霏々

音楽や小説など

ライ麦畑の風 vol. 1

ライ麦畑の風

 

ライ麦畑の色をした秋の風が私たちの隙間を通り過ぎて行く。私たちはみな紺色の制服を着て、奈良公園にまだら模様を描いていた。遠目から俯瞰して見ると、雨の日の車の窓ガラスに張りつく大小の水滴のようにも見える。

私を含めた多くの同級生はみな一様に、高校の修学旅行という一生に一度の思い出づくりに対して、正当な価値を与えかねているような感じがした。ある者は決して忘れることのできない素敵な思い出を作ろうと躍起になって、眠そうな鹿たちを囲んではしゃぎ回っている。また、ある者は修学旅行だからと言って変に気負いすぎるのはダサいと、ことさら普段通りを強調して草むらに腰を下ろして適当な雑談をしていた。十七歳という年齢はどこか浮遊感に満ちていて、幻想と現実を綯い交ぜにした虚無感の中に沈んでいる。少なくとも私はそんな気分になっていた。

 別に自分の現状を憂いたりしてるわけじゃない。不満なんてものはありもしない。母にも、そして父にだって良くしてもらっているし、愛情を注がれている実感だってある。ただ、不満がないからと言って、それで全て幸福になれるわけでもないのだと、子供ながらに私もよく理解しているつもりだった。

私が言いたいのは、つまり、不満すら持ちようのないことが、私でありながら私ではない別の誰かに……例えば、鏡の中の並行世界にいる私にフラストレーションを感じさせている気がするということだけだ。

ただ何となくむしゃくしゃしていたから万引きをやったとか、タバコを吸ったとか、あるいは学校の窓ガラスを割ったとか。そういうことをしてしまう気持ちも何となくわかる気がするけれど、でも、もうそんな時代でもない感じがしている。悪ぶっても馬鹿にされるし、妊娠とか中絶とかもはっきり言って私にはまったく想像のできないことだった。

だから、私に残されているのは、ただみんなと同じようにふわふわと高校生をやっていくということだけだった。私はありきたりな高校生として、ありきたりなフラストレーションを抱え、そしてありきたりな修学旅行に興じているのだ。強いて言うならば、それを客観的に認識できているという点で、私は少し特別と言えるのかもしれない。いや、自分が特別であると思いたいのかもしれない。

 

 私は立ち上がり、スカートについた枯れた芝生のかけらを払い落とす。

「どこ行くの?」と優菜が話しかけてくる。

「ちょっとお手洗い」私は答える。

 優菜は周りにちらりと視線を向けた。それから「いってらっしゃい。ここにいるから」とぎこちなく微笑む。

立ち上がって優菜を見下ろした私には、彼女のかけている赤い縁の眼鏡はどこか場違いなもののように見えた。古い木の匂いのする気持ちの良い縁側で、肉汁が滴る熱々のステーキを切り分けているような感覚だ。まぁ、食べてみれば間違いなく美味しいのだろうから、それはそれで良いのかもしれない。文句があるというわけではないのだ。ただ何となく、「ちがう」という気がするだけで。

 私が少し離れたところから振り返って優菜の方を見ると、優菜は周りの五人の会話に対して懸命に相槌を打っていた。同じクラスの白崎ちゃんと比嘉ちゃん、それから隣のクラスの天野ちゃんと京子ちゃん。あとは生物の水無瀬先生。

 

白崎ちゃんと比嘉ちゃんとはこの修学旅行の同じ班になった経緯で仲良くなった。

二人はクラスの女子の中でも中心的な存在で、私と優菜はどちらかと言えば文化部仲間と教室の隅の方で固まっているタイプだ。私はてっきり二人に嫌われていると思っていたのだけれど、どうやらそういう訳でもないらしい。

「うちのクラスの女子って、ほんと平和だよね。悪口とかそういうの聞かないし」

昨日の夕ご飯のときに白崎ちゃんが何の気なしにそう言った。そのとき、優菜は適当な相槌を打ちながら、くすんだ空色をした器に入った玉子豆腐を、四分割に箸でくずしていた。するするとあずき色の箸の先が豆腐に入り込んでいくのを見ながら「平和というか無関心というか」と私が言うと、比嘉ちゃんは「たしかにー」と笑っていた。

とは言え、女子高生の本音なんていったいどんなものなのか分かったものでもない。そもそも本音なんてものがあるのかも怪しいところだ。

そして、お洒落で闊達な白崎ちゃんの遊び仲間?が、隣のクラスの天野ちゃんと京子ちゃん。二人とも決してチャラチャラしているという訳ではないけれど、おそらく世間が考える女子高生像にかなりぴったりと来るタイプの人間だ。明け透けな言葉づかい。短いスカート。フライパンの上でこげかけているバターみたいな髪色。それから少し派手目の化粧。

天野ちゃんがショートで、京子ちゃんがロング。

歳のいったおじさんはきっとそうやって二人を識別するに違いない。

白崎ちゃんにとっては、そんな天野ちゃんと京子ちゃんが本当の親友であるようだった。対して比嘉ちゃんの方は、白崎ちゃんにとってはいわゆる「金魚のフン」というやつに近い存在のように私には感じられた。比嘉ちゃんとの会話にいまいち満足できない白崎ちゃんと、何とか話を盛り上げようと大袈裟な身振りをしている比嘉ちゃんの図は、ありがちな再現ドラマのありがちなお芝居のようにも見えた。

私はこの二日間で、比嘉ちゃんが開きかけた口を閉じる瞬間を何度か見たが、どちらも天野ちゃんと京子ちゃんがいるときだったと思う。

 

そんなことを考えながら、私は彼女たちから遠ざかっていく。

どうしてこうも人間関係というやつはややこしいのだろうか。

私は相関図のぶよぶよとした矢印をあちこちに引っ張って何とかそれを整理してみようと思うけれど、いったん整理しきれたとしても、数時間後にはもうそれが絡まってしまっていたりする。まるでポッケに入れた途端絡み合うイヤフォンのコードのようだ。

だからといって、私にはその人間関係というやつを無視することなどできなかった。私には自分の思うがままに喋り、感じるがままに振る舞うことなど到底不可能なのだ。そんなことをしてしまえば、私は周囲から孤立して、あるいは周囲から否定されて、攻撃されて。

私にはそんな風に周囲から貶められても自分を信じられるほどの強さみたいなものはなかった。私は人間なんて嫌いだったけれど、でも、結局のところ私を私たらしめているものは――例えば、優菜よりは普通の女子高生っぽくて、白崎ちゃんよりはおとなしめ、のような――周囲の人との関係性の中でしか見出せないものだった。

私は私自身の中に、私を私たらしめる何か特別なものが欲しかった。

 

私は深呼吸をする。絵の具の匂いがした。

ゆっくりと瞼を開き、辺りを見回してみるが、絵を描いている人はおろか、絵の具の赤をケチャップと間違えてフランクフルトにかけている人すらいない。

それでもよく目を凝らしてみると、風に揺れる木の葉の音の間に、私が欲しいと思っている美しい無形物がきらきらと光っているような気がした。それを掴みたいと思うが、それはどうやら「それが何かを知っている人間」にしか触れることのできないものらしい。つまり、それが何かを知らない私には、それに触れることさえできないようだった。

トイレで用を足すと私は手を洗いながら鏡を見た。

私は周囲の人間からどのように思われているのだろう。私はどれだけ私自身のことをわかっているのだろう。

本当は、優菜のように私も誰かから憐れみの眼差しを向けられているだろうか。

本当は、白崎ちゃんのように高飛車な女みたいに思われているだろうか。

本当は、比嘉ちゃんのように人気者について回る哀しい人みたいに見られているだろうか。

本当は、天野ちゃんや京子ちゃんのように、凡庸で健康的な女子高生に見えるだろうか。

あるいは、水無瀬先生のような可愛げのある女性に見られているだろうか。

水無瀬先生は男子高校生と、それから男性教師に人気のある先生だった。華奢な身体つき。半月形の目にはマニュアル通りに工場で作られたみたいな綺麗な二重瞼が乗っている。亜麻色の長い髪はまるで男の欲を包み込むために伸ばされているかのようだった。仮にも教師である水無瀬先生がそんな髪色をして許されているのは、校長や教育委員会が既に彼女のその長い髪に絡めとられているからに違いない。

私は溜息をついて、手についた水滴を適当に払いのける。水しぶきが銀色の鏡に張りつく。薄暗いトイレの中で、鏡は小さな池の底から空を見上げるようにくすんで光っていた。風が有機的なカーブを描いて薄暗い公衆便所の中の淀んだ空気をかき混ぜる。半透明な膜の向こうから平和を象徴するような明るい声が聞こえてくる。私だけがそこに含まれていないような感覚になった。