霏々

音楽や小説など

25歳

25歳

 

 朝起きると、ユカはいなくなっていた。

 だいたいはマリンとルリが一緒のタイミングで起きてきて、二人でユカが作る朝ご飯をテーブルに並べる。トーストやスクランブルエッグに、塩コショウで炒めたアスパラガス、それからできるだけ新鮮なレタスで作ったサラダも。

 一番年下のルリは紅茶を入れるのが趣味だったので、おそよ料理を並べ終わるとポットにお湯を温める。ユカはとりあえずの調理器具の後片付けを行い、マリンが寝覚めの悪いサヨコを起こしに行く。なぜ姉を妹が起こさなければならないのか、マリンはいつも不服だったが、料理を作るのも紅茶を作るのもあまり得意でないマリンには、サヨコを起こすことくらいしかできないから仕方がない。もちろん、二番目の姉が何もせずに、妹から起こしてもらい、寝ぼけ眼で朝食にありつけるというのは不平等なことだとは思うけれど。

 歳の順で言えば、ユカ、サヨコ、マリン、ルリ。そして、ユカとサヨコの父親は遠く石川県で歯科医をしている。マリンとルリの父親はインドに行ったっきり帰ってこない。もう十二年も帰ってこないのだから、おそらくどこかで死んでいるのだろう。

 四姉妹共通の母親は、マリンとルリの父親がインドへ行ってから、三年後に交通事故で死んでしまった。不思議な因果で、四人の母親を軽バンで轢き殺したのは、家の近くの商店街でインドカレー店を経営しているインド人だった。彼もまた四人の母親を轢き殺した後で、インドへと消えていってしまった。四人にとってのせめてもの救いは、そのインド人ができうる限りの経済的保障(もちろん、そんなに多くはないが)を残していってくれたことだった。

 それでも生計を成り立たせるために、ユカは高校を二年で中退し、近所の町の不動産屋で働き始めなくてはならなかった。母親の残した遺産はわずかだったし、ユカとサヨコの父親は裁判で決められた決して十分とは言えない養育費を払うだけで、母親が死んでも四人を引き取るようなことはしなかった。ユカとサヨコの父親には既に別の家庭があったし、市内に乱立する歯科医院との競争の中で経済的にも疲弊していたようだった。

 ちなみに、これも不思議な因果で、ユカが一番最初に売った物件は例のインド料理店だった物件だった。不動産屋で働くための資格を取るまではユカにはかなりの苦労もあったけれど、資格も取り、仕事にも慣れてくると、インド人の慰謝料と養育費とユカの収入で四人が慎ましく暮らしていけるようになった。もともと勉強のできたサヨコは奨学金とバイト代で四年制大学を卒業できたし、マリンとルリは高校を卒業すると二人ともすぐに地元の大手医療メーカー工場の事務職に就職を決めた。全員が就職してからも四人は一緒に住み続け、大学を卒業して銀行に勤めることになったサヨコの収入はやはり突出していたが、それでも四人はお互いの収入を分かち合っていたので、今となってはかなり優雅な生活を送ることができている。

 それなりの色恋沙汰もあるにはあったけれど、四人は何よりも四人でいる時間を大切にしていたし、そこに一介の男が入り込めるだけの余地はまったくと言っていいほどになかった。マリンが高校生のころに一度だけ付き合い始めた男を家に招待したけれど、招待してから三日後にマリンは別れを切り出された。

「サヨコがいろいろ余計なこと聞くからじゃん!」とマリンは癇癪を起して、何年かぶりの大喧嘩になった。普段は温厚なルリもマリンの肩を持ったけれど、サヨコは一歩も引かず、「だって、マリンの家族になるってことは、あたしの家族にもなるってことでしょ? だったらよく知っておかなきゃダメじゃん」と言い張った。

 結局のところ、ユカが二人の間を取り持って、「悪いのはサヨコ。でも、マリンだってサヨコが悪意を持ってそうしたんじゃないことくらいわかるでしょ」と言い宥めた。

「じゃあ、この悔しさはどこにぶつければいいの?」マリンはべそをかきながら、ルリの肩で涙を流す。

「ぶつけるなんてダメ。むしろ、こんなに妹想いの姉を持ったことを誇りに思いなさい」

 ユカがそう言うと、サヨコも涙を流しながら、マリンに「ごめん」と謝った。

「マリン姉ならすぐに新しい人ができるって」

「でも、また皆に紹介したら、絶対嫌われるもん」

「これに懲りて紹介しないでこっそり付き合うって選択肢はないんだ」

「それは……だって、私のこと知ってもらいたいもん」

 四人の絆はとても硬く、強かったけれど、それでもお互いがお互いに依存しているというのとは違った。確かに隠し事はなかったし、できるだけ同じ時間を過ごしたいと皆が思っていたけれど、ユカは長い間ずっと仕事が忙しかったし、サヨコも基本的には勉学に勤しんでいて、ゆくゆくは自分がユカのようにこの四人を支えていかなければならないと強く思っていた。マリンは小さい頃からずっと絵を描くことが好きで、学校と四人でいる時間を別にすればほとんどの時間を絵を描くことに割いていた。ルリは人懐っこく、社交性もあったから学校の友達と遊んでいることも多かった。

「サヨコはね、本当に頑張り屋さんで、頭も良いし、美人だし。どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹。早く結婚してほしいんだけど、意外とガサツなところがあったり、気分の波も激しいから、旦那さんはちょっと大変かな? マリンはとにかく絵が上手なの。本当は芸大に進ませてあげたかったけど、まだサヨコが働き始める前だったし、芸大はお金がかかるから……でも、いつかは絵を描いて生きていけるようにしてあげたいと思ってる。そのために実はこっそり貯金もしてるんだ。ルリは一番下だけど、一番しっかりしてると思う。サヨコもマリンも人見知りさんだから、これからもずっと一人で生きていくんじゃないかと不安だけど、ルリはいつも色んな優しい人たちに囲まれていて、上手に人と付き合いながら生きていけるんじゃないかな。だから全然心配はしてないんだけど、でも、もう少し姉離れをしてもいいかなと思うことは結構あるね」

 ユカは後輩のナミにそう言って聞かせる。

「私もユカさんの妹になりたいなぁ」

「私もナミちゃんみたいな子が妹だったらいいなぁ」

「本当に思ってます?」

「本当に思ってるよ」

「でも、私まで妹になったら、妹が五人ですよ? ちゃんと私まで愛情が行き届きます?」

「もちろん。私、妹を愛することだったら、世界中の誰にだって負けない自信があります」

「なんで、敬語になるんですか」

 実際のところ、ユカは家でもよくナミの話をしていたし、その度に三人の妹はほんの少し嫉妬心をくすぐられたものだった。

「三人も妹がいて、まだ足りないなんて、ユカはおかしいよ」とサヨコは呆れながら、ユカの頭を叩いた。

 父親に見捨てられ、母親が死に、経済的にも精神的にも苦しい時代は確かに存在していた。しかし、こうしていま四人で平穏に暮らしていられる幸せを思えば、どんなに辛い思い出であってもそれを失くしてはならないと思えるほどに、すべての時間が愛おしかった。

 しかし、一番上の姉のユカが二五歳になると、サヨコの中で一つの思いが芽生えた。

 ユカは幸福なんだろうか。

 もちろん、ユカは幸福だった。ユカ自身、自分が幸福なのだと思っていた。四姉妹での生活を何よりも愛していたし、それ以外に求めるものは何もなかった。強いて言えば、ナミも妹の一員として加えたいと思っていたけれど、それは冗談の要素が幾分か混じっていたし、まったく以って現実的ではない望みだった。

 それでも、いつも疲れて帰って来て夕食の支度をし、様々な家事を基本的には一人でこなし、また朝になれば四人分の朝ご飯を拵えるユカの姿を見て、サヨコの頭の中には同じ問いが浮かんできた。とは言え、サヨコは四人の中では誰よりも会社での仕事が忙しかったし、経済面で四人を支えてやることはできても、それ以上の「何か」をしてやれる余裕はなかった。それはマリンやルリも同じで、マリンは医療メーカーでの仕事の時間を除けば、絵を描くことに時間を費やしていた。ルリはまだユカを手伝って色々と家事をしたり、仕事もマリンよりは忙しい部署に配属されていて、人付き合いも頑張ってこなしていた。

 誰もがユカを必要としていたし、ユカがいなくなった後の四人の生活は考えることができなかった。

「ユカ姉」ルリは朝起きてくると、エプロン姿でキッチンに立つユカの背中に話しかけた。

「おはよう。悪いけど、トースト焼いてくれる?」

「うん、いいけど」ルリは棚から食パンを取り出して、トースターにそれを差し込んだ。「ユカ姉はまだ結婚しない?」

「え? なにそれ?」ユカは目を細めて笑う。

「あのね。ユカ姉がどこかに行っちゃう夢を見てね。ルリにも理由はよくわからなかったんだけど、もしかしたら結婚したからかな、って」

「うーん。全然結婚なんて考えられないなぁ……むしろ、サヨコとかルリとかが早く結婚しないかなぁ、って毎日思ってるよ」

「マリン姉は?」

「マリンはまだかな?」ユカは笑う。「いつかは結婚してもらいたいけどね。でも、マリンには結婚よりもまず、好きなだけ絵を描いてもらいたい。これでもか、って絵を描いてちょっとでも心に余裕ができないと結婚はムリじゃないかな?」

「たしかに、マリン姉は男の子よりも絵の方が大事そう」ルリも苦笑いを浮かべる。

「それでもウチにカレシを連れて来たのはそんなマリンだけだからね。あの子は本当によくわかんないよ」

「ねぇ、ルリもカレシできたらウチに連れて来ても良い?」

「もちろん。ていうか、何回も連れて来てって頼んだのに、今まで一回も連れて来たことないじゃん」

「マリン姉のこともあったし、やっぱり変な感じになりそうかな、って。サヨ姉もマリン姉も変な風に気を使っちゃって、ギクシャクしそうじゃん?」

「それはそうかもしれないけど……まぁ、まずは私に紹介してみてよ。そうしたら、あの二人にもうまく紹介するからさ」

「うん、そうだね。そうする」

 ルリはトーストを焼き上げると、珍しく遅くまで寝ているマリンと、いつものように遅くまで熟睡しているサヨコを起こすために階段を駆け上がった。

 それから数週間後の土曜日、マリンはユカを家から連れ出して、カフェに誘った。

 それは久しぶりのことで、前回マリンがユカをカフェに連れ出した時、マリンは高校三年生で、地元の医療メーカーへの内定をユカに報告した。ユカとしては芸大とまではいかなくとも、サヨコのように大学には進学させるつもりだったから、就職には反対した。しかし、結局はマリンは自分の意志を貫き通し、大学受験をすることもなく、そのまま就職することになってしまった。

「絵も描きたい。でも、それ以上に、自分の手でお金を稼ぎたいの。私はサヨコみたいに頭が良くないから大学に行ったって仕方ないもん。それよりは、早くお金を稼げるようになって、ルリを大学に行かせてあげたい」

 ユカはマリンに「自己犠牲で就職するなんて、私は求めてない」と珍しく声を荒げたが、マリンは首を横に振った。

「自己犠牲だなんて思ってないもん。就職しようが、大学行こうが、私は絵を描ける。だったら、お金を稼ぎながら絵を描くの。それが私のしたいこと。大学に行ったって私はきっとそんなに友達だってできないけど、ルリならきっと楽しい大学生活を送れるから」

 ユカはそれでも「じゃあ、芸大に進みなさい」と引かなかったが、マリンは唇を一文字に結び、折れることはなかった。

「二人でこのカフェに来るのも久しぶりだね」マリンはやや緊張した面持ちでそう言う。

「また、何か私に報告したいことがあるの?」

 マリンは俯きながら、小さく頷く。そして、何かを紛らわせるように店員を呼び、コーヒーを二つ注文した。

「ねぇ、ユカ」

「なあに?」

「私、芸大に行く」

「え?」

「入学金くらいは何とか自分で貯めた。本当はルリが大学に行くためのお金だったんだけど…」

「別にそれはいいのよ」ユカは優しく笑って言う。ルリは結局、マリンの後を追うように地元の大手医療メーカーに就職した。三人の姉から「大学に行きなさい」と言われたけれど、首を横に振り、それを断った。昔からの友達もその医療メーカーに就職することが決まっていたし、何よりもルリもマリン同様、勉強があまり得意ではなかった。勉強よりは仕事をして社会で誰かの役に立ちたいという想いが強かった。ルリはそのことを辛抱強く丁寧に説明し、最後には三人の姉を納得させ、そして今も楽しそうに働いている。

「サヨコに学費の半分出してもらう約束もしてあるの」マリンは打ち明けるように言う。

「サヨコが学費を?」

「サヨコはユカに学費を出してもらったから、今度は自分が私の学費を出す番だって」

「それは別に構わないけど、でも、もちろん私も出すからね」

「それはいい」

「ダメよ。本気で芸術家になりたいなら、アルバイトなんてしてる暇はないはずでしょ?」

「わかってる。だから、もう半分の学費はルリが出してくれるって」

「ルリが?」ユカはさっきよりもずっと驚いた表情を浮かべる。

「ねぇ、ユカ。私たち、もう子供じゃないの。ユカがいなくても、夢を追いかけて生きていくことができるんだよ。私たち三人でも助け合いながら生きていける。だから、ユカにもユカの好きなように生きて欲しいの」

「そう言ってもらえるのはとっても嬉しいけど、でも、私の望みはマリンたちと四人で暮らしていくことだから」

 マリンは首を横に振る。

「いつまでも四人で暮らしていくなんて、できっこないでしょ。ユカだってもう二五歳だよ。結婚だってしないといけない」

「しなきゃいけない、ってこともないでしょ」

「ううん。ユカは絶対、良いお母さんになるもん。だから、結婚して早く可愛い赤ちゃんを産むの。そして、今まで私たちを育ててくれたみたいに、赤ちゃんを幸せに育ててあげて欲しい。それがね、私たち三人の夢なの」

「でも、それじゃあ……」

「もう一回言うね。私たち、もう子供じゃないの。ユカがいなくても、夢を追いかけて生きていくことができるんだよ」

 ユカはじっとマリンのことを見つめていた。コーヒーが運ばれてきて、静かな湯気を漂わせている。カフェの時計がゆっくりと時を刻んでいる。

 自分が思い描いている幸せの形があって、その幸せをずっと抱きしめていたとする。それはきっと幸福な人生と呼べるかもしれない。けれど、変わらない幸せの形なんてものがこの世界にあるのだろうか。手に入れた幸せを手放すことでしか得られないもの。それもまた幸せであるはずだ。人生にはきっと階段があって、一段登るごとに見える景色も変わって来る。いや、階段というよりはエスカレーターに近いかもしれない。何もしなくたって、時間が見える景色を変えてしまう。だからこそ、その時その時に見えるものを求めていかなければいけないんだろう。時には、勇敢に。

 カフェから帰って来ると、サヨコが珍しくキッチンに立って、ルリから料理の作り方を教わっていた。

「あぁ、お帰り。ユカ」

「お帰り、ユカ姉」

「ただいま」

「ねぇ、私も帰って来たんだけど」

「あはは、お帰りマリン」

「お帰り、マリン姉」

 手伝ってあげたくなる気持ちを抑えて、ユカはリビングの椅子に座った。テレビを点け、テレビを見るふりをしながら、マリンも加えて料理に四苦八苦している三人を横目で盗み見た。

 年が明けて、春がやって来る。

 マリンが芸大に通い出し、ルリの作ったお弁当を持って、サヨコがばたばたと銀行へと走っていく。夜になれば、サヨコとマリンが作った夕飯を食べながら、四人でちょっとばかし顔をしかめた。「大丈夫。次は成功させるから」。なぜか強気なサヨコとマリンに、ユカとルリは笑いを堪えることができなかった。

 まだ冷ややかな春の夜。四人の寝息を月明かりが包み込み、そして静かに空が白みだす。

 ユカは一人そっと目を覚まし、一枚の書き置きを残すと、最後に三人の寝顔を写真に収めた。シャッター音に誰も気づくことなく、ぐっすりと眠っている。

 朝起きると、ユカはいなくなっていた。