霏々

音楽や小説など

Symbol, implicit and closed pray vol.3

 結局のところ、夕菜は少年とともにバスに乗って、あの防砂林と雑木林の間にあるバス停へと戻って来た。夕陽はもう雲の向うへと隠れてしまい、そして雲の裏に隠れたまま水平線の下へと沈んでしまっていた。

「今晩、雨が降る。風も強い。つまり、嵐がやって来る。だから、どんなに夜が恐ろしくても、灯台に行ってはいけない。心どころの話じゃない。物理的に、身体的に死んでしまうよ」

 夕菜は頷く。「指輪があるから」と少年に答える。

 少年はバスが走り去った方向へと歩いて消えていった。すっかり暗くなって、今や空を覆う雲がほんのりと光を灯している程度で、防砂林の道はほとんど闇の中に呑まれてしまっていた。少年が無事に家に帰れるかも気掛かりだったが、あの少年はしっかりしたところがあるし、きっと大丈夫だろう。それよりも、今は自分がこの暗闇のけもの道を無事に帰ることに集中すべきだ。恐怖に打ち勝たなければならない。少しでも明るいうちに早く帰らなければならない。

 林に足を踏み入れてすぐに恐怖が襲って来た。暗い、というのがこんなにも人の恐怖心を煽るものだとは知らなかった。しかし、それでも歩みのスピードを緩めるわけにはいかない。今はまだ辛うじて道らしきものが見えているが、もう五分もすればそれすら判別ができなくなってしまうかもしれない。そうなれば、読んで字のごとく「手探り」で帰りの道を探さなければならない。そんなことを考えるだけで、夕菜の背中は汗でぐっしょりと濡れ、足を運ぶペースが速まった。

 暗闇が色濃くなるにつれ、意識が収縮していくのがわかった。寒さに耐えかねて身を屈めるのと同じような感じだ。人は暗闇に侵されると意識が収縮していくのだ。

 意識の収縮は、電車の中でうたた寝するときの感じと少し近い。当然、暗闇の中では恐怖によって、強い緊張感がもたらされ、今で言えば「歩く」という行為に収縮した意識の大部分が持っていかれてしまっている。しかし、残されたわずかな領域が、限定的に活性化され、次々の不思議な夢想を生み出していく。うたた寝しているときに見る、記憶に残らない不思議な夢と似たものが頭に映し出されるのだ。

 制服を着た自分。指輪をくれた彼。灯台。逆さまの灯台。パーカーに手を突っ込んだ少年。そのポケットの中で私が指輪を握りしめている。洋館風の格子窓。神社の格子窓。防火貯水槽のマンホールが開いて、その中に足を滑らせて落ちてしまう。ぬるぬるとした水。干乾びた手水舎。ドレスを着た自分。ゴミ袋の隅で私を睨む篠田のイヤリング。私を睨むボディソープ。鶏の鳴き声。川のせせらぎ。青い薔薇と深緑のキーホルダー、赤銅色の鳥居。

 指輪の輪っかの中ではオレンジ色に世界が輝いていた。

 オレンジ色の夕焼け……夕焼け? 今がまさに日暮れ時なのでは? あの町までバスでゆうに一時間はかかったはずだが……?

 防砂林を抜け、海とホテルが見える。

 うらぶれてはいるが、ホテルの明かりが夕菜を心底安心させた。明るい、というのがこんなにも人に安堵感与えるものだとは知らなかった。

 ロビーでラジオを聴く無愛想な支配人も、今は殊のほか優しそうに見えた。

 

 たっぷりと不快な汗をかいていたので、部屋に戻るなり、夕菜はシャワーを浴びることにした。頭から温かいお湯をかぶっている間は、灯台から海を眺めている時のように、どこまでも無心になれた。

 

 ホテルの一室で栢森夕菜は髪にドライヤーの風を当てていた。小うるさいモーター音が部屋を満たしている。それでも窓の向こうでは強い雨風が、大地と海に降り注いでいるのがわかった。テレビも点けられていない部屋の中で、夕菜は空の一点をぼんやりと見つめ、髪を乾かしながら、今日あったことを思い返していた。

 

「今晩、雨が降る。風も強い。つまり、嵐がやって来る。だから、どんなに夜が恐ろしくても、灯台に行ってはいけない。心どころの話じゃない。物理的に、身体的に死んでしまうよ」

 それが少年の忠告だった。たしかに、窓の外は嵐になっていた。今思えば、防砂林を抜けたときには既にひどい風が吹いていた。明かりを見つけた安堵感で、そんなこと気にも留めていなかったが、少年の言った通り嵐がやって来たようだった。

 ドライヤーを左手に持ち替えたときだった。バチっという音ともにすべてが暗闇に包まれる。ブレーカーでも落ちてしまっただろうか。暖房とレンジとドライヤーを併用して、よく家でもやってしまったものだ。やれやれと夕菜は思ったけれど、ふと自分が暗闇に囲まれていることに思い至る。防砂林の中で感じた恐怖がまた戻って来る。暗い、というのがこんなにも人の恐怖心を煽るものだとは知らなかった。そう、暗闇は恐怖だ。

 夕菜は咄嗟に部屋を飛び出した。廊下なら明るいかもしれない。ブレーカーが落ちたのなら、廊下の明かりを部屋に取り込みながら、またブレーカーを戻せばいい。そう思って、部屋を飛び出したのだ。

 しかし、夕菜の淡い期待に反して、廊下も全くの暗闇に飲み込まれていた。

 そして、暗闇の中でどこかの部屋のドアが開く音がする。そうだ。このホテルに初めて来たとき、部屋の鍵を開ける音が誰かに聞かれているような気がした。どこまでも寂れたホテルであったけれど、宿泊客が夕菜一人だけのはずがない。当然、誰かがこのホテルにはいて、そしてその誰かは夕菜のことを見張っている……誰かが……鍵を開ける音に耳を澄ませていた。そして今、暗闇の廊下の中で、その誰かは夕菜のことをじっと見つめている。私を睨むボディソープ。

 即座に夕菜は部屋のドアを閉めた。そして、鍵をかけ、ドアチェーンもすかさずかける。

 大丈夫だ。焦るな。嵐で停電しただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 暗い、というのがこんなにも人の恐怖心を煽るものだとは知らなかった。

 うるさい。しゃべるな。

 そうだ、指輪。

 夕菜は手探りで指輪を探す。鏡台の上。ユニットバスの洗面台の脇。カーペットの上。ベッドの枕元……どこにもない。そうか、コートのポケットの中だ。烏のように真っ黒なコートのポケット。ベッドの端に折り畳んで置いてある。

 夕菜はコートを広げ、両側のポケットをそれぞれ調べる……ない。もう一度調べるがやはり入っていない。そんなはずはない。部屋に戻り、すぐにコートを脱いで、シャワーを浴びた。セーターには指輪を入れておくようなポケットはない。あぁ、ジーンズのポケット……ここにもない。なんで!?

 いや、落ち着け。ともかく、こんなに真っ暗では探そうにも探せない。恐怖心で手も震えている。少しでも部屋を明るくしなければ……まずはカーテンを開こう。

 カーテンを開くと、洋館風の格子窓がそこにはあった。雨だれですべての景色が滲んでしまっている。が、灯台の方角から強い光が部屋に差し込んできた。雨と風の音がひどいが、灯台の光のおかげで、部屋の中は随分と明るくなった。振り返ると、コートとジーンズが無惨な姿で床に落ちている。夕菜はもう一度、それを拾い上げるとポケットの中を探った……しかし、やはりポケットに指輪は入っていない。

 夕菜はもう一度、窓際に引き下がり、部屋の中を見渡した。自分が指輪をどこに置くか。

 鏡台の上には無い。枕元にもない。そもそも物の少ない部屋だ。そこら辺に転がっているのであればすぐに気がつくはずだ。あとは……洗面台か。しかし、洗面台には灯台の光は差し込まない。またあの暗い空間に行くのは気が引けたが、しかし、指輪の無いままこの暗い夜を過ごすわけにはいかない。誰かが私を見ているのだ。

 気持ちを決めて、ユニットバスへと向かおうと一歩を踏み出した時だった。

 灯台の光を背から浴びて、部屋には夕菜自身の影が投影されていが、その影が不自然な動きをした。風が吹き込んでいるわけでもない。もちろん自分で触っているわけでもない。それにもかかわらず、髪がふわりと浮かんでいく。その一連の動きは夕菜の網膜にまるでスローモーションのように映った。いや、実際にひどくゆっくりとした動きだったのかもしれない。ともかく、夕菜の柔らかい髪がふわりと浮かび上がり、そして、小ぶりな耳の影が部屋に映し出された。

 そんなはずはない。これは幻影だ。

 稲光が部屋を一瞬、真っ白に染める。目が眩み、わずかな間、何も見えなくなる。次の瞬間だった。影に映る夕菜の耳から、何かが垂れている。何か、イヤリングのようなものが垂れている。

 そんなはずはない。これは幻影だ。

 夕菜は自らの手を持ち上げ、自分の耳に触れる。指を少し降ろし、耳たぶの方へ。

そして、それに触れる。それは「イヤリングのようなもの」ではなく、「イヤリングそのもの」だった。篠田からプレゼントされた、あのイヤリングだった。

 誰かが私を見ている。

 不浄が私を見ている。

 篠田の笑顔の裏にある怒りを夕菜は感じていた。

 

「今晩、雨が降る。風も強い。つまり、嵐がやって来る。だから、どんなに夜が恐ろしくても、灯台に行ってはいけない。心どころの話じゃない。物理的に、身体的に死んでしまうよ」

 

 夕菜はイヤリングを耳から引きちぎるようにして取ると、それを床に投げ捨て、そして部屋を飛び出した。誰かが夕菜を捕まえる前に、階段を駆け下りていく。廊下も階段も真っ暗だったが、二週間もいれば目をつぶって歩けるくらい、そのホテルの構造はシンプルだった。

 灯台は煌々と光を灯している。おそらくは落雷か倒木で電線がやられて、このホテルだけが停電になってしまったのだろう。しかし、停電とかそういうのはどうでもいい。あのホテルには、不浄が存在している。それだけで、あのホテルから逃げ出す理由にはなる。

 雨と風に打たれて、夕菜は息をするのもやっとだった。

 しかし、足を止めるわけにはいかない。防波堤の切れ目から灯台を目指して、突堤を歩き進める。ひどい嵐で、今や雨だけでなく、波が夕菜の全身を濡らした。とても冷たい、肉を切り裂くような水だった。

 やっとの思いで灯台のふもとに辿り着く。案の定、と言うべきか、そこにはあの少年がいた。

「こんばんは、夕菜」

「こんばんは」

灯台には来ちゃいけないと言ったろう」

「でも、あのホテルには穢れが潜んでる。あんなところに私はいられない」

 少年は呆れたように首を横に振った。「こんなとこに来て、死んでも良いの?」

「穢れてしまうくらいなら、死んだ方がマシ」

「命を粗末に扱ってはいけない」

「じゃあ、どうしろって言うのよ?」

 少年は黙ってポケットに手を突っ込んだまま、夕菜を見つめている。

 夕菜は恐怖と寒さで、子供のように涙を流していた。

「これを探しに来たんだろう?」

 おもむろに少年はポケットから手を出すと、手のひらを開いて、そこにあの指輪が乗っているのを夕菜に見せた。

「どうして君がそれを持っているの?」

「どうして、ってバスの中で夕菜から預かったじゃないか」

「いいえ。嘘よ。私、思い出した。停電になる前。私は、確かにドライヤーで髪を乾かしながら、鏡台の上に置かれた指輪を見たわ」

「本当かな? 僕の記憶では……」

「君の記憶なんてどうでもいい。重要なのは私の記憶であって、君の記憶なんかじゃない」

「でも、夕菜は自分の記憶に苦しんでいる。つまり、夕菜を苦しめる不浄なものというのは、夕菜自身の記憶なんだ。それこそが内なる悪の正体さ。悪を内から排除するには、神聖なる信仰が必要だと、僕は言ったはずだ」

「君の言う信仰ってのは、要するに、祈りを捧げるということ?」

「その通り。祈りを捧げればいいんだ。神に祈れ。祈りの代償として、人は自らの善悪を神に即する形で規定できるようになる。それこそが信仰の本質であり、神の御業というわけだ」

「君は私を救いたいの、それとも貶めたいの?」

「救うとか、貶めるという次元の話じゃないんだ。これは信仰を勝ち取るかどうかの話だ。もちろん、神が夕菜からの信仰を勝ち取るかどうかという意味じゃない。夕菜が自分の手で、自分の信仰を勝ち取るかどうかということが問題なんだ」

「信仰なんていらない」

「そうか」

 少年は呆れたように溜息をつくと、さっと簡単な動作で指輪を荒れ狂う海の中に放り投げた。あっという間に、指輪は消えてなくなってしまう。

「夕菜は篠田の中に不浄を見出した。当然、その不浄を排除すべく夕菜は行動を起こす。その結果、こんな辺境のホテルまでやって来たわけだけど、一体どうだろう。不浄は排除できたんだろうか。ある時、夕菜は気付いたね。どんなに現実的に篠田の残像を排除しようとしても、根本的な原因は夕菜自身の中にある。だからこそ、夕菜は自分の中にある不浄を清める……すなわち、不浄を抹殺するための『何か』を手に入れようとしたんじゃなかったっけな。それが高校の頃の交際相手から貰ったあの指輪だろう? 美しい思い出だ。純粋で、無垢で、どこまでも清らかなものだ。本来はこの灯台と、海が不浄を清める『何か』であったと思うのだけれど、さすがに灯台や海を持ち歩くわけにはいかないからね。ちょうどその二つに関連したアイテムとして『指輪』があったから、僕はそれをわざわざ用意したんだ。夕菜の祈りを聞き届けたわけだ。たまたま夕菜がとある少年に対して、ささやかな祈りを捧げていたから、その少年の姿形を借りてね」

 その通りだ。だからこそ、私はその指輪を何としても手に入れなければならない。夕菜はそう思いながら、指輪を喰らった荒れる海をちらりと眺めた。

「なのに、どうして拒むのだろう。あれだけ御膳立てをしたというのに。夕菜はあの時、僕と一緒にトンネルの向こう側に行くべきだった。しかし、結局、怖気づいてしまった」

「怖気づいたわけじゃない」

「なら、どうして来なかった?」

「未来がないと思ったのよ」

「未来がない?」

「そう。自分が見たい世界しか見ないなんて、そんな風にして生きていったって、それじゃあ全然生きている意味がないじゃない」

「生きている意味ね。そんなものは端からあるはずがない。人間にできる唯一のことは、死ぬまでいかに自分で自分を慰めてやるかということだけだ。他人との関わりが不浄しかもたらさないということは夕菜が一番よく分かっているはずだ。鳥居を立て、その内側に侵入してくる不浄を、神聖なる力で排除する。そうしたその先に、自分だけが手に入れられる真の信仰が現れてくるんだよ。真の信仰を手に入れることでしか、人は安らかで充足した世界で過ごすことはできない」

「確かに君の言うことは正しい。全く間違ってはいない。でも、私からすれば君の言っていることは詭弁に過ぎない。そもそも私にとって『不浄』とは何だったのか。私は篠田の中に穢れを見て、そしてそれを排除しようとした。つまり、篠田こそが『不浄』のはずだった。けれど、現実的に『篠田』を私の生活から排除した後でも、『不浄』という思いを拭い去ることはできなかった。その『不浄』は私の中に根本的に存在しているものだったから。君はその『不浄』を取り除くために、真の信仰を得て、自分だけのユートピアを作るようなことを言っていたけど、でも、『篠田』という要素を除外した上での『不浄』っていったい何のことを言っているの?」

「それは……」

「えぇ、もちろんわかってる。それは変化を恐れる心よ。君のおかげで逆説的にわかった。完全なる信仰とは、つまり、自分の中で輪を閉じて完結するということ。それを求めるということは、逆説的に変化を恐れているということになるはずよね。でも、変化を否定すれば、それは死を受け入れるということと同義になるわ。色んな人がこれまで、そう言って来た。死んだ人は死に続ける。つまり、死という状態から変化することはない。したがって、死の対義語である生とはすなわち、変化するということ。だからこそ、生きているうちは変化を恐れちゃいけないのよ。変化を恐れてしまえば、未来はないわ。不浄を恐れて髪を伸ばしていたなんて私は言っていたけど、そんなのは詭弁で変わっていく自分を髪で隠したかっただけなのよ。変わっていくのが嫌だから、髪の内側に閉じこもっていただけなのよ」

 少年は無表情のまま夕菜を見上げ続けた。相も変わらず、雨と風、そして冷たい波が二人を襲っていたけれど、どうしてかもうそんなことは気にならなかった。互いの声もしっかり、はっきり聞こえている。

「夕菜は篠田が怖くないのか? 今もまだ君を監視し続けている。ほら、見てみろ」

 そう言って少年は渦巻く水面を指さす。灯台を支えるコンクリートで砕ける波間に篠田の目が見えた。それだけではない。見上げれば、篠田が灯篭の踊り場からこちらを見下ろしている。夕菜の背筋を恐怖が這いずり回る。

 しかし、今はもう夕菜はかなり冷静になっていた。篠田はいったい何をそんなに監視しているのだろう。夕菜は考える。そうして、ようやく答えを見出す。

「篠田は私自身よ。穢れまいという私が私を監視している。篠田は穢れそのものの暗示だったけれど、同時に、篠田はその穢れを憎む私の暗示でもあった。要するに、私はとにかく変化することが怖かったのよ。世界と向き合うのが怖かった。世界と向き合うためには、もしかしたら私は変わらなければならない。でも、私はこれまで本当にうまく生きてきたのよ。できることなら、そんな私を変えたくなかった。だって、変わった先が、またうまく生きていける私だという保証はどこにもないでしょう?」

「水商売を始めて、さらに意味もなく大学を休学しておいて、うまく生きてきたというのもおかしいけれどね」

「まぁ、そうね。でも、もうそういうのともきちんと決別しないといけない」

「指輪はどうする?」

「もう、いらないわ。確かに、彼との思い出は素敵なものだったし、これからも私の中で変わらずに輝き続けると思う。でも、いずれその光もくすんでいくだろうし、彼との思い出を私の信仰として受け入れて、自分の輪を閉じるわけにもいかない」

「じゃあ、これで本当に僕もお役御免、ってところか」

「ありがとう。君がいなければ、私はずっとあのホテルで世界と自分におびえ続けているところだった」

「結果から見れば、僕の想いは遂げられなかったけれどね」

「だとしても、君という存在は、私にとって重要であることに変わりはない」

光速度不変の原理が、古典力学相対性理論へと昇華させるために重要だったみたいなものか」

「なにそれ」

「テーゼとアンチテーゼがなければ、アウフヘーベンは起こしえないということだよ」

「それもよくわからない」

 夕菜の言葉に少年は笑うと、稲光の衝撃とともに、一瞬にして姿を消してしまった。夕菜は少しの間そこに立ち尽くして荒れ狂う海を眺めていたが、不意に尋常じゃない寒さが身を貫き、走ってその場を後にした。

 

 ホテルに戻ると、支配人がカンテラを持ったまま、ロビーに集まった数人の客の対応をしていた。既に電灯の光は元に戻っていたが、珍しく客の対応に追われてカンテラを消すことも忘れてしまっているようだった。そもそもカンテラなんて代物があることに驚いたが、まぁ、一応は客の身を預かるホテルという場所なのだから災害時に使用する備品くらいはちゃんと準備していたのだろう。

 夕菜は何食わぬ顔をしてロビーを通過しようと試みたが、案の定、支配人に見つかって声をかけられてしまった。

「どうしたんですか、そんなにびしょ濡れになって」

「小学生くらいの子供が灯台にいるように見えたもので。まぁ、結局、私の見間違いだったんですが」

「もしかして、あんな暴風雨の中、灯台まで行ったんですか?」

「えぇ、まぁ」

「ダメじゃないですか。あぁ、でも、とりあえず無事でよかったです。わたくしにも貴方くらいの孫がいるのでそんな話を聞かされると、もう、心臓が……」

「ごめんなさい」

「あ、ところで、その小学生くらいの子供というのは、本当に見間違いだったんですか?」

「えぇ、本当に見間違いでした」

「でも、もしかしたら、既に波にさらわれてしまった後という可能性は……」

「大丈夫です。私が見たと思ったのは、あの子だったので」

 そう言って、夕菜はロビーの隅で、携帯ゲームをしている少年を指さした。さっきまで私と灯台のふもとで話していた少年を同じ姿形をしている。そうか、あの八日目の朝に灯台の辺りにいたのは、ここに泊まっていた家族の子だったのか。

「あぁ、それは何よりです。貴方も珍しく長く宿泊されていますが、あの家族も結構長く宿泊されていますね。もう一週間近くになりますか。何でもお父様が海洋の研究をされている方らしくて、せっかくだからというので家族で泊っているそうです。こんな田舎のホテルに泊まるなんてもの好きな人もいたもんですが、できるだけ海に近い静かなホテルを探していたそうで。って、あぁ、長話になっちゃいましたね。風邪を引いても困りますから、早く温かいお風呂にでも入ってごゆっくりなさってください。もうお湯も出るはずですから」

 夕菜は支配人にお礼を言って、それからロビーをびしょびしょにしてしまったことの詫びを入れた。

「いえいえ。あ、ちなみにお客さまはいつ頃まで宿泊なされますか? 支配人のわたくしと致しましては、長ければ長いほどありがたいんですが。一応、お聞きしておこうかと思いまして」

 夕菜は少し考えてみたが、もう特に考えることがないことにすぐに思い至る。

「申し訳ないんですけど、今晩が最後の宿泊ということでよろしいでしょうか?」

 

 翌朝、夕菜は荷物をまとめ、ホテルをチェックアウトした。寝巻用のスウェットは昨晩のあれこれでびしょ濡れになってしまいまだ乾いていなかったけれど、セーターやジーンズは特に問題もない。仮に問題があるとすれば、ものすごく地味ということくらいだろう。

 支配人は昨晩の饒舌が嘘みたいに、また無口な老人に戻っていた。イヤホンでラジオを聴くことだけが人生で唯一の楽しみといった感じだった。きっと昨晩は非常事態で舞い上がっていたのだろう。かくいう夕菜も、またいつもの休学中の大人しい女子大生に戻っていた。

 ホテルの玄関を出て、空と海を見渡す。見事な台風一過だ。灯台も太陽の光を浴びて、白く輝いている。灯篭の形も、いつものように「あれ、こんな形だったっけ」と夕菜の心に不可思議な感触を残してくれた。それら一通りの景色に背中を向けて、防砂林のけもの道を抜けて、バス停へと出る。バスが来るまでまだだいぶ時間があった。

 夕菜はあの神社の近くの階段を降りた先にあった、トンネルを思い出す。

 あのトンネルは実在するものだったのだろうか。走り去る軽トラックはあのトンネルを全く無視して走り去っていった。もしかしたら、あれも私の作りだした幻影だったのかもしれない。でなければ、あんなに私の好奇心をくすぐるトンネルがあるはずがない。夕菜はそう思った。

 そんな考え事をしていたときだった。一台の白い軽トラックが目の前の道路を走り去っていった。その軽トラックの運転手は夕菜の方をまったく見向きもせず、砂埃の向こう側に消えていってしまった。

 

2019.05.20