霏々

音楽や小説など

The future should be what you endure

 僕が部屋の灯りを点けると、部屋の中をぼんやりとした黄色い光が満たしていく。冷たい夜風が、ほんの少し開け放っていた窓から入って来るので、僕は上着を一枚羽織ってから狭い部屋に一つだけ設けられているその両開きの小さい窓を閉めるために、そこへ歩み寄った。僕が窓に手を掛けると、ちょうどその時、ずっと下の方を二両編成の古ぼけた電車が高僧アパート群の隙間を縫うように走り抜けていき、その無骨な走りによって、トタンで組み上げていったような荒廃したこの街の無数のアパートたち全てが、まるで拍手喝采を送るようにガタガタと揺れる。

 空を見上げると、アパートの屋上に張り巡らされた電線が、気の利かない額縁みたいに白い三日月を切り取っている。それだけを見ると、僕はいい加減寒さに耐えかねて、吐き出した白い息を部屋から閉め出すように窓を閉めた。隙間風さえ入りたがらないような、というか、そもそも隙間ができるほどの設計さえされていないような、みすぼらしい部屋の中、僕は寒さで凍えた指先を擦り合わせてから、この部屋のほとんど唯一の家具であるベニヤ板を張り合わせて作ったクローゼットの扉を開けた。

「今、帰ったよ」

 美里はクローゼットの角に後頭部を立てかけながら、力無く座っていた。僕は彼女の腰辺りに手を回し、やけに軽いその身体を狭い部屋の中へとひっぱり出す。僕は畳の上に敷いたボロ切れみたいな布団に腰を降ろし、壁に背中を預けると、彼女を膝の上に座らせたまましばらくそうして彼女の穴の開いた背中を見つめて黙っていた。

 しばらくして、また電車が何十階分も下の方を走り抜けていき、僕はその振動ではっと意識を取り戻す。そして、畳の上に投げられていた両手でやっと扱えるくらいの大きさの銅製の捲きネジを手に取り、彼女の背中の穴へと差し込んだ。歯の噛み合う、ガチャという機械音がしてから、僕はそれを時計方向に両手を使って回していく。ただひたすら、さっきまで窓の外に見えていた三日月がその小さな額縁の外へと消えていくまで回し続ける。その間に電車はいったい何台このアパートの足元を通り抜けていったか。通り過ぎる度に数を数えてみようとは思うものの、結局一台までしか数えることのできない僕に夜は冷たく、どこまでもゆっくりと時間を押し流していく。けれど、この街の夜はきっと他の街の夜よりもずっと長くて、僕は指先から肘から肩から、挙句の果てには腰や膝や足首が痛くなるまでネジを捲き続けたのだけれど、それでも夜は決して明けることはなかった。

 いったい何時間、僕は彼女のネジを捲き続けたのだろうか。気が付けば、僕の膝の上に座り続けていた彼女の身体からうっすらと心臓の鳴る音が聞こえてきた。全ての空間が雪で満たされたみたいに静かなのだ、この部屋は。故に、僕が彼女のその小さな鼓動を聞き逃すはずもない。「もう少しだ」と思うと、身体の痛みは蜃気楼が風に掻き消されるみたいにどこかへと失せていった。徐々に彼女の身体に熱が帯びていく。百回捲く度に、彼女の体温は一度上がり、何千回と巻いた頃にはひっそりとした彼女の寝息が聞こえるくらいになる。僕はこの寒い部屋の中で、額から汗を流しながらネジを捲き続けた。

「おはよう」

 僕は彼女の耳元に小さく挨拶の声をかけた。優しく、一枚の羽毛すら吹き飛ばさないような空気を流し込むような喋り方だ。彼女の指先がぴくっと動いた。それは合図だった。僕は彼女の背中から捲きネジを取り外し、そっと抱き寄せる。

ヒロトさん」と彼女は、目を擦りながらこちらの方を振り返る。彼女の細やかな瞬きに合わせて、その可憐なる睫毛が鋭敏な震えを見せる。彼女は僕の名を口にした後は、いたって泰然とした態度を崩さず、そっとそのしなやかな手先を僕の手の甲に伸ばしてきた。僕は彼女の手が僕の手の甲に重なるよりも先に、手を翻すと、こちらから彼女の手をさっと握った。美里の手は、生き物の温かみを宿している。

「ごめんね。今日は忙しくて、美里を起こすのがこんなに遅くなってしまったよ」

「ううん、いいのよ。それよりも今日は寒いわね」

「あぁ。さっき窓の外に向かって息を吐いてみたんだが、これが、また真っ白んだ。まるで真冬だよ」僕はそう言いながら、さっき窓の外に首を出した時に見た三日月のことを思い出した。「今日は綺麗な三日月だったんだ」

 彼女は僕の予想通りに、楽しそうな驚きの声を漏らした。「ほんとうに?」と言うので、「ほんとうさ」と返す。

 彼女は奥ゆかしい動作で立ち上がると、僕の手を引き、月を見るために窓際へと歩いて行った。歩いた、と言っても、この狭い部屋では2,3歩の道のりではあるが。

「もう随分と低いのね。そろそろ、あの建物の影になってしまうわ」

「すまない。本当はもっと早く起こしてあげたかったのだけれど」

「ううん、それは全然かまわないのよ。ヒロトさんが謝ることはないわ。私、一目でも三日月を見られてうれしかったし、それに、私は三日月を見るためにこうしてヒロトさんに起こしてもらったわけではないもの」彼女はほんの少しだけ、僕の手を強く握りしめた。僕は窓の向うに視線を投げる彼女のその華奢な背中を抱き寄せ、彼女の薄い肩に顎を乗せた。彼女は頬を赤らめ、横目でちらりと僕の目の奥を確認する。 

ヒロトさん、目が真っ赤だわ」

「今日は本当に寒かったんだ。それにとことん乾燥していて、この街の空気はね、目に染みるんだ」

「嘘。ヒロトさん、きっと哀しいことがあったのでしょう」

「そんなことはないよ。仮にあったとしても、こうして美里がいる。哀しいことなんて何一つないさ。僕の目をもっとよく見てごらん」

 彼女は怪訝そうな顔で僕の瞳を覗き込んだ。黒く、真珠のように艶やかな彼女の瞳に僕がきっちりと写り込んでいる。僕は彼女の前髪を掻き分け、その猫のものよりも狭い額に口づけをした。 

「やっぱり、哀しいことがあったんでしょう」

「ははは、隠し事はできないな」僕は苦笑いを浮かべ、彼女胸に手を当ててみた。心音が次第に遠のいていく。

「何があったのか、聞かせてほしいわ」

「そうだな。もしかしたら、冬の空気と寂しげな月が僕に乗り移ったのかもしれない」

「冗談はよして」彼女は明瞭な声でそう言った。が、僕の掌に感じる心音は一秒ごとに弱くなっていき、肌は雪のように冷たくなっていく。何度経験しても、僕は未だこの感触に胸をえぐられるような気分になる。彼女はまた死んでいく。 

「また、明日、話そう。おやすみ」 

 彼女は僕の腕の中で、ゆっくりと瞳を閉じていき、そして、一人では立っていられなくなった。甘い吐息を残して、彼女の沈黙に沿うように空が白み始める。僕は彼女を抱えて、クローゼットまで歩いて行くと、彼女の頬に落としてしまった小さな水滴を指先で拭ってから、扉の向こうに彼女を寝かせてやった。

 

 結果から言って、僕は左手を失った。いや、左腕と言った方が良いか。今日の昼間のことだ。夕陽の差し込む部屋の畳の上に、僕はポケットに押し込んでいた札束を投げ捨て、金槌で叩き続けられているように痛む左腕の切り落とした断面の辺りを右手で掴みながら、僕はまとめていた紐が解けて畳に散らばった札の海の上に寝転がった。聴衆の狂ったような歓声が未だ耳に残っている。随分と反響があったことは単純に金銭面から見て嬉しいことだったけれど、おかげで気分は最悪だった。できることならば、あんな連中から金など受け取りたくも無かったけれど、絵を描くためには仕方ない。

 僕の注射痕だらけの左腕は、見世物として観客の目の前で切り落とした後、日ごろ世話になっている連中に売っ払ったのだけれど、こんな無茶をしたのは、別に気が狂ったとかそういうことではない。仮に気が狂ったというならば、僕は生まれてこの方気が狂っているということになるだろう。観客として僕のショーを見に来ていた奴らは、きっと気にしないだろうが、僕が腕を切り落とした理由はとても簡単で、一応背説明するとするならば、単純に金の為だった。僕は画家であるし、眼と右手さえあれば・・・いや、正確には眼と右手と薬さえあれば、仕事はできる。本来は「眼と右手と美里さえいれば」ということだったのだけれど、僕は美里を失ってから、彼女の身体に発条を組み込むまで、まったく絵が描けなくなってしまったのだ。そして、僕は全てを失うことを承知で薬に手を出した。

 薬を手に入れることなど、この灰や塵だらけの街では息をすることよりも簡単だ。この街に無いものなんてあるはずも無く、あえて、それでも何か一つ無いものを、と問われれば「それは、意味だろう」なんて言葉を軽々しく口にできるほど、この街にはなんでもあった。いや、決して豊かというわけではない。この街にブランド製品なんてものはないが、かと言ってブランド製品を欲しがるような馬鹿もいない。つまり、この街で生きていくために必要なものは何でもある、という意味だ。ブランド製品が欲しければ、この街を出て行けばいいのだ。

 そんなわけで、僕は絵が描けなくなると薬を求め、そして冴えわたる頭を壁に打ちつけながら絵を描き、金を得た。最初の内は良かったのだ。薬は少量でも良く効いたし、そのおかげで、薬の出費よりも絵で稼ぐ収入の方が多く、この荒廃した街で、僕はちょっとした名声すら勝ち得ることができたのだ。そして、溜まった金で、僕は美里の身体に発条を埋め込んだ。美里に事情を説明するには、僕は3度もあの永遠なるネジ捲きをしなければならなかったけれど、僕の深い愛情に彼女は泣きながら喜んでくれた。が、そんな幸せなどまさに流れ星のように一瞬の出来事で、僕が5時間もかけてネジを捲き続けても、彼女が目を覚ましていてくれる時間は十分もなかったし、次第に収入よりも出費がかさむようになっていった。そして僕は左腕を失った。

 

 天井のトタンはあのトランプタワーの一枚のように、このアパートの必要不可欠の一枚として、辛抱強く夕焼けの色を受けていた。僕は顔を傾け、左目に写ったクシャクシャの紙幣に手を伸ばそうとした。が、手ごたえは無い。僕は喉の辺りに熱い込み上げを感じ、歪む視界を手の甲で拭うと、ひとつ、重たい溜息を吐き出してから、右手でそれを拾い上げる。その皺だらけの紙屑を右手だけで破るのは容易ではなかった。

 

 やがて日が暮れ、冷たい夜が僕の首筋をなぞる。僕の耳にはまだ野次の音がこびりついていて、時間が進むにつれて僕の中に閉ざしていたあの鮮血の記憶が浮かび上がってくる。きっと、あの瞬間は薬を打った時と同じような物質が身体を駆け巡っていたのだろう。あの瞬間は痛みなど感じなかったし、静脈のどす黒い血と動脈の鮮やかな血とが混じる様子を見ても恐怖すらなかった。が、もう僕を救うものは僕の中に流れてはいない。例の物質は、全て僕の左腕の中で生産され、貯蔵されていたかのように、完全に失われていた。僕はさっそく手に入れた金で薬を買いに下まで降りて行こうかとも思ったけれど、残念なことに外が暗いのはわかるが、この部屋には時計というものがなかったうえ、窓の外を眺めてみても漆黒の雲が空を覆っていて月は見えず、いったい今が何時なのか全く見当がつかない。軽い混乱状態、いや、放心状態と言った方が正しいか、とにかくそういった冷静な自分でいられないこの状況においてはもはや、時間感覚などというものは肩甲骨を見て翼の名残を思うが如く、ただそういうものが嘗てはあったのだ、というシコリみたいなのを頭の中に微かに感じるだけだ。仮に時間がまだそんなに遅からず、薬屋の爺が酒を飲んでいるとすれば、今にでも下に降りて行って、彼に札束を投げつけ、釣銭をもらう時間すら惜しみながら、自分の左腕に注射の針を・・・左腕?

「そうか。もう左腕は・・・」 

 僕は呆気なく冷めた笑い声に包まれた。まったく、こんな笑える話があるだろうか。僕は一通り天井に向かって笑いかけてみたが、数分経ったくらいで、例の電車が通ったせいだろうか、僕と向かい合う彼は「カタカタ」と乾いた笑い声をあげただけだった。

 笑い疲れたせいで、僕はもう下へ降りて行って薬を買おうなんていう気は失せてしまっていた。下に降りるまでには何千段という階段を降りなくてはならなかったし、それに、僕は下に降りるということは帰りには上がって来なければならない、という歴然たる事実を完全に忘れていたのだ。仮に数千段の階段を降りることができたとしても、帰りにそれと同じだけの段数を昇るなんて、左腕も無いのに不可能である。

 

 そうこうしているうちに、夜は深まっていく。空気は冷たく、僕の身体は末端から徐々に冷たさを帯びていったが、窓を閉める気にも、布団を被る気にもなれず、ましてや、彼女を抱き寄せてネジを捲くような気にもなれなかった。ただただ、遠いような近いような天井を見上げ、背中に服の折り目や屑のような紙幣の凸凹を感じながら、横になっているだけだ。僕はとりあえず、頭の中でゆっくりと十を数えてみた。それくらい数えれば、その間に薬屋は閉まってしまうだろうし、そうすれば何かと色々と気持ちは切り替わって、そのうちに起き上がるだけの元気も回復するかもしれない、と、そう思っての行動だった。

 息を吐いて、吸って、という繰り返しの間に、たまに「一」と小さく唱え、右手の指を1本曲げる。だいぶ時間をかけて五まで数えたところで、ふと、短く笑って、次の一秒で左手の人差し指を曲げる代りに、右手の小指を再び開く。まるで、この世界のいたるところに、片腕初心者である僕の為に、左腕を失くしたことを気づかせてくれるアラームのようなものが設置されているような気がした。十秒ではなく、五秒にしておけば良かったと後悔したのはこれが初めてで、おそらく今後何度となく似たような失望を感じることであろう。

 僕はひとまず、永遠にも似た十秒を数え終わると、一つ息を吐き、わずかながら身体に力が入ることを確認してから、ゆっくりと身体を起こし、冷たくなって痛む左腕を擦りながら、窓を閉め、紙ペラを部屋の隅に寄せると、クローゼットの中から美里を取り出した。いつも通り、彼女を膝の上に乗せ、今日もまた寒いので、肩から、否、右肩から毛布を掛け、冷たくなった銅製の捲きネジを右手で掴み、彼女の背中の黒く冷めた穴へと差し込むと、いつものようにネジ捲きを始める。最初の内は片手でネジを回すことの難しさに若干戸惑ったけれど、だんだんと動作に慣れていき、両手でやっているときよりもスムーズに、とまではいかずとも、両手の時と比べてそんなに遜色ないくらいには滑らかに回すことができた。予想通りである。が、しかし、自分の頭の悪さを思い知るのはそれから数時間後であった。滑らかに、素早く、ネジを捲くことはできたのだけれど、両手でやっていた作業を片手でやるようになったのだ。当然、疲労が溜まるのは2倍も、3倍も早く、気が付けば、初めて彼女のネジを捲いてやった時のように、僕はこの寒い季節だというのに、汗を額から流していた。

 右肩から掛けていた毛布を降ろし、僕は上着の肩の辺りで額の汗を拭った。徐々に彼女の身体が温かくなっていくのを感じ、あと少しだ、と自分を励ましながら息を切らし、ネジを捲く。僕はいつものように、背中の捲きネジを抜き取ると脇に捨て、世界が夜だということも忘れて、「おはよう」と朝の挨拶を彼女の横顔にかけてやった。

「おはよう、ヒロトさん」 

 彼女は本当に、休日の朝にのんびりと起きてきた娘のような感じで、眼を擦り、小さな欠伸を含んだ気の抜けた表情で僕に挨拶を返してくる。僕はそっと彼女の右手に自分の右手を重ねた。 

ヒロトさん、どうしたの、その手!」

「なんでもないよ」僕はネジを捲く間の充分過ぎる時間を使って、失くした左腕についての言い訳を考えておけば良かった、と心底後悔しながら、そう返すしかなかった。

「なんでもないことないわよ。昨日まで・・・ううん、昨日なのかどうかは知らないわ。とにかく、この前ヒロトさんと会ったときには、ちゃんと左手があったのに! なんで・・・」彼女は口元に手を当てがいながら、刺殺体を見つけてしまった時のように、驚愕に青ざめた顔で僕を見上げている。美里は既に僕の膝の上からは離れていて、畳の上に膝をつけ前のめりになった身体を両手で支えているという格好だったけれど、部屋の隅に押しやられた例の紙幣の山を見つけると、身体を起こし、膝だけで歩いてその山の麓まで近づいていった。「このお金・・・もしかして、またあのお薬、使ってるの?」

 僕は黙ったまま彼女の方をじっと見つめた。美里はしばらくの間、僕の方に視線を向けていたけれど、僕が沈黙を守ることを決意していることを悟ると、また紙屑の山の方に目を向け直した。彼女はひとり、首を横に振り続けながら、「私、ずっと前から気になっていたのに、ヒロトさん、時間が勿体ないからよそう、なんてことばかり言って、私をはぐらかして・・・もう、どうしてこんな事に・・・隠し事はやめてって言ったじゃない!」彼女の甲高い叫び声はおそらくアパート中に響き渡っただろう。が、このアパートには人の揉め事に口を挟むような輩はいないし、この時間では既に泥のように眠っているか、酒を飲んで正気を失っているかだ。僕は彼女に叫ばせたいだけ叫ばせた。

 

「自分の腕を売るなんて・・馬鹿げてるわ! どうやって生活していくって言うの!」

「右手はあるし、絵は描けるさ」

「そういうことを言ってるんじゃないわよ。ねぇ、そこまでしてお金が必要なの? 絵を描くだけじゃお金は稼いでいけないの?」

「絵を描くためには薬が必要なんだよ」

「じゃぁ、絵なんて描かなきゃいいじゃない! お金を稼ぐための絵を描くのに、もっとたくさんのお金が必要なんて、おかしいわ」

「言い方が悪かったな。僕は、もう薬なしじゃ生きていけない身体になってしまったんだよ。もちろん、絵を描くためにも薬は必要だが、それの大前提として、ただ生きていくためにも・・・植物に太陽と水が必要なように、僕には薬が必要なんだ。どうしようもないことなのさ」

 美里はその洗練された目尻から涙を一筋だけ流す。それから、鼻を啜り上げ、湿気を含んだ息の塊を吐き出すと、僕の方に近寄ってきた。そして、僕の左腕の切断面(肩の可動部分から拳一個分くらいの所だが、今は決して清潔とは言え無さそうな包帯でぐるぐる巻きにしてあり、上着の中に引っ込めてある)の辺りに手を伸ばすと、服の上からそこを優しく撫で、「ごめんなさい、私のせいだわ」と力無い声で言う。

「そんなことはない」僕は力強く否定する。

「いいえ。ヒロトさんがお薬を使い始めたきっかけだって、私が死んでしまったせいじゃない。私はヒロトさんを苦しめるばっかりなんだわ」

「違うよ。僕は・・・僕は美里のいない世界なんて惜しくない。ましてや自分の左腕なんてこれっぽっちも。たとえ、美里が僕を苦しめる、なんてことが仮に起こったとしても、そんなことはどうだっていいんだ。さっき、僕は生きていくためには薬が必要だ、と言ったが、薬なんてものは、所詮、植物にとっての太陽や水くらいのものさ。美里は僕にとっての全て、つまり、世界なんだ。世界が無ければ、植物も何もかも、存在することはできないだろう。「何もかも」というのは、生命であるとか、そういったこととはもはや次元が違う。思想や感性や、全ての抽象的な存在についても言えることだよ」

 僕は熱を込めて、彼女に語りかけた。けれど、彼女は完全に口を閉ざしてしまって、部屋の扉の向う側で、下の階か、そのまた下の階か、それともずっとずっと下の階か、或いは上の階だったのかもしれないが、酒に酔ったと思しきこのアパートの住人が、廊下か階段で何やら悲痛な呻き声を上げる音が響いているのが聞こえるだけだった。それから数十秒もしないうちに、彼女は両手で顔を覆うと、声を上げてまるで赤ん坊のように泣き始めた。しかし、その声は突如弱まり、次の瞬間には彼女は畳の上に倒れ込んでいた。閉じた瞼の下には涙の川の跡が残り、心臓が止まってもなお魅力的な黒髪が、血の気の失せた頬に引っ付いている。呆気なく、彼女との時間は過ぎ去り、僕は彼女の追及を免れた安堵と、貴重な時間を無に帰してしまった後悔とに挟まれ、悶えながら畳の上に身体を投げ出した。

 夜はまだ明けない。僕は汗ばんだシャツを脱ぎ棄て、わずかに血の滲んだ不潔そうな包帯を見下ろし、右手で微動だにしない彼女の左手を掴み、そのまま目を瞑った。左腕一本分、少し寒いのを埋め合わせるように、彼女を隣に湛えながら灯りも点けたまま眠りに落ちていく。 

 翌日、小さな窓から差し込む鋭い朝日に瞼を貫かれ、日頃の睡眠不足と何故だか痛む左腕に闇雲な憤りを感じながら、身体を起こす。布団も敷かずに寝ていたため、右足の踝に畳の跡が刻み込まれてしまっていた。そこまで一通り自分の身体の点検を終えたところで、僕は自分の隣に横たわっている人影に気が付いた。その顔を確かめると、僕は誤って爪楊枝を飲み込んだみたいに飛び上がって、朝日をしたたかに纏っている彼女のもとへと駆けよる。

 白くきめ細かい肌は、朝露を装飾した蜘蛛の糸のように煌めいていて、夏の草原みたいに穏やかな腕の産毛が陽に透き通っている。血色の悪いはずの頬にも懐かしい温かみが宿っている。本当に、夜更かしをした次の日に、ただ昼過ぎまで寝ているだけのような優しげな表情に僕は天使のうなじを目の前にした時のように、純粋に見惚れて、ずっと前に沈めてしまった記憶の氷塊を深海から引き揚げると、僕はそれにそっと息を吐きかけてゆっくりと溶かしてから、目尻からその雫を流した。僕は冷たい彼女の手に右手を重ねる。そして、小さな窓から差し込む、窓の十字の支えの影付きの光を背に受け、彼女を容赦なく襲う懐かしき朝日から守った。陽の下で朗らかに笑う春の彼女の面影は、もう僕の記憶の中だけで、目の前の彼女自身からは完全に失われてしまっていた。僕の醜い影も左腕を失い、それと共に過去の姿を失い、この狭苦しい部屋の中、僕たち2人は、欠陥品の処理場に設けられた薄汚いゴミ箱の中に捨て去られてしまった、そんなうら寂しいような気分に襲われる。

 僕は涙を拭き、とりあえず、彼女を暗いクローゼットの中にしまった。部屋の中から彼女の姿が見えなくなると、何となく狭苦しく感じられた部屋も、自分の身体にぴったりとフィットするようなところを飛び越えて、やけに広々と感じられ、なんだか自分が、秋の夕暮のアパートの屋上に忘れ去られた洗いたての黒い靴下の片割れになったような、得も言えぬ寂しさに囚われた。風すら入り込まない部屋で、隅に押しやられた紙の束が光の塵を受けて満足そうにしている。左腕の無い人影越しにそれを眺めていると、無性に腹が立ってきて、マッチの頭から足先までとは言わなくても、あの赤い頭の部分さえどこかに転がっていれば、僕は眼を爛々とさせてそれを拾い上げ、たとえそれが涙に湿っているようなことがあっても、きっと何とかしてその紙屑に火をつけただろう。が、僕の部屋にはそんな哀れな赤い頭部すらおらず、紙幣に描かれた、今や、この街の誰もがその名前を知らぬ、いかにも博学そうな無数の顔ばかりが僕を睨んでいた。

 そこまで来て・・・ちょうど感傷と怒りが打ち消し合うような形で僕の中から一切の感情が消え去ったところで、僕は彼女を朝日に晒した過ちについて思い返していた。彼女の身体は、もはや陽の光すら受けられないのだ、少なくとも死んでいるときは。それは至って生物学的な理由であり、説明はそれだけで十分と言えた。まさか、彼女の真の姿は吸血であった、などと言い添える必要も無ければ、世にも珍しき「太陽の光アレルギー」持ちであると嘯いて同情を買うつもりもない。ともかく、僕は彼女の身体を辛辣な太陽の光から守らなければならなかったのだけれど、寝起きだったせいなのか、悠長に何十秒間も太陽のスポットライトの中で舞台のワンシーンさながら彼女の温かい顔を見下ろしてしまっていたし、そもそも腕を失ったことによる動揺のせいなのか、眠りに落ちる前、彼女をクローゼットの中にしまい込むという通例業務も忘れてしまっていた。まったく、僕はなんて馬鹿なのだろうか。切り落とした左腕の中には、実は脳みそがぎっしり詰まっていたんじゃないか、と疑いたくなる。

 

 それから僕は絵を描いた。太陽の光を受けた彼女の姿を一目でも見れたおかげなのだろうか。薬は必要なかった。何をヒントにそんなイメージが浮かんだのかはわからないが、この街ではない、どこかもっと清潔で洗練されていて、そして生き物が失われた静かな場所の雨上がり。朝なのか昼過ぎなのか、時間帯は良くわからないけれど、空はだいたいが雲の薄い灰色で、遠くの方には千切れた様に水色が見え隠れしており、地面には薄い膜のような雨水が流れていて空の色を銀色に変えて映し出している。右手には雨の水溜りの色と同じような鉄骨で骨組みされたガラス張りの建物があって、白とも青とも黒とも判別のつかぬ服を身に纏った僕(まだ左手を失っていない時分の僕である)が、力無くしゃがみ込んでいた。所々に、あの雨上がり独特の濃い色をした緑が、自然の美しさを主張する、というよりもむしろ、その場所の病院のような寂しい清潔さを印象付けるような形で描かれている。全体的に窓枠に積もったその年で初めての雪みたいな冷たい美しさが刻み込まれている感じの絵だった。

 

 気が付けば夜。粗く、完成度の低い絵ではあったけれど、初雪の如き新鮮味のある絵が描けた。僕の頭は、このアパートの何億段もあるであろう階段を一番下の階層から一段ずつ丁寧に数えながら上がってきた後のような、取り留めもない混乱の中にあったけれど、辛うじて夜であることがわかると、ついさっきしまい込んだばかりの彼女をまたクローゼットから引きずり出して、今日もまた、額から汗を流しながら、右手だけで永遠なるネジを捲いた。瞳を輝かせながら僕の描いた絵を覗き込む彼女の端正な横顔を思い浮かべながら。

 彼女の純粋なる笑顔を思い浮かべながらのネジ捲きの時間は、僕の心から水に沈めた鉛のような重たい感情を消し去り、そしてあっという間に彼女を覚醒へと導く。窓の隅には親愛なる黄金の半月が覗き、彼女が僕の絵をそっちのけで窓の方へ駆け寄ってしまわないだろうか、という心地よい不安に、小動物に指先を舐められているときのようなくすぐったい気分になる。また、僕の膝の上で彼女は体温と鼓動をゆっくりと取り戻していき、首筋からは生の匂いが漂い始める。僕はいつものようにそっと、おはよう、と声を掛ける。

 「おはよう。ヒロトさん」彼女の声は弱々しく、まだ深い眠りの余韻を引き摺っていた。彼女が僕の左腕の件でまだ怒ってやしないか、と少々不安ではあったけれど、今日一日かけて描いた僕の絵を一目でも見てさえくれれば、きっと機嫌を直してくれる自信は十分にある。なぜなら、彼女の為に描いた絵なのだから。

 僕は彼女の後ろ髪を優しく撫で、彼女が眠りから完全に目を覚まし、そしてあわよくば、視界の端に素敵な絵があることに気が付いてくれるのを待った。

ヒロトさん」

 彼女の声はまだ雪の日の夜みたいに静かだった。僕も小さな声で、どうしたの、と聞き返してみる。

「驚かないでね、私・・・」彼女はそこで一旦言葉を切り上げ、湿り気を帯びた溜息を部屋に浮かべると、彼女の腹へと回した僕の腕の上に熱い涙を零しながら、「眼が・・・眼が見えないの」と力無く言葉を添えた。

 僕はそれなりの大きさのハンマーで側頭部をガツンとやられたみたいに、一瞬のうちに何も考えられなくなり、無意識下で「嘘だろ」か、「そんな」か、どちらかの言葉を返す審議会を設けると、難航した話し合いの結果を待ちきれなかった唇が「そっか」と、待ち合わせに遅れた女の子の言い訳に対する返答みたいな感じで短い言葉を零した。彼女はこちらを振り返り、そして、涙に溢れた虚ろな瞳を僕に向けた。

「どうしよう・・・私、ヒロトさんの顔、見れなくなっちゃった」大袈裟な音響効果無しでも、彼女の心からの悲鳴が聞き取れる。彼女は小刻みに頭を横に振り、震える身体を自分で抱きしめながら「どうして」、「どうして」とだけ小さく唱え始めた。

「僕のせいだ」

 僕が朝日に彼女を晒したせいであることは明白だった。彼女よりはまだ本来の生き物に近い僕ですら、今朝の朝日は瞼越しにも凶悪であった。身体に発条を埋め込まれてただ僕の好き勝手に生かされている無垢なる彼女が、そんな凶悪性に打ち勝てるはずも無い。僕は彼女よりも一回り大きな身体をガタガタと震わせて、彼女の手を取った。彼女の両手を繋ぎとめてやりたかったけれど、生憎、僕には片手分しか持ち合わせていなかった。

「僕が、美里を朝日に晒したりしたから・・・」

「どうして・・・ごめんなさい・・・なんで」

「ただの不注意だったのかもしれない・・・それか、もしくは、気が狂っていたか」

「ごめんなさい・・・私、ヒロトさんの顔も、ヒロトさんの絵も・・・何も見れない」

「僕は馬鹿だ。美里をこんなにしてしまって」

「どうしたら・・・私、ヒロトさんを苦しめてばかりだ」

「ちくしょう! なんで美里ばっかり!」

「なんで私は・・・」

 彼女のか細い泣き声を僕は抱き寄せ、光から何からを失った彼女の瞳に無意味に被さる瞼にそっと唇をつけた。睫毛がふわふわと僕の下唇を持ち上げる。僕の心臓は憤りと絶望とに駆られ、一秒でも早く、一回でも多く残りの心拍回数を消費しきってやろうと、今にもはちきれてしまいそうに膨張と収縮を繰り返していた。そんな僕のそれとは反対に、彼女の胸中のはかなき生命は次第に減衰の一途を辿っていく。おそらく朦朧としていっているであろう意識の中、彼女はしゃっくり混じりの言葉を残す。

「ごめんなさい、私、色んな物をヒロトさんから貰って、こうして生きていられたのに・・・ヒロトさんが色んな物をかけて私にくれたものなのに、それを失くしていくばかりなんだわ。大好きなヒロトさんの顔も絵も、何も見えなくなっちゃうなんて。ごめんなさい、ヒロトさん。私、ヒロトさんの為に、ヒロトさんの描いた絵を見て、笑顔を見せてあげたかった」そこで彼女はひとつ区切りをつけ、そして鼻を短く啜り上げると、ぼろぼろだけれど、どこか清々しい一瞬の微笑を浮かべ、それから言葉を続けた。「でも、多分、今からでも、まだ時間はあるはずよね。ごめんなさい、もしかしたら、ただの嘘っぱちのように見えるかもしれないけれど、私、ヒロトさんが絵を描いてくれたの、わかるわ。こんな狭い部屋じゃ、絵の具の匂いなんて一発でわかるんだから。そう、ヒロトさんが何色の絵の具で、どの筆を使って、どんな絵を描いてくれたか、なんてことはね、簡単にわかってしまうのよ。だからね、感想と感謝をね、私にも表現させてほしいの」

 彼女は両の腕で僕を抱きしめ、そして僕の呼吸を探るように鼻先を震わせると、それからにっこりと笑って僕の唇に彼女の冷たくなりつつある唇を重ねてくれた。「ヒロトさんの絵、素敵よ。眼で見てあげられないのが、本当に残念だわ」精一杯の笑顔を僕に向けたまま、彼女はまた深い、深い眠りへと落ちていった。僕は関節だけになった彼女の身体をしばらくの間抱いた後、窓の額縁から黄色い半月が、彼女の瞳に写されることも無しに去っていくのを見た後で、再び同じ過ちを繰り返さぬよう、寂しさを特大の鉈で断ち切って彼女をクローゼットの中にしまいこんだ。独りの長い夜が僕を捉え、空が白み、果ては街がざわつくまで、僕は眠りに落ちることができなかった。

 

 太陽が傾きかけ、街にくたびれたような色を浮かび上がらせる辛辣なる光を投げかける時分、僕は朧気な夢にそっと幕を引き、この狭い畳の上に支配された世界へと戻ってきた。僕の気持ちは長い降下を潜り抜け、今では枯れ果てて粘土質の黒い土が剥き出しになった井戸の底にしっかりと腰を下ろしている。何もかもがフラットに感じられるようで、何もかもがまるで夢見心地のように、実体を為していない。訴えかけてくるのはせせら笑う白い太陽の影と、くすんだ畳と、色褪せたクローゼットと、左腕の無い一体の影だけで、もはや自分が生きている感じすらしなかったけれど、ほんの数秒前まで見ていた夢を思い出す暇も無く、僕の胃は間の抜けた呻き声を上げた。――「そういえば一昨日から何も食べていなかった」――戦地に送り込まれた兵士さながらの台詞が、僕の頭で蚤のように飛び跳ね、僕は手元に落ちていた紙切れを何枚か掴んでズボンの尻ポケットに入れると、ドアのフックに掛かっていた鍵を取って、部屋を後にした。

 錆だらけの赤黒いタイルを張り合わせて作った、トランプタワーを想起させるこのうらぶれたアパートは、荒廃した未来都市の遺物のように、その高さは著しく、そして「口」の字に廊下が張り巡らされていて、階層と階層とを縦横無尽に繋いでいる階段は今にも崩れ落ちそうで、遠く上方を見上げれば、黄色い雲が浮かんだ塵だらけの青い空が小さな点になって見える。生活臭とも工事現場の匂いともつかぬ、錆と油の匂いが立ち込めるこの細長いアパートには蟻塚の蟻みたいに無数の人間が生活しているはずだったけれど、実際に感じるところとしては、墓地を組み上げて作ったのかと思いちがえるほどに静かで、時折廊下に腰を下ろしている老人や身体に何か知らの不具合をきたしている(まぁ、僕も晴れてその一員になったわけだけれど)顔の浅黒い人間も、身動きというものをすっかり忘れてしまったようで、内気な亡霊のように、ただ何となく見えるだけである。僕はできるだけ廊下沿いに設置された堅実な階段を選んで(「口」の字の口の中を滅多切りしている自由奔放な階段を使っても良かったのだけれど(気にすることなど無いのかもしれなかったけれど)人目に付くことと、階段の老朽化が結果的に僕に齎してくれるであろう「昇天」ならぬ「降獄」を恐れたのだ)、馴染みの食事処が店を構えている階層まで降りて行った。一段、左脚を降ろす度に、その僅かな振動で左腕の付け根が痛み、一段、右足を降ろす度に僕の愚劣な行動による記憶が痛み、息を吸い込めば、塵の多さと空気の薄さに目が眩み、心臓が打ち鳴らされれば、それはやっぱり振動となって左腕の付け根が痛む。額から垂れる汗が階段を侵食してぼろぼろの鉄くずへと変えて、そのまま僕は錆びだらけのタイルごと下へと真っ逆さまに落ちていくんではないか、こんなことなら空の光を浴びることができる自由奔放な階段を使っておけばよかった、などという空想が湧き上がったりもする。そんなこんなの身体的かつ精神的な不安定性の中に埋もれ、そのうちに僕は「飯を食う」という目標を掲げることで、一先ずの安息を得られることに気が付くと、それからは頭の中で、米を一度噛む度に階段を一段下りる、というようなルールを設けて、ただどこまでも素直に脚を降ろしていくことに専念した。

 ちょうど丼三杯分の米を妄想の海の上で平らげたあたりで、僕はようやく本当の飯にありつけそうだった。尻ポケットに詰め込んだ紙屑は汗でほんの少し湿っているが、それでも本来の機能を果たすことはできるであろう、と確認してから、僕はスケッチブック程度の大きさの木製の看板がぶら下がっているだけの(それには当然、「営業中」と書かれていて、裏面にはきっと黒々とした文字で「休憩中」などと書かれているはずなのだろうけれど、僕はその三文字を見たことが無い。営業してなくたってこの店は「営業中」なのだ)飾り気がない、と言うよりはむしろ、汚らしいと表現した方が的確なドアを開けて店内に入った。

「おう、ヒロちゃん」

 店主が僕の方など見向きもせず、テレビに目を向けたまま背中で挨拶をしてきた。いったいどうして、こっちを見ることもせずに来客の正体が僕だとわかるのか、僕はいつも不思議に思うのだけれど、彼曰く、「何も視覚だけが情報源ってぇわけじゃねぇだろうが」、らしい。まるで犬だな、と僕は心の中で唱えたことすらあったのだけれど、その時に、偶然なのかそれもと意図的なのかの判断を下しにくい咳払いを、店長(僕はこの名で彼を呼ぶ)がしたので、なんだか心の中を覗かれているような気がして、この店の中にいる時は下手なことを口に出すことは当然として、下手なことを心の中で思うことすらやめることにした。齢、およそ五十といったとこだろうが、実際に聞いたわけではないから、もしかしたらまだ三十代という可能性も捨てきれない、その頑丈そうな身体に向けて、僕は、とりあえず何でもいいから早く作ってくれ、とだけ声を掛け、窓から差し込む西日の当たらない席を選んで腰を下ろす。

「金、持ってんのかい」

「あぁ。ほら、僕の身体を見てくれよ」こう言えば、僕は彼が言葉の意味に勘付いてテレビの画面から目を離してくれるに違いないとわかっていたから、できるだけ良く響く声を使って彼に向けて返事をした。そして、予想した通り、彼は眼をまん丸にしてこちらを振り返り、その髭を思う存分に纏った大きな口を開いて、空気に波紋を投げかける。

「おめぇ、その腕・・・」

「そうさ、売っ払ってやったよ。だから、金はあるし、こうしてまだ生きている。まぁ、店長が僕を見捨ててテレビを見続けるんであれば、そのうち餓死しちまうけどね」

「・・・わかった、飯、作ってやるよ。詳しい話は、飯、食いながらな」

 店長はやっとこさ重い腰を上げて、狭苦しいキッチンへと入って行った。熟練した音楽家が人知れずただ自分の為だけに音を奏でているときのような、それくらい心地の良い調理音が狭い食堂の中に響いた。フライパンとコンロの脚の部分がぶつかる音、包丁とまな板がぶつかる音、食材が焼ける音、まぁ、どれ一つとってもそれは洗練されていて、毎度のことながら調理のプロは実際に料理が出来上がる前から判別できる、という事実に僕は感嘆の息を漏らしてしまう。それは人生が佇まいに反映されることと同義であり、となれば画家としての僕はいったいどのようにして、その熟練の予兆を表現しているのだろうか。もし、左手で頬を掻く仕草が画家の素質を示すのだとしたら、僕はもう画家失格ということになってしまうかもしれないが。僕は音の絞られた、色彩感覚というもののネジが外れてしまったテレビの画面をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えて料理が出来上がるまでの時間を潰した。

「ほらよ」

 こんなうらぶれた店の割には、体つきががっしりとし過ぎていて、口調にはがさつさが滲み出ている料理人の割には、繊細な料理の皿が僕の目の前に並べられる。肉を揚げたものと緑をベースに選び抜かれたグラデーションの美しい野菜を炒めわせた料理。そして、奥ゆかしく、それでいてきめ細やかな、女性の理想形を料理で表現したらこうなるのであろう、というような味噌汁。さらに、何と言っても、その柔らかで温かな、いっそのことそのうえで寝てしまいたい、と思わせるような白く艶やかな米。疲れ果てて空腹に喘ぐ、もはや「性・食・眠」の欲求の区別もつかぬ哀れな僕は、そういった比喩を一通り頭の中で並べ立てた後、向かいの席の小さな椅子に腰かけるやたら身体の大きな店長に見守られながら、その完全なる料理にがっついた。

「おい、もっとゆっくり食えよ。こんなとこで喉に詰まってでもして死なれたら・・・って、おい、食べ方が汚ねぇなぁ。ったく」

「仕方ないだろう。左腕が無いんだ」

「なぁ、そのことだけどよ、ヒロちゃん。なんだって、左腕、切り落としちまったんだい。お前がまともに絵を描いたら、一枚につき腕3本分くらいの値はつくんじゃねぇのかい」店長は僕の手首くらいは太いその指を3本立てて僕に見せつけてきた。僕は眉間に皺を寄せてそれを睨むと、また箸を料理へと伸ばして、彼の言葉に答える。

「嬉しいこと言ってくれるんだな。でも、仕方がないんだよ。もう、僕はまともに絵を描けない。薬がいるんだよ。薬がさ」

「たしかに、ここんとこ薬の値が上がってるのもわかる。仮におめぇほどの絵描きがまともに絵を描いても、薬5、6本分くらいにしかならないかもしれねぇ」

「単純計算で、腕一本で薬2本てとこだな。それにショーもやったから、薬4本くらいにはなっただろう」

「そんな茶々は良いからよ。なんでだって大事な腕を・・・お母さんから貰った大切な身体を売らなけりゃならねぇほどのこのなのかよ。それにこれからの生活はどうしてくんだ? 不便でしかたねぇだろうが」

「僕の生活なんてたかが知れてるさ。それに、左腕が無くても絵は描ける。これは美里にも言ったことだ」

「そうだ。美里ちゃんだよ」店長は重大な失態を思い出した時のような、困り果てた表情をすると、身体をのけぞらせ、頭頂部を掻きながら悲鳴にも似た溜息(熊のような、という形容詞も足そう)を漏らしてから、僕に向けて言葉を続けた。「美里ちゃん、ヒロちゃんの腕見て、かなり動揺してただろ」それは僕にとっても突かれたらはっきりとした痛みを感じる箇所だった。

「美里は・・・」僕は続けるべき言葉に戸惑った。が、単なる会話の流れに乗っかる、という選択肢は取らないことに決定すると、箸を止めて、彼に言った。「美里は、失明した」

「は?」

「眼が見えなくなったって意味だ」

「んなもん、わかってるよ。おれはなんで美里ちゃんが失明したか、って言ってんだ。まさかおめぇ、薬で錯乱して・・・」

「薬じゃない」僕は端的に事実を述べた。そして止めていた箸を食器の脇に置き、それからもう一度「薬じゃない」とだけ言い添えた。

「じゃぁ、なんでだよ。事故かなんかか?」

「いや、僕のせいだ・・・さっきは薬のせいじゃないと言ったが、美里の失明の根源にあるのは、もしかしたら薬なのかもしれない」我ながら、はっきりとしない物言いだったけれど、正直になって物事を分析するというのは意外と難しいものなのだ。おそらくこれから長い独り言を撒き散らすであろう、ということを予期して僕はコップの水を一気に飲み干す。「美里を外に出したまんま寝ちまってたんだ。いつもなら、太陽から守るためにクローゼットに入れているんだが、その日は左腕も切り落として身体は憔悴しきっていたし、身体だけじゃなくて精神も憔悴しきってた。自分自身ですら左腕を切り落としたことをうまく呑み込めてないってのに、自分勝手に美里を起こして、そして左腕のことで言い争いみたいなものもしてしまった。美里が眠った時には僕はもうまともに起きていることすらできなくてね、それで美里を畳の上に寝かせたまま、僕も眠ってしまったんだよ。でも、それはやってはけないことなんだ。前にも言ったの覚えてるか? 美里はあの身体になってから、太陽の光を浴びてはいけないことになってしまってね。だから、僕は朝起きて美里に朝日が当たってるのを見て、それはもう心臓が止まるような思いをしたよ。で、急いで美里に駆け寄って、彼女を朝日から守ってやらなきゃ、って思ったんだが・・・でも、美里の身体を光が包んでいるのが、とても美しくて、懐かしくて、僕は何十秒もそのまま、そこで固まってしまった。眠気も覚めて、正気に戻ってから僕は彼女をいつものようにクローゼットの中にしまったんだが、どうやらもうその時には彼女は失明してたみたいだ。完全に僕の失敗だ。まともな僕であったなら、たしかにこんなことはしなかっただろうし、薬を打っていた訳ではないが、薬の為に腕を切り落として結果的にイカれてたんなら、それはきっと「薬のせい」ってことになるんだろうな。これを事故って言ってくれるなら、店長、あんたは多分に優しい奴だよ」僕は一通りの説明を終えると、ひとつ息を吐き出し、そして「水をくれないか」と空になったコップを店長に差し出した。彼は僕からコップを受け取ると、僕の演説に対する批評を一つとしてすることなく立ち上がり、真っ直ぐにキッチンへと向かう。蛇口から水が吐き出される音、コップの中で水が渦巻く音、僕はただそれを聴いていた。

「なぁ、事情はわかったし、別にヒロちゃんを責める気はねぇが、それでもよ。おめぇはいったい何がしてぇんだ? 薬もやめれず、美里ちゃんへの依存も絶ち切れず、まともな絵も描けず、ったく画家だってのによ。左腕も失くしちまうし、美里ちゃんを傷つけるし、こうしておれんとこにクズみてぇな面、見せに来るしよ。これからの未来に対して、おめぇは何を見出して生きてんだよ。おめぇの様子を見てると、ただ単に死ねねぇだけのように見えるが・・・なぁ、おれはいったいどうやっておめぇにきちんと前を向いてもらったら良い?」店長は水で満たされたコップを僕に手渡してくれた。僕は彼の言ったことを噛み砕きながら、コップの水を喉の奥に流し込む。あっという間に、それはまた空になり、僕は足元に突き刺さってくる黄色い西日を見下ろしながら、さぁな、と言った。彼は呆れたような溜息をつくと、空になった僕のコップを持ってまたキッチンの方へと水を汲みに行った。その後ろ姿は、獣のように頑丈で、全く以って弱々しい身体の僕とは正反対と言って良いほどに力強く見えたけれど、彼の言葉を聞いた後では単なる体つきによるものだけでもないような気がした。僕は食器の脇に並べてあった箸を再び指の間で挟み、冷めかけの飯を、茶碗ひとつ持てず、品性に欠けた動作で持って口元まで運んでいくが、それに関しての味の感想はおよそ5分前のものとはまるで違っていて、八つ裂きにされた味覚はゴミ箱の中へ投げ捨て、生物の反射として分泌される唾液と一緒にその味のしない飯を飲み込んだ。何ということだろうか、僕はそう、芝居めいた雰囲気に飲み込まれて大袈裟に言うのであれば、食事をするに値しない存在であったのだ。救い難く、いや、救われ難く、僕の心臓は感傷的過ぎる夕暮れを背景にした盤面の上で打ち鳴らされている。

「なぁ、こんなことされんのは、癪かもしれねぇがよ」

 店長は先程僕の机の上から持って行った空のコップに再び水を浸して、それを右手で持ってやってきたが、左手には枚数を数えるだけですら目が眩みそうなほどの紙幣の束を持っていた。僕はいったい何事か、と訝しげな表情を彼に向ける。

 「金があれば、美里ちゃんの眼も直せるんじゃねぇか? 死んだ人間をあそこまで生き返らせる技術があるんだ。眼くらいどうにかなるだろう? ただ、昨今はどこを向いたって、非合法的な物の取り締まりが厳しいからな、きっとおめぇの腕を切り落としただけじゃ、どうにもならんだろう」彼はまず右手のコップを机の端に置き、小脇に挟んでいた盆の上に食器を下げ、空いた机の上のスペースに紙幣の束を並べた。そして彼はまた盆を持ってキッチンへと引き返していく。

「たしかに、今、僕の部屋に投げ捨てられてる金だけじゃ、美里を直せないだろうな。2,3年前だったらどうにかなったかもしれないが」僕は一先ず店長に汲んできてもらった水に手を伸ばす。それから、目の前に差し出された彼の善意を推し量った。「ありがたいよ、そういうふうに手を差し伸べてくれるのはさ」僕はその査定が終わるまでの場面を繋ぐための言葉を適当に選んで彼に向けて放った。そして、査定が終わると、僕はどうしようもない遣る瀬無さを肩に背負ったような感じになり(やっぱりこの時も、両肩に背負うわけにはいかず、僕の身体は右に傾く)、「でも、これは辞退するよ。だいたい、僕は店長に迷惑をかけすぎている。それにこんな金、貸してもらったって返せやしないよ」と続けた。

「何も貸すとは言ってないだろうが。まぁ、おめぇが善意で返そうとしてくれる時がくれば、ありがたく受け取るけどよ。それに、多分だが、おめぇがまともに絵を描きさえすれば、そんなはした金あっという間に稼げちまうだろうし、単なる打算的な投資だ。損するのも覚悟のうえさ」彼は食器を水で洗い流しながら、僕の方を見向きもせず、そう言った。僕は彼の優しさに、ひどく自分が情けなく感じたし、それに、彼の為、というわけではないが、こんな自分とはさっさと決別をしなくては、という焦燥感のようなものも感じていた。

「こんな時、気の利いた連中だったら目尻に涙でも溜めながら・・・窓の外でも見ながら、爽やかな礼を言うんだろうけどさ」僕は実際に窓の外の夕焼けの影になった向かいのアパートの錆びれた壁に目を向けている。「だが、悪いが、この金は辞退させてもらう。その代わり、薬を売ってくれないか」

「何だと!」ガシャンと食器が割れたような音がした。相変わらず水は流されたままで、おそらくは砕け散った食器の破片に追い打ちをかけるが如く降りかかっている。「おめぇ、ふざけたこと抜かしてんじゃねぇぞ。薬が、全ての元凶なんじゃねぇかよ」彼は食器洗いを中断し、それでも蛇口が開いているという現在進行形の事実はすっかり忘れてしまったようで、アルミのキッチンの底を水が叩く音をバックサウンドに、地面を揺るがすような足取りでこちらに歩み寄ってきた。

「薬じゃない。美里が死んだことだ」

「ふざけんな。美里ちゃんに自分の罪をなすりつける気かよ」

「いや、そんなつもりはない。僕が言いたいのは、店長、あんたの力を借りずとも、僕は自分の力で美里の眼を直す。自分の力で絵を描いて、あんたに迷惑を掛けることも無く、金を稼ぐ。そうさ、僕は画家なんだ」僕は目の前に立ちはだかる彼を見上げながら言った。

「だったら、薬なしで描きゃぁ良いだろうがよ、画家さんよ」

「それは無理な相談だ。そんなことができたら、こんなことにはなっていない」

「はっ、そんなこと言うんなら、薬があったって、今までと何も変わりやしねぇだろうよ。今までと同じように、ずぶずぶの底なし沼にはまっていくだけさ。有り金全部掛けても良いが、そのうちにおめぇは右腕と目ん玉だけになっちまうぜ」

「そうはならない」僕は語気を荒げて言う。「美里は失明した。そしてすごい悲しそうだった。僕には頑張って笑顔を向けていたが、それが作り物だってことくらいわかるさ。だから、僕はもう美里を起こしたりはしない。美里に会うための時間も使って絵を描く。そして美里を次に起こすのは、美里の眼が直ったときだ」

 僕が真剣みのある声でそう言うと、彼は考え込んだような顔をして、向かいの席に腰を下ろした。椅子が軋む。それから、眉間にその太い指を当てがって苦悶の表情を隠すこともせず「それでも、おれはおめぇに薬を使ってほしくない」とその大きな身体からは想像ができないほど弱々しく言った。「薬は良くない。おめぇみてぇなタイプにはもともと合ってねぇんだ」僕はそれを聞いて、僕みたいなタイプってどういうことだよ、と乾いた質問をした。「薬は遊び半分でやるもんだ。そういう奴なら後戻りが効く場合が多いし、不謹慎かもしんねぇが、たとえ死んだって笑い話で済む。「あいつ、とうとう逝っちまったらしいぜ」みたいな感じでよ。でも、おめぇみてぇに薬にすがるような、本意気で使うもんじゃねぇんだ。おめぇみてぇなのが薬に頼ると、たいてい悲劇が起きる。そして、おれはその類の悲劇専門の劇団に自ら進んで役を貰いに行っちまう性質なんだ、これがよ」彼の声は力が無かった。僕は彼の言ったことをまたも割と真面目に考えてみたけれど、それがたとえ百パーセント理解できていたとしても、僕の決心は変わらないような気がした。彼の言葉を使えば、僕は薬を片手に悲劇の最終幕に突っ込んでいく向う見ずな主人公を気取っていたいのだろう。そして、その手の主人公の青年が大抵そうであるように、その眼先に見えているのは決して悲劇的な結末ではなく、楽園にも似た素晴らしく美しいおとぎ話の最終幕的な明るい未来なのだ。

 

                            *

 

 僕は薬を彼から3本受け取って、店を後にした。金は食事するくらいのものしか持っていなかったから、明日僕の部屋に取りに来てもらうように頼んだが、彼の顔は「金のことなんてどうでもいいんだ」と言いたげなほどに歪んでおり、さすがの僕も心が少々痛んだ。だが、それと同時に、彼が僕の部屋までわざわざ階段を登って来ることを苦にしていなさそうな、むしろ僕の様子を確かめるためには都合が良い、と考えているであろう、ということは僕にとっては、何となくほっと安息感を感じることであった。何故だか知らないが、僕にとっては彼の好意を踏みにじることよりも、現実的な彼の手を煩わせるようなことが気にかかっていたのだ。もしかしたらこの感じは、彼から素直に金を受け取れず、代わりに自分の金で薬を買う、という選択肢を選んだこととも何かしら関係があるのかもしれない。そんなようなことを考えながら、僕はまた長い長い階段を登った。ここに来るときには全く以って考えることを忘れていたが、左腕無しでこの長い階段を登るということは、想像を絶するほどに骨の折れることだった。まさに左腕の手助け無しに、純粋に自分の脚の力だけで階段を登るということがここまで疲れることだったとは。すっかり陽は暮れ始め、アパートの最上階が囲う空は紫色を湛え、「口」の字の向かい側の廊下などは完全に影に埋もれ、自分の直下の足元でさえ良く見えず、何かゴミが転がっていたりするのを見落として足を取られることも少なくなく、その度に左腕の無い僕は、右腕と身体全体を可能な限り駆使してバランスを取らねばならなかった。これもまた非常に体力を消耗することである。

 空もアパートも、景色全てが滲みだして、僕の眼はそれに順応するのに時間がかかり、どこかで誰かが自らの部屋の扉を開けた時の一瞬の光だけが僕の眼にちらちらと瞬く星のように写る。その僅かな瞬間、冷たい階段の手すりに這わせた右手の平にも力が込められる。僕にも帰るべきところは用意されているのだ。美里は狭くて薄暗い部屋のもっと狭くてもっと真っ暗なクローゼットの中にたった一人で寝ている。そして、彼女は当分起きることはないだろう。彼女よりもまず、僕が今、向き合うべきものは真っ白なキャンバス。今、目の前に見えている漆黒の闇とは対照的な、無地の無垢の無法の何もない純粋なる白。心を静め、神経を研ぎ澄ませてから、僕はそこに色を添える。それこそ僕がすることであり、結果的にはきちんと美里と向かい合うということになる。そして、ただ美里だけを想い、澄み渡る心の中に潜り込んで、色が織りなすイメージに手を伸ばし、この世の真理の一端に触れる。その瞬間にこそ、僕は自分が人間であることを実感できるのだ。

 赤褐色の鉄製の階段を一歩一歩踏みつける音が、静かに時間の経過を告げていく。振り子時計の振り子のように、僕の長くなった前髪は視界の先で揺れ、その先から時折汗の粒が滴り落ちる。冷たい空気中に僕の熱気が湯気となって浸みこんでいくのが見えた。この長い長い階段はどうしようもないほどに僕の不完全な身体を苦しめていたけれど、その苦しさを一歩ずつ踏み越える度に、僕の頭の中で物事が整理されていくような感覚があった。本来ならば一番美しいであろう純白のキャンバスに、どんな絵を描いていくか、無より美しいものを描くためにはどうしたらいいか。そんなようなことが僕の頭の中で思考されてゆく。そして真理の一端に触れるべく、僕がまずしなければならないのは、ただ数々の過ちを解消するために、ただ美里の眼に光を戻すために、一刻も早く自らの部屋に戻り、質素というよりはみすぼらしい電球に灯りを燈して、傷だらけの畳の上にキャンパスの台の脚を可能な限り水平に置き、筆を取り、色を混ぜ、線を引く、ということなのだと悟る。「美里の為に」、それこそが僕に与えられた唯一のもの。これまでの僕の過ちを思えば当たり前のことだが、しかし、たとえ僕が何一つ過ちなんてものを犯していなかったとしても、美里にほんの僅かでも幸福を与えてやることができるなら、僕はそうしない訳にはいかない。これ以上、僕は美里から何を奪おうと言うのだ。光を戻せ、彼女の瞳に。

 

 僕は汗を垂らしながら自分の部屋の扉を開けた。部屋の中は暗く、物音一つしなかった。電気を点け、とりあえず洗面台で顔を洗い、階段を登っているときに気になっていた長い前髪を鋏で切り落として、それから手を洗い、そして良く拭き、昨日描いた神経質な絵を壁に立てかけ、新しい白のキャンパスを台の上に置いた。僕は椅子を出し、それに腰かけて真っ白なそれと向かい合う。まだ、僕の頭の中には何も浮かんでこない。通電するには時間がかかる。眼を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。そのうちに電車が足元を通り過ぎ、建物がガタガタと揺れて、3度くらい生まれ変わりをしてしまうんではないか、と思わせるくらいに長いその揺れの間、僕は心の奥底に垂らした釣り糸に何かしら素敵な獲物が引っ掛からないかと待ってはみたけれど、ふわふわと浮かんでくるのは、ほんの数時間前から頭の中を過っている純白の平原だけだった。それでもなお、僕は混沌とした湖と向き合って、ひたすらその時を待つ。時には、いっそ銛でも持って水中に飛び込んでやろうか、と勇ましい発想をすることもあるのだが、いざ、靴下を脱ぎ、シャツを脱ぎ、としているうちに、その湖の水の得体の知れぬ危うさや、そこに潜む巨大なる肉食獣の魚影に慄き、その度に僕は脱いだものをもう一度身に纏い、再び桟橋の淵に腰を降ろし、釣竿を構えるよりほかないのである。白地のキャンパス。僕の虹彩を抜け、心臓に絡みついて、脳に蓄積される。眼を開けても、眼を閉じても白地のキャンパス。部屋の中でじっとしていると、少しずつ冷たい空気が僕の指先からどんどんと人らしい体温を奪っていくのだけれど、それとは反対に、悍ましい焦燥感から僕は額に、小ぶりな蝿ならばそこで溺れ死ぬことができそうなくらいの水量を有する汗の粒を浮かべている。その汗にまた焦り、次の電車がこのアパートを揺らしたところで、僕は正面切ってそれに立ちはだかることをやめた。いよいよ僕は自分の手の内を全て晒さなければならない時が来たようだ。準備はしてある。そのおかげで、明日になれば、部屋の隅に押しやられたこの忌々しい紙屑の大半が消え失せてくれるであろう。僕は店長から受け取った薬の一本を袋から取り出し、(いつものように左腕に打つわけにはいかなかったので)、口で注射器を加え、落ち着いて狙いを定めながら、右腕に針の先を刺した。汗が頬を伝い、それから顎に引っ掛かり、そこで一つ、舞台袖へと捌けていく指揮者のように気の利いたお辞儀をすると、流れ星のような一瞬の輝きを見せ、膝の上に落ちる。湿った空気を注射器を加えた口の端から漏らし、それでも気をしっかりっと持って徐々にピストンを押し込んでいく。血液の中に異形なる悪魔か、いや救いの天使が入り込み、そして無垢なる赤血球に寄生すると、全身へと、主に脳内に向かって、彼らは施しの進撃を開始した。これは善なる行いである。たとえ、人がそれに異議を申し立てようとも、神がそれを善とする。僕はそういった事を全人類、または自分自身に言い聞かせながら腕から針を抜き取り、口を開き、涎が淵を伝っている注射器を膝の上に落とす。先程汗が作った染みに、さらに唾液が不潔さを付け足していく様子が、僕の脳の中で歪な波形を描き、毒々しい色がその波間を埋めていった。不意に、腹の奥底の方からイメージが湧き上がってくる。釣竿の先端を微かに揺らす。僕はタイミングを測り、狙いを定め、慎重かつ大胆にそれを引き上げようと右腕に力を込める。僕は瞼を開いて、頭に写ったイメージに形を与えようと急いで筆を手に取った。が、筆を取った瞬間に、またあの疑問のような空白が僕の視界を満たしていく。そして、掴みかけたイメージは既に湖の底に消えてしまっていた。掴みかけた希望の光が消えるのは本当に一瞬の出来事であった。

 僕は朦朧とする意識の中、部屋に思いっきり反響させるように怒りの言葉を吐いた。くそっ、せっかく描けそうな気がしたのに。僕はあの神々しい店長に対し、破れぬ誓いを立ててしまったというのに。これでは美里を救うこともできないし、僕自身、救われることもできない。未だ僕は暗い夜の海のど真ん中で、どちらに向けて泳いでも良いか分からず、やみくもな動きに精を出し、胃の中に大量の海水を送り込むカナヅチの子供になったような気分だ。絶体絶命。その言葉が僕をさらに焦らせる。いや、いけない、いけない。焦ったってどうしようもない。芸術には時には辛抱だって必要だ。やけに高鳴る心臓を落ち着け、不安を薬が消し去るのを待つ間、僕はふと窓の外に月の欠片を探した。が、今日はどうやら空には雲が出ていて、星ひとつない空は、まるで絵のヒントになり得る一切の事象を僕から奪っているような感じだった。まったく、空なんか見たせいで、僕はまたどうしようもない失望感に囚われている。それよりも、何故薬は僕の不安を消し去らない? どうして絵のヒントを寄越さない?

 僕は筆を一旦置いて、とりあえずパレットに新しい色を落としてみることにした。が、何色を落としたら良いかすらわからない。これだ、という色の絵の具がひとつとしてない。いや、僕の心理状態を少しでも的確に描写しようと思ったら、ピンとくる色が一つだけあるにはある。試しに、僕はそれを木製のパレットの上に伸ばしてみた。茶色の背景にそれは映えるが、しかし。すがるように、その一歩目に続く足を出すが如く、僕は筆にその色を纏わせ、キャンバスに線を引いてみた。パッと見には何も変化が無いけれど、純白の彼女の肌の上に僅かばかりの陰りが挿した。僕はまたパレットの上のミルクよりも白いそれを筆で掬い、キャンバスの上に線を引く。油絵の具による生まれたての無色の山脈が、また歪な陰りをそこに写しだし、僕はまるで得体の知れぬ宗教行為が目の前で、今まさに繰り広げられているような、よくわからないが、非常に恐ろしく、それでいて好奇心がふつふつと湧き上がらせられている心境に達し、今までどこまでも平坦だった白い平原に夢中になって陰りを施していった。それから、いったい何度僕はパレットに添えた白を使い切り、またチューブから新たなる白を捻り出し、ということを繰り返しただろう。薬の作用によるものなのか、僕は衝動に任せて、とにかくチューブ一本分の白をキャンバスに塗りまくって、まさに狂人らしい行いによって、たとえ無限の真っ白な壁とそこに塗るための絵の具があったとしても表現しきれないほどの幸福を感じていた。が、ふとした瞬間、それと同時に僕は面前に凛と直立している、僕の衝動の産物を見直してみて愕然とした。そこには今さっきまで僕が恍惚として見惚れていたような、人間らしい血の通いも感じなければ、均整のとれた神聖さも、切り裂かれてしまいそうになるほどの悲痛なる叫びも、平坦な言葉で言えば「芸術性」なるものは、もはや全く、感じられない。空虚だ。いや、空虚なんて言葉を用いるにも値しない、言葉で表現しようと思っても、この世の言葉には必ず何かしらの記号的、または象徴的意味が付随するという真理から言って、どうしたって表現することのできない、無意味なものが僕の描いたそれである。何ひとつ話すことの出来ぬ赤ん坊でももう少し何かしら意味のある絵をかけるはずだが・・・僕はひとり、怖ろしくなり、白く歪んだキャンバスを畳の上に投げ捨て、新しいキャンバスをクローゼットの脇から持ち出して、台に立てかけた。白い絵の具は使い切ったし、もう、さっきのような愚行をすることもない。白が使えぬとなれば、当然、色彩表現に限界ができてしまうけれど、その敢えて切りつめられた環境において、僕は自分の経験値やセンスを存分に引き出して、世界各国の「目利き」が心酔してしまい、僕が求めるだけの金に変わる絵を描くことができるはずだ。僕は、自分を奮い立たせ、筆とキャンバスに全神経を集中した。生死の淵に立ち尽くしているような緊迫感が僕を鋭敏にする。しかし、相も変わらず僕の心には何一つ浮かんでは来ない。空虚な白だけが僕の心臓の空洞を埋めつくしている。僕は筆を持った右手の指先を焦りから、神経質に震わせていた。これだけの集中力が今の僕には秘められているというのに、いったいどうして何も浮かんでこない。どうして僕は僕を裏切る。どうして僕に美里を救わせてくれない。いや、だめだだめだ。焦らなくていい。まだ、時間も・・・そう、薬だってまだ2本ある。床に並べた袋入りの注射器をちらりと見下ろす。一度に2本以上使ったことはない。こんなものを使って健康もクソもあったものではないが、それでももしかしたら生命に関わることかもしれない。迂闊には、その選択肢を選ぶことはできないけれど、しかし。どうだろうか。今の僕なら、何か、ほんの少しのきっかけさえあれば。そう閃くや否や、僕は右腕を床に向けて伸ばした。

 

 空気は冷たい。夜が深まっている証拠だ。僕は無性に興奮している。舌と上顎で心臓を挟んでいるみたいに、とても脳に近い位置で僕の生命を感じる。血の赤、夜の黒、紙の白、筆の金。目の前がチカチカする。パレットを手に取り、とにかく思いつくままに色を絞り出す。けれど、ここで焦らない。さっきはそれで失敗したんだ。落ち着いて、自分をコントロールする。そして自分の中に潜む、湖の主をこの僕の唯一なる下僕、右腕で釣り上げる。それが最も重要なことだ。底に見えるのはなんだ。彼なのか、どうなのか。感じるままに筆をとれ。狭い部屋の小さき脳の中に写る、無制限の世界を、指先に伝わせろ。神経が凝縮していく。一秒一秒が、僕に確かな手応えをもたらしてくれる。眼球の裏側、網膜に僕のイメージを重ね、そしてそれに線と色を与えていく。一本目の線が、繊細でありながら、かつ、凛々しく、まるで秋の終わりの風に身を震わせる、若く青い花の一本の蔓のように、空間を切り裂いていく。

 その時、まさに一筋目の線を白に刻みこんだ瞬間、左目の左端に何か人影のようなものが写り込む。はっとして、僕はその影の方に視線を向けた。びっくりしたせいで、ただでさえ薬の影響で心筋の限界線を越えかねない心拍数が全身の細胞を痛めつけている。黒いコートに黒い手袋、そして灰色の肌に生気の無い緑色の瞳。殺したばかりの烏をそのまま頭に乗っけたみたいな、荒々しく長い黒い髪の毛。腐りかけたみたいな顎には特徴的な黒子と言うにはあまりにも大きすぎる、比較的色の薄いシミが浮かんでいる。その人物は、どこかで見たことがあったような気がしたが、うまく思い出せない。僕は背筋に凍るような戦慄を感じていたけれど、当の死神的人物は、僕の右足の脇に転がっている、3本の空の注射器の残骸に目を向けているばかりである。

 僕は、こうしている間にも薬の効果は薄れていっているのだ、ということに焦りを感じ、早く絵の制作に戻りたかったのだけれど、悍ましい形をした彼は、そこから一歩も動こうとしない。いや、視線一つ、瞼一つ、まるでそこだけ深い湖の底に沈んでしまっているかのように、ただ止まってしまっている。貧乏を象徴するような黄色い電球が、僕たち2人に光の粒を降りかけているけれど、今にも心臓がはち切れてしまいそうな僕と、今にも心臓が砂と化して崩れ去ってしまいそうな彼との間には、明確な差異があるはずであった。が、怖ろしいことに、僕と彼の間には、大股で二歩分というくらいの物理的距離による隔たりがあるにはあるにせよ、それ以外には全くと言って良いほど、僕と彼とを――どんな観点によるものでもいい――分けてくれるものがなかった。僕は彼の顎のシミを見つめ、彼は僕の右足の脇を見つめている。僕も彼も、この無駄に階層だけは積み重なった古びれた薄っぺらいアパートの一室で、ひとつの空間をわかちあっている。まるで、彼は、僕が彼の名、いや、彼に名なんていうものがあるのかすら、僕には良くわからなかったけれど、彼の正体のようなものを僕が暴くまでは、ずっとそうしているような感じがした。そして、僕は朧気な記憶を破滅への変遷途中にある意識で以って、言葉に変えた。 

「君は、たしか、美里の弟さんだったか」

 一度くらいは、僕は美里から彼女の弟の写真を見せてもらったこともあったかもしれない。今、目の前にいる存在は、彼に良く似ていた。そして、僕はこれが自分の幻覚、薬による幻覚であることに思い至る。薬で僕の思考、そして精神は無残にも引き千切られているはずだったのに、何故だか冷静でいることができた。しかし、冷静であっても、この幻覚に対する恐怖は消えたりはしない。

「君は、死んだはずだろう」

 彼は何も答えない。ただ、注射器の残骸に向けられていた彼の視線はいつの間にやら、僕の顔に向けられている。

「いったい、なんの用だ。こんなところにまで来て」

「姉貴を返せ」

「君から奪ったつもりはない」

「姉貴はお前のせいで、とても苦しんでいる。どうして、お前は姉貴を苦しませる?」

「僕だって好きで美里を苦しめている訳じゃない。それに、君がさっさと消えてくれたら、僕は絵を描いて、お金を稼いで、美里の眼を直すことだってできるんだ。たしかに、僕は今まで美里を苦しめてきたかもしれないが、これから救うんだ」

「いや、お前には救えない。絵を描くことだってできない。見てみろ、これがお前の描いた絵だ」

 彼はそう言って、足元に転がっていた白いキャンパスを、つまり、白い絵の具が塗られた白いキャンパスを僕に見せてきた。僕はその絵を見て、頭痛と吐き気を感じた。

「それを描いた時、僕はどうかしてたんだ。これを見てみろ。まだ、最初の一筆だけど、これなら君だって・・・」

 僕はそう言って、今さっき、確信を感じて描き始めた真新しいキャンバスに目を向けた。が、これはいったいなんだ・・・

「それがお前の正体さ。お前は何もわかっちゃいない。お前は、どこまでも空虚だ。このただ白い絵の具が乗っているだけの絵も、そこのただの線も、何一つとして意味の無い、狂った人間の口元から垂れた涎と何一つ変わりやしない。お前は色々なことを間違って解釈している。姉貴は別にこんな腐った世界に留まりたいとなんて思っちゃ、いなかったんだよ。狂ったお前の隣にもな。お前はまるで何かに憑りつかれたように、いや、この場合は「何か」なんて有耶無耶な言い方はやめた方が良いだろう。お前は、自分で勝手に作り上げた運命とやらを、何も必要が無いのに、勝手に背負い込んで、それを姉貴にも押し付け、さも自分が潔白であるかのように・・・いや、これも違うな。お前はお前自身のことは色々と棚に上げて、有象無象を悪とみなし、姉貴だけを天使の遣いのように考え、それを姉貴に押し付け、姉貴は望んでもいなかったのに、無理矢理、こんな世界に押しとどめ、情けないほどに愚劣なものを見せ、お前の空虚な絵を見せ、まるで、その空虚の権化であるかのような、はっ、笑わせてくれるほどに下らぬ未来を大仰に示し、錆びついた鎖で身体を縛っていたんだ。いいか、お前は姉貴の何でもない。血縁でもなければ、恋人でもない。せいぜい、お前が勝手に組み上げた運命とやらの、その相手だろう。お前がどんなに卑劣な願いをかけたとしても、その事実に変わりはない。お前は自分の不幸に、自分勝手に姉貴を巻き込んだだけだ。自分こそ正しい、みたいなことを嘯いてな。姉貴だって本当はわかっていたんだ。お前の言うことが全てまやかしであることなんてな。お前は、付け込んだんだ、姉貴の優しさに。優しい、優しい、姉貴だったからこそ、お前を見捨てはしなかった。自分が死んでしまってさえもまだ、お前を見捨てずにいた。そして、お前を見失ってしまいそうな自分を恥じ、そして律し、自らを洗脳したんだよ。お前こそ信じるに値する人間だ、と言い聞かせてな。いいか、それはお前が自分勝手に言う、姉貴だけが信じるに値する人間だ、というのとは全く違うんだ。お前はそれを自分の為に唱えるだろう。が、しかし、姉貴は違う。姉貴はお前の為に唱えるんだ。たとえ、同じことを唱えていたとしても、そこには決定的な差異が生まれてくる。言葉じゃない。人が意味を為すんだ。それくらい、どこまでも救い難く間抜けなお前にだって、まぁ、理解のできることだろう。お前は自分が絵を描くとき、姉貴に愛を囁くとき、いったい何を考えて、何を願って、何を祈っている? まさか、真実を得たい、なんていうエゴや崇高さを求めていやしないだろうな。見ろ、自分の身体を。どこまでも情けない。左腕は切り落とされ、指先は震えている。心臓は薬に侵され、脳は毒に侵されている。何という名の毒か、それくらいはわかるだろうよ。お前が言うのは、愛でもなければ、真理でもない。お前が求めているのも同様にな。どうだ? お前が最後にするべきことは何かわかったか。自分で首を切り落とす前にやることが何かわかったか? おい、聞こえてんのか?」 

 僕が瞬きをすると幻覚は消えていた。もう、外には電車も走っていない。僕は立ち上がり、描いた絵を部屋の隅に押しやり、クローゼットの中から美里を取り出した。それから、窓の外の暗く黒い曇り空を見上げる。背中のネジを捲く必要はもうなかった。僕は床に投げ捨ててあった、数時間前に前髪を切り落とした鋏を手に取り、美里が窓の外を眺めている様子をしかと目に留めた後、自分の首筋に、残された右腕で、鉄製の冷たい鋏を突き立てた。薄れゆく意識の中、ただ、明日、晴れることだけを願う。

 

2013年