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音楽や小説など

宮本佳林 卒業発表 ~アイドルの理由~

さて、昨日2/10夜にJuice=Juiceの宮本佳林ちゃんの卒業が発表されました。

※今回の記事は、宮本佳林というアイドルの歴史を振り返ることよりも、「宮本佳林がいま卒業という考えに至った理由」について、色々と考えていくような内容にしていこうと思います。

 

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2020年の6月をもって、J=Jからとそしてハロー!プロジェクトからも卒業するということですが、「まじか!」という衝撃と同時に、「やっぱりなぁ」という妙に納得できるような感情に捕らわれました。私は先日行われた、宮本佳林ソロライブ「Karing」にも参戦しましたが、あの素晴らしいライブを体感してからというもの、私の中にもどこか落ち着かない感情が生まれてしまいました。そして、その「落ち着かなさ」が今回の卒業発表を経て、何となく腑に落ちるというか、ふわっと消えていったような気がします。

 

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まぁ、上記のリンク先のライブレビューではそんなことは一言も書いていないんですけどね(笑)。

とは言うものの、上記のライブレビューの最後には「もっと色んな佳林ちゃんを見てみたい」という欲が生まれたと書いています。佳林ちゃんのソロライブは素晴らしく、これまでの集大成的なステージでありながら、「宮本佳林の可能性」を感じさせるステージでもありました。それ故に、私(だけでなく、ほかのファンの方々も!と信じています)は、「もっと!」「もっと!」となってしまったわけです。しかしながら、その期待は実現可能なものなのか…おそらく私はその点に関して不安を感じ、そして落ち着かない気持ちになったのだと思います。

 

◆ グループ活動とソロ活動の並行

人間の時間は限られています。それ故にグループとソロ、2つの活動を同時並行で進めていくことはかなり難しいものと言えるでしょう。

例えば、グループの兼任システムがあったカントリーガールズで考えたときに、カントリー・ガールズとしての活動がどれだけ減ってしまったかを振り返れば、どれだけ大変なことかはわかると思います。もちろん、カントリー・ガールズでは、それぞれ別のグループに兼任していたために、スケジュールの調整がより難化していたことは言うまでもありません。しかしながら、どうしたって両者を完璧な状態で運用していくことは難しいです。兼任先には兼任先のメンバーが居て、当然そのメンバーたちは持てる力のほとんどをグループ活動に費やしています。したがって、兼任するメンバーもそれについていくためにかなりのリソースをそこに割く必要があります。すなわち、「ほかの人と同じだけ努力しなければならない」ということです。活動縮小が宣言されたカントリー・ガールズを二の次にしなければならないのも仕方のないことです(もちろん、メンバーもスタッフもカントリー・ガールズを蔑ろにしたわけではありません。単純にリソースの問題です)。もし、2グループの活動バランスを同じだけにするとしたら、兼任先のグループ活動への参加を減らす必要がありますが、これは現実的ではないですよね。兼任メンバーの参加・不参加に合わせて、柔軟にパフォーマンスを変形させることは普通に考えて無理です。

※これは単にシステムの話であって、誹謗中傷の目的ではないことを先に断っておきますが、例えば某大人数グループであれば、所謂合唱形式であり、大人数でのダンスであることから1人分くらいの調整はやってやれないことはありません。しかしながら、ハロプロはそういう柔軟なシステムで運用されていません。1人ひとりが的確にパフォーマンスしていかなくては、ステージとして成り立たず、体調不良などで欠席者が出れば、そこはわかりやすい綻びとなって観客に見えてきます。それは単純にグループの構成人数の問題も大きく関わってくるわけですが。

話を戻すと、要するに2つの活動を並行して行うことは、特にハロプロにおいては「ほかの人以上に努力しなければならない」ということです。1つひとつのグループ、そして1人ひとりのメンバーが本気で努力しているのですから、1つのグループで活動する以上、まずそれと同等なだけの努力が求められます。それでもどうにかこうにか余力を尽くして、みな個人の活動を行っていると考えなければなりません。

前J=Jリーダーの宮崎由加ちゃんは服飾系やその他ラジオ等の個人活動を、現J=Jリーダーの金澤朋子ちゃんは三芳町の広報活動やその他ラジオ番組等の個人活動(最近は、ソロライブも行いましたね)を、ほかのグループでも船木結ちゃんはおはスタの曜日レギュラーを務めていましたし、もちろんやってやれないことはないのだと思います。実際、学生メンバーは学業と両立していましたし、嗣永桃子さんなんて教職免許を取得して大学まで卒業してますからね。

では、宮本佳林ちゃんはそういう風にして、どうにかこうにかグループ活動とソロ活動を並行して行うことができなかったのか?

そこが問題となってくるわけです。

 

◆ 宮本佳林にとってのグループ活動

佳林ちゃんにとってのグループ活動とはすなわちJ=Jでの活動になりますが、佳林ちゃんがどれだけJ=Jの活動に懸けてきたかは、佳林ちゃんのファンならきっとよくわかっていることでしょう。数多の楽曲でセンターやエースとしての役割を全うし、アイドル哲学を周りのメンバーに広め、さらにはJ=Jのスタイルの確立にも一躍買っています。

もはやソースもよくわかりませんが、J=Jの歌唱指導者として菅井先生を指名したのは佳林ちゃんであるというのは有名な話であり、それを機に、それまで個性という個性を打ち出せていなかったJ=Jというグループに「歌」という個性が花開きました。

それに関しては、以下の記事でも「J=Jの歴史」として一部触れております。

 

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もちろん他のメンバーの功労もとても大きく、1つでも欠けていたら今のJ=Jは成り立ちませんが、「パフォーマンスを通して信頼関係を築いていく」というJ=Jの基本スタンスは佳林イズムと言っても差し支えないと思っています。

 

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上記はJ=J結成(この時点ではまだグループ名は未決定でした)時の動画ですが、佳林ちゃんは合格者インタビューでは、

 

「自分がこれからどこまで頑張れるか」

「先輩のようにならなければならない」

「デビューしていない研修生なのに応援してくれてたファンの皆さんへ恩返しできることが嬉しい」

「だから、一生懸命練習を積んでいきたい」

「そのためにより多くの研修生がデビューできるようなユニットになる」

「歌もダンスももっと完璧にできるように追求していく」

「どんどん成長して、今までファンの皆さんが与えてくださった愛とか色々なものを形で返していけたらと思う」

 

と、そんなことが語られていました。これは、アイドルの模範解答として形骸化されていると言えなくもないですが、けれど涙ながらにそう語る佳林ちゃんからは一片の「繕い」も感じられません。そして、振り返ってみれば、佳林ちゃんは常に「自分がどこまで頑張れるか」を実践してきて、時には頑張り過ぎて身体や精神を蔑ろにしてしまったときもあったくらいです。そして、どの先輩にも引けを取らないくらいのパフォーマンスレベルにまで成長しました。ファンからの愛をパフォーマンスという形を通して、しっかり返してきました。また、実際にJ=Jの後を追うようにいくつもの研修生出身者で構成されたグループが結成されてきましたね。

J=Jメンバーが自分たちの売り方に迷っているような局面でも、佳林ちゃんは「ファンからの愛をパフォーマンスでお返しするのがアイドル」という考えを曲げず、自分で素晴らしい歌唱指導の先生を連れて来て、歌でもダンスでも常にグループの先頭を走ってきました。今では、特に初期メンバーの5人は各々の個性を打ち立て、ハロプロの中でも「パフォーマンスレベルで言えばJ=J」とほとんど誰もが答えるほどのグループになりましたが、それは宮本佳林の志の高さに周囲のメンバーが引き上げられたからと言っても過言ではないと私は思っています(もちろん、根がクソ真面目のJ=Jメンバーですから、佳林ちゃんがいなくてもみな自ずと頑張っていたとは思いますが、それでもやはり佳林ちゃんという存在は大きかったんじゃないかと思います)。

そして、そのような佳林ちゃんの功績を考えるのであれば、佳林ちゃんはファンやグループのために本当に健気に頑張ってきたように思うのです。義務感・使命感の中でJ=Jというアイドルグループ、もとい自らを成長させることがファンへの恩返しであり、アイドルとしての在り方と考えて、これまで頑張って来たのではないでしょうか。

ですから、佳林ちゃんにとってはJ=Jでの活動はイコールでアイドルとしての活動であり、すなわち「ファンへの恩返し」ということになるはずです。

 

「緊張している私なんて誰も見たくない。だから、私は緊張しない」

「『人を笑顔にしたい』と思って、笑顔になってくれている人を見て『うれしい』と思って、それで歌ったり踊ったりしていたら『凄いね』とか『楽しいね』と言ってくれる人がいたから、この世界で私は活動して来れた」

「そうやって想ってくれる人がいるんだから、自信を持ってパフォーマンスしなきゃいけないと思う」

「私たちは楽曲に対して愛と情熱を持って一生懸命やっていくだけ」

 

まぁ、引用すればきりがありませんが、こういう言葉だけでも、佳林ちゃんがどういう想いでアイドル活動をしてきたかがよくわかりますね。そして、基本的にはグループ結成時のインタビューで語っていたこととベクトルは変わりません。

では、ここで少し話を展開させていきます。

まず重要なのは「私たちは楽曲に対して愛と情熱を持って一生懸命やっていくだけ」という言葉です。これはすなわち、「アイドル=パフォーマー」という考え方を示しているように思います。つまり、「誰かが生み出した作品を、パフォーマーとして表現していく」のが基本的なアイドルの在り方であると思うわけです。ですから、まずはそこに対して精一杯努力する。つまり、歌やダンス、表現力を伸ばしていく。その結果として、ファンへの恩返しが達成され、そこにアイドルとしての幸福感を佳林ちゃんは見出しているわけですね。

そして、このスタンスがアイドルとして非常に理にかなっていると私は思うのです。

 

◆ アイドルに求められるもの

現代のアイドル業界では、水平分業が進んでいます。

こんなことを言うと、とても就活チックになってしまいますが、作曲家がいて、作詞家がいて、スタッフが活動のマネジメントをして、そしてアイドルがファン(=消費者)との窓口となる…というのが現在のアイドル業界のざっくりとした成り立ちです。基本的には、ファンは事務所や作曲家を先に好きになるのではなく、まずはアイドルを好きになります。というか、まず触れるものは「アイドルが表現したもの」になるのですから、その向こう側にいる作曲家のファンであっても、そこには必ず媒介者としてのアイドルが存在しているわけです。特に現在のハロプロのように、様々な作曲家が楽曲提供をしているような状態において、作品のブランディングを担っているのはすなわち「アイドル」ということになります。

理想的なアイドルとはどんなものかについて、1つの答を返すとするならば、それは「誰が作ったどんなものでも、そのアイドルが表現していれば、買ってもらえる」という存在になることです。極端な話「かえるの歌」をリリースして売れるアイドルが理想的なアイドルです。ブランディングとはそういうことです。なので、乱暴な議論に持ち込めば、アイドルとしての市場価値を知りたければ、すべてのアイドルに同じ楽曲を歌わせるなりして、売り上げを比較すれば良いということになりますね。

「歌がうまい」、「ダンスがうまい」、単純に「顔が可愛い」…理由は何でもいいですが、とにかくアイドルとしての「ブランド力」を高めていくことが、現在のアイドル業界では非常に重要なことと言えます。

では、どうすればその「ブランド力」は高められるのでしょうか。

やり方はいくつもあると思いますが、特にハロプロ界隈では「努力して成長していく過程を見せる」ことが美徳とされ、頑張る姿が魅力的な子に人気が出ることが多いです。特にハロヲタと呼ばれる人たちは、パフォーマンスを良く見ていますし、それ故、健気にパフォーマンスに打ち込む子を応援したくなります。ですから、単純に帰結させるのであれば、「パフォーマンスを頑張る」ことでファンから応援され、愛され、これによって「ブランド力」は高められます。

なので、色々と反例を上げることもできると思いますが、至極ざっくりと言えば、アイドルに求められるのは「パフォーマンスを頑張る」ことであって、「素晴らしい楽曲を生み出す」ことではありません。美しい衣装を作ったり、刺激的なCDジャケットを作ったり、観客が楽しみやすいライブ会場をおさえたりすることでもありません。アイドルはあくまでファンの最前線で、ファンと直接信頼関係を結び、愛してもらうことが何よりも大事なのです。もちろん全てが自分1人で高いレベルでできるのであれば、その能力に対してファンはより感嘆することになるでしょうが、そうは言っても人間1人の限界と言うものがあります。分業制が効率を上げるのは言わずもがなですね。

こう考えていくと、佳林ちゃんの打ち出して来た「私たちは楽曲に対して愛と情熱を持って一生懸命やっていくだけ」というようなスタンスはまさにアイドル的であると思います。そのように活動していくことで、ファンに恩返しをして、愛してもらう。J=Jというグループはまさにそういった、言わばアイドルとしての王道の売り方をしていると私は思っています。

そして、そのスタンスの確立に大きく貢献したのは、私は佳林ちゃんだと考えているのですが、しかしそこに1番縛られているのもまた佳林ちゃんだと思うのです。

 

◆ 宮本佳林がソロ活動をするわけ

佳林ちゃんは、アイドルとして王道の哲学を持ち、それを実践し、さらにグループの理念として打ち立てて、J=Jのスタイルを確立してきました。その「アイドルとして王道の哲学」とは、ずっと話してきているとおり、「パフォーマンスを頑張り、その姿を応援してもらい、愛してもらう」というものです。そして、それを突き詰めていくことで、ただ単に「歌が上手くなる」、「ダンスが上手くなる」、だけに留まらない「表現力を高めていく」という領域に出会います。

「表現」…という言葉はかなり難しい言葉ですね。人が作った歌を歌うのも表現ですし、自ら音楽を作るのも表現です。その2つは明らかに別物ですが、しかしながら、完全に別物とも言い切れません。

分業化が進むアイドル業界においては、その表現のフェーズは細かく分類されており、作曲家、作詞家、編曲家、そしてそれらを総合的に統括する人、衣装のデザイナー、スタイリスト、振付師、MVの映像監督…etcと数えきれない人たちがそれぞれのフェーズでそれぞれの表現を行っています。そして、最終的にはアイドルが自らのパフォーマンスで以って、ブランドロゴを押印することになるわけです。

ですが、この分業制における1番の問題点は「いつまでもアイドルではいられない」というものです。アイドルは非常に寿命が短く、言わば「消費される」という言葉がとても似あってしまうほどのものです。これはどうにかしなければならない問題ですが(和田彩花さんも同じような考えを持っていると私は思っていますが)、しかし、そうは言っても前述してきた「アイドル」という存在の特徴を並べていくとどうしたってそういう側面はあると思うのです。つまり、「成長していく過程を見せ、愛してもらう」というのは、特に思春期の若い子たちに強く見て取れる価値であり(無論、男はみな若い女性が好き、という特質もありますが)、そういった特色がある以上はどうしたって消費されざるを得ない部分があります。

もちろん、アイドル業界におけるほかの表現者だって消費されている事実はあるでしょう。時代のトレンドに追従できない表現者は淘汰されますし、実力がなくてはやっていけない世界です。ですが、必ずしも年齢は問題となりません。対して、アイドルにとっては年齢は重要な要素であり、逆に言えば、実力(=パフォーマンス力)がなくても愛されればどうにかなる立場にあります。これはどうにかしなければ問題として存在していながらも、とりあえずの前提として無視することはできない前提と言えます。

ですから、まず大前提として「いつかは(具体的には二十代半ばくらいの年齢で)アイドルを卒業しなければならない」というのがあります。

したがって、現代のアイドルには、「アイドルを卒業した後」を考えることが求められています(夢も希望もないような気がしますが、逆に何も考えずに、あるときアイドルを辞めることになって途方に暮れるよりは、きちんと自分の第2の人生を考える方がよっぽど夢や希望に溢れていると私は思います)。だからこそ、おそらくは全てのアイドルの心の中には漠然と「次はどんな世界に挑戦していこうか」という想いがあるはずでしょう。そこでヒントとなるのは、アイドル業界で触れてきた数多の表現者だと思います。歌手、役者、タレント、デザイナー…etc、様々な選択肢がありますね。

佳林ちゃんもまた、どこまでもアイドルらしいアイドルでありながら、きっとそういう感覚は持っているのだと思います。

ですが、結局のところ、人間を先に進ませるのはそういった打算的な計画ではないと思うのです。打算は打算として、頭の隅に留めておくとして、そうは言っても人間やりたいことは色々あると思うのです。佳林ちゃんはこれまでずっと「アイドルをやりたい」と思って、アイドルをやってきたはずです。しかし、アイドルとして様々な表現に挑戦する中で、自分の心の中には「アイドル=パフォーマーとしての表現」以外の「別の表現」に対する欲望があることに気がついていったのではないでしょうか。

それが行動として現れたのが、ギターやDTMだと思います。「ほかの人の作品を表現するだけでなく、自分で作品を作ってみたい」という欲求が存在することに気がつき、では「自分で作品を作る」ということを考えたときに、おそらくは自然と「音楽の作曲」という選択肢が現れたのだと思います。自ら作曲した音楽はある程度の形にまでなり、バースデーイベントやソロライブで実際に披露されました。そして、そのような経験を通じて、佳林ちゃんが得たものは「ファンの人のため」だけではない「動機」だと私は思います。

私は思うのですが、そもそもギターやDTMを始めた瞬間にはきっと、「これをやったらファンの人たちは喜ぶだろうな」という想いは存在しなかったと思うのです。もっと根源的な「表現したい」という衝動だったと私には思えます。結果的に、それらはファンの前で披露され、ファンを喜ばせることになったとは思いますが、それでも何となく佳林ちゃんの中での実感は違ったものだったと思います。つまり、佳林ちゃんはアイドルの中のアイドルだからこそ、アイドル活動の半分以上が健気な義務感や使命感の中でのものだったのではないでしょうか。対して、ギターやDTMは、やや義務感や使命感から外れたところで、より「自由」と自らが捉えられる意志の中で表現されたものであったことと思います。「表現」という同じ枠組みではあるものの、フェーズが異なることによって、佳林ちゃんの中ではそこで2つのベクトルが生まれてくることになったのだと思います。

端的に言えば、「使命感」と「自由意志」みたいな2つのベクトルです。

グループでのアイドル活動では、最初に話した通り、グループ全体で足並みを揃えて邁進していく必要があり、また様々な人々がそのグループのブランディングに携わり、その最前線である「アイドル」としての成果が求められます。すなわち、グループ活動ではより「使命感」が求められると言って良いでしょう。特に、前述の通り、グループの中核として佳林ちゃんにかかる使命はかなり重いものと言えると思います。

対して、バースデーイベントなどのソロの活動では、もっと個人の自由意志の範囲内で表現することが許されています。自分でイベントを企画することはもちろん、自ら作曲したものを披露することだって可能です。大まかに見れば、グループでの活動もソロでの活動もアイドルとしてのものであり、そこに大差はないように思えるでしょうが、それでも少なからずベクトルは異なっており、「自由意志」の方がソロでは強く感じられることでしょう。

これらを総合すると、「アイドル卒業後」の試金石として、と同時に佳林ちゃんの「自由意志」の発露の場として、先日のソロライブツアー「Karing」は開催されたものだと私は思っています。つまり、これが佳林ちゃんがソロ活動をするわけだと思うのです。

 

◆ なぜJ=Jを卒業しなくてはならないのか

さて、長くなって参りましたが、少しずつ核心へと近づいてきました。

まず、ここまでの話を総合すると、

 

・グループ活動とソロ活動(2つの活動)を両立することは大変である。

・佳林ちゃんはJ=Jというグループのスタンスを確立してきた。

・アイドルグループは成長を見せることで愛される(と、佳林ちゃんは考えている)。

・佳林ちゃん(アイドル)は将来の展望について意識している。

・佳林ちゃんはより「自由意志」が尊重されるソロ活動に興味を持っている。

 

という感じになりましょうか。まぁ、当たり前のことが並んだ感じですね。 

 ですから、現時点でこの章の答を出すのであれば、「グループ活動とソロ活動を両立するのはとても難しく、特にファンから愛されるために努力することを佳林ちゃん自身が実践してきたJ=Jというグループでの活動は手を抜くことが許されない。しかしながら、いつまでもJ=Jでアイドルを続けることは現実的ではないし、そういったアイドルの使命感とは少し離れた所にある自らの創作性を発揮する活動にも興味が出てきた」という風になるでしょう。これもまた、至極一般論ではあると思います。

ですから、おおまかにはこのまとめで説明は完了するわけですが、もう1つ卒業発表において誰もが気になった点について考察を進めることで、さらなる補強をしていきます。

 

新たなライフスタイルを模索して人間としても成長し続けられる人でありたいと思いました。具体的には、自然と触れ合いながら、DIY、インテリア含めた色々な物作りにチャレンジしたく、その勉強のため…

 

公式サイトのメッセージをそのまま引用してきました。太字にした箇所が何よりも気になるポイントですよね。

「え? DIY? インテリア? (里山ってこと?)」と多くの人が思ったのではないでしょうか。これについては、私もまだ理解しきれていない部分がありますが、少なくとも単純に「パフォーマンス」だけでなく、また「作曲」でもないということから言える部分も色々とあります。

まず第一に、「表現の第一線である『パフォーマー』だけでない」というところから少なからずパフォーマーとしての息苦しさを感じているということがあると思います。もちろん、佳林ちゃんの強みは「パフォーマンス」であり、それを蔑ろにすることはありません。しかしながら、前述の通り、「パフォーマー」は様々な表現者が生み出した作品の1番最後にブランドの印を押すような役割になります。強い義務感と使命感が要求されることは必至であり、大きな重圧がかかることでしょう。特に、佳林ちゃんのパフォーマンスの中核を担うのは、やはり「アイドル性」であり、アイドル的な表現を得意とする佳林ちゃんがもし単なるパフォーマーとして生きていくのであれば、ハロー!プロジェクトのようなザ・アイドルとしての土俵を退くのは得策とは言えません。そこを退いてまで卒業という選択肢を取るのですから、少なからず「パフォーマー」としての活動にネガティブな感情を「現段階では」持っているのでしょう。ただ、根っからのパフォーマーである佳林ちゃんが自らがパフォーマーであることを全否定することはあり得ないと思います。あくまで、ちょっぴりパフォーマンスという強い使命感が要求されるところから離れて、自由にやってみたいというくらいのものだとは思います。佳林ちゃんがパフォーマンスとして強い使命感を持っていることは上述の通りですので。

そして、DIY等を選択したことから、「作曲は向いていないかもしれない」と佳林ちゃん自身が考えているのではないかと伺えます。もちろん、佳林ちゃんが作曲した楽曲はとても佳林ちゃんらしく、私は大好きなのですが、そうは言っても「じゃあ、ファンの人以外に、つまり世間に売り出せる?」と聞かれると「まだ難しいんじゃないか」と思ってしまいます。もちろん、それはただただ、「まだ未熟」というだけでいくらでも可能性はあると思います。が、こればっかりは自分の中での手応えが何よりも重要だと私は思うのです。佳林ちゃんと自分を比較するのはとても憚られますが、私も学生時代は漫画家になろうと思って絵の練習をしたり、ミュージシャンになろうと思ってギターの練習をしたり、色々なことに挑戦していました。おかげで、一般人からしたら、「絵、上手だね」とか「ギター、上手いね」と言ってもらえる程度にはなりはしたものの(自慢ではないのです、本当に)、ちゃんと見る人が見れば私の技術は取るに足らないもので、才能のかけらもないことがすぐにわかるはずです。そして、色々と挑戦する中で、私が唯一「まだマシ」と思えたのがこうやって文章を書くことです(それにしては酷い文章だな…なんて言わないでください。傷つくんで)。そんな風に自分では一押しの文章を書くことですら、どうしようもないくらい低レベルではあるのですが、それでも自分が、こう、何かを表現するうえで最もナチュラルなのが「文章」であるというのは私の中で確固たる自信があります。佳林ちゃんがDIYに対して、そのような自分の中での「ナチュラルさ」を感じているかは全くの不明ですが、例えば一時期凝っていた健康食など、いわゆる芸術表現以外のところで、何かしら手応えを感じたのではないでしょうか。まぁ、深くは私にはわかりませんが、ひとまず単に作曲とかそういうのではなく、一旦いわゆる芸術表現から遠いところに身を置いてみるという選択肢が、今後の佳林ちゃんにとって大切だったのだろうと思います。

そして、そうは言っても、やはり「歌」や「ダンス」と言った表現に帰結する未来を描いているからこそ、

 

 感受性を磨いて、自分なりの表現方法を見つけてパフォーマンスに活かしていきたい

 

という言葉が出て来るのでしょう。これは、アイドル(パフォーマー宮本佳林のファンである私たちからすれば、何よりも嬉しい言葉と言えますよね。

そして、また最初の問いに戻ります。

「なんでJ=Jを卒業しなければならないのか?」

それは、先述の通り、「活動の並行は無謀だし、一度アイドルから離れて、自由に創作活動をしてみたい」というのが答えにはなりますが、ファンからしたら「DIYならアイドル活動と並行して何とかすればいいじゃない」と思ったりもしてしまいますね。ですが、佳林ちゃんももう21歳です。ハロプロにはもっと年上も在籍していますが、本気で何かをじっくり学び、その後の人生の軸を作って行くには結構ギリギリの年齢だと思います。何せ、言ってみれば佳林ちゃんは今まで「アイドル」しかしてこなかったと言っても過言ではないのです。そして、大先輩の鈴木愛理さんのようなソロアーティストを目指すことが周囲からは求められ、そしておそらくは本人も求めている状況にありながらも、「本当に鈴木愛理に肩を並べられるのか」という疑問もあるでしょう(もっと意地悪な言い方をすれば、「鈴木愛理」と肩を並べるだけで良いのか?という疑問だってあるかもしれません)。実力差や実際のアーティストとしての成功度合いを無視しても、「鈴木愛理」の二番煎じでは意味がないですし、それこそどんな形であっても何かの二番煎じでは意味がありません。ですから、佳林ちゃんには佳林ちゃんのオリジナリティが求められるわけですが、今までハロプロでアイドルしかしてこなかった佳林ちゃんが本気で1人のアーティストとして独立してやっていくのであれば、全く新たな価値観を取り込み、自らを変えていかなければなりません。それは、アイドルとして優秀であればあるほど、重要なテーマと言えるでしょう。

つまり、現状ではDIYに可能性を見出しているものの、DIYであることが重要かと言えばそういう話ではなくて、単純にDIYという方面に活路を見出しており、まずはそこに深く身を投じることで何かを得ようとしているのだと私は思います。ただ、佳林ちゃんのいかにも一人っ子っぽくて凝り性なところは(私個人的には)、静かな自然の中に身を置き、深く思索に更けながら、生活を営むというのが意外と合うんじゃないかと思っています。佳林ちゃんが言うように「感性を磨く」というのはアーティストにとって非常に重要だと思います。しかし、例えばブロードウェイに住むことで感性を磨く人もいれば、東南アジアの雑多な屋台街で感性を磨く人もいるとは思いますが、私の印象としてはやはり、佳林ちゃんは静かなアトリエで物思いに更けるというのが似合っていると思うんですよね。そういう意味では、ダーチャという菜園付きのセカンドハウスに住んでみるというのは、結構納得のいく選択だと思っています。

そして、当然ながら、そのような自己変革を目指し、そのような手法を取るというのであれば、アイドルとしての活動をかなり制約する必要があるでしょう。

私は私の(本当に仕様もないカスみたいな)物書きとしての土台を作るのに、大学を1年留年しています。数年間、ほとんど大学に行かず、散歩しては酒を飲み、酒を飲んではいつ死ぬべきかを考え続け、結局死にきれないまま、溜まったフラストレーションを放出するために物を書いていました。が、まぁ、そのようにして私は私なりの文章を(誰にも認められないままとわかっていながらも)書き続けていこうと思えているわけです。この生活が幸福とは思いませんが、しかし、ある意味では自分の望んだものでありますし、ほんの少しくらいは「救い」のようなものも感じています。

…と、私の話はどうでも良いですね(笑)。

ともかく私が言いたいのは、何かしら自分の土台や軸を作ろうと思ったら、二十代前半は重要な時期であり、また時間をかけることが必要なことが多いのではないか、というものです。ですから、佳林ちゃんがJ=Jを卒業するという選択肢を取ったのは、ある意味では腹を括ったのであり、自分の人生をどう生きるか真剣に考え抜こうとしているんだという気概が感じられて、本当に嬉しいことなのですよ。そして、その嬉しさには「やっぱり佳林ちゃんは佳林ちゃんだな」という私の佳林ちゃんに対するイメージがきちんと守られているという嬉しさも結構含まれています。

色々と話が逸れたように思いますが、佳林ちゃんがこれからもパフォーマーであり続け、1人の人間として生き続けていくために、この卒業によって得られる時間はかけがえのないものになると思っています。これまで使命感の中でアイドルに向き合ってきた分、今度は自分自身のためだけに(それは時にはとても孤独で辛いものになるでしょう。そして、そのことをきっと佳林ちゃんも理解しているはずです)何かを学んで、表現していって欲しいなと思います。そして、佳林ちゃん自身が見つめているように、将来的にはまた故郷であるハロプロへの凱旋を果たし、より一層佳林ちゃん自身の人生とハロプロの未来を明るくしてくれたら、とても嬉しく思います。

 

 

ここからは、ちょっとしたおまけみたいなものです。

 

 

◆ 卒業発表動画で嬉しかったこと

何というか議論としてどこまで筋が通っているのか、現在の私には判断できないくらい、いま疲れているのですが、言いたいことを言い終えた感がとてもあるので、ちょっとクールダウンがてら佳林ちゃんへの愛を語りたいと思います。

私は佳林ちゃんのおかげで、ただのモー娘。ファンから、ハロヲタへと羽化できました。ですから、そんな佳林ちゃんがJ=Jもといハロプロから卒業してしまうのはとても悲しいことなんですね。ただ、ずっと書いてきたように、佳林ちゃんのソロライブを見てからというもの、どこか「達した感」みたいなものがあって、もはや佳林ちゃん自身だけでなくファンですら、次の目標をどこに見出せば良いのか、よくわからなくなってきたように思います。特に、ここ数か月の活動の様子を見ていると、何となく佳林ちゃんの燃え尽きた感も感じられて、「あぁ、これはきっと近々…」という予感もあったわけです。

しかしながら、それはそれとしてより悲しいのが、語弊を恐れずに言うのであれば、ソロライブで見た「佳林ちゃんの限界」だったわけです。確かに、ソロライブでは佳林ちゃんの可能性を強く感じました。が、それがハロプロという枠組みにいることで、損なわれてしまうのではないか、という限界もまた感じられたのです。もし、「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」でハーマイオニーが使っていた「逆転時計」のようなものがあり、佳林ちゃんがグループ活動とソロ活動を完全な形で両立できるのだとすれば、そういった不安は全く感じなかったのでしょうが、現実的に考えてJ=Jのメンバーでありながら、これ以上にソロのクオリティを上げていくのは難しいと思ったのです。もちろん、やり続ければ少しずつクオリティも上がっていくでしょうが、それでは仮に25歳を卒業とするならば、それまでに達せられる場所は悪い意味で想像の範囲内に留まってしまうでしょう。ですから、J=Jとしての佳林ちゃんをどこまでも愛していながらも、佳林ちゃんという人間1人を考えたときに、やはり卒業こそが求められるのではないか、ということを漠然と感じている中での卒業発表だったわけです。

言い方は非常に乱暴ですが、アイドルは「ウルフ・オブ・フォールストリート」の中でハンナというやり手のブローカーが言うように、「お客を観覧車に乗せ続けなければならない」と思うのです。「1つの幻想を与えたら、また次の幻想を用意する」という言葉にも置き換えられますが、つまるところ、アイドルというのは止まっていはいけないのです。J=Jの歴史に見るように、パフォーマンスが飽和した5人時代から、新メンバー加入によって、J=Jはまた刺激的なグループへと変貌しました。25歳定年説が流れていますが、それは決して女性の容姿等に対する「若さ」のブランドだけではなく、「成長」というブランドを保証し、お客を観覧車に乗せ続けるうえで必要な新陳代謝とも取れなくはないです(というか、それこそが重要なのだと私は勝手に考えています)。

私はある意味では、宮本佳林という存在に対して永遠不変の幻想を抱いていますが、しかし「永遠の16歳」なんて幻想だけではやっぱり満足できませんし、愛する佳林ちゃんのアイドル性=物語性を考えたときに、どうしたって「さらなる進化を…」と求めてしまうのです(業が深いですね)。「佳林ちゃんは佳林ちゃんだからそのままでいいんだよ」と言ってあげたいのですが、佳林ちゃんの場合「そのまま=絶えず進化する様」となってしまいがちなので、全く以って私はダメダメな人間です。

そして、そんな私だからこそ、現状に慢心せず、新たな自分を模索する様を見せつつも、永遠不変のファンへの熱い想いを感じさせる「動画で、自分の口で」の卒業発表動画を見せてくれた佳林ちゃんには感謝の想いしか湧いてきません。進化と永続性という一見矛盾した要素を内包する佳林ちゃんをこれからも応援できるというのは、私にとっては文章を書くことと同じくらい、重要な「救い」だと今ひしひしと感じております。

 

◆ アイドル事務所のあり方

また余計な一言を付け足すのだとすれば、グループが卒業と加入による新陳代謝を繰り返す中で、新人の努力を100としたときに、ベテランの努力はおそらく80で済むと思うのです。もちろん、その浮いた20をグループに還元することが求められはするのですが、それが直接的にパフォーマンスに帰結するというよりは、あるいは個人の活動を行うことで、グループに還元するという方法もあると思います。その辺が上手くできる人は、グループで活動を続けながらも、第2の人生を見定めていくことができるのだと思います。これはその個人の資質と、展望によって変わって来ることだと思いますので、別にどちらが良いとかそういうのではありません。

例えば、適当に例を作るのであれば、「かなとも」はグループの活動と並行して、PR大使やラジオパーソナリティなどの仕事をしていくことで、個人のスキルを蓄積して第2の人生を作ることができる人だと思っています。とても冷たい物言いをするのであれば、「かなとも」が自分の第2の人生のために、外部活動を頑張ることはある意味ではグループに還元されうることであり、決してグループを放っておいて、自分の好きなことをやっているとはならないはずです。つまり、個人とグループにとってWin-Winな関係ということですね。「かなとも」はグループに所属していることで、自分のスキルを伸ばす仕事を得ることができ、その仕事を通して、グループの価値を高めるという恩恵をもたらしてもくれます。

ただ、私が思うに、佳林ちゃんはどちらかと言うと、新人が100で頑張っているところを、同じように100、あるいは110とかで頑張って、どんどん自分のパフォーマンスを磨き、それはまぁ、文字通りグループに100とか110還元されるのですが、肝心の佳林ちゃん自身の第2の人生がきちんと構築できていないような気がするのです。もちろん、J=Jのアイドル活動に力を入れることで、アイドルとしてのパフォーマンス能力は向上できるため、将来のアーティストとしての第2の人生に対して全くの無意味というわけではありません。しかし、アイドルで97点にいる人が、血の滲むような努力をして98点にすることが効率の良い方法とは言えない気がします。そして、あるとき「やっぱりここに居続けては、本当の意味では進化できない」と思って、卒業することになったりするのです。皮肉なものですが、そうやって卒業が早まってしまうことは、グループにとってはあまり利益とはならないでしょう。

もちろん、ベテランの余剰の20の使い方に優劣はないです。いかなる方法であっても、ただサボっているのでなければ、その20は結果的にグループにとって重要な20となるはずです。「かなとも」の20も、佳林ちゃんの20も同じだけ大切な20。故に、その20は自分の人生のための20として欲しいと思うわけですね。そして、その20の使い方はただただ個人の裁量によって決められるものではなく、当然周囲からの要望や個人の性格、資質によっても左右されてきます。もし、そのアイドルの将来の展望が自動車設計にあるのだとすれば、20では足りないため、アイドルを辞めるしかありません。逆にアイドル活動と比較的近い将来の展望であるならば、自分のために20も使えるのであれば十分ということもあるでしょう。ですから、どちらが良いとは言い切れないものです。

ただ、大事なのは事務所側がその20の置き所をちゃんとアイドル本人と相談して、導いてあげることだと思います。和田彩花さんが「アイドルを消費させない」というような考え方を持っていることは素晴らしいことだと思いますが、そうは言っても、どうしたって「アイドルは消費されてしまう」ものだと私には思えてなりません。だって、遅かれ早かれこの世のものは全て消費されていきますからね。そんなことはきっと和田彩花さんもわかっていて、むしろ「アイドルとして消費」されながらも、次の人生をきちんと見つけられることの方が重要だと彼女も考えているはずです。高校の部活動だって、どんどん選手を消費しているわけですが、例えばプロの選手になれなかったとしても、部活動で学んだことを生かして今後の人生を切り開いていく人はとても多いと思います(それはつまらないコネクションとかそういうのだけではなく)。そして、そういう可能性を広げられる場所には、きっと人が集まり続けるでしょう。つまり、アイドル事務所として重要なのは、もちろんアイドル活動で成果を出すことは大前提になりますが、それだけでなくきちんと個人個人の将来をプロデュース、とまではいかなくとも、その個人個人がきちっと自分をプロデュースしていく力を養っていける場所を作り上げることだと私は思います。

ハロプロが所属するアップフロントという事務所が、それを満足にできているかどうかは私には判断のつかないところではありますが、佳林ちゃんのともすれば「無謀」と言えるような決断を理解し、卒業を後押しする姿勢を少なくとも私たちに見せようとしてくれていることは、今後もハロヲタであり続けようと思うだけの根拠にはなっていると私には思えます。上から目線で申し訳ないですが。

 

◆ グループの焦点

またつまらない一言を付け足します。

今回は宮本佳林というJ=Jのセンター、エース、そのほかどういう言葉が正しいかわかりませんが、とりあえずは重要なメンバーが卒業してしまいます。もちろん、「J=Jもといアイドルグループにはセンターやエースといったものは存在せず、流動的なものだ」という意見もあるでしょうし、佳林ちゃんをセンター、エースとして認めないという人もいるでしょう。

が、ここではあえて恐れることなく、佳林ちゃんをセンター、エースとして話していきたいと思います。

あらゆるグループには、センターやエースといった存在がいます。サッカーチームのバルセロナで言えばメッシがそうですし、一般的な会社1つをとっても、組織にはその組織のキーマンとなる人がいるはずです。特に、その組織をデザインすることが可能な場合、ほとんどの場合が、まずそのグループのキーマンを決め、そこから派生してチームのメンバーを組んでいくことになるのではないでしょうか。とりわけアイドルグループとなれば、その傾向は強いように思います。

この記事で私はほとんど語弊を恐れずにやってきましたが、ここでもまた全ての恐怖心を拭い去り…近年のモー娘。では鞘師を中心にグループが構築され、つばきファクトリーではおそらく浅倉樹々を中心にグループが構築されているように思います。同様に、J=Jでは宮本佳林がそのキーマンとして構築されたと思います。ですが、既に経験からわかるように、鞘師里保が卒業した後のモー娘。浅倉樹々が欠席中のつばきファクトリー宮本佳林が欠席中(あるいは卒業した後)のJ=Jのように、キーマンが不在のチームでは、どこか焦点がぼやけたような感じが否めません。

もちろん、ほかのメンバーが不在の場合でもバランスが崩れてどこか見にくくなったり、物足りなくなったり、ということは当然あるわけですが、キーマンが抜けるとわかりやすく焦点がぼやける気がするのです。単純に、推しが不在だからどこを見ていいかわからないとも言える気もしますが、そうは言ってもやっぱり不在の人物がそのチームのキーマンかどうかで見え方はかなり違うように思います。

このことは決してメンバー間の優劣を言うものではなく、単純にチームの作り方がそういうものだからだと私は思います。例えば、太陽系において、太陽がなくなれば、その他の惑星は中心点を失い、ばらばらに運動していくことでしょう。それと同じように、まず中核となる存在がセットされ、その周囲にそれに準ずるものたちを配置していく。そのようにやっていくと、自ずと最初に置かれた中核が運動の中心点となり、チームの焦点となっていきます。もちろん中核の不在が長く続けば、新しい中核が生まれ、新しい運動が生まれていくわけですが、しかしもともとが元来の中核の存在ありきで作られたチームであるならば、やはりその中核の不在は大きな影響を与えると思うのです。

そのことを私が強く実感したのは、昨年のひなフェスでの、鞘師復活ですね。

単に周囲と衣装が違うからという理由だけでなく、鞘師がセンターに位置してのパフォーマンスはピシっと焦点が定まっており、とても美しく感じられました。今では「フクちゃん」も「おださく」もモー娘。の中核を担うメンバーですが、「まーちゃん」や「だーいし」、「えりぽん」が鞘師を取り囲むフォーメーションは、時を経てもやはり「しっくり」と来るものであり、これこそが正しい在り方なのだと強く感じさせられました。それは、正しい絵画において、正しい重心が提示されているような感覚と近いものです。

そして、そういう事実が存在するということは、今後のJ=Jを考えていく上で非常に重要なことになるかもしれません。鞘師が卒業したことにより、メンバー全員のスキルが向上したモー娘。と同じように、佳林ちゃんが卒業した後のJ=Jにもまた新たな変化が訪れるでしょう。しかし、少なくとも初期メンバーに関して言えば、佳林ちゃんをセンターとして想定したうえで選ばれた面子である以上、焦点のぼやけを抑え込むことは難しいです。それは「かなとも」や「さゆき」や「あーりー」が実力的に佳林ちゃんに劣るとかそんな低次元の話ではなく、単純に「役割が違う」ということです。サッカーの話で申し訳ないですが、イニエスタ、シャビ、ブスケツという天才ですら、メッシという中核を生かすためのプレーを続けてきたが故に、どうしたってメッシがいるときの方がより高度なプレーをすることができるわけです。「かなとも」も「さゆき」も「あーりー」も誰一人として欠けてはならない重要なメンバーであり、それこそTRIANGROOOVEの公演で見せた「メロディーズ」は最高のパフォーマンスでありましたが、そうは言っても、やはり佳林ちゃんという中核を得てこそ、この3人はさらに輝けると思うのです。それは宮本佳林という中核を想定してこれまでパフォーマンスが為されてきたからであり、組織としてやっている以上は避けられない事象だと思います。

故に、佳林ちゃんが卒業した後、J=Jの焦点はぼやけてしまうことが予見されますが、かといってパフォーマンスが支離滅裂になるかと言えばそんなこともないと思います。単純な戦力で言えば、佳林ちゃんがいなくとも十分やっていけるだけのスキルがJ=Jメンバーにはありますし、単純にメンバー1人分の歌割が空くため、1人ひとりの活躍の場面も増えることでしょう。ただ、気をつけなければいけないのは、焦点でやってきたメンバーが卒業するのだから、別の戦術へとシフトしなければならないということです。

かなり極端な話で、独りよがりな考察になりますが、佳林ちゃんがいることでこれまでのJ=Jは全員の歌声を堪能できるグループであったように思うのです。J=Jのメンバーは全員が魅力的な歌声を持ち、それぞれに個性があり、1人でも欠ければそれはその人の色を失うということになり、必ずトーンダウンしてしまうくらいのものです。ですが、それだけ様々な個性がありながらもグループのパフォーマンスとして安定して、きちっとまとまっていたのは、佳林ちゃんに歌割が戻って来たときにJ=Jとして焦点がぴっと定まるからだという風に考えることもできると思います。言葉で伝えるのが難しいですが、ただの個性の寄せ集めでなく、J=Jになるためには、宮本佳林というハブ(中心)が必要なんじゃないかなと思うわけです。ですから、佳林ちゃんが抜けた後は、そのハブの不在を埋めるための新しいシステムが必要となるわけです。

個人的な理想を言うのであれば、まずは初期メンバーの残された3人が、もっとお互いの距離を密に取り(具体的に言うのであれば、この3人の歌声をもっと揃え)、TRIANGROOOVEの「メロディーズ」のように互いに互いを補完し合うようなパフォーマンスをしてくれればなぁ、と思います。具体的に喋るのは難しいですが、3人で各楽曲に対する理解を統一し、さらに表現の角度やテンションを合わせてくれれば良いんだと思います。おそらくではありますが、佳林ちゃんの表現の軸がめちゃくちゃ明確なため、やはりJ=Jの中では楽曲解釈の中心として機能していた(それは全員が佳林ちゃんの解釈に従っていたとかそういうのではなく、あくまで解釈・表現の中心軸が佳林ちゃんであったという意味です…)ように思うので、その代わりとなるものを3人で作り上げて固めるようにしてくれれば、これまでのJ=Jの個性の寄り合わせとはまた違ったベクトルの完成度の高いパフォーマンスが見られると思うのです。J=Jのユニゾンは美しいとされてきましたが、それでもBerryz工房的な個性の寄り合わせが光る部分もあったと思います。が、これからはより℃-uteのダンスのように細部まで合わせたパフォーマンスをしていけば、佳林ちゃんという焦点を失ってからも、また違った面白味のあるパフォーマンスとなるんじゃないかな、と思っています(またサッカーの話になりますが、メッシが欠場している試合では、逆に各々が流動的に動くことで相手の的を絞らせず、レアルマドリードに快勝したことがありました。いわば、そういう戦術の変換が重要ということです)。佳林ちゃんという強烈な焦点を失ったことで、逆にまとまりやすさは出ると思うんですよね。3人ともとっても器用ですし、それでいて個性も出せるので、うまく協力しながら新しいJ=Jを作っていって欲しいです。

 

◆ 宮本佳林ちゃん

だいぶサッカーの話をしてしまいましたが、宮本佳林ちゃんに話を戻します。と言っても、そんなに長くはなりません。私も疲れましたし、明日のために寝なければなりません。もう彼これ6時間近くこの記事を書き続けているので、いい加減死にそうです。

まず、佳林ちゃん。ご卒業おめでとうございます。

前述の通り、私は突然の卒業発表に狼狽え、悲しみ、よくよく考えていくことで、大きな喜びと祝福の心をどうにかこうにか手に入れることができました。佳林ちゃんの将来がどうなるかはまるでわからないですが、それでも現時点での決断からは何か素敵な景色が見えてきそうな気がします。どうにか私たちファンや佳林ちゃん自身が願う素敵な未来がやって来ますように。

宮本佳林というアイドルがいたからこそ、私はより多くのアイドルを好きになり、よい多くの音楽を好きになり、より多くの人間を好きになれたような気がします。人間を辞めてしまいそうになったときも、佳林ちゃんが健気に努力していることを思って、何とかその場で座り込んでしまいそうになる弱さを断ち切って、震える足を前に一歩押し出すことができたように思います。また、単純に「可愛いなぁ」と何もない毎日にちょっとした幸福感に浸ることもできました。

幸せがたくさん実る日々がこれからも続いていくことを願っております。

卒業までまだ幾分か時間もありますが、怪我や病気が無く、J=Jという素敵なグループで素敵な思い出を1つでも多く作ってくださればな、と思います。

私なぞから申し上げられたものではございませんが、これからも頑張ってください!

 

最後に…

うん、疲れました。

でも、悲しみの割には、結構幸せです。

 

追記

私が今の佳林ちゃんくらいの歳の頃、文章を書くことに興味を持ち始め、気に入りの作家の作品をモチーフとして、佳林ちゃんへの狂信的な想いを綴るように一つの文章を形にしました。

 

eishiminato.hatenablog.com

eishiminato.hatenablog.com

eishiminato.hatenablog.com

 

いま読み返すとかなり恥ずかしい内容ですし、かなり不格好ではありますが、私の佳林ちゃんに対する想いはその頃からあまり変わっていないのだなぁ、と何となしに思わされます。文章として形にする以上、私とカリンちゃん(文章中では、常に「カリン」表記です)に現実的な接点があったかのような書き方をしていますので、そういうのが気持ち悪い方には大変申し訳ございませんが、まぁ、大目に見てください。文章中でも殊更強調しておりますが、あくまで「創作物」なので。

なお、内容はJ.D.サリンジャーの「シーモア―序章―」をもろパクリしています。重要な言葉や場面はほとんどこの小説からの借り物です。文体もめちゃくちゃ意識していますね(笑)。

現実の宮本佳林ちゃんが卒業するなんて未来はこの時、全く以って考えてはいませんでしたが、でも私が佳林ちゃんのどこに惹かれているのかという軸が全くブレていないことに驚かされます。状況も形も全く違いますが、(個人的には)ほとんど同じようなことを数年越しに書いているというこの奇妙な感覚を、私は「奇跡」と呼びたい!

なんて寒い言葉を書いてしまうくらい、過去の自分の言葉に触発され、そして佳林ちゃんのことが狂信的に好きなのだと再認識しております。