霏々

音楽や小説など

Symbol, implicit and closed pray vol.1

Symbol, implicit and closed pray

                            

 ホテルの一室で栢森夕菜は髪にドライヤーの風を当てていた。小うるさいモーター音が部屋を満たしている。それでも窓の向こうでは強い雨風が、大地と海に降り注いでいるのがわかった。テレビも点けられていない部屋の中で、夕菜は空の一点をぼんやりと見つめ、髪を乾かしながら、今日あったことを思い返していた。

 

 朝、化粧もせずに毛布を羽織ったまま、海岸沿いの道を歩いた。鈍色の風が白とグレイの波を切り出し、そのままの勢いで夕菜の髪をかき乱した。短い秋がちょうど冬の方へ身体を傾かせたような肌寒い日だった。夕菜は毛布の端をかき寄せ、首元を冷たい海風から守るようにして歩いていた。

 クロマツの尖った葉が降り積もる木陰に一人の少年が立っていた。

 年のころは十歳かそこらというところだろうか。遠くから歩み寄って来る夕菜のことをじっと見つめながら、パーカーのポケットに手を突っ込んで立ち尽くしていた。

「おはよう、夕菜」

「おはよう」夕菜は冷たい風でこわばった頬に力を込めて、小さな笑みを作った。「そんな恰好で寒くない?」

 少年は触り心地のよさそうな厚手のパーカーを着ていたが、膝下が剥き出しの半ズボンを履いていた。スニーカーは砂でくすんだ色に変わっていた。

「寒くない。そんなことよりも、これ」

 少年はパーカーのポケットから握ったこぶしを抜き取り、それを夕菜の方に差し出した。夕菜は右手を毛布の隙間から伸ばして、少年のこぶしの下に広げる。ぽとり、と何かが夕菜の手のひらに落ちてくる。

「約束してた指輪」

 夕菜は指輪を乗せた右手を目の高さまで持ち上げた。確かにその指輪は、昔に交際していた男から貰った指輪だった。同じ種類の、ではなく、まさに同じ指輪。傷の入り方まで一緒だった。

「どこで見つけてきたの?」

 夕菜のその問いに少年は答えなかった。沈黙の代わりに風のうなりが鼓膜を圧迫した。

 

 夕菜は鏡台の上に置かれた指輪の方に視線を向ける。そこにはまだ確かにあの指輪があった。灯台のふもとから海に向かって投げ捨てた指輪。それは不思議な少年の手を経て、私の元へと戻って来た。

 ドライヤーのスイッチを切る。鏡台の上の指輪から少し視線を上げ、鏡に映る自分を見つめた。疲れた顔をしている。生気というものが感じられない。

 このホテルに泊まり始めてもう二週間が経とうとしていた。

 周辺には町もなにもない、小さな海沿いのホテル。部屋もほんの二十室くらいしかない。二週間もいれば目をつぶって歩けるくらい、そのホテルの構造はシンプルだった。廊下には毛の逆立った絨毯が敷かれていた。干乾びて、金たわしみたいな手触りになっているのが、見ただけでわかる。かつては赤ワインのような上等な色味だったのかもしれないが、今ではその色合いはむしろ工場の機械油を思わせた。

 ホテルの支配人らしき老人は、宿泊代と部屋の鍵を交換するとすぐにフロントデスクの中にある椅子に腰をかけ、イヤホンを使ってラジオを聴き始めた。規則性の枠組みからはみ出たような不思議な禿げ方をした男で、重い瞼の奥にある瞳は傍目にほとんど確認できなかった。

 部屋の窓枠は格子状で、洋館の趣があった。鏡台はかなり古く、鏡の上部にはティアラを模ったような装飾があり、その細かい溝には埃が溜まっていた。ベッドシーツは辛うじて清潔そうであったが、こんなうらぶれたホテルがきちんと掃除婦を雇っているのか、そもそもの疑問である。しかし、バスルームもきちんと部屋にあったし、最低限のプライバシーを守りながら暮らしてはいけそうだ。女一人でこんなホテルでしばらく生活をするというのは当初不安もあったけれど、一日そこで夜を超えてしまうと不思議とそのホテルでの生活は夕菜の身体にあっという間に馴染んでしまった。

 夜には穏やかな波の音が終わらない子守唄のように続き、夕菜の意識を絡めとった。

 眠る前に電気を消して、カーテンを開けてみる。部屋には月の光が差し込んで、すべてを墓石の色合いに変えた。宙を舞う塵はまるでおとぎ話に出てくる魔法の粉のように優雅で、夕菜の周りを気怠く遊泳している。海の上に浮かぶ真っ白な月は、好奇心と感傷性の象徴のようで、ずっと見つめているとその中に吸い込まれてしまいそうだった。半分近く欠けているように見えるが、よく晴れているせいか、暗い部分でも丸い縁取りがよく見えた。

 

 少年から指輪を受け取ると、夕菜はいったんホテルへと戻った。

 ホテルは静かで、背中でロビーのドアが閉まると、それまで鼓膜を圧迫し続けていた海風の音はすっかり消えてしまった。軋んだ音を立てるエレベーターに乗り込み、三階の自分の部屋へ。ぎこちない上昇の間、夕菜は手のひらの中の指輪を強く握りしめ、その形と重さをしっかりと確かめることに集中していた。

 庭園の水瓶の中のような深い緑色をした棒状のキーホルダーについた部屋の鍵をポケットから取り出して、鍵を開ける。鍵を開けるとき、カタンと重くも軽くもない乾いた音が三階フロアに響き渡った。誰かがその音を聞いて、手元の新聞紙から顔を上げたような感じがした。夕菜はそのことをあまり考えないように、頭の外に追い払って、部屋の中へと入る。

 羽織っていた毛布をベッドの端に置き、振り返って鏡台の方を向く。少し腰を折り曲げると、鏡には海風でひどく髪を乱した自分の姿が映っていた。

 夕菜は髪に櫛を入れ、服を着替えた。濃いブルージーンズとそれよりも暗い色合いのセーターという恰好が、このホテルに来てからの基本的なスタイルとなっていた。数種類の下着とティーシャツを着回し、そのほかには寝間着のスウェットとコートくらいしかない。コートは烏のように真っ黒で、スニーカーまで黒かったから、そんな恰好で出歩いていると夜道ではほとんど誰の目にもつかなかった。

 唯一、髪だけは明るい茶色に染めていた。ホテルに備え付けのシャンプーとヘアリンスを使っていたから、今となっては酷い状態だったけれど、よく男は夕菜の艶やかな髪を褒めた。

 髪を触られるのは苦手だった。水商売をしているから、そういう事態は避けようもなかったけれど、夕菜にとって髪は大切な壁だった。いや、壁というのは間違った比喩かもしれない。昔、高校生の頃、国語の授業中に読んだとある評論文を思い出す。

 

  西洋の教会などは石造りの壁や重厚な門扉を用いて、物理的に内側の神聖さを保っていた。対して、日本の神社は鳥居を用いて、精神的な境界を作り、内側の神聖さを保ってきた。それは西洋のドア(前後に動かせる)と、日本の襖に代表される引き戸という様式の差異にも表れている。

 

 夕菜にとっては長く伸ばした髪は、その内側の神聖さを守るための鳥居なのだ。だから丁寧に手入れもするし、他人が気安くそれに触れることを許せない。

 しかしながら、職業の特性上、ある程度の穢れは許容しなければならない。不浄だからと言って俗世を拒み、鳥居の内側から排除するのであれば、同時にお賽銭による稼ぎをあきらめざるを得ない。穢れたのであれば、再び浄化するよりほかない。だから、夕菜の髪は店の誰よりも美しかった。

 再び夕菜は鏡の中を覗き込む。櫛を入れたことで多少マシにはなったけれど、それにしても酷い髪だった。数週間前の自分が見たら、きっと耐え難い不快さを感じていただろう。でも、いまの自分にとっては「髪」というのはさして重要なものではなかった。鳥居はただの太い木の棒にしか過ぎない。夕菜は最後に手櫛で気になる箇所をさっと直すと、鏡の前から立ち去った。黒いコートを着込み、暗く湿った部屋を一瞥し、少年から貰った指輪を握りしめて部屋を出た。

 

 大学時代にちょっとした気の迷いから、夕菜は街の歓楽街で働き始めた。自暴自棄になっていたというわけでも、好奇心からというわけでもなく、ふと「働こう」と思い立ち、そのまま水商売の世界に足を踏み入れた。もともと社交性のあるタイプではなかったけれど、あまりにも自分とかけ離れているからこそ、一種の演技として上手く男と会話することができた。不思議と水商売の世界は夕菜をリラックスさせた。男の性的な欲望と、それに付随してもたらされる穢れのようなものを除けば、男にちやほやされたり、意のままに男を操るということは楽しさすらあった。男を喜ばせ、金を稼ぐ。どこまでもシンプルな世界。そのシンプルさの中にこそ、安息の地があるように思えた。

 しかし、一人の男によってその安息の地は壊された。まるで、大切に育んできた花壇の花々たちを踏みにじられたようなものだ。

 悪意は、恨みや虚栄、攻撃性などの総称として存在するものと夕菜は思っていた。しかし、そこで夕菜の花壇を踏みにじった靴の裏は、どこまでも純粋な概念としての悪意だった。生活感の欠落した悪意とでも言えば適当かもしれない。

 悪意は紳士面してやって来た。

 篠田というのがその男の名前だった。

 彼は週に二日、夕菜の出勤日に合わせて店を訪ねてきた。後々聞いたところによれば、夕菜が出勤しない日には一度たりとも店を訪れることはなかったそうだ。もちろん、自分から出勤日を教えてやることも多かったけれど、おそらくは店のボーイにでも金を握らせて夕菜の出勤日を聞き出していたのだろう。

 その篠田という男は、店に来るたびに夕菜に何かしらの手土産を持って来た。宝石の類から、鞄や靴、下着なども夕菜にプレゼントした。それだけでなく、プレゼントされた鞄の中に現金が入れられていることもあった。とにかく篠田には有り余るほどの金があるようだった。また、篠田は自分のことを語ることは少なく、主に夕菜に喋らせた。もともと夕菜は社交的な性格ではなかったため、基本的には男に気持ちよく喋ってもらうというのが、いつものやり方だった。だから、最初は上手く会話を進めることができなかったが、篠田はそんな夕菜に対しても一切嫌な顔を見せず、根気よく最低限の話題を提供し、夕菜に喋らせることを好んだ。そのうちに夕菜も自分から色々と喋ることができるようになり、気がつけば警戒心も抜き取られ、自分の境遇などを話すようにまでなってしまった。

 大した身の上話ではないにせよ、水商売の女にとってプライベートを話すというのはあまり褒められたことではない。うっかりと昼間の仕事場について話してしまった相手の男が、その仕事場に押しかけてきたり、あるいはほとんどストーカーのようになってしまった男から危害を加えられたり、という同僚の話を夕菜は何度も耳にしていた。その点、夕菜はもともと自分のことを話すのが好きではなかったから、自分はきっと大丈夫だと思っていた。しかし、気づいたときにはかなりプライベートな話まで篠田に喋っている自分がいた。大学を休学していること。この街から何駅か先の小さな街のスーパーの裏手にあるアパートに一人で暮らしていること。料理は週に数回しかしないが、食器の類を集めるのが好きなこと(その話をした翌週に篠田は当然のように品の良い食器を夕菜にプレゼントした)。水商売を辞めたときのことを考えて、簿記の資格を取るための勉強をしていること。それらの話を篠田はとても興味深そうに聞いた。

 次第に夕菜の部屋は篠田のプレゼントで埋められていき、また夕菜の日常は篠田によって光を当てられていった。

 同僚は夕菜が篠田に気に入られていることを羨んだ。

「背が高くて顔もカッコイイし、お金持ちで気が利く。自慢話をしないし、話を聞いてくれる。そんな良い客なんて、普通いないんだからね」

 夕菜もそう思った。しかし、もはや篠田は客ではなく、夕菜にとって重要な生活の一部となっていた。店の中だけの付き合いでしかなかったが、その時の夕菜にとっては誰よりも夕菜のことを知っている重要な理解者、それが篠田であった。

 しかし、そんな風に篠田を受け入れ始めた矢先、あることが起こった。

 それもまた店の中での出来事ではあったが、ある日、篠田がイヤリングをプレゼントしてくれた。夕菜の正面にいた同僚が「せっかくだからつけてもらいなよ」とはやし立てるので、夕菜は「じゃあ、つけてください」と髪を後ろに流し、左耳を差し出した。

 髪の内側に他人の手が入るのは苦手だったけれど、「篠田さんならいいか」と思うほどには、そのときの夕菜は篠田を信用していた。

 しかしながら、篠田の手が伸ばされ、耳に触れようとした瞬間、夕菜の身体に何か悪寒のようなものが駆け抜けた。咄嗟に篠田の手を払い除けてしまう。夕菜は慌てて笑顔で取り繕うが、席の空気が一変する。ごめんなさい、ちょっと耳は敏感なので。同僚は篠田の気分を害さないように、夕菜の言い訳に乗っかって、「敏感ってなに~? もしかして感じちゃった?」と夕菜を冷やかした。篠田も謝りながら、「耳が弱いんだね。いつかのときのために覚えておこう」と軽口を叩いた。

 結局のところ夕菜は篠田からイヤリングを手渡しで受け取り、自分の手でそれを耳につけた。仕事終わりまでイヤリングはつけっぱなしにしていたが、更衣室に入ると真っ先にイヤリングを耳から外した。その瞬間までずっと風邪の引き始めみたいな悪寒を感じていたが、イヤリングを外すとそれはすっと消えてくれた。

 不思議なことだったけれど、翌日になってもやはりそのイヤリングを耳につけると気分が悪くなった。いつも以上に髪を丁寧に洗い、リンスを髪に染み込ませ、長い半身浴をした。家を出る前、鏡で髪を整える。鏡の中には艶やかな髪の内側に隠れるように俯きな夕菜が映っていた。

 そのような状態はあまり喜ばしいこととは言えない。その篠田からのプレゼントであるイヤリングをつけて仕事にはいけない。しかし、プレゼントしたイヤリングつけずに篠田と会うことも夕菜には苦しいことだった。何度かイヤリングをつけずに篠田に会ったりもしたが、もちろん、篠田はそのことについて機嫌を損ねるような人物ではない。しかし、夕菜の方がそのことを気にした。篠田の笑顔の裏にある怒りを夕菜は感じていた。

 そして、夕菜は水商売の世界から足を洗うことにする。当然、そのことを篠田に告げることもせずに。

 ドレスを着ない日々は夕菜を落ち着かなくさせたが、篠田ともう会わなくて良いというだけで随分と気は楽になった。イヤリングもさっさと捨ててしまった。部屋の大掃除をして、箪笥の上の埃をすべて拭き取ったような爽快感さえあった。

 しかし、イヤリングという禍々しさの渦の中心のようなものが消えてしまうと、別のものに目がいった。別のもの、それは夕菜にとっての日常であった。

 篠田に語った自らの生活や、現在だけに留まらない過去や将来、すべてが次第に穢れを帯びていくようだった。何をしていても、篠田の目が夕菜を捉えているような感覚が襲う。朝起きて、観葉植物に水をやる日課。家の裏にあるスーパーで買うボディソープ。綺麗に重ねられた色とりどりの食器……髪を掻き分け、篠田の手が耳に触れる。不浄が身を染める。

 

 相変わらず空は濁った色をしていた。深い森の地面を覆いつくす蔓のように、雲の濃淡が風の通り道を複雑に描写している。

 ホテルの裏手に広がるクロマツの防砂林。そこに一筋の道がある。道と言っても、ほとんどけもの道みたいなもので、車も通れないくらいの細い砂の天の川が地面に描かれているようなものだった。刻々と靴の中に入り込んでくる砂の粒形を感じながら、しばらく歩いているとそのうちに一本の道路に辿り着く。その道路はクロマツの人工的な防砂林と、荒々しい手つかずの雑木林の境界線を為しており、さらにその道に沿ってわずかばかり歩くとバス停があった。一時間に一本程度の田舎のバス停だ。潮風に侵された錆びたベンチに夕菜は座って次のバスを待った。

 バスを待ちながらずっと昔のことを思い出す。ずっと昔と言っても、ほんの四、五年前のことだ。

 当時の夕菜は高校生で、一人の男の子と交際をしていた。特に取り柄のない男の子で、部活にも入っておらず、勉学の成績もどちらかと言えば良かったけれど、周囲から一目置かれるということもなく控え目と言えた。ただ、ノートに書かれた字はとても美しかった。癖のある字で、ノートの罫線もほとんど無視されている。よく見ると細部が潰れてしまって、記号性を失いかけている。しかしながら、全体のバランスが整っており、不思議と判別に困ることもない。狩りの時代に、身体の一部が木の葉で隠れていても、それが獲物と判別できるように脳は映像の補完能力を獲得した。そんな補完能力を前提とした文字を書く男の子だった。

 黒松の葉はほとんど黒色をしている。脳が勝手にそれを緑色だと補完している。

 夕菜にとって彼は初めての恋人だったが、夕菜が抱いていたのが本当に恋心であったのか、今となってはよくわからない。日曜午後の微睡から覚めた後の寂しささえ、切ない恋心であるかのように思ってしまう年頃だった。あらゆる感情の暗喩として、恋心は心臓を中心点に周回していた。

 世界はどこまでも退屈だったけれど、彼といるだけですべてが華やいだ。

 夕菜たちは灯台を見に行くことにした。どうして灯台なんか見に行こうと思ったのだろう。おそらくだけれど、きっと二人だけの場所が欲しかったのかもしれない。月の上から地球を見下ろせたら、きっとそっちの方が良かった。けれど、月に行く術がなかったから、灯台を見に行った。そういうことなんだろう。

 電車で海の近くの町まで行く。小さな町でかつての商店街もほとんど価値と意味、それから歴史さえ失っていた。バスが来るまでの時間、二人はそんな商店街を歩いて抜けて、空き地で花を摘んだ。夕菜は白詰草で冠を作ろうとしたが、「そろそろバスの時間だよ」と彼に言われたので、諦めて作りかけの冠を空き地の看板の角にかけて立ち去る。風が冠を落とした。

 バスには二人と何人かの老人が乗り込んでいた。バスはどんどん人気のない場所へと進んでいく。三十分ほど行ったところで夕菜たちはバスを降りたが、老人たちはまだバスから降りる気配を見せなかった。これ以上先にいったい何があるのだろう、と不思議になるほど寂れた景色だったけれど、きっとここは町と町の中間地点なのかもしれない。黒松の防砂林と雑木林の境目に降りたった二人を残して、バスは砂煙の向うへと消えていく。

 白い砂が防砂林の中に道を描いていた。道はくねくねとうねり、歩く者を非現実へと誘うようだった。それでも歩みを進めていくうちに次第に潮の匂いが強まり、波の音が高まってくる。靴の中が砂でいっぱいになる辺りで、最後の曲がり角をまがると、防砂林の切れ間から小さな青い海の切れ端が覗いた。

「海だ」

 林を抜けると、すぐ右手にうらぶれたホテルがあった。まるで人の気配のないホテル。夕菜はそれを横目に、男の子に手を引かれて車道を渡る。防波堤沿いに進んでいき、防波堤の切れ目から風や水のように突堤へと流れていく。突堤の先には古い灯台があった。