霏々

音楽や小説など

7days wonder

 7days wonder

 

 一日目。

 私が目を覚ましたとき、あの人は既に起きて半分だけ開けたカーテンから朝の淀んだ水色の街を眺めていた。鳥の鳴き声もない、雨の音もない。空が白んでくる、という表現を聞いたことがあるが、これはどう見ても淀んだ水色だった。

 あの人が何を考えているのか。それを考えるのはとても難しい。たとえば、電柱が何を思い、そこに立ち続けているのかを考えるのとほとんど同じだった。少なくとも私にとっては。けれども、理解できないからと言って、精神的な距離があるとは思わない。私はあの人の思考について想像することすらかなわないけれども、それでも私にとってはここが唯一の場所であり、いかなるところにも増して居心地の良い場所だった。私には足がある。だから行こうと思えばどこにでも行ける。でも、ほかに行きたい場所なんてなかった。見たい景色だって、この半開きのカーテンから見える透明な街並みだけで十分だった。いや、強いて言うならば、あの人が見ているように世界を見てみたいとも思うけれど、それは出過ぎた真似というもの。私はあの人が見るようにここから街を眺め、私には理解できないそれを感じられるだけで幸せなんだと思う。

 あの人は一通り街を眺めると、台所へ向かい、コップ一杯分の水を飲んだ。鉄の味がする水。私はそれがあまり好きにはなれなかったけれど、あの人もたいしてそれが好きなようにも見えなかった。コップ一杯の水を飲み干した後のあの人は、幸福から最も遠いところにいるように見えた。けれども、それと同時に不幸からも最も遠いところにいるようにも見えた。あの人はこの静かな朝のように、どこまでも透明であった。

 この日、私が見たあの人の姿はこれで全部だった。

 

 

 二日目。

 あの人は何かを考えていた。あの人は冷たそうな床に一枚のタオルを敷いて、その上に座っていた。左手を床について、折り曲げて立てた右脚の膝のところに右腕を回していた。床についた左手からは五本の指が伸びていて、無意味な星座を描いているようだった。しかし私が思うに、本来の星座というやつにも特に意味はない。仮に星座に意味というものがあるのだとすれば、この世の全てのものに意味が出てくるだろう。こういう考え方を私がするようになったのはあの人の影響かもしれない、と思うと少しだけ嬉しい気持ちになれた。

 そんなあの人の左手の星座から、何光年か離れた場所に一冊の本が置かれている。あの人がさっきまで読んでいたページがそのまま開かれ、そしてその開いたページが下になったまま床の上に伏せられていた。あの人がいま考えている何かは、その本のその開いたページのところに関する何かなのだと推測する。私でもそれくらいは想像ができる。けれども、結局のところあの人が何を考えているのかは全くわからないままだった。部屋の隅に置かれた埃まみれのゴムの木が何を考えているのかわからないように、私にはあの人の思考がわからなかった。

 この日、あの人は本を読んでは床に伏せ、ということを八回繰り返した。短い溜息をついた後、九回目がやって来ると思ったけれど、本は閉じられ、そしてあの人から少し離れた床の上に放り投げられた。私は、あの人が本を閉じる前にページの間にきちんと紐を挟み込んだのを見逃さなかった。

 

 

 三日目。

 雨が降っている。風が強いのか、日中は窓に雨だれの波紋が見えた。けれども、部屋の中にいると外のことはほとんどわからない。街は黒ずんで見えた。

 あの人は濡れた靴を玄関のドアに立てかけて、濡れた傘はドアノブに吊るした。私は飽きることもなく、その傘の先から滴り落ちる水滴を数える。数えながらあの人がシャワーを浴びる音を聞く。ときどきシャワーの音なのか、雨の音なのかがよくわからなくなる。気がつくと、私は水滴の数を忘れてしまっていた。

 雨が降っている日は好きだ。あの人はあまり家を出たがらない。食べ物が必要になった時だけ、不機嫌そうな顔になって、冷蔵庫くらい重そうな腰をゆっくりと上げる。雨のなか外に出るのが嫌なのか、それとも何かを食べなくてはいけないことが嫌なのか、私にはわからない。これがシャワーの音なのか雨の音なのかわからないように。

 夜は風がやんだみたいだった。閉められたカーテンの向こうで雨だれが波紋を描いているかがわからないからだ。

 

 

四日目。

 昨日の雨が嘘みたいに良く晴れた一日だった。黒い電線が虹色に光って、昨日と同じ風がこぶしのような雲を運んでいる。そうか、昨夜の風はやんでいなかったんだ。街並みは白く、アスファルトですら埃でも被ったように白くぼやけて見えた。部屋の隅のゴムの木もなんだか気分がよさそうに見えた。

 あの人も今日は窓を開け放ち、少し悩んだ末に網戸はそのままにしておいた。それでも風は部屋に入ってくる。私とあの人だけの部屋の中に。ゴムの木は仲間に入れない。なぜかと言うと、ゴムの木はこの部屋そのものだからだ。私たちは住む側で、ゴムの木たちは住まれる側なのだ。では、風はどうだろう。この花の匂いを含んだ風はどうだろうか。カーテンが翻る。どこにも花なんて見えもしないのに、どうして花の匂いがするんだろうか。私はそんなことを考えている。けれども、あの人は私の思考なんて全くわからないみたいだった。あの人にとっては花の匂いがするなんて当たり前のことで、むしろいつもよりも頭が軽くなったように甘い溜息をついたりしていた。

 あの人はいま、幸福の中にいるように見えた。けれども、私は晴れた日が嫌いだ。あの人は散歩やら何やらのために外に出たがる。私はこの部屋の中で満たされているのに、そしてあの人もいまはこの部屋の中で満たされているはずなのに、それでも外に出たがる。その理由が私には理解できなかった。私たちは住む側なのに。そんなふうに私は晴れた日を嫌うし、あの人のことを理解もできないけれども、だからと言って私にできることはこうしてあの人が帰って来るのを待つことだけだった。窓は空いたまま。でも、網戸が閉まっている。風は入って来るけれども、私は出られない。ゴムの木も出られない。私は住む側なのに。

 日が暮れる少し前にあの人は帰って来た。少し疲れたような顔をしていた。シャワーの音。今日は雨の音とは間違わない。夜になってもカーテンと窓は開けられていた。網戸は閉まっている。花の匂いが草の匂いに変わる。夜になったからだろう。

 いつの間にか寝てしまっていたけれど、ふと目が覚めたとき、私はあの人が泣いていることに気がつく。いつもの通り、理由はわからない。でも、わからなくていい。わからないからといってやっぱり精神的な距離があるとは思えないし、泣いていてもあの人のことが私は好きだった。私も眠いときに欠伸をすると涙を流すし、夜にあの人が泣くのも当たり前のことだと私は考える。あの人が風の中に花の匂いを感じるのを当たり前だと思うように。あの人が花の存在を知らないように、私もあの人が泣く理由を知らない。

 

 

 五日目。

 いつの間にか窓は閉められていて、一日中カーテンすら開くことはなかった。部屋の中はお酒の匂いでいっぱいだった。花の匂いももう消えてしまっている。しだいに私の頭も少しずつくらくらしてきた。薄暗い部屋の中で、不気味な音が聞こえる。何かを引きずっているような音、何かが弾けるような音。時折、床が震えたり、軋んだ音がする。あの人がトイレに行ったり、風呂場に行ったりしたときだけ、オレンジ色の光がゴムの木を照らす。緑の葉もいまは黒。埃もよく見えない。

 くらくらとする頭。私は眠りと覚醒の狭間で、昨日のあの人を思い出す。今日のあの人は姿が見えない。部屋の中にいるのはわかっても、私にはよく見えない。だから、思い出すしかないのだ。

 私は朝方のあの人が特に好きだった。昨日の昼間、あの人は幸福そうに見えた。満たされているように見えた。けれども、いつだったかの朝、あの人は幸福でも不幸でもなかった。そう、窓なんて開けるからだ。私は思う、街が見えさえすればいい、と。色はなんでもござれ、というわけだ。けれども、夜の黒がいまはある。緑も消えた。シャワーの音と雨の音。雨だれは、いま床に描かれる。床に伏せられた本のところまで、雨の手は伸びていく。白い紙が淀んだ水色に溶けて、そして失われていく。

気がつけばもう夜。床の温度でわかる。あの人はもう眠ってしまっていた。私は眼が冴えて寝付けなかったので、あの人をずっと眺めていることにした。暗い部屋の中で、晴れた日に空を流れて行ったこぶしのような雲が、黒染めされてそこにうずくまっていた。ずっとあの人を見ているうちに、私はあの人が本当に黒い雲に変わったような気がしてきた。それでもずっと眺めていた。雨の音もシャワーの音も聞こえない。だからずっと眺めていた。

 

 

 六日目。

 私がうとうとしかけたくらいの頃に、あの人は目を覚ました。街はまだ灰色。あの人がシャワーを浴びて部屋に戻って来ると、街並みはいつかのように淀んだ水色をしていた。あの人は冷蔵庫からまたお酒を取り出して、それを飲んだ。鉄の味がするコップ一杯の水を飲んだときよりも、ずっと苦しそうな表情を浮かべていた。あの人が幸福なのか不幸なのか、私にはやっぱりわからない。

 あの人はカーテンの隙間から透明の街を眺める。私もいつものようにあの人が眺めるものを見つめる。そこにあるものが何であるのか、それがわからなくてもいい。私はそういうふうに出来ている。だから、とりとめのない色と風景はどこまでも自然に私の中に積もり重なっていく。私や街、そしてこの部屋がとりとめのない、いわば意味を失ったものたちで作り上げられていることを私は知っている。あの人がそのことを知っているのか、そこまでは知らない。けれども、あの人の幸福でも不幸でもなさそうな横顔を見つめていると、私は私の中のありとあらゆるものが、あの人の中へと溶けだしていくような感覚になった。

 お酒をもう一口。それから溜息。欠伸をしたのを見逃してしまっただろうか。冷たそうな涙が無機質に透き通ったあの人の頬を流れ落ちていく。私はしばらくそれを見つめた。

 あの人は思い出したように、ゴムの木の葉に積もった埃を手のひらで拭きとった。手についた埃を床に払い落とす。

 あの人は思い出したように、床の上に投げられた本を手に取った。それを慎重に机の上に置いた。

 あの人は思い出したように、カーテンを閉める。部屋が暗くなる。

 あの人は思い出したように、暗闇の中で私を見つめた。

 あの人は私が見つめ返す理由を知らない。

 私も、私があの人を見つめる理由を知らない。

 あの人は鍵もかけず、部屋を出て行った。

 あの人はいない。

 あの人はいない。

 あの人はいない。

 

 

 七日目。

 あの人はいない。

 

2017.6.22