霏々

音楽や小説など

水流 vol.1

水流

 

 それは月の引力に魅せられた大量のミルクだった。

 カラメルシュガーの砂浜を歩き、足首でひだのような波を受け止める。波は砕け、泡を立て、そしてまた向こうへと引きずられていく。灰色の空模様。振り返るとおぞましい闇の色をした防砂林が見える。悲しい海風に吹かれて、揺れて、不気味な笑い声を上げていた。

 背中に冷たい汗が流れる。

 再び水平線に向き直り、ミルクの海へと足を進めていく。じゃぶじゃぶと音を立てながら。

 それにしても、どこか現実味がない。

 どこまで行っても、海の深さはずっとくるぶしの上くらい。薄い皿にひかれたミルク。その上を猫の舌のように滑っていく自分。愛らしい猫の瞳が雲間からこちらを覗いている。ミルクよりも白い太陽。しかし、どれだけじっと見つめていても、眩しくとも何ともない。

 また風が吹いた。

 背後で木々がざわめく。

 足を踏み出す。何度も、何度も。身体が重たい。正面から強い風が吹いているからだろうか。気を緩めると、後ろへと押し戻されてしまう。波のひだが足首に纏わりつく。

 と、思ったら、いつの間にか海は深くなっている。膝の上までミルクの白に侵されている。ミルクはどんどんと質量を増していって、だんだんと足を踏み出すのが辛くなって来る。

 こんなところで動けなくなったらまずい。

 そうは思っても、まるで底なし沼にはまってしまったように、次第に身体は滑らかなミルクの中へと沈んでいってしまうし、もがけばもがくほど体力も消耗していく。

 あぁ、きっとこのまま沈んで死んでしまうのだろう。

 背後で木々が笑う。

 白の太陽、白のミルク、灰色の空、黒の防砂林。沈んでいく身体。腹、胸、肩と海に蝕まれていく。冷たくも温かくもない、冷たいミルク。諦めの睫毛。それでも、空に向けて手を伸ばしてみた。

 そのときだった。

 影のような黒くて大きい鳥が腕を掴んで空へと身体を引き上げる。本物の風を感じる。身体からはミルクが滴り落ち、白い雨を降らす。そうか、海が白いから雨も白い。そうして、世界も白くなっていくのか。でも、防砂林はなぜ黒い?

 白い水面の上に降ろして、影鳥はどこかへ消えていく。もう、カラメルシュガーの砂浜も闇夜の防砂林も見えない。一面の白いミルクと、灰色の空だけだ。

 足を踏み出す。また、くるぶしの辺りでミルクが泡立っている。

 怖いものなんて何もない。

 でも、なぜだろう。すべてが不気味でしかたない。

 

     *

 

「寝てたな」日野が言う。

 僕はふっと息を吐き出して、「悪い」と答える。

 二人を乗せた車は降りつける雨をかきわけるようにして、高速を走っていた。掠れたラジオの音。女のDJが恋愛観を語っている。

 なぜ、人を好きになる度に、「私にはこの人しかいない」と思ってしまうんだろう。

 僕はミルクの海の夢を思い出そうとした。胃の辺りが気持ち悪くなってくる。

 このところ気色の悪い夢ばかり見る。

「高速の運転って退屈だよな」

「悪かった」僕は再度謝る。

「いや、そういうんじゃなくてさ。ただ、上原もそう思うだろ、って」

 僕は「そうかもな」と答えてから、高速を運転することについて考えてみた。

「交差点もなければ、道の両側に店があるというのでもない。決められた道を決められた速度で走る」

「でも、それを言うなら、電車の運転士はもっと退屈だ」僕は自分の意見を言ってみる。

「確かに」

「それに、飛行機のパイロットは道すらない。空と雲だけだ」

「退屈な仕事だな」

「いや、仕事それ自体が退屈なんだよ、本来」

「また、おれが異常だという話か」

 日野は少し笑って見せた。彼の退屈が紛れるのであれば、こうして起きて喋っている価値もあるというものだ。

 日野も僕も高校の教師だ。

 僕は物理を教え、彼は数学を教える。何となくだけれど、数学の教師の方が大変そうだと思った。しかし、それを言うと日野は物理の教師の方が大変そうだと言う。現時点で僕たちの議論は、同じ教師でもメロンとスイカを比べるようなものだ、という結論に達している。評価の基準が違うのだ。ちなみに、どちらがメロンでどちらがスイカかはわからない。

 僕はよく日野のことを異常だと言う。

 日野は教師という仕事に対してやりがいを持っている。子供たちに何かを教えるということに情熱を持っていて、子供たちを少しでも正しい方向に導ければ、この世界が良い方向に進んで行くと本気で考えている。

 しかし、そんな正しいことを想いながら働いている日野は異常だ。

 多くの人間が自分の仕事を退屈で、それでいて忙しくて大変で、割に合わないものと考えている。真面目に働くだけ馬鹿らしいとさえ思っている。それが普通。それでも、労働の魅惑からはなかなか抜け出せない。それこそが労働の価値である。

「日野の考え方にはおれも共感できるんだけどな」

「珍しい。上原が仕事に対してやる気を見せるなんて」

「そういうんじゃないよ。ただ、教育がそれなりの影響力を持っているってのには賛同できるってこと」

「だからこそ、やりがいがあるんじゃないか?」

「影響を与えることをやりがいと言うならそうだ」

「確かに、悪い影響を与えてしまうこともある。でも、だからこそ、良い影響を与えようと努力するんじゃないか? そして、そうやって努力することがやりがいになる」

 僕は首を横に振る。

「おれには何が良い影響で、何が悪い影響なのかよくわかんないんだよ」

 日野は真っ直ぐ前を見つめたまま、車を走らせる。そして、「実に上原的だ」と言った。

 

 僕たちの共通の趣味は映画だった。しかし、僕よりも日野の方がきちんと映画を愛好している。退屈なハリウッド映画をやたらめったらにレンタルで観ているだけの僕に対して、彼はキューブリックやらチャップリンやらを色々と教えてくれた。しかし、どれも僕には退屈過ぎた。それを彼に伝えると、彼は僕を車に乗せた。今度は高速で一時間ちょっとかかるところにある映画館へと僕を連れて行ってくれた。

「映画はちゃんと映画館で観ないとな」

 別にどこで観ようが映画それ自体の面白さは変わらない。

 けれども、日野に連れて行ってもらった映画館の雰囲気はとても心地良く、少なくとも退屈でうんざりするということはなくなった。

 退屈な時間を洒落たカフェで紛らわせるのと同じだ。

 人間には、ただの退屈をちょっと違った退屈に変えることが必要なのだと思う。

 今日も僕たちは、その彼の行きつけの映画館まで行く。男二人で気持ち悪いと思うが、古い映画ばかり流し続けるその映画館には、デートスポットの役割なんて担えるはずもなく、日野のようなコアな映画愛好家が集まっていた。誰も、周囲のことを気にかけたりなんかしない。彼らは映画にしか興味が無い。

 

 映画の内容は取るに足らないものではあったが、それでも僕が普段からレンタルで適当に観ているハリウッド映画よりは随分とまともなものだった。教育で世界を変えようとしている日野をまともと呼ぶならば、ということだが。

 現代から100年くらい先の未来だろうか。

 日本の人口は減少し、ゴーストタウンとなったかつてのベッドタウンに乱立した団地……よりはもう少し、洒落たマンションの群れが主役だった。いや、もちろん人間の主人公はいる。彼は第三次世界大戦の退役軍人で、軍人時代に打った放射能遮断ワクチンのおかげで、放射能汚染されたそのマンション群の中でも生きていくことができていた。

 まがいなりにも物理教師である僕からしたら、放射線をワクチンで遮断できるなんて馬鹿らしかったし、だいたい「放射能遮断」という言葉も適切ではない。放射能とは、放射線を放出し得る原子の能力のことを言うのであり、遮断する云々の対象ではない。

 まぁ、その辺はB級映画(それは何かしらの階級を与えることさえ、無謀というような気がするが、日野がB級映画というのだからB級映画なのだろう)だから仕方がない。

 その退役軍人の彼は、主役であるゴーストタウンで人類を滅亡へと導くための計画を企てようとする。しかしながら、彼がそのゴーストタウンを訪れて数日後に、誰もいないはずのマンションの廊下で一人の少女と出会う。彼は銃を構え、実際に発砲までするが、驚きのあまりぶれた弾道は、彼女のスカートの裾を掠めて、背後のコンクリートにめりこむ。呆然と立ち尽くす少女。カラスが鳴くズームアップ(不快極まりないインサート)。少女は「パパとママに会って」と退役軍人の彼に言った。

 少女は立て付けの悪いマンションの一室のドアを開き、軍人を静かな部屋へと招く。

 誇張された靴音、淀んだ水色のフィルターをかけられた映像。少女が指を差した先に、二つの骸骨が横たわっていた。骸骨の一人は、薄汚れたピンク色のワイシャツに、すっかり黄ばんだ白のチノパンを履いている。もう一人の骸骨は、糸のほつれた黒いセーターに、花柄のロングスカートを履いていた。二人の服装の季節感の揃っていないことが、何とも言えない混乱を僕に与える。

 その二つの骸骨の前で少女がだらだらとした話を軍人にしたが、あまりにも冗長的過ぎるので、僕なりにまとめてみると、要は、彼女は放射線が飛び交うこの団地で生まれ育ったが故に、放射線から害を受けない体質になったらしい。軍人が「何を食べて生きて来たんだ?」と少女に尋ねると、少女は首を横に振った。少女はまるで植物が光合成するように、放射線を浴びることで二酸化炭素からエネルギーを生み出せる体質になったようだ。およそ30分の尺を使って描写された、退役軍人の実験の結果がそれだった。

 そして、そこからヒントを得た軍人は、世界を滅ぼせるだけの核爆弾を作る。

 人間が全て、植物のように、誰からも奪わず、自分の身体だけでエネルギーを作れるようになったら、この世界からは争いがなくなって、真の平和が訪れる。

 そして、映画はクライマックスへと向かい、世界が核爆発の海に飲み込まれる。映画のラストでは、妙ちくりんな風の音と、例のマンションの廊下で横たわる少女の骸骨と、その脇で立ち尽くす退役軍人の姿が映し出される。

 

「どうだった?」と日野が僕に聞く。僕は「なかなかだった」と答える。

 たまに僕は不思議になるのだが、どうして日野は僕と一緒にいてくれるのだろう。どこかの作家が、「年中霜取りをしなければならない冷蔵庫をクールと言うなら、僕だってそうだ」と書いたように、僕もまぁ、クールと言って良いような人間だ。クールと言うほど恰好のつく人間でもないが、僕には他人を幸福にする能力が著しく欠如している。

 一緒に見に行った映画の感想を聞かれて、「なかなかだった」としか言わない人間が他人を幸福な気持ちにできるはずもない。

 そんな人間を日野が気にかけてくれているのは、周りに映画好きがいないという消去法的現実があるからだろうか。僕もかつて風邪で寝込んでいたとき、自宅に食料が何もなく、仕方なしにガムの糖分に縋った経験がある。それと同じかもしれない。もちろん、風邪が治れば、ガムはもうただの一般的なガムでしかなく、ましてや、その経験を経て、家にビスケットを常備するようになった僕にとって、そのような最悪の選択をする場面はなくなってしまった。だから、僕は思うのだけれど、いずれ日野も僕を必要としなくなるだろう。

 僕はただの一般的な職場の同僚でしかなく、冴えない物理教師でしかない。全ては色褪せていく。かつて、幾人かの女生徒が僕に対して原色の幻想を抱いていた。しかし、いずれも目の前の男が冴えない物理教師でしかないとあっさり気付いていったように。

 帰りの車は僕が運転した。運転は苦手だった。運転していると、ときどき目の前を何かがちらつく。それは魅惑的でありながら、恐怖そのものである。僕はほんの少しだけ、不必要にハンドルを切ってみる。さり気ない足取りで、車は対向車線への方へと鼻先を向ける。日野はぼんやりと窓の外の景色を見たままだ。僕は短く息を吐き出し、そして、また真っ直ぐ道なりになるようにハンドルを戻す。雨はまだ、執拗に降り続けていた。

 

     *

 

 緑色の朝。カーテンの隙間から夏の空が見えた。ゆらゆらと木の葉が揺れている。あの木の名前はなんて言うんだろう。落葉樹なのはわかるが、固有名詞は知らない。人間の認識のおよそほとんどは曖昧な分類によって成り立っている。

 駅で電車を降りて、十五分歩く。

 もう一つ先の駅で降りれば、そこから歩いて五分のところに学校はあったが、生徒や他の教師と顔を合わせることになるのは面倒だ。無論、一つ手前の駅で降りたからと言って、誰かと顔を合わせないということもないのだけれど。とりあえず、僕は周りの人間から「車で来たらどうですか?」とか、そのほか色々なことを言われるけれど、「健康のためです」と適当に返すことに決めている。

 テキトーではなく、適当。いや、テキトーに適当なことを言っているのだ。

 僕は今日もまた古典力学を高校生に教える。古典力学の素晴らしいところは、目に見える世界を目に見える形で記述できるところだ。文学における風景描写と似ている。1つひとつの定理や描写にはたいした意味はないけれども、それは文脈や組合せ次第でいくらでも応用することができる。例えば、あまり予算のない素朴なハリウッド映画のような代物とも似ているかもしれない。意味や意図はなく、ただその凡庸さと混沌さの中に、普遍的なものが見出せそうな気がする。これが僕の持論だ。

 けれども、授業ではそんなことは言わない。

 僕は何がテストに出て、何が受験に必要かを端的に生徒に示す。所詮は礼儀・作法の世界だ。高校物理的な礼儀、大学受験的な作法。物理という「科目」がどのように扱われたがっているのかをつらつらと黒板に書き連ねていく。時間とチョークをすり減らしながら。

 ときどき、こんなにチョークの粉を毎日吸っていたら、すっかり灰が真っ白になってしまうのではないかと思う。田舎の古めかしい、箸か棒かには引っ掛かるかもしれない、くらいの進学校には、ホワイトボードなんてものはないし、ましてや電子黒板なんてあるはずもない。いつだったか、チョークの成分について調べたことがあるが、現代のチョークのほとんどはホタテ貝の殻のような炭酸カルシウムが主成分で、人体への影響はほとんどないらしい。そりゃあ、そうだ。煙草すら疎まれる現代にあって、そんなただただ有害なだけのものが残っているはずもない。

 有害なものは淘汰される。

 そんなものは十代の子供だって知っているし、だからこそ、今どきわかりやすく非行に走る子供もいない。けれども、人間の腐敗は避けられないものだし、今どきの子は今どきの子なりに日々、人目につかないビルの影の中で腐っていく。

 授業後に一人の女生徒が質問にやって来た。10分休みだと困るが、昼休みだから良いだろう。僕は笑顔で彼女を迎える。

「運動エネルギーと速度って何が違うんですか?」彼女は言う。

 僕は呆気に取られてしまった。もちろん、この一時間なにを聞いていたんだ、という驚きもあったが、ほかにも僕が驚いた理由はあった。

「単位が違うね」僕は簡潔に答える。

「単位……」彼女は納得のいかない表情をしている。

「気になることがあれば何でも言っていいよ。どんな馬鹿げたことでもちゃんと答える」

「じゃあ」そう言って、彼女は僕のことを、まるで物理という悪魔そのものでも見るようなまなざしで睨みつける。「速度が大きいと、運動エネルギーも大きくなりますよね?」

「そうだね」

「じゃあ、速度と運動エネルギーを別に分けて、ちがうものとして考える必要ないじゃないですか」

「運動している物体の質量が大きいと、運動エネルギーは大きくなるけど、速度は大きくならない」

「たしかに、そうかもしれないですけど」未だ彼女は不服な面持ちだ。

「そもそも、質量と速度をまぜこぜにして考える意味がわからない」僕は先回りをする。

「そうです。わざわざ物事を複雑にして、『運動エネルギー』なんて恰好つけた名前をつけてるだけじゃないですか」

「国が老人に年金を与えて、消費税アップでまた老人から税金を巻き上げるみたいに」

「複雑化して権威を守りたいだけなんですよ、結局」

「ずいぶんとアナーキーな思想を持ってるんだね」

 僕が茶化すと、彼女は眉を潜めて、いっそうきつく僕のことを睨みつけた。

「まぁ、君の言うこともわからないでもない。でも、例えば、君もお金は使うだろう?」

「当たり前じゃないですか」

「お金は便利だと思う?」

「便利かもしれませんね。私はあまり好きになれないですけど」

 僕は苦笑いを浮かべるよりほかない。いったいこの子はどうしてここまでものを斜めに見るようになったんだろう。僕も他人のことを言えたものではないが。

「まぁ、要するにさ。おれのボールペンと君のお弁当を交換しようって言っても、比べるのが難しいだろう? それに、交換を持ちかけられた君はきっと、おれのボールペンがいくらくらいするものなのか知りたがる。そういう意味で、お金みたいな共通の基準ってのは、何か違うものを比較するときに便利なんだよ。エネルギーっていう基準を持ち出すことで、例えば10kgの物体が時速60kmで運動しているとき、そいつのエネルギーで何リットルの水を沸騰させられるか計算できるようになる。理論上ではね。別に権威がどうとかじゃなくて、単に比較する上での利便性の問題なんだ。古典的な天秤や、水銀温度計みたいな話なんだよ。普通に人間が生きている中では、速度っていう形の方がわかりやすい天秤になる。でも、ややこしい現象を考えるときに、エネルギーという見方を持ち出すと、比較しやすくなるってわけ。これは考え方を変えると、『速度』という人間の目は本質的でなく、『エネルギー』という人間の思考の方がより本質的であるかもしれない、ということになる」

 彼女は未だ不服そうに見えたが、それでも観念したように溜息をついた。

「きっと私は学問の名前をつけたがるところが嫌いなのね」

「なるほど」僕は頷く。

「てこの原理、なんて名前をつけるまでもないじゃない? ほかにも、ちっちゃい星を見つけては、好き勝手に名前をつけたり、新しい原子を作り出して、それの名前をつけたり」

「何か歴史に名を刻みたい、ってのが男のロマンなんだ」

「ばっかみたい」

「君は自分の名を刻むほどの価値がこれまでの歴史にあったと思う?」

平安時代までなら」彼女は鼻の頭を掻きながら、ちらりと時計を見やる。「それに、私だって『紫式部』みたいな洒落た名前だったら、歴史に名を残したいと思えたかもしれない」

 彼女はそれだけ言うと「ありがとうございました」と言って、自分の席へと戻って行った。

 そういえば彼女の名前は何と言うのだったか。席に座っているときは、誰が誰かということは何となくわかるのだけれど、一度席を立たれてしまうと途端に彼らは名前を失ってしまう。確かに、「紫式部」みたいな名前だったら良かったのにな、と僕はほんの少し笑ってしまう。そうしたら覚えやすいのに。

 僕が黒板を完全に「0」に戻してから教室を出て行くとき、「紫式部」は独りで弁当を開いていた。

 

     *

 

 部屋の中には水が満ちていて、ガラス張りの水槽の中を彼女は泳いでいた。

「どう? このドレス、素敵でしょう」彼女はそう言うが、僕には赤色しか見えない。ほかはまるで水を零した新聞紙のように、全ての輪郭が滲んで形を成していない。彼女の声にも泡の音が混じっている。綺麗だね、と言ってみた僕の言葉も彼女に届いたのかどうか。

 太陽の光を感じる。部屋の中は眩しく、水槽のガラスで僕や彼女やテレビやタンスが万華鏡のように幾重にも反射している。大量の水にはほんの数滴分の水色が垂らされていた。ペットボトルの中に見る水はいつも透明なのに、なぜ本当の水は、水色をしているのだろう。空よりも透き通る水色。ずっとここに居られたらと思うが、どうやらそうもいかないらしい。

 彼女はおめかしをして、お出かけが始まる。

 外の世界の何が彼女をそんな風に惹きつけるのだろう。僕には理解できないことがいくつもあるようだ。仕方なく僕は大きな泡を吐き出し、そして彼女の手を取った。

 

     *

 

 あれは寒い日だった。僕は安アパートの中で、古いエアコンで暖房をがんがんにつけていた。エアコンの音がうるさいので、何度も音楽のボリュームを上げたことも覚えている。

 彼女は雫田裕子という名前だった。それも覚えている。

 僕が教師になって三年目の冬のことだ。裕子は高校三年生で、そのころは既に推薦で県外の大学へ進学することが決まっていた。彼女は僕のベッドの縁に腰をかけて、座椅子に座る僕を見下ろしていた。

「ばかみたいだよね」裕子はスカートの裾についた長い髪の毛を摘まもうとしながら言う。

「でも、そういうものなんだ。誰も求めていないのに、いつの間にか目の前にはレールが引かれている」

「だって、何もしたいことなんてないんだよ、私」

「立派な志望理由書だったよ」

「ばっかみたい」彼女はようやく摘まんだ髪の毛をゴミ箱の中に落した。それがさっきまで彼女の一部であったことを不思議に感じる。「たまたま成績が良かったから、周りには推薦を取るのが当たり前だと思われて、そしてその期待通りに、私は推薦を取った。やりたいことなんてなかったけど、学校の職業体験だっけ? あれで医療福祉系の組に入ってたから、それでいっか、って大学も選んじゃった」

「あのイベントがそんな影響を与えるものだったとはね」僕は驚く。何回か聞いた話だったけれど、それでも僕はまた感慨深げに頷いた。

「私だって笑っちゃうくらい驚いたわよ。私の中ってそんなに何もなかったんだ、って」

「それだけ透明ということだよ」

「先生、そういうの好きだもんね」

 僕は立ち上がり、彼女の隣に腰を下ろすと、そのまま彼女の肩を抱き寄せた。シャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。

 彼女は身体の力を抜いて、体重を僕に預けた。大人に甘える、子供の所作。愛しいと思う。けれども、どれくらい僕は本気で彼女のことを愛しいと思っているのだろう。考えれば考えるほどに、僕が彼女に抱く感情が何であるのかということがわからなくなってくる。

「先生はなんで先生になろうと思ったの?」

 僕はいくつかの過去といくつかの演出を交えて文章を組み立ててみた。

「もともと大学生時代にアルバイトで塾講師をしていたんだ。そして、大学でもたまたま教育関係の講義を取っていた。裕子はまだわからないと思うけど、大学では自分で勉強したい科目を選ぶことができるからね」

「ってことは、先生はもともと学校の先生になりたかったんだ?」

 僕は首を横に振る。

「塾講師のバイトをやったのは、おれがそれまで勉強しかしたことがなかったから。それこそ中学くらいの職業体験で、ホームセンターのレジ打ちをやったことがあったけど、あれはおれには向いてなかった。そうなると思いつけるのが、塾講師くらいしかなかったんだよ」

「確かに、先生には接客業は向いてないかも」裕子は僕の胸に寄り掛かりながら上目遣いで笑った。

「塾講師や学校の教師も、接客業っちゃ接客業だけどね」

「先生がやってるのは接客じゃない。控えめな演説」

「控えめな演説ね。上手いことを言う」僕は思わず感心する。

「で、大学で教育関係の講義を取ったのはどうして?」

「あぁ、それは簡単だよ。人気がなかったから。楽して単位が取れる講義は人気でね。いつも講義中は猿のテーマパークみたいにうるさくて嫌気が刺して仕方なかった。だから、試しに教育系の講義に行ってみたら、みんな割と真面目で、落ち着いて講義を受けることができた」

「落ち着いて勉強したいなんて、先生、まじめ」

「まじめさ。就活の面接でも、『まじめだけが取り柄です』って言い続けた」

「あはは、嘘ばっかり」

 僕は裕子を抱きかかえると、上から覆いかぶさるように口づけをした。瞼の間から、彼女の首筋のほくろと目が合う。もしかしたら、僕はこのほくろに恋をしているのかもしれない。何故だかそんな心地がして、ふっと一瞬だけ彼女の存在が遠ざかる。

「じゃあ、先生が先生になったのは単なる偶然?」裕子は僕の腕を身体からほどいて、そう言う。「それとも、ほかにも何か理由はあった? たとえば、自分には教師って向いてるって思う?」

「何をもって向いているとしたらいいのか難しいけど、教師という職業に特別な思い入れはある」

 僕の言葉に対して、「へぇ、意外」と相槌を打ちながら彼女はブレザーを脱ぐ。僕は彼女からブレザーを受け取り、ハンガーにかけてやる。「先生、優しい」と茶化すように彼女は言った。

「特別な思い入れがあるって言うわりに、授業は適当だよね。ううん、もちろんわかりやすくて良い授業だと思うよ。周りの評判も良いし。嘘じゃないよ」

「それは嬉しいね」

「でも、さっきも言ったけど、先生の授業は控えめな演説って感じ。演説は演説なんだけど、特にこだわりも無さそうだし、それに何か時々、先生は何のために私たちに授業をしているんだろうって思う。もちろん、そう思うのは私だけかもしれないけど」

「何のため、ってもちろんお金のためだよ」

「ふつう教師だったら、生徒に何かを伝えたいとか思うものなんじゃないの?」

「ふつうの社会人はみんな自分の仕事が退屈だと思いながら働いているよ」

「でも、先生は教師っていう職業に特別な思い入れがあるんでしょ?」

「そうだったね」

「そうだった、って……」裕子は呆れたように笑う。「じゃあ、その特別な思い入れってなに?」

「大学生時代におれは塾講師をやっていたって言ったね」僕の言葉に裕子は「言った」と返す。「そのときに気付いたんだよ。おれはどうしようもないくらい女子高生が好きだって。だから、高校教師になることを選んだ」

「それ、本気で言ってるの?」

「もちろん。だから、これからそれを証明してあげよう」

 僕は彼女をベッドの上に押し倒し、そしてさっきよりも深く口づけをした。脊髄をごわごわとしたタワシで擦るような音がエアコンから降り落ちてくる。

 

     *

 

 今日はまた面倒な一日になる。僕たち教師にとって三者面談の日はなかなか気乗りしないものだ。生徒は早く帰れて嬉しいかもしれないが。

 もちろん、生徒の中には真剣に自分の将来を心配するのも何割かいる。けれども、多くの生徒が自分の将来を他人事のように眺めているし、反対に親は当人以上に当事者意識を持っていてやりにくい。そして、僕たち教師はと言うと、他人事をまるで自分のことのように話しているように演技するので精一杯、といった感じだ。実にややこしい。日野のように自らの仕事にやりがいを見いだせれば少しはマシに思えるのだろうか。

 僕は今しがた終わった面談の内容を簡単にパソコンに打ち込むと、椅子から腰を上げ、教室のドアを開けて次の親子を迎えた。宮部壮亮という割に頭の良い生徒とその母親だった。

 窓を少し開けているおかげで、六月の澄んだ風が教室を満たしている。気持ちよく晴れた空に、どこからか鳥の鳴き声まで聞こえてくる。それにしても晴れてくれてよかったと僕は天気に感謝をする。不思議なもので、天気によって面談の雰囲気もがらりと変わって来るのだ。悪天候の日は話がこじれることが多いのは事実で、逆に気持ちの良い天気の日には話がスムーズに進みやすい。だから梅雨の時期に面談をするなとも思うが、年間の行事予定は僕の手の届かないところで決められているものだ。消費税アップよりはどうしようもなくないが、二度寝の誘惑よりはほんの少しだけどうしようもない。

「本日はよろしくお願い致します。壮亮くんの担任をさせていただいております、上原と申します」

 簡単な挨拶から面談を始める。僕は事前に宮部壮亮に提出してもらっていた面談シートを読み上げ、母親の方に「ご存知でしたか」と声をかける。面談シートには志望校が順位付きで羅列されているが、意外と子供がどこの大学を志望しているか把握していない親がいるのだ。子供はその場で思いついたことを適当に書くし、親は何かの機会に子供が口にした口触りの良い大学名をいつまでも覚えていて、それに執着するものだ。だから僕の最初の仕事は両者の相違をなくすところから始まる。

「えぇ、息子からもちゃんと聞いています。私としても、いま読み上げていただいた学校のどこかに入ってくれれば嬉しいんですけれども」

「そうですか。それは良かったです。お母様のご理解も得られているということで、壮亮くんにとってもこれ以上ない援護になると思います。大学受験というものは、これでなかなか大変な戦いですからね」

 これならすんなり終わってくれそうだ、と思う。宮部壮亮の学力であれば、面談シートに記入された志望校にもおそらく届くだろう。模試の結果もそう示している。

 しかし、思い通りにならないのが人生であり、三者面談だ。

「ちなみに、壮亮くんが上げてくれている大学ですと、いずれも東京で一人暮らしということになると思いますが、お母様はそれでよろしいですか」

「えぇ、もちろん。男の子ですし、世間を知るという意味でも、地元を離れて一人で暮らしてみた方が良いですよね?」

「まぁ、そうですね。もし可能なら外の世界に出てみるというのも、有意義な選択肢だと思います」

「そうですよね。ほら、先生もそう言ってるわよ」そう言って母親は宮部壮亮の顔を覗き込んだ。少し嫌な予感がする。「いえね、今日の三者面談に向けて、昨日ちょっと家で話し合ったりしたんですけど、急にこの子が地元の大学に行こうかななんて言い出したもので。私もびっくりしたんですけど、友達の中には、ほら、経済的な理由で地元に残る子もいるとかで。うちは幸い何とか息子一人くらいなら東京で暮らさせてやれると思うんですが、この子、急にそんなことが気になったみたいで」

 母親は息子の気遣いと家庭の経済状況をやや誇るといった感じでそう言ったが、僕の脳内には既に暗雲が立ち込めていた。

 宮部壮亮とその母親を見るに、どうも「金銭的な理由」というのは宮部壮亮の母親に対する建前でしかないように思えた。宮部壮亮には、どういう言い方が母親に対して、最も角が立たない言い方かというのがわかっているようだった。彼は何かを隠しているようだったが、それをこんな場所で打ち明けるはずもない。僕は適当に話を合わせながら、事務的な手順を踏んでいった。

 ほとんどの手続きが終わったところで僕は時計を見上げる。まだ、十五分ほど時間が残っていた。僕は書類を眺めるふりをして考える。膿を出すなら早い方が良い。しかし、ちょっとした吹き出物なら、放っておけばいずれ消えてしまう。さて、どうしたものか。

 僕は宮部壮亮に視線を向ける。彼はこちらの視線に気づいて、ちらっと僕と目を合わせる。ほんの短い間だったが、一瞬だけ何かを煩悶するような目の色を見せる。そして、単なる反射行動ではなく、意識的に目線が外される。僕は心のうちに溜息を吐いた。やってしまおう。今日は天気も味方している。

「では、これで三者面談を終わりたいと思いますが、まだ少し時間が残っているので最後に壮亮くんと二人でお話させていただいてもよろしいですか」

「壮亮と二人で?」母親が訝しがる。

「えぇ。時間の都合もあるので全員というわけにはいかないんですが、時間があるときは少しだけ二人だけで話す時間も頂いているんです。高校教師って意外と生徒と顔を突き合わせて話す機会がないので、私の個人的な矜持と言いますか。お母様には教室の外で待っていただくことになってしまい、大変恐縮ではございますが」

 母親は少しだけ考えるような素振りを見せたが、すぐに「それはそれは。どうぞお願いします」と息子を僕に差し出してくれた。僕は椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げて、母親が教室の外に出て行くのを見送った。

 僕の前には宮部壮亮ひとりが残っている。少しだけ戸惑うような表情。何を聞かれるのだろうかという不安も感じる。が、何を言い出されるのかと不安なのは僕の方だった。

「とりあえず、面談お疲れさま」僕の言葉に、宮部壮亮も軽く会釈をする。「一つ聞いてもいいかな?」僕は何の前置きも無しに尋ねる。

「……はい」

「県外の大学に行きたくない理由は、経済的な心配のほかにもあるでしょ」

 当然、宮部壮亮は黙ったままだ。別に責めているわけでもないし、ましてや聞いたことを吹聴するわけでもないのだから、さっさと喋ってくれ。僕はそう思いながら、そういった内容のことをオブラートに包んで彼に伝えた。

 そうしてようやく彼は口を開く。

「バカだと思われるかもしれないんっすけど、その、カノジョがいるんです」

「なるほど。それは良かったじゃないか」良くない、と思いながら僕は相槌を打つ。

「そのカノジョがこっちに残るって言ってて。だから、どうしよっかなって」

遠距離恋愛は大変だし、カノジョと離れるのは不安だもんな。色んな意味で」

 宮部壮亮はまた黙ったままだ。まぁ、この沈黙は仕方ないか。

「でも偏差値で見れば、いま宮部が志望している大学より、こっちの大学の方が数段劣る。急に志望校を落としたとなれば変に思われるし、正直に話したところで反対される可能性も高い。もっと広い世界を見てもいいんじゃない? みたいに」

「はい。それに、そもそもカノジョとかそういう話、両親にはできないっすよ」

「まぁ、偏差値を上げるわけじゃないんだから、そんなに大変なことでもない。滑り止めにこっちの大学も受けておきたいって言っておいて、あとは県外の大学にぜんぶ落ちればいい。やってやれないことはない」

「そうするつもりでした」

「好きにすればいいさ。正直なところ学校側は落胆するだろうけど、先生にとっちゃあんまり関係ないことだしな」

「はい。好きにするつもりです。できるだけ角の立たないやり方で」

「そうか」ここまで聞いて僕は安心する。やはり頭の良い子だ。僕の求めていることがわかっている。

「あの」宮部壮亮は遠慮がちに口を開く。「あの、本当に先生の評価みたいなものには関係ないんっすか?」

「あぁ、関係ないね。そりゃあ、全くないというわけでもないけど、実際に宮部が志望しているような大学に合格できなくて、望んでいない県内の大学に滑り止めで行く生徒を何人も見て来た。その裏に地元に残るカノジョがいたかどうかなんて書類で残るはずもない。だから、先生としては受験直前の土壇場で手のひらを返されたり、精神を病んで不登校になったりされなければ、宮部がどうしようがそれは宮部の自由だと思うよ」

「そうっすか」

 再び沈黙。風の音と鳥の鳴き声が聞こえる。それに混じって、品のない高校生の笑い声も聞こえてくるのが何とも言えない哀愁を誘う。

「先生のこと、生徒に無関心で思いやりのない教師だと思うか?」

「いや、まぁ、少しは。というか、普通の人からはそう思われるだろうな、って。普通の先生って、あんま、先生みたいに正直に話さないじゃないっすか。でも、先生だって一人の人間ですし、そりゃあ生徒のことより、自分のこと優先で考えますよね。それを実際に生徒に言うかどうかは別として」

 宮部壮亮が笑うのに合わせて僕も小さく笑う。

 自由に生きたがっている高校生が目の前にいるのだから、自分も自由に振る舞ってやるのが一番効果的だと思う。しかし、これで手放してしまえば、このうら若き宮部壮亮という人間にはっぱをかけただけで終わってしまう。自分の考えに固執した彼が今後、何かの拍子に爆発してしまうとも限らない。僕個人としては、「何だかんだ言いながらも東京の大学に合格してしまい、決心もつかないまま、ここを離れる」というのが理想だ。一番、後腐れがない。

「ただな、よく考えた方がいいぞ。宮部がいま考えてる志望校に合格すれば、ほとんどどんな会社にも就職できる。こっちの大学とは比にならないくらいコネも情報量も違うんだ。それにこっちの大学に行けば、一生をこの街で過ごすことになるが、本当にそれでいいのか? 彼女さえいれば幸せと思うこともできるけれど、高校時代の彼女と結婚する男なんてきっと世の中に一パーセントもいない。今はなかなか想像もつかないかもしれないが、十代の淡い失恋の痛みと、地元の女のせいで自分の可能性が閉ざされる痛みを比較して考えてみると良い。前者は良い思い出になるが、後者は今後の人生ずっと引きずるぞ。そして、僻みや妬みとなって内側から人間を腐らせる。一般的な大人の意見になってしまって申し訳ないが、本当によく考えた方が良い」

 また何度目かの沈黙。思ったよりも宮部壮亮は僕の言った言葉が響いているようだった。彼自身、実のところまだ悩んでいる部分が大きいのかもしれない。

「先生は」宮部壮亮は考えながらも口を開いた。「先生自身は、おれみたいな経験あるんですか?」

 今度は僕が考える番だった。そして、考えるまでもなく答は最初からそこにある。僕の虫食いだらけの海馬に。

「ある。いや、正確に言えば自分自身ではないけどな。先生の昔の彼女がそうだった」

「先生の昔のカノジョ?」

 しまった、口が滑った、と思う。僕は頭の中でその昔の彼女の年齢をいくつか嵩増しして、そして、高校生から短大生にしてやった。

「彼女は短大を出るときに、宮部と同じような悩みにぶち当たったんだ」

「それで、その人はどうしたんすか?」

「先生のもとからは離れていったよ。不思議なものでね、後日全然別の場所で出会う機会があって、そのとき彼女はとても幸せそうだった。先生と付き合っているときよりもね」

 宮部壮亮は僕の言ったことを咀嚼しながら、窓の外を見た。青い空に照らされて、彼の精悍な骨格が浮き上がる。まだ高校生ではあるが大人だ。しかし、女よりはやはりいくらか子供だなと思う。

「わかりました。もう少し、きちんと考えてみます」

 そう言って、宮部壮亮は椅子から立ち上がった。たしかに、そろそろ時間が迫っていた。まったく物わかりの良い青年だ。

 彼は扉の前で唐突に足を止めて、僕の方を振り返る。

「そうだ。それで、先生はどうだったんです?」

「どうだった?」

「その短大生だった子と別れた後は、別れる前よりも幸せになりましたか?」

 

     *

 

 大学生のときの僕もやはり自分の教え子と特別な関係を保っていた。彼女の名前は渋川南美という。「みなみ」ではなく、「なみ」と読む。彼女は高校一年生で、まだメイクの仕方もよくわかっていなければ、女子校に通っているせいか腕の毛の処理すらしてはいなかった。

 特別な関係にあったと言ったが、僕たちは男女交際していたわけではない。無論、性交渉すらなかった。そういう意味で僕たちの関係は特別と言えた。先生と生徒という関係性は保ったまま、ただ塾以外でも頻繁に顔を合わせ、普通のカップルがするようにデートをする。一般的なものよりもやや歳の近い、叔父と姪のような関係と考えるとしっくりと来るかもしれない。しかしながら、兄弟ではないから一緒に暮らしているわけではない、という説明も僕たちの距離感を説明する上ではそれなりに効果的であると思われる。

 九月。南美の夏休みが終わり、僕の夏休みはまだだらだらと続いていた。土曜日の朝、僕たちは駅から五分ほど歩いた小さな公園のベンチに座り、頭上から落ちる花を捨てた藤の影に包まれていた。

「先生はまだ夏休みかぁ。いいなぁ」

「本当に。でも、おれだって高校の時はちゃんと夏休みは八月までだったんだ。そういう意味では平等だよ」

「私はいま長い夏休みがほしいの」

「大学生まで待つんだな」

 僕は膝の上で裏返された南美の手のひらを二度軽く叩いた。南美の手がきゅっと握られ、僕の手は捕まってしまう。

「ねぇ、なんで私がいま長い夏休みがほしいかわかる?」

 僕はその問いに答えず、公園から街の景色を眺めた。僕が大学生になったばかりに見た景色とはいくらかその様相は変わっていた。僕の目が変わったのではなく、現実的にこの街は変革の時を迎えているようだった。

 市の計画で、すでに駅と一体型の商業施設ができた。そこからペデストリアンデッキを通じて、大型電気店までストレスフリーに歩いて行ける。今後はそのペデストリアンデッキをさらに伸ばして、その先に新たに音楽ホールを建設するらしい。僕たちはベンチに並んで腰かけながら、朝っぱらからトンカントンカンと音を立てるその工事現場を眺めていた。青空を背景に臙脂色の鉄骨と黒く透き通った網状のカバー。僕はふと工事現場の埃っぽさを鼻に感じる。まるで自分がその日陰になった灰色の現場でふとこちらの公園を見下ろしたような気分にさえなった。

 どこか芝居じみたものを感じていた。

 街は、いや人々は、まるで停滞を恐れるように変化を求めているみたいだった。

 科学により情報処理技術が格段に向上したせいで、我々の社会は今までにない勢いで変化をしていく。そのような現代にあっては、停滞は実質的に後退を意味する。したがって、我々もまた恐れることなく変化を受け入れて、世界に対して新たな価値を提示していく存在にならなければならない。人工知能が我々人間の知能の様々な点を凌駕した今、我々人間が人工知能に勝る点は「創造」という行為にほかならない。「想像」、すなわち「予測」という行為ですら、拡大された情報処理技術によって我々はもはや機械には敵わない。だからこそ、我々は機械よりも、人工知能よりも先駆けて世界を変えていかなければならないのである。

 僕は馬鹿らしいと思う。やり方が稚拙だとも思う。大学では企業から招待された講師による講義があるが、だいたい皆こういう話をした。僕たちの価値など社会に規定されるものではないし、ましてや機械や人工知能などに阻害されるものであるはずがない。仮に機械や人工知能によって我々の価値が阻害されるとするならば、それは実際は機械や人工知能を利用した社会によって、我々の価値が阻害されるのだ。そして、社会というのも実態とは異なる。社会は概念であり、システムに過ぎない。結局のところ、その概念やらシステムを利用しているのは人間だ。僕たちは得体の知れない何かに殺されるわけではない。僕たちは人間によって殺される。銃が人を殺すのではない。引き金をひいた人間に人は殺されるのだ。

 僕は知らず知らずのうちに眉間に皺を寄せていたみたいだった。「なに考えてるの?」と南美が僕に尋ねる。僕は落ち着くために息を一つ吐き出した。

「どんどん街が変わっていくね」僕はとりあえず喋ってみる。

「うん。なんか音楽ホールができるんだってね」

「南美も早く大学生になりたい、と言う」かつて数十年前の社会に存在していた変化への恐怖が停滞への恐怖に置き換えられているだけだと思う。「大学生になれば、長い夏休みがもらえるもんな」

「そうだね。でも、ちょっと違う」南美は首を傾げる。「大学生になりたいとは言ってないよ。もっと夏休みを長くしてほしいだけ」

 風が頭上の藤を揺らした。風向きのせいか、トンカンという工事の音が一瞬遠ざかる。どうしてかわからないけれど、僕はほっとする。ほんの一瞬だけ。しかし、次の瞬間にはもう工事の音が耳元で鳴っていた。

「先生のおかげでテストの数学の点数が上がった。今まで『もっと頑張りなさい』って言ってたパパも今回のテスト結果を見て喜んでくれた。でもね、パパはまた言うの。『次は90点を目指してもっと頑張りなさい』って。ねぇ、だったらさ。結局また『もっと頑張りなさい』って言われるなら、一生懸命勉強した意味って何かあったのかな? パパは私がどうしたら満足してくれるんだろう? 私は努力したし、それにちゃんと結果だって出した。なら、それでいいじゃない。『よくやった。これからもそのままで生きていきなさい』って言ってくれればいいのに」

 彼女の言うことは至極まっとうなことだった。しかし、彼女の父親の言うことも至極まっとうなことのように聞こえた。僕が彼女だったら彼女のように思うだろうし、僕が彼女の父親だったら彼女の父親のように思うだろう。

 しかし、そんなことはどうでも良かった。

いつの間にか僕の社会に対する不満は消えうせ、いま僕の中にあるのは南美の父親に対する嫉妬心だけだった。