霏々

音楽や小説など

茫洋 vol.3

 家に戻ると、とりあえずシャワーを浴びた。数時間前にも浴びたばかりだけれど、とも思ったがとにかく汗が気持ち悪かった。何となく、あの成人式の日の最後の雨を思い出しながら、髪の毛に水を含ませていく。頭皮に打ち付ける水の粒。滝業でも行こうか。そんなくだらないことが頭の中に思い浮かぶ。身体もしっかり洗い、風呂場から出て湯冷まししながらテレビを見ていると妹が出先から帰って来た。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、「いま起きたの?」と呆れたように聞いてくる。

「そんなわけないだろ。墓参り行って汗かいたからシャワー浴びたんだ」

「そう」興味無さそうに妹は相槌を打つと、コップの中のジュースを飲み干した。「今日の夜は私とお母さん外出るから」

「あぁ、聞いてるよ」

「お兄ちゃんはどこか出かけないの?」

自宅警備しててやるから、安心して遊んで来いよ」

自宅警備ってニートじゃないんだから。てか、せっかく帰省したのに高校の頃の友達とかと会わないんだ」

「もう会って来た。そいつはもう結婚したらしいよ」

「へぇ。まぁ、もうお兄ちゃんもそういう歳か。お兄ちゃんも結婚とかしないの? てか、カノジョは?」

「そのうち、気が向いたらな」

 ははは、と乾いた笑い声を上げて妹はコップを流しに置き、それからジュースのパックを冷蔵庫に戻した。「あのさ、思ったよりも大学生って大変だね」

「今のうちに大変な思いして耐性をつけておかないと、社会に出てからもっと大変だぞ」

「……経験者は語るってやつ?」

「おれは未だかつて何かを大変だと思ったことはないよ」

「ははは。嘘ばっかり。いつも文句ばっか言ってんじゃん」

 それから五分くらいすると、妹はまた鞄を持って玄関へと向かった。「どこ行くんだ」と声をかけると、「夜に飲む友達んとこ。いわゆるゼロ次会ってやつ? 夜はおばさんたちの相手をしなきゃいけないから、その前に若い者同士で楽しんでおこうと思って」と妹は答えた。まったく、どうしてそんなに人と会いたいと思えるんだか。裕也はいってらっしゃい、と妹を送り出すと、ソファの上で天井を見上げ、また一人か、と呟いた。

 昼食にラーメンを食べたにもかかわらず、漠然とした空腹感を感じながら、裕也は一人きりの家の中で音楽を聴きながら本を読んだりして過ごした。若干の下半身の疼きのようなものも感じてはいたものの、それを消化しようとも何故だか思えなかった。性欲よりも、眠気の方が強かった。そしてしばらくして自然とソファの上に寝転び、気づかぬうちに本を平たい胸の上に置き、それから音楽に耳を澄ませることもなく、眠りへと落ちていった。

 取り留めもない断片的な映像。幼い頃の友人たちが裕也に何かを言っている。好意的なものとそうでないものと。しかし、一番不気味なのは、皆の言っていることのほとんどが裕也に何の感情も抱かせないことだった。それから裕也は見知らぬ街を徘徊する。だが、夢の中の裕也はその街のことをよく知っているようで、自信ありげに階段を登ったり、坂を下ったり、雨に傘を差し、真っ白な雪景色の中を突き進んでいく。学校の中には暗い地下迷宮のようなものがあった。裕也だけが知っている場所がそこにはある。離れの建物の裏口から入り込み、様々なドアを次々に開け、時には誰も見ていない隙に柵を乗り越えて、小走りでそこを通り過ぎて行く。複雑な手順を踏んで、裕也はようやく目的の場所へと辿り着く。ただの暗い空間だ。何かの隙間から地上の緑と淡い光が見える。そして、裕也は立ち尽くす。労力と引き換えにここまでやって来たのに、目的は達成されたのに、何も終わらない。夢が終わらない。時間だけが後には残されている。呆然と立ち尽くしていると、気づかぬうちに時空間が飛んでいき、裕也はまた別の世界の中に立っている。何もすることがないから、裕也はまた歩き出す。また、見知った顔が何かを言っている。しかし、相変わらず、どれも遠い。

 目が覚めると、既に陽は沈み、音楽も鳴り止んでいた。そして、暗い部屋に一人きり。電気を点けなければと思いながらも、身体を起こすのが怠く、しばらく黒い瞼の裏と暗い天井を見上げていた。思い出せない夢の中身を思い出しながら、身体をゆっくりと覚醒させていく。脳が目覚めだすと、夢の内容は完全に思い出せなくなっていた。

 寝汗をかいていたのでまたシャワーでそれを流し、髪も乾ききらぬうちに台所に立ち、残り物の肉を使って野菜炒めを作った。冷蔵庫には冷ご飯もあったので、それをレンジで温める。お湯を沸かし、インスタントの味噌汁も作った。そして、缶ビールも一本だけ。休日の凡庸なバラエティ番組を見ながら、それらを味わい、ほろ酔い気分で食器を片付ける。全てが、まるでただ時間を潰すためだけに流れていく。裕也の本音としては、今日はこのまま何も考えることなく、たださっさと眠ってしまいたかった。しかし、昼寝をしたせいなのか、酔っているにもかかわらず何だか眼が冴えていたし、さっき見た夢の残り香がまだどこか不気味で、目を閉じてみても逆に落ち着かない気分になった。閉め忘れたカーテンの狭間に収められた窓ガラスを見やる。暗い背景の中に自分の像が二重になって浮かび上がっている。彼の背後には夜が広がっている。得も言えぬ恐怖感が裕也を捉える。少しテレビのボリュームを上げ、ウイスキージンジャエールで割って、スナック菓子をつまみに、酩酊の遠浅に足を踏み入れていった。

 裕也を苛立たせたのは一本の電話と、一つのメッセージだった。裕也がトイレからリビングに戻って来ると、スマートフォンの画面に一件の通知が来ていた。

 なんで出てくれないの?

 スマートフォンのロックを解除し、よく見てみると電話もかかって来ていた。裕也は重い溜息を吐く。理奈は今回の帰省にも同行することができなかった。裕也の帰省のタイミングが「普通でない」ことに彼女は最初腹を立てたけれど、裕也が今回の帰省が義務的なことであることを伝えると、しぶしぶ首を縦に振って「電話したらちゃんと出てね」と送り出してくれた。理奈は子供っぽいところがあり、なかなかに自分勝手な性格をしていた。ちょっとしたことで腹を立てるし、ちょっとしたことで不安にもなる。とは言え、某有名私立大学を出ているだけあって、頭は悪くなかったし、行動が素早く論理的で仕事もできた。その二面性が複雑に絡み合ってバランスを欠いた結果、彼女には剥き出しのカッターナイフのような危うさがあった。しかし、世間や人間関係を疎ましく思っている裕也にはそれが何故だか心地よく感じられたのも事実である。「無条件に」と言うよりは「不条理に」と言った方が正しいかもしれないが、そんな風に乱雑に自分の存在が求められるということは、それまでの裕也にはない経験だった。それが危ういものであることは十分にわかっていたけれど、結果的に裕也はそれまでにない安心感を理奈の中に見出すことになる。結局のところ、切り傷を絆創膏で塞いで、それを上から指でなぞってしまうような、そんな存在の実感こそが自らにとって重要なのではないかと裕也は考えていた。

 そんな理奈からの連絡。いつもなら「ごめん、ちょうどトイレだった」などと急いで返事をするのだけれど、何故だかこの日はスマートフォンを握りしめたまま、ぎらぎらとした光を放つ画面を黙って見つめているしか裕也にはすることができなかった。うっとうしい、と裕也は思う。そして、知らず知らずのうちに、そう口にもしていた。理奈の声や言葉は東京の喧騒を思い起こさせる。そして、裕也は気づくことになる。自分が、東京という場所さえも愛してはいないのだと。そんな五月蠅いものたちは、列車での道中、見知らぬ土地の寂れた景色の中に捨てて来たのだと。

 黒く輝く窓の向こうを見る。実家の庭があるだけだが、自分が今どこにいるのかくらいはきちんとわからせてくれる景色だ。そして、その景色に紛れる自分を裕也は俯瞰して見る。台所の排水口で実るグロテスクな果実のようだった。

 裕也は居ても立っても居られなくなり、ほとんど寝巻に近い格好で、家を飛び出した。肌寒い夜に、耳にねじ込んだイヤホンで精神の暖をとろうと試みる。しかし、しばらく歩いているうちにそれも嫌になって、誰もいない暗い道の上で裕也は自分の耳から、それを引きちぎるようにして取った。悲しげに咆哮する波の音が聞こえる。海が近い。そして、懐かしい場所を思い出す。それまで目的地もなく、嫌気だけを足掛かりに裕也は荒々しく歩を進めて来たが、ここに来てようやく目的地と呼べそうな場所を思いつく。そこに行けば何かがあるというわけではない。しかし、一度その場所が脳裏を過ぎってしまうと、その場所のイメージを払拭することは裕也自身にはできなくなってしまっていた。曲がり角でキリストと肩をぶつけたりしない限り、彼の足は止まりそうにもなかった。裕也は頭の中で、その場所を思い描く。田舎の小さな海浜公園だ。ビル三階分くらいの物見台のような建物がある。幼い頃にそこへ上った記憶が頭の中で繰り返される。恒久的な赤錆が階段の手すりを覆いつくし、触れるとぽろぽろと石造りの階段の上に落ちていく。彼の手にも、乾いた血の跡のようにそれが残る。階段には窓も何もなかったから、角度によっては太陽の陽がまっすぐ二つの踊り場を繋いだりする。しかし、階段を登って折り返すと、まるで昼と夜の網目を行くように、今度は影の世界が目の前に広がる。風が唸る。波の音が反響する。踊り場からは、建物の影が近くの松林の緑の上に覆いかぶさっている景色が見下ろせる。木々の葉が生き物の内臓壁のように蠢く。屋上はほとんど正方形の何もない空間。四方には鉄柵が張り巡らされている。これにもやはり赤錆がこびりついている。

 裕也はそこから海を見下ろす。水平線は暗く闇と溶け合い、宇宙の黒に侵されていた。それから、暗さに紛れてそれが赤と判別できないほどの鉄柵が裕也の手元にある。子供の頃には額の位置だったそれが、今では腰ほどまでしかない。昔見た昼間の景色と、いま自分が見ている夜の景色とが重なり合って、目の前に不可解な色味の茫洋を描き出す。

 生まれてからのことが走馬灯のように、裕也の脳内を過ぎっていく。しかし、どれもまるで他人の夢の中の出来事のよう。現実味もなければ、意味も為さない。ただあるのは時間と事象だけだ。墓石の下で積み重なる白骨の如きそれらを裕也は手に取り、そして砕く。掌を広げ、海風の中にそれらを撒いていく。一瞬だけ、真っ黒な背景の中に白い粉の線が引かれる。そして、再び、景色を見渡す。今、ここには自分と世界しか存在してはいない。相手の、その巨大さゆえに知覚することすらできないほどの口が、自分の目の前には広げられているという感触がある。全てが飲み込まれてしまいそうだった。金を稼ぐための仕事、古い友人、五月蠅い恋人、無害な家族。それらは何の意味も為さない。これまで幾度となく、自分が生まれた意味を考えたことがあったが、いつも明確な解答はない。今、崩れかけのコンクリートの天辺に立って、もう一度自分の生まれた意味を考えてみるが、風が唸るだけだ。そしてたった今、自分の手元には何も残されていない。いつもの拭いきれぬ、短い今日までが終わり、長い明日が待ち受けている、という感触があるだけだ。信仰も希望も愛もない、真っ暗な明日が待ち受けているだけだ。

 手すりに手をかけ、跨ぎ、吹き付ける風を感じる。波の音がこだましている。背後からは松林のざわめきが聞こえてくる。彼は無感情に、空に向けて足を踏み出した。

 

 それでも生が死を恐れる。しかし、アルコールが躊躇を打ち消す。理奈の顔。

 

2016.6