霏々

音楽や小説など

マリ

 マリ

 

「誰がうちにマリなんて名前つけたんやろ?」

 マリは僕の借りている部屋で遠慮なく煙草を吸っていた。冬という季節が、昼過ぎの太陽から生気を奪い取っている。車がアパートの前の道を通り抜ける音がした。

「そんなの親に決まってるじゃないか」

 僕が至極まっとうな返答をすると、マリは面白くなさそうに煙を窓に吐きかけた。くすんだ窓から差し込む光がマリの無表情に陰影をつける。僕はマリに「あんたはなんてつまらん奴なんや」とよく言われるが、もはやそんなことを口にすることすらマリは面倒臭そうに見えた。

「せやから、うちが言いたいんは、誰がうちの親に、『真理』なんて名前をうちにつけさせよう思たんか、ってことやねんて。そんなアホかボケかカスみたいな名前つけられたうちはいったいどうしたらええねん」

「別に良い名前じゃんか。女の子らしいし、マリの源氏名の『サリー』よりもよっぽどまともだと思うけど」

「ちゃうって。別に『マリ』って読み方はええねん。問題なんは『真理』て書く字の方やねんて。うちはこの下らない漢字二文字に呪われとる気がすんねんな。誰かがうちの親そそのかして、そん大層な名前つけさせたんや。そのせいで、なんでかわからんけど、自分の名前の意味知ってからいうもの、屈託なく笑うこともでけんくなってもうた」

 そう言ってマリは屈託のない笑顔を僕に作って見せた。

 目尻に皺が寄せられて、口角が漫画のキャラクターみたいに吊り上がる。喜びの織姫と彦星がえくぼとなって、唇を両脇から引っ張り上げているみたいだ。会話の流れからそれが気の利いた冗談だと推測することができなかったら、僕はマリの笑顔で今日一日をわりと幸せな気持ちで過ごせたに違いない。

「何やってても、心の底からおもろいって思えんくなってもうたんよ」マリはまた無表情になってそう言った。

「何やってても、って例えば、どんなこと?」

「お客と寝てても、あんたと話してても」

「おれはつまんない奴だからそれは仕方ないよ。お客とのことはわかんないけど」

「おもろない返しやな。自虐としても二流、いや三流の返しやわ」

「マリたちとは人種が違うんだよ。おれの育った街では、義務教育で漫才をやらなかったんだ」

「それはうちら関西人に対する偏見やで」

 僕のボケに対して、マリは律義にツッコミを返す。そういうのが、きっと骨の髄にまで浸みこんでいるのだろう。

「まぁ、あんたがろくにおもろいことも言えへん奴やってことは知っとるしな。今さらなに言うてもしゃーないわ。せやから、話戻すけど、うちにとって、うちの『真理』って書いて『マリ』いうこの名前は一種の呪縛やねん。うちが生きとる以上は、真理を追究することが求められてんねん。誰に求められとるかっちゅうと、それはうちの親なんてもんやなくてな。うちの親に、大事な一人娘に『真理』なんて名前つけさそうとした、なんや得体の知れん怪しい奴や。きっと真理を腕に抱いた神さんが、退屈やからもう一つ真理を手元に置こうとして、うちにこんな名前をつけさせたんやと思うわ」

 最後の方は何を言っているのかよくわからなかったけれど、要するに自分の名前を背負いきれなくなってしまったということだろう。人間というのはよく名前や肩書、それから立場といったものに伴う責任を背負いきれなくなってしまう。中には自分の生命すら重たくて仕方ないと言って、ビルの屋上からそれを投げ出す人間もいる。

 でも、果たしてそれは本当だろうか。

 僕はそれでも生きているし、マリだって本当に嫌ならば改名すれば良いのだ。役所手続きは面倒かもしれないけれど、昔は成人したら新しい名前に変更したと言うし。まぁ、結局のところ責任というのは自分が思っているよりもたくさん背負えるものなのかもしれない。名前だけに限らず、現実的な対処法というものはいくらでも存在しているものだ。

 僕はそんなような言葉を返す。

「そういう考え方がつまらんいうねん」マリは怒ったようにそう言った。「うちやって一応女の子やろ。女の子が愚痴言うてんねやから、黙って共感したような口聞いとったらええねん。まったく女の扱い一つなっとらんな、自分」

「わかったような口聞いたら、それはそれでマリは怒るだろ」

「せやろな」しれっとした態度でマリは答える。

「それはあまりにもわがままじゃないかな」

「女の子はわがままを言ってもええねん」

「男女平等が聞いて呆れる」

「うちは別に男女平等なんて望んでへんもん。そういや、どっかのお笑い芸人が言うとったけど、セクハラだ、セクハラだ、ってあまりにも言われ過ぎてて、それはもうハラスメントハラスメントやないかい、って」

「女性蔑視だ、って言うこと自体がある種の男性蔑視ってこと?」

「それと同時に、女性蔑視って言葉を使うことで、ある意味では、自ら女性という性を貶めていることになると思うねんな。なんていうか、メタファー的に」

「女性蔑視という言葉があまりにも女性的過ぎるってこと?」

「ほら、『じょせいべっし』って打ったら予測変換にちゃんと漢字で『女性蔑視』って出てくるやん?」そう言ってマリは僕に電子画面を見せてきた。「でもな、ほら、『だんせいべっし』って打っても、一番目に出て来よるのは……ほら、この通り『男性別紙』やんか。そもそも言葉の段階で、性差があるもの使うとる時点で、そんな言葉使えば使うだけ性差別が進むと思わへん?」

 僕は頷いて、そうなるとジェンダーという言葉は素晴らしいな、と思う。しかし、マリはそれすらも否定して、「たしかにジェンダーって言葉は、本来男女間の性差を示すものとして定義されとるけど、いま世の中で使われてる意味合いはほとんど女性寄りになってもうてるからな。そもそも何を以って男女平等なんか、ていう話やし。ほんまややこしわ」

「まぁ、それでもこうやって議論をしていくのは大事だと思うけどね」

 僕の言葉にマリは再び溜息をついて、「ほんまつまらんなぁ、自分」と零した。「つまらない蔑視だ」と僕は言ってやりたくなったが、もちろんそんなことを言ったって、どうせまた「なんなん、それ。ギャグのつもりなん? ほんまつまらんやっちゃな」と言われることはわかっているので、僕は黙って唇を結ぶ。

「ていうか、何の話してたんだっけ?」僕は沈黙の中空に疑問を浮かべる。

「なんやったかなぁ」新しい煙草に火をつけながらマリは視線を部屋の天井に向ける。光の粒子と化した塵がそこら浮かんでいるだけだ。「あぁ、せやせや、うちの名前の話やったな。うちの名前は『真理』やけど、真理になんてどうやったって辿り着けるわけないやんか。せやったら、もう適当に享楽主義的に生きてやろう思うたりもしたんやけどな。そんな遊び惚けた生き方をしている中でも、うちはどっかで無意識に何かを探究しているような気がすんねん。恥じらいながらブラの肩紐ずらしとる最中も、羞恥心てのは行為や状態の神格化の出来損ないなんやろうな、とか考えてまうねん。そんで次の瞬間には、ゴムん中の濁った精液見ながら、染色体の無駄遣いを思うて、あぁ、うちも先週無駄にしたもんなぁ、って変な共感に捉われとるわけや。せやのに、うちん中の女が『はよう抱きしめてや』って気づいたら男の腕を引っ張ってんねんて。な、やり切れんやろ」

 僕はマリの相談に乗ってやるつもりだったけれど、どうやらマリはもう自分の中である程度の答を見出しているようだった。僕は黙って頷きながら、マリの方から流れてくる副流煙を肺の中に押し込んでいるだけだ。マリやほかの女が望むであろう、共感のできる男を気取って。

 マリが「お腹空いた」と言うので、僕はいくつかのカップ麺を取り出して来た。

「いっちゃん、美味いやつ」

 僕がせっかく選びやすいように机の上に並べてやったのに、マリはこちらを見ることもなくそうとだけ言った。何があるというわけでもないのに、相変わらず窓の外のくたびれた景色を見ながら煙を吸って吐いている。せめて、醤油が良いとか、豚骨はダメだとか、それくらいの情報は欲しかったけれど、まぁ、マリがそうやって適当な物言いをするなら仕方ない。僕の独断で担々麺を選んでやった。

 薬缶を火にかけ、カップ麺のフタを開けてかやくを取り出したところでマリが、「うち辛いの苦手やで」と言う。

「じゃあ、もっと早く言ってくれないと。もうフタも開けちゃったし、我慢しろよ」

「あんなぁ、辛みってのは痛覚やって知っとるやろ?」

「あぁ、もちろん」

「なんで痛いの我慢して食事せないかんねや」

「それを言ったら全ての辛い料理が食べられなくなるじゃないか」

「せやから、うちはそう言うてんねん。辛い、というか、痛い料理がこの世に存在している理由はなんや。ほんまもんの痛い料理言うんは、うちが小さいときにおかんが作ってくれた、茶わん蒸しに砂糖ふりかけて出してくれたあの謎プリンだけや。あんときは、まぁ、舌と心が痛んだなぁ。プリンくらい買うて来たらええのに、わざわざあんなアレンジしてからに。おかんのセンスの無さと無意味なチャレンジ精神の犠牲になった、あの茶わん蒸しの第二の人生を思うたら痛さ二倍や」

「もう言葉の意味がぐちゃぐちゃだな。なんで担々麺の話してるのに、プリンが出てくるんだよ」

「ま、ええから、その担々麺はしまい。さっき、きつねうどんのやつもあったやろ。うち、あれ食べたい」

「じゃあ、最初からそう言えよ。ったく、女がわがままっていうよりか、ただマリがわがままなだけじゃないか」

「マリ蔑視はやめてぇや」

「つまんないよ」

 きつねうどんのカップを取って台所に戻り、沸いた湯を注いだ。ついでに、担々麺の方にも湯を注ぐ。何となくこんなことになるんじゃないか、という予感からお湯を多めに沸かしていて良かった。

 熱いカップを二つテーブルまで持っていき、割りばしとコップに水を用意する。時間は面倒だから図らない。けれど一応、「マリの方は五分ね」と伝える。僕がそう指定したわけじゃないのに、「ながっ」とマリは愚痴を零した。いちいち腹の立つやつだとは思うが、それは関西人的な相槌をしただけなのかもしれない。僕は息を吐き、およそ三分を待ってフタを開けた。

「よう、そんな真っ赤なん食べれるな」マリは近寄って来て座って、麺を啜っている僕に言った。

「トマトも食べれる」

「そういう赤いちゃうし。ほんまくだらんやっちゃなぁ。うちそんなん食うたら、口から火噴いてまうわ」

「よし。そしたら、担々麺食って火を噴く女として売り出そう」

「どこに売り出すねん。てか、ほんまに辛いの食うて口から火噴くやつなんておらんやろ」

「世界中探せば一人くらいはいるんじゃないか?」

「まぁ、せやな。世界中探せば一人くらい……って、おるかい!」

 そう言ってマリは僕の肩を叩く。音のわりに軽い衝撃が響く。

「あ、そろそろ五分やな」

 マリはぺりぺりとカップのフタを剥ぎ取り、真っ白でひらひらとした麺を割り箸で摘まみ上げると何度もそれに息を吹きかけた。熱さも痛みやしな、とマリは求められてもいないのに言い訳をした。

 麺を啜る音が部屋を満たしていた。バックミュージックも何もなく、立ち昇る湯気が浮遊する塵と同じように黄色い太陽の光を受けている。マリは油揚げを一度カップの底に沈め、たっぷりとつゆを滲み込ませた後、それにかぶりついた。ちょうど半分。マリの歯型を土産に残された半身はまたカップの底に沈められる。マリは幸福そうな顔で目尻に皺を作った。

 ここには何もないけれど、全てがある。

 どこかで聞いたような言葉がふと頭の中に浮かんだ。

「うちな、この油揚げ好きやねん」

「たしかに美味いと思う」僕は頷く。

「や、まぁ、味もせやねんけどな」マリは割り箸を持ったまま動きを止める。それから思いついたようにまた麺を啜り、そしてそれを飲み込むと再び動きを止めた。僕はそれを黙って見つめ続ける。「ちっちゃい頃によう食べとってん。さっきも言うたけど、謎プリン作ったり、うちのおかん料理あんま得意やないねん。洗濯も掃除も、犬の世話も得意やってんけどな、料理だけはあかんかった。せやから、インスタント食品、冷凍食品、それから卵とか納豆とか明太子とか、そういうのばっか食べて育って来てん。よう考えたわ、洗濯も掃除も犬の世話も別に人並みでええから、料理も人並みになってくれんかな、て」

 マリの話を聞きながら、僕は自分の母親のことを思い出した。僕は彼女の家事の出来について不満を持ったこともなければ、特別な賞賛を与えたことも無かった。一人暮らしを始めて、母ほどうまくは家事ができないと感じたことがはあるけれど、それでも不便もなかった僕にとって、家事の得手不得手というのは考えるべき項目から自然と除外されていたのだろう。それは僕が男だからなのか、それとも単純にものぐさなだらしない人間だからか。それでも、母のやってきた家事に対して、感謝や賞賛といったものを全くしてこなかったことはきっと恥ずべき事だろう。マリの話を聞いて、僕は漠然とそんなことを思った。

「うちはよう好んで、こういうきつねうどんのカップ麺食べとってんけどな。あるとき、十五かそんくらいのときやったかな。おかんから、『あんたはほんまに、きつね好っきゃな。おかんも好っきゃけど、あんたには負けるわ』みたいなこと言われてん。そんとき、なんでかわからんけど、うちめちゃくちゃ腹立ってな。頭ぷっつんなってもうて、『別に好きちゃうし。おかんがまともな料理作らへんから、仕方なく一番無難なやつ食うてるだけや!』って怒鳴ってまって。今考えても、なんであんなこと言うてまったんやろ、って思うけどな。せやけど、まぁ、色んな不満があったし、なんて言うか、その頃のうち日常に対してフラストレーションみたいなん感じとってん。おかんが料理下手なんも嫌っちゃ嫌やったけど、それ以上に自分がなんでこんなしみったれた日常を過ごさなあかんねん、っていっつもイライラしとった。うちはもっと素晴らしい人間で、何かの手違いでここにおるだけや。きっと本当の両親がどっか別んとこにおるはずや。ほら、容姿かて家族の中でうちだけ飛び抜けとるしやな。絶対にうちにだけ知らされてない、うちの秘密があるはずやって、真剣に思うてた。ま、冷静になって考えれば、めっちゃありきたりのシンデレラ・コンプレックスみたいなもんやけどな」

 マリはまくしたてるように喋った後、ようやく一息ついて再び麺を啜った。かなり冷めかけてきているようで、もう息を吹きかけることもない。

「おれは自分のことそんな風に考えたことなかったなぁ。取り立てて日常に不満もなかったし、特別美味いというわけでもないけど、母親の料理もまずまずだったから」

「別に料理のことはええねん。だいたい、おかんの作る料理に不満があるなら、うちが自分で作ればいい話やしな」

「ま、少なくともおれはマリよりは恵まれてたんだろうな。おれは今の自分がいる環境が不服で仕方ないというよりは、どうやったら今ある環境を維持できるのかって考えるタイプだし。基本的に『不満』よりは『不安』に取りつかれやすい体質なのかもしれない」

「恵まれてる、恵まれてない、っていうんは置いておくとしても、たしかにうちとあんたの違いはその点やろな。そんときのうちは取りあえず何もかもが不満やった。どうやったら、このしみったれた環境から抜け出せるんやろ、ってそのことばっかり毎日考えとった」

 そこでマリはまた麺を一口啜ると、僕に水のおかわりを求めた。

 これだけ人使いが荒いというのに不満を抱えているとは、シンデレラというよりは、シンデレラのあの意地悪な姉たちの方が近いんじゃないだろうか、と僕は思う。

僕の記憶では、彼女たちは始終イライラしているようだったし、シンデレラはどちらかと言えば僕のように何の不満もなく日々を仕方なく生きているタイプの人間のはずだった。シンデレラの宝くじ的なラッキーストーリーに憧れるばかりで、彼女の人間性の骨格を担う所については全く以て思考が及んでいない。「これだから女は」みたいな女性蔑視発言を飲み込んで、そもそも「シンデレラ・コンプレックス」というやつは「シンデレラ(・ストーリー)・コンプレックス」のことを言うのであって、シンデレラになりたいのではなく、シンデレラのポジションに収まってやりたいという酷く形骸的な話であるのだろう。思い違いをしていたのだ、と自分に言い聞かせる。

 水を汲みに行くついでに、担々麺のカップを水で濯いでゴミ箱に捨てる。少しだけ鉄錆の味のする水をテーブルに置いて、またマリの向かいに座る。

「ありがと。わざわざすまへんな」

「すまないと思っているなら、自分で汲みに行ったらどうかな」

「じゃあ、すまへんってのは取り消しや」

「取り消せる謝罪なんて最初からいらないね」

「そんな怒らんでえな。あんたに感謝しとるのはほんまやねんから」

 マリは「な」と念を押すように僕に上目遣いを向けた。本当に整った顔立ち。僕もマリくらいの美貌を持っていれば、自分の今の待遇に不満を持てたのだろうか。

「あのさ。ずっと聞きたいな、って思ってたことがあるんだけど」僕はコップの水を飲む彼女に尋ねる。マリは顎で僕に言葉の続きを促した。

 こんな適当な流れで、こんなとりとめのない午後で、こんな質量数ミリグラムみたいな僕の生活空間の中で聞いて良いことなのだろうか。

 僕はやはりいつものように、この質問を飲み込んでしまいそうになったが、どうしてかこのときは喉がきつく閉まって、それは再び舌や歯の間から零れ出てしまった。

「マリはなんで今の仕事をしようって思ったんだ?」

「今の仕事って何のことや」

 挑戦的なマリの眼差し。焦げ色のスープ。青白い割り箸と、ひだになって水分を吸い続ける同色の麺。僕は「つまり、風俗嬢にってこと」と答える。

「風俗嬢しとったらあかんのんか」

「至極一般的な意見としてだけど、風俗嬢になりたいのって、やっぱりお金を稼ぎたいからだと思うし、マリくらい飛び抜けた外見があればもっと別の方法でも今と同等かそれ以上に稼ぐことができたんじゃないかって。批評をするつもりはないよ。あくまで不思議だから聞いてみたんだ」

「まず第一に」そう言ってマリは人差し指を立てる。「うちはお金のことはようわからへん。実家は貧乏ってわけやなかったしな。もちろん、金持ちってわけでもあらへんけど。せやから、うちは至極一般的な例にはあてはまらん。そんで、あんたはうちのことを美人で可愛い言うてくれよるけど、うちはきらきらした世界では生きれへんねん。夜空の星が大都市のネオンに殺されるように」

 そう言ってマリは小さく吹き出す。それから顔を歪めて再び口を開く。

「別にかっこつけてんのとちゃうねんで。星とネオンの喩えが嫌やったら、白熱球とLEDでもええわ。とにかく、うちは輝度を競い合うような世界では埋もれてまうねん。ぼんやり薄暗い押し入れの隅みたいなとこで、うちの内側から染み出してる光みたいなもんはいっちゃん美しく輝くねんで。あんたがいま目の前にしているうちのこと綺麗やな思うんやったら、それはあんたのこのさもしい小さな部屋がうちの美しさを上手く引き出してくれとるだけや。これは謙遜でも何でもあらへん。ただの事実やし、なんやったらそのことがずっとうちを苦しめとると言ってもええ」

「つまり、モデルとかアイドルとか、そういうスポットライトが当てられるような世界はマリの性質に合わないってこと?」

「せや」

 僕の要約にマリは簡潔に頷く。それから、うどんを啜り、「伸びてもうてるがな」と不満を零す。「あんたのせいやで。あんたが食べ」とマリは僕の方にカップを押しやった。ほとんど飾りのような緑色のネギがつゆの表面で揺れている。

「マリがモデルとかにならなかった理由はとりあえずわかったよ」僕は自分でカップをさらに近くに引き寄せる。そしてマリから割り箸を受け取った。「でも、風俗嬢になった理由はやっぱりわからないままだ。他の選択肢だって色々あっただろうに」

「ほかの選択肢なぁ」マリは信憑性のないおとぎ話でも聞かされたような表情を浮かべる。

「例えば、本屋とか花屋とか、ケーキ屋さんとか、OLとか」僕は思いつくままに並べる。

「トビとか警官とか、サッカー選手とか」

「そうだよ。宇宙飛行士にだってなれる」

「アホか。なれるわけないやろ」

「でも、それだけ色々な職業がある中でマリは風俗嬢を選んだわけだろ? そこには何かしらの理由みたいなものがあったんじゃないか」

「せやったら、あんたは何で大学生しとるんや? なんか理由があるんか?」

「おれの話はいいよ。それに大学生になるハードルは今の時代めちゃくちゃ低いし、おれみたいに何の意志がなくても、世の平均的な人間はそのまま普通に大学生になる。でも、マリはそういうこともせずに風俗嬢を選んだんだろ? 風俗嬢になるハードルはやっぱり高いもんだとおれは思うけど」

「せやなぁ。そうかもしれへんなぁ」

 マリは疲れたように、僕に心無い賛同を送る。

 それから右の天井に視線を向けて、何かを思い出すような芝居を始めた。本当は僕の問いに対する答は最初から心臓付近に絡みついていることを知っているのに、わざわざその答が自分のところからは離れた場所にあるように見せつけたいのだということが僕にはわかった。

「うちな、椎名林檎好きやってん。知っとる? 椎名林檎?」

「知ってるよ。東京事変のボーカル」

「その覚え方はいかがなものかと思うけどな」マリは眉間に皺を寄せて僕を睨み付ける。「まぁ、ええわ。その椎名林檎の楽曲にな、『歌舞伎町の女王』ってのがあってなぁ」

「知ってる」

「ほな、話早いわ。要するに、『そしたらベンジー、あたしをグレッチで殴って』って感じやってんな」

「曲変わってるぞ」僕は律義にツッコミを入れる。

「まぁ、せやから、うちはなんて言うか、うちの本当の母親みたいなのは歌舞伎町におるような気がしてん。ほんの十五、六くらいのガキや。それくらいの妄想はするやろ。ただ、その妄想がやけにリアルでなぁ。派手な紫色のドレス着て、お客にお酒注いで。臙脂と金色の内装の中でその女は軽やかに人生の風でくるくると舞っとんねん。曲の中では、去っていくのはその母親の方なんやけど、なぜかうちは自分の方がその世界から無理やり退場させられたみたいな心地がしとってな。はやく家出て、うちが本来いるべきその世界に向かわなあかん、みたいな気がしとった。そこにはシンデレラみたい何かをただ待ち続けるみたいな余裕はなかってん。蜘蛛の糸垂らされたカンダタみたいな焦燥感がうちを内側から燃やしとった。そういう感覚、あんたにはわからんかもな」

「まるでホリー・ゴライトリーみたいだ」

「誰やそれ。美味いんか」

「この伸び切ったきつねうどんよりかは」

「はっ」マリは短く笑って、そのまま身体を窓の方に捻った。

 僕はマリの残したきつねうどんを啜る。残りはわずかで、すぐに麺は無くなってしまう。マリの歯型がついた油揚げが半分と、冷めたつゆが後には残っている。

「一応、質問に対して完全な解答をさせてもらうとな」マリは窓の方を向いたまま喋る。僕は残ったつゆを啜っていた。「うちん中ではキャバ嬢を描いとったんや。歌舞伎町の女王、つまりナンバー1キャバ嬢を思い描いとった。でも、それはうまくいかへんかった。なんでやと思う? それはな、うちが『真理』なんて名前をつけられとったからや。うちは家を出てすぐに歌舞伎町に入って、キャバ嬢になった。そんで、男の扱い方も、酒の飲み方もすぐに覚えた。でも、それは随分と小手先のことのようにうちには思えた。周りのキャバ嬢との関係性だとか、ドレスや化粧や言葉遣い、全てのことはただの作業としてうちの中を通り過ぎて行ってもうた。うちの名前が欲しとる真理なんてものは、そこには一ミリも見いだせへんかった。ほんの九ヶ月や。仕事を覚えて、軽やかに振る舞って、踊るように時間が過ぎて行った。そして、気がついたら音楽は鳴り止んで、照明も消えて、緞帳が落ちた。うちは自分が思い描いた、椎名林檎的キャバ嬢のイメージに同化して、いや、まるでピノキオに吹き込められた魂にでもなったように、ただ無意識にその潔癖で美しい九ヶ月を過ごした。せやけど、それはさっきも言ったように、ただのイメージと同化するだけの作業やった。誰よりも上手くうちはキャバ嬢としてやっとったけどな、それはただの機械的な作業でしかなかってん。手応えみたいなもんがなかった。夢の中にいるみたいやったし、おとぎ話の主人公みたいになんも考える必要がなかってん。究極の着せ替え人形みたいな感じや。生まれたばかりに魔女に攫われた王女が、大人になって自分の出生を知って、曲がりなりにも育ててくれた魔女を殺してちゃっかり王子と結婚するみたいな、そういう空っぽのストーリーの主人公にでもなった気分やった。うちが思い描いていたキャバ嬢にはなれたし、それは一つの理想の具現化ではあったんやけども、そこではベンジーが肺に映ってトリップすることも、ベンジーがグレッチで殴ってくれるようなリアルな手応えがあらへんかった。せやから、うちはキャバ嬢を辞めて、風俗嬢になった。男の性処理が仕事や。人によっては、キャバ嬢よりも作業的やって思うかもしれへん。いや、実際に周りの風俗嬢の話聞いとると、元々キャバ嬢やったけどお客や同僚との人間関係に疲れた、みたいなこともかなり多い。せやけど、なんでやろな。うちにはキャバ嬢の方がもっと機械的にやれとった。多分、うちん中でキャバ嬢の理想像が出来上がり過ぎとって、そこには探求の余地もなければ、妥協の余地もなかったからやろな。それに比べて風俗嬢はうちにとってはおもろい。男の身体の作りも最初はようわからんかったし、なんていうか性的な興奮に直接結びついてる寂寥感みたいなもんがうちには新鮮やった。女はどっちかっていうと、性的な興奮と幸福感みたいなんは男よりも強く結びついとるような気がするしな。いや、幸福感言うのも違うか。まぁ、とにかく女はそれが張りぼてであっても、その幸福感みたいなもんで自分を騙すことができる。でも、男はなんて言うか、その辺が下手やから幸福の影に潜んどる冷たいナイフみたいなもんを素手で掴んでまうねんな。そういうんが全部おもろかった。そういうん一つひとつ学んでいく中で、うちは真理に近づいているような気分になれたし、一先ずは理想を羽織るだけの時間と身を切り離して、ちゃんと手応えのある生活を手に入れることができた。それはうちにとって、つまり『真理』いう名前持ったうちにとっては重要なことやった。せやけど、少しずつ失ったもんがあるってことにも気づいてった。キャバ嬢やっとるときのうちはとにかく綺麗やった。あんたにも見せてやりたかったわ。ほんまに綺麗やった。美しかった。ほんまの美しさ言うんは、無意識と密接に結びついとんねんな。そんことをうちは少しずつ知ってった。今はそんなうちに戻りとう思っても、もうできん。無理やねん。そんで、うちはさらに馬鹿やったことに気づいてもうた。うちは真理を求めて風俗嬢に転職したつもりやったんやけども、うちが手に入れたのは真理の手応えであって、真理そのものではなかってん。真理そのものはな、キャバ嬢やってたときの無意識のうちや。手応えのないこと。虚無感の中で揺れとる。それが真理やねんな。それを知ったいまのうちにはもうキャバ嬢に戻ることがでけへん。戻ったとしても、前みたいには振る舞えへん。うちは陳腐な手応えに齧り付く幸福感を覚えてもうた。心臓の重みも、脳みその不自由さも知ってもうた。もうあの頃のように軽やかにステップを踏むことはでけへん。靭帯が切れたら、雨の日はそこが痛む。それと同じや。うちにとっては、綺麗なドレスと淀んだアルコールは雨降りと同じやねんて。なぁ、こんなうちの気持ちはどうしたらええねん。何ゴミで出したらええねん。何曜日に回収してくれんねん」

 マリが独り言でも言うみたいに喋っている間に僕は、カップ麺を空にしていた。白いプラスチックのカップの底には、胡椒の粒がいくつかへばりついている。太陽は相変わらず弱々しい光を僕の部屋に投げかけていた。

 カチ、というライターの音。ぱちぱちと灰色の煙の中で炎が爆ぜる。マリの肺胞と気管支を痺れさす、塵にも見える化合物が気流を縁取って描く。僕は自分が吸ってるわけでもないのに、少し息苦しくなる。

「おれはこっちに出て来て、なんだか不思議な感じがするんだ。自分が何かを求めたという記憶がほとんどない。おれは基本的に変化というものを求めないし、マリみたいに真理を追究しようなんてこともない。ましてや、自分が美しく奔放な母親の生き写しだと夢想したこともない」

 僕の言葉を聞いてマリは笑った。うちは女王様の生き写しやったけどな、と自嘲的な笑いを煙とともに吐き出す。

「不思議なのは、そんなふうな人間であると自覚しているにもかかわらず、気がついたらこんな都会に出て来て、温かく健全な家庭から切り離されてこうやってマリみたいなタイプの人間と関わっている。夜の仕事をしている顔立ちの綺麗な女の子と一枚の油揚げを分け合うことになるなんて考えてもみなかった。せいぜい、サークルで知り合った頭の悪い女の子とそれなりに刺激的な性行為とありきたりの失恋をして、気がつけば旅先で死ぬほど酒を飲んだ記憶だけ引き連れて社会人になっている。そんな未来がおれの前には広がっているはずだったんだ。でも、そうはならなかった。ある意味では、そんなありきたりな大学生活がおれにとっての理想であって、それが手応えのない日常ってやつだったのかもしれない。だからさ、マリは絶対に嫌がるだろうけど、そういう意味ではおれもマリと同じなのかもしれない。ただ、おれはまだその理想を手に入れたこともなければ、失ったという実感もないけど」

 僕の言葉を聞いて、マリは目を細めた。眉間に皺が寄っている。怒りの感情が読み取れる。

 わかってる。

『同情を欲した時に全てを失うだろう』

 それがあの曲の歌詞だ。マリは同情どころか、同調すら求めてはいないだろうし、それをされることを何よりも嫌い、怖れ、それを遠ざけて来たはずだ。だから、彼女は僕に対して今、怒りの視線を向けている。

「あんたはうちの気持ちがわかる、とでも言うとんのか」

「あぁ、わかる。結局、理想なんてものは手に入れたところで、ただ無為に時間を過ごしてしまうだけだ。違和感こそが手に残る感触なんだ。おれはまだそんな無為に時間を進められるほどの理想の中に身を浸したことはないけど、だからこそ、一度はそこに自らを沈めて、その感触を知ってしまったマリのことは心底同情するよ」

「あんた、うちに殺されたいんか」

「あぁ、それもいいかもしれないな。何もない日々にしがみつくのにも疲れてしまったし、死んでしまうのも悪くはない」

 マリは僕に向けて煙草の吸殻を投げつけた。灰のクズが弾ける。幸い、というか、とりあえず火は消えているみたいだった。

「なんで怒ってるんだよ」

「あんたはわかっとるはずや。同情なんてもんがうちの――」

「だから、それも含めてなんで怒ってるんだ、って聞いているんだ。マリにとって、『歌舞伎町の女王』がある種の聖書的な役割を果たしていることは知ってる。だから、同情なんてものが許せないのもわかってる。でも、マリにはもうその聖書は必要ないだろ。神は去った。手元に残ってるのは、どこまでも肉感的な生活じゃないか。風俗嬢としてのくだらない生活。美しい、理想的なキャバ嬢としてのイメージは失われた。おれもそうだよ。もう戻れないし、仮に戻れてもうまくやれるわけがない。おれには馬鹿な彼女もできなければ、サークルの親友と旅行に行くこともない。海に行ったり、スキーに行ったり、テスト前にノートを見せ合うこともない。二日酔いで、仲間に講義の代返を頼むこともない。あるのは、くだらないカップ麺の油揚げだけだ。それだって、おれが好きってわけじゃない。マリが好きな油揚げだよ。トラウマ的な記憶と結びついてる安っぽい油揚げだけ。おれだって、同情なんて求めちゃいないけど、それでも仕方ないじゃないか。現におれはマリに同情できるし、いくらマリが同情されないようカッコつけてみたって、おれには見えてるんだよ。自分の生き写しみたいなマリの姿が」

 僕は半分以上、自分が何を言っているのかわからなかった。

 けれど、生まれてからほとんど感じたことのなかった何か熱いものが心臓を締め上げているのを感じる。ぎりぎりと血管を締め上げている。フリスビー型の赤血球が歪に圧迫され、中からはヘモグロビンが漏れ出している。ヘモグロビンが何だか正確にはわからないけれども、それが感情と密接な関係を持っていることは直感的に理解できた。

「マリと出会ったんだ。あのわけのわからない雨が降ってる夜の公園で。そこでマリは煙草を吸っていたし、おれはボロボロのビニール傘を持っていた。薄っぺらいワンピースを着たマリは確かに美しかった。普段、見知らぬ女の子になんて話しかけようとすら思わないおれが、知らないうちに声をかけてしまうくらいに。おれが自分のために買って来ていた缶ビールをビニール袋から取り出して、一本ずつ飲んだ。一つの傘の下で。雨の音がいつまでも続いていた。マリの肌は熟れた花弁のような匂いがして、おれはきっと汗臭かった。でも、なんだかあのときにおれは生きていることの手応えを感じたんだよ。生まれて初めて。安心感に包まれた日常にしがみついていたおれが、ついそれを手放してしまうくらい。そして、今もその手応えはこの手のひらに残っている。理想や真理なんてものからしたら、まったく取るに足らないものだよ。つい、かつて思い描いていた美しいものの方に目を奪われてしまうようなくだらない代物だ。でも、いま手元にあるものは、この鈍く重たい頓馬なものだし、それに結局は自らの意志でそれを求めたんだ。それが一瞬の血迷いだったかもしれないけど、後悔は無くならないかもしれないけど。だから、もう後はそれを受け入れるしかないじゃないか。いつまでも、神の消えた後の神殿に跪いていても仕方ないじゃないか。とりあえずは今あるものを受け入れろよ。同情だって受け入れろよ。同情が不要な世界は、もうここにはないんだ。音楽は鳴り止んで、現実の冷たい海に放り投げられたんだよ。そこで身を寄せ合うことをおれは悪いことだとは思わない」

 僕はほとんど泣くようにして言葉を吐き出していた。

 マリは黙って僕の方を睨み付けたまま、窓からの光を背に固まっていた。

 沈黙が痛かったが、とりあえず僕は喉の渇きを覚えて、マリの為に汲んできていたコップの水を一口で飲み干した。そして、間の抜けたことに、妙な尿意を覚えた。死ぬほど激怒した子供が、ひとしきり怒りきった後に不意に泣き出すように。いや、それとは何か根本的に違うような気もしたが。

「さぶ」マリが呆れたようにそう言った。「初恋に唆された中学生か。あんたがそんなさぶい人間やなんて思いもせんかったわ」

「別に何とでも言えよ。マリにけなされるのは慣れてる」

「録音しとけばよかったな、今の話。それネタに揺すれば、五百万は絞りとれたやろな」

「一円だって払うつもりはないよ。マリに金を払うくらいなら首を吊るね」

「保険金はうちが貰うから、結果的に五百万はうちのもんや」

「悪いけど保険金の受取人はちゃんと父親になってる」

「はぁ。誰がそんな真面目な返し欲しがんねん。ほんまつまらんやっちゃな」

 マリは呆れたように笑う。肩の力が抜けて、背後からの光も少し弱くなったようだった。薄暗い部屋の中で、マリの華奢なシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。彼女の顔は影に埋もれていたが、小さな部屋の中で不要なスポットライトを削ぎ落した彼女の姿はどこまでも美しく、僕の心を揺さぶった。

 マリはライターをテーブルの上に置くと、空っぽになった煙草のケースを僕の方に振って見せ、「新しいの買うてきて」と言う。人に煙草を投げつけるような奴に煙草を買って来てやる義理はない、と僕が言うと、彼女はまた「つまらんなぁ」と溜息を漏らした。

「頼むわ。めっちゃ吸いたい気分やねん」

 僕は仕方なく立ち上がり、床に落ちている吸殻と灰をゴミ箱に捨て、テーブルの上の空になったきつねうどんのカップを台所に持っていき、それからトイレに寄った後に、財布をズボンの尻ポケットに入れて家を出た。

 アパートから歩いて四十秒ほどのコンビニでマリの見せたケースの銘柄の煙草を買い、来た道を戻る。アパートの階段を登る途中、ふと、マリがもう部屋からいなくなってしまっているのではないか、という考えが頭を過ぎった。自然と足が早まり、少し乱暴に家のドアを開ける。

 マリがやや驚いた面持ちで僕を見つめる。

 それから、わずかに微笑み「おおきに」と僕に向けて手を差し伸べた。

 

2015年