霏々

音楽や小説など

幕間

 

 南戸詠士(みなとえいし)は今日も仕事を終えて、会社の最寄りの駅まで歩いて行った。雨が降っている。濃紺の傘の生地は振り落ちる雨粒を受け止め、それがそれなりの大きさになるまで育てると、順番にひとつずつ端から落としていく。骨は一般的な傘よりもかなり多く見え、また柄の部分は黒塗りながらしっかりと木の手触りを残している。南戸の着るスーツはその傘よりもツートーンくらい明るい紺色で、その上には飾り気のない黒のチェスターコートを身に着けていた。ネクタイはスーツと同じ色合いだが、不可解な幾何学的模様が施されていて、それを着用する人物のファッションに対する一種のこだわりを代弁しているかのようだった。

 雨は冷たく、ただよう空気の中にまでその冷気を染み渡らせ、渋滞する車列のヘッドライトからも暖色を奪い取っているような趣さえ感じさせる。この世界に残された温もりは、並ぶ車の底部から発せられる熱と、ほのかな排気ガスだけのように見えた。

 南戸は先月に新調した革靴に防水スプレーを浴びせかけて来たことを何度も反芻しながら、同じリズムで足を繰り出す。大丈夫、スプレーはしっかりと役目をはたしている。ちょうど街灯の真下に差し掛かるとき、水溜りを踏む革靴がパンの耳の色合いを見せて楕円形に光を照り返す。ほら、やっぱり大丈夫だ。化学製品の質の向上は著しい。たしか仕事の顧客にも大手の化学製品メーカーがいたはずだ。

 二、三年前だったと思うが、その会社のネットワーク設備の構築を担当した。南戸のここ数年の業務は主に企業向けのネットワーク設備の構築と管理であり、その中で彼は少しずつ自分の立場を上げて来ている。今はキャリアアップの一環として、この日本海側のとある地方都市の支社に配属され、いくつかのプロジェクトの管理、そして営業の実行部隊として働いていた。管理職と言えば管理職であり、同期の中では最も早く出世していると言っていい。

 南戸の業務は、この地方都市に存在する企業の社長やら何やらと会社のネットワーク構築について色々と話を交え、そして費用の見積もりと担当社員の割り振りを行うことが大部分を占める。プロジェクトを管理して、担当するシステムがおおよそ滞りなく機能するのを確かめてから、アフターサービスの部門に引き渡すところまでが彼の仕事で、それなりに広範な領域に渡って動くことが求められているが、仕事の大きさという意味ではまだまだ地方都市クラス。南戸はさっさとこの場で現場経験を積んで、もっと大きなプロジェクトに参加したいと考えていた。

 ほとんどが中小企業の相手でも、ここでしっかりと結果を残し、そして然るべき能力を磨いていると上から評価されれば、東京に戻って国の機関や大学を相手にしたもっと大きな仕事ができる。そして、それに応じて給料も飛躍的に上がるだろうし、何といっても大会社の課長、部長クラスともなれば他人の見る目もだいぶ変わって来る。そうしたら、いよいよ結婚についても真剣に考えた方が良いかもしれない。

 それなりの数の女とはこれまで親密な関係を築いてきた南戸だが、いずれの相手とも家庭を築きたいとは思えなかった。だから適当に遊び歩いているうちに、気がつけば既に三十代半ばだ。

 しかし、南戸のそんな証明された数学の定理のように美しい人生の展望はこの数か月の間に、幾ばくかの不確定要素を孕むようになっていた。南戸は歩きながら思う。泰斗(たいと)の存在が南戸の煌めく理想に薄い靄をかけているような気がする。道を完全に見失うほどではないにせよ、少しくらいの回り道は想定しておくべきだ。そんな警鐘にも満たないくらいの予感が南戸にはあった。

 南戸本人は当初、泰斗の存在が自分の人生に対してそこまで大きな意味を持つとは考えていなかった。泰斗はここよりもさらに田舎の出身で、この地方都市の国立大学に通うために現在は安いアパートに身を置き、たいして意味のない(と、泰斗自身が感じている)大学生生活を送っている。あるきっかけで、南戸はそんな泰斗と知り合い、それから何度か会っているうちに、次第に泰斗が自らにとって特別な意味を持つ存在なのではないかと感じ始めるようになった。それについてあれこれと頭を悩ませた結果、時が経つにつれ、当初抱いていた南戸の潔癖かつ完全とも言える人生の展望にもまだ未知の領域があるのではないか、と考えるようになった。

 雨は執拗に降り続けている。車列は冷たさにこわばったタイヤをアスファルトに噛みつかせながら、交差点を、音を立てて曲がっていく。水溜りが轢かれ、暗色の血しぶきが歩道の端を汚す。しかし、飛び散る血液は磁気を帯びており、どれだけ粉々に砕け散っても、自然とまた一所に集まって次の侵入者を待つ。ほどなく次なるゴムタイヤの侵略が訪れ、再び異なる形状の分裂が水溜りを襲う。

 交差点を左に曲がるとすぐに駅が見える。緑色の電光板に、白色の駅名。駅に隣接するようにドラッグストアが門を構え、清潔そうな、医薬品の匂いを纏った真っ白な光を夜のアスファルトに零している。南戸は駅の改札方向にちらりと視線を向けた。それからそれとなく振り返り、ついでに周囲を見渡す。この雨だ。傘の影に隠れて、人の判別は難しい。だから同じ会社の人間がこの辺りにいるかどうかを正確に見極めることはできなかったはずだ。しかし、もとよりそういった周囲に対する南戸の警戒はあくまで習慣のようなもので、そこまで重要な意味を持ったものではない。どちらかと言えば、習慣よりは儀式に近いものかもしれない。だから、特に「誰も見ていない」という確証が得られたわけではないが、南戸は歩を止めることなく、駅の改札へ向かう軌道から逸れ、そしてドラッグストアの駐車場の方へと足を向けた。

 駐車場の中から見覚えのある車を探す。十五分前に連絡は来ていた。

「いつものドラッグストアで待ってる」

 非常にシンプルではあるが、泰斗は今どきの若者には珍しく、わりとちゃんとした文章でメッセージを寄越す。南戸の考える一般的な若者であれば、「いつものとこ」とか「ドラッグストア」とほぼ単語レベルでしかメッセージを送ってこないのだろう。

 プレゼン資料は体言止めで。報告書は箇条書きで簡潔に。そういった効率を求めたビジネスマナーが蔓延していることと、若者の文章力低下が全く以て関係していないとは南戸には思えなかった。とは言っても、南戸はそういった効率化に対して否定的な態度を取る人間ではない。むしろ効率化を奨励するタイプの人間であった。だからこそ泰斗のわりに丁寧な電子メッセージの文章に、南戸は最初は呆れ、「俺が年上だからって、ちゃんとした言葉遣いする必要ないぞ」と笑って言った。

「気持ち悪いんだよ、言葉を適当に使うのが」泰斗は言った。倒置法だ、と南戸は漠然と思う。「喋るときはあんま気になんないけど、文字に起こすときは気になる」

「不思議なこだわりだな」南戸は率直に感想を述べる。

「なんでだろう」泰斗は自分で言っておきながら首を捻った。「考えとく」と少し間を開けてから最後に泰斗は付け足した。窓の外に目を向ける。そう言えば、その日も雨が降っていた。この季節のこの街はたいてい雨が降っている。仮に雨が降っていなかったとしても、それは「今は」降っていないというだけで、空には常に雨の予感を孕んだ禍々しい色の雲が滞留していた。それは不吉な予言のようにいつまでも影のように付き纏い、振り返ると必ずそこにあった。

 南戸はざっと視線を流し、その中から自らの車を探し出した。白のクーペ。左ハンドルのツーシーター。こんな世俗的なドラッグストアの駐車場には不釣り合いだからすぐにわかる。南戸にはまだ乗せるべき家族もなければ、友人関係も大人数で集まるよりは一対一で親交を深める方を好んだため、二人分の座席があれば基本的には事足りた。もちろん、何かの事情があれば後ろに乗せることも可能だが、その「何かの事情」が実際に生じたことはこれまでなかった。というよりも、いくら大手企業でそれなりのポストにいるとは言え、こういった車を所有していることが会社内で広く知られれば、それなりに多くの人間が決して爽やかとは言い難い感情を抱き、それなりに多くの視線が南戸に向けられることになるだろう。だから会社の人間には、かなり仲の良い同期の数人しかこのクーペの存在を明かしていなかったし、実際に助手席に乗せたことがあるのはその中でも最も親しい一人だけだった。

 女に関しては、小さめの定食屋のメニュー数くらいは乗せているが、彼女らは乗り心地やエンジン音、それから特別にセットしたスピーカーの類には特に興味を示さず、ただ南戸の経済力のバロメーターとしかそのクーペを捉えることはなかった。

 南戸は傘を畳んで、白のクーペに乗り込んだ。助手席は右側にある。左側の運転席には泰斗が乗っていた。ドアを閉める前に傘についた水滴を丁寧に払い落とし、撥水作用が目に鮮やかな革靴(食欲をそそるパンの耳の色)も軽く振り、「神経質」というよりは「綺麗好き」くらいに見える程度に、車内に雨滴を持ち込まないよう気を配った。

「仕事お疲れさま」泰斗がぶっきらぼうに言う。

「なぁ、迎えに来てもらってなんだが、雨の日くらいあの軽で来いよ」

 半年ほど前の六月上旬に、泰斗への誕生日プレゼントとして南戸は軽自動車をプレゼントした。底の深い弁当箱のように直方体に近いフォルムの中古車だったが、藍色のボディは新品同様に見えたし、車内もかなり清潔だった。走行距離だけは七万キロメートル弱とそれなりだったが、おかげで値段も比較的安い。五十万円くらいで、南戸の経済力からすれば問題のない範囲だ。過去に八十万円近くのブランド品を女にプレゼントした経験が、南戸の金銭的な尺度を多少狂わせている節もあったが、幸い現在の彼にはそういう女がいないために、経済的余裕もある。そして、泰斗に使い勝手の良い「脚」を与えることで南戸には幾ばくかの実利もあった。しかし、泰斗には南戸自身が所有するクーペの使用許可も与えていたし、実質的にその実利が生まれるのは、南戸が自らのクーペを使用している最中に泰斗を別行動させたい時くらいのものだった。それでも南戸が車で出ているときに泰斗に買い物をさせたり、何らかの理由で南戸自身にその中古の軽が必要となったりする場面もこれまで何度かあるにはあったので、南戸はおおむねそのプレゼントを与えたことに満足していた。

「雨の日こそこっちが良い」そう言って、泰斗はシフトギアに手を乗せた。「雨が降ると上手い紅茶を飲みたくなる、って何かの小説の登場人物が言ってた。雨の日に良い車を走らせるのは気持ちが慰められて良い」

 南戸は口角をわずかに持ち上げた。何はともあれ、こうやって自慢のクーペの良さについて言及されるのは南戸にとっては心地の良いものだ。それから、「まぁ、田んぼ道とか泥まみれになるようなとこを通らなきゃいいさ。どうせ週末には洗車するしな」と泰斗を非難する態度を一新した。さらに気分を入れ替える為に、車体にへばりつく水垢の爛れ模様を洗車ですっきり綺麗に取り除く場面を想像する。もともと汚いものを綺麗にすることが好きな掃除好きの傾向がある南戸は、その小さな想像だけでもかなりの幸福感を得ることができた。

 南戸は鞄を後ろの座席に放り投げ、背もたれに体重を預けた。身体がすっぽりと柔らかく包まれる。雨の日は歩くのも疲れる。やはり乗り心地の優れたこの美しいクーペで迎えに来てもらって正解だったのだ。南戸は一人頷いて、シートベルトを締めた。それと同時くらいにクーペは確かな手応えを以って動き出し、滑らかな弧を描いてドラッグストアの駐車場を後にした。

 白いクーペは暗い色合いの蟻の列に紛れ込む。連なる愚鈍な隊列の途中に、優秀な一匹だけが獲物である白い砂糖の破片を担いで歩を進めている。それが南戸と泰斗が乗る白いクーペだ。ヘッドライトに照らされる縞模様の雨の弾丸。滲むフロントガラスに、ワイパーのメトロノーム。怠惰な蟻のような渋滞に阻まれ、南戸はやや苛立ちを感じていたが、善きところで泰斗はミュージックプレイヤーに手を伸ばした。シンプルかつ重たい低音のリズム。繰り返される一定のコード進行と、抽象的なリフレイン。力の抜けたボーカルが、矛盾をテーマとして単語を繋ぎ合わせた無機質な詩を無感情に歌い上げる。仕事の為に高速回転していた南戸の脳が少しずつギアを落としていく。泰斗が選んだチルアウトミュージックが、優秀な精神科医のごとく、南戸の苛立ちを取り除いていった。

 南戸は欠伸を浮かべる。目尻に溢れる涙を人差し指で掬った。肩が強張っていたな、と気がつく。静かに流れていく対向車線。いつの間にか車はバイパスに乗り入れ、白いクーペはようやく自慢のエンジンをあたため始める。

 泰斗はまっすぐ正面を見つめ、無理のない範囲で次々と前を走る車を追い越していった。フロントガラスの端で雨滴が小刻みに震えながら、山を登るように少しずつ上昇していって、しまいには視界から消える。それが何度も何度も繰り返された。ぼんやりとした街の灯が、たいしてカラフルとも言えないまま後ろへと過ぎ去っていく。それは日常の灯であり、生活の灯だ。車内を包み込む音楽は雄弁な詩人であり、それを聞くともなく聞いていた南戸はいつの間にか、頭の中で自らがその詩人となっていることに気がついた。

「そう言えば」と、泰斗が口を開く。南戸はまどろみから目を覚ます。「この間、なんで俺は言葉を文字に起こすときに細かいことが気になるのか、って話したじゃん?」

「あぁ、したな。喋ってるときはそんなに細かいことが気にならないのに、文字にすると、文章にすると、やけに丁寧にしたくなるって話だろ」

「そう、それ。あれ、思ったんだけど、俺は現実よりも小説を大切にしてるからなんじゃないかな」

「現実より小説? 疲れてるせいかな、全く意味がわかんないな」南戸は自嘲と非難が半分ずつ混じった笑いを窓ガラスに映した。

「要するに俺は現実の人間を信用してないんだよ。現実の人間よりは小説とか映画とか、そういう作品の中に出てくる人間を信用してる。でも、目の前の現実の人間は信用ならないし、そういうのを相手にしてるときは、とりあえず情報の交換ができればいい。だから、割と適当に言葉を使う。あくまで情報伝達のツールとして言葉を使う。つまり、効率的にそれが使えればそれでいい」

 南戸はいつの間にか数人の睡魔が腰を据えてる脳で考える。「喋る」イコール、「現実の人間との情報伝達」イコール、「効率性の追求」イコール、「言葉の簡素化」ということだろうか。それだけ考えてみても、やはり未だ泰斗の言わんとするところの実感がわいてこない。

「でも、小説の中ではわずかなニュアンスが重要になってくる。ホリー・ゴライトリーは自分の知恵遅れの弟のことを、『頭がおかしいわけじゃなくて、優しくて、頭がぼんやりとしていて、考えるのに時間がかかるだけ』って言うんだ。そういう微妙な表現こそが重要なんだよ。特に小説の世界では。だから、小説の世界で使われる文字としての言葉ってのを、俺はきっと大事にしているんだと思う。しっかりと配慮された文字や文章ってのは信用に足る。現実の人間とは違って」

「現実には、そういう繊細な表現は必要ないって?」南戸は尋ねる。

「そう思ってるのかもしれない」泰斗は自分のことなのに、断定的な言葉を使わない。「人は配慮より、リズムと損得勘定で言葉を使う」

 不思議な奴だ、と南戸は思う。当初問題としていた、「文字としての言葉を丁寧に使いたい」という泰斗の嗜好を南戸は奇妙と感じたが、その理由を聞いて彼はさらに泰斗のことを奇妙に思うようになった。

 泰斗は南戸と同じく、大学では理系に所属している。専攻は南戸が電子情報系で、泰斗が物性系だったが、もし二人を文系に置き換えるのであれば、南戸は経済学部で泰斗は文学部、あるいは哲学部といったことになろう。社会的地位と高給を明確な目標として生きてきた南戸からすると、泰斗の非生産的な自己探求や個人的煩悶といった習性は、未開の地の部族と接触するような奇妙な心地のするものだ。しかも、年齢的に十五かそこら離れている。しかしながら、南戸はそんな若くして悩める泰斗に興味を惹かれていたし、泰斗は泰斗で、南戸の打算的でわかりやすい価値基準と、それを実現しうる現実的な力強さに魅了されていた。

「損得勘定ね」南戸は泰斗の言葉を繰り返す。「それなら、俺みたいな人間は泰斗からすると最も信用ならない相手ってわけだ」

「あぁ、たしかに」泰斗はまっすぐ車を進めながら頷く。「でも、南戸は信用できないところが信用できる」

「ははは。なんだよ、それ。めちゃくちゃ矛盾してんじゃんか」

「なんて言えば良いんだろうな」

 泰斗はまたそこで黙る。南戸はさきほど泰斗が口にしたなんらかのセリフを思い出す。たしか、「頭がおかしいわけじゃない、考えるのに時間がかかるだけ」だったか。きっと泰斗が意図した意味とは違うのだろう、と南戸はわかっていたが、そのうえで「まさに泰斗、お前のことじゃないか」と運転手にはわからないように、窓の方に顔を向けて口角を持ち上げた。吹き飛ぶ電燈の光の合間に、自らの不気味な笑顔が浮かび上がってくる。窓ガラスにしがみつく雨滴がぶよぶよと蠢き、ガラスの中に捉われた南戸の不吉な笑みを不規則に歪める。

「たとえになってるかわからないけど」しっかりと前置きを入れて、泰斗はようやく口を開いた。「スキー場とか古いパーキングエリアで食べる醤油ラーメンと、美味いのかよくわからないけど雰囲気だけは一流っぽいフレンチレストランのランチだったら、詠士はどっちが良い?」

 南戸は泰斗に言われるがまま、純粋にその二つの選択肢を頭の中で思い描いてみた。

「もう少し詳しく状況設定してくれよ」

「そうだな。醤油ラーメンはプラスチックのお椀にパートのおばちゃんみたいな人が作ってくれる。市販の醤油をそのまま使っているような味しかしないにも関わらず、まぁ、例の如く値段はそれなり。スキー場とかパーキングエリアみたいな特殊な環境じゃなきゃ、とっくに廃業しているような感じ。対して、フレンチレストランの方は静かで、うっすらとクラシックなんかがかかってる。味は前衛的なのか、単にマズいだけなのか評価に苦しむけど、手を叩いて喜ぶようなものではない。店の雰囲気と値段だけはいっぱし」

「それなら、フレンチレストランだな」南戸は断定的に言いのける。

「やっぱり。詠士はそういう人間だから信用できる」

「どういうことだ?」

「いくら胡散臭くても、味が未知のものでも、それがそれなりに見栄えのするものだったら、はなからたいしたことのない味とわかってる醤油ラーメンよりは、怪しいフレンチの方を取る。醤油ラーメンが味も見栄えも三流なら、見栄えだけでも一流っぽいフレンチの方が価値があるって詠士は判断したんでしょ?」

「よくわかってるな。その通りだ」否定のしようもない。

「でも、世の中の大半は、『スキー場とかで食べるラーメンってなんか美味く感じるよな』みたいなことを言いたがるんだよ」

「そうだろうな。実際、その気持ちも全くわからないというわけではない」

「俺もわからなくはないけど。でも、スキー場で食べるとどんなに粗末なものでも美味く感じる、って、それって根拠としては怪しい気がしない?」

「怪しいな。胡散臭いフレンチが美味いかどうかというくらい怪しい。いや、それ以上かもしれないな。先入観とか共通認識みたいなものを免罪符に、本当に怪しいのはどっちなのかって考えずにみんな思考停止している。要は、泰斗はそういうことが言いたいんだろ」南戸はようやく話の筋が見えたことで幾分かすっきりとした面持ちに変わった。

「すごいな。その通りだよ」泰斗は感心して頷く。「スキー場で食べる飯は美味い。そういう世間一般の暗黙の了解、つまり会話のリズムがある。そして、大半の人間がそのリズムに流される。一部にはシンプルな味を心の底から求めるような、確固たる信念を持ってスキー場のラーメンを選ぶ人間もいるだろうけど」

「そりゃそうだ。何にだって、少しくらいは本気の人間がいる」南戸は相槌を入れる。

「そして、そういう流される人間の大半は、本来であれば善人で信頼に足る人間たちだと思う」

「間違いない」

「でも、俺はそういう善人で信頼に足る、流される人間たちを信用できない。そういう人間よりかは、ちょっと普通じゃなくても詠士みたいな、きっちり打算的で信頼したくないような人間の方が俺は信用できるんだ」

「酷い言われようだな」南戸は笑って返した。既に顔は前に向けられていたので想像でしかないが、今の笑顔はさっきよりもだいぶ自然で、不気味さはないはずだ。

「現実の人間は、リズムと損得勘定で会話をする。世間の価値基準を無意識に受け入れてそれに乗るリズム、それからそれに従うことが最も利益率が高いとする損得勘定。こんなものは俺は信用できない。だから現実に属する会話上の言葉はあんまり気にならない。どうせ信用できないんだから、テキトーに使っていればいい。でも、配慮や善意を孕んだ微妙なニュアンスが物を言う、文字としての言葉は丁寧に使いたい。それがたとえメールやチャットみたいな現実で使われるものであっても、文字ってだけで、何となく気が引き締まる。それが、俺が文字や文章を丁寧に書きたい理由なんだ、ってこの間ようやくわかった気がするんだ」

 南戸は「ふうん。それは面白いな」と簡単な相槌を打った。クールな南戸はいつも誤解されることが多いが、南戸が「面白い」と言う時は、往々にして本心であることが多い。今回も南戸は本心で「面白い」と言っていた。

 泰斗は「本当に面白いと思ってるのかな」と苦笑いを浮かべるが、いつものように南戸は「本当に面白いと思ってる」と答えた。泰斗はまだ半信半疑だったが、南戸がそう言うのだから、南戸自身は本当にそう思っているつもりなんだろう、とそれ以上考えることをやめた。

 泰斗はハンドルを握り直し、アクセルとブレーキを交互に踏み換え、シフトレバーを適切に運用する。頭の脳みそよりも先にこの身体がこの鉄塊に直接指令を与える。網膜で弾ける夜のヘッドライト、街の灯。雨のノイズは気怠いエレクトロダンスミュージックをさらに形の無いものへと導く。泰斗は大学になんて行かずに、普段からそういう一般受けしない音楽ばかり探しては聴くことを生活の大きな一部としていた。小説を読むこと、映画を観ること、音楽を聴くこと。静かに、孤独に。それからよく自分について考えた。自己意識に対する思考は時に深刻で、時に散漫としている。泰斗は南戸のことについてもよく考えた。泰斗は南戸のことを軽蔑する一方で、自分と人間的な比較を行うことで発見の多い対象だとも考えていた。そして、そうやって南戸について考えているうちに、次第に自分が南戸に惹かれているのではないか、という疑念に問われるようになっていった。

 白いクーペは速度を落とし、斜面を滑り落ちるようにインターチェンジから降りた。降りてすぐに信号に引っ掛かる。南戸の現在の住まいは仕事場の最寄り駅から車でおよそ三十五分といったところ。利便性の面から会社の近くに宿を取ることも最初は考えていたのだが、思い直して、少し遠いところで物件を探した。なんだったら会社で寝泊まりしても全然構わないくらいには、南戸は自分が仕事人間であるという自覚があったが、せっかく都会を離れたのだから、これまでとは違うライフスタイルも良いかもしれないと考えたのだ。東京にいるときは仕事場から電車を使って十五分というところに宿を構えていた。家賃は馬鹿にならなかったが、会社の家賃補助と残業代のおかげでそれなりに高い生活水準を維持できていた。ほとんど毎日残業をしても南戸は全く苦にならなかった。仕事がなくなることはなかったし、早く出世したいという思いが南戸を仕事に集中させ、しばらくそんなことを続けていると次第に「管理職になったら残業手当がつかなくなるのだから、それまでは思う存分残業代を稼いでやろう」という意識が芽生え、いつしかそれが南戸の中で当たり前の考え方となった。残業超過の申請は面倒だったし、上司や同期、時には後輩からも心配されたが、それも長くは続かず、いつの間にかあっという間に申請は通るようになり、周囲からも「あいつは特別な人種なんだ」と思われるようになっていった。

 数年前、同期の中島(南戸が唯一泰斗以外にクーペの助手席に座らせた人間だ)と酒を飲んでいるときに、何かの話の流れで自分の長所が何か、という話になった。そのときに南戸は「行動規範がシンプルなところだ」と答えたのだが、同期の中島はそれについて「そう言い切れる辺りが、お前の持つシンプルさの強みなんだろうな」とかなり感心したようだった。中島の右目は羨望、左目は軽蔑に染まっていた。

 南戸は泰斗と出会った時のことを思い出す。

 あれは去年の秋ごろだったか。十五か月ほど前か、と南戸は月を数えた。南戸は仕事を終えて、仕事場近くのスペイン料理屋に一人で行った。こちらに来てからは珍しく残業に精を出し(一応管理職ということで残業手当は出なかったが、仕事というのは往々にしてそういうものだ)、時刻は九時を回り、腹が減っている。南戸はいくつか頭の中で、いま自分が食べたいものを思い浮かべてみた。どうしてなのかはわからないが、そのときぱっと彼の頭の中にパエリアが思い浮かんだ。パエリアということはスペイン料理か。ネットで仕事場近くのスペイン料理店を探し、まだ営業時間内であることを確認するとまっすぐそこへと向かった。その日はいつも通り電車で出勤していたから酒も飲める。そもそも南戸は寝坊でもしない限り、自慢のクーペで出勤することはなかった。電車代より駐車料金の方が高くつくし(会社の駐車場は基本的には使えなかったし、仮に使えたとしても自分の乗る車を他の社員に見られたくはなかったから、午前中に車で病院に寄ってから出勤するときなどは、わざわざ少し離れたコインパーキングを利用するようにしていた)、南戸は寝坊なんてものをほとんどしたことがなかった。

 スペイン料理店は二十席程度で比較的狭く、時間も遅かったから客の数も多くはなかった。しかしながら、店内の大画面テレビにはサッカーのスペインリーグの試合が映し出され、そこから溢れ出す歓声がオレンジ色に薄暗い店内を満たしていた。オリーブオイルの香りが漂い、ギター一本で演奏されるフラメンコの楽曲が店内には薄くかかっている。それはテレビの歓声を邪魔することなく、むしろ盛り立てているように感じられた。南戸は店員を呼びつけ、パエリアとカタルーニャ風サラダ、それからドリンクはサングリアと赤ワインで迷い、結局赤ワインを注文した。

 料理が来るまでの間、南戸はテレビに映し出される試合を眺めていた。同期の中島が小学生からサッカーをずっとやっている人間で、よくサッカーを観戦できる居酒屋に一緒に行ったことを南戸は思い出す。そこで何人かの選手の名前、それから主たるサッカーリーグ(南戸はサッカーを南米のスポーツだと思っていたから、種々のヨーロッパーリーグが最高峰であることに最初は驚いた)とそれぞれのリーグの中の強豪チームの名前を憶えた。緑色の芝生。散らばる二種類のユニフォームを着た選手たち。雨のように降り注ぐ歓声、それから重なり合う野太い応援歌。それらが何だか懐かしく感じられ、自分にも人間らしい感情があるものだな、と少し可笑しいような気持ちになった。

 南戸は歓楽街のネオンのように輝くテレビ画面からふと視線を外す。すると、ちょうど視線の先に一人の若い男の姿が映った。彼も数秒前の南戸同様、テレビ画面の中の試合の行く末をじっと見つめていた。彼は表情に乏しいところがあったが、生物学者が野鳥を観察するような面持ちで選手たちのプレーに目を向け、眉間にはそれとなくわかる程度に皺が寄っている。サッカーが好きなのだろう、と南戸は思う。

 しばらくするとその青年は厨房の方にふらっと姿を消し、そしてすぐに手にサラダを持って戻って来た。そして、そのまま真っ直ぐ南戸の席の方に足を進める。

カタルーニャ風サラダです」青年は言う。

「どうも」南戸はサラダに一瞥くれ、そして青年を見上げながら質問を投げかけてみた。「サッカー好きなんですか?」

「はい。手が空いてるときはつい観てしまいます」青年は、仕事を蔑ろにしていないことを訴えるためか、「手が空いているとき」という部分を少し強調した。「お客様も好きなんですか?」

「友人が好きで、よくこういうお店で一緒に観てたんですよ。私はあんまり詳しくないんですが。店員さんは随分とサッカーに詳しそうですね。好きなチームとか、選手とかいるんですか?」

「今試合してますよ」そう言って、青年はテレビ画面に視線を向けた。南戸も倣ってサラダから視線を上げる。青年は指を差し、選手の背番号と名前を口にした。たしか中島も良い選手だと言っていたが、やはり見る人が見れば、優れた選手はすぐにわかるものなのだろう。

「友人も良い選手と言っていた気がしますね。私は点をたくさん取るような選手しか知らないから、こうやって全く違う人の口からよく知らない同じ選手の名前を聞くと、なんだか不思議な感じがします」

「サッカー好きの間では結構有名な選手なんですけどね。中盤の選手なんですけど、目が八つくらいはあるんじゃないかっていつも思います」

 青年は小さく会釈をすると、南戸に背を向けて定位置に戻り、そしてまたテレビの画面へと視線を戻した。不意に攻撃に参加した守備の選手が前線から戻り、再び自分のマークを確認するかのような動作と重なる。青年は無造作に伸ばした髪を店で指定されていると思われるバンダナで何とか隠していたが、その外見に無頓着な感じと時折ふと見せる隙のようなものが、彼がまだ二十歳くらいのどこかの純朴な大学生であることを物語っていた。南戸はカタルーニャ風サラダの赤いパプリカにフォークを突き刺し、それから少しだけ赤ワインを啜る。

 青年が次にパエリアを持ってくると、南戸は再度青年にサッカーの話題を振った。青年はまたその目が八つある選手のプレーの素晴らしさについて語り、ほら、とテレビ画面を指差して目の前で繰り広げられるプレーの一つひとつを子細に説明してくれた。中島との付き合いのおかげで南戸はどのように振る舞えばサッカーファンが喜ぶかおおよそ心得ていたし、久しぶりに忌憚のない会話を楽しむことができた。そう言えば、こちらに来てからと言うもの、支社採用の年上の社員からは「東京のエリート」的な風に見られて居心地が悪かったし、年下の社員からは不必要なほどに警戒されていた。仕事に支障がない程度には打ち解けられるよう愛想を振りまいていたが、それはそれで疲れるものだ。やや朴訥とした雰囲気のある青年との直接的な利害関係のない会話は心地よく、南戸にとって価値あるものとなった。

 それからというもの、何かと遅くまで仕事場に残り(いつの間にか、東京の本社の方でも残業ばかりしていた、という噂が支社の部署内でも出回っていた)、そして九時近くになると例のスペイン料理店に足を伸ばし、青年とサッカー談義をしながら遅い夕食を摂る習慣がついていた。遅い時間を選んだのは、空いている店でゆっくり青年と話をしたかったからであり、その欲求のために食欲を数時間抑え込むくらい南戸には何と言うこともない。青年は泰斗という名で、隣町にキャンパスを構える国立大学の学生だった。また、理系で物性の勉強をしているという話を聞いて、南戸も自らの大学時代の話を披露したり、また自らの仕事について色々と語ったりするようになった。そのようにして、南戸と泰斗は次第に親交を深めていく。しかし、お互いについての理解が深まるにつれて、二人の間には決定的な価値観の差異があることも明らかになっていく。

 白いクーペは雨を切り裂き、ようやく南戸の住むマンションへと戻って来た。車が止まると南戸はさっさと車を降りて傘をさし、そしてざっと車の汚れを点検しながら一周まわった。街灯の灯りの加減で細かくはわからなかったが、大きな汚れもなく、明らかに周囲のファミリーカーとは一線を画す洗練されたデザインを有する車体は静かに雨を浴び続けていた。泰斗はパーカーのフードを被り、ポケットに手を突っ込んで、そんな南戸をじっと見つめていた。

「問題無しだ」南戸は泰斗に向かって言う。

「あぁ」まるで関心無さそうに泰斗は言う。「寒いし早く行こう」

 銃口を向けるようにキーを中空に持ち上げ、泰斗は鍵をロックする。白いクーペは泰斗に似て、無愛想に黄色い光を明滅させて返事をした。それにしても、と南戸は思う。

「出会った時はもっと可愛げがあったような気がするんだけどな」

「店員として客にサービスしてただけだよ」

 冷たい雨をかき分けるように泰斗は足早にマンションの入口へと向かった。痩躯な体格をした彼の背中は夜の重圧に押しつぶされそうに見える。灰色のパーカーに色の濃いジーンズという格好は、いかにも服装に無頓着な泰斗らしかった。しかし、いずれの服も南戸が泰斗に買い与えたもので、それなりの値段はそれなりの品を保証してくれている。南戸はたまに自分がなぜこんなにも泰斗に対してあれこれしてやっているのか不思議に思うこともあったが、それでも泰斗をいま手放すという選択を取ることはないと確信していた。もちろん、あくまで「いま」であって、明日や明後日にどんなことが起こるのかは推測までしかできないわけだが。

 部屋に戻り、泰斗の作った料理を食べる。親子丼と味噌汁と缶ビール。炊事の苦手なその辺の大学生よりはまともな食事だったが、それにしても一年前の南戸にはこんな食事を日常的に口にすることになろうとは想像もできなかっただろう。平日は外食が基本で、休日になるとわりに凝った料理を作って食べるのが南戸の習慣だった。しかし、泰斗が南戸のマンションでほとんど生活するようになってからは、泰斗の作った荒っぽい男料理や、近くのスーパーで買ってきた惣菜をよく口にするようになった。そして、いつの間にかそれで満足できるようになっていった。これは堕落の一種だろうか、と南戸は自問する。そうでもないんじゃないか、と南戸は自答する。

 食事を終えた二人はそのままの流れで晩酌に入った。ワインが持ち出され、チーズやスナック菓子が机の上に広げられる。無意味かつ無価値な話に花を咲かせる。話題の蔓が四方に伸び、手当たり次第に掴んだものを手元に引き寄せていく。いくつかの話題が途中で立ち消え、新しい話題が湿った地面から芽を出す。双葉が芽生え、つぼみが頭を垂れ、どんな色の花が咲くのか、南戸は想像を膨らませる。そして思いつく色を無色のつぼみに与えた。脈絡についてはあまり判然としないが、それでも南戸はワイングラス片手に泰斗に向けて口を開く。

「俺は思うんだ」南戸は声高に言う。「俺たちはこうやってほぼ一緒に暮らしてるが、こういうのが結局は結婚生活みたいなものと言えるんじゃないかって」

「俺たちは結婚なんてしてないでしょ」泰斗は笑いながら言った。「だいたい男同士じゃん」

「まぁ、そういう細かいことは置いといてさ。結婚生活ってよりは、同棲っていうのか? でも、単なる同居じゃない。俺は泰斗に影響を与えてるし、泰斗は俺に影響を与えてる」

「影響? たしかに、これだけ一緒にいるんだから、何らかの影響はあるかもね」

「何らかの影響なんて、そんな薄っぺらいものじゃない。俺は泰斗に服を買い、お洒落にしてやってる。高級車も乗らせてやってるし、泰斗専用の中古の軽まで買ってやった」

「ありがたいとは思ってるよ。なんでそこまでしてくれんのか、よくわかんないけど」

「俺は泰斗、お前を愛してるからな」アルコールが気分を盛り立てて、芝居がかったことを南戸に言わせる。それが本心なのか、それとも単に冗談なのかは泰斗にも、南戸本人にもうまく区別がつかない。午前四時を早朝と捉えるか深夜と捉えるか、そういう微妙な曖昧さだ。「それに、何も俺が泰斗に何かをしてやってばかりいるわけじゃない」

「そうだよ。俺は詠士にまずい飯を作ってやってるし、雨の日に詠士の高級車でお迎えまでしてやってる」

「ははは。そう自虐に走るなよ。俺は泰斗に感謝してるんだって」南戸は笑う。泰斗は南戸のグラスにワインを注ぎ足してやる。頬が赤いが照れているのか、ただ酔っ払ってるだけか判別はつきにくい。「俺はな、仕事をしているときの俺が一番好きだ。そして、仕事で稼いだ金で良い暮らしをしてるって実感できる瞬間も好きだ。ナルシシズムが過ぎるって周りの人間は思うかもしれないが」

「自分なりの確固たる考え方を持っている時点で、浅はかな善意や倫理観を振りかざす人間よりはマシだよ」泰斗は目を細めて言う。

「まったくその通りだ」南戸は大きく首肯する。「まぁ、そう自信を持って言えるのは、泰斗がそう言ってくれるからってのが大きいんだがな。そういう意味でも泰斗には感謝してんだ」

「そうか。俺は詠士のナルシシズムを助長させちゃってるのか」

「そんな哀しそうな顔すんなよ」南戸はまた大口を開けて笑った。「今日、帰りの車の中で泰斗も言ったじゃんか。俺のそういうわかりやすく割り切った考え方は信用に足るって。信頼できないとこが信用できるって」

「そりゃ言ったけど、そこまで開き直って受け入れられるとちょっと違うって気がしてくる」泰斗は首を捻る。「俺は自分で思ってるよりもあまのじゃくな人間なのかもしれない」

「たしかに泰斗はかなりひねくれてるな。あまのじゃくでもある。だからさ、あんまり考えすぎずに色々なことをそのまま受け入れて、もっとシンプルにやろうぜ」

「俺だって詠士みたいにシンプルにできれば良いと思ってるよ」

「なぁ、言ったことあったっけ。俺は自分のプロフィールで、長所を『行動規範がシンプルなとこ』ってしてんだ」南戸はまた中島との会話を思い出した。目の前で泰斗は不信感を露わにした目の色を見せる。「会社の同期にそう言ったら、やっぱり今の泰斗みたいな顔になったな」

「夜にうまく眠れなかった経験のある人間が今の詠士の話を聞いたら、皆こんな顔をするだろうね」泰斗は呆れたように笑う。

「俺は俺のナルシシズムを満たすために、シンプルで効率的な行動規範を採用してるんだ。どうだ、理にかなってるだろう」

「そのシンプルな行動規範ってのは、具体的にどういうことを言うんだろう?」

「我慢しない。妥協しない。そのために働いて金を稼ぐ。金を稼ぐために出世する。ついでに社会的地位を得て、自尊心も満たす」

「非情にわかりやすい。でも、それを実現できる人間は少ない」

「意志の力が弱いんだ」南戸は断定的に言う。

「そうだな。まぁ、現実的に能力がないってのも大きな要因だと思うけど」

「努力すれば能力なんてすぐに身につくもんさ。いつだって人は意志の弱さを認めないで才能のせいにする。それが愚かしいことなんて、どんなスポーツ漫画読んだって描いてあるのにな」

「そして、最悪の場合には、意志の強さも才能だ、って喚く」

「その通り。努力ができるのも才能だ、ってな」

「胸が痛いよ」泰斗は半ば本気で落ち込んでいるような表情を見せた。

 泰斗はよく自らの意志の弱さを口にした。明日は絶対に大学に行こう、って思う。でも、夜になって上手く寝付けないと、映画とか見始めて気がつけば朝。家を出なきゃいけない時間が近づいて来ると、ようやく眠気が襲ってきて、そして大学に行くのをやめて布団に潜り込んでしまう。カーテンの隙間から零れる朝陽が憎い。通勤する車のエンジン音は、借金の取り立てがドアを叩く音に聞こえる。だからイヤホンで耳を塞ぎ、音楽がさっさと夢の世界に連れ去ってくれるのをじっくりと待つだけだ。そんなふうにして気がつけば、留年にほぼリーチがかかっていた。単位の審査がないから学年は自動的に上がるが、四年生になるタイミングで必修科目や総単位数の審査があり、足りなければ容赦なく留年だ。泰斗はまだちゃんと数えていないが、およそ単位が足りないであろうことは、もはや明瞭な事実と言えた。

「別に泰斗のことを責めてるわけじゃない」南戸は冷静に言う。「だって、泰斗には俺みたいな欲望はないじゃんか」

「そんな欲望を持ったって、どうせ満たしてやることができないとわかってるから、そうしないだけだよ」

「いや、そんなわかりやすい話じゃない。泰斗はきっともっと別の所に欲望があるんだろう?」

「さぁ、どうだろうか」はぐらかしているわけではない。本当に自分でもよくわからないんだ。そんな表情を泰斗は浮かべる。「俺は自分の欲望についてあまりよくわかっていない」

「だから悩んで、迷ってるんだって。そういう意味で、泰斗は意志の弱さを言い訳にしてない。俺がナルシシズムっていう明確な欲望に対して、シンプルな行動規範を定めて、効率的に生きているのに対して、泰斗はそれと対極にある目的のために、対極的なやり方を採用してるだけなんだろう。とても論理的だ。目的と手段が互いに共鳴し合ってる。シナジー効果だよ。俺たちのどっちのやり方も、まったく矛盾してない。ベクトルが真逆に向いてるだけだ」

 南戸の言葉は泰斗を救いもしないが、決して貶めてもいなかった。泰斗は改めて南戸という人間の冷徹な論理性に驚かされる。アルコールは次から次へと言葉を産み落としていき、思考とリズムがハツカネズミのように八方に走り出していく。暗闇でまぐわい、言葉は思考の遺伝子の螺旋を描く。新しい鼓動が、八分のリズムを刻む。赤ワインを模したハイハットを軸にグルーヴが生まれる。

「何の話をしてたんだっけ?」泰斗は瞼を重たそうに持ち上げて南戸に尋ねた。

「何だったか」相槌の言葉だけを宙に浮かべ、南戸は記憶を辿る。「そうだ。結婚の話だ」

「結婚の話?」

「だからさ、俺と泰斗は真逆の価値基準を持ってる。だから、一見してお互いに影響は及ぼさないように見える。ベクトル的に言えば、真逆と言うよりは直交していると言った方が近いかもしれない」

内積を取ればゼロだ。互いに独立したベクトルだ」泰斗は数学の授業を思い出して言う。

「でも、直交するベクトルは外積を取った場合に、新しい軸方向に最大量のベクトルを形成する。物事ってのは往々にしてそういうものなんじゃないか」

 泰斗はアルコールに浸された脳みそで、南戸の言ったことを理解しようと努めた。要するに、二人のベクトル=価値基準が存在する平面内だけで物事を考えれば、泰斗と南戸の間には相関性がなく、互いに対する影響はゼロと言えるが、平面=二次元から立体=三次元へと視野を拡張すれば、新しいベクトル=価値基準が形成されているというわけだ。

「俺は泰斗のファッションや何やらに影響を及ぼしてる」南戸は言う。「それと同時に、俺は食事や生活様式において泰斗から影響を受けている」

「詠士が俺に与えてくれる影響はプラスなもので、俺が詠士に与えている影響はマイナスなもののような気がするけど」

外積のかける順番が変われば、ベクトルは上下逆向きに出てくるもんだ」

「はは」泰斗は笑う。「詠士はそれでいいのか?」

「良いも悪いも、そうなんだから仕方ないだろう。むしろ、そういう新しい変化や発見を俺は楽しんでるよ。だから俺はお前を愛していて、かつ俺たちの関係性を結婚生活に例えたんだ。生活を分かち合い、お互いに影響を及ぼす。お互いに変化を与える」

「そっか。それならよかった」

 泰斗はそれだけ言うとワインをもう一口啜り、ピーナッツを口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼しながらそのまま机に突っ伏して、寝息を立て始めた。南戸はグラスに残った赤ワインを泰斗の分まで飲み干す。

 南戸は考えを巡らせた。自らが泰斗といる理由について、まだよくわからない部分がある。

 結局、泰斗との生活が南戸に何をもたらすのか。当初期待していたものは得られているような気がするが、その先にいったい何があるのかはまだ見えてこない。

 それについて考えながら、南戸は食器を片付け、シャワーを浴びた。時計の針は一時を回っている。今日はほとんど残業せずに帰って来たはずなのに、いったい時間はどこに消えたのだろうか。南戸はタイムスリップでもしたような感覚に捉われるが、時計が壊れたわけでもあるまい。となれば、さっさと寝て明日に備えるよりほかない。それが南戸のシンプルな行動規範に則って選択できる最も効率的な判断だった。

 顔を赤らめ、中世の工業機械が蒸気を上げるように肺呼吸をする泰斗。肩を叩いて目を覚ましてやると、南戸はソファベッドまで連れて行く。毛布をかけてやり、電気を消す。閉め忘れたカーテンの間でぼんやりと光る窓からは夜の街が見下ろせた。静かな住宅街。目につく範囲で、窓に明かりが灯る家は見当たらない。みな当たり前のように寝ているのだ。ここは東京ではない。

 南戸も寝室に戻り、布団を被った。眠りはすぐに訪れる。正確で無駄のない眠り。泰斗はきっとこういった南戸の眠りを渇望しているだろう。どこまでも軽蔑すると同時に。

 意味がないとわかる夢の中で、南戸は広い草原に一本立った大きな木の根元で誰かを待っていた。風が頬を撫で、空は青く、雲は眩しく光っていた。薄暮の中で目を覚まし、布団の重みを身体に感じる。ぼんやりとだが、泰斗の持つ何かを自らの中に取り入れたような感覚が南戸にはあった。静かな朝がやって来ていた。

 

 南戸が朝の支度を全て終えるとほとんど同時に泰斗は目を覚ました。だらしない寝癖を頭に巻いて、大きな欠伸をする。

「今日は大学どうするんだ?」一応、南戸は尋ねてみる。

 泰斗は眉をひそめて、低く唸るだけだ。南戸としては別に泰斗が大学に行こうが行かまいがどうでもいい。大学に行くよう促したいわけでもないし、毎日だらだらと過ごすことを非難したいわけでもない。ただ、放っておくよりは、一応自分が泰斗のことを気にかけているというのを表現しておくべきだと思っていた。仕事場でもよくあることだ。人を自分の思い通りに動かしたいと思うのなら、自分が相手の行動に関心を寄せていると密かに訴えた方が良い。見られている、あるいは期待されている、と相手が感じてくれれば、それだけでそれなりの効果があるものだ。

「じゃあ、仕事行ってくる」

「今日も電車?」泰斗はコップに汲んだ水道水を飲みながら言う。背後では灰色の空を透過させて、ガラス窓が銀色に輝いていた。南戸は靴紐を締め直しながら、そうだ、と答えた。

 電車に揺られていると、身体の中から余計なものが浄化されていくような感覚になる。昨夜は泰斗と色々なことを話した気がする。酷く酔いが回っていたから、どんな話をどんなニュアンスで、どんな感情でしていたかまではよく覚えていない。ただ、会話を通して、泰斗の持つ何らかを自らの中に取り入れたような感覚があった。それが仕事場に近づくにつれて薄まっていく。その希釈の感覚は確かな実感として南戸の身体に細胞レベルで染み渡っていった。

 電車の窓ガラスにうっすらと映る自分の顔を見つめる。前髪が少し崩れているので、指先できっちりと分け直す。ネクタイを少しだけ緩め、形を整えてから、もう一度しっかりと絞める。ヘリンボーンのグレースーツに付着していた糸くずを摘まみ上げ、電車の床に捨てる。それからもう一度ガラスの中の二重に浮かんだ自らの像を見つめ直した。よし、問題ない。南戸は小さく息を吐き出して、肩を寄せ合う名も知らぬ会社員にちらりと視線を向けた。誰がどう見てもこの男よりは自分の方が洗練されて見えるだろう。馴染み深いナルシシズムが南戸に充足感を与えると、怠惰な赤ワインの残像はさっと消え失せた。

 仕事場に着くといつものルーティーン通りに業務を進める。始業前にデスクの整理を行い、メールチェックを済ませる。定型文を組み合わせて返信メールを何通か書き上げ、部下に頼んでいた仕事の進捗を簡単に確認しておいた。始業時間が訪れるとほぼ同時に電話がなり、一日の仕事が本格的に幕を開ける。

 午後からは顧客の会社へと出向かなくてはならない。スケジュールの関係で担当グループとは別に、南戸は一人で相手先へと向かった。社用車を転がしながら、やはり右ハンドルは少し違和感があるな、などと考えているうちに、ふと泰斗のことが頭を過ぎる。泰斗は大学に行っただろうか。それとも、また部屋で音楽や映画に興じているだろうか。もしかしたら気に入ってる小説を読み返しているかもしれない。昨日の仕事帰りの車の中、泰斗は何かの小説の誰かのセリフを引用していた気がするが、いったいどんなものだっただろうか。思い出せそうで思い出せない。そういうことが最近増えてきたように思う。仕事に関しての記憶力は衰えていないように思うのだが、と南戸は頭を捻った。薄く流れるラジオの音は時折記憶の迷路の道中にくさびを打つ。返し縫のように記憶は進んでは戻り、そして本当は繋がっているはずなのだが、俯瞰して見ると一つひとつは確かに分断されている。そのようにして、社用車は昼下がりの国道をだらだらと進んだ。

 出先から帰ると、本社の中島から電話が入っているとの報告を受けた。急ぎではないから、ということらしいが、こちらとて特に急ぎの用事があるわけではなかったから、すぐに折り返しの電話をかけた。待ち構えていたように二コールくらいで中島が電話に出る。

「電話もらったみたいだけど、何の用だ?」南戸はさっそく問いかける。

「いきなりだな。ちょっとくらい前置きの談笑をしたらどうなんだ?」中島の苦笑いが電話口から零れてくる。

「俺がそういうの必要としない人間だって知ってるだろ」

「いやぁ、すっかり忘れていたよ。南戸とこうやって口を聞くのも久しぶりだしな」

 南戸は最後に中島と話したのがいつだったか、思い出そうと何もない天井を見上げた。昨日泰斗に向けて中島との思い出話をしたせいか、あまり久しぶりという気もしなかったけれど、確かに数えてみれば一年近く口を聞いてなかったことに気がつく。

「去年の年末にサシで飲んで、それ以来か」南戸は何かの感想でも述べるようにそう言う。

「そうそう。せっかくの忘年会だってのに南戸がそっちで抱えてる案件について技術的な相談を受けた」

「それは悪かったよ。でも、おかげであの時の問題は解決した」

「知ってる。死亡通知書みたいな報告のメールが届いた」

 中島はネットワークに関する技術について、ソフト面もハード面もかなり詳しかった。出世欲があまりないタイプなので、今でも本社で下働きのようなことをさせられているが、そのうちにマネジメント力や営業力の強化のために南戸のように地方の支社に送られるだろう。おそらく自分と入れ替わりのようなタイミングになるだろう、と南戸は予想した。

「で、ご用件は?」再び南戸は質問を投げかける。

「いや、こっちでいま検討してる新技術が、顧客側の問題でどうもぽしゃりそうなんだ」

「それは残念。で、それが俺に関係あるのか?」

「ったく、相変わらず冷たいやつだ。まぁ、それが関係あるんだよ。せっかく検討した技術をそのままお蔵入りさせるのは勿体ないし、こっちは人間の出入りも激しいから、あまり先送りにして次の機会をただ待ってたんじゃ、主要人物はみんな散り々々になっちまう。そこで、件の新技術をどこかで試験的に運用させてもらえそうな手頃な企業がいないか調べてたんだ」

「そしたら、うちの顧客にそれがいたと」南戸は長く息を吐き出す。溜息というほどのものではないが、少し面倒なことになりそうな予感がしたので心持ち姿勢を正した。

「南戸は説明の場をセッティングしてくれれば良い。技術的な話は俺が直接そっちに行ってするし、そんな大掛かりなものでもないんだ。設備を大改装するってんじゃなくて、ちょっとノードを新しいシステムのものに新調して、ネットワークの経路を効率化するだけ。中規模のオフィスで若干通信速度が上がって、配線数と機器数が減って省スペース化できる上に一度に扱える端末数を増やせるって話。概要はあとでメールで送るから、読みたければ読んでくれ。どうせ先方には俺が説明するから、読む必要もないと言えばないけどな」

「読むよ。一応俺の客だ。自分が知らないものを無責任に売り込むわけにはいかない」

「ははは。さすが南戸。仕事人間っぷりは相変わらずだな。ま、南戸のことだから、義侠的精神に則って、そう言ってるわけじゃないんだろうけどな」

 さすが中島、よくわかっている、と南戸は内心で舌を巻いた。

 南戸は単純に万全を期して物事に臨み、確実な成果を上げたいだけだった。特に、こういったややイレギュラーなプロジェクトにおいては、極力丁寧に動くことが肝要だ。どうにかなるだろう、という気の緩みが未知の要素の氾濫を引き起こして、雪だるま式に問題を悪化させるのをこれまで何度も見て来た。そこではこれまでの経験則がいとも簡単に打ち砕かれ、まったく使いものにならなくなってしまう。

「というわけで、さっそく簡単な打ち合わせをしたいから、今日これからそっちに向かうよ」中島は淡々とそう口にしたが、それは南戸にとって予想外なことだった。

「これから? こっちに来るって?」

「あぁ。十八時にはそっちの支社に着けると思う。別に残業は平気だろ?」

「残業は平気だが」南戸の頭には少しだけ泰斗のことが過ぎった。「お前は、俺が今夜デートの予定を入れてる可能性とかまったく考えなかったのか?」

「なんだデートか?」

「いや、デートはないけど」

「じゃあ、何かあるのか?」

 中島は礼儀というものをどこかで失くしてしまったのかもしれない。南戸は呆れて、もはや非難する気持ちすら湧いてこなかった。

「ないよ。わかった。会社で待ってる」

「そうか、よかった。ところで、せっかくだし今夜一緒に飲まないか?」

「俺は構わないけど、中島は終電――」そこまで言いかけて、今日が金曜日であることを南戸は思い出した。「俺の家に泊まるつもりか?」

「ホテル代が浮くなら、食事は俺が奢るよ」

 南戸は食事と宿泊、それから一番重要な仕事の件をまとめて承諾し、受話器を置いた。

 席を立ち、コーヒーを手に持って戻って来ると、パソコンには中島からメールが届いていた。件の新技術とやらについて簡単な説明資料がまとめてあった。やや専門的な知識が必要で、細かいところまでは南戸にもわからなかったが、おおよそのコンセプトや核となる技術については理解できた。なるほど、これなら確かに話に出た顧客に提案するにはぴったりかもしれない。しかし、どうやってこの顧客の情報を中島は仕入れることができたのか。同じ企業内のこととは言え、大企業である訳だから、同時期に企業全体で抱え込んでいる案件の数は数え切れないほどだ。さらに、顧客情報やプロジェクトの詳細は他部署からは簡単にアクセスできないようになっている。これらは主にセキュリティのためであったが、全ての案件を集約するシステムを構築するのが難しいという問題もあった。南戸の中で中島に対する不信感がわずかに芽生えたが、しばらく考えているうちにことの次第がようやくわかった。

 たしか二か月前まで、こっちの支社で南戸のような立場で管理職をしていた人間がいたはずだ。それが本社に戻って、中島の近くに行った。中島は南戸の話題を出したりしながらその人と親しくなり、そして自らのプロジェクトが難航していることを軽く相談したところ、例の企業を紹介されたのだろう。南戸はもう一度その仮説を検証し、そして大きな間違いがないことがわかると一旦考えるのをやめた。どうせあと数時間もすれば中島はこっちにやって来るのだ。そのときに詳しいことを聞けば良い。それよりも、いますぐに南戸にはやらねばならないことがあった。中島が来るまでに大方の仕事を終わらせ、何人かの使えそうな部下を中島が持ってくる新たな案件のために選出しておく。そして、泰斗に今日の迎えが不要であることと、今夜は自分の家で寝食して欲しい旨を連絡した。

 

 泰斗は南戸の部屋で五年ほど前に解散したアメリカのバンドの作り上げたコラージュ・ミュージックを聴いていた。窓からはオレンジ色の夕陽が差し込んできている。朝はほとんど今にも泣き出しそうな空模様だったのが、いつの間にか明るさを増し、厚い雲は表面を削り取られる古い木材のように次第に薄くなっていった。今では淀んだ水色を冬の海のように湛え、よく考えられた広告デザインのように対照的な色合いを持つ、炎みたいに明るい夕陽が空の端に配置されている。部屋を音楽が満たしており、ノイズがかかったようなサンプリングされた人の声、鉄錆を帯びたようなバイオリンの音、重たいドラム、繰り返されるギターのアルペジオが微妙なバランスと確信的な陶酔を生み出していた。

 本でも読もうか、と立ち上がり本棚へ向かう途中、ガラス製のローテーブルの上でスマートフォンが震えた。ガガガガとガラスと触れ合う音は音楽の一部のようにも聞こえたが、二歩ほど足を進めたところでそれがスピーカーからの音ではないことに思い至った。

 南戸からの連絡だった。内容を確認し、泰斗は溜息をつく。別に南戸から拒絶されたみたいで寂しい、という訳ではない、と泰斗は自分に向かって言った。もちろん、声には出さなかったが。しかしながら、泰斗はすっかり今日もあの美しいクーペを運転するつもりだった。何だったら迎えの時間よりも少し早めに家を出て、軽く街をドライブしようという心積もりさえあったくらいだ。誇張されたエンジン音。他人が乗っている車がそんな音を出そうものなら不快極まりないだろうが、自分が運転している分にはかなり気持ちが良い。将来的にそんな車を好き勝手に乗り回せるならば、大学に行ってしっかり単位を取って、良い会社に勤めるのも悪くはないとさえ思える。だが、それくらいの動機では自分の意志を強く持つことはできないだろうと泰斗にはわかっていた。なぜ自分はこんなにも意志が弱いのだろう。朝方、南戸から大学に行くのかと尋ねられて、それに答えることもできずにただ曖昧な唸り声を絞り出しただけだ。

 結局、大学には今日も行かなかった。今日はたしか色彩論と解析力学の講義がある。色彩論はそれなりに興味深かったが、受講人数が多く、講堂は猿山のようにウルサイ。顔を洗い、歯を磨き、服を着替えて行ったところで、死にたくなるか全員殺したくなるかということが目に見えてる。解析力学の方が講堂の環境としてはまだマシだ。しかし、真面目に授業を受けていても、いま南戸が身を置いているところに行くために、つまりとても実用的かつ数値的な目的のためにノートを取っているような気持ちになってしまう。それはそれで泰斗にとっては哀しく、腹立たしいことだった。

 いったい自分は何をしたいんだろう、と泰斗はソファの上で天井を見上げる。油でべたつく横顔が夕陽で燃える。活力を失った目は影に沈む。昨夜の南戸との会話を思い出した。酔っ払っていたが、どんな話をしたかはだいたい覚えている。たしか自らの欲望に関して話をした記憶がある。南戸は自らの欲望に対して、かなり明確かつ論理的な理解を持っていた。泰斗はそれを羨ましいと思う反面、憎んでいた。そんな風な単純な人間が泰斗には許せない。どれだけ自分の中を沈んでいっても、いつまでも「これは確かだ」と思えるような自分には行きあたらない。手に掴んだものはすべて虚無に変わっていくような気がした。だから、凡庸で詐欺的な価値観を甘んじて受け入れて、そのために自らが犯し続ける罪に無自覚である、思考や煩悶の足りない人間をすべて殺してやりたいと泰斗は思う。でなければ、自分が死んでこの世の一切から消え去るか、だ。

 例えば、と泰斗は口にする。泰斗はよく独り言を口にした。喋っているうちに考えがまとまるし、日中ほとんど誰とも口をきかない分、それがストレスの発散にもなった。

「例えば、岩見を思い出してみろ。あぁ、岩見ってのはバイト先の一つ年下の女子大生ね。同じ大学の経済学部で、髪を栗色に染めている。化粧は濃いが、それなりに見た目は良いし、店長からも気に入られている。かく言う俺も別に嫌いというわけではない。まぁ、向こうは俺のこと相手になんかしてないだろうけど。その岩見がこの間、駅前のペットショップの前を通りかかったときの話をしていたんだが、彼女はペットショップの表の窓ガラスにセール中と貼り出されているのを見て、悲しくなったって言っていたな。そして、それだけにとどまらず、ペットショップがペットを売るのは仕方ないとしても、命に値段をつけて、しかもそれを人間や店の勝手な都合で値引く、つまり価値を下げるなんて、ちょっと可哀想ですよね。そんなことを言ってたんだよ。店長は優しい顔をして、そうだね、なんて頷いてたな。まぁ、俺も適当に笑ってはいたけど。でも、そう言ってる岩見本人は、その日に店長が安く仕入れたと言っていた鶏肉の仕込みをやっていたんだ。それに気づいたときには、俺もさすがに笑いそうになった。ったく、気分悪い話だ。岩見のやつは自分の心が繊細であることをアピールしたかっただけなんだろうな。別に命の価値について善悪の観点から討論するつもりなんてなかったんだろうけど、それでもさすがにやり切れないよ。なんでペットの値引きをするのが悪で、ペットを売るのは仕方なくアリなんだ? なんで生きている動物の命を値引くのには心を痛め、殺して細切れにした動物の身体を値引くことには心を痛めないんだ? 結局、こうやって人間ってのは自分勝手な価値観の中で、テキトーに生きてるだけなんだろうな。だいたい俺がどんだけ考えたって、どこまで行っても確かな善悪の境界線なんて見つからない。俺が生きているのは動物や植物を殺して、それを食ってるからだ。そう言えば前からベジタリアンのやつに聞きたいと思ってたんだが、なぜ動物は食べちゃダメで、植物は食べて良いんだ? 細胞壁の有無がそこまで生命に格差をもたらしているのか? 自律的な行動が取れるか否かで、生命の境界線は変わって来るのか? 食虫植物のように比較的自らの肉体を動かせる植物は、ベジタリアンとして食べていいのか、悪いのか。はぁ。まぁ、いいさ。別にベジタリアンについて考察したい訳じゃない。つまり、俺が言いたいのは、俺はこうして生きているけど、それは他の生命を食い物にしているからだってことだ。どうやったってこの罪は拭えない。言わば、原罪というやつだ。岩見やそれと同列に並ぶ女子大生は、そういった原罪について考えたことがあるんだろうか。いや、ないだろうな。しかし、俺は少なくともその罪を意識している。そして、その痛みをまざまざと感じている。だから許されるというわけでもないが、意識しないよりはした方が良いだろう。いや、良いと少なくとも俺は思ってる。でも、不思議なものでその罪の重みは俺の身体をこのソファに縛り付けて動けなくしている。はは、笑っちゃうよ。何も生み出してない俺が、南戸が買ったソファで一日中寝転がってる俺が、他人の無意識について腹を立てて、人としての善性についてあれこれ文句を言ってるなんて。途上国の経済的な不幸の上に、先進国に生まれただけの俺が胡坐をかいて、寝て食うだけの生活をしている。親と南戸の金にすがって生きてる。そこに罪の意識を感じないのか、と言われれば感じているに決まってるけど、でも、その罪の痛みがこの体たらくな俺の手足を動かす原動力にはなりはしない。どこまでも俺は矛盾ばかりだな。まったく、嫌になっちまう。死んじまいたい。そういや、ホリーは、慣れることは死ぬこと、と言っていたな。要するに、俺は罪の意識に慣れてしまって、それ故にこうして死んでしまっているのかもしれない。岩見みたいに、たまにセール中のペットショップの前に行って、慣れない痛みに新鮮さを見出してるくらいじゃないとダメなのかもな。それか南戸みたいに、ただ行動のみに価値を見出す人間になるか、だ。そう、まるでブラッド・ダイヤモンドという映画でダニー・アーチャーが善悪は人間の性ではなく、行動にのみ宿ると発見したように。あぁ、どうやったら南戸みたいな人間になれるんだろうか。どうしたらこの痛みを忘れて、全てを忘れて、南戸みたいに生きることができるんだろうか。あぁ」

 泰斗の顔はすべて影に飲み込まれていた。あっという間に沈んでいくんだなぁ、と頭の中で言葉が流れる。どこかでこんな言葉を聞いたことがあるな、と泰斗はぼんやりと考えた。そうだ、あの戦争について描いた小説だ。タイトルはなんだっけ。たしか東南アジアの、そう、レイテ島だったっけか。ともかくそんなところで死にかけの兵士の田村が歩き回る話だ。丘の上で田村よりももっと死にかけている兵士が、ほとんど狂気の中で夕陽が沈むのを眺めながら、夕陽の沈む早さを描写していた。死の間際で時間の感覚がおかしくなっているんだ。その兵士は空腹でくたばりそうな田村に、自らの二の腕を食ったらどうかと勧める。狂気であることに違いないが、それでもその兵士は死の間際に他人の心配ができた。それは素晴らしいことだ。サリンジャーも何かの作品で書いていた。首から血を流して死にそうになっていても、頭に壺を乗せて坂道を歩く娘か老婆がいたら、その壺が無事に坂の上に辿り着くか見届けるのが人間だ、というようなことを。それは確かな人間の善意だ。でも、どうしてそれは確かな善意になるのだろうか。泰斗は考えを推し進めようと思ったが、疲れてしまったのか、それ以上難しいことを考えられなくなってしまった。そんなことよりも長い独り言を撒き散らしたせいで、喉が渇いていた。

 電気の点いていない部屋には、あっという間に夕闇が染み渡った。相変わらずスピーカーからは不可思議な絡み合いを見せるローテンポの音楽が流れている。ガラス製のローテーブルの上には、泰斗が手に付けたテレビとスピーカーのリモコンだけが、ふしだらに放置されていた。逆説的にではあるが、南戸はずいぶんと綺麗に全てのものを並べるものだなぁ、と泰斗は感心する。

 泰斗は自分にできる範囲で部屋を片付け(どうせ南戸が帰ってくれば、これでは不十分だ、とより細密に全てのものが配置され直すのだろうが)、一番最後に音楽を止めるともう一度部屋を見渡した。それなりに綺麗にもなり、これなら南戸もある程度満足はしてくれるだろうか。しかし、それにしても、わざわざ南戸が今日は家に帰るように言ってきたということは、誰かを家に連れ込むつもりなのかもしれない。

 女だろうか、と泰斗は考える。

 いや、そんなことを考えたって仕方ない。それに、別に女を連れ込もうが何をしようが好きにすればいい。ここは南戸の家であって、俺の家ではない。それよりも俺ができることは、南戸が誰かと家に帰って来た時に、彼が一人暮らしをする独身男性だときちんと思ってもらえるかどうかだ。意味不明な男子大学生の存在など匂わせるわけにはいかない。きっと南戸も俺がそれくらいのことには気を配れる人間だと思っているはずだ。

 泰斗はそう考えると、リビングはもちろん、トイレやキッチン、洗面所、そして自らが足を踏み入れてすらない部屋まで、それが南戸らしい洗練された状態にあるかを確認した。全てのものが少なくとも泰斗が思う範囲内で、きちんと整えられている。まぁ、多少の歪みは仕方がないだろう。泰斗自身にできることにも限界がある。それに、と泰斗は付け足す。自分にわからない僅かな歪みが、ふらっと訪れた客人に気づけるわけがないだろう。そこまで考えてやっと、泰斗は緊張を緩め、ようやく南戸のマンションを後にした。マンションの中を降下するエレベーターの中で、部屋の鍵をきちんと締めたことを二度確認した。

 泰斗はイヤホンを耳にはめ込む。2000年に日本でリリースされたアダルト・コンテンポラリー・ミュージック。甘ったるい、裏声を多用する男性ボーカルが、「ありきたりの非凡添え」的な歌詞を唄う。夕闇に沈んでいく街をはるか上空から見下ろすような気分になる。ほとんど人通りのない道を街灯が等間隔に照らす。夜風より早く、車よりも遅く、濁った川の水が流れていく。対岸で鳴らされるクラクションがアコースティックギターの合間に曖昧に鼓膜に届く。昨日南戸を迎えに行ったときと同じパーカーとジーンズ。寒いな、と思って、そこでようやく上着のジャケットを忘れてきてしまったことに気がつく。椅子の背もたれにかけっぱなしになっているジャケットの映像が脳裏に浮かぶ。必要と不要の間で、それは放置され、ほとんど真っ暗になったあの部屋でじっと誰かを、何かを待っている。泰斗は取りに帰ろうか逡巡する。寒いし、あんなわかりやすい痕跡を残して来たとあっては、あれだけ配慮して部屋を整えたのが台無しだ。どう考えても取りに戻るべきだ。南戸なら即決して、踵を返すことだろう。しかし、泰斗は振り返ることすらできなかった。音楽は止むことなく前に進んでいる。立ち止まる泰斗に誰かの視線がちらっと向けられる。四十代くらいの女性のくすんだ臙脂色のコートが夕闇に乗って通り過ぎて行った。

 ジーパンの狭いポケットに手を突っ込みながら歩く。手というか、そこには指先しか入らないようなものだったが、それでもそうしないよりはマシだ。無駄とわかっていても寒さには抗えない。少しでも温かく。何かの標語みたいだな、と泰斗は思う。

 泰斗は南戸が洒落たレストランで身なりの美しい女と食事する場面を想像した。

 むしろそっちの方が簡単に想像つくよな、やっぱり、と泰斗はひとり頷く。

 去年の十一月のことだった。バイト先のスペイン料理店に、いつものように南戸が顔を見せた。南戸は、店員さんが来る曜日をわざわざ狙って来てるんですよ、と言った。泰斗の方でも南戸がやって来るのがバイトの一つの楽しみになっていたから、それはそれなりに嬉しいことだった。いつものようにスペインリーグの試合を見ながら、優れた選手の美しいプレーについて語り合った。と言っても、会話の主導権は泰斗がほとんど握っていた。時々、泰斗は南戸が本当にサッカーファンなのか疑うことがあったが、それも仕方のないことと言える。南戸はなかなか選手の名前を憶えようとはしなかったし、良いプレーがあっても、自ら賞賛の言葉を口にするよりは泰斗に喋らせて、むしろその泰斗の解説を楽しんでいる節があったからだ。どちらかと言えば口数の少ない泰斗がそこまで喋られたのは、泰斗が本質的にはお喋りな性質であったという部分もあるにはあったが、南戸が生来備えていた傾聴力をビジネス場でさらに伸ばしたから、というのが大きな要因でもある。泰斗はそういったことにも薄々勘付いてはいたが、南戸の能力によって自らの内に秘めた何かが引き出される感覚は心地よかったし、南戸にとっても自分の能力をビジネスではなくて、こういったプライベートの場で伸びのびと発揮するのは気分の良いものであったはずだ。精神の奥深いところで結びついていたような感覚はなかったが、性欲を持て余した若い男女がする火遊びのような感覚で、二人はどこまでも打算的にお互いを慰めあった。

 そんな関係性にありながら、泰斗の方は割と満足をしていたのだが、その十一月の木枯らし吹く日に、南戸は「今度、一緒にサッカーでも観に行きましょうよ」と泰斗にチケットを渡した。泰斗は最初かなりうろたえたが、それを表に出さぬように気をつけ、「ありがとうございます。ちょっと予定を確認してみます」と笑顔を返した。確認するまでもなく、試合のある日曜はバイトも大学もなかったのだが、一度ちゃんと考える必要があった。もしかしたら宗教の勧誘かもしれないし、南戸が同性愛者であるという可能性もある。南戸は自分の風貌を鏡で確認し、同性愛者のターゲットとなるよりは、宗教勧誘のターゲットになりそうだな、などと思ったが、よく考えると南戸からはどちらの感じもしなかった。同性愛者の可能性はわずかにあったとしても、宗教勧誘はあり得ない。新興宗教のように曖昧な救い手にはまったく興味がなさそうだったし、むしろ南戸には自分専用の強力な宗教があるのが見て取れた。

 泰斗は結局申し出を受けて、十一月の早朝に雪が降った寒い日に南戸とサッカーの試合を観に行った。日本のサッカーリーグにはあまり興味がなかったから、その試合がその年のリーグ戦の最後から三番目の試合であることをスタジアムに行ってから知った。南戸も「Jリーグの試合を観るのは、というか、こうやって生で試合を観ることじたい初めてです」と苦笑いを浮かべて見せた。

 生のスタジアムの迫力はなかなかのものだった。意表をつくプレーに泰斗は何度か歓声を上げそうになった。常に涼しげな表情をさりげなく纏った南戸が横目に見えて、泰斗はわずかに浮き上がった腰を下ろす。

「あの、店員さんは上原泰斗さんというお名前でしたよね?」南戸は前半終了近くの一つの盛り上がりの波がやって来たタイミングに乗じて、そう切り出した。

「そうです」泰斗は何のことか、と南戸に視線を向ける。

「いっそのことですし、敬語とかやめませんか? 呼び方も店員さんとお客さんではなくて、普通に名前でどうでしょう?」

「あ、はい。それはもちろん」泰斗はずっと一回りも年上の南戸から丁寧な言葉遣いをされていて、いつも少しだけ居心地が悪い思いをしていた。ただ、それを自分から言い出すような積極性が泰斗にはないだけだ。これは良いチャンスだ、と「どうぞ、下の名前でも何でも呼び捨てにしてください」とはにかんで見せた。

「じゃあ、泰斗と呼ばせてもらうことにするよ」南戸は特に恥ずかしげな様子もなく、さっと言葉遣いを切り替える。泰斗には目の前の洗練された男が、別の洗練された男に一瞬にして変貌してしまったかのような感覚を受けたが、むしろ敬語をやめた南戸の方がより本物の人格に近づいたような印象があった。「泰斗もぜひタメ口にしてくれ」

「いやいや、それはできないですよ」さすがに年齢が一回りも違いますし、と泰斗は付け足す。

「じゃあ、俺ももとの敬語に戻そう」

「いや、正直、目上の人に敬語を使われるのはなんか居心地が悪いんですよね」

「俺も敬語は苦手だ。仕事上、そして社会通念上、敬語を使っている方が問題も起こらなくて楽と言えば楽なんだが、こういうプライベートの場ではもっと自然体でいたい」

「僕の方が自然体でいられなくなります」泰斗は心底困っているという表情を南戸に向ける。そして、漠然とホリー・ゴライトリーの「普通よりは自然でありたいの」という言葉を思い出した。だからと言って、それを口にはしなかったが。

「そんなことはない。俺はこう見えて仕事人間なんだが」

「知ってます」

「どんどん上の立場になって、敬語を使われることも増えて、気を遣われることも増えてくる。そういうのはある意味では心地良い。自分が順調に進歩しているという実感が得られるし。でも、それと同時に立場や関係性の鎖を強く感じるようにもなる。身の回りのことはすべて人間関係も含めて、ただの契約というような気がしてくる。そうするとだんだん結婚というものすら、人生というゲームをより効率よく進めるための契約だと思うようになった。結婚していれば周りからの信用も得られるし、健康上やその他の問題があっても保険が効くからな。でも、多くの人は結婚にそれ以外の意味を求めるし、俺も最近はそれ以外の意味について興味を持つようになった。そして、一つの答を得た」

 そこで南戸は一度言葉を区切る。こういった小難しい話を聞くには、サッカースタジアムはうるさすぎる。冬の冷たい空気を引き千切ろうと躍起になっている応援歌の大合唱。昼の太陽は雲を銀色に光らせ、原色のユニフォームの色が、暗緑色の地面に映える。泰斗は南戸が得たという答を聞くために、耳を傾ける。文字通りの体勢を取って。

「結局、俺が結婚したところで、多くの人が結婚に求める複合的な価値を俺は手に入れられないということだ。要するに、だいたいの人間は心の拠り所としての結婚を想定しているが、そこに結婚という契約としての『形』が存在する限り、俺にとっては結婚しても仕事でまた一つ出世したのと何ら変わりないってこと。俺はまた確かにステップアップするが、それ故の縛りのようなものもさらに感じるようになる。別にそれが嫌なわけじゃないんだ。ただ、だったら結婚なんかしなくても、その分働いて出世すれば同じだけの楽しさや達成感が得られるというわけだ。みんなが結婚して得られるはずの心の拠り所は、俺には結婚というやり方じゃ得られないんじゃないかという危惧がある。だから、別のアプローチでそれを手に入れる必要があった」

 そこで、それを手に入れる上で泰斗は重要な鍵となってくる。南戸はその部分を口にはしなかったが、その代りにじっと泰斗を見つめた。南戸のセットされた髪は風でやや崩れていたが、ほとんど隙なくスキンケアされた頬や額、それから白い歯は南戸の人となりを如実に表している。南戸の持つ性格や価値観が自らを縛り付ける業。それについておおよその部分が理解できたことで、泰斗は南戸が何を言いたいかがようやくわかる。

「敬語ってのは、関係性を構築するための一つのツールだ」南戸は続ける。「だから、そういう『形』のある関係性を必要としない間柄を泰斗とは築きたいと思っているんだよ。泰斗は敬語を使うことで、人間関係をわかりやすく、要するに説明しやすくて扱いやすい、言わば一つの公式に当てはめたいと考えているのかもしれないが、それは決して自然体でいることとは一致しない。そういったやりやすい関係性の向こう側にある本当の自然体をお互いに共有してみたいんだよ。確かにやりにくいのは俺よりも泰斗の方だと思うけど、そこは飲み込んで、俺に付き合ってくれないか?」

 泰斗は返答に困った。ここまで自分の内部をさらけ出して、それを直接ぶつけられた経験がなかったからだろう。泰斗はただ黙って南戸を見つめ返すしかできなかった。甲高いホイッスルが二回鳴る。拍手とともに零れる観客の吐息。どこからともなく、後半が勝負だな、と聞こえてくる。じゃあ、前半は何だったんだろう、と泰斗は頭の隅で考えた。

 黙っている泰斗に、南戸は苦笑いを浮かべる。それから思いついたように、一つの提案をする。

「よし、わかった。今日帰るまでの一つのルールを作ろう」

「ルール?」

「泰斗が敬語を使うたびに、俺が泰斗にビールを一杯奢る」

「なんですか、それは。まるで質の悪い大学生の飲み会みたいじゃないですか」

「酒はわりと強いだろ?」

「普通です」泰斗は控えめに答える。

「社会人に対して、普通です、と返すのは感心しないな。普通ってことは、日付が変わるまで飲んでも普通に歩いて帰れる、ってことだと思われるぞ」

「じゃあ、弱いかもしれません」

「うん、うん。次からはそう答えるべきかもしれないな。とりあえず、そういうルールで今日一日やってみよう。それでタメ口に慣れなかったら敬語に戻そう。ともかく、泰斗は一日俺に対してタメ口だ。破ったらビール一杯。気を遣うべき相手にビールを買ってこさせるんだ。もし敬語を使えば、結果的に俺に失礼を働くことになる。そんな矛盾、理系には耐えがたいだろう」

「理系は関係ないと思いますけど」泰斗は困惑する。

「はい、敬語使ったから一杯だな」南戸は笑いながら言う。

「いや、でも、まだスタートって言ってないですよ」

「おぉ、また。二杯目だな」そう言って南戸は笑って立ち上がる。子供が初めてピーマンを口にした時のような苦々しい表情が泰斗の顔に貼りついている。「とりあえず、今日一日の辛抱だ」南戸は泰斗の肩を叩いて、ハーフタイム終わりでごった返していたスタジアムの狭い通路へと消えていった。

 不思議なもので強制されると泰斗は比較的自然に敬語を取っ払うことができた。南戸の若々しい見た目や言動が、より親しみやすさを助長した。最初にタメ口を使った時には、今度は自分が全く別の人間になってしまったかのような錯覚に捉われたが、それもすぐに慣れてしまった。新しい南戸と新しい自分、そして新しい関係性へ。泰斗は来世に転生してしまったかのような気分で試合の後半を楽しんだ。もともと酒が好きなこともあって、気分が高まる。いつものように南戸に向かってサッカーの解説をした。南戸もいつものように適切なタイミングで適切な相槌を打つ。それでも、二人の関係性は確実に一新されたという実感が互いに持てた。

 その夜、泰斗は初めて南戸の白のクーペに乗せてもらった。来るときはバスに乗っていたが、まさか帰りはこんなものに乗ることになろうとは。シートは座ったそばから一つのエンターテインメントのような驚きと発見があり、キーを差し込んで唸るエンジンは十数分前のスタジアムの歓声を思い出させた。興奮、そして高揚感、陶酔さえ感じさせる。

「まさかあそこから勝つとは思わなかった」南戸は楽しげに言う。

「いい試合だったよ。スペインリーグに比べれば技術はまだまだだけど、互いに足りないところをきちんと補い合って、最後は粘り勝ちした。一点ビハインドから、後半四十分に同点に持ち込んで、あそこで試合は決まったね」

「逆転するときの雰囲気ってのがあるよな」

「そうそう。サッカーってのはだいたい三点目が重要になる」

「あぁ、それ中島も言ってたな。あ、中島ってのは俺の同期でよく一緒にサッカー観てたやつな」

「南戸の唯一の友達」

「唯一ではない。もう一人、二人くらいはいる」

「たったそれだけ」

「それでも泰斗よりは多いだろ」

「まぁ、それもそうだ」

 南戸はシフトレバーを入れて、アクセルを踏んだ。泰斗はビールで結構酔っていたが、南戸は素面だ。もともと飲酒運転をするような人間ではない。酒を我慢するのは格別苦にならないし、基本的に法律は遵守する。南戸にとっての法律は善悪の判断基準などではなく、世のシステムを滞りなく運用するために必要なただのルールであり、そのルールを破って効率性を失ってしまうなんてばかばかしい話と言えた。

 それに、と南戸は思う。助手席に座る泰斗は酒に酔っていたが、ともかく思い通りにことを進めることができた。やはり敬語をやめてから二人の間の壁はかなり低くなったし、何よりも客と店員という距離感を払拭できたのはありがたい。まだ同期の中島との方が親密度は高いものの、きっとこの泰斗とはすぐに中島なんかよりも親密な関係性を築けるはずだ。中島との関係性から仕事という要素を抜くことはできなかったし、何といっても一目見たときから南戸は泰斗に対して好感を持っていた。繊細そうな表情。迷うような瞳。芸術家的な素養をわずかに感じさせるが、芸術家やその卵ほど自分に対しての自信はない。社交性もないわけではないのだろうが、何故かそれを極力自分の中から取り出そうとはしていないように見受けられた。必要最低限で社会というものをやり過ごそうという魂胆が見え隠れする。そのくせ、頭や身体の中には暗示に満ちた強い意志を感じる。興味深い人間だと思った。きっと南戸自身が極端な考え方の持ち主でなければ、そこまで気にならなかったのだろうが、南戸は自らが極端な人間であることを十分に理解していたし、それ故に自らの真逆をいく泰斗にはかなり興味を惹かれた。

 サッカー観戦の後、南戸のマンションに招待されたところで、泰斗はそのような自分自身に対する南戸の概評を聞いた。それを聞いて、泰斗はまるで自分を芸術品か何かのように扱ってくれる、と少し恥ずかしい気持ちにもなったが、それ以上に、自らが理解され受け入れられていることに嬉しさを覚えた。いや、何よりもまず、温かな安心感に包まれた。そして、その温かさが、自らが孤独であったことを気づかせてくれた。そうか、自分は孤独だったのだ。そんな映画や小説の中のセリフみたいな内的な言葉が泰斗の感情を揺さぶり、そして涙を流させた。嗚咽交じりに涙を流す泰斗は、薄っすらと微笑みながらただゆっくりとワインを飲む南戸の余裕のある態度に、感謝の感情しか抱くことができなかった。

 泣くのをやめると、南戸は泰斗にシャワーを勧めた。泰斗はそれに素直に従って、清潔に保たれたバスルームへと裸で足を踏み入れる。

 頭を洗い、身体を洗っていると脱衣所に南戸の気配があった。その瞬間背筋にぞわぞわと悪寒が走った。このまま南戸がバスルームに入って来る。そこまで筋肉質というわけではないが、南戸の身体は泰斗よりも頑丈でしなやかそうだった。もし力づくで何かをされれば、泰斗には逆らうことができないだろう。

 泰斗は一瞬にして酔いが醒める心地がしたが、幸いにも泰斗の不吉な予測は外れた。バスタオルは洗濯機の上に置いておくから、と声がかけられただけだった。泰斗は安堵の息を漏らし、ありがとう、と答えた。すっかりタメ口で喋るのに慣れてしまっている自分がいて、さっきの一瞬の恐怖が馬鹿らしく思えて、口元を緩めた。

「あ、一つ聞いておきたいんだが」脱衣所から出る寸前に南戸は再度声をかける。

「なに?」

「泰斗は女が好きか?」

「急になんだよ」性の話になり、泰斗はふたたび身体を強張らせる。

「いや、今日は気分が良いからさ、シャワー浴びて飯食って、俺も酒飲んだら女でも呼ぼうかと思ったんだ」

「女って、どんな」泰斗は努めて冷静な声を出そうと思ったが、思わぬ事態に心拍数が跳ね上がる。高校の頃に一度だけあった、そういう性的な経験を泰斗は思い出す。

 当時付き合っていた女の子だ。その日はたまたま彼女の家には誰もいなかった。

 やり方は知っているつもりだったが、自分も初めて、相手も初めてというシチュエーションで、何をどうすれば良いのかよくわからなくなってしまった。彼女は痛がるし、泰斗は泰斗で緊張のあまり自らの身体をうまくコントロールすることができない。とりあえずオーラルセックスのようなことまではやってみたものの、結局快感という快感もうまく得られずに情けなさと気まずさだけが残った。東向きの出窓。小さな花柄の刺繍が施されたレースのカーテンは薄暗いオレンジ色に染まり、灯もない小さな部屋は黄昏の影の中に沈む。シャンプーのような香りがする彼女の部屋は彼女のあどけなさを唄い、そして泰斗の愚かさを笑った。一糸纏わぬ彼女の裸よりも、ベッドの端から落ちそうになっている彼女の事務的な雰囲気を纏う下着が、いつまでも泰斗の脳裏を離れなかった。結局その初体験以降は、お互いに顔を合わせるのに気が重くなってしまいそのまま別れてしまった。

「店の女が嫌なら、知り合いを呼ぶこともできるけど、そっちの方がいいか?」

「いや、何でも良いよ」泰斗はめんどくさそうな声を出したつもりだった。シャワーを出しっぱなしにしておいて良かったと思う。微妙な声の震えが伝わらないだろう。

 しかし、南戸は「そんな緊張するなって。もう一回酒入れれば万事うまくいくから」と笑いながら言って、脱衣所の引き戸を閉めてリビングへと引き返していった。

 いつもよりも丁寧に身体を洗い、いつもよりも多めに酒を飲んだ。南戸は泰斗に自らの寝室とベッドを貸してやった。後で自分がそこに寝ることになるのに、生理的に嫌ではないのだろうか。泰斗は心配するが、シーツくらい変えるし、もっと酷い環境を何度も経験してるから、と南戸は軽々しく言ってのける。泰斗は少しだけ南戸との距離を縮められた気がしていたが、軽快な笑みを浮かべる南戸をまじまじと見つめ、やはり自分からはまだずっと遠くにいる存在なんだと再認識することになった。

 南戸の部屋には二人の女がやって来た。どちらも見るからに品はなさそうだったが、無理矢理にでも特徴づけて二人を分類するなら、やんちゃそうな子と真面目そうな子の組み合わせだった。南戸は気前良く財布から札束を取り出して、さっと女に渡す。南戸が渡すのだから数える必要なんてないのに、と泰斗は思ったが、女はきちんとその枚数を数えて、「避妊さえしてくれればなんでも」と笑った。

 泰斗には相場というものがわからないし、細かく言えば風営法等の法律も違反しているのではないか、という気もしたが、南戸が女に渡した札束の厚みは、女が「なんでも」と言うだけの根拠たり得るのだとわかった。金さえあれば大抵のものは手に入る。これまで泰斗が躊躇していたものさえ、南戸にとっては労働の対価として得られる日常のちょっとしたスパイスに過ぎない。泰斗は南戸のことを初めて強く軽蔑したが、それと同時に格好いいと感じた。矛盾した感情。しかし、あっという間にそれは心のどこか奥に引っ込み、泰斗はかろうじて真面目そうな雰囲気の残る女に手を引かれて、南戸の寝室へと誘われた。

 結論から言えば、南戸の言う通りだった。「酒を入れれば万事うまくいく」というまじないの言葉は、効果的な暗示として機能する。女も手慣れているようで、「はじめてなの? 可愛い」とありきたりな言葉で泰斗を誘惑した。顔も声も身体もまったく好みではなかったが、全ては順調に進み、譜面通り、休符とダル・セーニョ。女の振るタクトに合わせて、最後まで一通り済ませ、行為中はついていくのに必死だったが、終わって振り返ってみればなかなか悪くなかった、という感想が泰斗の口からは零れた。「どう? 気持ち良かったでしょ?」と女が笑う。屈託のない笑顔と彼女の八重歯だけが何故だか泰斗の心に残った。高校の頃に付き合っていたあの子の、ベッドの端から落ちかけている事務的な下着。それと同列には並べたくなかったが、結局はそれと同列なのだ。全ては特別なものではなく、ただただ凡庸なだけだ。凡庸、凡庸、凡庸。なかなか悪くない凡庸。

 女は泰斗をベッドの上に残して洗面所へと向かった。寝室のドアが開くと、南戸の興奮した声と、やんちゃそうな方の女の喉元で鳴る甲高い喘ぎ声が聞こえて来た。泰斗は身体を倒し、枕に顔を埋める。大音量でシューゲイズを聴くか、それか死ぬほど酒を飲みたいと思った。

 日付が変わる前に女はさっさと帰って行った。南戸はボクサーパンツ一枚という姿でそれを見送り、最後に二人と深くキスを交えた。一人目は南戸とヤった方。二人目は泰斗とヤった方。「今度は君ともしてみたいな」と南戸は冗談めかして言った。泰斗はリビングのソファに座って見送りはしなかったからよくわからなかったが、女は二人とも南戸の洗練された男の雰囲気に終始楽しそうだった。泰斗は二人がマンションのエレベーターに乗りながら今日の感想を言い合う場面を想像した。南戸と比べられるのはやり切れない。泰斗は溜息をつく。

 それが去年の十一月のとある日曜日、一日の間に起こった出来事だった。その日、南戸は結局シーツを取り換えるのを面倒臭がり、リビングのソファで寝た。泰斗は南戸の寝室にある上等なベッドでいつまでも夜の天井を眺めていたが、気がつかぬうちに眠りに落ちていたようだった。翌朝泰斗が起きると既に南戸は仕事に出ていて、リビングのガラス製のローテーブルの上に「家を出るときは一応鍵を閉めておいてくれ」という書置きと、部屋の鍵、それから連絡先を書いたメモ用紙が残っていた。

 その時のことを思い出すと、泰斗はいつも気分が悪くなった。性的な思い出としては、それなりに思い出す価値もある。しかし、それに付き纏う醜悪な雰囲気にはどうしてもなかなか馴染むことができなかった。しかし、時間とともにそれも徐々に受け入れられるようになってくる。それに、そんなことも南戸のおかげで何度か経験することができたし、頭痛を忘れる為に左腕を殴り、今度はその左腕の痛みを忘れる為に腹を殴り、というような具合で、痛みは痛みによって少しずつ克服されていった。だから、泰斗は自分自身に関する性的な醜悪さを一歩ずつではあるが受け入れて、克服することができた。

 しかしながら、逆に泰斗の心を蝕むようになっていったのは、南戸がそういった下品な風俗嬢と関わりを持っているという事実だった。上品で洗練された、ほとんど完全無欠の南戸詠士。美しいロジカルに極端な価値観を併せ持つ南戸詠士。そんな彼が、どうして二か月に一度くらいの頻度であんな連中で自らの性処理を行っているのか。泰斗はそのことに次第に腹が立っていった。南戸ならば、もっと上品で、もっと普通の一般的な社会に属する、それこそ深窓の令嬢的な女性と交際していてもいいはずなのに。高級外車、ブランド物の服、それらはむしろそんな女性を捕まえる為に用意していたものではないのか。

 泰斗はそのことについて南戸に尋ねたことがある。南戸の返答はいかにもシンプルで、またよくよく考えてみれば彼らしいものだった。

「そんな素晴らしい女性を射止めるのも、確かに面白い遊びかもしれないが、結局は洗練された関係性を持つことでより自分を高めたいという欲求の一部でしかない。そんなものは仕事をしていればいくらでも感じることができる。だから、むしろ俺は自由な独身者として、奔放に性欲を満たすことを楽しみたいんだ。それはそれである意味ではかなりの優越感に浸れることでもある。実際、彼女らとしたことの話をすると、だいたいの男は俺のことを羨ましがる。彼女たちは紛れもなくプロフェッショナルだよ。素晴らしい技術と感性を持っている。そして、これが一番大事なことだけど、いずれはそういう立派な女性を娶るつもりもあるからね。ゆくゆく経験できることを、今あえてやりたいとは思えない」

 泰斗はそれを聞いて、きっと自分はその「今あえてやっていること」の一部なんだと思った。南戸からしたら、泰斗は刺激的で都合の良い風俗嬢となんら変わらないのかもしれない。そう考えると虚しくなる半面、それでこそ南戸だ、というような感情も湧いて来る。南戸に対しては、そんな矛盾だらけの感情ばかりだ。そんな矛盾を耐えがたく思うのは、自分が理系の人間だからだろうか。泰斗はサッカースタジアムでの南戸の言葉を思い出した。

 ずいぶんと長いこと南戸との思い出について考えながら歩いていた。泰斗は冷え切った身体を縮こまらせながら時間を確かめた。まだ六時にもなっていなかったが、あたりはすっかり真っ暗になっていた。ふと南戸の部屋に忘れて来たジャケットのことを思い出して、やっぱり取りに戻ればよかったと思う。でも、今から帰ったら、客人を連れた南戸と鉢合わせてしまうかもしれない。泰斗はもう戻ることさえできないのだ、と気づき、再び歩き出す。ずいぶんと寄り道をしてしまっていたが、家に帰ろう。自分の家に。誰もいない家に。両親のお金で借りているアパートに。

 南戸の客人は美しい女性だろうか。もしそうだとしたら、もうあの風俗嬢たちは南戸の家に来ることはなくなるのだろうか。南戸にとって、もう不要となってしまったのだろうか。しかし、いずれにせよ、あと一年かそこらで南戸は東京に戻ってしまうだろう。結局は、彼女たちと南戸の間には何も残らない。お互いに通り過ぎて行くだけの存在。

 泰斗は再度足を止めて、橋の上から暗闇をそのまま流しているかのような川を覗き込む。深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗いている。これは誰の言葉だったか。泰斗の頭上から降り注ぐ、重たい卵の黄身のような色をした街灯の光は、彼の影を作ることもなく、静かに艶めかしく闇の川面に反射していた。車列が背後を何台も、何台も通り過ぎて行く。一瞬、白いクーペが通り過ぎて行ったような気がして、泰斗ははっと顔を上げる。しかし、きっと気のせいだ。白のクーペは今日はマンションの駐車場で大人しく眠っている。泰斗が役目を持たぬように、それもまた役目を持たないのだ。しかし、と泰斗は考える。南戸が東京に戻った時、そこにはきっと自分はいない。でも、きっとあの白いクーペだけはまだ南戸の手元にあるだろう。上原泰斗という操縦者がいたことを、あのクーペは覚えていてくれるだろうか。それくらいは期待しても良いだろう。

 そこで泰斗はセンチメンタルになっている自分が急に馬鹿らしくなって、ようやく歩き出した。身体は冷たく、腹は減っている。無価値であっても生きている限り、今日もまた生きねばならぬ、と泰斗は足を繰り出した。

 

 南戸がそろそろだな、と時計を眺めると、その行為が最後の引き金になったかのように見覚えのある顔が現れた。よう、中島、と声をかけると、元気か、と再会を喜ぶような顔で返事が返って来る。黒無地のスーツに派手な赤色のネクタイだが、どこか野暮ったく見える。中年太り予備軍みたいなぼんやりとした体系のせいなのか、どこかで見たことのあるような捉えどころのない黒縁眼鏡のせいなのか、それとも南戸自身が中島に対して持っている先入観のせいなのか。細かいところはよくわからないが、もはや南戸は自らの手を以てしても、中島を洗練された格好に着飾ってやることはできなそうだな、と思った。ふと、泰斗のときは我ながらよくやれた方だ、という自画自賛の念が湧いたが、今それは不要だ、と脇に押しやる。

「資料は読んだのか?」中島が尋ねてくる。

「あぁ。まぁ、やれそうなんじゃないかな。ただ先方との会議のときは俺が話の主導権を持つよ」

「俺じゃ信用ならんか?」

「いや、そういうんじゃない。単純に物事には順番があるってこと。こっちは既にそれなりの信頼関係があるから、俺が持ち込んだ話ってことにした方がいいと思ってさ。あくまで中島は技術的な補佐員、つまりスペシャリストってことで」

「なるほどな」中島は何の疑いもなく頷く。そういうところで少しずつ損をしていくんだぞ、と南戸は心の中で注意してやった。

 同期に対するせめてもの思いやりで、話が通ったらあとは全部そっちに任せることになると思うから、と付け足した。もし、ずっと南戸がこのプロジェクトの頭にいたら、中島と同じチームの人間が不信感を抱くかもしれない。南戸としては、新しいプロジェクトの契約を自分が取り付けたことにできればそれで十分だ。自分にいま求められているのは営業能力や管理能力の成長とそれを裏付ける実績、つまり、契約数とプロジェクト遂行数だ。対して中島たちはいま技術グループにいるわけだから、新しい技術を実現させることに意義がある。上手くやれば、ちょうど「Win-Win」な関係ではないか。

「もう一度、どういう風に売り込むか話をまとめよう」

 南戸はそう言って、応接スペースに中島を案内する。ついでに、どうしてこの案件に好条件の顧客が南戸のもとにいることがわかったのか、南戸は中島に質問をぶつけたが、二か月前までこっちで管理職をしていた人間が中島の近くに行って情報を流したという仮説はほとんど合っていた。唯一南戸が予想していなかったのは、中島がその情報を知ったのが今日の昼休みだったということだ。南戸は中島の行動の速さに感心しながら、自分のデスクにパソコンを取りに戻った。電源プラグを抜いたところで、南戸はふと辺りを見回す。

「横田さんと三浦君、さっき言ってた件ですが、今から一時間ほど大丈夫ですか?」

 時計の針は既に十八時を指そうというところだったが、昼間のうちに話を通しておいたため、二人は特に不平もなくデスクから立ち上がった。何事も先手を取り、布石を打つことだ。南戸は自分の配置した布石が見事に機能しているのを見届けて、少し気分が良くなる。応接スペースに四人が揃うと、まずは自己紹介から会議が始まった。

 

 魚料理が美味いと評判の居酒屋に三人で向かった。五つ年上の横田さんは、家族が待っているもんで、と先に帰ったが、いまだ独身者の三人は仕事終わりの爽快感を肩にかけて、既に真っ暗になった道を歩く。こっちは寒いな、と中島が言い、今日はまだ暖かい方ですよ、と三浦が答える。南戸の目論見通り、中島とは相性が良いみたいだった。中島はどちらかと言えば明るい性格ではあったが、技術的な人間にありがちな若干コミュニケーションに消極的な傾向がある。まだ二十代の若い三浦の人懐っこい性格は、硬い人間にとっては時に鬱陶しく思われることもあるが、中島にとってはこれくらいがちょうどいいだろう。

「中島、電話で言ってたこと覚えてるか?」南戸は右隣を歩く中島に向かって言う。

「プロジェクトのことか?」

「違う。今日の食事代のことだ」

「えーっと、あっ。いや、覚えてないな」

「何すか? もしかして、中島さんが奢ってくれるんですか?」

「そう言ってたな」

「いやいや、待てって。三人分なんて聞いてない」中島は手のひらを南戸に向けて左右に振った。「宿代の代わりって言っただろ。だから、その分しか出さないよ」

「あぁ、それだけ出してもらえれば十分だよ」

「あれ、意外と南戸さん優しいんですね」三浦が楽しそうに口を挿む。

「そうなんだ。南戸は昔から優しいやつなんだよ」南戸のことをおだてるつもりなのか、中島は大きく首肯しながら三浦に同調した。

「うちの宿泊費がいくらかはまだ言ってないし、評判によるとそこら辺のホテルよりもずっとふんだくるらしい」南戸は微笑みながら言う。

「なんだよそれ」中島は顔をしかめる。

「まぁ、中島の出世工作を手伝ってやるんだから、今日くらい奢たっていいだろう。三浦も中島のために今日は残業してくれたんだし」

「それもそうですね」三浦は笑いながら言う。

「別に出世工作してるつもりはねぇよ」

「はは。どちらかと言えば、南戸さんの方があれこれ考えてそうですよね」

 南戸は高い笑い声を通りに響かせた。中島よりは三浦の方が勘が鋭いし、よく周りが見えている。意外と三浦君の方が早く出世するかもな、と南戸が二人に向かって言うと、中島は隣を歩く三浦に妬みの視線を向け、三浦は素直に喜んだ。どうしてそう思うんですか、という三浦の問いに、南戸は、ちゃんと出世に興味関心があるからだ、と答えた。三浦は、別にそんな、と困り、中島はそれを自分に対する皮肉と受け取った。南戸だけが笑い、「俺なんて出世にしか興味ないけどな」と言うと、そうやって真っ直ぐ言えるのがすごい、と二人は声をそろえた。

 九時過ぎには腹も満たされ、良い感じに各々がアルコールのぬるま湯につかっていた。そろそろ帰るか、と中島が言い、ですね、と三浦が答える。

「南戸、忘れてないよな」

 中島が熱湯に突っ込んだのかというくらい真っ赤になった手を南戸に向けて差し出して来た。南戸は「もちろん」と答え、財布から三千円を取り出して中島に渡した。

 南戸がどんな家に住んでいるのか、という話になり、それからこともあろうに中島が南戸の所有する高級外車の存在を三浦にばらしたタイミングだった。三浦が興味津々という表情を隠そうともせず、身体を前のめりにするので、南戸は「感じ悪く思われると嫌だから、あんまり言いふらすなよ」と冗談っぽく注意したが、果たして三浦がしっかりと口を閉ざしていられるのか。噂に尾ひれがついても嫌だしな、と思っていると、中島は「なんで同期なのにそんなに金持ってんだよ」と絡んで来る。

「別に中島と変わんないって。貯金してないだけ」

「いやいやいや。そうだ、思い出した。三浦君、南戸は本社にいるとき、めちゃくちゃ残業して会社から金を巻き上げてたんだよ」

「巻き上げるなんて言い方するなよ。変な意味に取られるだろ。普通にたまたま配属されたチームが重たい案件をいくつも抱えてただけだって」

「めちゃくちゃ残業、ってどれくらいしてたんですか?」

「特別な届け出が必要になるくらい」南戸のことなのに中島が答える。

「うちの会社でもそうとこあるんですね」

 三浦は、いずれ自分にも悪魔の手が伸びてくるのではないか、と危惧するような表情になったが、中島が「いやいや。だから、南戸は自分の意志で残業してるだけだって。普通そんなことにはなんないよ。会社はまとも。異常なのは南戸一人だけ」と強く訴える。それを聞いて、三浦はほっと胸を撫で下ろしたような雰囲気を見せたが、すぐに南戸の方に視線を向け直すと「でも、なんでそんな働くんですか?」と聞いてきた。

「何度も言うようだけど」南戸はあくまで冷静に答える。「金と出世のためだって」

「そんなに働いて、お金使う暇あるんですか?」

「だから、高級外車乗り回したり、ブランド物のスーツを着たりしてるんだろ?」またも南戸に代わって中島が答える。「ま、そんなことよりさ」

「そんなこと、って中島のせいでこんな話になってるんだろ?」

「まぁ、まぁ。気づかないうちに話題が逸れることなんてよくあるだろ。それよりも、とりあえず、今から南戸にクイズを……そうだな、五問出題する」

「なんで?」南戸は眉をひそめる。

「一問間違えるたびに千円な」

「だからなんで?」

「この中で一番稼いでるのが南戸なのに、俺が金を出すのは変だと気付いたからだ」

「そんなこと言って、後輩の前で恥ずかしくないのかよ」そう言って、南戸は三浦の方に視線を向けた。中島もちらっと三浦に目線を向ける。

「残念ながら、三浦君とはそんな長い付き合いにならなそうだしな」

「普通、そういうこと面と向かって言わないですよね?」三浦がもっともな疑問を口にする。

「冗談だよ」と中島は言うが、「冗談になってない」と南戸はすかさず返した。

 それから中島によるクイズ大会が始まり、どんな問題が来るのか、と南戸は身構えたが、案の定というべきか、通信ネットワーク技術に関する問題が南戸に襲い掛かって来る。それはずるい、と南戸は言うが、中島は「ずるくない。同じ採用枠で、ほとんど同じような仕事をしてきた。もちろん、俺が専門的にやってるところからは出題しないよ。常識の範囲内で問題は出す」と真面目な顔で宣言した。

 結果から言えば、二問正解、三問不正解。昇進試験のことを南戸は思い出したが、南戸はどちらかと言えば短期記憶型で、学生の頃からテスト前にぱっと覚えて効率よく点数だけ掠めとるようなやり方をしていた。故に、「あぁ、なんか聞いたことあるな。覚えてないけど」という感想を三度も言う羽目になった。それでも二問正解しただけ誉められてしかるべきだろう。それを証明するように、中島の出題する問題は細かいところを突いてきており(それ故に重要なところであることは南戸も重々承知してはいたが)、三浦は「一問もわかりませんよ、難しすぎです」と出題者に不平を言った。

 三千円くらい一時間程度残業すれば取り戻せる、と昔のように南戸は勘定したが、すぐに自分が今はもう残業手当の出ない立場にいることを思い出した。久しぶりに同期の中島と飲んだせいで、どこか昔のバイオリズムに身体が満たされているような感じになっていた。

 駅で三浦と別れて、今日は久しぶりに夜の電車に乗って帰宅する。泰斗のことを中島に説明するのは面倒だが、それでも迎えに来てもらえばよかったな、とも思った。あの車もきちんと後部座席に役割を与えられて、きっと喜ぶことだろう。電車は混むというでもないが、座席に座るためには見知らぬ人と肩を寄せ合わなければならない。電車に乗り込むときに、ドアを開ける為に自ら開閉のボタンを押す南戸を見て、中島は驚きの声を上げた。やっぱり田舎なんだな、とそれなりの声で言うので、感じ悪いぞ、と南戸はそれを諫める。

 それとなく辺りを見渡す。やはり、南戸はこの一両分の電車の中でも最も洗練された男のように見えた。そのことが南戸の心を慰める。南戸の正面の席だけがちょうど一席分空席になっている。黒い鏡の中に、南戸は自分の理想像を見出す。不思議なものだ、と南戸はたまに思う。鏡や写真で見る明瞭な自分の姿はどこかまだ不完全に見えて、素人が作った粘度工芸のようにまだまだ改善の余地があると思い知らされる。しかし、夜のガラス窓に映るぼやけた自分の像は、かなり完璧に近いものに見えた。きっとそこには自分の願望が入り込む余地があるのだろう。不完全な自分の骨組みに、頭の中の理想で肉付けを行う。そうすることによって、南戸は自分の中に眠る完全性を目にすることができるのだ。

 しかし、と南戸は最近感じ始めた疑問を再度投げかける。

 あとどれくらい働き、どれくらい周囲を出し抜けば、自分はそこに辿り着けるのか。仮に自分がいま勤めている会社の社長になったとして、そうなればいま目の前のガラス窓に映る自分を手に入れることができるのか。昔までは、きっとそこに一致するまではいかなくとも、かなり漸近はできるだろうと考えていた。しかし、今はなぜかどれだけ仕事に打ち込んでも、そこに辿り着けないどころか、近づいているという実感も得られなくなっていた。仕事が思い通りにいけば楽しいし、周囲からの賞賛は心地よい。同期の中で最も早く出世していることも誇りに思う。けれども、と南戸は首を横に振る。どこか満たされない。前までは自分の中には、能力やそれを入れるための機能的な収納スペース(それは言わば、自らの可能性だ)がぎっしり詰まっているような気がしていた。

 宝石店に足を踏み入れて、煌めくガラスケースを見回す。どれでも好きなものをいくつでも。君に似合う、ふさわしいものをプレゼントしよう。

 愛すべき美しい女性にそんなことをエレガントに言う。それが南戸の頭の中にたくさん詰まっている輝かしい光景の一つだった。その光景一つひとつ、それ自体が南戸にとっての宝石であった。しかし、いつの間にかそれらの光景がセピアがかって見える。団地の裏に打ち捨てられた漫画雑誌。雨でインクが滲み、真夏の太陽で紙は歪んだまま灼き固められる。無価値を通り越して、哀れだとさえ思う。どす黒い血のたっぷり詰まった肉袋。昔どこかで読んだ猟奇殺人ものの小説で描かれた比喩を思い出した。それらを沢山乗せ込んだ電車が夜の街を駆け抜けている。隣の同期の中島も、はす向かいのベージュのダウンコートに身を包んだ太った年増の女も、単語帳を開きながら眠る学生も、それらの醜い肉袋の一つに過ぎない。もちろん、そんなことを考えている南戸自身も。

 だいぶ酔っ払っているな、と南戸は自分に言い聞かせる。こんな気分にいつまでも取りつかれていたら、そこら辺を歩いている人間を片っ端から殴り倒していってしまいそうだ。馬鹿みたいな妄想だが、その汚い妄想が本物の感触を自分の手のひらに求めさせている。湧き上がる暴力的衝動はどこにも発散できずに、ブーメランのように南戸の身体へと戻って来て、確かな苦痛を与え続ける。いつの間にか家の最寄り駅まで来ていた。眠っていた中島を起こし、「ほら、降りるぞ」と笑いながら声をかける。改札を抜け、中島とくだらない話をしながら、郊外に立ち尽くす瀟洒なマンションへと一直線に向かった。コンビニエンスストアの前を通り過ぎるとき、中島は水でも買っていこうかなと言ったが、家には水どころか年代物のワインまで用意してある、と南戸は言う。さすが高い宿泊代を取るだけはある、と中島が笑った。夜のアスファルト。生命を失った冷たい色の街灯。それに照らされて奇妙な黄緑色に光る道沿いの低木は、ひそひそと噂話に花を咲かせる。ほら、見てみろよ。そんな声が南戸の耳に聞こえてくる。この間テレビのニュースで上野動物園の猿山が映ったんだが、その中の一匹が本当に中島に似ていてびっくりしたんだ、と南戸はあえて馬鹿々々しい笑い話を無言の影の観客に聞かせながら、ただ真っ直ぐひたすらに歩いた。

 家に着き、風呂を入れ、蓋の開けていないミネラルウォーターのペットボトルを中島に放った。既に中島は我が物顔でソファに腰を下ろしていた。寝室でスーツを着替えてから、リビングに戻る。あっという間にペットボトルの半分ほどまで水を減らし、中島がテレビをぼんやりと眺めていた。

「相変わらず几帳面だな」と中島がガラス製のローテーブルに並べられたリモコンの列を顎で指した。整理整頓が得意で他人に迷惑をかけることもないだろ、と答えながら、泰斗が気を利かせて片付けていったのだな、と思い至る。「いや、俺はちょっと汚いくらいの方が落ち着くからな。綺麗好きが正義みたいな風潮は正直やめてほしいよ。汚めが好きというのも、一つの立派な考え方だろう」

「その主張には文句ないけど、ここは俺の統治する国だからな。ルールは俺が決めている」南戸は食卓の方の椅子に腰を下ろしながら言った。

 着替えないのか、と中島に問いかけ、風呂から上がるときにまとめて着替える、という答えが返って来た時になってようやく、目の前の椅子に一枚の黒色のジャケットがかかっていることに気がつく。中島のか、と尋ねそうになって、すんでのところでそれが泰斗の忘れ物であることに思い至る。こんなに寒いのに忘れて行ったのか。これだけ寒いんだから普通忘れても取りに戻って来るだろう。南戸はそう思うが、泰斗の性格を考えると、夕暮れの街の中を寒そうなパーカー姿で背中を丸めて歩く泰斗の姿が容易に想像できた。まったくもって理解に苦しむ。南戸は口角を少しだけ持ち上げた。

「なにか面白いことでもあったか?」中島が尋ねてくる。

「いや、ちょっと疑問に思ったことがあって」

「疑問?」

「雨が降っているのに傘を仕事場に忘れたとするだろ?」

「会社のエントランス出た瞬間に、あっ、ってなるやつな」中島は驚く演技をする。

「そう。で、そのとき中島だったらやっぱり傘を取りに戻るよな、エレベーター乗って」

「雨の度合いにもよるけど」

「度合い?」南戸からしたら濡れることそれ自体が許しがたい。

「小雨で駅まで、とかなら我慢する。髪から滴ることになりそうなくらいだったら戻るな。あ、でも、もしイギリスなら戻らない」

「別にイギリスのことはどうでもいいよ」南戸はすかさず言葉を挿む。それからふと頭に思い浮かんだ話を口に出してみる。「それにイギリスが傘をささないってのは、昔の話だぞ。昔は傘に女性的なイメージがあったから男は外套で凌いでたけど、だんだん細身でスタイリッシュな傘が出始めて――」

「で、その傘の話がどうしたんだよ」

「実はな」南戸はそのときになって初めて、自分が泰斗のことを中島に話そうとしていると気がついた。話しても自分にはデメリットしかないぞ、それに居酒屋では一度思い留まったじゃないか、と理性がうるさく叫んでいる。「そこのジャケットあるだろ、黒い奴。それは最近よく家に来ている友人の忘れ物なんだ」

「南戸にも友達がいると知って、少し安心するな」

「中島よりは社交的なはずなんだけどな」

「社交性と友達の数は必ずしも一致しない。だいたい、こうして話してても、俺は南戸が俺のことを友達だと思ってくれてるのか、いまいちよくわからないよ」

「そう言われると、友達というより、気の置けない同期、って感じだ」

「普通、それを友達って言うんだけどな」中島は苦々しく笑って見せる。

「まぁ、俺にもちゃんと友人ができたんだよ。で、そいつがこのジャケットを家に忘れてった。外も寒いってのに」

「友人ってのは女か?」中島はまたペットボトルの水を飲み、そして質問を投げかける。南戸は、違うよ、と答える。見ろよ、男物のジャケットだ。「南戸の話しぶりだと、俺たちが帰って来るちょっと前にその友人はここを出て行ったような感じだけど、そいつ仕事は休みだったのか?」

「いや、まだ学生だよ」

「はぁ? 学生、って大学生ってことか?」

「そう。今年の頭に地元の成人式に行ってきたばかりの大学生だ。そいつのバイト先のスペイン料理店で知り合って、一緒にサッカーを観に行ったりした」

「おいおい。ちょっと待てよ。言っちゃあなんだか、それって普通のことには思えないぞ」

「あぁ。だろうな」南戸はまったくもって冷静だった。別に無理をしているわけでもない。そのことが中島に伝わっただろう、中島は余計に不信な目を南戸に向けた。「でも、別に年下の男に性的に興奮するというわけでもないし、何か変な詐欺に巻き込まれてるわけでもない」

「じゃあ、なんでそんな。だって、店の店員と客の関係だったんだろ? どうしてそんなことになったんだ?」

「その店ではサッカーのスペインリーグの試合がテレビでやってるんだ。中島とよくサッカーの試合観ながら飲んだだろ。あんな感じで少しずつ仲良くなって、俺から地元のサッカーチームの試合を観に行かないか、って誘った」

「はぁ。俺は基本的にはあんまり社交性がないタイプだって言われるからよくわかんないけど、その南戸の行動って、世間一般で言う社交性の範疇に入ってるのか?」

「さぁな。でも、俺も中島の気持ちはよくわかるよ。俺も仕事も何も関係ない相手とここまで親交を深められるとは思ってなかった。それに、もっと言えば、ほぼ同棲みたいなことをしている」

「はぁ??」そう嘆く中島の声は大きかったが、まるで拷問を受けているかのように「もうやめてくれ」と言わんばかりの疲れた表情を浮かべていた。南戸は段々面白くなってきて、「そいつ、俺のことを南戸って呼び捨てで呼ぶんだ。ていうか、そう俺が呼ばせてるんだけど」と言い足した。

 案の定、中島はさらに肩を落とす。点きっぱなしになっていたテレビの中でニュースキャスターが淡々と原稿を読んでいた。

「もういいよ、わかった。で、その同棲生活はどんなもんだ? 楽しいか?」

「どうだろうな。そいつ、名前は泰斗って言うんだけど、全然大学に行ってなくて、いっつも俺のこの部屋で一日中本を読んだり、音楽聴いたりしてるみたいなんだ。俺の家に入り浸るようになってからはバイトも辞めて、今あいつがやっていることと言えば、俺の専属ドライバーとして仕事終わりに車で迎えに来るくらいのもんだろうな」

「生活費は南戸が与えてんのか?」

「基本的には。でも、泰斗は両親からも仕送りをもらっているみたいで、こんな生活を両親に明かすわけにもいかないだろうから、あいつはまだ自分のアパートの家賃を両親に払ってもらい続けているみたいだな。大家もかなり無関心なタイプだから、部屋の明りが点かなくても何も疑われてはいない。だから、問題という問題はまだ何も起きていない」

「起こるとしたらこれから、ってことか?」

「さぁ? 案外、何も起こらないんじゃないかと思うけど」

「でも、少なくともその青年は大学を留年する。それも続けば、大学を中退することになる。一人暮らしまでしているってことは、それなりの大学なんだろ?」

「こっちの国立大学」

「勿体ない」中島は心底泰斗のことを心配しているような様子だった。

「だよな、勿体ない」南戸もそれに同意するが、中島はそうやって一つの若い可能性がダメになりかけているのはお前のせいじゃないか、と糾弾するように南戸を睨んで来る。「誤解しないでほしいんだが、俺も泰斗には大学に行ってほしいと思ってるんだよ」

「お前が堕落させてるんじゃないか?」

「バイトを辞めたのは俺が甘やかしたせいだが、もともと大学にはあんまり行ってなかったみたいなんだよな。常に何か思い悩んでるみたいな感じでさ、きっとこの忘れていったジャケットもあいつなりの煩悶みたいなものの結果だと思うんだよな」

「いじめとか、ホームシックとか?」

「そういうんじゃない。こう言うのもなんだけど、俺はそういうただ追い詰められてるだけのやつには興味ないんだよな。泰斗はなんか面白いんだ。まるで自分とはまったく真逆の生き物を見てるみたいで」

 そのことを聞いて、中島はようやく何かを理解したようだった。早朝、高台に登る。眼下に広がる霧の海が消え、くっきりと街の輪郭が見渡せるようになったかのように、中島は目を見開いた。そして、そういうことね、と息を吐く。

「南戸と真逆か。そうか、きっとその子は俺らが言う弱さみたいなものに支配されてるんだな。こんな言い方、ちょっと芝居がかってて恥ずかしいけど、でも、きっとそういうことなんだろ?」

「よく自分のことを意志が弱い人間だ、と言ってるな」

「南戸には理解できないのかもしれない」

「いや、理解はできるよ。共感はできないけどね」

「だろうな」中島はペットボトルの水を飲み干すと、ワインあるって言ってなかったっけ、と南戸に酒を催促する。なんだ、まだ飲むのかよ。南戸が咎めるように言うと、中島は「長くなりそうだし」と溜息を吐いた。

 南戸がワインを取りに席を立つと同時に、風呂のお湯が溜まったことを知らせるアラームが鳴る。東京に戻ったら、自動でお湯が止まる風呂のついたマンションにしよう、と今日もまた南戸は思った。

「ほら、ちゃんとチーズとかサラミまであるぞ」

 南戸は真っ白な皿にそれを盛り付けてローテーブルの上に置く。そして、食卓の椅子をソファのはす向かいに移動させた。中島は思い出したようにテレビのリモコンを取り上げて、電源を落とした。部屋は一段階深い静寂に包まれる。

「風呂のお湯冷めちゃわないか?」中島が心配した。

「あとで温め直せる」

「便利だな。俺のいま住んでる独身寮にはそんな機能はないよ」

「早く結婚すればいいのに」

「社宅だってたいして設備は変わらないさ。家を買うなんてもってのほかだしな。それに相手もいない」

「紹介しようか?」

「男子大学生をか?」

「中島にしては気の利いた皮肉だな」

「皮肉くらい言いたくなるよ、まったく」

 壁に取り付けられた時計の針がゆっくりと進む。文字盤のついていない短針と長針だけの洒落た時計だ。そのせいかどうかはわからないが、いまがいったい何時なのか、がわからない。というか、考える気にならない。それは中島も南戸も同じだった。電車の中で南戸が思い描いた、人間にたっぷりと詰まった血の色のようなワイン。しかし、そこから立ち昇る香りは甘く芳しく、まるでミステリアスな長髪の女が性的に誘惑しているかのように思えた。二人ともグラスの縁に口をつけ、美味いな、と短く感想を言い合う。

「で、俺はどうしたら良いと思う?」南戸は中島に尋ねた。

「どうしたら良いって、その子との関係でなにか南戸は悩んでるのか?」

「別に悩んではいないけど、中島が俺だったらどうするのかな、と思って」

「それを言ったからって、南戸は参考にしないだろ?」

「どうだろう。でも、最近はよくわからないんだよ。もともとは仕事も何も関係ない、純粋な友達が欲しかっただけなんだけどな」

「で、南戸からその子に友達にならないか、って持ち掛けた」

「そう」南戸は頷く。

「俺からしたら、それがまずおかしいんだよ」

「大学生に声をかけることが?」

「それもおかしいけど」中島はいったん言葉を止め、しっかり考えた後でまた口を開いた。「話を聞いてる感じだと、そんな気の弱いやつが南戸みたいなのとまともな友達になれるわけないんだ。きっとその子は根が優しくて、それ故に、色々なことを考えすぎて身動きが取れなくなってるんだろう。でも、考えずにはいられない。きっと色々な考え方を知って、学んで、何かしらの答が欲しいんだろうな。だから、南戸みたいな極端な考えのやつのことも理解しようとする。そこから何かしらの着想が得られるとでも思っているのかもしれない。そして、南戸みたいに極端なやつなら、自分の弱いところも受け入れて貰えるかもしれない、という魂胆もあったんだろう。だから、南戸の提案を受け入れた。でも、そんな風に提案と承諾がある時点でおかしな話だと思うけどな。まるで対等じゃない」

「いや、俺たちは対等な関係性を作り上げている。そのためにお互いにタメ口にしてる」

「そういう表面的な対等関係を言ってるんじゃない。思うことを気兼ねなく言い合っていれば、良いってもんでもない。どう考えても、南戸の方がその大学生の子よりも経済的に優位な位置にあるし、実際に生活費も出してるんだろ?」

「それはそうだけど。でも、俺も泰斗からは影響を貰ってるし、中島の言うように、俺みたいな考え方もあいつはちゃんと受け止めて、色々と考えてくれるからな。そういう意味ではお互い様の、対等な関係だと思うよ」対等な関係であること、というのは南戸が泰斗との関係性において最も重要視している項目でもあった。だから、出来得る限りの否定をする。

「俺には、南戸が純朴な青年を捕まえて遊んでいるようにしか見えない。変わったやつだけど、自分とは真逆の考え方を持っていて面白い。ちょっと手元において色々観察してみよう、って感じで」

「色々観察してみよう、と思われてるのは俺の方かもしれない」

「だとしても対等にはならないよ。っていうか、そういう客観的に見て対等かどうかっていうのはどうでもいいんだ」

「でも、中島は経済的な対等性について言っただろ? 経済力は十分客観的な指標だ」

「それはちょっと俺も間違えたかもしれない。話しながら考えてるんだ。少しくらい間違えても仕方ないだろ」

「まぁ、いいけど」南戸は何度か小さく首肯した。たしかに、そんな細かい話の矛盾をついたところで仕方がない。

「何がおかしいんだろうな。言葉にするのは難しいけど、何て言うか、悪い意味に受け取らないでほしいんだが、南戸のなんか余裕そうなところが気に食わないんだよな」

「どうやってそれを良い意味として受け取ればいいんだ?」

「気に食わないってのは、別に憎らしいとかそういうんじゃないって。数式の変形とか、複雑な現象の計算をしてると、どうもこの辺りの論の展開が気に食わないとか、公式の使い方が気に食わないってことあるだろ?」

「気に食わないっていうか、あれ、これでいいのかな、っていう疑念みたいなものだろ?」

「そういう感じ。なんか南戸の余裕綽々なところが、これでいいのかな、って気がするんだ。何て言えば良いんだろう。なんか、生活費とかそういう経済的な対価をその子に与える代わりに、その子から刺激とか影響を貰っている、みたいな。そういう契約めいたものが、既に二人の関係性を対等じゃなくしてると思うんだよ。それは、相手の子もそういう影響とか刺激を南戸に求めていようがいまいが関係なくな。外国との貿易とは違うんだよ。色んな製品をあれこれやり取りしてるうちに、結果的に収支がトントンですね、ってなれば貿易的には対等な関係性かもしれないけど、人間関係ってのはそういうもんじゃない」

「収支がトントンなのに、対等じゃないって言うなら、全ての人間関係が対等なんてあり得ないと思うが」

「だから、そういう考え方が違うんだよ。まぁ、別に南戸を責めてるわけじゃないけど、そういう考え方になっちゃうのが、南戸の悪いとこなんだろうな」

「はっきり悪いって言うのに、責めてないんだな」

「責めてないよ」中島は呆れたように溜息をつく。「傲慢と思われるかもしれないが、むしろ可哀想だと思う。そういう考え方しかできないんだ、って」

「そうか。俺は可哀想か」南戸は、仕事が命、金と出世が命、みたいなことを言うたびに「可哀想な人」とからかわれてきたが、今回の中島のそれは、それまでのどれよりも本気で、その分だけ南戸には温かく感じられた。「そういう考え方っていうのは?」

「じゃあ、例えば、ふつう親は金と時間をかけて子供を育てているけど、それについて親子の関係性は対等だと思うか?」

「親は子供に金と時間をかけてるけど、その反面で育児の楽しさや世界の広がりを感じている。だから、対等だという見方もできる」

「じゃあ、世の親はそうやって自分と子供の関係性が対等か、つまり収支がうまく釣り合ってるかどうかを気にしていると思うか?」

「普通の人はそんなこと考えもしないんじゃないか? でも、大部分が考えていないだけ、という見方もできる」

「中には収支を気にする親もいるかもな。でも、それとは別に収支なんてまったく考えていない親がいたとして、さて改めて関係性の収支を考えてみましょう、って言われても大半が、そんな必要があるのか、って思うだろうな」

「必要か不必要かは問題じゃない。考えてみたらどうなるか、って話だろ」

「どうなるか、って。南戸、本気で言ってるのか?」

 中島はほとんど怒っているみたいな表情で南戸を睨み付ける。南戸はどう返していいかわからず、「冗談を言っているつもりはない」と答えた。今日何回かの溜息の中でも、とびきり大きいものがワインの香りとともに宙に浮かぶ。

「あのな、親からしたら考えてみるまでもないってことだよ。だいたいの親は利益が出過ぎて困る、って答えるだろうよ。俺は結婚もしてないし、子供もいないけど、それくらいのことはわかる。お前からしたら馬鹿みたいな話かもしれないけど、収支がトントンだから付き合ってるなんて普通ありえない。大幅に黒字だと思ってるから、ほとんどの人間は人付き合いをするんだよ。というか、仮に赤字だと感じてもどうしようもないこともあれば、それを受け入れてでも人と人とは関係性を続けることもある。南戸からすれば、そう思える時点で、利益が出てるわけじゃないか、とか思うのかもしれないけどな」そこで中島は一呼吸置く。「まぁ、とにかく。お前とその大学生の子は友達なんかじゃない。本当の意味で対等ってのは、お互いに自分と相手が一緒にいてくれて、『なんて嬉しいことなんだろう。これじゃあ、こっちばっかり幸せで悪いから、なんとか少しだけでもお返ししなきゃな』、みたいに思い合ってることが対等って言うんだ。相手がいなくなったら困る。そんなことは耐えられない、ってお互いに思うことが出来て初めて対等って言えるんだよ。南戸は別にその泰斗って子が、明日からここに来なくなっても、別に痛くも痒くもないだろ?」

 南戸はうまく答えられない。多少寂しいとは思うかもしれない。しかし、すぐに事態を受け入れて、またすぐに一人の生活に切り替え、南戸らしく前向きに生きていくだろう。今回も南戸はどう答えていいかわからずに、「俺はあまり執着心の強い人間じゃないから」と答えた。当然のように中島は呆れの溜息を吐き出して、「まぁ、執着も煩悩の一つだしな。南戸は自制心が強くて凄いよ。羨ましいとさえ思う」と全然羨ましそうには見えない疲れた表情を浮かべた。

 南戸は風呂を先に中島に勧め、入れ替わりでソファに腰を下ろし、独りワインを啜った。特に何も考えることなく、黒く冷えたテレビの画面に映るぼやけた自分の像を見つめる。しかし、そこに映っているのは自分の理想像でも何でもなく、どこまでも他人めいて見える、ただの人型の像だった。

 翌朝、取り立てて昨夜の議論に関する会話も無く、仕事の内容について簡単に確認し合った後、中島はあっさりと南戸の家を後にした。最後に一言だけ、「その泰斗君だっけ。別にどうこうしろとは言わないけど、ただ正しい方向に導いてやれよ」という言葉だけ残していった。どうこうしろって言っているじゃないか、と南戸は思ったが反論する気にもなれなかった。ただ独り、静かな部屋の中で南戸は自分と泰斗についてずっと考えていた。

 南戸は泰斗に「愛している」と言った。それが本心だと思っていた。まるで、最高の乗り心地を有するあの白いクーペのように、深く、深く愛している。しかし、仮にあのクーペが故障したとしたらどうだろうか。愛してはいたが、格別な思い入れはない。故障を機に新しいものに買い替え、その新しく美しい車をまた一層深く愛でることだろう。泰斗に対しても同じような感情を抱いてはいないだろうか。南戸は再び暗いテレビの画面を覗き込んだ。もはやそこに映る像は人間にすら見えなかった。

 

 十二月に入り、駅前にはクリスマスの雰囲気が漂う。シャン、シャン、というベルの音が鼓膜を跳ね、子供以外の人間は「もうそんな時期か」と思う。まだ年末の本格的に忙しい時期にはぎりぎり足を踏み入れてない。師走という言葉通りだな、と毎年のように南戸は思うが、今年はまだそれが来ていない。

 その日はそんな繁忙の予兆だけを孕んだ、静かな日曜日だった。朝から雪が降り積もり、部屋の窓ガラスは凍り付くようだった。雪の反射のせいか、空は雲が覆っていたが、リビングは電気を点けないでいてもそこまで暗くなかった。朝八時に南戸が目を覚まして、寝室から出てくると、すでにリビングのソファには泰斗が身体を起こして座っていた。寝癖がひどい。でも、そんなことを気にする様子はなく、厚い掛け布団に胸の辺りまで覆われながら、ソファの背もたれに体重を預けている。きっとまだ起きたばかりなんだろう。ソファで寝て、そして目が覚め、身体を起こしたまま、一歩もそこから出ることなく窓の外の景色を眺めている。雪だよ、と泰斗は掠れた声で言った。

 南戸はお湯を沸かしながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。泰斗は別の窓から、似たような白い景色を眺めている。あまりにも色がないので、とても古い風景写真を見ているかのような気分になった。針葉樹も何もかも、ただ鈍色に取り込まれ、それから音もない。窓の外の世界はまるで自分の両親が生まれるよりも前に滅んでしまったかのように静かだ。ただこの部屋の中にだけ、プロパンガスの燃える重い血流のようなごわごわとした音と、膨張した空気がやかんの口を通り抜ける風の音が広がっている。南戸は長い爪でシンクの縁をこつこつと叩く。泰斗は羽毛のたっぷりと詰まった布団の中でもぞもぞと動いた。壁にかけられた針だけの時計が曲げた背骨を震えながら伸ばしていく。

「コーヒー飲むだろ?」

「ありがと。それにしても寒いな」

「まだ雪が降ってるみたいだな」

「あぁ」

 やかんの中で細やかな破裂音が聞こえだしてくると、南戸は火を止め、インスタントコーヒーの粉を落としたカップにお湯を注いだ。そろそろちゃんとしたコーヒーメーカーでも買おうか、と南戸は考えていたが、泰斗はインスタントの方が美味いと言い張った。

 いつだったか泰斗はパーキングエリアで食べるラーメンが美味いと言う人間のことを批判したが、インスタントコーヒーをあえて好むことはそれと同じことではないのか。南戸はちょっと前にその疑問を口にしたが、すると泰斗は口ごもり、そして少ししてから「俺が批判したいのは食に関することじゃなくて、あくまで流行りの考え方に乗って、思考停止になってる人間なんだよ。俺の舌はそこまで優れてるわけじゃないし、美味いコーヒーを入れてもらっても多分その美味さを俺はわからないと思うんだ。むしろ、インスタントコーヒーの方が自分の身体に合ってる。だから、あえてそっちの方を好んでるだけだよ」と苦し紛れに答えた。南戸はそれを聞いて、「パーキングエリアの飯を好む人間も、意外とみんなそういう気持ちなのかもしれないな」と呟くと、「たしかに、そういう可能性もあるな」と泰斗はしみじみ零した。「他人のことを否定しきるのは難しい」

 南戸はガラス製のテーブルの上に、コーヒーカップを二つ置いた。寒いな、と言うと泰斗が毛布を一枚放ってくれるのでそれを肩から羽織る。二人してコーヒーカップを両手で包み込み、その温かさを大切にしながら窓の外の雪景色を眺める。

「明日までに止むかな?」南戸は独り言つ。

「止んでも止まなくても会社には行くんだろ?」

「そうだよ。だから、止んでほしいんだ」

「でき得る限り辛くないように」

「そう。でき得る限り辛くないように。それはある意味では死ぬ時と一緒だ。俺たちが生きている間にできることは、全てそれに集約される」

「そんな風に考えてるのに、どうして一生懸命働くんだ?」

「やり残したことがないと思えるように、そうしてるだけだろうな。生きている間にでき得る限りの楽しみを味わい尽くしたいし、自分がやって来たことの成果が振り返って見たときにずらっと並んでいれば、孤独な死の際でも多少は慰められるような気がする。質の悪い年金みたいなもんだよ。やれるだけやっておけば、後々返って来るものがある」

「そんなもんかな」

「少なくとも俺はそう思ってる。実際、一生懸命に働くってのは俺の性にも合ってるけどな。泰斗からしたら凡庸な考え方過ぎてイライラするかもしれないが、手に取って確かめられる達成感てのは俺は好きだよ。死ぬときに振り返って見るべきコレクションがまた増えた、って実感がある」

「死生観まで絡められると、あまり凡庸って気がしないな」

「そういうところが泰斗の優し過ぎるところなんだ。否定するなら、否定しきらないと。そんなに何でもかんでも受け入れられるようにしてて、苦しくならないか? リベラルな考え方ってのが昨今重要視されてるが、それもあくまで『でき得る限り、広い考え方を持ちましょう』ってだけで、神様みたいに何でもかんでも受け入れて救うってわけじゃないだろ」

「キリストは全ての人間に明確な善の道を説いて救おうとしたし、ブッダは、というよりも大乗仏教は、ということになるけど、どんな生き方をしても人間は救われるべきだとして、人間の人生を全て肯定した。そして、サリンジャーはズーイに、宗教のただ一つの意義は、信者に神の意志や考え方を授けることだけと言わせた。つまり、神を信じる以上、神と同じ意識を持つよう努力しなければならない。卑小ではあるけれど、そういう人間一人ひとりの意識が社会のモラルを規定し、この無宗教大国と呼ばれる国でも長年に渡って機能してきたんだ。馬鹿みたいだよな。おおよその人間は、この国の奥ゆかしさを外国に向けて誇っているくせに、それがどこから来ているものなのか理解もせずに、それが今や失われつつあることにもほとんど無自覚だ」

「別に俺はこの国の人間がどうであろうと構わないけどな。ただ、やっぱり泰斗が単純に流行りの思想に乗っかってリベラルな考え方をしているんじゃないとわかって、何て言うかちょっと面白いと思う」

「やっぱり、ってことは、あらかじめわかってたってことだろ? だったら、何にも面白いことはないと思うけどな。まぁ、俺が思うに、宗教の代わりに学問的態度としてリベラルな考え方を取り入れるのも、世の倫理観を制御するうえでは一つの効果的なやり方だよな。ただ、それに精通する人間は結局、宗教的なところに行きつくような気がするが。宗教とか感性的なものを格好つけて否定して、理性的な学問の道を進んだ結果が、結局宗教的なものだとしたならとんだ皮肉だよ。回り道も許されるべきだとは思うけど、馬鹿々々しいことには変わりない。とは言え、リベラル思想から宗教へ、という一方通行だけというのも違うとは思うけどね。無論、宗教にもリベラルな考え方は適用されるべきだし、宗教がその排他性に則って、醜い歴史を刻んできたのも事実ではあるわけだから」

「俺が宗教とかに無関心なせいかもしれないが、なんか泰斗の話を聞いてると、とても同じ人間とは思えないな」

「そんなことないよ。さっきの南戸の死生観なんて、まさに宗教的だよ。というか、人間が精一杯生きることができるように確固たる死生観を与えて、それに準じれば良いんだと背中を押すというのがそもそもの宗教の目的ではあるわけだからね。もちろん、同じ価値観を広めて世の平定を狙うという側面もあるわけだけど。でも、そういった側面はとりあえず置いておいて、生きているときに縋れるもの、死に際に縋れるもの。それを持ってる南戸は十分宗教的人間と言える」

「まったく意識したことがなかったな。まぁ、それが泰斗に言わせれば、無自覚な人間ということになるんだろうが」

「まぁ、そうかもね。でも、俺が批判したいのは、自分の宗教があいまいなのにもかかわらず、安穏としている人間だよ。そして、自らに対して無自覚なのに、安易に宗教を否定する人間を俺は許せない。というか、犯罪的な新興宗教のせいで、宗教全般に対するアレルギーが現代人は酷過ぎる。それも少しずつ緩和されてきているとは思うけど」

「それはそうだろうな。俺も泰斗とこうやって話すようになるまでは、宗教なんてできる限り自分から遠ざけておこうと思ってたからな。まぁ、でも、結局俺はどの宗教にも入信することはないだろうな。俺は俺の確固たる考え方を持っているし、キリストもブッダも、どんな神でも俺みたいな考え方を奨励するやつがいるとは思えない。言うなれば、俺は俺だけの宗教を全うするってわけだ」

「ある意味、それは全ての人間に言えるけどね。どんなに既存の宗教を学んだとしても、結局それは自らが理解して、自らの中に作り上げた宗教に過ぎないわけだから」

「そんなもんか?」

「そんなもんだろう。でも、そんな愚かな人間をも、仏様は救ってくださる」

「はは。仏様は心が広いな」

「まったく、たいした奴だよ」

 いつの間にか二つのコーヒーカップは底を白く染めていた。窓の外で雪は降り続けている。南戸も泰斗も少し喋り疲れたような感じがしていたが、特に間を埋めるための行動も見つけることができず、ただただそんな白い景色を眺めていた。雪を着飾るかのような住宅街の屋根々々。電線も凍り付き、遠くの景色は雪に隠され、よくは見えない。時折流れていく車が、この白の景色の中でアスファルトの黒を際立たせる。雪が降るとどうしてこんなに静かになるんだろう。雪が降ると夜も街は明るい。全てが雪の中に埋もれて、世界なんてものはそのまま滅び、消えてしまえばいいのに。

 窓ガラスは冷たく、一秒ごとに冷気を部屋の中に落してくる。いつの間にか点けられていた暖房が低い唸り声を上げている。冷たさと暖かさが窓際で交差し、不可解な気流を生み出す。人間はそれをただ遠くの方から見ているだけだ。その秘密を孕んだ気流の暗号を解き明かすことは決してできない。人間にできる唯一のことは、自らの居場所を知り、そして、それ以外の遠くをただ眺めることくらいのものなのだ。

「俺は思うんだが、こうして二人でいるのは、もう止めた方がいいんじゃないだろうか」

「どうしてそう思うんだ?」

「俺はこうやって人とわかり合える、まではいかなくても、ちゃんと正面切って話し合える相手ができるとは今まで生きて来て考えたことがなかった」

「それは俺もそうかもしれない」

「でも、どこからどう見ても、俺たち二人は全く別の人間だ」

「宗教を異にしてると言ってもいい」

「はは。その通りだな。そんな人間がいつまでも一緒にいることはできない」

「そういうものだろうか」

「そういうものなのかもしれない。まぁ、一般論についてまでは俺にもわからないけど」

「でも、お互いに理解し合うことはできても、共感し合うことが難しい状況の中で、ただ関係性を保つというのもとても難しい話だ」

「そうだろうな。何しろ、お互いに強烈な価値観を持ってるからな」

「俺は二人の価値観についてはそれなりの親和性があるようにも思えるが」

「でも、同じ体の右手と左手くらい違う」

「その通り。そんなものを孕んだまま生きていくことは、かなり辛いことのように思える」

「そんな言い方をすると、両手を持つ人間すべては生きづらいことになるな」

「みんなそういう部分があると思うんだ。相反する二つの思想の間で苦しむことになる」

「もちろん、そこにはある程度の親和性がある」

「でも、決して相容れることはない。つまり、その親和している部分がその存在の表明になるわけだ」

「昔、ガリバー旅行記バルニバービの医者の話を呼んだことがある」

「何を言いたいのかわかったよ。対立する政治家の脳を半分ずつ切り出して、それをくっつけることで理想的な政治を達成しようって話だろ」

「その通り。俺たちは結局、そこを目指しているだけなんじゃないかな」

「つまり、荒唐無稽な手法を何十年もかけて研究していると?」

「そう。でも、最初はできると思ったんだ。だから、俺たちは今ここにこうして二人でいる」

「しかし、よくよく考えてみれば、そんなことはできるはずもないんだ」

「思想と思想のちょうど重なり合う部分を中心に、その人間性を規定する」

「それは実質的に、バルニバービの医者が行うような、無理のある外科的な手法と言える」

「だから、俺たちがどんなに互いの価値観を理解し合い、その様相を明確化しても」

「結局はどの部分が重なり合い、どの部分が退け合うかを知るだけ」

「その通り。それを繋ぎ合わせて一つのまとまりに昇華させることなんて無理な話なんだ」

「もちろん、それをわかり合ったうえで、つまり、お互いに独立した個として認めあいながら関係性を保つという方法もある」

「決して繋ぎ合わせるようなことはせず、あくまで対話だけで議論を進める」

「でも、俺もお前も、それを目的としているわけじゃないだろう?」

「そうだな。よくよく考えてみれば、二つの相反する価値観を繋ぎ合わせたら理想が達成できるんじゃないか、という魂胆があった」

「だから惹かれ合った」

「そうだ。でも、そんなことはできない」

「無謀なやり方だ」

「俺たちは互いに理解を深め、お互いの脳のどの部分とどの部分を縫い合わせれば、うまく一つの脳に繋ぎ合わせられるか、ということを検討してきた」

「これまでの全ての会話がそのためだったと考えることもできる」

「しかし、たったいま気がついたんだ。そのことの荒唐無稽さに」

「とんだ理想論だった。でも、本当は最初から気づいていたはずなんだ」

「そう。こいつとは理解し合えても、共感し合うことはできない」

「そのことに気づいた時点で、全てのことをわかるべきだった」

「共感するというのは、つまり、同じ体になることだ」

「つまり、脳を繋ぎ合わせることだ」

「決して完全には重なり合わない二つの思想があり、むしろ、その思想はある種の共通の土壌から育ったものではあるが」

「互いに互いを軽蔑し合っている」

「まるで、一つの体の右手と左手のように」

「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ」

「その通り。でも、本来の意味とはずいぶんと違う」

「要するに、どれだけ共通の根があったとしても、その枝葉は別の人格であるべきということだ」

「ましてや、俺たちが本当に共通の根を持っているのかも怪しい」

「やはり共通の土壌くらいの方が、表現としては正しい」

「そういうわけで、俺たちは結局、決して一つの理想的な存在とは成り得ない」

「そして、ここからが本当の問題になってくる」

「そうだ。そのことをわかったうえで、この関係性を保ち続けるか」

「あるいは、保ち続けられるか、ということになる」

「切るべきか、切らざるべきか」

「それが問題だ」

「まるでシェイクスピアだな」

 太陽は厚い雲の裏で中空。灰色のグラデーション。雪はカーテン、あるいは緞帳。

 正確に並べられたリモコンの類。暖房のリモコンだけが何か特別な磁場を感じ取ったように斜めを向いている。幽かな熱を含んだ毛布。寒さで白く染まる足の爪。生きていることを無理やりにでも誇示するかのように毎朝伸びてくる顎髭。いや、死んだ人間すら、死後数日は髭が伸びると言う。医学的定義に従う生と死。全てが何の理由があって存在しているのかわからない。あるのは、厚い雲の裏に貼りつけられた中空の太陽。灰色のグラデーション。それから、雪のカーテン、あるいは緞帳。

 厚い雲の裏、中空で輝く太陽。灰色のグラデーション。雪は緞帳、あるいはカーテン。問題の答はどこにもない。厚い雲の裏。中空の太陽。灰色。グラデーション。雪。カーテン。緞帳。答はどこにもない。

 

 街が秋めいて、空気の匂いはしだいに透明感を増していく。電車の扉が開き、夥しい数の人間がそこから降りてくる。人混みを構成する一つの要素として、駅の階段を規則的に下る。そこからは各々が四方の改札口に向かって足を進める。不健康な人間の血流を思わせる。フリスビー型の赤血球は様々にぶつかり合いながら、それでも狭い血管の中を流れていく。どろどろした体液に運ばれて。憂鬱と狂躁。ムカデの靴音。無数に思える電話口と、そこから漏れる声たち。構内アナウンスは機械の声。

 駅を抜け、ふと空を見上げる。見事な秋晴れだ。しかし、思い出すのはやはりあの白い雪景色。自分という人間があの時と同じ人間なのか、それとも違う人間なのか。どんなことを考え、どんなことを喋っていたのか。ただ冷ややかな疑念が身体に纏わりついて離れない。それはもともと自分が持っていたもののような気もするが。

 全てがあの空に溶けてしまえばいいのに、と思う。

 いや、自分は何を考えているんだ。目を閉じ、深く息を吸い込み、そして吐く。店のショーウィンドウに映る自分の姿はいつも通り、虚ろで冷たい人間のように見えた。

 

2017年11月