霏々

音楽や小説など

ライ麦畑の風 vol. 2

トイレから出るともう絵具の匂いはなくなっていた。今ではそれが本当にこの世界に存在していた匂いなのかわからない。どこからどこまでが本当に存在しているもので、どこからどこまでが、ただ私が感じているように錯覚しているものなのだろう。デカルトならば私のこの問いに答えてくれるだろうか。けれど、デカルトが本当に存在していたものなのかどうかも怪しい。どこまで行っても堂々巡りだ。

「あの」

 最初はそれが私の外部から発せられた音だということがわからなかった。けれど、もう一度おなじように「あの」と背後から聞こえて私は慌てて振り返る。

そこには私と背格好の近い女の子が風に黒髪を靡かせながら立っていた。薄い灰色のTシャツにモスグリーンのミリタリージャケットを着て、下は濃い色のデニムを履いていた。大人っぽい格好だったけれど、少し気まずそうな所作や化粧の感じから私と同じくらいの年齢であることが想像できた。理由はないけれど、私は彼女に簡単な好感を抱いた。

「あ、ごめんなさい。ちょっと聞きたいことがあんねやけど」

 深いこげ茶色の瞳。少しきつい印象を与える切れ長の目。私はどこか既視感のようなものを覚えながらそれを見た。それから遅れたように彼女の声が鼓膜を震わせて、言葉の意味よりもまず先に、彼女が関西弁であることに何か変な感じを覚える。テレビではよく聞く発音だったけれど、自分と同じような若い女の子が目の前でそれを喋っていることが不思議だった。吸血鬼やのっぺらぼうにあったとしても、同じくらいの戸惑いがあったに違いない。

 そんなことを考えてから、ようやく私が「あ、なんでしょう」と返したものだから、向かい合う彼女もどこか困ったような表情になった。「ごめんなさい。ちょっと考え事をしてたから」

「いや、それはべつにええよ」関西弁の彼女は苦笑いを浮かべながら言う。「あんな、急な質問で申し訳ないんやけど、おたくの先生の中に上原って人おる?」

「上原先生?」唐突な質問に私は戸惑う。

 関西弁の彼女はこくりと頷くけれど、私はどうしたら良いかわからず固まってしまう。

確かに上原先生という先生はいる。物理の教師で、私のクラスも受け持たれている。まだ若く三十代半ばくらいの男性教師。男女問わず普通に好かれてはいるみたいだったけれど、どこかぱっとしないところがあるからか、あまり話題には上らない先生ではあった。あまり愛想がなく、学校の先生と言うよりはどこかの廃校間際の予備校講師みたいにも見えた。

「おたくら、〇〇高校の生徒やんな。修学旅行でこっち来てんねやろ」

「えっと。まぁ、そうだけど」私はどこまで正直に答えて良いか思案しながら言う。

「うちも高二。たぶん同い年やないかな」

「うん。私も高二」

彼女が同い年と聞いて私は少し安堵する。自分の個人情報ならまだしも、勝手に上原先生の個人情報を明かしてはいけないと思っていたが、私と同い年の女子高生が他県の高校教師の個人情報を仕入れたところでどんな悪さができるのか、私には全く思いつけなかった。

「急にこんなこと聞かれて怪しいと思うかもしれへんけど、うちにとっては結構重要なことなんよ」そこで彼女は気まずそうに視線を落とした。丁寧にケアしていることが一目でわかる綺麗な黒髪が彼女のつるつるとした額を覆う。

 それから彼女は持っていたダークブラウンの革製のショルダーバッグから財布を取り出し、さらにその中から一枚のカードを引き抜いた。彼女はそれを私の方に差し出し、そこに映っている写真が自分であるとわかるように額にかかっていた前髪をかき上げた。

「これ、うちの学生証。名前は進藤水奈。大阪の高校に通ってんねやけど、今日はその、上原いう人に会うために、こっちまで来たんよ」そして彼女はにっこりと笑って見せる。「一応、怪しい人間ちゃいますよ、ってわかってもらいたくてな」

 私はその学生証の文字や写真をよく眺めた。

私の高校には学生証なんてなかったから、それが正規の規格に則っているものなのか、そもそも学生証に規格なんてものが存在しているのかもわからなかったけれど、とりあえず偽造ではなさそうだと結論付けた。わざわざ他県の高校教師の情報を聞き出すために、こんな手の込んだプラスチック製の偽造学生証を作るメリットが思いつけなかったのだ。

「で、もしよかったら上原って先生ここまで連れて来てくれへんかな」

「え?」私は思わず、驚いてそう返してしまっていた。

「や、ほら。うちが直接会いに行ってもいいんやけど、生徒とかほかの先生のいる前で知らない人間に急に話しかけられたりしたら、先生も変な目で見られるやろ。だから、あんたには悪いんやけどさ」

「それは確かにそうだけど」彼女の言い分もわかるが、それよりもまず私は確認しなければならないことがある。「あの、ちなみにどういう用件で進藤さんは上原先生に会いたいの?」

 そこで彼女の表情は途端に曇る。何か言いたくない事情があるのだろう。

 そこでようやく私は、様々な可能性というものを今まで頭に巡らせていなかったということに気がついた。進藤さんと上原先生がどういう関係性にあるのか。私はそれについて思いつく限りの可能性をあげてみた。

 親戚。男女の関係。元先生と生徒。ビジネスにおける取引相手。出会い系サイトで知り合った。スポーツかなんかのチームメイト。殺し屋とそのターゲット。あるいはただの友達か。

 それだけを一瞬のうちに頭に思い浮かべてみたが、どれも決め手にはかける。そもそも目の前の進藤という女の子についての情報が少なすぎた。もう少し考察する時間があれば、選択肢を絞ることもできるかもしれないが、本人を目の前にしてそんなことをしている余裕もない。

「用件についてはちょっと言えへんのよ」進藤さんは本当に申し訳なさそうに言った。「どんな理由でもいいから先生をここまで連れて来られへんかな」

「どんな理由でも、って言われても……私、そんなに上原先生とは仲良いわけじゃないから、急に個人的に話しかけたりしたら怪しまれるかも」

 私は拒否したい想いをできるだけ婉曲させた形で表現した。しかし、彼女は「じゃあ、進藤っていう女の子が先生を呼んでる、ってそのまま言ってもらってもええから」とすぐさま代替案を提示してきた。私は歯痒く思うが、その提案を突っぱねられるほどの根拠ある否定の理由を思いつけない。

 というか、そもそも私は先生を呼びだす云々の前に、上原先生とうまく喋ること自体に自信がなかった。ほかの先生だったらまだどうにでもできたかもしれないが、よりによって上原先生とは。偶然とはいえ、どうしてこうも、そういった不都合というものは人生において度々重なってしまうものなのだろうか。

しかし、こういったきっかけでもなければ私はきっと上原先生と個人的に喋ることなんてないとも思う。半年より前ならこんなこともなかっただろう。けれど、一度上原先生に対して特別な感情を持ってしまってからは、私は個人的に会話をすることができなくなってしまっていた。その時になって初めて、私は自分がこんなにも不器用な人間であるのだということに気がついたくらいだ。そして、こんなにも小心者だということにも。

 

結局のところ私は進藤さんの頼みを断ることができなかった。彼女は半分泣いたような顔をして、「ありがとう」と関西訛りのイントネーションで私にお礼を言った。

 私は思いもよらぬタイミングで上原先生と再び喋るきっかけを得たことに対して、嬉しいような苦しいようなうまく説明できない感情を抱いた。進藤さんと上原先生の関係性については未だ保留中だったけれど、無事自分の任務が完了するまではそのことについてはあまり考えない方が良いだろう。上原先生と二人きりで会話をするというだけでも気持ちが不安定になるのに、それ以上にややこしいことなど考えられるはずもない。

 私は意を決して、彼女と別れ、上原先生の元へと向かった。

顔が火照り、心臓が湯船に沈めたピンポン玉みたいに狂ったように弾んだ。足元はトランポリンの表面をつるつるの氷にしたみたいにおぼつかなく、頭の中はアラビア語で書かれた哲学書を十時間ぐらい音読させられた後に、さらにその分厚いテキストで後頭部を引っ叩かれたみたいにぼうぼうと変な音を立てていた。視界は立体視がうまくできないときみたいに視点が定まらないのと、吹雪の中でコンタクトレンズがぱりぱりに凍り付いてしまったのとの中間みたいな感じでよくわからないことになっていた。要するに、私は自分が自分でないような混乱の真っただ中にあった。

 誰かほかの先生と談笑している上原先生を遠くに見据え、私は足を踏み出していく。胃がきりきりと痛むが、奇しくも疲弊した脳ミソがその痛みを和らげてくれている。あまりの不安で吐き気までしてきた。そのときになって私はようやく「やっぱり私には無理だ。断ろう」と思ったのだけれど、時すでに遅しとはまさにこのことで、私は既に、少し困惑した面持ちで私を見つめる上原先生と視線を合わせてしまっていた。霞んだ水色の空を背景に、少し冷たい印象を与える切れ長の目が映える。

「どうかしました? 何か用でも?」上原先生は苦笑いを浮かべながら私に尋ねる。

「あ、いや、その」

「なんだ? 言いたいことあるなら早く言えよ」さっきまで上原先生と談笑していた体格の良い国語教師が冷やかすように言う。

 だまれ。お前に言われなくても……ただ言葉が出てこない。

「あの、ちょっと先生に来てもらいたくて」私はなんとかそれだけを絞り出す。

喋り方やその内容が不自然かどうかなんてもはや自分ではまったくわからない。が、私の言葉の直後に国語教師が「いったい何がどうしたんだよ。用件があるならちゃんと言え」と言うので、そこで私は自分がうまく喋れていないことを知る。

「その、上原先生は、し、進藤さん知ってますか?」

「シンドウさん?」上原先生は首を傾げて、国語教師の方を向いた。

国語教師は「シンドウなんていたか?」のようなことを言いかけたが、万が一そういう名の生徒がいた場合のリスクを考えて途中で口を濁した。どうやら先生と言えども、学年全体の生徒の名前を憶えてはいないようだ。それもそうだ。私だって目の前の国語教師の名前を憶えていないのだから。

「進藤さんが会いたがっています。私と同じ高二です」

 私はそう口にしてから失敗したな、と思った。案の定、国語教師は私の放った言葉に対して不可解な視線を向けた。一応日本語の教師なのだ。言葉にはうるさい。

 しかしそんな国語教師とは対照的に、上原先生は何かにはっと気がついたような面持ちで、ただでさえ薄い瞼をさらに細めて、それから低い声で「わかりました。行きましょう」とだけ答える。

 私は「こっちです」とだけ言って、くるりと反転して歩き出した。背中の方で上原先生が「すみません。ちょっと行ってきます」と国語教師に断りを入れているのが聞こえる。今まで上原先生の口からは聞いたことのないような厳しい雰囲気を纏った声音だった。

 私と上原先生がその場を離れようとするとき、少し離れたところから水無瀬先生がちらりとこちらを見た。訝しげな表情を向けている。私が振り返ると、上原先生も水無瀬先生の方に視線を向けていた。二人の視線が一瞬交錯して、それからまた何もなかったかのように別れる。

 私はそれを見なかったことにしたかった。

 少なくとも、いまは忘れておこうと思った。

 

 木々が影を落とす小径を私が先だって歩いていく。私の歩調は速いのか遅いのか。自分が喋る言葉だけでなく、私の行動すべてが適切なのかどうかわからなくなってくる。上原先生の視線を背筋で感じる。背筋だけはきちんと伸ばしておかなくては。

 池には対岸どうしを繋ぐための橋がかかっていて、その橋のちょうど中間地点から垂直に突き出すようにして、浮見堂が池の上で凛と佇んでいた。きらきらと陽光を反射する水面の上で、その姿は曖昧に滲んでいる。何人かの観光客がそこで写真を撮っている姿も見えた。私と同じ制服を着たグループもいるようだった。右手に浮見堂の浮かぶ鷲池、左手に荒池を見ながらその間の木々茂る道を私たちは無言で歩き続ける。まるで巡礼をしているかのような気分だ。興奮と静謐を天秤棒に入れて、私はそれを肩に担ぎバランスを取りながら歩を進める。じゃりじゃり、と足音でリズムを刻む。光が雪になって降り散るみたいに木漏れ日が落ちてきて、さらにまた私の正気を奪っていった。

 私は自分自身が自らの内側の曖昧な中心点に向かって、少しずつしぼんでいくような感覚に陥っていた。しかし、歩きながらまっすぐ見据えた先に、モスグリーンのミリタリージャケットを着た進藤さんを見つけて、ふと我に返る。ぷつりと何かが切れたような音が頭の中で弾け、そこでようやく私は自分が極度の緊張状態にあったのだと知った。

 私は歩きながら上原先生の方を振り返った。私の視線から何かを察知したのか、彼は私の向こう側を見つめ、そこで何かを見つける。まるで大きなスクリーンに映る俳優のように、私の瞳の中で彼の表情はがらりと変わった。私の緊張が彼に乗り移ったように見えた。