霏々

音楽や小説など

君たちが教えてくれたこと、僕が知ったこと

 2杯目の缶ビールを開けて、底に泡が残っているグラスに金色の液体を注ぎ込んだ。狭い僕の部屋にはいつものようにリョウとマリとテツ君がいる。部屋にかかっている音楽に合わせてリョウは気ままに歌っていて、テツ君はチューハイを左手に、右手に持った本を読んでいる。マリは僕の隣に座ってスマホをいじっていた。

 

「なぁ、うちのお客にアンタんとこの上司の上杉っちゅうのがおんねんけどな」マリはスマホに視線を落としたまま、僕に話しかけている。きっと彼女は次々とやって来る誘いのメールに、どうやったら効果的な返信ができるか、ということを考えているのだろう。相手の誘いを断りつつ、自分への想いを募らせるように仕向ける、というのは彼女のような風俗嬢にとっては重要なスキルの一つに違いない。

「あいつ、あかんわ。こないだ、うちがせっかく誘いに乗ってデートしてやってんのに、お小遣いもくれへんし、バッグも買ってくれへん。ほな、あんたは何のためにうちのことデートに誘ってん、っちゅう話やわ」彼女はこっちに出て来てからも関西弁を直そうとはしなかった。まるで、そこに自分のアイデンティティが凝縮されている、と言った感じで。

「そらぁ、40後半にもなって、奥さんどころか、彼女の一人もおれへんし、うちみたいなホステスに入れあげたくなる気持ちもわからんでもないけどさ。やったら、ちゃんとうちに誠意を示せぇよな。金払いの悪い禿げに付き合うてやるほど、うちも暇やあらへんのやから。金、払う気ないんねやったら、お得意のパソコン広げて、そこら辺の男子中学生一式集めて、皆で一緒に無料エロサイトでも見とったらええねん。金かけずに、性欲も満たされようし、中学生にも感謝されようし。人を救い、善を為して、欲まで満たされんねやったら、一石二鳥やん。そう思うやろ」彼女は焼酎を飲みながらそう言った。僕は曖昧に笑いながら、相槌を打つ。

「アンタほんま反応薄いわぁ。なぁ、自分ではそれどう思ってん? ようそんな無愛想で社会人やってるわぁ。なぁ、リョウちゃんもそう思うやろ」彼女は僕にまで悪態をつきながら、今度はリョウに同意を求めた。

「さっきから煩いねんて、マリはちょっとは黙られへんのかいな」リョウはお気に入りの歌の良い所で邪魔されたのが腹立たしいらしく、露骨な舌打ちをかましながら答えた。マリは「同郷やろ。ちったぁ、うちの味方せぇや。明日たこ焼きでも買うてきてやっから」と返す。

「なんなん、たこ焼き、て。今時、関東の思い上がった高校生でもそんなつまらんこと言わへんわ。こない、おもろないやつが同郷とか。ほんま抜かしよるわぁ」

 

 また今日もマリとリョウの漫才が始まったので、僕はグラスに注いだビールをちびちびと飲みながら、音楽を聴くことにした。音楽の波間に、タイミングの良い合いの手を入れるようなマリとリョウの漫才を見ていると、やっぱり関西人は面白いな、なんて言う風に思う。

 僕は席を移動してテツ君の隣に行ってみた。テツ君はマリやリョウとは違って、おとなしくて、どこかおっとりとしているような性格だった。一人だけ「君」づけで呼ばれているのは、何も年上だから、とかではなく、ただ単に「君」づけが相応しい、実に心優しき性格だったからである。僕はテツ君に、何の本を読んでいるのか尋ねてみた。

「これ? これはね、リョウから借りたんだよ」そう言って、テツ君は本の背表紙を見せてくれた。聞いたことの無いタイトルが印字されている。

「あの好き嫌いの激しいリョウがこの本には随分と思い入れがあるらしくてね。革命家としての仕事にも結構役立つことが書かれているみたい。僕にはあんまりピンとこない部分もあるけれど、まぁ、リョウの言葉を借りるなら、この本は『本物』ということになると僕も思うよ。キラキラはしていないけど、この一節とかすごいと思うだろう?」テツ君は、本のページを2,3枚めくって、その言葉が書かれている箇所を僕に見せながら、その一節を口に出した。たしかに、革命家を職にしているリョウが好きそうな台詞だ。そして、詩人であるテツ君にも受け入れられるような、人間味のある言葉でもあるような気がする。こういう風に言うと、まるでリョウが人間味の無い人間であると言っているように聞こえてしまうかもしれないけれど、リョウほど人間味のある人間もそうはいない、ということはきちんと言っておかなければなるまい。

「おう、テツ君、その一節良いやろ。次に書く詩で引用したらえぇんと違う?」

 リョウはマリとの会話を切り上げたらしく、こちらの会話に入って来た。マリはまたスマホと睨めっこだ。

「僕は、僕の言葉を書くだけだよ。それよりもリョウの方こそ、次の演説かなんやらで使ってみたらどう?」

「せやね。まぁ、そのまんま使い回すっちゅうことはやりとうないから、もっと俺なりの解釈を乗せてきちんと歌ったるわ」リョウは得意気な笑みを浮かべて、僕と同じ缶ビールを、グラスには注がず、直接缶に口をつけて飲みながらそう言った。テツ君は「ふふ」と楽しげに笑うと、またリョウから借りた本に視線を戻した。僕とリョウだけが、向き合って酒を飲んでいる。

「なぁ、さっきマリが言ってたんやけど、上杉っちゅうマリの悪い客、お前んの上司やねんな」つまみの枝豆に手を伸ばしながら、リョウは僕に話を振ってきた。僕は、そうだ、と返す。

「お前はその上司、どう思っとんのや?」

「まぁ、可も無く、不可も無く、って感じだよ。マリも言うように、四十後半で奥さんも彼女もいないんだ。彼も他の普通の人同様、可哀想な人間の一人さ」

「さよか。まぁ、お前が言うんなら、そうなんやろな」リョウは退屈気な息を漏らして、また枝豆に手を伸ばした。そして、やっぱり僕に対してまだ言うべきがあることに気が付いたのか、また僕の方に向き直って言葉を続ける。「なぁ、お前の言う可哀想な人間ってどういう人間なん? 俺らも可哀想な人間なんか?」リョウの問いに僕は一度首を横に振ってから、答える。

「リョウたちは別に可哀想な人間とは思わないよ。まぁ、ある意味では可哀想なのかもしれないけど、少なくとも僕の目には正しいことをしている人間のように見える。街ですれ違う人間なんて、それこそリョウの言うように『ゼンマイ仕掛けのマネキン』みたいなやつだと思うしさ」

「ほーか……」リョウは枝豆の殻を唇で挟みながら答える。そして何かを考えるように天井を見上げたまま、またビールの缶に口をつけた後、何かを思いついたらしく、言葉を付け足した。「せやけど、その『ゼンマイ仕掛けのマネキン』達は本当に可哀想な連中なんか? 確かに、俺も奴らの満足気な表情を見とると虫唾が走るようなことはあんねんけど、せやからといって、可愛そうな人間だとは思わんよ。いや、正確には可哀想やと思ってんかもしれへんけど、できるだけそうは思わんよう、努力しとるつもりや」

「うちも、うちのお客はあまり好かへんけど、それでも可哀想とは思わんようにしとるなぁ。まぁ、そう言うってことは、実際のところ可哀想やと思ってねんけどもさ」マリはスマホをテーブルの上に置いて、僕たちの会話に入って来た。「おぉ、珍しくマリと意見が合うたな。どや、俺もマリの客にしてみぃひんか。やっぱり俺様クラスの男前やあらへんと、なかなか楽しめへんやろ」と、ケタケタ笑いながら言うリョウを無視して、マリは言葉を続ける。

「アンタは周りの人間のこと、アホらし、とか思っとるわけ?」マリの強い口調に少し圧倒されながらも僕は答える。

「まぁ、皆、良くやってるとは思うよ。そりゃあ、人の為に働くってことは素晴らしいことだしさ、そういう世間一般的な正しさに終始したい気持ちもわからなくはないけど。でも、そんな他人に決められた、社会に押し付けられた正しさを漫然と受け入れて、無表情に笑ってる奴らは、僕はあんまり好きじゃない。それよりも自分の求める正しさをちゃんと探してるマリとかリョウとかテツ君の方が、僕は好きだな」

「うちが正しさを求めてるとか、思ってんの?」

「……マリはそう言われるの嫌かもしれないけどさ。マリはただお金を稼ぐためにホステスをやっているわけじゃないだろう? 少なくとも僕には、マリはいつも苦悩して、その中で自分の正しさを追っているようには見える」

「じゃあ、何か? お金を欲しがるいうんは悪だ、とでも言うんか?」僕はマリに向けて言ったはずだったが、何故かリョウが僕の返答に、突っかかってきた。そう言われてしまったら、僕は「いいや、そういう訳じゃないけど」と返すしかない。

「お金を稼ぐことは別に悪いことでも何でもないやろ。むしろ偉いことや、と俺は思っとる。お前は今まで金で不自由したことがないから、そういうことがのうのうと言えんのや。それとも何か? お前は、金に対する欲が汚うて、精神的崇高さを求めるような欲は美しいとでも言うんか? ほんまアホちゃう? どっちも同じ『欲』っていうカテゴリーに属しとるやんけ」リョウの言葉は至極真っ当だと思ったけれど、「ほんまアホちゃう?」という箇所に僕は少しムッとしてしまう。

「そりゃあ、リョウの言うこともわかるけどさ」

「けど、何や」

「リョウだって、その精神的崇高さを求めてるから、革命家なんて仕事をしてるんだろう?」

「あぁ、せやな。俺はその『精神的崇高さ』を求めて革命家やっとるつもりや。しかも、それを世間様にも押し付けようとしてるんやから、そらぁ、並外れた『欲』の持ち主やと思われとるわなぁ」

「じゃあ、なんで……」

「けどなぁ、俺はその自分の『欲深』いう汚さをできるだけ受け入れとるつもりや。自分は何て悪しき生物なんや、と常に思いながら生きとる。たまには、金を追いかける奴らに腹ぁ立ってしゃぁなくなってまうけど。そういう時はほんまに鞄から包丁取り出してそいつらのことぶっ刺してやりとうなるけど、それでもグッと唇噛んで耐えとるんや。つまりな、自分の眼の前にそういう嫌な景色が見えとるから、それを変えるためにな、この歳になってまで革命家やってんねん」

「大事なんは、そういう悪しき自分をちゃんと受け入れる、っちゅうことやねん」マリは焼酎の入ったグラスを空けて、ここぞというタイミングで決め台詞を吐いた。

僕がマリとリョウの言ったことを考えていると、「ちょぉ、マリ姐さん。人の決め台詞奪うんゆうんわ、そらぁ、泥棒と一緒ですわ。ラーメン屋とか、ATMとかそういう行列の類の横入りと一緒ですって」などとまた二人で漫才を始めた。「僕がお祭りの金魚掬いの行列に並んどる小学生やったら、もう大泣きですわ」などと言っている。

「あのさ、君は今の自分のことを受け入れられていないんじゃないかな」と、悩んでる僕に向かって、さっきマリが言ったのと同じ「受け入れる」というテーマを掲げてテツ君が話しかけてきた。先程まで呼んでいた本はテーブルの上に伏せられている。

「君は今の自分をどう思っているの? 今の自分の生き方に満足できている?」

「……正直、今の仕事には満足できていない。っていうか、何で自分が……何の為に自分がこんなことをしているのかが、よくわからない」

「でも、君はとても真っ当に生きていると思うよ。ちゃんと仕事をしているし、ちゃんと人の為にもなっているし、将来家族を持つことになっても君なら安心だ。なんてったって、僕たちとは違ってちゃんと働いているんだもの」彼は自虐的な内容の台詞を吐いていたけれど、その表情には少しも自嘲の雰囲気が感じられなかった。

「そりゃあ、確かに僕はちゃんと働いている。世間一般から見たら、一応正しい人間の部類に入るのかもしれない。でも、なんかしっくり来ないんだ。自分が信頼している訳じゃない社会から、そんな風に『正しい』なんて思われても、ちっとも嬉しくならないし、それどころかそんな自分に嫌悪感すら感じてしまうんだよ」

「じゃあ、君は誰から……何から『正しい』と言われたら嬉しいんだろう? 君が信頼するものっていったい何なんだい?」

「それは、もちろん、君たちだよ。マリやリョウやテツ君のことだよ。僕が認めて信頼している人たちは君たちぐらいのものさ」

「そう言ってもらえるのは嬉しいけどさ。じゃあ、僕たちが仮に、今の君のことを正しいと言ったら、君は今の自分を受け入れられるのかい?」

「いいや、君たちは今の僕を正しいとは言わない。君たちには世間一般の言う『正しさ』とはまた全然違う、もっと真理に近い『正しさ』の基準を持っているはずだ」僕は真剣な熱を込めてそう言った。僕は彼らのことを本当に心の底から「正しい人達だ」と思っていたし、彼らが、世間一般の人達が押し付けられている「正しさ」とは違う、真の「正しさ」を追い求めているということを分かっていたから。けれど、テツ君の答は意外なものだった。

「あのね、君は信じないかもしれないけど、僕たちは君みたいにちゃんと働いている人達のことを正しい人間だと思っているんだよ」

「それは嘘だ。実際、リョウなんていつも口癖みたいに『あいつらは駄目だ』って言ってるじゃないか」

「ちゃうねん、それは、ただの僻みやねん」リョウはビールの缶が空になっているか確かめるために、手元でそれをクルクルと回しながら僕に言った。そしてさらに付け足す。

「確かに、俺は世の中には間違うてることがたくさんあると思うてるし、それを正したいと思うてもいる。けど、ちゃんと生きてる人にまで、それは押し付けたないねん。俺が気に喰わないと思うんは、もちろん堕落した人間個人個人に対してでもあんねやけどな、それ以上に色々な体制や社会の流れや、そういう不完全な枠組みに対してなんや。後は、言ってまえば、腐った野菜みたいな俺自身に対しての怒りやねん。やからな、お前の言うように、今のお前みたいな中途半端なやつにはイライラすんねんけど、もしお前がきちんと信念持って働いてんねやったら、俺は全力でお前を称賛したいと思っとる」リョウがそう言った後、マリが突然口を挟んでくる。

「リョウは話、長うてわかりにくいわ。ようそんなんで、革命家なんぞやっとるなぁ」マリは焼酎を飲みながら、リョウを睨んでいた。「何やて」と眉をひそめて返す、リョウのことは無視してマリは話を続ける。

「リョウが最初に言った、『僻み』言うんわな、うちらがちゃんと自分のこと歪んどるってわかっとるから出た言葉やねん。例えば、さっきアンタは、世間一般から正しい言われても納得できん、みたいなこと言ってたやろ? あの言葉はな、アンタが歪んどるっちゅう立派な証拠やねんで」

 僕はいまいちマリの言うことが理解できなかった。確かに僕は歪んでいるのかもしれないけれど、でも、本音を言うなら、僕やリョウやマリやテツ君こそが正しく、間違っているのは世の中ではないか、と思っていた。そして、彼らもまた、そういう僕の意見に同意を示す側の人間だと思っていた。が、マリはそんな僕の考えを否定する様な言葉をさらに並べ立てる。

「あのな、まず『世間一般』っていう言い方やめへん? まぁ、便利な言葉やからうちもたまに使ってまうけどな。けど、その『世間一般』いう言葉に皮肉みたいなもんが入ってたらあかんねん。皮肉る対象はな、『世間一般』やなくて『自分自身』にするべきや。うちらが歪んでるだけやねん。ただ、それだけのことやねん」

「でも、たとえ僕は自分自身が歪んでるということに納得できたとしても、自分や君たちが間違っているとは思えない。僕らか、あえてこの言葉を使うけど、世間一般か、どっちかが正しいって言うんなら、絶対に僕らの方が正しいと思う。ただ漠然と空虚な幸福感に満足そうに笑って生きているよりは、ちゃんと自分の本当の在り方を求めて苦悩している僕らの方が正しいと思う」

「あのね、君がそう思うのは勝手だけどさ、どっちにも本当の意味での正しさなんてものはないんだよ。マリが言っているのはさ、『どっちが正しい』とかじゃなくて、『僕らが歪んでいる』っていうことだけなんだ。『歪んでいる』イコール『間違っている』、っていう訳じゃないんだよ」

「俺らはな、『世間一般』とは違うねんて。例えば、お前、さっき『空虚な幸福感』言うてたけど、それって具体的にはどういうことや?」

「それは……例えば、毎日毎日繰り返すように、『ストレスの発散』とか言いながら、馬鹿みたいにヘラヘラ笑ってたりとか、結婚して家庭を持ってその為に生きる事にこそ幸福があるんだ、みたいな又聞きしてきた不変の真理を漫然と受け入れていたりとか、友情無くして人生は輝かない、みたいな有り触れた名台詞を唱えて喜んでいたりとか、たまの休みに皆でどっか旅行に行って、ついでに酒でも飲もうぜ、とかどこかのドラマか雑誌で知ったような、何の中身も無い切り売りされた幸せに興じていたりとか、そういうことだよ」

「お前はそれが受け入れられないんやな?」

「そうだよ。何一つ自分じゃ考えもしないで、そこらへんに転がってるゴミみたいな価値観を踏襲してる人間を、僕は信じることができない。だから、なんで『そんなのはくだらない事だ』っていうことにも気が付かないで、皆満足そうな顔をしてられるのかがわからないんだ。そして、どうして僕までがそういうのを追い求めなきゃいけないのかがわからないんだ」

「それはな、世間が歪んでんやなくて、お前が歪んでるからや」

「でもね、君が悪いという訳ではないんだよ」

「そう、アンタが間違うてるっちゅう訳やないねん」

 僕は混乱していた。僕が正しいと信じていた人たちが次々と、自分達が「歪んでいる」というようなことを言っている。

「普通の人はな、お前がさっき罵倒した空虚な幸福感いうやつをな、真剣に信じてんねんて。お前はそういう普通の人の価値観を、おのれら『世間一般』の考えが足りんからや、とか思っとるかもしれへんけどな、そうやないねんて。『世間一般』のやつらにとってはそんなこと考えるまでも無く、そういうことが本当の意味での幸福感なんやて。やからな、そういうのに疑念を抱いているお前や、そう、俺らが歪んでんねや。俺らがアブノーマルっちゅうやつなんや。人類が何人おるか知ってるか? 六十億もおんねやで。そらぁ、普通とは違った価値観持っとる奴も何人かはおるわな。でもな、お前が毛嫌いしとる社会もな、お前がちゃんと目を見開きさえすりゃ、希望がほんの少しは用意されてるもんなんやで」

「現に僕たちみたいな異端者が、こうやって生きていけてるんだからね」

「うちは風俗嬢やし、リョウは革命家やし、テツ君は詩人や。うちらはな、それぞれそういう生き方しか選べへんのんや。つまりな、うちら皆、アンタがいう『空虚な幸福感』に疑念を感じてんねや。そして、そこの二人はどうか知らんけどな、うちはそういう『空虚な幸福感』をもう諦めてんねん。普通の人と同じ幸福を得るのはもう諦めてん。例えば、うちに家族ができて、ちゃんとお金が定期的に稼げて、将来が安泰だったとしても、うちがいずれそういう生活に疑念を感じてしまうようになるのは、もう目に見えてることやから。だから、もうそういうのに憧れて、普通になるのに憧れて生きていくのはもうやめたんや」

「それがね、自分の歪みを受け入れる、っていうことだよ。僕もそういう憧れはもう捨てた。君がね、自分の歪みを受け入れられていないのは、自分じゃ『空虚な』なんて言っているけど、そういう幸福にまだ憧れているからなんだよ。もちろん、憧れることは悪いことじゃないし、できることなら君にはその幸福を諦めてもらいたくはないと思っている。でも、もし君がそういう幸福感に真剣に疑念を感じているんであれば、できるだけ早くそれは断ち切ってしまった方が良い。それは単に『手の届きもしない希望』や『煩雑な欲求』に振り回されている、ということになるし、人生は君が思っているよりもずっと短いんだ」

「俺らはな、自分がやっとることが正しいかどうか、常に思い悩んでんねんけどな、それでも自分こそが本当に正しいと信じてやってんねん。他人にどう思われるとかは関係あらへん。俺らは歪んどるからな、普通の人みたく生きれはせんけど、それでも普通の人みたいに自分の思う『正しさ』を追い求めることはできる。さっきお前は、俺らに『正しい』って言われたい、みたいなこと言っとったけど、それは間違うてんねん。本当にお前が自分の歪みを受け入れられたならな、俺らに『正しい』と思われようが、なんと思われようが、自分のやることにちゃんと『正しさ』を見つけられるはずなんや。つまりな、お前だけが手にできるお前だけの『正しさ』いうんが、必ずどこかにあるっちゅうこっちゃ」

「君が『正しい』って思えることはいったい何なんだろう? 君の価値観に近いものを持っている僕らに救いを求めながら、こうやって愚痴を零すことなんだろうか? そうじゃないでしょ。君は一刻も早く、自分のやるべきこと、『正しい』と思えること、つまりね、生きることの意味を見つけなきゃいけないんだ。それは結果的に、君の良く知ってる、そして、忌み嫌ってはいるけれど実は心の底では憧れている、ごく世間一般的な『幸福』を諦めるということになるかもしれない」

 テツ君は優しい目で僕を見ながらそう言った。そして、リョウがいつにない、まるで教会で祈る時のような神妙な表情で言葉を引き継いだ。

「つまりな、普通の人間として生きていくことへの決別や。誰からも理解されんかもしれんし、お前自身、自分の本質を受け入れるっちゅうことが苦しくて、ようできんくなるかもしれへん。独りで、自分とは何者なんか、っちゅう、そらぁ、でっかい問いに挑まなあかんねん。俺らも同じような敵に挑んどるからな、もしかしたら何か教えることができるもんがあるかもしれへんけど、肩を組んで一緒に戦うことはできんのや。それは俺ら一人一人の敵と、お前の敵はそれぞれ違うからや。一生、独りで戦わなあかんのかもしれへん。けどな、それが『正しい』ことを為す、っちゅうこっちゃ。お前が自分の中に受け入れるべき歪みと、それに応じた『正しさ』をちゃんと見つけるためには、そういう恐怖と真正面から向き合わなあかんのよ。そして、お前の心臓を鷲づかみするような底の知れん恐怖に打ち勝って、お前を待ち受ける無限の暗闇に脚を前に踏み出すことができたんやったらな、お前にも気が付けるはずや」

「人生は『完全な正しさ』を追い求めるには短すぎる、ってな。やから、たとえ怖くても、あんたは早う、あんたの脚を踏み出さなあかんねん」

 畳み掛けるように僕に話しかける三人の言葉を聴いて、僕はなんだか胸の奥から込み上げるものを感じた。ただ黒く薄汚れているだけの闇が切り裂かれ、僕の目の前にはただどこまでも続く真っ白な新しい闇が広がっている。愚行への後悔と善行への恐怖が渦巻く生まれたての感情を、既に温くなったビールで無理矢理胃の中に流し込んだ。食道をゆっくりと落ちていく金色の液体を感じながら、リョウが「マリ姐さん、また『決め台詞泥棒』ですやん」と言って、それにマリとテツ君が笑っているのを聞いていた。僕は「はぁ」と溜息を洩らして、目尻から漏れる涙を拭い、空になったグラスをテーブルの上にトンと置く。

 

 目を開けると僕は音楽の鳴り止んだ部屋の中で一人きりだった。カーテンの隙間からは夜明け前の白い光が覗いている。僕は何だかよくわからないまま、嬉しさと哀しさでいっぱいになって、近所の人達のことも考えず、ただ、笑いながら泣いていた。

 

2013年8月31日