霏々

音楽や小説など

Past and language

 

 そしてまた何の抑揚も無く、最後の朝がやって来る。僕は固まった身体の節々に力を込めながらベッドの上で身体を起こし、鯨が海上に浮上した時のように低く長い溜息を吐く。カーテンの隙間からは、幾人が詩ってきた希望の朝陽が零れ落ちていた。

 希望の朝陽か……と、今度は短く、淀んだ溜息をつく。

 僕はもとより朝という小うるさい時間帯が全く好きにはなれなかったし、こんなことを言うと鬱病に見舞われていると思われてしまうかもしれないが、時にはそんな朝がとても恐ろしくなることがあった。輪廻転生を恐れるように、今日もまた生きねばならぬのか、と考えると身体を起こすのも難しいことがあった。そんな日は、全てがまどろみ出す午後の黄色い光が世界を満たすまで、カーテンを閉め切って時間が過ぎるのを待つしかない。僕はムンク「太陽」という絵を見るたびに、彼は僕と同じ景色を見ていたのではないかと思わずにはいられなかった。一般的には自然への崇敬の念が込められていると評されているようだが、あの絵には、朝の恐ろしさを知る者にしか見えない光の刃みたいなものが隠されているように思えてならない。あのギラギラとした色彩はまさに僕にとっての朝のイメージにぴったりだったのだ。

 とは言え、今日の僕はそういった精神病的な朝への疎ましさを感じているのではない。僕は独りきりの部屋の中、何も躊躇うことなくカーテンを引いて、朝陽を部屋の中に取り込む。窓の外では鳥のさえずる声と微かな川の流れが絡み合っている。ここのログハウスの周りには、僕の忌み嫌う社会のノイズは少しも存在してはいなかった。

 

 ある時分から、ゴールデンウィークが来るたびに、このログハウスを訪れることが僕の毎年の決まりになっていた。中学の頃まで通っていた書道教室で、僕は四つ上の永沢柚葉という女の子と仲良くなり、こうして大学二年になる今でも彼女との微弱な交流は続いていた。それは年末年始に親戚へ挨拶回りに行くようなもので、僕が書道教室に通い始めた小学生の頃から毎年、ゴールデンウィークになる度に、柚葉とどこかへ遠出をするのが恒例の行事となっていた。最初は親を含めた付き合いだったのだが、どうやら親の方が先にその関係性に飽き始め、僕が中学三年のときには、取り残された僕と柚葉の完全に二人きりの小旅行が計画されることとなった。僕は十五歳の多感な時期。よく僕の親も柚葉の親も、十五歳と十九歳の男女に小旅行を許したな、と不思議になったこともあったが、僕が当時思っていた以上に、僕と柚葉の歳の差は大きなものであったのだ、と僕はつい最近になって気がついた。

 柚葉がこのログハウスを見つけたのは大学一年のときのことだった。そう、僕たち最初の二人きりの小旅行のときからである。あの時は本当に僕と柚葉の二人きりで、格安で五日間、そこそこの広さのあるログハウスを自由にできるということで、そうとう舞い上がっていたのだけれど、実際に五日間もこんな山奥のひと気のない場所で二人きりで過ごしていると頭がおかしくなってくるものだ。柚葉は活動的な性格で、山奥のログハウスで本を読んだりしながらくつろげるタイプではなかったし、僕は僕で初めて母親以外の女の人と生活をともにする機会だったから、健康的な十九歳の女性である柚葉への混濁した感情に、独り悶々としたものを抱え込んでいた。結局のところその時は僕たちの間に何も起こることはなく、川で水浴びをしたときに柚葉の水着姿を見たくらいのもので、最後まで上達することのなかった書道のように、ただ時間とお金を浪費したような感じだった。

 しかし、その翌年からも僕たちのゴールデンウィークの遠出は無くなることがなく、不思議なことに、柚葉が東京の街でOLを始めてからもそれは続いた。が、柚葉が大学二年の時分から既に、少しだけ形態の異なるものにその「ゴールデンウィークの遠出」は変貌していた。柚葉はその僕たち二人だけのゴールデンウィークをもう少し広いものに変えたのだ。

 柚葉は持ち前の行動力であの懐かしき書道教室を尋ね、そしてそこで数人の子供を集めた。つまり、幾らかの金銭と引き換えに、ゴールデンウィークの数日間だけ、あのログハウスのある自然豊かな土地でお子さんたちのお世話をさせていただきます、というような付け焼刃的商売を始めたのだ。そして、結局のところ僕と柚葉の二人きりのゴールデンウィークは一度きりの思い出となった。ログハウス自体は格安で借りられるため、僕らの手元にはそれなりのお金が残った。それで僕たちは預かった子供の世話をしつつ、なかなか高級な食事を堪能することができた。もちろん、高級な食事と言ってもそこそこ高い肉を仕入れてきて、ログハウスの前で適当なバーベキューをするくらいのものだったけれど。

 そういった商売を始めるにあたって、無論、最初は不安を口にする親御さんもいた。しかし、これもまた不思議なことではあるのだけれど、書道教室の先生は何故か僕と柚葉に厚い信頼を置いており、不安を口にする親御さんに対して「せっかくの機会ですし」と上手く口をきいてくれた。その商売を初めてしたときには、僕は高校一年の十六歳で、柚葉はちょうど二十歳だった。柚葉は昔から頭が良く、東京の一流の大学に通っていたし、何といっても明るい性格で人と接するのが上手かった。対する僕は引っ込み思案な性格で、何をするにも目立たないことが先に立つような感じではあるけれど、しかし、その分用心深い性格だった。そんな僕と柚葉のペアは書道教室の先生にも、また、そこへ自分たちの子供を通わせている親御さんたちにも好意的に映ったようで、最終的にはその初めての年のゴールデンウィークは、四人の子供を携えてこのログハウスへとやって来ることとなった。

 そしてその商売は今でも続いており、今日が今年の最後の日だった。昼前の十一時半に子供たちの親御さんが迎えに来て、このログハウスでみんなで昼食を食べた後、子供たちは帰っていく。そのあと僕と柚葉は半日かけてこのログハウスを掃除し、そして最後に一泊した後で明日の早朝に帰る段取りになっている。よって、正確には僕と柚葉にとってはまだ最後の朝というわけではなかったのだけれど、僕一人の個人的な心情としてはまさに今日が最後の一日なのである。

 

 僕が一階のリビングへと降りるとそこはひっそりと静まり返り、まだ夜の秘匿性が部屋の四隅には残っているようだった。いかにも手作りっぽい粗削りな木製のテーブルの上には、空になったコップが二つ置いてあった。昨夜、柚葉と二人で一本の缶ビールを分け合ったことを思い出す。僕はそれを流しに持っていき、軽くゆすいだ後で寝汗を流すために風呂場へと向かった。風呂場の小さな窓からは朝陽が差し込んでいて、何故だかはわからないが、誰もいない休日の小学校の渡り廊下を僕に想起させた。冷たさと暖かさの配色がそれに似ていたからかもしれない。

 シャワーを浴び終わり、僕は頭からバスタオルを被ったまましばらく椅子に座って静かな朝の気配に身を沈めていた。長袖のシャツに下は黒いスウェットという格好だったが、五月の山奥の朝ともなればまだ若干肌寒い気温だ。しかし、風呂上がりで火照った身体にはそれくらいが心地よく、僕は独り、うとうとと船を漕ぎかけていた。そして、そこへ誰かがやって来る気配がある。

「ミズキくん?」

 僕は名前を呼ばれて振り返る。すらりとした身体つきの女の子が、水槽の中の金魚のようにひらひらと階段から舞い降りて来るところだった。

「おはよう。早いね」僕は頭からバスタオルを取りながら答えた。

「おはよう。ミズキくんこそ早いね。もう、シャワー浴びたの?」

 僕は頷きながら立ち上がり、近寄ってくる彼女を見つめた。彼女は清水由奈という子で、僕と柚葉がこのゴールデンウィークの間に預かっている子供の一人だった。小学六年生になる弟の由紀夫の付き添いということで彼女は参加していた。そのために、ほかがだいたい小学三年から中学二年という年齢に対して、由奈だけは高校一年生と若干歳が離れていた。

「今日でもう最後だね」僕の方から適当な話題を振る。

「うん」彼女は笑いながらもどこか悲しそうに答える。「たった四日間だったけど、とても楽しかった。ずっとゴールデンウィークだったらいいのに」

「こんな山奥、半月もいればすぐに飽きちゃうさ。こういうのはたまにだから良いんだよ」

「そうかもね」彼女は考える仕草でログハウスの天井を仰ぎ見る。古ぼけたプロペラは止まったままだ。「でもね、こんな山奥だからこそこんなに楽しかったんだと思う。ほら、都会とかってものがいっぱいで、私、何を見たらいいかいっつもよくわからなくなるから。きっと私はこういう自然が豊かなところの方があってるんだよ」

「肉の食べ方も随分と野性的だったしね」

 由奈は恥ずかしそうに笑う。それから、寝癖を撫でつけるように髪に手をやるついでに、首筋をぽりぽりと掻いた。

 僕はふと由奈の頭を撫でたい衝動に駆られたが、それを行動に移すことは不可能だった。彼女に手を伸ばしたいと思っている自分と、ここにいる自分との間には信じられないほどの距離がある。由奈の髪どころか、自分にすら手が届かない。想う僕は身体を持たず、喋る僕が「まぁ、あの肉はすごい美味しかったし、野性的になっちゃうのもわかるけどね」などと言っている。

「ふふ」由奈が笑みを零す。そして一瞬の静寂。風が通り抜けて行った後の草花の吐息のような音が残っている。それから彼女は喋りにくそうに口を開く。「私ね。勉強するのは別に嫌いじゃないんだけどさ、実はあんまり学校っていう場所が好きになれないんだ」

「へぇ、奇遇だね。俺も好きになれなかったよ。毎朝眠い中起きて、あそこに向かうって考えるだけで気が滅入った」

「だよね。私は別に学校に友達がいないわけじゃないし、何だったら結構アクティブな方だからさ。行ったら行ったでそれなりに楽しめはするんだ。給食は美味しいし……もちろん、学校じゃ野性的な食べ方はしないけど」

「はは」

「ただ何ていうか、学校って隙間がたくさんあるでしょ? それが私、あんまり好きになれないんだと思う」

「隙間?」

「うん。隙間」

 僕は学校にあると言う「隙間」というものを想像してみた。生徒と生徒の机の間の隙間。或いは、掃除用具の入ったロッカーが消えたら出来るであろう隙間。しかし、きっと由奈の言う「隙間」はそういう物理的な隙間ではないのだろうと気がつく。

「人がたくさん集まってると誰かが動き終わるまで、自分も動くことができないってことがあるでしょ。ほら、あの一か所だけ空白があって、色々スライドさせながら完成させるパズルみたいに」

「あぁ、なんか旅館とかによくありそうな」

「そう、多分それ。誰かが何かを終えるまで、私は黙って自分が動く順番をじっと待ってなきゃいけないじゃない。で、ようやく自分が動く番が来るでしょ。でも、自分が動かなければいけない方向はもう最初っから決まってるの。私が行くことのできる空白は目の前の一つしかないんだから。そうやって、私はほかの人が動いて作った隙間をただ機械的に埋めていかなきゃいけない。学校には……人がぎゅうぎゅうに集まっていると、そうやってただ次々に出来ていく隙間を誰かが埋めていくっていうことばっかりになっちゃう。次の人にその隙間を渡すために、とっても急いで私は隙間を埋めるの。で、自分の役目が終わってほんのちょっと安心してると、もう次の隙間が私の目の前に現れてる。だから、また私は急いでその隙間を埋める。で、今度はちゃんと気を張って次の隙間が現れるのを待つんだけど、そうしてるときは逆になかなか隙間がやって来ない。もう嫌になって、私はどこかに行きたくなる。でも、周りを囲まれているからどこにも行くことができない。ただ狭くて、そして、不安で……」

 由奈は身振りを織り交ぜながら、何とか自分の感じているものを僕に伝えようとしていたが、その所作はまるで溺れている人間のようにもどかしく、悲痛なもののように僕には見えた。そして、僕は彼女の言葉を聞きながら妙な共感を得ていた。しかし、それにしても自分が高校一年生のときにこれだけのことを考えられていただろうか。今でこそ僕は彼女の言っていることの意味が何となく理解できたのだけれど。高校一年生の女の子が、こんなことを考えているという事実が僕には何だか重たく感じられた。

「由奈の言うことはよくわかるよ」相変わらず喋る僕と想う僕はぜんぜん別の場所にいるように感じられたが、僕は言葉を続ける。「きっと由奈は周りに気を遣い過ぎてるんじゃない? 集団の中で自分の適切な立ち位置を常に模索しているっていうのかな。世の中の人は大人も子供も『人付き合いの大切さ』みたいなのをすごく重要視してるけど、ある一定以上の密度で人が集まると息苦しくなってくるのは当たり前だし、そういうのは俺もとても不自然なことのように思う。なんていうか、通勤ラッシュの電車に乗った時に出し抜けに世界の歪さを感じたことを思い出すな」

「よかった。ミズキくんも私みたいに思ってたんだ」

「いや、多分俺だけじゃなくて皆がそう思ってるはずなんだよ。ただ、それを口にしてしまうと人格破綻者みたいなレッテルを貼られるような世の中だからね、今は」

「人付き合いは大切なこと、だから?」

「うん。その言葉だけが独り歩きしてるように俺には思える。何事も程度や上限というものがあるし、どんな価値観もそれを人に押し付けることなんてできはしないのに、そういったこと関係なしに人間っていうのはみんな口を揃えたがるものなんだよ」

「なんか凄いね。ミズキくんってやっぱり変わってる」

 由奈はそう言って、小さく笑った。僕は持論をひけらかしてしまったことを少し恥ずかしく思ったが、しかし、とりあえず彼女が笑ってくれているのを見て一安心する。変わってる、と言われたことについては嬉しくもあり、悲しくもあり、というような感じだけれど、彼女が変わっている人間が嫌いでないことを願うよりほかに僕にできることはなかった。

 僕は「お互い様だよ」と彼女に返し、それからまたさっきまで座っていた椅子に腰かけた。由奈は斜め向かい側のソファに座る。由奈もシャワー浴びてきたら、と僕が提案をすると、彼女は首を横に振った。そして「ミズキくんは女子高生のシャワーシーンとかに興味あるの?」などと言って、また笑った。何故かわからないが僕にとって彼女の笑顔はとても印象深く、凡庸な曲の中で一瞬だけ光輝く名前も知らない一つのコードのように僕の胸を締め付ける。或いは、使い古された本に出てくる夜空を穿つ一節のように。

 白いレースのカーテン。由奈の座る、くすんだ緑色のソファ。赤や黄色のカラフルなクッションに、濃紺の毛布。床には水色のゴムボールが転げ落ちている。僕や由奈の顔の大きさくらいあるやつで、何日か前にみんなでドッジボールをしたことが思い出される。ログハウス自体は全体的に木の茶色で統一されていたけれど、後から持ち込まれたものが様々な色合いを成し、簡易的な混沌がここに形成されていた。

「明後日からまた学校か」由奈はそう言って、赤色の方のクッションを手に取る。

「俺も明後日からまた大学だ」

「ミズキくんは大学好き?」

「さぁ、どうだろう。好きでも嫌いでもないけど……でも、中学や高校よりはマシな気がするな。由奈の言葉を借りれば、大学にはあまり隙間みたいなのはない。隙間って表現じゃ足りないほど広い空白こそあるけどね。でも、狭くて息苦しいみたいなことはないよ」

「いいな。私も早く大学生になりたい」

 僕は自分の大学生活のことを思い浮かべる。今年で二年目になる大学生活。これといって楽しいことも無いけれど、しかし、ゆっくりものを考え、色々なところに目を向けるだけの余裕がそこにはあった。

「普通の女子高生が憧れるようなキラキラしたものがあるわけじゃないけど」僕は由奈に向けて言う。「でも、由奈の嫌いなものはきっと少ないかもね」

「私はそれで十分」

「ただね。俺は思うんだけど、きっと由奈が嫌う高校の中にも、探せばゆっくりできるだけのスペースみたいなのはあるはずだよ。俺も高校生の時はそいつの存在にぜんぜん気がつかなかったけど、いま思い返せばそいつを見つけることは不可能じゃなかったんだと思う。結局はものの見方や考え方によるんだ。周りの人間は由奈に隙間を埋めるように急かすかもしれない。でも、隙間なんてものは最初から存在していないのかもしれない。人がそれを隙間と呼ぶから隙間になるんだよ」

「それってどういう意味? 要は隙間なんて気にするな、ってこと?」

 由奈は少しだけ不本意というような表情で僕に尋ねてくる。僕はより適切な言葉を探して窓の外を見る。朝陽を受けた深緑が柔らかい風の中で左右に揺れている。喋る僕が想う僕に助けを求め、道を戻って来た。そして想う僕が喋る僕に感情を手渡す。

「いや、そういうのとはちょっと違うんだと思う。由奈はゴールデンウィークの間、ここにいてあまり窮屈と感じなかっただろう?」

「うん……でも、それはそもそも人が少なかったし、なんか時間に追われてるっていう感覚もなかったからだよ。学校はどこを見ても人ばっかりだし、いつも課題とかテストとか、そのほか色んなことに追われて毎日が続いていく。こことは全然違うんだよ」

「確かに学校とここは全然違う。でも、本当にただ人の数と課題の量だけがその違いなのかな。こんなことあんまり言うもんじゃないんだけどね、俺はもう何年もここでゴールデンウィークを柚葉と過ごしている。年によっては、由奈の言う隙間を多く感じることもあった。でもね、今年はそういう隙間をあまり感じなかったよ。何でだろうな……由奈は何でだと思う?」

「……私にはわかんないよ。ミズキくんのことだもん」

「はは。まぁ、そうだよね。うん。あのね、多分だけど、俺があまり隙間を感じなかったのは、今年は由奈がいたからだと思うんだ」

「私?」

「変な意味に取らないでほしいんだけど、でも、単純に俺は由奈とこうやって話したりしてても、変な隙間を感じたりしないんだってことに気がついた。前も言った通り、俺と柚葉は毎年こうしてゴールデンウィークに会ったりしてる。でも、それは俺が柚葉に対しても由奈と同じようなものを感じてるからだと思う。柚葉といるときには、隙間を埋めなきゃ、みたいに焦ることがほとんどないんだよね。みんなにはどう見えてるかわかんないけど、別に俺と柚葉は付き合ってる訳でも何でもない。そういう男女関係よりも、普通の子供の頃のいわゆる『親友』っていうやつみたいな感じに近い。今さらながら思うけど、そういう相手が一人でもいることを俺はもっと幸せに思うべきなんだろうな」

 僕は自分の高校生活までのことを思い出す。友達もそれなりにいたし、クラスやら部活の中でもそれなりに上手くやっていたように思う。でも、柚葉のように全く気を遣わなくて良い、という相手は結局見つけられなかった。それは僕が他人に対して心を開くのが下手だったからかもしれない。でも、柚葉のように心を開いても良いと思える相手がいなかったのも事実だった。みんなの考えていることは僕にはどうにも理解できなかったし、また、誰も僕のことを理解……まではいかなくとも、受け止めてくれることすらしてくれないだろうな、という予感が僕には付き纏っていた。しかし、それでも、僕は今になって思う。僕はもう少し、人とわかり合うための努力をすべきだったのだと。そして、僕はその反省を活かし、由奈に対して――こういった言い方は不本意ではあるけれど――「人生の先輩」として教えるべきなのだ。

 僕はそのことを何回か言い換えを用いたりしながら由奈に伝えた。大変かもしれないけど、由奈には僕のようにただ不貞腐れているだけでなく、隙間を感じない相手を自ら探すようにしてほしいということを。僕は、もし自分の人生に柚葉がいなかったら、という状況を考えながら話した。それは随分と恐ろしいことのように僕には思える、と僕は由奈に言う。しかし僕はそう言いながら、自分の中に違和感が存在していることを感じていた。靴を左右間違えて履いてしまっているかのような違和感。決して見逃すことはできないけれど、でも、このまま歩き進めることは不可能ではない。僕は靴を履き違えたまま前に歩き続ける。僕の違和感は彼女には関係ないことなのだ、と言い聞かせながら。或いは、この違和感を正すことによって、逆に由奈に対してあまり良くない影響が出てしまうのではないかと考えながら。

「いずれにせよ」と僕は言う。「俺は由奈はとても良い子だと思うよ。それにしっかりした考え方を持っている。俺が高校生の頃とは比べ物にならないほど素晴らしい人間だと思う。だからきっと、やってやれない、ということはないさ」

「そんなことないよ。私は色んなことサボってばっかだし、それに私にはミズキくんにとっての柚葉さんみたいな人はいないもん」

「だから探さなきゃいけないんだろう?」

 由奈は視線を手元に落す。赤いクッションはさっきから由奈の手の中で歪められたり、もとに戻されたり、といった変容を繰り返していた。僕も由奈も黙ってしまうと、再び部屋の中は朝の静寂に満たされた。テーブルの下やプロペラの裏側には、相変わらず夜の欠片が残っている。

「ねぇ、ミズキくんは私と話してても隙間を感じないって、さっき言ってたよね?」

 由奈の視線はまだ手元の赤いクッションに注がれていた。僕は自分の心拍数が上がっていることに気がつく。そして、また精神と身体の乖離が僕を襲う感覚がある。

「たしかに。由奈と一緒にいても、嫌な気分になったりはしない。疲れることもないし、普通に楽しいなって思うよ」僕はそう言いながら、先程の違和感を思い出していた。僕は最初からとっくに気がついていた。由奈に出会ってから十分足らずでそれを知った。だからこそ僕は今朝目が覚めるなりいきなり部屋の中で溜息をついたのだし、物思いに駆られてシャワーの後に一人で椅子に座ってうとうととしていたのだ。僕はさも柚葉が僕にとって一番大切であるかのような言い方をしていたけれど、それはほんのちょっとした嘘だった。

 確かに僕にとって柚葉は大切な存在であるし、何よりも「時間」という因子が柚葉と僕の関係性には重たくのしかかっている。だからあまり軽率な振る舞いはできない。そんなことは僕にもよくわかっている。しかし、そういった「時間」なんてものを差し引いても、今の僕の目に一番魅力的に映る人間はもう既に清水由奈に移り変わっていた。それがこのゴールデンウィークの四日間の間に僕が思い知らされたことだった。

 だから由奈が、「私もミズキくんと一緒にいると隙間をあんまり感じなかった」と言った時には馬鹿みたいに嬉しかった。しかし、それと同時に悲しみの刃が僕の肉を切り裂く。

 小学生の頃から僕にはずっと柚葉がいた。柚葉がいなかったら僕の過ごして来た時間の色彩はもっと荒んだものになっていただろう。でも、僕は自分に柚葉しかいないことがずっと悲しかった。柚葉に会えるのは一年に一回きりだったし、僕も柚葉もゴールデンウィーク以外には連絡を取り合おうとはしなかった。ゴールデンウィーク二週間前に毎年柚葉から連絡が来る。そして、休日になるとあの書道教室に人を集めに行く。そしてゴールデンウィークになれば、こうしてログハウスに来て子供たちの世話をして時間を共有する。それ以上でもそれ以下でもない。決して十分な時間とは言えなかった。でも、形を変えることで何かが失われてしまう可能性を考えると、僕には何もすることができなかった。それくらいに、僕には柚葉だけしかいなかったのだ。

「ねぇ、ミズキくんは私のこと好き?」由奈が僕に尋ねる。顔がほんのりと赤く染まっていた。薄暗い部屋の中で、彼女は洞穴に咲く花のように美しい。ただ波長が合うというだけでない。僕はそんな由奈の美しさに魅了されていたのだ。

「好きだよ」僕は答える。

「それは女性として、って考えてもいいのかな?」

 想う僕は彼女を手に入れようとして、すぐさま肯定を返そうとする。しかし、喋る僕はどうしてか声を発しない。あれだけいつも簡単に嘘をつくくせに、今回ばかりは僕の心の確かさを強く問い詰めてくる。

 僕は由奈を女性として好きなのだろうか?

 僕は彼女に対して言うなれば文学的な愛情を感じているだけに過ぎないのではないか?

 そして、仮に僕が彼女を手に入れることができたとして、彼女を幸福にしてやることが僕にできるのだろうか?

 僕は隙間を埋めるために答える。

「人として好きだよ」

 

 子供たちがログハウスから帰っていく。その集団の中には清水由奈もいた。弟や両親に笑顔を振りまいている。僕はずっと彼女の後姿を追っていたが、彼女は一度も振り返らなかった。人影が消え、午後の柔らかい光の中で、川のせせらぎと木々のさざめきが入り組んだ迷路を作り上げているのが見える。隣では柚葉が満足感に満ちた溜息をついていた。

「お疲れ、ミズキ」

「柚葉もお疲れ」

「さて、子供たちも帰ったし、一杯やりますか」柚葉は後ろで一つにまとめていた髪をほどき、手で髪を梳かしながら言った。彼女の長い髪からはシャンプーの匂いが漂ってくる。それが僕にとっての「柚葉の匂い」だった。

「まだ陽も昇ってるのに……」僕は太陽に目を向けながら言う。心を突き抜けていくような鋭利な陽射しが、様々なものの終焉を描いていた。

「陽が昇ってるうちから飲むからいいんじゃない」柚葉は目を細めて笑いながら言った。「ミズキも成人したんだから、もうお酒くらい飲めるでしょ」

「成人する前から、柚葉に飲まされてただろ」

「あはは。そうね、そうだったわ」

 余りもので適当な軽食を作り、僕と柚葉はあらかじめ買っておいたビールを飲んだ。料理を食べ、酒を飲み、会話をして、それから時々、細々としたものの片づけをした。子供たちの痕跡は至る所にあった。片っぽだけ忘れられた小さな靴下。机の縁についた干からびた米粒。えぐられた跡がまだ新鮮な白を放つ、木製家具の傷跡。それらを見ていると、再び鼓膜に子供たちの喧騒が戻ってくる。しかし、陽が沈むにつれて……ログハウスに夕闇の墨汁が浸みこんでくるにつれて、辺りには魔術的な静けさが広がっていく。夜の生き物たちの吐息がログハウスの周囲に立ち込める。僕と柚葉は二人きりでワインのグラスを傾ける。一ケース分用意していたビールは既になくなっていた。

「ミズキは本当に意気地なしだ」酔っ払った柚葉が訳知り顔で言う。「それとも自分に自信がないのかな?」

「何のことだよ」僕は少し苛立った調子で返した。

「由奈ちゃんのことよ。ミズキ、由奈ちゃんのこと好きだったでしょ? 何で連絡先、交換したりしなかったの?」

「別に好きじゃないよ。いや、好きだったけど、そういうんじゃない。だいたい由奈と俺の歳の差がいくつか、柚葉はわかってんのか?」

「彼女が高一で十六。ミズキが今年で二十歳だから……たったの四つ差じゃない。世の中にはもっと歳の差があっても結婚してる人がいるわよ。それこそ私とミズキだって四つ違うわけだし。十歳差なんですよ、とか普通に聞いたことあるわ」

「二十五と三十五で結婚するのと、十六と二十歳が付き合うのは全然次元が違うだろ。相手はまだ子供だし、俺は確かにあの子のことが好きだけど、別に異性として好きってわけじゃない。美しい風景と同じさ。印象的だし、心も揺さぶられはするけど、だからといってそれに欲情するわけじゃない」

「別に欲情しなきゃ連絡先を交換しちゃいけない、なんて決まりはないでしょ。美しい景色を見たら写真を撮る。あるいは、一句読んだりしてもいいけどさ。でも、美しいものを手元に留めておきたい、って考えるのは普通のことだし、由奈ちゃんのことを女として見てないんだったら、余計連絡先くらい交換してもいいと思うんだけどな」

 柚葉は僕を挑発するように眉を八の字にして、グラスに残ったワインを飲み干した。そして、僕にその空になったグラスを差し出してきた。

「柚葉は一つ勘違いをしてる」僕は仕方なく柚葉にワインを注ぎながら言う。「俺は、連絡先を交換してない、なんて一回も言ってない」

「じゃあ、交換したの?」

「あぁ、したよ」

「嘘ね」

「何で嘘だなんてわかるんだよ。二十四時間監視してたわけでもないのに」

「それくらい私にはわかるのよ。たとえ二十四時間監視してなくても、ミズキが何をして、何を思ったかなんて私にはわかるの。何年の付き合いだと思ってるの?」

「一年に一回しか会わないだろ」

「でも、いつだって私の一番近いところにミズキはいたわ。じゃなきゃ、毎年ゴールデンウィークに会ったりなんかしない。初めて二人きりで来た時は、なんかちょっと落ち着かなくて余計楽しめなかったから、その次の年からはもう少し自然に接することができるようにわざわざ子供を集める真似までしたのよ? どこの誰がそんな面倒をおかしてまで、好きでもない相手と一年に一回しか会わない関係を保とうって思うのよ。織姫と彦星だって、現代に生まれていればそんなこと考えもしないわ」

「織姫と彦星は、お互い好きあった者同士じゃんか……」

 僕は柚葉の論の矛盾点を攻撃しながら、彼女の言葉を反芻していた。そして、彼女の心を知る。僕は彼女が僕を好いているのであろうとわかり素直に嬉しかったが、僕に向けられた彼女の視線は依然として厳しい鋭さを帯びていた。彼女は沈黙の中で荒々しく溜息をつく。酒を飲んでいるとはいえ、柚葉がここまで取り乱しているのを初めて見たような気がする。そして、僕も今までに見せたことがないくらい柚葉に対してきつくあたってしまっていた。

「はぁ。もういいわ。私が悪かった。きっと酔っ払ってるせいね」柚葉は手に持っていた空のグラスを机に置き、それからゆっくり深呼吸をした。「別にミズキと由奈ちゃんが連絡先を交換していようがしていまいが、そんなことは私にはどうでもいいことだもんね。もうだいぶ疲れちゃったし、私もミズキと喧嘩したかったわけじゃない。こんな話やめてゆっくりお酒飲みましょ?」

「俺も悪かったよ。それに柚葉の言った通り、結局、俺は由奈と連絡先の交換なんてしてない。だから、もう彼女に会うこともないさ。あんな良い子はなかなかいないから、ちょっと寂しい気もするけど、でも、俺も十六歳の女友達が欲しいなんて思ってないし。まぁ、良い想い出にはなったよ」

 僕はさっき柚葉が置いた空のグラスにまたワインを注ぎ、そしてそれを彼女に手渡した。それから僕も自分のグラスを手に取り、彼女のグラスと軽くぶつけた。目に見えない光が鼓膜の上を跳ねる。彼女は小さく笑ってグラスに口をつけた。

「私、ミズキが小学生の頃から、ずっと好きだった」

「それは嬉しいね」

「ふふ。別に男としてじゃないわよ。単純に弟みたいで可愛いな、って。でも、そのうちに愛情みたいなのも感じるようになってきたし、一年に一回しか会えなくても、いつもすぐにミズキと心を通わせることができた。そんな相手はほかにいなかったし、それは特別なことなんだ、って思うようになった」

 僕も柚葉の言葉に強く同意したかった。「俺もそう思ってた」。そう言いたかった。しかし、やはり喋る僕と想う僕は別のところに立っている。僕は曖昧に笑いながら、適当にワインを啜るばかりだ。

「ねぇ、ミズキは私のこと好きじゃないの?」

 柚葉の潤んだ瞳が目の前にあった。僕の返答を待ちながら、不安そうな表情を浮かべている。僕はふと今朝の由奈との会話を思い出していた。そして、相変わらず僕は自分が分裂したみたいな感触に支配されている。上手く言葉が出てこない。それでも僕は舌を動かして、柚葉に「好きだよ」と答える。ほんの少しだけ、声が震える感じがあった。小学生の頃から僕が柚葉に打ち明けたいと思っていた大切な気持ちだったから、当然のことだ。でも、何故か今までに思い描いてきたよりも冷静な僕がそこにはいた。

「女として?」

 柚葉は僕の目を覗き込みながら言う。僕は頷いて答える。「女として」。でも、僕の返答に対し、柚葉は秋雨のような苦笑いを浮かべて目線を逸らした。そして、何故か目尻から一筋の涙を流す。星が砕けたような涙だった。僕が柚葉の涙を見たのはこれが初めてだった。

「あぁ、なんでなんだろう。やっとミズキの本心が聞けると思ったのに。どうして、こうなっちゃうかな」

「本心?」僕は聞き返す。「俺は柚葉のことが好きだよ。もちろん、女として。嘘じゃない」

「そうね。それは嘘ではないわ。それくらいわかる。でも、違うのよ。ミズキは私のことが好きだけど、一番好きってわけじゃない」柚葉は涙を拭いながら言う。「ミズキは私よりも由奈ちゃんのことの方が好きになっちゃったんだね?」

「いや、だから、由奈のことは別に女としてとか、そういうんじゃ……俺が好きなのは柚葉だけ――」

「ふふ。ミズキは本当に何も自分のことがわかってないんだね。ミズキがそうやって私に対する気持ちを言えるようになったのは、それはもう本当に好きなのが私じゃなくなったから。でも、それでもいいの。ミズキは感情と言葉が一致しない人だけど、でも、どうせ私にはミズキしかいないから。むしろ、ミズキに私よりも好きな人ができたことに感謝しなきゃ」

 柚葉はそういって僕のもとへ倒れ掛かってきた。僕はソファの上で彼女を受け止める。彼女は震えるようにして泣いていた。僕は肩に手を回し、抱きしめる。柚葉は思っていたよりもずっと華奢な身体つきだった。肩の付け根辺りに涙の温かさを感じる。震える彼女の背中をさすり、髪を撫でた。柚葉の匂いのする髪。ずっと僕が求めていたはずのものだった。しかし、唐突に、僕がいま抱きしめているものが偽物であることに気がつく。僕が抱きしめているのは、確かな形を持ったただの空白だった。

 カーテンの閉められていない窓ガラスには、暗闇で溶け合う僕たちの姿が写っていた。夜の額縁の中で、ずっと大切に守って来たはずものが失われていく。僕の中から柚葉が消えていくのがわかった。これから僕はどうなってしまうのだろう。未来を想像してみる。しかし、僕という人間の辿ってきた過去が、その逃れようのない未来を映し出す。これまで使ってきた僕の言語が、僕の身体には纏わりついている。僕が本当に手に入れるべきものは、既に背中を見せてここから去って行ってしまった後だった。

 

2016年