霏々

音楽や小説など

春甘 vol.1

春甘

 

 甘ったるい風が吹いている。三月の最終週、平日の午後。通りには春を告げる陽光が降り注ぎ、完全な暖色へと移行した生温い風が吹いていた。

 玄関の扉を開け、霞がかった空を見上げる。きっとそこまで眩しくはないのだろうが、昼過ぎまでずっと家に引き籠っていた裕也は顔をくしゃくしゃにして目を細めた。それから振り返ると鞄を下ろし、ステンカラーコートを脱いで玄関に放り投げる。どうせ家に誰かがいるわけでもないし、自分よりも先に帰って来る者もいない。

 鞄はひどく軽かった。手ぶらの時よりも軽いと感じさせる軽さがそこにはあった。タオルとインターネット料金の支払票と、高校時代から使い続けているペンケースと、ポケットティッシュ……等々。大半がゴミのような代物だ。裕也はその鞄の軽さが何だか気持ち悪く、尻ポケットに突っ込んでいた財布を鞄に入れてみる。あまり変化が無い。かえって尻のあたりの感触がなくなり気持ち悪いくらいだ。しかし、また財布を取り出すのも面倒なので、とりあえず裕也は歩くことにする。イヤホンから流れる音楽だけはまともだった。

 特に何があるというのでもない。時間があり、窓の外に観る陽気に誘われただけだ。裕也はスウェットから適当な洋服に着替え、靴下も履き、とりあえず髭も剃って家の外に出てみることに決めた。それが二十分前。しかし、ただ散歩するというのも何だか味気ない。散歩は好きだったけれど、どうせなら何か用事が欲しい。何かないかと十五分くらい(その二十分のうちの。)考えた結果、インターネット使用料金の振込みをしてないことを思い出し、支払票を鞄に放り込んだ。

「口座引き落としにすればいいのに」といつかの理奈は言った。

「お金を使っているっていう実感が欲しいんだよ」裕也は答える。

 へぇ、意外と古い考え方するんだね。理奈は面白そうに言ったが、内心では呆れているように裕也には見えた。自分が古い考え方の人間なのかよくわからないが、たしかに流行りものにはほとんど興味が無いし、デジタルなものに対して漠然とした不安感のようなものがあった。基本的に移り変わりが激しいものや、ブラックボックスなもの、そういう信頼し難いものがあまり好き慣れないのではないか、といつか考えたことがある。

 裕也は音楽に合わせてゆったりと歩いた。ジャージ姿の中学生が自転車で追い越し、陽光を照り返しながら走る黒塗りのワンボックスカーとすれ違う。大通りに差し掛かると、強い風が吹いていた。川から吹き降ろしてくるその風は、年中やむことがない。もちろん気のせいだろう。海風、陸風、凪。それと同じ理論がそこにはあるはずだ。常に川からこちらへと一方通行の風が吹くなんてことはあり得ない。カレーうどんを食べるときに限って白い服を着ている、みたいな心理学の法則があったはずだが、何という名前だったか。人間は観測という行為を以って世界の法則性を理解する。そして、人間は観測したいものしか観測しない。そういうことだ。

 遠目に観るアスファルトは薄っすらと逃げ水を湛えているようにさえ見える。もはや夏だな、と裕也は思う。まだ三月なのに異常だ。しかし、自分の周りでは異常なことなど何も起こらない。この一か月はずっと同じことの繰り返しだった。昼前に起きて、飯を食い、映画を観たり、本を読んだり、音楽を聴いたり、今日みたいに散歩をしたり。特にこれと言ってすることもなく、ただ漠然と時間の流れを感じているだけだ。しかし、それもこの三月の間しかできないこと。

 二月末には修士論文の提出も終えて、長く続いた学生生活も終わりを告げた。一人暮らしをしていた六畳間のアパートを引き払い、東京から地方の地元へと戻って来ておよそ一か月が経とうとしている。四月からは会社勤めをして自分も社会の歯車になる。裕也は、何だかそのことが不思議だった。

 大学時代には実に色々なことを考えた。

 自分のこと、人間のこと、世界のこと。

 順を追って考えよう。

 裕也は生まれてから今まで、きっと他人から見たら随分と恵まれた環境で生きて来たのだろう。両親ともに健在で、身体や知能のハンデも何もない。保育園ではなく幼稚園に入れてもらったし、その頃からいくつか習い事もさせてもらった。小学校に入って数年もすると、ちょっとした塾にも通わせてもらい、そのおかげかどうかわからないが、それなりの大学の修士号を貰えるくらいの教育をこれまで受けて来た。四月からの勤め先も、他人からしたらそれなりに羨まれるような名の知れた大企業だ。両親はもちろん、いま付き合っている彼女の理奈も喜んでくれた。

 表面的な履歴書をなぞればそんな感じの人生。大学を一年分留年したが、それについてはまた後でしっかりと考えよう。しかしながら、大局的に見ればほとんど淀みの無い、絹の手触りとまではいかないが、絹ごし豆腐くらいには滑らかな人生と言えるのかもしれない。絹と豆腐ではまるで別物ではあるが。

 裕也にとっては、その自らの人生の表面的な部分を時たま誇りこそすれ、それを愛することなどまったくできなかった。あるいは、ほとんどの人間がそうなのかもしれない。自らの履歴書を愛する人間などそう多くはいないだろう。しかしながらその一方で、特に裕也においては、それを僅かに憎んですらいた。今はそこまでではないが、少なくとも大学の学部時代にはずいぶんと明確にそれを憎んでいたように思う。

 暖かい陽射しを首筋に感じながら、そんなことを考えているうちにコンビニエンスストアまで歩いてきた。裕也は鞄から財布と支払票を取り出し、レジに置く。

「こちらお返ししますね」

 大柄な男性店員はスタンプの押された控えを裕也に渡して来た。たぶん裕也よりも三つか四つくらい上だろう。目の前の男性店員は冬眠をようやく終えてゆっくりと起き出して来たばかりの熊のように見えた。

 裕也は五千円ばかりの金を財布から抜き取る。

 それから、目の前の店員は平日の昼間に軽装で店にやって来る自分を見てどう思っているのだろう、と考える。ニートか何かだと思うだろうか。それは厳密には間違いではあるが、半分以上正解でもある。この一か月、裕也には何も肩書と言うものが無い。大学院の学生証も先日の卒業式で大学側に返却をした。入社式は来週だ。

 しかしながら、立場を反転させてみる。

 店員はおそらく三十手前にもかかわらず、コンビニエンスストアで働いている。いい年をしてアルバイト、つまり非正規雇用だ。対して裕也は大企業で働くことが決まっている。正規雇用で。そこまで考えて、裕也は少しだけ気持ちが楽になった。が、そんな風にして下らない優越感に浸って安心している自分に気がつくと、気分はより滅入った。視界がほんの少しだけ暗くなる。いや、もしかしたら彼はこのコンビニエンスストアの運営会社の社員で、今は現場実習をしているだけかもしれない。今は平日の昼間だし、それは全然あり得ることだ。そこまで考えることで、ほんの少しだけまた視界が明るくなる。

 しかし、いずれにせよ、自分と目の前の店員を天秤に乗せて図っているだけに過ぎない。なぜ、そんな無意味なことにあれこれと気を揉まなければならないのか。これだから社会は嫌なのだ、と裕也は思う。面倒極まりない。

 人間はみな平等なのです。

 誰の言葉かなんて知らないが、取りあえず自分はそういう価値観の中で生きている。たしか、この一万円札に描かれた人間も似たようなことを言っていたはずだが、裕也は自分でもほとんど気がつかないうちに、その「平等」を達成するために、各々が乗っけられた天秤皿の上に様々な種類の分銅を置くようにしていた。例えば、指が一本足りない人が目の前にいれば、その人の皿に指一本分の何かを置いてやるか、あるいは、自らの皿から指一本分の何かを外に放り投げた。しかし、指一本分が何に相当するのかはまったく見当もつかない。

 さて、と裕也は考える。

 インターネット使用料の払込みも終えた。これでもう何も用事はない。午後一時半の得も言えぬ静けさに街は浸っている。

 何もすることがない。五分程度適当に歩きながら自分のしなければならないことを考えて、とりあえず昼食を取ることにした。二時間前くらいに食べた朝兼昼食をただの朝食にすれば良い。しかし、腹も減ってなければ、食べたいものもこれと言ってない。

 適当に散歩をしながら目についた店に入ればいい。

 まったく、と裕也は息を吐いて、ひとり笑う。

 することもなければ、食べるものもない。いったい自分は何のために生きているのだろう。自分に与えられた使命などなく、ましてや自らの意志というものもない。時間だけは莫大にある、数年前までそう思っていたが、気がつけば自分も社会人になる。一週間後には。

 システムと効率性は同じ物事の別の側面である。

 現状、この社会は効率至上主義的に発展してきており(それは効率性の象徴である経済を中核に据えていることが主な原因であるわけだが)、その社会の一部として自分が求められているのであれば、それはすなわち、自らをシステムの中の一つのモジュールとして機能させることが必要となる。たとえ、それが社会の中でOS(オペレーティング・システム)のような位置づけにあったとしても、それはそれで一つのモジュールではないだろうか。

 ある意味では、自らのこの意志の欠落は社会に適合していることの象徴ではないか、と裕也は思う。Reconfigurableな使い勝手の良いモジュールとして、この社会に育てられてきたのが自分であり、そこではモジュールのためにシステムがあるのではなく、システムのためにモジュールが存在しているのだ。だからこそ、自分には意志などなく、意志を持っているのはあくまでシステムとしての社会、あるいはもう少し自然哲学的に「この宇宙」とでも言い表してやればいいだろうか。

 意識の境界問題。

 自らの身体の細胞一つひとつが生命体であり、しかしながら結果的にその集合体である「自分」という一つの生命体が形作られている。自分は一つの生命体として意識を有しているが、果たして細胞一つひとつが意識を持っていないなどと言えるだろうか。あるいは、その逆で複数の人間の集合体である社会が意識を持っていないなどと言えるだろうか。

 そんな風に責任転嫁をしてみたところで、結局自分は人間というレベルにおいて、意志を持たない存在であるわけで、その事実をうやむやにすることはできない。

橋を渡ることにする。大きな橋だ。どれくらい大きいかと言うと、交差点を曲がってみたらちょっとした上り坂があって、そのまま進んでいるうちに気がつけば川の上に浮かんでいる、そんな感じの大きさだ。川面はちらちらと光を照り返し、風が渡っていく様子までも映し出している。さざ波に岸の小舟が揺れる。十年以上もの間、持主の気まぐれで時折水面を走って来た感じのぱっとしない小舟だ。遠くに海が見え、川面よりも一層深い青を湛えている。

 昔のこと。そう、高校時代を思い出す。全てはその十七という呪われた歳のせいだ。

 初めて彼女を見たときの感想を今でも裕也は覚えていた。

 高校一年生のとき、夏休みの体験実習みたいな意図も効果もよくわからない行事の説明会がとある教室で行われた。選択した実習の内容に合わせて、同学年の連中がそれぞれ別々の教室に集められていた。裕也はクラスメイトに合わせたか何かで福祉系の実習を選択していた(このときも自らの意志がないことを思い出して、また思わず笑ってしまう)が、その教室の後ろの方の席に裕也は座り、何席か前のすらりとした女の子を目に留める。

「あぁ、こんな子はきっと誰が見ても素晴らしい男と付き合ったりするのだろうな」

 それが、裕也が初めて彼女を見て抱いた感想だった。名簿を確認して、彼女の名前を知る。白井海織というのが彼女の名だった。

 不思議なことだが、そのおよそ一年後、裕也はその白井海織と付き合うことになった。経緯というのもほとんどなく、二年生に学年が上がるタイミングで隣のクラスになり、廊下での擦れ違いざまによく目が合うようになり、連絡先を交換して交際に至った。それだけだ。

 金色の日々。五月の連休。その少し手前くらいから付き合い出したのだと思う。裕也は彼女のことが好きだったが、どのようにして関係性を深めていけば良いのか分からず、結局夏休みに一緒に花火を見たり、夜の海を眺めに行ったり、ふとしたタイミングで手を握るくらいのことまでしかしなかった。周りの人間がやっているように、性交に至ることもなく、キスさえしなかった。一緒に学校から帰ったり、その帰りがけに公園に寄って当てもなく話をしたり。彼女と付き合いだしてすぐ、夏休みに入る前に裕也は部活も辞めて時間を作ってみたが、それでも何故だか彼女との仲を深めることはできなかった。いや、深めるための行動が裕也には起こせなかった。

 まるで日曜日の午後のようにあっという間に季節が過ぎ去った。秋が終わり、冬がやって来ると、彼女へのメールの返信が遅れるようになった。気持ちが冷めてしまったのかもしれない。裕也はそう思ったが、そう思うたびに自分はそれでも彼女のことが好きなのだと再認識する。クリスマスイブに雪を踏みしめ、彼女と一緒にアクセサリーを買いに行ってみた。バレンタインには彼女から手作りのチョコレートケーキを貰った。しかし、それで全てが終わった。春休み、三月の生温い風は裕也を微睡の中へと閉じ込め、高校最後の年が始まる始業式の日の朝、裕也は白井海織と別れた。

 話がしたい、と裕也は河川敷に誘われたが、裕也は別れを切り出される前に自分から彼女を振った。何故か泣き出す彼女を抱き締めることもできず、裕也は立ち尽くし、しばらくして学校へと向かう彼女の背中を見送った。しばらく江風に吹かれ、春の芝生の香りを肺に送り込み続ける。そして、もう彼女に追いつくこともないだろう、というくらいになって裕也もようやく学校へ向けて歩を進めた。

 それが彼女との全てであり、大学に入学してから少し連絡を取り合ったりもしたが、結局よりを戻すどころか、再びどこかで会うことすらなかった。大学一年の冬、裕也は家に閉じこもり、単位をいくつか落としてしまう。その翌年もさらに単位を落とし、大学三年になるとほとんど学期末のテストすら受けることなく、四年に上がるための単位数に届かなくなってしまい、そのまま留年した。

 思い返せば、何ということのない人生だったと裕也は思う。

 表面的には触り心地の良い人生。そして、内面的には白井海織を失っただけの人生。結局はそのギャップが裕也を戸惑わせ、大学を一年留年させはしたが、その矛盾する二つの要素は裕也の中で特に変化することもなく、来週には社会人になろうとしている。強いて変化をあげるのであれば、理奈を手に入れはしたが……それもどれくらい意味のあることなのか……

 橋を渡り終わり、しばらく歩いていると白井海織と二人でよく訪れた公園が見えて来た。せっかくだから、と裕也は大通りを渡り、公園へと足を向ける。

 春休みではあるが、公園には誰一人もいなかった。大通りのすぐ傍だし、信号のある交差点も遠いので、立地としてはあまり良くない。それに今どきの子供は公園で遊んだりしないのかもしれない。よく二人で並んで腰かけたベンチはそのままそこにあった。土は乾ききって、白色の砂が芝の薄い緑に絡みついていた。東屋の中は昼時の濃密な影で満たされ、誰もいないのに妙な存在感がある。裕也はベンチに腰かけて彼女との会話の内容を思い出そうと試みたが何も思い出せない。座ったままあれこれと考えているうちに、彼女が好きだと言っていた音楽を思い出すことができた。ちょうどミュージックプレイヤーにその曲が入っていたので再生してみるが、あまりにも今の気分とかけ離れていて、一番が終わるとすぐにまた別の曲に変えた。いや、このまま聴いていたら泣いてしまいそうだったから? いや、そんなことはあるまい。

 裕也は何かをためらうようにゆっくりと腰をあげ、それから空を見上げた。相変わらず春霞の青空がそこには広がっていた。飛行機も飛んでいなければ、鳥も飛んでいない。ところどころに浮かぶ雲は何かの不手際で出来たシミみたいに見える。

 大通り沿いを歩き、小さな橋の上から下を流れる小川をしばらく眺めた。鴨が二匹連れ立って泳いでいる。彼らは裕也を見つけると、橋の下へと隠れてしまった。背後を時折車が通り過ぎて行くが、裕也にはそれがどこか別の次元で起こっている出来事ように感じられた。

 車に乗る彼らには彼らの人生があり、例えば裕也が彼らに対して何かを言ったとする。

 ほら、この小川を見てると、春がやって来たという感じがしませんか。

 しかし、彼らは気にも留めずにたちまち道の向こうに消え去ってしまう。

 次にやって来る車に向けて今度は、あなたがそうやって車に乗ってガソリンを燃やすとどれだけ二酸化炭素が排出されるか考えたことがありますか、と言ってみる。しかし、やはり、彼らは何も言わずどこかへと消えていく。

 何か困っていることはありませんか。自分にできることは少ないけれど、良かったら手をお貸ししますよ。僕は何かの役に立ちたいんです。

 何を言っても彼らが止まることはない。

 だから、裕也も何も言わずに小川を後にする。誰も自分を求めてはいないし、自分も誰も求めてはいない。しかし、少しだけ考え方を変えてみる。裕也は特定の機能を備えたモジュールであり、また車でどこかへと走り去る彼らもまた別の機能を備えたモジュールである。それはシステムを介して繋がっており、互いは互いに無意識のうちに相手を必要としているのだ。昔は人それぞれがもっと独立的に一つの小規模なシステムとして活動していた。それが、時代とともにシステムの大規模化が進み、一人ひとりがモジュール化されて管理されるようになっていった。人間は直接的に他者と繋がるのではなく、社会というシステムを通じて間接的に、あるいは暗喩的に関係性を持つようになったということかもしれない。

 けれども、そんな風に考えてみたところで、自分が現在厳然たる孤独にあることは確かだ。裕也はそう考える。無論、東京には理奈もいるし、今は父と母、それから妹と一時的に生活を送っている。研究室の同期とはつい最近まで連絡を取り合っていたし、大学一年時から続けていたアルバイト先の後輩などから時折連絡が来ることもある。ほんの先の未来には四月から入社する会社の同期もいる。しかし、そういうことが問題なのではない。

 誰といようと、何をしていようと、裕也の心の中には孤独が巣食っていた。あるいは、全ての人間が本質的にはそうなのかもしれない。しかし、だとすれば、どうして人は孤独なんて言葉を作ったのだろうか。

 ある小説で、こんなことが書いてあった。うろ覚えだが、順番に思い出してみる。

 あるところに三兄弟がいる。彼らは船で難破し、とある無人島に流れ着いた。その無人島の海岸にはヤシの木があり、また魚も豊富に取れ、綺麗な泉も近くに湧いていた。ともかく彼ら三人は生きていくのに困ることはなかった。しかし、難破して数日後に三人の夢の中に神様が現れて、岬の向こうにある岩をこの島の山の頂上に運ぶようにお告げを与えた。翌朝、三人は夢に出て来た岬まで歩いていくと、そこにはたしかに三つの岩が並んで置いてあった。それは重たく、とても山の頂上へなど持っていけなそうである。一番下の弟はすぐに諦めて、自分はこの豊かな海岸で暮らしていくことを宣言した。二人の兄は一晩考えたあげく、岩を持って斜面を登り出した。何日もかけて二人は山の中腹辺りまでその岩を運ぶことができた。二人は振り返り、中腹から望む景色の雄大さに心を打たれ、神様のお告げの意味について初めて思い至る。

 今はまだ中腹だが、もし山頂まで登ることができたらどんな景色が見えるのだろう。しかし、それにしてもこの岩の意味はいったいなんなのだろうか。

 二人は山の頂上を見上げる。しかし、もうすぐそこで深緑を湛える森も終わり、あとは荒れた岩肌と、そのさらに上は深い雪が積もっているのが見えた。二番目の弟は、ここまで来ただけでかなり素敵な景色を見ることができたし、もう充分だ、と一番上の兄に告げる。たしかにここならまだ森の木の実などを食べて生きていくことができる。しかし、一番上の兄はまだもっと上まで登ってみたかった。二人はそこで別れ、兄は再び重たい岩を抱えて、さらに上を目指した。足場はどんどん悪くなり、そのうちに雪が降り出す。身体は凍え、食料もほとんどない。それでも兄は頂上を目指して岩を運ぶ……

 たしかこんなような話だった。そこで語られた教訓がなんであったかまでは、裕也には思い出せなかったが、理解というよりは共感に近い形で、裕也はその話を受け入れていた。

 裕也は思う。結局、人生というのはそういうものなのだ、と。人それぞれに生き方があるし、楽な暮らしを捨ててまで、好奇心に身を燃やす人間もいる。そして、重い岩の意味もわからず、場合によってはひたすらに山を登る。ただ一つ、裕也には整理のつかないことがある。それは、つまり自分はその三人の中ではいったい誰の立場にあるだろうか、ということ。自分には決して、一番上の兄のような好奇心、あるいは使命感などはなく、どちらかと言えば、一番最初に登山を諦めた一番下の弟に近い。しかしながら、自分が海辺で豊かな暮らしをしているかと言えば、そういうことでもない。これは、二人の中庸である二番目の弟に自分が近いということを意味しているのではない。何故ならば、裕也の心は疑いの余地なく、一番上の兄とともに荒寒な斜面を登っているからである。

 何故、自分はこんな重い岩を持って、こんな寒く、荒れた急斜面を登り続けなければならないのか。別に山の頂上に登りたいというわけでもなければ、神の存在など信じたこともない。だから、この身体は暖かい陽の降り注ぐ浜辺に置いてあるはずなのに、しかし、この目に見える風景には違和感を覚える。昼夜を問わず、寒く厳しい高山の幻影を見る。いったい自分はどこにいるのか、それすらも見失ってしまいそうだった。

 暖かい春の風が裕也を包み込む。耳元では、冷たい遠浅の夜の海みたいな音楽が鳴り続けている。頭が痛み、視界が揺れるような心持ではあるが、きっとそれはただの思い込みで、現代風に言えば、情けない被害妄想のようなものだろう。春の陽気に弛緩した関節の隙間に、アスファルトや自転車、それから洗いたての洗濯物や道を駆けていく子供の笑顔といった、硬くごつごつとしたものが入り込んで来る。溜息をついてみても、陽は眩しく、そして着実にその高度を下げていっているようだった。

 小さな郵便局の前を通り過ぎるときだった。視界の端で誰かが自分を呼び止めたような気がした。