終電車に乗ると、私はいつも頭が痛くなる。正面には脊柱までアルコールに溶かされたせいで硬い背凭れのされるがままになっている、半目を開け、意識を失っている男。右斜め前にはブランド物の鞄に品の無いキーホルダーをぶら下げている、何故か二本ずつ傘を持った、どう口を濁しても不潔な婆としか呼び表しようのない二人組の女。右隣には、半世紀前に路地裏に捨てられた中型コンポみたいな中途半端にでかい顔をした、その顔の大きさに比べて手足が異様に細く、足元だけ赤いエナメル製の靴で彩られているところが得も言えぬ同情を誘う女。終電車には人間の悲哀が満ち溢れているようで、私はまともに目を開けている事さえできない。その上、罰当たりなほどに内容の無いカップルの会話や、酒や女という悪魔にうなされている汗臭い男の唸り声を耳にするのも私には何だか苦々しく感じられ、大音量の音楽でそれを掻き消す。
世界を捨て去り、暗闇に心を浮かべると、後に残るのは香水と酒と煙草の匂いだけ。香水も酒も煩わしいけれど、煙草の煙だけは私の心に纏わりつく。
私はあれ以来ずっと探している。でも、どれもあの時のものとは違う匂いがするのだ。今では、あれはどこか違う世界で、少なくともこんなにグロテスクな場所ではないところで作られた煙草だったのではないか、なんて考えている。たとえば、ミス・ゴライトリーが吸っていたピカユーンとかいうブランドの煙草みたいに。それとも私があの時の匂いを見つけられないのはそんな文学めいた芳しい理由なんかではなく、ただ単に私の嗅覚が変容してしまったことにあるのか。
不毛な思考の末、私は家の最寄り駅で電車を降り、イヤホンを外す。澄んだ夜の空気の上を過ぎ去る電車の走行音が駆けてゆく。眠りにつく住宅街の薄暗い道を古ぼけた学生アパートに向けて帰っている途中、鞄の中でケータイが鳴って一通のメールが届いた。用心の為に夜道ではケータイをいじらないようにしていたから、私はわざわざ道中のコンビニに立ち寄って、雑誌コーナーの前でメールを読む。ほんの数十分前に別れたばかりのバイト先の先輩からだった。この変なタイミングで彼からメールがあった時点で私は何かしら「ついに来たか」というような勘が働いたのだが、内容に目を通してみてその勘が外れてはいなかったことがわかる。もちろん、「メールでする内容じゃないだろう」というような落胆も若干あるにはあったが、私は彼からのお付き合いの申し出に対して、その申し出を受ける旨を伝えるための返信メールをその場で書き始めた。
*
「ユリ、また彼氏出来たの?」
そう言うヒロの言葉の中には、「どうせまた碌でもない男なんでしょう」、「どうせすぐに別れるんでしょう」という嫌味が含まれていた。ヒロは大学に入ってからできた一番最初の友達で、サークルの新歓で一目惚れした先輩から、この間の煙草とケータイしか目に入らない残念な彼まで、私の歴代の彼氏を全て知っている。そしてまだヒロには打ち明けていないはずなのに、まだ付き合い始めて一週間のバイト先の同僚のことまで既に勘付かれてしまっているようだ。何故こんなにもヒロは私の男事情に詳しいのか。そんなことはあって欲しくはないと心底思うが、私が忘れてしまっている男の名前だってヒロは覚えている、ということもあるかもしれない。
「なんで、まだ誰にも言ってないのにわかるのよ」私はそんな必要などまるでないのに、辺りを憚るような視線を昼時で込み合っている店内に向け、ヒロの言葉に応戦した。
私の攻撃を受けてもヒロは余裕綽々の笑みを湛えながら、若干汗をかいたアイスティーの入ったグラスに触れることも無くストローを口に咥え、「だって、あんた煙草臭いよ」と言った。「また、家焼かれるんじゃないの?」
「もうその話はやめてよ。大丈夫、みーくんはあいつと違ってしっかり者だから」
私はやや憤慨した面持ちでそう答えたが、嘗ての男に自分の家で寝煙草をされ、ボヤ騒ぎを起こしてしまった経験を踏まえつつ、「気をつけていかなければな」とわりに真剣に考えていた。ボヤ騒ぎの彼とは結局そのことが原因で半年前に別れてしまった。それからなんだかんだ二、三人の男を乗り換えたりしたけれど、インパクトで言えばあいつに勝る奴はいない。
「でも、どうしてそう煙草吸う奴ばっかり好きになるかね。なんかこだわりとかトラウマとかあんの?」
「別に煙草吸ってるから好きになるとかじゃないし」
「でも、今までの彼氏全員そうじゃん。なに、『ユリの彼氏募集要項』の中には『喫煙者であること』みたいな明文が入ってたりするの?」
「知らないよ。書いてないよ。てか、そんな募集要項作った覚えないし。私はただ……何となくカッコいい人探してて、それでたまたま目についた人が煙草吸ってるってだけ。煙草吸ってる男の方がなんて言うか……タフっぽいって言うの? なんかカッコ良く見えるじゃん。だから、別に煙草に対して思い入れがあるとかそういうんじゃないし」
「まぁ、私からしたらユリが彼氏作ったことがすぐわかって良いんだけどね」そう言いながらヒロはくんくんと鼻を鳴らした。「でも、このご時世煙草吸ってる人探す方がめんどくさいんじゃない?」
「だから、別に探してるわけじゃないし。それに意外と今でもいるよ、煙草吸ってる人」
「まぁ、目の前でこれだけ『魔性の女ユリ』の被害者の会の会員が増えていくのを見せつけられていれば、嫌でもわかるよね」
「誰が魔性の女よ」私は今になってヒロに「煙草臭いよ」と言われたことを思い出して、さりげなく服を匂ってみた。が、鼻風邪を引いているわけでもないのに、まったくわからない。全然気が付かなかったけれど、今朝に大学まで車で送ってもらった時に匂いがついてしまったのだろうか。
一応断っておくが、私と今の彼氏とは付き合って一週間程度にはなるが、まだお互いの家に足を踏み入れるところまではいっていない。付き合う前からたまにバイト終わりにあの忌々しいポンコツ車で送ってもらったりはしたのだが。今朝も彼は爽やかな笑顔を装って、私のしなびたアパートの前までその半壊したような車を転がして来てくれたのだけれど、私は彼に目覚めのコーヒーを淹れてあげるというような気の利いたことはしなかった。
私はストローに唇をつけているヒロを見ながら弁解の続きをした。「だいたい『魔性の女』っていうのは、その気もないのに手当たり次第の男に手出して、お金とかそのほかにも何やかんやと搾り取るような悪女のことを言うんでしょう? 私はいつも真剣だし、特に男に何か金品を求めるってこともないから」
「まぁ、たしかにね。ユリって意外と真面目だもんね」
「意外と、とかつけなくていいから。髪の毛だって別にそんなに明るくないし、大学にだってちゃんと行ってる。バイトが無い日は夜十二時前に寝るし、合コンもクラブもヒロに連れて行ってもらったとき以外行った事ないもん。どこからどう見ても真面目でしょ?」
「でも、これだけ彼氏を取っ替え引っ替えしてるのはやっぱ異常だよ。よく元彼のことすぐ忘れられるよね。だいたい二、三か月は引き摺らない?」
「引き摺らない。だって、私が別れる時って大抵もう既に気持ちは冷めてるから」
「じゃぁ、こっちはまだ好きな気持ちがあるのに、相手から一方的に『別れよう』とか言われたときはやっぱりユリも落ち込むの?」
「そんなことないからわからない」
「はぁ? もしかして、今までずっとユリの方からフッてきたの?」
「ケンカして別れたときとかもあるけど」
「あぁ、ボヤの彼のときとかね」ヒロは呆れたように笑いながら言う。
「その話はよしてよ。とにかく、私は何も取っ替え引っ替えしたくてしてるわけじゃないから。なんか知らないうちに気持ちが冷めてって、気がついたら別れてて、そしてタイミングよくカッコいい別の男が私に声を掛けてくるの。それで私としても断る理由が無いから仲良くし始めると向こうがあっという間に『俺と付き合わない?』って……はぁ、私、自分で言っといてなんか頭痛くなってくる……」
「やっぱりユリは天性の魔性なんだよ。付き合ったのにすぐに冷めるって、それって気持ちが無いのに色んな男に手出すこととほとんど一緒じゃない? 同時進行をしない、ってだけで」
「そうかもね……はぁ、私って性格悪いのかな……」
「性格悪い、ってのとはまたちょっと違う気がするけど。何て言うのかなぁ……やっぱりユリは何か恋愛に対して一種の破滅的な傾向があるよね。うまく言えないけど、『別れる前提で付き合ってる』みたいな」
ヒロが言うような、「別れる前提で付き合う」みたいなことは考えたこともないけれど、思い返してみるとどこかそんな部分があったかもしれない、というような気がしてくる。何となく見下ろしたこの私の色の白い腕には、自分のものだから実感することはできないけれど、他の人よりも冷たい血が流れているのかもしれない。しかし、私だって確かに恋愛の初期段階においてはそれなりの体温の高まりといったものは感じているのだ。問題はどうしてそれが木陰で流す汗のようにすぐに冷たくなってしまうのか、ということだ。そして、どうしてそんな私に対して好意を持つ男がこうも次から次へと、まるで私の孤独に付け込むようにして現れるのか、ということもかなり不可解な問題である。
私は溜息をついて、それまで騒々しい店内でヒロの声を聞くために前に乗り出していた身体の力を抜いて、椅子の背もたれに体重を預けた。ほんの少し顔を上に向けてみると、ちょっとだけ澄んだマシな空気が肺に入ってくる。非常口の方向を知らせる緑色に光る看板が視界に入った。
「ユリは自分で煙草吸おうとか思わないの?」重たくなった空気を入れ替えるようにヒロは話題を変えてきた。
「思わない」私は非常口の看板の真っ白な人型を見ながら答える。
「どうして?」
「どうして、って……お金かかるし、健康に良くないし」
「でも、煙草吸う人のことばっかり好きになるじゃん」
「それはまた別の話でしょ。だって、私はカッコよくなりたいわけじゃないもん。そんなこと言うんだったら、じゃあヒロこそプロレス好きならプロレス始めたら、って話になるじゃん」
「たしかにね」途切れたヒロの言葉の行方を追って、私が視線をヒロに戻すと、彼女はまたアイスコーヒーをストローで啜っていた。そして「それは一理ある」と付け足した。
昼過ぎまで眠ってしまった日曜の午後くらいあっという間にそんな短い会話は過ぎ去り、ようやく頼んでいたパスタが運ばれてきた。このまま注文が叶わないまま年老いていくのか、と思っていたが、このサービス大国でそんなこともあるまい。私はヒロの分のパスタが来るまで待って、それからフォークを手に取った。
「で、今の彼はどんな人なの?」ヒロはパスタをフォークに巻き付かせながら私に質問を投げかける。
「バイト先の先輩」私は簡潔に答えた。
「バイトってあの洒落たレストランの?」
「うん」
「カッコいい?」
「まぁまぁ。今のところ家も焼かれてないし」
「芸能人で言うと誰に似てる?」
「うーん……あの、最近やってる刑事ドラマの……」
「あぁ、この間、詐欺事件の犯人に殺されかけた」
「違う違う、そっちじゃない」
「あぁ、じゃぁ、あの変な髪型のやつか」
「そうそう。でも、髪型はあんま似てないかも」
「髪型抜かしたら、ただの特徴ない男じゃん、あの人」
「目元が似てんのよ。切れ長の一重」
「へぇ。こないだのはパッチリ二重だったのに、本当に煙草以外に拘りとか趣向っていうのがないんだね」
「別に煙草じゃないから。性格で選んでんの、性格で」
そんなような会話を、パスタを胃に流し込みながら器用に交わし、十二時四五分を過ぎたあたりでお会計をした。無論、それぞれがそれぞれ食べた分だけ支払うのである。そうでなかったら、私だってお冷で我慢なんてしないでアイスコーヒーを注文した。
「今日もバイト?」
そう尋ねてくるヒロに私はできるだけさっぱりとした口調で「そうだよ」と答えると、ヒロはにやりと嫌らしい笑みを浮かべながら「よかったね。会えるじゃん」と言ってきた。「冷やかしの来店は困りますので」と私は口を尖らせながら返した。
*
「お疲れ」
そう私に労いの言葉をかけてきたのは何を隠そう現在の私の彼氏「みーくん」。本名、平田道則。高校の頃の愛称は「みっちー」だったらしい。が、しかし、全く以って親のネーミングセンスを疑う。名前を決める時に、自分の苗字を顧みる、ということをしなかったのだろうか。ヒロには刑事ドラマのあの俳優に似てるなんて言ってしまったが、顔も平凡だし通っている大学も平凡。まぁ、この殺伐とした巨大都市にのどかな地方から出てきたという点は、あるいは評価に値するのかもしれないが。
そんな彼が実は愛煙家だった、ということは私にとってはちょっとした衝撃で、おそらくそのギャップにオトされたと見える。
結局煙草かよ。
と、私は自分で下手なツッコミを入れてみるのだけれど、そんなことも数回繰り返していると、さすがに笑えなくなってくる。が、しかし、そんな安っぽいギャップに落とされたと言うよりは、本当は彼が自分の平凡さをきちんと認めていて、だからこそちょっとしたアクセントを欲して煙草に手を出したのではないのか、と私が勝手に彼の健気な心情を慮ってしまった故に恋にオチた、と言った方が正しいかもしれない。その何とも言えぬ「どうしようもなさ」みたいなところが私の心を、特に母性の領域に近い辺りを良い感じに擽るのだ。
「お疲れ、みーくん」
私たちは勤務の後の解放感を分かち合いながら――といっても、これから店じまいに向けてまだ仕事がいくつか残っているには残っているのだが――とりあえず一段落を得たことに対してちょっとした安堵感を覚えつつ、レストランの厨房から勝手口へと抜けた。ここのレストランはとある駅近の雑居ビルの四階にあって、勝手口から非常階段の方に出ると、夜の十二時を軽く回ったこの時間帯でもまだ都会の街の光が溢れている通りが見下ろせた。隣の二階建てのパチンコ店の屋上も見下ろせる。ただの平坦な屋上で何もないけれど、何もないなりに闇の中にパチンコ台の影が浮かび上がって来るような気がする。耳を澄ませばあの世界の終わりみたいな騒音が聞こえてきそうだ。もう夜も遅いけれど、きっとまだあの屋根の下では、皆数字が合った、合わなかった、で一喜一憂しているのだろう。或いは、煙を燻らせながら。でも、別に煙草に恋をしているわけではない私からしたら、そんなことはどうでも良かった。そんなことを考えているうちに、みーくんは煙草をズボンの右ポケットから取り出して、自分で火をつけた。
彼はその平凡な顔を緩ませながら、実にうまそうに煙を肺に送り込む。ここのレストランは従業員に勤務中の禁煙を課していたから、客が帰るまではたとえちょっとした休憩時間があっても煙草を吸うことは許されていない。長い勤務時間のあいだ我慢をしていたその分だけ、彼は深く、深く煙を吸い込む。その煙を構成する微細な粒子ひとつひとつまで味わうが如く。私の唇を求めるときよりも遥かに丁寧に。
「今日、ウチくるか?」彼は煙と煙の合間にそう尋ねてくる。「明日は大学ないだろ?」
「行っていいの?」
「もちろん。そのために掃除しといたんだ」
「わぁ、楽しみ」
彼の家に行くのは初めてのことだった。出会ったのはここのバイトを始めた時だから、随分と昔、およそ半年以上前のことになるけれど、付き合い始めてからはまだ一週間程度しか経っていない。それまでは彼の家に行く機会なんかなかったし、ましてや、行きたいとすら思わなかった。まぁ、そんなことはさておき、今回の招待について言えば、私は少し彼を弾劾してやりたいような思いがある。女性には男の家に泊まる前に色々と準備が必要である、ということを彼は知らないのだろうか。そんな風に、無配慮な彼に対して私はやや幻滅を感じたりもしたが、彼のおそらくは平凡であろう下宿先を頭の中に思い描きながら、私は可愛らしい彼女を演じるための純粋無垢な期待に胸を膨らませる笑顔を装って、それを彼の方に向けた。もちろん、彼のあからさまな魂胆になんてまるで気が付いていないような、人当たりの良い白い前歯をちらりと覗かせながら。「あんま広くはないけど」と言う彼の瞳に、眼下の光を映したものとはまた違った光りが煌めくのが見えた。
ホールの清掃を終え、裏で事務作業を続けている店長に挨拶をしてから店を後にした。私はそれとなく、店長の作業が終わるのを待っていようかと提案する様な雰囲気を醸し出してみたのだけれど、彼の方はそんな私の健気な心配りに気が付くことも無く、私の手を引いて行った。あくまで比喩的な表現であるけれど。
都会の夜はまだ始まったばかり、といった具合で、すれ違う人々は上機嫌に頬を赤らめ、車のヘッドライトに影を映し出されては光と光の狭間に消えて行く。そんな景色にももう慣れてしまったな、と数年前の制服姿の私を思い出しながら、私は彼が差し出してくれた手を握った。四月最後のほんのり冷たい夜風がそうさせるのか、何故だか、やけにセンチメンタルな感情が私の頭に渦巻いているのを感じていた。まるで印象深い映画のワンシーンに取り込まれてしまったかのようだ。街の明かりに照らし出された街路樹が、去年の春を思い出させたかと思えば、コンクリートの上を転がっていくビニール袋が高校生の春を思い出させたりする。どれも瞬間的なイメージで取り留めのないものではあるけれど、そういうものひとつひとつが私の中に残していくものはどれも鮮烈で、私はこんな平面チックな彼の手などさっさと振りほどいてしまって、音楽でも聴きながら夜の街をどこまでも自由に、まるで時間旅行するかの如く歩き回ってみたいな、などと考えてしまう。
それでも、私はよく訓練された犬のように彼に手引きされるまま、終電に間に合うようにやや速足に駅への道を歩いていく。気がついたら終電のアナウンスが頭上から降り注ぐ車両に乗り込んでいて、そこら辺の女の子と同じように男の人の大きな背中に守られながら、ドアの間際に立ち尽くしていた。吹き飛んでいく光の街を冷めた目で見送り、揺れる身体を彼に預けたりした。彼の服にほんのりと染み付いている煙草の匂いが鼻先を掠める。
彼の下宿先はいたって平凡なものだった。が、別に平凡なことが悪いことだと言うつもりは無い。平凡。素敵ではないか。テレビにローテーブルにクッションが二つ、三つ。黒や白を基調にそれらのものが並び、後はベッドと本棚があるばかり。本棚に並ぶのは、おそらくは少年心を擽るのであろう有名な漫画数種類と、それから最近のコアな読者が好みそうな類の……これもまた漫画である。それと、大学で使っているのであろう参考書が何冊か。キッチンは綺麗だったが、それは整理整頓が行き届いている、というよりは「生活感が無い」と評した方が正確なようだ。別段、潔癖症であるとか神経質というわけではないけれど、それらのことを部屋に案内されて三十秒程で確かめ、心のうちで「合格かな」と呟いた私がいたことを否定するつもりもない。
「なんにもないけどさ……とりあえず、コレ飲もうぜ」
そう言って、彼は一本のワインをどこからともなく取り出してきた。「私を酔わせてどうするつもり?」なんておばさん臭い台詞が喉元まで出かかったが、どうにかしてそれを飲み下す。私は当たり障りのないところで「わぁ、おいしそう」と返した。
深夜番組の皮肉と自虐と独善的な満足感の入り混じった笑い声と、乾いたスナック菓子と安物のワイン。食べ合わせなんてものは考慮するだけ無駄だったけれど、彼の割にがっしりとした肩に凭れ掛かり、そんな凡庸なものであらかた晴らせてしまう憂さを晴らしながら夜は更けていく。アルコールに急かされる心拍を恋の贈り物だと思い込みつつ、交差する視線にはにかんでみたり、時にはあえてそっぽを向いてみたりする。テーブルの隅で今にも落ちそうになっている目覚まし時計の短針がゆっくりと傾いていく。カーテンを閉め切った部屋の中ではわからなかったけれど、その針先はもしかしたら今の月の位置を指し示しているのではないか、と夜に思いを馳せているうちに。
「そろそろ寝ようか」
コマーシャルの途中で彼がそう話しかけてきた。この時になって私は初めて、彼の計画が順調には運んでいなかったことに気が付いた。少しだけ不機嫌そうな表情。灰皿の中は小指の爪ほどに短くなった煙草の残骸で溢れかえっていた。私はそっと彼の肩に手を乗せる。
「そうね、ワインももうほとんどなくなっちゃったし」
私はそれとなく彼の反応を伺ってみた。明らかに私の返答が的外れであることを彼の歪められた眉が物語っている。そこまで露骨な反応をされてしまうともう少しからかってみたくなるけれど、これが原因でまた別れてヒロに再び小言を言われるのもあまり楽しいことではなさそうだ。
私は「でも、その前にシャワー貸してもらってもいいかな」と奥ゆかしい声で彼の耳元に語りかける。バスタオルの場所を指示する彼の微かに揺れている声音を背に受けながら、私は平凡だけれど清潔なバスルームへと向かった。
翌朝、私はまるで年寄りのように決まりきった時刻に目を覚ました。アルコールの名残もあってか、最初は自分がどこで眠っていたのか良く思い出せなかったが、身体を捻った拍子に左腕が何かにぶつかったところで一息に全てを思い出した。狭いベッドの上で私は薄いシーツを身に纏い、下着にTシャツという格好で眠っていたようだった。息が詰まりそうなほど近くに彼の背中があったけれど、私の無造作に振り回された左腕の餌食になったにも関わらず、その背中はゆったりとした呼吸のリズムを保ったまま、静かな部屋で膨張と縮小を繰り返していた。静かにベッドから降りてカーテンを軽く開けてみると、灰色に輝く曇り空が見えた。その冷たそうな景色に喚起されて、私は自分の身体がちょっとだけ冷えてしまっていることに気が付いた。もう冬ではないし、晴れた日の昼間は夏を感じさせる陽射しが街を包み込むような季節だったけれど、こういう曇った空の日には、まだほんのりと冷たい空気がフローリングの床の上を這っていたりする。
私は台所に向い、コップ一杯分の水を飲み干すと、それからトイレに行って次にシャワーを浴びにバスルームへと向かった。洗面台の脇には用意周到に準備されていた新品の歯ブラシ(と言っても、昨夜それを使ったわけだから完全な新品というわけではない)が、使い古された彼の歯ブラシの隣に並んでいる。冷たい二の腕を擦りながら、誰が見てるわけでもないのに、鏡の前で軽く前髪を整えた。自分でもその行動の意味が分からぬままTシャツを脱ぎ、下着を脱ぎ、バスルームの中へ足を踏み入れた。
温かいお湯が出るまで、ぼーっと待ちながら、すりガラス越しに差し込んでくる薄暗い光に目を奪われる。そう言えば電気を点けるのを忘れていた。が、今更もう一度ドアを開けて電気を点けるのも面倒だ。と、そんなことを考えているうちに、差し出した指先に温かい湯が触れる。私はひと思いにその温かい雨の中に頭を突っ込み、乱れた髪に水を含ませていった。
四隅に残った泡を最後に洗い流し、彼には少し悪いと思ったが昨日の湿ったバスタオルは無視して、綺麗に積み上げられている中の一つを手に取った。鏡に写った自分の身体に、どちらかと言えば落胆の方をより多く感じながら身体を拭いていく。バスタオルを頭から被ったまま部屋に戻ると、彼はまだベッドの上で一夜の充足感に浸りながらすやすやと眠っていた。平凡で、救いようがないほどに平凡で、なんだか一周回って可愛く思えてくるような彼だったけれど、その根底に潜む純朴さや温かさといったものは、やはり私の手には余る代物だ。少なくとも、冷めた目をして慣れた手つきで男を抱き寄せる私のような女が軽々しく触れてはいけない存在のようにも思えた。私はテーブルの上に放り投げられている煙草のケースから一本だけ失敬し、次いで百円ライターを空いている指で摘まみあげると、身体一つ分くらいの幅だけ開けたままになっていたカーテンの傍のクッションの上に座り、火を点けるともなく、何の気なしに煙草を咥えてみた。目を瞑ると、制服姿の私が脳裏に浮かび上がってくる。
*
初恋は……なんて言って、思い出されるものをきちんと追って行くと、一番最初のものは幼稚園くらいになるけれど、ごく幼少期の胸の高鳴りといったものを別にすれば、きちんと「初恋」と呼べそうなものは中学生のときの、相手は一回りも年上の母の歳の離れた弟にあたる男性、つまりは叔父さんだった。ただ続柄的には「叔父さん」だったけれど、当時のあの人はまだ二十代半ばだったし、私からしたら「お兄さん」と呼んだ方がしっくりきた。こんな話をヒロにしたら、きっと「どうせ、その叔父さんだか、お兄さんだかが煙草を吸っていたんでしょう」とからかわれるだろうけれど、まぁ、はっきり言ってしまえばその通りだった。だからこそ、私はこの話をヒロにすることができずにいる。
その人の名は……私が使っていた呼び名は「秀介にぃ」というものだった。私の誕生日の時や、その他の行事ごとに何かと私の前に現れた彼だったが、私が彼に恋心を抱いたのは、実を言えば、彼の方から私に対して興味を示してきたことが原因だった。しかし、このことはもちろん私の母も父も与り知らぬことである。無論、私の方が秀介にぃに対して憧れを抱いていたことは、両親には筒抜けだったと思ってはいるけれど。対する秀介にぃの興味が私に向けられていたことは、私しか知りえない事実だった。というのも、彼は酷く繊細に物事を扱うことができる人で、彼の本心なんてものは彼にとって最も血の近い姉にして私の母である人物に対してさえ、ほとんど全くと言って良いほど公開されることはなかったようだ。頭がずば抜けて良く、ルックスもなかなかで一流企業に勤めていた。何事によらず「誤魔化す」ということに長けていて、彼は私の母はもちろん、父からも絶大なる信頼と期待を得ていて、無論冗談ではあるが、私の父は「たとえ俺が職を失うことがあっても秀介君がいれば、どうにかなるだろう」と酒の席で零してしまうくらいのものだった。
私も最初の内はそんな彼にうまく誤魔化されていて、会う度に「いやぁ、綺麗になってきたね」とか「将来が楽しみだ」とか冗談めかして言う彼の言葉にただただほんのりと嬉しさを覚えるくらいだったのだけれど、中学三年生の受験を控えた正月、ちょっとしたことが私の心に変化を与えた。
私はあまり乗り気ではなかったのだけれど、受験を控えた私に「きちんと神様にお祈りしなきゃ」と言う母に連れられて――ちょうどその年の年末年始は母方の実家に行っていたものだから一族ぐるみで、と言っても、秀介にぃと私の一家三人を入れても七、八人の集団で――そこそこに名のある神社へと初詣に出かけた思い出がある。本当ならそんなことせずにちゃんと自分の家で集中して勉強している方が良かったはずだけれど、残念ながら私の母も父も一世紀前のキリスト教徒のような信心深さを有している人達だった。「合理的なことは冷めたこと」と考えるような人達なのである。私はそんな両親をどちらかと言えば好きだったけれど、かといってほんのり積もった雪が足元を冷やすあの季節にあちらこちらと連れ回されてニコニコしていられるほど大人でもなかった。そんな私の曇った表情を察してか、秀介にぃは一族間の退屈な談笑から私を連れ出して初詣の客を喜ばせる種々雑多な出店に案内してくれた。今でも覚えているが、なかなかの田舎にある母の実家でもさらに正月の初詣ともなれば、みなの格好は自ずと伝統と文化と垢抜けなさによって上手い具合にコーディネートされるわけだけれど、その中で秀介にぃの格好は反旗を翻すかのように都会的な流麗さを示していた。たしか、黒いPコートを着ていたと思う。周りが袢纏やら腹巻やらで武装している中でだ。
私も普段の自称「都会の女子中学生」らしい私服を着ていたから、私たち二人はその初詣の中でそれなりの異彩を放っていたとは思うが、それでも辺りには新年の浮かれた雰囲気が漂い、あまり変な視線は感じなかった。或いは、単に私自身が浮かれていて気が付かなかっただけかもしれないが。
「本当は自分の家でゆっくり英気を養っていたいだろうに」
白い息を吐き出し、指先を擦り合わせながら、たこ焼き屋の列に二人で並んでいる間に彼がそう言ってきた。私は不機嫌な表情で「もう、ほんとだよ。だいたいこんな遠くの田舎の神様にお祈りしたって仕方ないじゃない。いざ受験日になって、神様が『さて、そろそろあのユリという少女でも助けに行きますか』ってなっても、向こうに着く頃には試験なんて全部終わっちゃってるよ」と返す。
「まぁ、早起きしても無理だろうな」楽しそうに彼は笑った。「それにしてもあの小さかったユリがもう高校生になるのか。何だか不思議な気がするな」
「あと五年もすれば、一緒にお酒飲めるようになるね」
「はは、じいちゃんとかにそう言われたのか」
「もう、一昨日からそんなことばっかり言われるの。時が経つのはあっという間、的な。秀介にぃだけは、そういうこと言わないと思ってたのにな」
「俺ももうおじさんなんだよ。ユリのお父さんなんかには、まだ若いなんて言われてるけど、十代の本当の若者からしたら、成人したやつなんて皆『おじさん、おばさん』だろう」
「でも、秀介にぃはまだ若いよ。結婚もしてないし」
「痛いとこ突いてくるね。結婚ね……ユリはしてみたいと思う?」
「私? 私は……わかんないな。何て言うか、彼氏も作れないのに結婚なんて、また夢の夢みたいなかんじ」
「でも、来年には法的に結婚ができる年齢だ」
「……そうね」私はどこか冷静な面持ちの秀介にぃに丁寧に諭すようにそう言われて、私は胸の奥がざわついた。何度かそういうことも友達と話したことがあるけれど、それはどこか別世界の話のようで現実味はなかったが、一回りも年上で社会に出ている人間、それも秀介にぃのように物事を正確に判断できる人間からそう言われて初めて、今まさに結婚というものが自分の身に起こりうることなのだ、と意識させられた。「結婚」という言葉が数か月後に控えた「受験」と同じような質量を持って肩に落ちてきた感じだった。
「もう、あっという間に大人になるんだ。そして、そういう大人の目で世界を見て行かなきゃいけない」独り言のように秀介にぃは小さく呟いた。それからはっと我に返ったように「ユリは結婚したい、とまではいかないまでも、付き合いたい男子とかはいないの?」と笑いながら聞いてきた。
「いないよ。うちの学校はブサイクで気色悪いのしかいないんだ」
「皆そう言うんだよ。男もそういう事を言ってるはずさ。でも、高校に入って数か月もすると大抵の奴が『あぁ、中学の方がマシだった』なんてことを言い始める」
「そういうもん?」
「そういうもんさ。でも、その傍らでちゃっかり付き合い始める奴らもいる。ユリもそうなるよ」
「そうかなぁ。けど、いまいち『好きになる』ってことがわかんないな。まぁ、優しかったり面白かったりする人もいるけど、なんて言うかそれだけでさ……じゃあ、一緒にデートしたいか、って聞かれたら、そんなことはないんだよね」
「ふふ、若いなぁ、ユリは」
「そう?」そんな言い方をされると、まるで子ども扱いされてるみたいで嫌だったけれど、秀介にぃの視線は穏やかで本当に私の若さを羨んでいるかのようだった。
「それに恵まれているよ。まぁ、中学生くらいの子供なら大抵そうなのかもしれないけど、きっとまだ本当の意味での寂しさとかを感じたことがないんだろうな」
「秀介にぃは寂しいって感じるの?」
「大人は皆感じてるんじゃないかな?」
「じゃぁ、寂しいからみんな結婚してるの?」
「どうだろうね。俺は結婚したことがないから」
「でも、寂しいと『綺麗な女の人とデートしたい』とか思うんだ?」
「ははは、そうだな。まぁ、普通の男はそうだろうな。俺も例外ではないと思うよ」
「じゃあ、どんどんすればいいのに、デート。秀介にぃって結構イケメンだし、一流企業に勤めてるんでしょ? それなりに綺麗な女の人だったらすぐに見つけられるんじゃない? それとも、理想が高いからそんな簡単にはいかないの?」
私の言葉に彼は何かを考えるように目を細め、コートのポケットに手を突っ込んで煙草を取り出しながら、「理想が高いから、か」と小さく漏らした。煙草を咥えて火を点けると、ゆったりとした間を取ってから「でも、ユリとだったらデートしてもいいかもな。制服の可愛い高校に受かるんだぞ」と笑いながら言って、私の頭にぽんと手を乗せた。その時の彼には、それとなくわかる程度に大人の、男性の雰囲気が混じっていた。言葉は冗談っぽくても、私の後ろ髪を撫でる彼の指先と、煙草の煙を吐き出すときの渋い目つきが私の気を動転させた。
たったそれだけのことで私の初恋は始まった。可愛い制服を着るために残り数か月の勉強も頑張った。第一志望校の受験日の一週間前、秀介にぃはケーキを片手に私の家に激励に来てくれたが、私は何故だか素直に彼に会いに行くことができず、一階のリビングで秀介にぃが私の両親と談笑しているのを思い浮かべながら、二階の自室に籠ってノートにペンを走らせていた。もちろん集中なんてできるはずもなかったけれど、今思えば私は「頑張ってるな」と彼が一人で私の部屋を訪ねて来てくれるのを期待していたのかもしれない。そして、彼はそんな私の期待を裏切らなかった。いつだったか、過剰な期待はもうウンザリだ、なんてことを言っていた彼があの日そのまま帰ってしまわなかったのは、きっとちょっとした気まぐれだったと思う。或いは周到に計算されたことなのかもしれなかった。彼の本意を探るのは頭のよくない私には難しいことだ。
けれど結果から言えば、その日を境にまた彼から伸びる糸がさらに一本、まだウブな私の身体に捲きついてきたような感触を覚えた。階段を誰かが昇ってくる音が聞こえ、それから間もなく私の部屋のドアにノックがあった。「やぁ、邪魔してもいいかな」という声。私が「どうぞ」と答えると、おそらくは母が切り分けたであろうケーキの一切れを真っ白な皿に乗せて彼は私の部屋に入って来た。
「どう、順調?」
「まぁまぁ……」
「来週試験なんだってな。まぁ、あんまり根詰め過ぎないでこれでも食えよ。ユリの好きなケーキ買ってきたからさ」彼は雑然とした私の机の上からテキストを数冊取り上げると、そこにできたスペースに苺のショートケーキの乗った皿を置いた。たしかに苺のショートケーキは好きだったけれど、「ユリの好きなケーキ」なんて言われ方をすると何とも言い難い抵抗感を覚える。それから彼は、うっかりしていたというような表情で私に小さなペットボトルのジュースを手渡し、「ベッドの上、座ってもいいか?」と尋ねる。そして私の了解を待ってからベッドの端に腰を下ろした。彼の視線が私と同じ高さになる。
「ケーキありがとう」
「どういたしまして。まぁ、それくらいしかできることないしさ。湯島天神に御守り買に行く暇はなかったんだよ」
「別にそんなことしてくれなくて大丈夫だよ。私、ふつうに受かるし」
「お、強気だね」
「模試で合格八十パーセントって出てるし」
「へぇ、やるもんだな。でも、だったらそんなに勉強する必要ないだろ。俺だったら、どっか遊びに行っちゃうけどね」
「落ちたくないし……制服の可愛い学校だから」私は椅子をクルリと回して、ベッドの上の彼に背を向け、その代わりに机の上のショートケーキに向き合った。もちろん、私の脳裏には初詣での彼の言葉が浮かんでいたのだけれど、だからこそ、いざ口に出してみると何だか頬が熱くなってしまった。
「それは春が楽しみだな」、なんてこと無さそうに秀介にぃはそう言う。そんな無機質な態度を取られると幾分か気分が萎えてしまうけれど、まぁ、予想していただけに傷は深くはならなかった。「うーん、結構難しい問題解いてるんだなぁ」私がチラリと振り返ると、彼は先程机の上から取り上げたテキストの一冊を開いていた。
「数学の関数が苦手なの。なんかコツとかないの?」
「そうだな……」彼は問題集を見下ろしながら、右手をズボンのポッケに突っ込んだ。無意識のうちに、といった感じだったが、途中で自分のしようとしていることに気が付くと、視線を私の方に上げて、「ここ、禁煙だよな」と笑いながら言う。
「私は良いけど、ママが怒るかも」
「だよな」
「まぁ、でも、窓開けてくれれば良いと思うよ」
「外、むちゃくちゃ寒いぞ」
「私は構わないよ」
彼は「じゃぁ、お言葉に甘えて」と言って、ベッドから立ち上がると窓の方へと二、三歩足を進めた。窓を開けると彼はライターを取り出し、咥えた煙草に火を点けた。張りつめたような夜空に煙と彼の白い息がベールをかける。じんわりと冷たい空気が足元に這い寄ってきた。
「寒くないか?」
「うん、秀介にぃこそ」
「俺は大丈夫だよ。煙草を吸うと寒さを感じなくなるんだ」
「嘘でしょ」
「ホントだよ。ユリも二十歳になって吸ってみればわかる」彼は窓の外を眺めていたからその表情は見えなかったけれど、私には彼が笑っているのがわかった。
そのとき、ふと私はずっと心の片隅で考えていたことを口に出した。脈絡もなく、私自身の心の準備もできていなかったのに、自然と零れた言葉はそういう時には大抵そうなるように不思議なほどに部屋の中によく響き渡った。
「秀介にぃはいま彼女とかいないの?」
「ん、俺がか?……いると思うか?」
「いる気がする。だって、秀介にぃモテそうだもん」
「そんなことないよ」今度は彼は振り返って、私に笑った表情を見せた。照れている、というよりは、見当違いな私の言葉に呆れ返っているように見えた。「そう思うんだったら、ユリの友達でも紹介してくれよ」
「やだよ」
「あはは。友達想いだな」
「そうじゃないよ」彼の瞳に視線を合わせながら言葉を投げかける私は、自分でも予期しないほどに大胆になっていた。「そうじゃなくて、私は……ねぇ、私じゃダメ?」
彼は驚いたような顔を見せたけれど、それからすっと顔に浮かんでいた微笑を消すと、「そんなことないよ」と小さく答えた。
「それじゃあ……」
「あぁ、高校に受かったらな。考えとくよ」
「考えとく、って、それって結局何も考えることはないってことだよね」つまりは、受験勉強のし過ぎから来る気の迷いなんて、高校生になって数か月もすればすっかり晴れてしまうだろう、なんて思っているんでしょう?
秀介にぃは左手の繊細そうな指先に煙草を挟み込んだまま、ゆっくりと私に向かって歩いて来た。冷え切った彼の指先が、まるで白地のキャンバスに置かれる絵描きの最初の一筆のように優しく私の頬に触れる。「違うよ。考えとく、ってのは、デートコースのことさ」
私は頬を染めて彼の指に顔を支えられながら彼を見上げていたが、当の彼は自分の言った台詞があまり気に入らなかったらしく、苦い笑みを表情の上にちらちらと塗していた。彼は振り返り、また窓辺へと遠ざかっていくと星を探すように斜め上を見上げながら煙草の煙を吸って、そして吐き出した。窓を支えるアルミサッシで煙草の火を消し、そこについた灰の汚れを指で念入りに拭くと、彼は吸殻を掌の中に収めた。窓が閉められ、カーテンが引かれる。
「まぁ、とりあえず試験頑張れよ。こっちの制服の方が俺の好みだ、とかそういう出過ぎたこと言う人間は俺は嫌いだし。ユリが一番気に入るやつを着て来てくれればいいからさ」彼は擦れ違いざまに私の肩をぽんと軽く叩くと、そのまま部屋のドアを開けた。半分ほど身体を廊下に投げ出したところで少し振り返り、「誕生日、楽しみに待ってろよ」と笑いながら言い残すと、後ろ手にドアを閉めて廊下に消えて行った。階段をゆっくりと降りて行く足音が完全に消えると、私はまだ彼の温もりが残っているベッドへと飛び込んだ。そこに置かれたままになっていたテキストが跳ね上がり、雪崩のようにベッドから落ちるのも気にせず私は頭から布団を被ると、どこからともなく湧き上がってくる笑い声を、夢想して創り上げた雑木林の中の石造りの井戸の中に向かって叫んだ。
私が布団の中でうとうとしかけていると、そのうちに秀介にぃを見送る母の声が階下からうっすらと聞こえて来た。私は頭の上から布団を剥ぎ取り、ベッドの上で耳を澄ませながら、彼が家から出て行く音を聞いていた。ドアが閉まる時の衝撃が家を震わせると間髪入れず、母の声が階段と廊下を駆けて部屋の中にまで飛び込んでくる。
「ユリ、お風呂湧いてるからねー」
「んー、わかったー」
私はこっそりとカーテンの隙間から家の前の狭い通りを見下ろした。秀介にぃは冷たい電灯の光に照らされながら、そしてお決まりの煙草の煙を夜に浮かべながら、闇の中に吸い込まれるようにして消えて行った。
彼が私のことを気にかけ、そして数か月後の私の誕生日にまた会ってくれる約束をしてくれた喜びを噛みしめながら、私は試験前最後の一週間を外目には淡々とした態度で過ごした。とは言っても感情を自制するのにも限度があるので、両親に緩んだ頬の理由を追及されることを恐れて、ほとんどは試験勉強を隠れ蓑に自室に籠っていたのだが。
合格率八十パーセント。つまりはまず間違いなく合格するというお告げは見事に正しい未来を言い当てており、統計学の進歩には思わず恐ろしさを覚えるほどだ。そのうち私たち人間の全てはゼロとイチに置き換わって、一見複雑そうに見えて実は何てことの無い関数みたいに、とある入力に対してケースバイケースの色味の無い値を返すだけの存在になってしまうのかもしれない。苦手な数学だったけれど、それが六年間の義務教育を終えて私が学んだことだった。
春、まずは梅が白い花弁を降らせ、それから取って代わるように色づいた桜が私たちを新しい環境に招き入れる。慣れるまでの間は時間がゆっくりと流れ、一日一日が充足しているような錯覚に陥るけれど、私のような抵抗力の無い人間は二、三週間もすればあっという間に当たり前の日常の中に絡め取られてしまう。気怠い春風に時間が流され、温かな陽光と冷涼な月光の間を行ったり来たりしているうちにさらにまた一、二週間が過ぎ、そしてちょうど疲労感が溜まってきた辺りで、個人的には嬉しいものの明らかにこの国を蝕んでいる黄金色の日々がやって来る。私の誕生日も一緒に引き連れて。
秀介にぃからの合格祝いが無いことにやや苛立ちを覚えていたことすら忘れていた私にとって、ぼんやりとした休日の昼の微睡はそれを思い出す良い機会になった。学校から出された課題が机の上に積み上げられたまま、涼しげな風にページを捲られては閉じられ、という様子をベッドの上から眺めていると、何となく数か月前のことを思い出す。今は南国に群生する植物の大きな葉みたいに風に揺らめいているカーテンが、冷凍庫に入れられたみたいに凍りついていたあの季節。張りつめた夜空に向かって煙を吐いて、続いて為された彼からの約束。私は知恵の足りない女のようにただ漫然と胸を温めながら、彼が言ったように私の誕生日に期待していて良いのだろうか。期待がふいになってしまった時には、きっとそれはそれは重篤な五月病にかかってしまうだろう。
五月に入って一番最初の日曜日。日付は伏せておくけれど、それがその年の私の誕生日だった。前日の土曜の夜十時過ぎ。私は一週間ばかりの退屈な休暇をやり過ごすために買い揃えていた一抱えの本の一冊を開いて、その上の文字に向かって三秒に一回くらいのペースで熱の籠もった溜息を吐きだしていた。長く退屈な夜は辛辣だったけれど、そんな時、母が階段の下から私に向かって「明日は暇?」と大声で尋ねてきた。どこに連れて行かれるかわかったもんでもないから、私は「どうかなぁ」と怒鳴り返し、母からどうせ気分を落ち込ませられるであろう巡礼先が明かされるのを待ってみた。しかし、次の瞬間には母からの一言によってそれまで私の胸にあった不快なつかえもぱっと消え去り、私はまるで天国でひとっ風呂浴びてきた後にみたいに清々しい気分になっていた。
翌日、私は家族の誰よりも早く起きて、窓の外の清々しい空気で肺を満たした。クローゼットの中から服を何着か選びだして、その日の雰囲気と上手く合いそうな何パターンかをベッドの上に並べてみた。散々頭を悩ませた挙句、結局「最終決定を見送る」という決断を下し、一旦階下の洗面台まで降りて行って、今日の顔の具合を確かめた。興奮でなかなか寝付けなかったから、目元に若干疲れの色が残っていたけれど、これくらいなら化粧でなんとか誤魔化せそうだ。しかし、まったく、なんだってあんな夜遅くに電話など寄越したのだろうか。報告が遅すぎる。もっと早くしてくれていれば気持ちの準備も、その他諸々の実際的な準備も可能だったのに。五月の風に合う涼しげなワンピースや、雲の上を駆けられそうなくらい軽やかなパンプスを買ったり、しょうもない指先をネイルで彩ったり、伸びすぎた前髪を切ったり、そういった準備も何も無しで、今日という日に臨まねばならないとは。そんな感じで、心の内で文句を並べ立てていたけれど、眉毛を整えているときに鏡に写った私の顔は、檻の中に突如としてバナナの木が生えてきた瞬間を目の当たりにした動物園の猿くらいに幸福そうな表情を浮かべていた。
ある程度髪の毛やら眉毛やらを整えた後、何年かぶりくらいの爽やかな朝食を食べ、それからやっぱりシャワーを浴びておこうと思い直して、私は着替えを持って風呂場へと向かった。バスタオルを首にかけ、自室に戻り、鏡の前で念入りにドライヤーをかけた。流行りのメイクで日頃我ながら薄味と感じている顔面にささやかな華やかさを施して、それからフローリングを温める太陽の光を見て、念のため日焼け止めを手に取った。私が持っている中で一番高級なボディクリームで身体に膜を張り、一通り身体の最終調整が終わったところでベッドの上に並べられた服に視線を向けた頃には、既に秀介にぃがやって来る時間の三十分前になっていた。未だ風呂上りの簡素な格好でベッドの前に立ち尽くしていると、部屋のドアにノックがあった。
「準備できたの?」母が例の如く癇に障る声とともに部屋に殴り込んできた。
「今、服選んでるところ」
「あぁあぁ、そんなに散らかして」そう言いながら、母は残念ながら最終選考に漏れて床の上で干乾びていた服やらスカートやらを手に取って魔法のように一瞬で畳んでいった。そしてまるで洋服と会話できるみたいに正確に、クローゼットと箪笥の中の定位置に一着一着戻していく。「出したらしまうって、いったい何回言ったら覚えてくれるんだろうね、高校一年生さん」
「ちょっと黙っててくれる? 今、何着てくか考えてるんだから」
「あんた、秀ちゃんにまだ高校の制服姿見せてないんでしょ? せっかくだし見せてやったらどう?」
母は「どうせ、何で休みの日に制服なんか着なきゃならないのよ、という反論をされるんだろう」というようなつまらなそうな表情を浮かべながら、なおも私の部屋に散らばった服を片付ける作業を続けていた。私も条件反射的に、母が予期していたであろうその言葉を口に出しそうになったけれど、その時になってようやく数か月前、この部屋で交わされた会話のことを思い出した。いざ思い出してみると、どうして忘れていたのかが不思議になるほどだけれど、私が思わぬ事態に呆気にとられているうちに、反論が聞こえないことを不思議に思った母が手を止めてこちらを振り返った。
「制服姿見せてやったら、あんたに入学祝をまだ渡してないこと思い出してくれるんじゃない?」
「はぁ」私は何となく母の言葉に素直に従うのが嫌で、わざと苛立たしげな溜息を零してみた。「そうだね。せっかくだし、綺麗なうちに見せとかないと。半年後とかに汚くなった制服着てるの見られても嫌だもんね」
珍しく自分の提案に我が子が従順だった満足感からか、母は割に早く私の部屋を出て行った。最後に「ちゃんと部屋片付けとくんだよ」と言い残し、それからゴミ箱の脇に落ちていた糸屑をきちんとゴミ箱の中に放り込んだ後で。
私がブラウスの袖に腕を通し、スカートを履いて、もう一度鏡の前で身だしなみを確認しているところで玄関のチャイムが鳴った。階下で母が秀介にぃを出迎える物音が聞こえる。「ユリ、準備できたのなら降りてきなさい」と母から声がかかり、私は気合を入れるために自分の頬を叩いた。
その日の行程の詳細は、あれから五年の歳月が流れた今でも思い出すことができる。午前十時を軽く回った頃、彼はいつもの飾り気の無い洗練された服を纏ってやってきた。リビングで母たちと談笑しながら一杯だけコーヒーを啜ったみたいだったけれど、私が階段を下りていくと秀介にぃはすぐに腰を上げ、「へぇ、似合ってるな、その制服」と挨拶替わりの一言を投げかけ、そのまま私を連れ立って車で海岸線沿いを気ままにドライブしに出かけた。母には誕生日プレゼントを買いに行く、という風なことを言って家を出ていったのだけれど、秀介にぃはパーティに連れて行かれる子供たちのように綺麗に包装されたプレゼントを持ってきていて、私は私の知らない音楽の流れている車内でそれを受け取った。中身は青みがかった銀色がその日の空の色に良く馴染む、小さなサファイアが胸元で光っているティファニーのネックレスだった。見るからに高校一年生がつけるような代物ではなかったけれど、こういったものを貰って嬉しくないわけがなかった。高価であることなど重要ではないと考えていたけれど、いざティファニーのネックレスなんてものを受け取ってみると、自分がそれを着けるに相応しい女性であるという保証を受けたようで、体の内側から綺麗になっていくような感じまでした。
女神が落とした涙の一滴のように煌く海を、車を運転する彼の横顔越しに眺め、アスファルトで反射する太陽の光に時々美しいサファイアをかざしてしてみたりしながら、私は人生で初めての恋人とのドライブを楽しんだ。「恋人同士である」というきちんとした取り決めを交わしあったたわけではないけれど、少なくともそれは私にとっては恋であることに間違いがなく、まだまだ子供の私が自分勝手に「私達って良いカップルだよね」なんて言ってみても、大人な彼は笑って頷いてくれるだろう。太陽の光と海の青で磨かれた風が身体を洗っていく。目を閉じ、耳をすませば、今でもすぐにその時の風を感じることができる。眩しさに目を細めながら煙草を吸っている彼の横顔。この世ではどんなものが美しいのか、ということをきちんと心得ていて、その存在を疑うことを知らなかった私。十六歳の柔らかい肌の感触は確かにそこに存在していた。
ドライブを終えて家に戻ると、母と父と合流し、近所のこじんまりとしたイタリアンレストランに昼食を食べに行った。パスタとピザ、それから秀介にぃに分けてもらった一口のささやかなワイン。大人の味が喉元で熱く唸り、咳き込んだ私の胸元でブラウスの中にしまい込んだティファニーのネックレスが揺れた。食事が終わると誕生日ケーキがロウソクと共に運ばれてきて、薄暗い店内の中で私はロウソクの炎で頬を染めながらその火を吹き消した。煙の匂いと暗闇の中で網膜に揺れる幻炎が、今では鈍い痛みとなって思い返される。幸福の影に犯されるように私は今でもその日のことをふと思い出してしまうのだけれど、その度に私は迷子になったみたいに自分の今いる場所がどこなのかよくわからなくなってしまう。そして、そんな私をまだ見ぬ土地へと導くように、その日の午後のことが続けざまに頭の中に広がっていく。あの港町に散りばめられた色とりどりの灯りたち。徐々に遠ざかっていく景色のように、私は年を重ねるにつれて、その全体の様相をゆっくりと掴めるようになってきていた。
昼食を食べると、私と秀介にぃの二人は映画を見に街へと繰り出した。母も父もワインのアルコールに当てやられて、休日で賑わう人ごみの中を歩くよりは、静かな家の中で涼しい風を受けながら酔を覚ましていたいと申し出てきたのだ。せっかくの誕生日に悪いけれど。そんなことを言われてしまって、その方がありがたいんだけどな、と内心では感じていた私は間の抜けた笑みを浮かべて「いいよ、全然」と返した。秀介にぃもほんのりと顔を赤く染めていたが、「大人三人がソファの上でくたばっているのを見てるよりも、最近流行ってる映画を見てたほうが楽しいだろう?」と私を連れ出してくれた。といっても、車は運転できなかったから、家族連れやら部活の仲間同士やらカップルやらでごった返す電車に乗ってだったけれど。昼過ぎの少し黄色い陽射しに温められながら、私は電車のガタガタと揺れるドアと背の高い彼との間に挟まれていた。ほんのりと香る煙草の匂いと芳醇なワインの香りが私を柔らかく包み込む。大人の匂いが制服姿の私を安心させてくれた。
何も考えずに電車に飛び乗ってしまったせいで、いざ映画館について上映時間を確認してみると、私が見たかった映画の次の上映まで二時間くらい時間が空いてしまっていた。仕方なしに、とは言っても心の内では、「デートの時間が長くなった」と喜びながら、私は彼と一緒に休日で賑わうショッピングモールを歩き回り、時折彼の腕に手を回してみたりしながらスカートの裾を翻した。洋服や雑貨を見て回り、ゲームセンターで小銭を捨て、少し疲れてきたところで太陽の下に躍り出て木陰でアイスを食べた。学校の話、恋愛の話、将来の話、他愛も無い冗談。これ以上ないというくらい取り留めのない会話だったせいで、その内容なんて全然覚えていないけれど、木陰に吹き寄せる柔らかな風や、ちらちらと揺れる木漏れ日だとか、そういうものの感覚的なイメージだけは今でもしつこいペンキのように私の身体を色とりどりに染め上げたまま残っている。木漏れ日で煌めく品の良い銀の腕時計に視線を落とした彼が「そろそろ時間だな」と私に声をかけてきた。
その時に見た映画は、数十分前に私達が交わした会話くらい取り留めのない平凡なラブストーリーで、今でもそのあらすじくらいはざっと説明できるけれど、説明したところでしないのと大差無いようなものだった。ただ、幼い私はその映画の世界にいともたやすく取り込まれて、ラストシーンで少し鼻を啜ったりした。薄暗い映画館を出ると、彼は「ユリは純情だなぁ。おれにはそういう純情さなんて、もう三分の一すら残っていやしないよ」と笑いながら言った。「昔、そういう歌があったんだよ」と付け足す彼に、私はまるで何も知らない子どものような扱いをされているようで少し腹が立ったけれど、彼がそばにいてくれるのなら、そういう自分の無知な所も好きになれる気がした。私は何も知らないまま、人形のように彼に大切にされているだけでいい。そんな風にもちょっぴり考えてしまっていた。
映画館を後にして、その映画のエンディングテーマを何となく頭の中で流しながら、騒々しいショッピングモールの中を彼と並んで歩く。ふと目をやった大きなガラス窓から見える外の世界には既に夕闇が垂れ込めていて、港町は綺麗にライトアップされ始めていた。「小腹、空いてないか」と誘われて、フードコートでたこ焼きとジュースをご馳走してもらった。私が「なんか、わざわざあんな洒落たレストランなんて行かなくても、これで充分美味しいな」と言うと、秀介にぃはまたも「子供だなぁ」と私を馬鹿にする。
「そんなにムッとするなよ。まだ高校生なんだからそれで当たり前なんだよ」
「でも、さっきだって映画見て泣いてる私見て、馬鹿にしたようなこと言ったじゃない」
「馬鹿になんかしてないさ。単純に羨ましいんだ。そして、懐かしいのかもしれないな」
「懐かしいって……秀介にぃも、高校生の頃はわざわざ高級な蕎麦屋に行くよりも、カップラーメンの方が好きだった、とかそういうことあったりしたの?」
「まぁ、俺も昔は高校生だったからさ。好きな女の子を乗せた電車を走って追いかけるような映画に感動したこともあるよ。でもな、知らない間にそういうものを『子供騙しだ』って否定するようになって……で、今となってはもう何も感じなくなった。いや、むしろある意味ではまた好きになったかもしれない。よくわからないな。でも、これだけは間違いなく言えるけど、おれはカップラーメンより蕎麦の方が好きだよ」
「なにそれ」私は思わず笑いを零した。「でも、やっぱり大人はさっきの映画みたいなラブストーリーって『子供騙しだ』って思うんだ」
「うーん……いや、やっぱりそういう訳じゃないかもな。子供騙し、ってのはただのカッコつけに過ぎなくて単なる同族嫌悪……うん、そうだな、自己嫌悪ってところか。子供の頃の自分が抱いていた、実際に起こることなんてなかったちゃちな理想と照らし合わせたりして恥ずかしくなるのさ。憧れがいつの間にか妬みに変わって、『自分に不可能だったから現実にはそういうものは無いんだ』と思いたいって感じだな。そして、そういう失望の苦しさからなのか、いつの間にか、まともであることよりも普通であることに生きやすさを感じてあっという間に流されてしまうんだ。理想を失ってしまえばもうどこに向かって飛んで行っていいかわからなくなる……そしたら、あとは自分の足首に義務や責任という鎖を繋いで、ふわふわと変な場所へ流されないように普通っていう地べたに貼りついているしかないのさ」
「よくわかんないけど、それが大人になるってこと?」
「そう、それが大人になるってことだ。何もレンタルビデオ屋のアダルトコーナーに入れるようになった、とか、彼氏と温泉旅行に行ったとか、就職したとか、結婚したとかそういうことじゃないんだよ。ちゃんと知ってたかぁ?」
「はは、それくらいわかるよ」
彼の脳内を蝕んでいたアルコールはとっくに醒めてしいるはずだったけれど、彼は何となくまだ酔いに浸かっているような感じで、ぼんやりと遠くの方を眺めながら、どちらかと言えばたまに自分自身に向かって喋っているような雰囲気があった。時折、あえて私にはわからないような言い回しを使ったりして、私を意図的に突き放すような話し方をした。そのくせ、思い出したように私に笑顔を向けながら他愛のない冗談を言ったりもする。それでも秀介にぃは彼なりに、私との会話を続けられるように色々と舌を回していたけれど、そのうちにそれも面倒になってきたようで、「そろそろ行こうか」と先に席を立った。私は慌てて後を追い、少し離れたところで私を置いて来てしまったことに気付いてその場で立ち止まっていた彼に追いつくと、私達はまた並んで歩きながら人で賑わうショッピングモールを後にした。
外に出ると日中美しく輝いていた太陽は完全に沈み、近代的なビル群の影に隠れた月が雲を照らしているのが見えた。駅に向けてやや人の流れもあったけれど、私達は、このまま帰るのもなんだから、と夜の港町へとくり出すことにした。ゴールデンウィーク半ばの港町の通りは人でごった返していて、はぐれてしまわないように自然と私と秀介にぃの手は繋がる。空をうっすらと覆う雲に、ぼんやりと光りが反射するほどに執拗にライトアップされた街には、五月の生温い夜風が流れていて、浮き足立っている人々の笑い声を耳元まで運んでくる。騒がしくも煌めいている夜の街を並んで歩いていると、「すごい人だね」とか「オイスターバーだって」とか、そういう高揚感を示す反面、味気ない凡庸な言葉たちが後を次いで出てきた。私たちはなおも歩き続け、港を望める歩道橋の上までやって来た。そこもやはり人でごった返していたけれど、彼は不意にそこで立ち止まり、手すりの上に肘をかける。それから繋いでいた手を離し、ズボンのポケットをまさぐり、煙草の箱を取り出した。私も彼に倣って手すりに手を掛け、港の美しい光の海を眺めてみた。対岸の倉庫街はぼんやりとした光に包まれていて、手前の騒々しい光の羅列とは対照的に、どこか物哀しい雰囲気と人肌程度の温かみを感じさせた。がやがやという咽喉と舌の織りなす音が私の鼓膜を揺らしていたはずだけれど、頭の中ではその遠くの景色の中で足元のアスファルトを踏みしめる誰かの静かな足音が鳴っていた。そしてその倉庫街の無機質な屋根々々の上では、半分ほど欠けた歪な形の月が黒い雲の端に霞みがかって光っている。風が吹きすさび、周りにはもう闇夜だけしか存在しない。街から倉庫街へ、そして倉庫街から月へ、段階的な光の層は不思議なことに、遠くにいけばいくほど、薄弱とすればするほどにどこか宿命めいたように煌めいて、このままこの景色を眺めつづけていたら、これから先永遠にこの光たちが私の網膜にこびり付いて取れなくなってしまいそうな感じがした。そんな風に自分の夢想に吸い込まれそうになっていると、隣からほんのりと煙草の香が流れてきた。その匂いに私はまた街の喧騒を思い出す。
「きれいだね」
私は手前の港の光を見下ろしながら、どこか「君の方が綺麗だよ」なんていう臭い台詞を期待して言ってみる。けれど、彼は何か苦いものでも口にしたような顔で煙を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「こういった人混みは苦手なはずなんだけどな……でも、やっぱりここは綺麗な街だよ」
「だよね、うん」私は頷きながら、また光の景色を眺めた。「今日はほんとに連れてきてくれてありがと。それにせっかくの休日なのに、一日中付き合わせちゃって……」
「ははは、そんな気遣いができるなんて、ユリももう大人だな」
「今日、一歳年を重ねましたからね。それに秀介にぃと喋ってるとなんだか私も大人になった気分になるの。高っかいネックレスも貰ったし」
「そんなに高くないよ。まぁ、高校生一年生にプレゼントする分には高級だって思われるくらいの丁度良いラインの値段ではあるけれど」
「はぁ……そういうことはプレゼントした相手に言わない方がいいよ。せっかく気分良かったのに、なんか一気に冷めちゃった」
「ははは、ごめんな。こんなんじゃ俺もまだまだ大人にはなれないなぁ……じゃあ、お詫びにまた何か買ってやるよ」
「ほんと?」
「あぁ。何が良いかな……」
秀介にぃは煙草の煙を深く吸い込み、まるでこの星の数ほどの珠のような光の中から十六歳を迎えた少女へのプレゼントとして一番適当と思われるものを見つけようとしているみたいに目を細め、景色の中に視線を投げかけた。煙を吐き出すタイミングで「やっぱり高っかいものがいいよな」と言うので、私は「もちろん」と返す。
彼は尚も難しそうな表情で、何が良いか、と考えを巡らせている様子だった。一流企業に勤める彼が思う高価なものってどんなものなのだろうか。いや、そもそも、私はどれだけの値段のものとつり合うことができるのだろうか。彼にとっての私の価値っていったいどれだけのものなのだろうか。
「なぁ、俺の勤めてる会社って、所謂一流企業だってこと知ってたよな?」
「うん、もちろん」
「……でも、悪いんだけどさ」彼は港の光を瞳に映しながら、物憂げに言う。「俺はまだ大人になりきれていないんだ……そう、もしも俺にもう少しだけ……地べたを走り抜いてくだけの気概があったら、ここから見える光を全部ユリにあげることができるんだけどな……」目を細め、秀介にぃはまた煙を吸い込んだ。「今はせいぜいこんなものしかあげられそうにない」
私は目の前に差し出された煙草を唇に挟むと、恐る恐る息を吸い込んだ。咽返る私の視界の中で、物静かに燃える赤い光の線が蝶の羽のような紋様を描いた。
帰りの電車は混みあっていて、私達が乗り込んだ時にはちょうど一人分の席しか空きが無かった。私は彼に勧められるままそこに腰を降ろし、吊り革を掴んだまま私に影を落としている彼を時折見上げたりしながら、懐かしい我が家へと運ばれていった。彼は私と目を合わせようとせず、一人、思索に耽る哲学者みたいに窓の外をぼんやりと眺めていた。彼が頭の中で何を考えているか、はたまた、ただ今日の綺麗な光の街を思い返しているだけなのか私は少し気になって、何とも言えない疎外感の中で頭を悩ませていたのだけれど、次の瞬間には、彼の「もう着くぞ」という声で眠りから覚めているような始末だった。
家へ戻ると私達は快く両親に迎えられ、今度はフルーツがたっぷりなやつだったけれど、またケーキを食べながら談笑を楽しんだ。幻想的な時間は遠くに消え去り、時計の短針は老人が若返るみたいに折れた腰を伸ばしていく。秀介にぃは最後に「また来年も呼んでください」と私の両親に言うと、日付が変わる前までには一通りの片づけと、各々が寝支度を整い終えられるような時間を見計らって、あっさりと帰って行ってしまった。風呂に入り、開け放った窓から流れ込む夜風で髪を乾かしながら、何となくベッドの上に横になる。眩しいな、と蛍光灯の白々しい光から身を守るように腕をこめかみに回したことを境に、私の意識は港を望むあの歩道橋の上へと飛んで行った。
目が覚めると電気は消えていた。カーテンの隙間からは鼠色に染まっている静かな街が見えた。墨が浸み込んだみたいな薄暗い部屋の中、目を凝らしてみる。そして今日が曇りなわけでなく単にまだ夜が明けていないだけだ、ということを小さい頃に買ってもらったままの安っぽい目覚まし時計の針を見て知る。鳥もまだ眠っているようで、閑静な住宅街はまるで幽霊の街みたいに静けさの底に沈んでいた。机の上には彼から貰ったネックレスが、まだ夜に支配されている太陽の薄い光でそれとなく煌めいている。昨日感じた幸福感のようなものは全てこの美しい装飾品の中に吸い込まれてしまったみたいに、何故かもう私の中には、光の海を眺めるときの彼の瞳のような、何とも言い難い鈍い虚無の灰色しか残っていなかった。
*
何故だか、こうして私は未だに十六歳のあの誕生日のことを思い出してしまう。もう五年も前のことだし、彼が本当に「また来年も」と言ったのかどうか……もしかしたらその言葉は勝手に私が作り上げてしまったものかもしれないが、しかし、私の十七歳の誕生日を迎えるころには、彼が好んで吸っていた煙草の吸殻よろしく、彼は一切の比喩表現的な意味抜きでの「灰」と化してしまっていた。死因は睡眠薬による自殺ということらしかったが、年頃の私に彼の死の詳細が教えられることは無かった。
こんなことを思い出しているとどうしようもない気持ちになる。悲しみとも怒りとも言い表せない、少なくとも言葉なんていう塵みたいなものでは、正確には表現できない感情だ。溜息をつき、ベッドの上でまだ寝息を立てている平田道則を見やる。なぜ私は今、彼のこのどうしようもない部屋にいるのだろう。あの鈍い男の満足そうな寝姿はなんだ。昨日の夜の私の行動の全てがまるで煙のように空虚に感じられる。
喉の奥がわななき、軽い耳鳴りがした。カーテンの隙間から覗く曇り空は、あのときの幻想的な夜明け前の空のようにも見えたし、高校の担任の先生から呼び出され、急遽学校を早退することになったあの雨の日をも連想させた。夏の日暮れに無感情に降りつける雨音が今も頭の中で鳴りやまない。
指先に挟んでいた煙草を咥え直し、ライターを摘み上げる。秀介にぃの部屋には、何かの引用なのか、「海峡の向う側に僕にも緑色の灯光が見えたなら、或いは時間を戻してやろうという気にもなれたかもしれないが」というメモ書きがあったそうだが、それ以外に遺書と思しきものはなかった。そのメモにあった言葉の意味を私は未だに知りえないが、言葉など、やはり塵のようなものだ。私はあの港町で煌めく光たちを映す彼の漆黒の瞳を見た。その色は、文学的な表現を使えば、もしかしたら死の色だったのかもしれない。ただ、全ては過ぎ去り、今、私はこの見慣れぬ部屋の中、過去を思い出すことしかできない。煙草に火を点け、煙を吸い込む。もうあの時のように咽返ってしまうようなことはないけれど、でもやはり、あの時の匂いはしなかった。
2014年