掬い上げるだけで終わってしまう。

 そんな日々に取り立てて苛立ちや悲しさというのを感じているわけではない。ただ一昔前の僕であれば、ハロプロの血沸き肉躍る歌やら踊りやらに胸を高鳴らせ、そこからどうにかこうにか生きていくための希望みたいなものを引き摺り出していたはずだった。ワタヤノボルが女性の中から何か良くない存在を引き摺り出すように、僕もまた彼女らから何かよくわからない、けれどワタヤノボルが引き摺りだしたものとは真反対の何かキラキラしたものを引き摺り出していた。しかし、このところの愚かしい僕と言えば、「ぐっすり眠りたい」という切なる願いだけを頭に放牧して、面白いのかつまらないのかも判別つかぬYouTube動画を垂れ流すばかり。

 人生を変えて欲しい訳じゃない。あの頃に戻りたいわけじゃない。ただ、とても眠たくて何も区別のできない、ラクダ色の砂漠の砂の中で、僕は松永里愛さんのバーイベにはちゃんと申し込んでいた。果たしてこれまでの人生でどれくらい過去の自分を呪って来たかは数知れず、というところだけれど、今回ばかりは過去の僕を祝福しよう。ジャーマンスープレックスみたいなフォームで勢いよく投げ捨てられたブーケがたまたま座り込んだ僕の手の中に落ちて来た。

 そしてあと90分、ポンポさんが狂喜乱舞する時間を経た先で、7月7日がやって来る。織姫と彦星、もといベガとアルタイルはどれくらい離れているかというと、その距離約14.4光年。本当なら物理的限界値であるウサイン・ボルトも霞むくらいの光の速度で走っても14年以上かかる距離にいるというのに、彼らは年1で会えている。それってファンタジー。素敵やん。僕と里愛ちゃんとの距離と言えば、たぶん14.4光年じゃ効かない。デネブは2人よりも何千光年と離れている。「あれはデネブ・アルタイル・ベガ」「夏の大三角」って歌われても、デネブだけは実は仲間外れ。でも、同じくらい明るく見えるのは、デネブがとっても明るいお星さまだからなんだって。僕はデネブほど輝いてはいないけれど、でも、里愛ちゃんとはきっと何千光年も離れている。

 でも、こうして年に1度の逢瀬。その謁見の機を設けてくれているわけだ。有難くて、ざらざらとした出来立てのコンクリートに額を擦り付けてしまう。何度も何度も額を擦り付ける。血色の悪い大根のように、僕もそのまま削り消えて行ってしまいたい。そうしたらこの不眠の苦しみから逃れられるだろうか。けれど、消えて行ってしまうその直前……僅かな時間でも良い。無邪気な小学生がプラスチック製の下敷きで自分の頭を擦るようなスピードで僕も額をアスファルトに擦り付け、最後に小さな灯火を。マッチ売りの少女が見た最後の走馬灯を見ることができるのなら、僕は里愛ちゃんの夢を見よう。

 彼女の何にそこまで惚れたのだろうか。僕が彼女を見つけたのは代々木第一体育館。そこで里愛ちゃんは新人にもかかわらず「プラトニックプラネット」を堂々と歌っていて、その豪胆たる振る舞いに射抜かれた。奇しくも、2005年7月7日に生まれた里愛ちゃんはこのとき2019年12月4日に約14.4歳であり、女神の産声は光の速さで宇宙を駆け抜け、ようやく織姫と彦星を繋いだわけである。2人の再会、言わば再結合によるエレクトロルミネッセンスが僕の網膜を撃ち抜いた。眩い光が天を大地を照らし、この世界から夜が消えたという。これ以上ないってくらい、目は冴えている。白昼夢が何年も続いた。

 たぶんその白昼夢はまだ終わっていない。汚いものをただ受け容れるだけのルンバみたいな生活の中でさえ、僕の人生がそれなりに美しいと思えるのは、素敵なものに囲まれているから。ハウルはまじないをかけた宝飾類に囲まれながら眠っている。僕は魔法使いでないから、自分で魔法をかけることはできない。けれど、里愛ちゃんが与えてくれたいくつものキラキラとした魔法付きの飾り物に囲まれて、白昼夢を見続ける。大切なのは回転をやめないことだ。観覧車は止まらない。遊園地は24時間営業、365日開園している。

 里愛ちゃんの歌は独特の憂いを帯びている。人間っていうのが、何も考えることなく、何も傷つくことなく、ただメロディとリズムに身を委ねるだけの存在であったなら、里愛ちゃんはもっとずっと遠くのところまで飛んでいけた。アルタイルなんてケチなことは言わず、デネブまでひとっ飛びだ。いや、どうだろう。里愛ちゃんの歌声はもしかしたら才気に満ちたものではないかもしれない。歌姫なんて「一山いくら」ってくらいいくらでもいるけれど、そんな彼女らと比べたって、里愛ちゃんの声帯は天下一品って感じでもない。凡人ではないけれど、特注品ってほどでもないかもしれない。

 長い変声期に苦しんできたからなのか。或いは、自然や芸術に多く触れ、その感性を磨いてきたからか。あのとき見た、ほんの一歩でどこまでも飛んでいけそうな力強さは今でも失われていないのに、その繊細さ故に集めてしまった数多くの呪は彼女の身に重くのしかかっている。魔法を扱う才に恵まれ、しかしそれ故に戦争の道具にされ、自由を奪われたハウル。それでもその不自由から抜け出そうと、自由の仮面を顔に貼り付けて軽やかに振舞うハウル。けれど、夜に怯え、魔女に怯え、まじないの宝石箱の中で恐怖と眠るハウル。里愛ちゃんを見ていると、そういう制御できない力や感性の中で溺れる姿を想起する。何本もの鎖に繋がれ、空に還ることができない。

 けれど、エア・ギアにて主人公のカラスが「地球ごと飛んでやらぁ」みたいなことを言ったように、里愛ちゃんならこの水の惑星を鎖で繋いだまま、夏の大三角まで飛んで行ってくれそうな気がする。白昼夢だもの。それくらいは好き勝手に思い描いたっていい。

 里愛ちゃんの素敵なところ。それは夢を見させてくれることだ。目に見えないはずの音楽が、里愛ちゃんの身振り手振りを通して、僕たちに見えてくる。嬉しいとか悲しいとか、平板な喜怒哀楽の四象限に収まらない、人間の根源的な衝動やら渇望、あるいはそれらが転じて垣間見える希望であるだとか。「心の籠った」なんてちゃちなものとは一線を画す、何か不思議な気持ちを湧きあがらせてくれる歌声。14.4歳だった子供の頃は、太陽神ニカのように自由で、何でも可能にしてしまいそうなギャグマンガみたいな可能性を見せてくれた。けれど、今はそれを奥に秘めたまま、じっくりと暗い洞窟で熟成させた里愛ちゃんの一挙手一投足は、どこまでも繊細かつ煌びやかで目が潰れてしまいそうである。

 僕は相変わらず眠たいままで、こうして文章を連ねている今もまさに酷い頭痛に襲われている。冷蔵庫からハイネケンの瓶を取り出して、栓抜きを噛ませる。緑色の図体、蓋だって裏側まで緑だ。ハイネケンの特徴的な緑色の瓶は透明度が高く、紫外線を通しやすく、故に陽の光がホップと化学反応を起こし、独特な青臭さ=日光臭を香らせる。このわかりやすい、不思議な味わいが不眠によく馴染む。

 酒語りおぢは嫌われるのが世の常と言うけれど、何につけても僕は「語る」ということが好きだ。今だってもう何千文字と費やして、一回りも年下の女の子について語っている。酒語りおぢの方がいくらかマシと思えるほどに、僕の筆致は新聞を切り貼りした脅迫文めいている。でもいつしか人間は紙の新聞を取らなくなり、コラージュ状の脅迫文はこの世界から姿を消した。2012年、ロンサム・ジョージが死に、ピンタゾウガメは絶滅した。前年、テレビのアナログ放送が終了しているわけだから、僕は彼の死を地デジ対応のテレビで見ていたのだろう。ジョージが死に、そして僕たちは震災の痛みから立ち上がろうとしていた。

 僕たちの国は震災から復興しようともがき苦しんでいたけれど、僕は故郷を離れ、関東の片田舎で大学生活を送り、国とはたぶん違った方向性で苦しんでいた。コギト・エルゴ・スムだとかレゾンデートルだとか、ノブレス・オブリージュだとか、なんかそんなことを偉そうに考え、悩み、自分がどのように生きていくべきなのかをずっと模索していた。そんな中で、もともとハロプロ村には籍を置いていたので、全てを体現する宮本佳林大先生に導かれて、Juice=Juiceのファンになった。

 しかし、まぁ、現役でまだ活躍している大先生に対していくらかの無礼を働きつつも、2019年には松永里愛さんに出会い、僕はまた考えを新たにした。宮本佳林は「使命」の人だったが、松永里愛は「ゴースト」の人だ。繰り返し観てきた「攻殻機動隊」の中で、私達人間は「ゴースト」を追い求めた。体を機械化し、脳をコンピュータに置き換え、それでも「私が私である」という理由を探し求めた。里愛ちゃんは固く、揺らぎない「ゴースト」を持っていた。あまりにも克明にそれは描き出され、まるで日本画を学んだゴッホが被写体を縁取りしたように、ぐにゃぐにゃと曲がったり、歪んだりしながらも、「これなんだ」という力強さを里愛ちゃんからは感じた。

 僕というのはどうしようもない浮気性で、ハロプロ村に居ながらも、蘭学を学んだり「びいどろ」を手に取ったり、そういう感じで生きて来たように思う。決して、陽の当たる道ではなかったにせよ、そこにはいつも心を躍らせるものがいくつもあったし、寄り道上等とスタンプラリーを楽しんだ。だから、ハロプロや松永里愛ちゃんというものをちゃんとしっかりと追って来たわけではない。知らないこともたくさんあるし、アイドルが偶像というのなら、その偶像をさらに被写体にして、自分なりの解釈を含めて描いたりもしてきた。僕の心の中にいる里愛ちゃんは紛い物であり、本来の里愛ちゃんからは程遠いものになっているかもしれない。

 コピーにコピーを重ね、ガビガビのネットミームみたいになってしまった僕の中の里愛ちゃんはどれくらい正しい姿をしているのだろう。こんなガビガビでも「偶像は偶像だからね」と許してくれるだろうか。

 さっき僕は「陽の当たる道ではなかったにせよ」みたいなことを書いた。このとき、ふと東野圭吾の「白夜行」が脳裏を掠めた。

僕の人生は、白夜の中を歩いているようなものだった。太陽なんてなかった。でも、暗くはなかった。

 こんな悲劇的ではないにせよ、でも、おそらく僕らの人生なんてそんなもんなんじゃないだろうか。たぶんすべてに絶望してしまうには、まだ明る過ぎて。でも、決して太陽が見える、ってんでもなくて。そういう風にして生きていく。野田洋次郎も「嫌いになるにはもう少しで。好きになるには程遠くて。うまいことできた世界だ」と歌っていたっけ。

 そういう人生の中で、何かキラキラした白昼夢でも観れたなら「めっけもん」ではないだろうか。僕は「めっけもん」という言葉の意味を知らないけれど。

 

***時計の針がてっぺんを超える。ダンスフロアに転がるガラスのシューズ***

 

 眠過ぎて頭が痛くなってくる。でも、たぶん電気を消して、目を瞑ってみたとて、すぐには眠れないだろう。なんだったら既に電気は消している。むしろ、ブルーライト、消して。って感じだろうけれど、朦朧とした意識の中ではこのブルーライトが横浜の街の灯りのようにも見える。歯を磨いて、睡眠導入剤を所定量の倍、胃に放り込もう。さらに倍、ドン。

 てなわけで、松永里愛さん。お誕生日おめでとうございます。あなたの21歳が素晴らしい1年になりますように。僕もさっさと寝て、今日、1年に1度の逢瀬が叶う嬉しさを枕の下に忍ばせます。ラブレター・フロム・彼方(何千光年と離れた遠い場所からあなたを応援しています)。