適応障害と診断されて39日目(11月22日)の昼過ぎにこの記事を書き始めています。
前回
vol.数や診断されてからの日数は微妙な感じですが、今日で私が自殺未遂をしてから20日が経ちました。当初は自分もなかなかのパニック状態にありましたし、ネットで自殺状況について詳細に記述することが、ウェルテル効果をもたらすのではないかという懸念もありました。しかし、ある程度落ち着きを取り戻した今の私ならば、もう少し当時の状況を冷静に捉え、どういう要因が絡み合って自分が死のうとしたのか、そして死ななかったのかを記述することができるような気がするのです。というか、もう一度当時の自分を思い出すことが、いずれ自分には必要になると思います。明日には実家から再度東京に戻る予定なので、その前にこの守られた環境の中でしっかりと思い出しておこうと思います。
1.自殺未遂翌日に投稿した記事
要旨だけ書き出すと、11月2日は月曜日で私は残りの有休日数を考えて、リハビリを進めるために通勤ラッシュを耐えた上で職場に顔を出せるかということを試そうと思っていました。前日の日曜日には通勤ラッシュが無い状態で職場に顔を出せていたので、そこから1つ上のチャレンジをしてみようと思っていたわけです。
が、どうも気分が乗らずに朝の割と早い段階で職場に行くことを断念します。そして、それはそれとしてシャワーに向かい、おそらくはこの時点で私はほぼ自殺間際の精神状態にあったと思います。シャワーを浴びている途中に、執筆途中だった「霧氷」という創作物を書き上げようとふと思ったのです。この思いつきをしてしまった瞬間、私の中に自殺までのルートが組み上がったように思います。
正直なことを言えば、その時の頭の中がどんなものだったのか、今の私ではあまり良くわかりません。正気を失っていたという表現が最も妥当だとは思うのですが、別段取り乱すというわけでもなく、むしろ淡々と自殺に向かって着実に歩みを進めていたように思います。そして、実際にそれは実行され、失敗し、結果的に私はまだ回復していないのだと思い知らされました。自殺未遂をした当初こそ、私は自分の元来の「自殺願望」にも大きな原因があると考えていましたが、私はその「自殺願望」ともう10年近くともに過ごしているのです。したがって、「願望」と「実行」の間には大きな隔たりがあるわけです。そして、その11月2日の私はどうしてその隔たりを飛び越え、そしてどうして死ねなかったのか。それについて改めて書いていきたいと思います。
2.ロープの購入
自殺の際に使用したロープは10月25日、日曜日に既に購入している物でした。
私はその前日10月24日に実家から東京に戻り、会社の同期と遅くまでお酒を飲んでいました。割としっかりと酔っていたので、薬は飲まずにそのまま眠りにつきました(酔った状態では薬の服用はしない方が良いとの忠告をお医者様から受けていたため)。
10月25日の記事を読み返すと、朝から私は二日酔いで嘔吐し、そしてそのまま東京での初回の診療のために外に出ています。しかし、二日酔いと薬を飲んでいないせいもあって、私の精神状態は非常に不安定な状況だったように思います。診療を終えた後、私は大学時代に生活をしていたところまで出向き、行きつけだったラーメンを食べ、よく散歩していた道を練り歩きます。私の自殺願望は、私が大学生時代のときに自己変革をしようと苦しんでいた頃から付き纏っているもので、それこそ長い大学生活の間中「死にたい」と思いながらそこら中を散歩しまくっていました。今でもたまにやってしまいますが、大学にも行かず、平気で3~4時間は歩き回るのです。そして、その10月25日も当時の事を思い出しながら、2~3時間散歩をしていたように思います。秋晴れは美しく、懐かしく、何だか自分が大学時代に戻ったような感覚さえありました。そして、未だに同じ苦悩の中にあると思い返すわけです。
この日も別の会社の同期と飲む予定でしたが、そんな精神状態でしたから、相手には悪いと思いながらも私はそれをドタキャンします。そして、散歩をしながら、自然と私は自分がどこで死ぬべきかを考えるようになっていました。ちょっとした雑木林がある場所を散歩していたので、おそらくは近々このどこかの樹に縄を括りつけ、首を吊ることになろうと考えながらの散歩でした。しかし、もし仮に首を吊ることになったとして、きっと死体はすぐには見つかりません。警察かなんかに捜索願を出させるのも手間ですし、死ぬときにはしっかりとどこで死んでいるかを残す方法を考える必要があります。さて、どうやって自分の死に場所を伝えるか。答は比較的簡単に見つかり、地図アプリから取得した自分の現在地データをスマホで送る方法がありました。うむ、これでとりあえず死体捜索の手間は省けるな。そんなことを考えながら、私は電車に乗り、街の雑貨屋を目指します。
雑貨屋では少し苦労しましたが、割とすぐにロープを見つけることができました。誰かが「このロープ何に使うの?」と止めてくれることを少し期待しましたが、そんなことは起こるべくもなく、あっさりと購入に成功します。散歩で疲れ果てた私は、そのまま寮へと戻りました。
寮に戻るととりあえずロープを箱から出してみますが、これが思ったよりも長い。結び方を調べ、実際にもやい結びという方法で首が通るだけの輪っかを作ってみますが、あまりに長過ぎたので、何回か折り重ね、それで何重かのもやい結びを作ってみました。割と簡単ですし、私は未だにこの結び方を手に覚えています。正直、ネクタイやなんかでもできることを試してみたりもしました。
それからそのロープの強度を確かめるために、私は寮の中の物干し用の鉄棒にそれを括りつけて、実際に手でぶら下がってみます。うむ、強度的には問題ない。それから実際に首を通してみます。狭い寮室ですから、首を通したところで足は床にぎりぎり届きますし、床でなくても足をかけられるところは近くに沢山あります。これまで私は何度か自殺願望が高まった時に自殺を試みようとしましたが、実際にそれを行動に起こす段となると恐怖の方が勝り、試してみることすらできません。具体的には、研いでもいない包丁などを首にあてがったりした経験もありますが、どれだけ酔っ払っていてもその包丁を思いっきり引いてみるだけの勇気は湧いてきませんでした。どうしたって死に損なった時のことを考えてしまいますし、おそらくは生命体としての本能で死ぬことは基本的に難しいものなのです。
ですから、その10月25日の私の精神状態は不安定でありながらもまだ正気を失っているわけでもなく、「いずれこのロープで首を括ることになろう」というところまでしか考えることはできませんでした。実際にロープで首を軽く吊ってみたところで、やっぱり死に対する恐怖の方が強いし、こんな狭い寮室では死に損なうのが目に見えていたわけです。
しかしながら、私はそこで試しに吊るしてみたロープをそのまま残すことにしました。そこには主に2つの感情がありました。1つ目は、ロープとともに生活をすることで死に慣れることへの期待です。死ねない理由はやはり死への恐怖なので、ロープと生活することでその恐怖を減じ、さらっと死ねるのではないかという感情があったわけです。これは私がずっと持ち続けている「自殺願望」から表出した部分だと思います。そして、2つ目は「逃げ道」を手元に置いておくことで安心感を得るということでした。苦しいけど、嫌になったらこのロープで死ねる。そういう逃げ道があることで、むしろ私は心を落ち着かせることができるようになったと思います。
この2つの感情は一見すると相反するように見えると思います。「死にたい」と「生きたい」の象徴として、そのロープは私の寮室に吊るされ続けることになるわけですが、その矛盾した感情は実際のところ私の中では非常にしっかりと絡み合っているのです。これはもはや私の人生観の問題なので、どうしようもありません。死にたいと思いながら生きる。むしろ、死にたいと思っているからこそ生きていられる。目指すところは、死んだように生きるということです。言葉にしてしまうととても子供っぽいですけれど、実際問題として私はそういう風にしかできません。誰か目の覚めるような素敵な女の子が目の前に現れて、「あぁ、僕は君を幸せにするために生きていくんだ」と思わせてくれれば良いのに、とよく考えたりしました。今ではもはやそういったことすら考えることもなくなってしまうほどに、その「死んだように生きる」というのが私の指針になっているのです。だから、もうこれはそういうものだと割り切るよりほかありません。
ですから、実際に10月25日はかなり気が滅入っていたのは確かだったのですが、それでもその鉄棒に吊るされたままのロープは、ある意味では私自身の象徴であり、かつお守りのようなものだったわけです。そして、そのロープはひっそりと息を潜めたまま、私の生活を見下ろしていました。
3.自殺までの日々
これも既に記事に書いている通りですが、それから私は職場への復帰に向けて動き出します。10月26日の月曜日は、職場に行くまでの練習をします。火曜日は実際に職場に顔を出し、1時間滞在できました。しかも、上司や同僚と軽く飲みに行ったりまでしました。水曜日は2時間職場に滞在できました。木曜日は疲れが出たのか、1日中適応障害の症状に苦しめられ、あらゆる刺激が辛く、部屋の電気すら点けられない状況でした。が、金曜日にはそれも治り、職場に3時間滞在できました。が、1時間で頭痛と吐き気の1回目の波がやって来て、徐々にその波の感覚が狭くなり、3時間でその波がほぼ常時化するというデータも出そろいました。この時点で「今の自分には3時間が限界だ」ということにも気が付き、復帰は難しいと思うようになっていました。
あくる土曜日は1日中、そのデータをもとに考えを巡らせていたように思います。無理を押して復帰できるかもしれない。いや、でもこれだけきついと無理じゃないか。そういう攻め合いが自分の中で行われたように思います。そして、最終テストというか、ダメ押しみたいな感じで、午前中の出社を試してみるべきだと結論を出しました。症状や薬の副作用が強く出るのは午前中だったので、10月26日からの出社練習は全て午後に行っていました。が、無理を押して復帰するにしても、午前中に出社できなくてはそれすら叶わないわけです。ですから、日曜日に通勤ラッシュ無しで出社をしてみて、大丈夫だったなら、月曜日に通勤ラッシュ込みで出社をしてみる、という計画を立てました。
しかし、これらの練習や計画について、今の穏やかな生活の中で冷静さを取り戻した私からすると、かなり無謀だったことがわかります。適応障害と診断されてから約40日が経ち、今では実家というストレスや刺激のかからない環境で、ようやく1日中まともな感覚で過ごせるようになってきました。それでも、何度も記事に書いているように、ちょっとした外出などで疲労が蓄積しますし、強烈な眠気に襲われることもあります。つまり、まだ治り切ってはいないわけですね。
対して、有休の残数を考えて出社の練習をしていたその時期は、はっきり言って、17時くらいからしかまともな感覚にはなれていないような状況でした。ただ、症状自体はかなり抑え込めるようになってきたため、このまま回復の方向へ押し切れるのではないかと思ったわけです。何より、ストレスがかかっていたのは転勤した10月1日からの2週間だけという非常に僅かな期間だと考えていたからです。ダメージも少ないはずだから、すぐに治るのだろうと甘く考えていたわけです。
しかし、それは完全な思い上がりで、かなり焦っている状況と言わざるを得ません。
確かに1番酷い時からはかなり回復してきました。しかし、今の私から考えると全然治ってなんかいませんでした。今の私が会議室によく置かれている長テーブルの上を歩いているような状態だとするならば、その頃の私は何とか平均台の上に登り直してそこにしがみつきながら芋虫のようにして進んでいる状態だったと思います。今の私でさえ、この長テーブルの上を歩くことを恐いと思ってしまいます。落ち着いていれば足を踏み外すことはありませんが、酷く揺らされたりすれば足を踏み外してしまうでしょうし、何より左右には谷底があるのが見えているのです。それが恐ろしいわけです。しかし、その10月26日からの私は必死になって平均台にしがみつき、前と上だけを見て、体をくねらせているような状態でしたから、自分がいかに危機的な状態にあるのか客観視するだけの余裕がないのです。芋虫のようでも、前には進める。失敗して、落ちかけたりはしますが、それでも何とか体勢を立て直し、また前に進める。そうやって治っていくものだと考えていました。
それでもまだ救いだったのは、「こんな芋虫みたいな進み方じゃあ、本格的な復帰は無理だろう」と何となくわかっていたことだと思います。幸い、両親も「無理をするな」と何度も声をかけてくれていました。ですから、土曜日の時点の私はほとんど「ちゃんと休職することになるだろうな」と思っていたはずだったのです。しかし、それでも「やれるだけのことはやっておこう」という想いや、ほんの僅かな希望に縋るようにして、日曜と月曜に午前中の出社練習を計画したわけです。
そして、日曜日は何とか午前中に出社できたわけです。
4.日曜日(前日)の弾込め
そして、今となってはこの日曜日の出来事が翌日の自殺未遂に大きく関与しているのではないかな、と思っています。もちろんこれまで話して来たとおり、私の精神状態はかなりボロボロであり、自殺を決行に移すだけの土壌が整っているとは思います。ですが、実際に拳銃があっても弾を込めなければ撃つことはできません。日曜日にあった2つの出来事が銃弾となり、私の手元にあった拳銃に込められることになったと今では思っています。
まず、11月1日の日曜日に、私は見事朝に職場に顔を出すことができました。しかし、誤算だったのはこの時に上司がいたことです。そのときにいた上司は私が発病してから窓口になってくれた上司ではなく、職人気質の言わば私が追い込まれる直接的な要因となった上司です。もちろん今は恨んでいるわけではありませんし、適応障害になる前にも「ちょっとこれはないっしょ」と思ったりもしたものの、「そういう人もいるか」とある程度自分なりには割り切ることができていました。ですから、その日曜日も私の状況を気遣うような言葉をかけてくれましたし、ちょっとした用事で職場に来ていただけにも関わらず、1時間近く私と話をしてくれました。
しかしながら、その話し合いの中で私が感じたことは、「理解してもらえていない」というものでした。つまるところは「怒り」です。
11月1日のブログを読み返してみるとわかりますが、私はこの日上司と話し、そして寮に戻ってブログを書き、そこで確かな怒りを感じていました。その頃の私の感情はほとんど冷え切っていましたから、当時は「怒りを感じられるようになっただけでも回復した証拠だ」と捉えていました。確かにそういう側面もあったのでしょうが、平均台にしがみついているような状態で感じる強い感情(そのときは「怒り」)は結構危ういものだとも今では思います。
そのときの私は「復帰」に向けて焦り、そして自分が回復に向かっていると信じ込んでいました。しかし、そうは言っても、体は治っていないことを10月26日からの出社練習で身に染みてもいるわけです。「なんで私はこんなに復帰に向けて頑張っているのに、『考え方を変えろ』みたいなことを言われなければいけないのか?」という怒りがありました。「私は別に仕事の向き合い方で悩んでいるわけでもない。無理をして壊れてしまったことを反省し、既に考え方は改めたし、あとは体が治るまで見守ってくれればいいだけなのに。どうしてまだ、『考え方』のところでああだこうだ言われなきゃならないんだ? もうそういうフェーズじゃないんだよ!」という感じです。
それに相まって、自分がそういう意図を持って送ったメールにもケチを付けられたような気がして、酷く怒っていました。「私は今の自分の状況(考え方を改め、回復まで待っている。だから、迷惑をかけて申し訳ないけど、もう少し見守っていてほしいという旨)を伝えたくて、皆にメールを送った。でも、会社側は『グレーな対応で誤魔化していたんだから、そんなことしなくて良かったのに』と言ってくる。適応障害と骨折の何が違うんだよ!」という怒りです。別に適応障害だとかうつ病だとか精神疾患なんて恥ずかしいことじゃないのに…そんな曖昧な隠され方をされても、こっちもちゃんと謝れないし、気分悪いじゃないですか。そういう怒りが込み上げてきたわけです。
そのようにして私は上司や会社、そして社会から「理解されていない」という想いから、強い怒りを感じていました。この「強い怒り」はおそらく精神的な安定性を欠いている私には刺激の強すぎるものだったように思います。そして、その揺り戻しみたいなものが、おそらくは翌日の私の完全なまでの無気力、つまり理性や感情の凍結に繋がったのだと思います。これが1つ目の銃弾です。
そして、もう1つの銃弾は「大好きなアイドル楽曲をまとめた記事」を書き上げたことによる燃え尽き症候群のようなものです。
もしかしたら、このアイドル楽曲の記事を書こうと思っている時点で、私は少し正気を失っていたのかもしれません。しかし、実際にはこの記事はその日曜日以前から少しずつ書き進めていたもので、たまたまその日曜日に書き上げてしまったという偶然が重なりました。
いつからこのアイドル楽曲の記事を書き始めたのかは覚えていませんが、適応障害と診断されてから後であることには間違いがありません。記事には「何か書いていた方が落ち着くから」というような文言が残っていますが、実際には「死ぬ前に好きなものを書き出しておきたい」という想いも僅かにあったように思います。言わば、大好きなアイドル楽曲に対して「大好きだ」と言うことが、私が「やり残したこと」の1つであったようなものです。
そして、前述の「怒り」という強い感情をエネルギーにして、私はこのアイドル楽曲の記事を書き上げてしまいます。いま思えば最悪のタイミングだったように思います。
それまで脳や体を支配していた強い感情が昇華し、同時に「やり遂げた」感が得られてしまったわけです。私はこの記事を書き上げたときに、強い達成感に捉われました。映画かなんかで、敗北必至の闘いに向かう直前でずっと好きだった女の子に愛を伝えた男のような高揚感さえありました。そして、その高揚感と達成感は、翌日の朝、私の個人的な創作物である「霧氷」の執筆に私を向かわせることになったように思います。
もう好きな子に愛を伝えたし、感謝も伝えられた。あとはもうこの戦闘機とともに敵基地に飛び込むだけだ…!
極端なことを言えば、そんなような心持だったように思います。
5.自殺未遂当日
朝起きて、私はいつもの通り強い倦怠感に苦しみました。そして、疲労感。私は会社に行くつもりでしたが、しばらくベッドの上で自分の心の状態を観察した後に、わりとすんなりと「今日はダメだ」と思ってしまいました。
この決断については、もちろん色々な要素が絡み合っています。両親からも「辛いときは無理しないで」と言われていましたし、その日は前日に比べれば体調が良くないということも確かでした。10分くらい自分の心の状態をじっと見つめてみましたが、何となく「通勤ラッシュ」+「出社」はキツそうだという雰囲気もありました。が、当然ながら最終的に「今日は会社に行かない」と決めた私の心の内には、前日のあの「達成感」と「高揚感」があったのも事実です。半分は実際的に会社に行けない理由でしたが、もう半分は「さて、書くか」という気持ちだったように思います。
が、まだ「霧氷」を書き上げようという気持ちができる前に、私はシャワーを浴びに行きます。シャワーでも浴びれば「やっぱり会社に行こう」と思い直せるかもしれないという想いもわずかながらありました。しかしながら、シャワーを浴び、頭を洗い、体を洗っているうちに、私の中にはもう「霧氷」だけしか残らなくなってしまいました。そして、シャワーから戻った私にはもはや「会社なんてどうでもいい。今日、『霧氷』を書き上げる。そして、おそらくは…」という意識に支配されていました。そして、パソコンを開き、イヤホンで耳を塞ぎ、書きかけの文章と向かい合います。文章を書き進めるにしたがって、私はいつものトランス状態に入り込んでいきます。
別に私は芸術家でも小説家でも何でもありません。ただ約10年前くらいから、私は自分の「死にたい」という想いを発散させるために、自分のための文章を書き続けてきました。ですから、私が書き上げたこれまでの創作物の中で、私自身を投影した登場人物は半分近くが死んでいます。言わば、「死にたい自分」を創作物の登場人物に憑依させ、疑似的に殺すことで、私は「死にたい自分」を抱えながら生きながらえてきたような感じです。藁人形や生贄といったものと考えていただければわかりやすいかもしれません。ですから、私が自分の創作物にのめり込めばのめり込むほど、登場人物は死に向かって動いていきますし、最終的には自らをその登場人物に乗り移らせた上で殺し、そこで私は疑似的に「死にたい」という願いを叶え、満足感を得る…そういうことをずっと繰り返してきました。この自分を創作物の登場人物に憑依させるような感覚を、私は「トランス状態」という風に考えています。そういうわけで、最後に「霧氷」を書きながら何を考えていたかと言うと、それはもはや「霧氷」に書いていることしか考えていなかったわけです。だから、現実的に私が何を考えていたということもなく、ただただ妄想や夢想の世界に私は飛び込んでいたわけです。なので、「いつものトランス状態」に私は入り込んでいたはずなのですが、少しだけいつもと違うことがありました。
「霧氷」を書き上げてしまったときに、私はほとんど何も感じませんでした。「達成感」というような爽快な気分でもなく、ただただ「書き上がった」という感覚が残っただけです。何だったら前日のアイドル楽曲の記事を書き上げたときの方が達成感を感じたほどです。しかし、よくわからないのですが、それを書き上げてしまうと、本当に自然な気持ちで「よし。もう死のう」となってしまったのです。
こればっかりは今の私にもよくわかりません。いつもなら、1つの創作物を書き上げてしまったときに、得も言えぬ満足感と達成感、そして喪失感を感じるのですが、同時にふっと創作物の世界から現実世界に戻って来て、現実世界の雑多な生々しさを噛み締めるのです。その空想から現実の大きな移行には非常に大きなエネルギーが必要なのかもしれません。しかし、この日の私の脳は適応障害という精神疾患によって衰弱していましたから、そういった大きな移行ができなかったということかもしれません。いや、でも本当によくわかりませんが、書き上げた瞬間から私は死ぬための手続きへと、非常にスムーズな動作で入っていきました。パソコンのデータを消しながら、このブログへとこれまでの創作物をアップロードしていき、簡単な遺書を書き上げました。
どうしてそんなことになったのか、今一度「平均台」の喩えを用いてしっかりと考えてみましょう。
その頃の私は、平均台にしがみつきながら芋虫のように会社復帰という目標に目掛けて進んでいました。しかし、私は前日に会社の上司から「平均台に登るためにはな…」とか「平均台の上ではこういう風にバランスを取ってだな…」みたいな見当はずれなアドバイスを受けたりして怒りを感じていました。私は「今が無様な進み方なのはわかってるし、まだ平均台の上に立ち上がるだけの力が戻ってきていないだけなんだ。だから、大人しく見守っててくれればいい」と怒っていたわけです。そして、その怒りをエネルギーに変えて、私はなおも平均台を進んでいくと、ちょうど給水所みたいなところにさしかかり、そこで私はこれまで私を元気づけてくれたアイドル達に最後のお礼を言うこともできました。お礼を言うと、私がしがみついている平均台の近くで私を励ましてくれていたアイドル達も消えてしまい、私は薄い闇の中で1人取り残されました。そして、少し進んだ先で平均台は分断されています。少し高いところに「会社に復帰する」という平均台が見えていますが、そこには今の私の力では手が届きそうにありません。途方に暮れている私の目の前に1つの影が見えてきます。その景色の中から「もうさ。平均台なんて降りてしまえよ。疲れただろう」という声が聴こえてきます。疲労困憊で絶望している私はその声に唆され、平均台をふと降りてしまいます。降りてしまってもなんていう事ありません。暗闇の中で私は自分がしがみついていたみすぼらしい平均台を一瞥し、さらに暗いところ目指して足を進めます。気がつけば、もう平均台なんてどこにもありません。
おそらく私は辛くて怖くても、無理に平均台の上を進もうとせず、その場で立ち止まってゆっくり眠るべきだったのでしょう。「会社に復帰する」という平均台なんてある程度無視してしまって、何よりも眠るべきだったのです。そうして眠っているうちに、その平均台は次第に幅を広げていき、1か月もすれば長テーブルくらいの幅にはなったはずです。しかし、私は疲労困憊になりながらも、芋虫のように平均台を進み、「会社に復帰する」という平均台に手が届かないことで途方に暮れ、その心の隙間に現れた「死にたい自分」に唆されてしまったのです。そして、あっけなく平均台からひょいと降りてしまったわけですね。
そのようにして、私は拳銃の引き金に指をかけました。銃口はこめかみにぴたりと当てられています。全ての準備が整うと私は、寮室のチェーン鍵を降ろし、部屋の電気を消しました。耳元では美しい音楽が流れています。
6.ラッキーなアンラッキー
「霧氷」を書いているうちから、私には寮室の中に吊るされたロープで死ぬことを考えていました。
少しだけ話を変えます。
適応障害と診断してもらう前々日、パニックになった私は寮の5階から飛び降りることを考えました。しかし、その時の私には「会社から逃げる」という逃げ道がありました。私は転勤する前に、とある人身事故に遭遇しました。おそらくは自殺でしょう。そのとき私は会社の同期と一緒にいて、「こうなる前に会社辞めような」と話していました。ふとそのときの会話が蘇り、私は飛び降りという方法を頭から振り払い、会社の上司に「退職か休職させていただきたい」と連絡を入れることができました。
そして、そのときに「飛び降り」という方法に失敗しており、かつ私は大学時代の散歩道を歩きながら雑木林で首を吊るためのロープを買ってありました。しかも、そのロープは寮室にお守り代わりみたいにして括り付けられていたわけです。
「霧氷」の1つ前に私が渾身の想いで書き上げた「水流」という創作物でも登場人物は首吊りで死んでいます。こういうのはあまりにウェルテル効果を誘発するようで少し憚られますが、ずっと死にたいと考えている私にとっては、自殺の方法というのは常に悩みの種でした。大学時代なんかはよく、駅のホームを通過する特急列車を見る度に「どうしていま飛び込まなかったんだろう」と考えたものですが、電車への飛び込みは社会的影響も多く、家族にも多大な賠償金が請求されます。それに、怖気づいて中途半端なことをしてしまうと、死に損なう可能性もあります。それは飛び降りや首切りも一緒です。入水という方法も考えましたが、死体が見つからないと自殺なのかよくわからないまま遺族は宙ぶらりんな状態にされてしまいますし、しかも入水こそいくらでも後戻りができそうで、ビビりの私には遂行できる気がしません。服毒しようにも素人には致死量なんてものはわかりませんし、そもそも毒や死ねるだけの薬なんて持っていません。一酸化炭素中毒死というのもありますが、それを実現するだけの環境が今の私にはありません。焼身自殺なんて影響範囲のデカい方法はまた賠償金とかの関係からできませんし、それこそ死に損なう可能性があります。そう考えると、やはり「首吊り」という方法はかなり有用に思えました。何よりも良いのは「殺し続けることができる」ということです。飛び降りなどの一瞬の打撃とは異なり、誰かに救助さえされなければ、地球の引力によって私はずっと殺され続けることができるわけです。誰にも見られないところで首を吊れば、まず間違いなく死ぬことができます。しかも、ほとんど誰にも迷惑をかけないでしょう。汚物が垂れ流しになるそうなので、室内の場合にはできるだけ汚物で汚さないような前処理が必要とはなるでしょうが。そのようにして私は自殺の方法について、ほぼ「首吊り」ということで意見を固めていました。
と、少し過激とも思える内容を書いてしまいましたが、まぁ、あくまで病んだ人間の妄言ですのであまりお気になさらず。
ただ、その11月2日の「霧氷」を書き上げた私にとっては、死ぬ方法は「首吊り」以外は考えられませんでした。そして、もうその準備は整っているのです。少し振り向けば、鉄の棒に括り付けられたロープが見えます。もうほとんど力なんて残っていませんが、せめてもの汚物の対処としてロープの下に毛布やら何やらを敷きました。電気も点けず、カーテンも閉め切った暗い部屋の中で私は暖房機の上に登ります。そうすると、少し体を伸ばせば、ロープに首を通すことができます。一度ロープに首を通してから、少しずつロープの方に体重を移していきます。が、あるところまで体重をかけると、イヤホンのコードがロープと首の間に食い込んで気持ちが悪いことに気が付きます。私はロープに首を通したままイヤホンを外し、そのままロープの輪っかの外側からもう一度イヤホンを付け直します。「これから死ぬんだなぁ」と思いながらしばらくその体勢で音楽を聴くともなく聴き、理性が後ろへ引っ込むのを待ちます。次第に理性が消えていき、ただ「死のう」という微弱な感情だけが心の中に残ります。再びロープの方に体重をかけていきます。一気に飛ぶようにして体重をロープにかけてしまうと、衝撃でロープや鉄の棒が外れてしまう恐れがあったので、あくまでゆっくりと。ほとんど体重をかけきったところで、私は暖房機の上から体を降ろします。ぎりぎり足先が床に届くので、まだこの段階では少し苦しいくらいです。が、体の力を抜いていくとだんだんとロープが首に食い込んでいきます。完全に体の力を抜いてしまうと、まるでストップウォッチを押したみたいに、死へのカウントダウンがなされたような感覚になりました。耳元ではたぶんsora tob sakanaの「蜃気楼の国」だったかが流れていたと思います。ほとんど消えている意識の中で、「この曲で死ねるのは良かったかもな」と思ったのを覚えています。あっという間に指先から体が痺れていき、意識が朦朧としてきます。じわーっと全てが霞んでいく感じがあり、「あぁ、死ぬんだな」と最後に思いました。
が、気が付くと私は無我夢中でロープを首から外し、引っ越してから部屋の隅に放置していた段ボール箱を上から抱きかかえるようにして泣き崩れていました。ほとんどパニック状態で何度も「死ぬかと思った」と口にしていたことを覚えています。どれくらいの時間そうしていたのかわかりませんが、少しだけ落ち着きが戻って来ると、ベッドの上に移動して、今度は延々としくしくと泣き続けました。
涙も収まった頃、もう一度ロープに首を通してみますが、とても死ねるような感じではありません。怖くてすぐに足先に力を入れてしまいます。足先に少し力を入れるだけで、ロープは首への圧力を一気に弱めてしまいます。冷静になってみると、よくこんな環境であの死の間際まで行ったな、と思えるほどそれは不完全な首吊りでした。駄作もいいところです。
もし、ロープなんて買っていなかったら、私はやっぱり寮の最上階から飛び降りていたかもしれません。もし、ロープなんて寮室に括り付けていなければ、大学時代に良く散歩した雑木林まで出向いて首を吊っていたかもしれません。
そのときの私にしてみればアンラッキーだったわけですが、お守りみたいにして首吊り用のロープを寮室に括り付けておいたおかげで、私は死ななかったわけです。馬鹿みたいなラッキーですね。寮室にロープを括りつけたときの私は本気では「死のう」とは考えていませんでした。ですが、11月2日にロープに首を通した時の私はかなり本格的に「死のう」としていたように思います。最後の生命としての反発や恐怖を殺しきれはしませんでしたが、もう少しちゃんとした整った環境で首を吊っていれば…つまり、後戻りのできないような方法で(椅子を蹴とばすような方法で)首を吊っていれば、ちゃんと死ぬことができていたはずです。
よくよく私は自分の意気地の無さに嫌気が刺しますよ。でも、確かにあの時はほとんど放心状態でしたし、理性なんてものはどこにもありませんでした。どれだけ酔っ払っても殺せなかった理性も、あの時はきっちり消し去っていましたし、あとほんの僅かな生に対する執着さえ消せていたらちゃんと死ぬことができていました。しかし、私は思うのですが、おそらく自らの強い意思だけでは(特に私のような意思の弱い人間にとっては)たぶんそこにまですら辿り着けなかったでしょう。これだけ「死にたい」、「死にたい」と言っている私ですが、大学を卒業するころには既に「死にたいけど死ねない。だから、死んだように生きるんだ」と思い直してはいるんです。そして、適応障害になり、そこからだいぶ回復した今も同じように「死にたいけど、死ぬまでは生きなきゃいけないんでしょう」と思っています。
7.自殺未遂から20日経って思う事
あのときの私は「死にたいけど、死ねないじゃないか」みたいな考えを飛び越えて本当に死んでしまえるくらいには、何かがダメになっていました。普通に生きていれば、「生きるべきか死ぬべきか」と考えるくらいのことはできます。そして、そんなことを考えているうちは大抵死ねないものです。でも、精神疾患系の病気ではおそらく脳の機能が低下しきり、「生きるべきか死ぬべきか」なんてことを考えることすらできません。そこには判断の余地すらないのです。
私が自殺未遂をした日の朝に判断をしたことは、「今日は会社に行かないで、創作物を書き上げる」ということでした。そこからの私の行動はまったく判断というものを欠いていました。まるでベルトコンベアに乗せられたテディベアにみたいに、私は自動的に死に向かっていくだけでした。「やっぱり死なない方がいいんじゃないか」なんてことを微塵も考えていませんでした。私の部屋には首を吊るためのロープがもう準備をされていて、あとはそこで首を吊るだけです。
でも、結果から見れば、事前に不完全な首吊りの準備をしておいたおかげで私は死を免れてしまいました。
今の私は随分と正気を取り戻しましたし、脳の機能も戻って来てますから、未だに「生きるべきか死ぬべきか」みたいな自問自答をしていますけれど、たぶん今の私には死ぬことはできません。そういうものです。だいたいシェイクスピアのハムレットの名台詞である「生きるべきか死ぬべきか」というものにはちゃんと続きがあるんです。ハムレットはちゃんと「そんなもの死んでしまった方が良いに決まっている。ただ、死んだ後に地獄の業火で焼かれるのが怖いから死ねないだけだ」と答を出しています。私は別に死後の世界を信じているわけじゃありません。なので、ただ「死ぬのって怖いから」という理由で生きているだけです。とは言え、生きていることは生きていますし、私がそういう考え方と一生付き合っていかなければならないということは、既に何回もお話している通りです。
私が今回の自殺未遂から得た教訓は、精神疾患の類で脳の機能が衰え切っているときには、一度死に捉われたが最後、そこから抜け出すことはできない、ということです。もちろん、わずかにでも回復して来れば、そこから抜け出すのはそう難しくありません。ただ、下手を打てば完全な機能不全になり、「死ぬ」という判断すらできない状態になってしまいます。そんな何も判断のできない状況で、何らかのきっかけで「死」に向かうベルトコンベアに乗せられたが最後。本当に死ぬか死に損なうかは運次第ということになってしまいます。私の場合その「きっかけ」を自分で作ってしまっていることが最大の悩みの種ではありますが。
そして、それから少し自殺についても調べてみました。自殺未遂をした人は1年以内の再実行の確率が高く、またその時の致死率はかなり高いとのことらしいです。私自身、もう一度ちゃんと自殺することになるとは今は全く思えませんが、しかし、確かにもう1回やるとなったらより確実に自分を殺せると思います。どういう方法を取れば確実に死ねるのか、何となく今回の自殺未遂でわかってしまいました。その場で他人に手ほどきをしてやれるくらいわかったつもりです。
だからこそ、次は無いと思って、自分を大切にしていこうと思います。無理をして、また自分の脳の機能を低下させれば、わりと容易く死ねてしまいます。そのことを肝に銘じ、しっかりと治療をしたうえで会社に復帰できればと思います。
8.最後に…
今回はだいぶ刺激的な内容になってしまったように思います。が、別に私は誰かに自殺を勧めているわけでもなく、同情して欲しいというわけでもなく、救いを求めているわけでもありません。私はただ自分の状態を再認識するために、今回の記事を書くことにしました。
今の私は穏やかな生活を送り、普通に「あぁ、復帰したくねぇ」みたいなことを考えながら、BEYOOOOONDSの西田汐里ちゃんの写真集を楽しみにしているだけのアイドルヲタクです。働いていませんが、傷病手当金が少しは入ってきます。怠惰な生活を営み、こうやってダラダラとブログに記事を投稿しては、アコースティックギターでラピュタの「君をのせて」の練習をしている暇人です。あ、ちなみに、ギターを弾きまくっていたらまた五十肩がぶり返して来たので、どうやら五十肩の原因はギターだったようです。
昨日は神社から頂いた御神酒を家族で飲んで、ほろ酔い気分で特番の「まつもtoなかい」を観ていました。最近、私は小池栄子さんのバラエティ番組での立ち回りにハマっており、昨日もそれを楽しむことができました。が、昨日の小池栄子さんはちょっと力み過ぎだったようにも思います(笑)。あれだけの手練れでもさすがに緊張する番組だったんですね(笑)。あと、最近は芦田愛菜ちゃんが可愛すぎてちょっとヤバいですね。「博士ちゃん」というバラエティ番組も昨日はちらちら観ていましたが、嵌り過ぎるのが怖くて、ちゃんと観ることができないほどです。やっぱり生粋のロリコンなんでしょうか。まぁ、知ってはいましたが。
と、そんな感じで少しずつ元気になってきていることは確かですし、昔の私を知る人が仮にこのブログを観ていたら、「あぁ、治ってきているのね」と思ってくれると思います。そうなんです。私はもとからそんなに真面目なタイプではありませんし、「会社のために頑張ろう!」「1日でも早く復帰しよう!」なんてことを考える人間ではないのです。むしろ、毎日復帰に向けて頑張っていた私の方が異常だったのです。
私は小・中・高とほとんど家で勉強したことがありません。それは何も学校の図書館や塾の自習室で勉強していたとかそういう意味ではなく、単純に勉強が嫌いだっただけです。夏休みの前にできるだけ授業中に宿題を終わらせ、終わらなかったものは9月まで手を付けません。高校時代は小学生から続けていたサッカーを「走るのが嫌い」という理由で高2で辞めました。シャトルランは35回でやめます。大学時代は1年留年をしたうえ、就職したくないという理由で院にまで行かせてもらいました。塾講師のアルバイトもしていましたが、30%くらいの確率で二日酔いで行っていましたし、そのせいで卒塾する生徒からもらう手紙の多くには「お酒はほどほどに」という文言が書いてありました。会社の同期からもクソヤロー呼ばわりされています。適応障害になっているのに、カラオケでオールする30手前の人間ですから、クソヤロー以外の何者でもありません。
むしろ私は私を取り戻し、またここからスタートです。綺麗ごとはなし。死んだように生きていくんだろうが、自分よ。
というわけで、今日は20日経過記念ということでこんな文章を書かせていただきました。もし嫌な気分になってしまう方がいらしたら誠に申し訳ございません。でも、こんな酷い内容の記事を書いても、笑点で笑えているくらいにまで回復しているんですよ。病気が深刻な時の私の方がよっぽどまともだったんじゃないかとさえ思いますけれどね(笑)。
次回