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「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」感想、整理

Netflixで「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」という作品を見たので、ここに感想を残しておこうと思います。久しぶりに興味を惹かれる作品に出会いました。文字に起こすことで頭の整理をするのが今回の大きな目的の1つです。

 

 

1.自己紹介

本作を理解する上ではそれなりの予備知識あるいはバックボーンが必要となるはずですが、生憎私は三十路の理系サラリーマンなのでおそらくかなり見当違いな解釈になってしまっているでしょう。三島由紀夫に関しても「いずれ読まなきゃ」と思いながらも、金閣寺を数ページ読んで断念しているような体たらくな人間です。哲学や思想などに興味がある方だとは自覚していますが、かといってこれといってしっかりとした哲学書を読んだ経験もありません。YouTubeの動画でちらっと触れることがあったりするくらいで、高校の現代社会の授業でもほとんど寝ていた記憶しかなく、歴史は大の苦手科目。日本の元号すらまともに並べあげる自信がありません。

と、こんな感じで色々と予備知識の足りない私ですが、そんな私が辛うじて理解できたニュアンス、構造などを整理していこうと思います。

 

2.映画の概要

舞台は1968年の日本です。当時名を馳せていた作家である三島由紀夫と、当時学生デモの最前線にいた東大全共闘の学生たちが、東大駒場キャンパスの900番教室で討論を行い、その模様をドキュメンタリー形式で遡って映像化したのが本作になります。

私は知識がないので、一応基本的な事項をまとめておこうと思います。

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ざっくり構造

示した図の通りですが、三島由紀夫は「右翼:国家権力」側の代表として描かれており、東大全共闘は「左翼:反国家権力」側となっています。なので、本当にざっくりとしたことを言うと、東大の学生たちは「国の言いなりになんてなってたまるか!」と当時、デモを起こしたり、東大の安田講堂を占拠して立てこもったり、というかなり攻撃的な活動をしていました。その活動の一貫で「国家側」の肩を持っている著名人である三島由紀夫を東大に招待して、討論会を開いたわけですね。討論会では三島由紀夫に対して、「お前が国家側の人間なら、国家の正しさや価値を説明してみろ。同時に俺たち反国家の人間たちの主張のどこが間違っているのか指摘してみろ」ということが基本的なテーマとなっています。東大全共闘としては「国家なんてクソだ。より正しい世界を俺たちが作っていくんだ」という主張なわけですね。

ちなみに、東大全共闘については私はあまりよく知りません。たまにテレビ番組で東大安田講堂の占拠の映像などを観ますがその程度で、国のやり方が気に食わなくて、まずは「国」としての立場を持つ「大学」という1番身近なところと闘っていたという印象です。もちろん、授業がつまらないだとか、学食が不味いだとか、そういうことで文句を言っているのではなく、国家≒大学の在り方やその構造の正当性について疑念があるのでそういった行動を起こしていたのだということはわかります。しかしながら、おそらくは私たちの世代のほとんどの人間は、国の在り方やその構造についてデモやら占拠やらの行動によって改めさせようという発想を持っていないんじゃないでしょうか。なので、その当時の温度感などをイメージするのは結構難しいです。

しかしながら、そんな私でも本作を楽しむことができました。私が興味を惹かれたのはそういった時代や社会を取り巻いた温度感などではありませんでした。単に個々人が抱える思想をぶつけ合うということが観ていて面白かったのです。

登場人物(団体)は大まかに4つに分けられると思います。右翼側では、1つが「国家」、もう1つが「三島由紀夫」。左翼側では1つが「芥青年」、もう1つが「東大全共闘」とざっくり配置されています。

「国家」の目的は、現在の国の在り方や構造をそのまま保ち(保守)、秩序を維持することです。デモや暴動などは機動隊を用いて鎮圧しようとしています。

対して、「三島由紀夫」の目的は国家という存在を尊重しながらも、天皇を中心に据えたより良い日本という国家へと変革していくことにあります。なので、三島由紀夫としては国家側の立場にありながらも、現状の国家を最上とはせず、より自分が思い描く理想に近い国家にしようと考えています。少なくとも、現状の「天皇」を祀り上げている国家の構造自体には賛同を示しているようです。

「東大全共闘」の目的は、現在の国の在り方や構造を否定し、新しい、先進的で正当だと考えられる国家構造を作り上げることにあります。それがいったいどういうものなのか、私にはよくわかりませんし、本作の中でもあまり取り上げられていないのですが、それでも「正しい方向へ」進んでいこうという熱情は強く感じます。そして、それを実現するためには、暴力的な行動も厭わない。秩序の破壊こそが新しい世界を作り上げる第一歩と考えている節がありそうです。

これに対し、全共闘の中でも屈指の論客と言われる「芥」という青年が本作では大きく取り扱われています。彼の目的は、現在の日本国家の在り方というよりも、国家という概念・構造自体を否定し、真に人間的な存在の在り方を追求している感があります。構造やシステム、ルールに縛られない、自由な人間性(≒人間社会)を打ち立てるために、国家を否定する左翼側についているようです。

 

お察しの通り、私が興味を惹かれたのは「国家」vs「東大全共闘」ではなく、とりあえずそれぞれ右翼や左翼の看板を背負いながらも、己の哲学をぶつけ合う「三島由紀夫」vs「芥青年」の討論でした。本作の半分近くはどうしても社会現象としての左翼vs右翼の闘争に主眼が当てられているのですが、ありがたいことに「芥青年」という素晴らしい触媒をもとに「三島由紀夫」の思想を掘り下げることにも注力されています。なので、歴史物が苦手な私のような人間でもしっかりと楽しむことができました。

 

3.三島由紀夫の表明

国家は暴動をしかけてくる全共闘など左翼側の人々を、やはりこちらも武力で鎮圧しようとしていました。その際の国家側の言い分としては、例えば「キチガイが騒いで困る」というものだったそうです。しかしながら、三島はそんな国家の対応を皮肉り、「キチガイならば病院に入れて手厚く治療してやるべきだ。キチガイを殺しすなんてみっともない」というようなことを最初に言って聞かせます。そして、東大全共闘の人々に向かって、「私はあなたたちをキチガイだとは思っていない。だから、言葉を用いて議論することを試してみようと思っている」と自分のスタンスを明らかにしました。

さらに、国家側の人々の姿を見て、「彼らの目の奥に不安がないのが気になった。私は不安を抱いている方が健全で好きだ」というようなことを言いました。「私は暴力にも反対していない。国家が当面の秩序を維持することに終始して、もたもたと反暴力的な中間択ばかり取っているのには苛々する。私は法律に則って暴力を振るえる立場にはないから、やるなら非合法に、個人同士の『決闘』という思想に則って相手を殺すつもりだ。そして警察に捕まってしまうなら、その時は自決しよう」と、体制側(右翼)の人間ではありますが、かなり過激な発言をしています。三島としては、やるならとことん戦って、「決闘」の思想に則って確固たる自分の理想を、暴力を用いてでも主張し、実現していかなければならないと考えているわけですね。そういう意味では、全共闘はただの知識のひけらかしや机上の空論のようなことではなく、きちんと行動に打って出ている点で評価できると三島は「反知性主義」という言葉を用いて説明しました。三島もまた自ら肉体を鍛え、自衛隊体験入隊で戦闘能力を磨くなど、「反知性主義」を掲げる人間でした。

 

ここで話は一気に別の方向に向かいます。脈絡がよくわかりませんが、東大全共闘の一人から三島に対して、「『他者』についてどのような考えを持っているか?」と質問が投げかけられます。おそらくは、三島が「決闘」という言葉を用いたからこそ、そのような質問がなされたのでしょう。そこには「やるかやられるか」という他者に対する不安や恐怖が内在しているため、決闘の「相手」に対してどのような恐怖を感じるか…つまるところ、「三島は東大全共闘のことをどう思っているか?」ということが聞きたかったのかもしれません。

それに対して、三島はサルトルの引用などをして色々なことを言いますが、結論から言えば、三島曰く「他者との関係を構築するうえで、私は共産主義を敵とみなすことにした」ということになるようです。共産主義とは、左翼の考え方の代表的なものだと思っていただければここでは良いような気がします。別段、共産主義の中身に触れているわけではないので。この辺りで重要なのは、三島が自らの文学において、当初は他者のない一人きりの(サルトルが定義するところによると)エロティックな世界を追い求めていた。しかし、そのうちに他者との関係性を求めるようになった。「決闘」という、主体的な相手を想定したうえでの世界に興味が惹かれたのだ、ということです。そして、その「決闘の相手」として相応しいと思ったのが、東大全共闘のような左翼的、つまり共産主義の思想だったというわけです。どうして共産主義が決闘の相手として相応しいと思ったのかは、ここではまだ語られていません。

 

ここまでの話をまとめると、三島は「東大全共闘のように『行動』を起こしている人間たちは好きだけれど、私は共産主義を『決闘』の敵としてみなしているから、君たちは敵に違いない」ということになります。そして、そんな「敵」との「決闘」が存在する世界を求めているからこそ、三島は東大900番教室にまでやってきて、こんな風に討論をしているというわけですね。暴力行為は認めているけれど、あえてここでは「言葉」を用いて。

 

4.芥青年の登場

そして次の議題がまた全共闘の学生から持ち出されます。「自然対人間の関係」という話題です。学生の主張としては、「三島の考える自然というものは浅い。僕は、いかにして人間と隔てられたところにある自然(周囲の事物)を活用していくかが重要だと思う」というようなことを言います。どうして急にこんな話になったのかはわかりませんが、これに対して三島が「機動隊のこん棒に殴られるという自然の活用の仕方もあるよね」というような軽く皮肉めいた言葉を返します。

そして、この三島の皮肉に対し、今度は1人の青年が割り込んできます。この青年が芥青年でした。

芥青年の軽い割り込みを経てからの話の筋は私にはよく理解できない部分もあるのですが、私のしがない予備知識をもとに推測すると、全共闘のような左翼が掲げる共産主義というのは言わば「いかに自然的な生き方をするか」ということと通じる部分があるようです。現在(当時)の右翼側が体制を守ろうとしているのは、すなわち強い権力や財力を持っている人たちが自分たちの優位性を保ちたいからです。お金を持っている人がそのお金を使ってよりお金を稼ぐというのが資本主義なわけです。このルールがある限り、貧乏人はずっと資本主義下の権力者、金持ちの言いなりになってしまいます。そしてこのような力関係というのは非自然的である、というのが共産主義の1つの論調です。私たちをがんじがらめにしている資本主義という強者にとって都合の良い非自然的な体制というものをぶっ壊して、より自然的な、本来の人間があるべき社会を作って行こうではないか。そして、そのときに重要なのはいかに人間の関係性をルールで縛るかということではなく、あくまで私たちの周りに広がっている自然(動植物、大地、水、その他人間が作り出したもの)をどうやって効果的に活用するかということである。これがおそらく最初の学生の言いたかったことでしょう。左翼としては立派な論説ですね。

対する三島は「君たち学生は自然から何かを生産するという行為から切り離されている(まだ学生だし、現代の若者だから)。例えば、ここにある机は、勉学のために自然から生産されたものである。しかし、その生産工程に君たちは関わっていない。そして君たちはその机を勉学の目的ではなく、武器やバリケードを作るために使って、『これこそが自然を活用するということである』と言っている。君たちは元来の生産活動に携われていないから自然との関りが希薄だと感じているんだ。それ故に暴力という行為を通して自然というものに目覚めただけに過ぎない」と学生たちが掲げる思想を陳腐なものだと否定します。

これに対する芥青年の主張は、「大学という枠組みにあるからこそ机は勉学のために使用されている。大学が無くなって、私たちが机を武器として使う。こういった事物の使用目的(=人間との関係性)の逆転こそが革命である」となります。

なんだかんだと小難しい議論になっていますが、結局のところ全共闘のような左翼がやろうとしていることは既得権益をぶっ壊すことです。現在の勝ち組が作ったルールを壊して、新しい世界を作ることです。三島はそういった部分に対して、「自然的な人間の在り方」のような格好つけたことをいっているけれど、所詮ルールを壊すことに楽しさを見出しただけだろうと言っています。芥青年は、それを受けて「ぶっ壊すことが革命だから」と平然と答えています。そして言葉の最後に「所詮、三島さんはぶっ壊すことを幼稚だと言っているだけで何もしていない。文章を書いているだけで、机を武器に置き換えるような行動の重みが無い。だから、三島さんは敗退している」と付け足して、挑発しています。小説家の平田啓一郎さんが後で解説をしている通りですが、三島自身がそのような「物書き」としての後ろめたさを持っているようなので、この芥青年の言葉が突き刺さるわけですね。

芥青年は「自分たちの行動は歴史を変え得る可能性を秘めている。しかし、三島さんの書く文章は実世界に対して何ら差し迫った力を持っていない」とさらに説明を重ねます。さらにそんな三島の書く文章で述べられていることは、あまりに日本という国に対して執着し過ぎている。もし日本という国が無くなってしまったら、三島由紀夫という人間の価値も、その何ら具体的な力を持たない文章とともに消えてしまうだろう。それに対して、僕という人間は全く以って日本に縛られていない。自分が異邦人かと思うほどに。でも、僕はただ僕らしく自然にあろうとしているだけだ。僕が異邦人なのではなく、僕の周りの人間たちが何らかの国を背負った異邦人だったというだけなのだ。と、そんなことを語ります。続く現在の芥氏のVTRでは、「天皇の文化的な側面をちゃんと説明できないのに大衆を扇動するな」とさらに釘を刺していました。

 

と、ややこんがらがった内容になってしまいましたが、ここまでは言ってみればありがちな共産主義の主張という感じになるでしょうか。現在の資本主義的なルールは良くないから、暴力などの具体的な行動を以って古いルールを壊し、新しい世界を作る。ということです。そして、ここから芥青年と三島由紀夫の価値観へと話は移り変わっていきます。

 

5.芥青年と三島由紀夫の立場と目標

結論から言えば、芥青年はこの全共闘の活動を一種の芸術作品のように捉えているようです。色々と議論はジグザグと脇道に逸れようとしながらも、三島由紀夫によるしつこい追及によって、「持続性」が話題の中心に据えられます。

三島由紀夫からしたら、全共闘が生み出した安田講堂のような「解放区(政府などの統制を受けない自立した空間)」が長続きしないことに、活動の限界があると感じているわけです。そして、活動をやるからには「解放区」を永続させることが活動の1つの目標であり、そこからさらに広げ、日本全体を新しい解放区へと逆転させることが革命の最終目標であるはずと考えているわけです。しかしながら、芥青年は一向に「持続性は問題ではない」と言っています。なぜなら解放区を作ることそれ自体が革命という詩(芸術作品)であり、それがたとえ現実的に一瞬のものだとしても価値があるとしています。芥青年自身が演劇をやるからこそよりそういう考えになっているのかもしれません。例えば、演劇というのは映像作品化しない限り、その場一度きりの芸術であるわけですが、かと言って別に価値がないわけではないです。例え短くても演劇が演じられることこそが大事なわけですね。

だからこそ、芥青年は三島のやっていることが気に食わないのです。三島は文学という分野で確固たる芸術作品を残しているにもかかわらず、国を変えようとしています。しかも、文章で国を変えようと働きかけているわけですが、既に言っている通り、具体的な行動の伴わない文章では何か現実を変えることなんてできるはずありません。芥青年からしたら、「芸術という領域で満足していればそれでいいじゃないか」というわけですね。しかしながら、三島はあくまで「一人きりのエロティックな世界ではなく、現実的な敵を想定した決闘の思想に準ずる世界を作りたい」と自分の文学の可能性を試すことに意欲的です。

この芥青年と三島のねじれが面白いと私は思うわけです。

芥青年は現実的な行動によって、現実世界の中に「解放区」という芸術作品をたとえ一瞬でも良いから生み出したい、と考えています。対する三島は自らの芸術作品を用いて、現実に対して何らかの具体的で持続的な作用を生み出したい、と考えています。二人は相対する場所から出発して、相対する場所へと向かおうとしているわけですね。まるで、二人で席を交換するかのように。

 

6.芥青年の世界観

芥青年が共産主義やら左翼やらに賛同しているのは、その根っこにおいてだけのように思えます。つまり、先ほどまで話して来た「関係性の逆転こそが革命だろう」というのは、ある部分までは芥青年も賛同しているところですが、ある部分からは反対しているように思われるような主張が続きます。

これは私の喩えですが、大富豪というトランプゲームを持ち出すと説明が容易かもしれません。大富豪はゲームを行うたびに、富豪が貧民から強い札を取り上げるというルールがあります。そして、このルールがある限り、基本的には富豪側が有利にゲームを進めることができます。まさに資本主義のようなものですね。しかしながら、同じ数字の札を4枚揃えると革命を起こすことができ、そこからは逆にそれまで弱かった札が強くなり、立場が逆転します。それまで貧民だった方が、今度は勝つようになるわけですね。

芥青年はこの逆転の瞬間にこそ意味があると述べていました。しかしながら、その逆転状態が「持続」すること自体には懐疑的です。すなわち、富豪に有利だったルールが貧民に有利なルールに変わって、それが持続するということは、結局「ルールに縛られている」、「大富豪というゲームが続いている」という意味で全く意味を為しません。むしろ芥青年が望むところは、ルールをなくし、大富豪というゲームをやめるというところにあります。富豪側は基本的に勝ち続けられるわけですから、大富豪というゲームをやめたがりません。だから富豪側が負けるまで大富豪というゲームは続きます。そして、貧民が革命を起こし、勝ち側に回るタイミングが訪れます。このときまた貧民だったものがまた大富豪というゲームを続けようものなら、結局立場が入れ替わっただけで何も意味がありません。それまで負けていた貧民が革命を起こし、ゲームに勝った時にこそ、「これで終わりにしよう」と大富豪というゲームに終止符を打つべきなのです。

芥青年は、社会というルールなどが及ばない、事物や人間同士の関係性といったものを排除した世界を作りたいと考えています。演劇のようにそれがたとえ一時的なものであっても、価値はあると考えています。したがって、自分が新しい王様になって、自分に都合の良いこれまでと似たようなルールを作りたいわけではないのです。目指すところはある種、原始の孤独な人間のようなただただ自由な世界と言ったところでしょうか。政治哲学用語としての「自然状態」というものが芥青年の目指すところであると私は理解しています。

なので、共産主義やら左翼やらの行動の方向性である「現在の体制に対してNOを突きつけよう」ということには一部賛同していながらも、「自分が新しい権力構造の上位者になりたい!」と考えている人間のことは嫌いなわけです。そういう意味では純粋な思想としての共産主義やら左翼やらにはかなりの共感があると言えるでしょう。しかし、せっかく作り上げた「解放区」の中で、人間たちがまた権力闘争をして、自らの権力を持続させようと、時間について考えるようになったりすることには大反対です。そういう意味では、三島由紀夫のような芸術家がその作品の中で孤立した、ルールに支配されない真に自由な空間を作ることそれ自体にはむしろ賛成なのです。ただ、三島はそのせっかく作った文学作品を以って、社会を扇動し、新たな権力構造を作り上げようとしているので、その部分が嫌なわけですね。

実際には事物との関係性や、そもそも人間が社会を形成する理由や根源的な傾向など、小難しいことも話されています。が、私はそれらのことを体系的に学んできたわけではないので、うまく説明することができません。よって、芥青年は無政府な状態をより人間的に自然な状態として、現状の凝り固まって上位者に都合の良いルールを破壊しようと考えている…くらいの説明しかできません。ヒトにもモノにも名前がなく、「役割」みたいなものもない、そんな真に自由な世界を目指しているわけです。対して、三島由紀夫はヒトやモノと関わっていくことで、社会の仕組みを変革していくことに革命の本願を置いているので、それぞれ目指すところのスケール感が違うわけです。しかも、芥青年は行動によって瞬間的であっても真に自由な空間を生み出すことを目指しながら、三島の芸術活動を認めており、対する三島は文章や言葉によって社会に持続する新しい構造を作り出すことを目指しながら、芥青年たち全共闘の行動に重きを置く方針を認めているので、これはもうかなりぐちゃぐちゃな感じです。

 

7.その他の全共闘/メディア

と、そんな感じでかなり観念的なそれぞれの方向性が面白く議論されていたわけですが、残念なことに(個人的に…)全共闘の人たちはそういう話がしたかったわけではないようです。「三島を殴る会があるから来たんだ」という野次が飛んだり、とにかく今ある構造をぶち壊して、新しい政治を作るんだ!みたいな結構即物的な意見が声高に叫ばれます。終いには芥青年に対し、「観念的なこじつけじゃないか。そんなんじゃ、全共闘の名が廃るぜ」と身内同士で揉めてしまいます。

それを受けて、まるで「私たちで作り上げた面白い議論は終わって、つまらない話が始まったな」とでも言いたそうな感じで、芥青年は三島に煙草を渡して2人で笑いながら吸っていました。このシーン、私はなぜか好きなんですよねぇ。

それから小休止がてら、映画はインタビューやナレーションベースでのメディアがこれらの運動にどれだけ大きな影響をもたらしたかという話が持ち出されます。テレビや雑誌によって運動やそれに関わる人がまるでお祭りやらアイドルかのように取りざたされることが、これだけ大きなうねりを齎したということには私も賛成です。逆に今ほどメディアが細分化された世の中にあっては、こういった熱狂は生まれ得なかったでしょう。50年前の東京オリンピックと比べて2021年に開催された東京オリンピックがイマイチ盛り上がらなかったのは、決してコロナだけの影響ではないでしょう。各々が各々の裁量で、自分好みのコンテンツを選べる現代においては、世間を一色に染めるようなムーブメントは起こすのが難しいように思います。これが私たち現代人の抱える自己完結的で孤独な人生観に大きな影響を及ぼしている…と、話しが逸れましたね。

 

8.三島由紀夫の世界観

かなり分量が嵩んできたにも関わらず、まだ本作の半分ほどまでしか経過していません。が、私が1番興味を惹かれた部分は過ぎ去ったので、ここではざっくりと内容をまとめさせていただきたいと思います。

色々な登場人物が口々に言っていますが、三島は「天皇」という1つの崇高な概念のもとに、「国」という枠組みを作り、そこで強い共同体意識を持って1つになることが自らの目標であると考えているようです。その一致団結の陶酔感を得たいために、現在のふわふわとした国家ではなくて、より国民1人ひとりが「自らが日本国民であり、故に天皇のもとに思想や気持ちを同じにして集う」ことができる国家を生み出そうと必死なわけです。また「天皇」がただの独裁者でただのブルジョワであったら革命は簡単に起こせるだろうが、「天皇」はより崇高で、日本の歴史や文化を取りまとめる存在であるからこそ、「天皇」を破壊して国家転覆をすることは難しいとも言っています。つまり、日本人が少なからず抱いているであろう「自らが誇り高い日本国民である」という根底にある意識を結び付けている1つの偉大な装置が「天皇」であるので、それを「破壊してやろう」とはなかなか思えないのではないか。だからこそ、この日本という国の構造を変えたいのであれば、ただただ構造を破壊していくのではなく、日本人が共通して抱える「天皇」に対する意識を利用して、国民全体を動かしていく必要があるのではないか。これが三島のやろうとしていることになります。

なので、三島の演説では「全共闘のやろうとしていることには賛成する。しかし、本当に国家構造を変革したいのであれば、天皇という存在の影響力を用いなければならない。なのに、それをしようとしていないから、君たちには賛成できない」と言っています。三島から見たら全共闘がやろうとしていることは、国民を分断することであるように思えたのかもしれません。なぜなら、繰り返しになりますが、国民を一致団結させてより良い構造に変革させるためには、共同体式が必要であり、今のところそれを成し得るのは「天皇」という日本の根底にある土壌を用いるしかないからです。

そういった説明を経て、最後に芥青年がもう一度「あなたの言っていることは、日本人という枠組みに留まり、結局何らかのルールに縛られることに喜びを見出すくだらない性癖や趣向じゃないか。それでは真に自由にはなれない」というような批判を浴びせます。しかしながら、三島は「その通り。私は日本人でありたい。そこから抜け出したく思っても、抜け出すことは現実的に不可能だし、そもそも私は天皇を主題においた日本という国の民であることに強い快感を得る。よりその快感を強くするために、日本を変革したいんだ」というようなことを返します。これを受けて芥青年は、三島はそもそも自分とは全く違うところを目指している人なんだと理解し、そして三島なりの世界観を受け入れ、これ以上は何も議論することは無いと壇上から去っていきます。

 

ここまで三島が「天皇」という存在・観念を崇拝する理由には、青年期の戦争の記憶、それにまつわる国民の強い共同体意識、それから個人的な天皇との接見の経験など色々あるそうです。が、この辺りは事実を羅列するだけになるので、省略させていただきます。

映画はその後も、楯の会の方々やそのほかの関係者の三島由紀夫との思い出が語られ、最終的には三島自身が自殺するところまで時間軸が進んでいきます。が、この討論会それ自体のの結論としては三島は「天皇」という考え方の視点・発想を全共闘側に見せ、同時に全共闘の「熱意」を認め、それでも立場は違うから手を繋ぐことはないだろうというところに終着します。この終わり方が何とも素敵で、カッコイイですね。「討論」というものの理想形とも言えるかもしれませんね。現在の芥さんも言っていましたが、「敬意を表し合うということも会話のひとつ」ということになるのでしょう。

 

9.まとめ

三島の切腹に関しては、人それぞれに受け止め方が異なっているわけですが、この討論会で示された三島の考え方を踏まえればまぁ納得のいく部分だったと思います。三島は日本国への帰属意識、一体感を求めていましたし、その目的を成就する過程で決闘があればそこで死ぬ覚悟もありました。実際に死のうとする人間がどれほどの覚悟を持っていたのか、それをリアルに表現したり感じ取ったりすることはできませんが、大筋として理解することは可能です。

この国全体に広がった「運動」について言えば、皆が国の在り方や自分の立場といったものをかなり明確に持っていたと思いますし、そこにあった「熱」というものは現代を生きる私たちにはあまり馴染みのないものだと思います。今の私たちはもっとカジュアルに生きているでしょうし、ラフでポップで無責任とも言えます。刺激はそこら中に沢山あって、1つの話題にはすぐに飽きてしまう。そんな時代では、こういった「運動」なんてものはほぼ起こり得ないでしょう。

三島についても「運動」についても、それらはもはや現実味の無いフィクションのように私たちの目には映ります。しかしながら、私はこれでも割と真剣に「どうあるべきか」ということを考えてきたつもりですし、その思考の重たさというものに苦しみ、それを共有できる誰かを探して来たように思います。「生きる」だとか「死ぬ」だとか、そういうことをもっとちゃんと誰かと話したいなぁ…そんなことを考えている私にとっては、こういった深く鋭利な討論ができる事態というのは非常に楽しそうだと思えました。もちろん、とても息苦しい時代のようにも思いますけれど。

私はちょうど1年前に適応障害という病気になって、自殺未遂をやらかしたりしたわけですが、そうやって病名がつく前から本当に辛く、苦しかったです。というのも、「自分は何のために生きているのか」ということを10年近くぐるぐると考え過ぎた結果、「生きる意味はない」と結論付け、「死にたい気持ちが臨界点を越えて行動に移すまでが自分の人生の在り方だ」と思いながら生きていました。そんなときにちょうど良く病気になって、自殺を図ったわけですが、死ぬことができずこうしてのうのうと生きています。そして、病気から回復するにあたって、今の私の生きる指針は「考え過ぎない」、「適当に生きる」ということです。生きる目的が見つからなくても、どんなに怠惰で情けない自分であっても、とにかく今の生きている自分という存在が最高!と思うようにして生きています。おかげで病気になる前と同じような苦しみはありませんが、反面何か人生に対する熱量のようなものは失われてしまったようにも思えます。果たしてあれを「熱量」と呼んでよかったのか、それはわかりませんが。ともかく、私もまた真剣さや熱を過去に残して、死ぬべき時に死ねなかった者として、今を生きています。それは全共闘の運動が消えていった後に残された彼らと同じような感覚なのかもしれません。だからこそ、本作の真剣な討論には面白さを感じますし、そういう時代に生きれていた彼らを羨ましく思い、こんな感じのまとまりのないブログを書くに至っています。

時間や持続を求めた三島が、社会的な時間と切り離されて独立した時空間を生み出す文学を得意技としており、しかも呆気なく自殺で生涯に幕を降ろしています。対して、社会とは切り離された刹那的な自由を求めた芥青年は、今になっても芸術活動をしながら生命を持続させ、自らの存在を1つのかつての運動の成果として誇っています。そんな皮肉な矛盾に面白味を見出したりしつつ、私もまたあれだけ「死にたい、死にたい」言っていたのにもかかわらず、こうしてぼんやりと生きる道に誘われておるわけです。

本作を通じて、久しぶりに私も「自分の思想や立場をはっきりと持って、生きねばな」と思わされました。その自らの指針がどんな皮肉な形を取るか、それすらも楽しんで生きていきたいと思うわけです。

 

最後に…

言い訳です。何日かに分けてこの記事を書いており、しかも気が向いたときにしか書き進めないので、書き上げるのに1か月以上かかっています。おかげで、言いたいことは二転三転しているでしょうし、文の繋がりもきっとおかしなことになっています。自分でも納得のいく出来ではありませんが、ほかに書きたい記事があるのでもう精査するのがめんどくさくなり、もうアップしてしまいます。

もっと文章を上手く書けるようになりたいですね…反省です。