霏々

音楽や小説など

バズマザーズ「文盲の女」レビュー ~イノセンスへの憧憬と、対立する自堕落的性衝動~

バズマザーズ <スクールカースト>収録曲の「文盲の女」のレビューをさせていただきます。

 

この楽曲は残念ながらMV化されてはいませんが、曲調、そして何と言っても歌詞が秀逸です。ベースの重松伸さんはMV化を熱望していたそうですが、個人的には「MV化されなくて良かったなぁ」と思うところもあります。まぁ、MV化されてたらされてたで喜んでいたのでしょうが。

まず最初に言っておきたいことがあります。今回は副題にイノセンスへの憧憬と、対立する自堕落的性衝動」とつけました。いつも楽曲のレビューをするときは大抵言いたいことがまとまっていないので、すべてレビューを書き上げてから、全体を総括できるような副題をつけることが多いのですが、今回はこのような大仰な副題を先に提示した上で書き進めたいと思います。

話を戻しまして、MV化の件ですが、なぜ「MV化されなくて良かった」と思えるかと言いますと、それはやはりこの楽曲の文学性にあると思うのです。楽曲は、「文盲の女=脈絡がなく、意味の通らない言葉を並べる学の足りない女」のセリフとなるAメロと、「俺=そんな女と性的な関係を持ちながらもどこか満たされない自分」の苦悩と自虐からなるサビによって構成されています。わざわざ映像化しなくても、そんな情景がはっきりと頭の中に浮かび上がって来ますし、演奏メインのMVにすべきノリの良さを売りにした楽曲とも言えないです。もちろん、リズミカルで洒落たコード感のカッティングギターや、うねりながらも実にメロディアスなベースライン、心地よいタイム感かつテクニカルなドラミングなどはMV映えするでしょうが。

しかしながら、兎にも角にもこの楽曲は歌詞です。私もごくたまぁにギターを弾いたりするので、この楽曲の音楽的な素晴らしさ(本当にお洒落なコード感・空気感、そして歌いたくなるメロディ)は是非とも皆さんにお伝えしたいわけではありますが、それを差し引いてもこの楽曲は歌詞だと思うのです。

いつどこで目にしたか覚えていませんが、ネットの何かのコメントかなんかで「椎名林檎の『歌舞伎町の女王』のオマージュじゃん」みたいなことが書かれていたのですが、確かにそういう感じも受けますね。楽曲の雰囲気も似ていますし、大まかなベクトルで言えば「背徳感」という観点(もしくは風情?とでも言えばよいでしょうか)では似ているとも言えます。でも、実のところ歌っている内容は全然違うんですよね。似ているのは、「幼い頃に見ていたものとその延長線上にある今」について言及している点でしょうか。しかしながら、「文盲の女」では、あまり「自分の幼い頃」については多く言及されておらず(しかしながら、最終的には「自分の幼い頃」に帰結するのですが…それについてはこのレビューの肝なのでまた後程)、どちらかと言えば「女の幼さ」が目立っています。

「歌舞伎町の女王」を比較対象に持ち出しました。けれども、比較ばかりしていても先に進めないので、早速「文盲の女」の歌詞の解釈に入っていきたいと思います。

 

 「ポケットの中、手鏡一つ。ポケットを叩きゃ私は二人」

 さて、いきなり女のセリフから始まります。「ポケットの中にはビスケットが一つ♪ ポケットを叩くとビスケットは二つ♪(曲名は『ふしぎなポケット』らしいです。調べて初めて知りました)」。誰しもが幼き頃に聴いたことがあると思います。それのオマージュと言える歌詞ですが、「手鏡」が出て来たり、それが「二人の私」に変わってしまいます。

原曲のビスケットも物理現象的には破綻していますが、こちらの歌詞はより「意味不明」です。つまり、この女の「意味の通らなさ」が女自身の言葉から伺えます。「一つの手鏡が二人の私に変わる」ということについては、また後でじっくり考えますが、とりあえずそんな面倒なことは置いておいて、この歌詞で重要なのは女の「幼さ」・「学の無さ」です。

そう言えば、「文盲」という言葉について説明を忘れていましたね。まぁ、簡単に言えば「読み書きができない人」のことを言うわけですが、ある意味それは「幼さ」・「学の無さ」を一言で説明できる修飾語とも取れるでしょう(Gt.&Vo.の山田亮一さんも大好きな漫才コンビ「金属バット」もマナカナのネタで「文盲」というワードを使っていましたが、なかなかインパクトのある言葉ですよね笑)。つまり、「ポケットの中にはビスケット~♪」という歌を口ずさんでしまうような精神的に未成熟な女というわけです。また、「手鏡」という単語はどこかおままごとに興じる少女を連想させます(大人ぶってお洒落をしたい少女、とでも言えば良いでしょうか)。実際に年齢的に幼い女というわけではないのでしょうが、ほんの一行だけで「どういう女なのか」ということを直感的にわからせる素晴らしい歌詞だと思います。

さて、たった一行にどれだけ文字数を費やすのだとも思いますが、先に申し上げた通り、「一つの手鏡が二人の私に変わる」ということについても考えてみたいと思います。楽曲の世界観から言って、女は「幼稚かつ無知」である必要があります。ですから、女のセリフに深い意味を持たせることは楽曲の世界観を壊してしまう作業にもなりかねません。なので、ここはあくまで楽曲の世界観を度外視して、あくまで「言葉上の考察を行っているだけ」と考えていただければと思います(後にもこういったパートはいくつか出てくるものと思われますので、悪しからず)。

まず、「手鏡」が意味するところですが、ここでは「手鏡」の「鏡」にだけ注目します。「鏡」という道具の主な用途は「自分を見ること」です。言ってみれば、自分以外のものは鏡など使わなくても自分の目で見えてしまうわけですから、鏡が必要になるのは「自分を見るとき」に限定されると考えて差し支えありません(無論、その光学的な特性を利用した様々な応用方法はありますが)。そして、歌詞を都合よく読み解けば、「鏡が二人の自分を生み出す」ということになっています。「二人の自分」というのが何を指すのかは、様々な考え方があって良いと思います。例えばとてもありきたりな例で言えば、「理想」と「現実」の二人とかですかね。ハリー・ポッターの「みぞの鏡」でもなければ、鏡に映るのは往々にして現実の自分です(鏡で見る自分には多分に願望が含まれていることは言わずもがなでありますが、それでもここでは「現実」が見えるという風に考えておきましょう)。あるいは、歌詞の世界観になぞらえ、副題の通り「無垢な少年心を切望する自分」「自堕落的な性衝動に駆られる自分」としても良いかもしれません。とにかく、「ふと女の零した言葉から、ついついそんなことを考えてしまう俺」という構図として捉えても、この楽曲は十分に楽しめるとは思いませんか。

 

 「シューゲイズ、耳鳴りは、贖罪意識」

 「シューゲイズ」というのは音楽のジャンルの一つですね。私はあまり聴かないのでわかりませんが、ノイジーな音で思いっきりディレイやリバーブといった空間系のエフェクトがかかっているような印象です。「シューゲイザー」とも言うようで、「shoe gazer=靴を見つめる人」というところから取られたようです(ありがとうございます、Wikipedia様)。「雑踏をぼんやりと見つめるような」的音楽という意味で名付けられたのかなぁ、と思ったら、単純に足元の歌詞カード等を見て演奏していたスタイルを描写しただけのようです。まぁ、「gaze」の意味自体としてはそちらの方が正しいですし、文句はありませんが、個人的にな好みから言えば「雑踏をぼんやりと見つめるような」という方がお洒落な気がしますね。ミニマル的な浮遊感のある音楽スタイルからしても、その「漠然とした気怠さ」を形容する素晴らしい表現だと思うのになぁ…

まぁ、シューゲイズの説明はそれくらいにしておいて、「シューゲイズ、耳鳴りは、贖罪意識」というセリフも、まぁ意味がわかりません。ですが、1つ前の歌詞と同じように単語の生み出す雰囲気を感じとりましょう。「シューゲイズ」、「耳鳴り」、「贖罪」、「意識」。全体的な語感を捉えてみると、自己否定感が強いくせにプライドが高そうな、ちょっとメンヘラチックなサブカル女子を想像させませんか? まぁ、あくまで感覚なので私だけそう感じてしまうのかもしれませんが。しかしながら、それならそれで良いんです。女のセリフからその女の「人となり」を想像して楽しむのが、この歌詞の良いところだと私は思っています。

とは言え、全く意味が通らないとも言い切れないのが、この歌詞の凄いところ。1つ前の歌詞の考察で、「鏡が二人の自分になる」みたいに、ここでも無理やり言葉を紐解いてみます。「シューゲイズ=ノイズ・浮遊感・繰り返されるフレーズ」とでも解釈すれば良いでしょうか。「耳鳴り」は同じく「ノイズ」でありながら、無理やり「幻聴(あまりに響きが病的すぎるようであれば「心の声」)」のようにも捉えることができるかもしれません。「贖罪意識」については、もう完全に想像の領域でしかありません。またまた副題に回帰して私なりの整理をするのであれば、「自分の求めるものはイノセンス(=無垢さ)であるはずなのに、こんな頭の悪い女と性交渉に励んで、意味の解らないほとんどノイズみたいな女の言葉に『うん、うん』と頷いている。女に対する若干の罪の意識も感じるが、それ以上に強く感じる罪の意識がある。それはつまり、自分の中に残る純粋な部分に対する『裏切り』の感触だ。自分自身の性的な自堕落さがもたらすその『裏切り』の感触が遣る瀬無い。じわじわと腐っていくような心地なのに、繰り返し繰り返し、この意味のない空虚な関係性を続けている」みたいな感じになりますかね。やや恰好つけ過ぎましたが笑。

 

いやぁ、それにしてもこのレビューは長くなりそうです。楽曲のテーマが明確なのにも関わらず、あまりにも想像の余地がありすぎるんですよね。本当に素晴らしい歌詞です。

 

「私はマイナスゼロの中、チムチムチェリーの旋律になるの。ダウニー香る頃、私は空よ」 

随分とレビューも長くなってきましたが、まだ歌詞の3行目。そして、ここの歌詞は私が語りたいと思っていたところでもあります。よって、またかなり長くなってしまうでしょう笑。

*ここからは例によって読み飛ばしていただきたい箇所になります。あまりに私的すぎるので。

まず、「私はマイナスゼロの中」という部分。「マイナスゼロ」って意味わからんですよね。「プラマイゼロ」はよく聞いても、「マイナスゼロ」なんて数学Ⅲの極限の単元でしかほとんど聞いたことないです。でも、私自身、この数学的極限の考え方に基づいた「マイナスゼロ」という観念が大好きなんです。もともと「自分はマイナスゼロを目指せば良いのではなかろうか」と考えていたイタい時期に、この曲のこの歌詞を聴いて戦慄したのを覚えています。なので、全くの脇道ではありますが、私なりの「マイナスゼロ」に対する考え方をここにダラダラと書かせていただきたいと思います。

まずは「ゼロを目指す」ということが何を意味するのかと言われれば、最も世の中に知られている言葉を使って、「悟りの境地」と表現することはできましょう。「うわぁ、また宗教の話かよ」と自分でも引いてしまいますが(これまでもいくつかのレビューで宗教的な話をしてしまいました…笑)、例えば戦時中の哲学者・三木清の「人生論ノート」でも「虚無からの構成力=生命」というような話がされております。私の創作物であり、このブログタイトルにもなっている「霏々」の中で、このことについて深く考えてみたのですが、つまるところ人間いつか死んでしまうわけですし、そうなれば何も感じないし何も自分の手元には残らないわけです。すなわち、私たちは死=虚無に向かって生きているわけですね。三木清さんは、そんな虚無に向かいながらも自分の形を創造していく生命のあり方について、深く考えてらっしゃいまいしたが、私はそこまでものを深く考えられる人間ではないので、とりあえず「どうせ死ぬんだし、死んだように生きていれば楽じゃない?」というような思想で生きております。それが本来の意味での「悟りの境地」などではないのは重々承知しておりますが、「一切皆苦」という仏教用語があるように、頑張って何か生産的なことをしようと思っても辛いだけなんです。私みたいな気分の波が激しくて面倒臭がりな人間にとって。ですから、私は精神的な安寧を求めて、「何も感じないし、考えない」という「ゼロ」を目指していこうとしてしまうわけですね。

では、そんな「ゼロ」を目指すとしてどんなやり方があるか。もしも「積極性」をプラスと考えるのであれば、積極的に修行に励み「悟り」を目指す方法は「lim (x→+0) f(x)」と数式で表現できましょう。言わずもがな、f(x)は「Life = 人生 or 生命」です。でも、先にも言ったように私は怠惰な人間ですし、気分が落ち込んでしまうこともしばしば。となれば、プラスからゼロに近づけることはできないので、必然的に「lim (x→-0) f(x)」を目指さざるを得ないわけです。こうして、私は個人的に「マイナスゼロ」という言葉に強い関心を持っていた訳でありました。

それ故に、私はマイナスゼロ的な音楽には非常に惹かれてしまいます。例えば、toeの「Boyo」という曲であったり、Spangle Call Lilli Lineの「rio」という曲であったり。おしいところでキリンジの「エイリアンズ」やLillies and Remainsの「Final Cut」も、「無駄に神経を逆撫でしないけれど、どこか哀しい」という雰囲気は、私のイメージする「マイナスゼロ」に近いと思います。そういった音楽を愛する私にとって、「チムチムチェリー」という曲は非常に「マイナスゼロ的」と言えます。短調ではあるけれど、どこか長調のようにも聴こえるのが「マイナスゼロ」の簡単な説明とするなら、「チムチムチェリー」もまさにそんな感じの曲です。

そして、また偶然にも「チムチムチェリー」に対しても、個人的な思い入れがあります(これは先ほどの話よりも、さらに個人的な内容になります)。「マイナスゼロ」という言葉に特別な意味を見出すようになるより以前のこと。私はアルバイト先で、「時計を設置する」という雑用をやる羽目になったのですが、その特典として「終業の音楽を決めて良い」という権利を得ました。私がしていたアルバイトは塾講師で、私が設置する羽目になった時計は、塾を閉めるときの終業の鐘の音を鳴らす機能がついているものでした。「キンコンカンコン♪」という鐘の音はもちろん、終業の鐘の音としてポピュラーな「蛍の光」などもありましたが、「何となくチムチムチェリー好きだな」ということで「チムチムチェリー」を終業の音楽に選びました。あまりウケは良くなかったものの、「君らしい」と言われたのを今でもよく覚えています。いま思えば、そのころから「マイナスゼロ」的な、つまり「悲し過ぎずに哀しい」みたいな音楽が好きだったんですね。そして、いつの間にか、それは私の中で体系立てられて一つの小さな思想となってしまいました。

と、こんなかなり個人的な話をダラダラとしてしまったわけですが、この「私はマイナスゼロの中、チムチムチェリーの旋律になるの」という歌詞は、そんな私の日頃抱いている考え方や趣味趣向、そして過去の想い出なども引っ張りながら、私に何となく切ない感情を抱かせてくれるわけです。本当に個人的な話になってしまいましたね笑。

そして、「ダウニー香る頃、私は空よ」という歌詞ですが、この歌詞は本当に理解できませんでした。よって、「マイナスゼロ・チムチムチェリー」の話とは打って変わって、一瞬で終わります。まず単純に「ダウニー」は「柔軟剤」です。「香る頃」で何か決まり文句とか有名な作品でもあったかな、とGoogle先生に調べていただいたところ、石野真子さんの「金木犀の香る頃」という楽曲が出てきましたが、これはおそらく関係なさそうですね。ただ、「~香る頃」と時期を指す表現なわけですから、「~」の部分には金木犀のように季節感のあるものが来て然るべきだと思うんです。それに対して、女は季節感とは程遠い柔軟剤である「ダウニー」が「香る頃」と言っているので、この点に関しては今までの女のイメージ同様、正しく言葉を扱えない学の無さがうかがえるわけです。また、ここで憎いのが「ダウニー」という生活感溢れる単語を使っているところですね。ダウニーの香りを「懐かしい」、「良い匂い」と言っている女の姿が容易に想像でき、何となしに幼さ・可愛げがあり、切なくなってしまいます。

「私は空(そら)よ」という部分は本当によくわかりませんでした。「俺は空になる」的なことを言ったのは、エアギアの南樹(いつき)以来ではないかと。「空(そら)」と「空(から)=頭が空っぽ」をかけているのか。どうにも山田亮一さんのメッセージが読み取れず、また私自身、ピンとくるものが浮かばず、個人的なエピソードも無しでここは飛ばさせていただきます…申し訳ありません(短い方が読んでくださる方も嬉しいかもしれませんね笑)。

 

そんな話を数千回 アレの後の虚無も相まって
そんな話を数千回 仕舞いにゃ俺は泣きたくなる 

さて、ここからサビに入り、女のセリフから「俺」の心の声に視点が移り変わります。

前述のような女の脈絡のない(にもかかわらず、なぜか男の神経のどこかしらをチクチクと突き続ける)話を、数千回(←過剰な数表現を用いるユーモア)も聞かされて、虚無感に支配された俺は泣きたくなってしまいます。無論、「アレ=性交渉」の後に残る居心地の悪いモヤモヤとした塊も、俺を泣かせる大きな一因ではあるわけですが。

先ほど、女のプロファイリングとして「自己否定感が強いくせにプライドが高い」としましたが、実際には男の「俺」の方がよっぽどそういう傾向が強いんですよね。自分よりもずっと馬鹿で、言葉も正しく操れない女を軽蔑しながらも、そんな女の言葉にどこか感情を揺さぶられている俺。そして、そんな軽蔑している女との関係性を絶つこともできない。「こんな女と寝て、いったい俺は何をしとんのやろ?」みたいな自虐を喉元で唱えて、性行為の後の虚無感に「やれやれ」と溜息を浮かべていなければ自分のプライドを保てないわけです。そんな女にしか自分は相手にされないと分かっていながらも、ですね。

しかし、ここで難しいのは「自己分析の度合い」です。「こんな女と寝て、いったい俺は何をしとんのやろ?」と男が感じているのは確実ですよね。これは間違いなく歌詞から読み取れる男の感情です。しかし、「やれやれ、と溜息を浮かべていなければ自分のプライドを保てない」ということに自覚的であるかどうか、という問題は非常に微妙なところです。つまり、「女に対する侮蔑・軽蔑」と「そんな女と付き合っている俺への自虐」というところまでは歌詞に書いてありますが、「そんな侮蔑と自虐を唱えている自分のくだらなさ」までは書いていないんですね。だから、「深読みしすぎでは?」という考え方もあるとは思うんですが、この曲のテーマ(つまり、私が勝手につけたこのブログの副題的観点)からすると、男はどこまでも自己分析的であって良いと思うのです。冷徹に、深淵まで。そういった自己分析は、イノセンスの逆ベクトルであると私は思います。無垢とは無自覚さと密接に結びついているものですから。そういうわけで、男が冷静に自己分析を重ね、思考の重み・苦しみを感じれば感じるほど、イノセンス=無垢さからは遠のき、結果的にこの楽曲の味わいを深めてくれることになるのです。

 

嗚呼、また金属的な恥だけあの娘の身体に消えてった

 

とは言え、単純に「あぁ、この目の前の女はなんてくだらないんだ。そして、そんな女に自らの性衝動を吐き出している自分もまた、本当に虚無的な存在ではないか」と、歌詞の通りに受け止めても十分素晴らしい作品だと思いますが…

「金属的=無機的=無感情」と私は捉えましたが、皆さんはどう捉えますか?

なんとなく、「無機的」とか「無感情」って文学的には使い古された言葉で、それ故に引っ掛かりがなく、「あぁ、そういうことね。前にどっかで読んだことあるわ」と安易な理解を招きかねない言葉だと思うんですよね。刑事ドラマで急に不自然な日常生活的光景が映し出されると、まず間違いなくそれが事件解決のヒントになるみたいに。まぁ、それとはちょっと違うかもしれませんが笑。ともかく、あえて「金属的」という耳慣れない言葉を使う辺りが、山田亮一さんの言葉を扱う人としての自負を感じるわけです。そしてまたこの楽曲のギターも実に金属的な音をしております。

そして次に、「恥=精液」ということで良いでしょうか?

ここで「恥」というのは、「恥じらい=エロティック」な意味を持っていながらも、「失敗・ヘマ」という意味も同時に持っていると思うのです。「恥=精液」だとしても、それは何も性的な興奮を示すだけではなく、前々から記述しているように、女との関係性を抜け出せずに、また女の中で果ててしまう自分の愚かさを呪っているように思います。

虚無的な日常に絡め取られるように、また今日も女と寝て、愚かしく果てていく。それはまさに「金属的=無機的=無感情」な「作業」みたいなものであり、女の意味の通らない無意味な数千の言葉のように、自分も無意味な精液を吐き出し、精力と時間を浪費していくのである。そんな倦怠感に囚われて、泣きたく思っても涙も出ない男のくたびれた背中が浮かび上がって来ます。

 

分別のマスカレイドで、呪われた果実に私がなれば、

未開の部族みたいに求愛してよ 

さて、Aメロに戻りました。これもまた単語の組合せとして、無理やり意味をこじつけていきます。

まず何よりも先に言っておかなければならないのは、「分別」を「ぶんべつ」ではなく、「ふんべつ」と読んでいることです。語彙の少ない私がきちんと意識して「分別(ふんべつ)」という言葉に出会ったのは、J. D. サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」という小説でになります。作品の序盤で主人公のホールデンに忠告を与えるスペンサー先生の言葉です。「わたしは、君のその頭の中に、少し分別(ふんべつ)というものを入れてやりたいんだよ」というのが、そのスペンサー先生の忠告です。山田亮一さんはかつてハヌマーン時代のブログで、ホールデンの口調を真似た言葉を使ってみたり、「或る思弁家の記憶」というほぼ間違いなく「或る思弁家=ホールデン」として当て書きした曲を作ってみたり、またバズマザーズを始めてからも「ハゼイロノマチ」では「ねー、俺も捕まえて虚言(=Lie=ライ)畑の上」という歌詞を書いたりと、「ライ麦畑でつかまえて」から影響を受けているものと思われます。

「ぶんべつ」だと「ゴミの分別はしっかりしよう!」みたいな感じになりますが、「ふんべつ」と言われると何となく「物事を正しく判断する力」という感じに聞こえますね。まさに、現代的な思考力を示す言葉と言ってもいいでしょう。しかしながら、「ライ麦畑でつかまえて」の中で、スペンサー先生に「分別(ふんべつ)を入れてやりたい」と忠告されたホールデンはそれに対して嫌悪感を感じます。なぜ嫌悪感を感じたのかと言えば、簡単にまとめると「分別=社会的側面から必要とされる判断」と聞こえたからだと思います。もう少し簡単に言うと、あれこれ揚げ足を取るように口答えする子供に「もうちょっと賢くなりなさい」と諭すときと同じような口調に聞こえたからでしょう。

社会なんて嘘や欺瞞だらけのくそったれだ!

という如何にも青年的憤りの権化、つまり、我らがヒーローのアイコンとなってしまったホールデン(「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の魅力的な敵役「笑い男」の人格モチーフとしても用いられています)らしい感情と言えますね。

「文盲の女」の主人公である「俺」もまた、社会的にはあまり賢い生き方をしているとは思えません。その厭世的な態度は「俺」と「ホールデン」との間に共通した価値観と言えるかもしれません。ですから、「俺」も「ホールデン」同様、分別という言葉に対して敏感です。

次いで、「マスカレイド」という単語ですが、こちらはどちらかと言えば「女」の美的センスを表現するための言葉だと思われます。「マスカレイド」とはすなわち「仮面舞踏会」のことですが、「女」はあくまでその「仮面」や「舞踏会」の煌びやかさに魅了されて、それにどこかちぐはぐな「分別(ふんべつ)」というちょっと頭の良さそうな言葉を修飾語につけることで独特の世界観を演出しています。

しかしながら、「男」には「分別(ふんべつ)という社会的判断基準にどっぷりと浸かった、すなわち『社会性・社交性というマスク=仮面』をつけた連中の饗宴」というイメージが頭の中で組み上がってしまいます。

「呪われた果実」という言葉は、「女」にはどこかゴシックでデーモニッシュな世界観を抱かせる言葉なのかもしれません(それか単に「女」は漫画「ONE PIECE」のファンで、「悪魔の実」と混同しているのか)。「~に私がなれば」と言っていることからも、少なくとも女は「呪われた果実」に対して憧れに近いような感覚を覚えているのでしょう。しかしながら、これもまた「男(というか私)」にはまた全く異なった理解を迫ります。「呪われた果実」とはすなわち「禁断の果実」のことであり、「禁断の果実」とはつまるところ「知恵の実=知能の元凶そのもの」です。アダムとイブが食べたとされるアレですね。「ライ麦畑でつかまえて」の作者であるサリンジャーは「ナインストーリーズ」という短編集の「テディ」という印象的な短編の中で、主人公のテディに「知恵の実」に関する見解を喋らせています。

「あのりんごの中に何が入ってたか分る? 論理ですよ。論理とか、そういった知的なもの。りんごに入ってたのはそれだけなんだ。だがね―ぼくの言いたいのはここなんだけど―あなたがもし物をありのままに見たいと思ったら、そいつを吐き出してしまわなきゃいけない。つまり、そいつさえ吐き出しちまえばもう(中略)つまんないことに煩わされなくなるってわけ。いつ何を見ても、終わりがあるようには見えなくなる(中略)。困るのはね、大部分の人が物をあるがままには見たがらないことなんだ。生れては死に、生れては死にして始終それを繰り返すのを止めることさえいやがるんだな(中略)。こんなりんご食いの連中何て見たことないや」

<J.D.サリンジャー「テディ」(野崎 孝 訳)より>

だいぶ長い引用になりましたが、要するに「テディ」では知性全般を否定して(なぜなら知性は社会性・客観性を生み、人間を本質から遠ざけるものとして考えられるため)、もっと単純な無垢なる生命として宇宙の中で生きていくべきだというようなことが書かれています。つまるところ、社会的動物=人間としての「賢い生き方」なんてクソ喰らえ!というのが、やはりサリンジャー的な思考から導かれる一つの見解になり得るというわけですね。

ですから、「分別のマスカレイド=賢く社会で生きる人間たち」と「呪われた果実=知恵の実を食べて賢く社会で生きる」と読解すると、「男」の中では意味の通る文章になり得てしまうのです(たぶん、私が勝手にそう思っているだけでしょうが)。

最後に「未開の部族みたいに求愛してよ」というのは、わかりやすく山田亮一さん的なユーモアですね。「女は特別な愛情表現が欲しい。でも、男からするとそういうのはあまりに滑稽に映ってしまう。例えば、未開の地で生きる奇妙な部族の奇妙な愛情表現(しばしばそれはコミカルなダンスのようにさえ見えてしまう)みたいに」という感じですね。そして、何も女が言うような「未開の部族の求愛」に限らず、我々現代社会に生きる私たち男もまた、「私の事、どれくらい好き?」みたいな滑稽な問答にしばしば巻き込まれてしまいます。「未開の部族みたいに求愛してよ」と言われるのも、「私の事、どれくらい好き?」と言われるのも、案外滑稽さ・面倒さという点では同じようなものにも思えるのですが…こんな風に考えてしまうのは私が捻くれているからか、それとも「それだから女に相手にされないんだ」という遠回りの自虐をして悦に浸りたいからか。まぁ、私のことはもういいです。散々話しているので。

 

この後、また1番と同じサビです。なので、飛ばします。

 

情と色の間抜けな方便 幻に媚びを売るみたいに 

「あぁ、君とこのまま溶け合って一つの体になってしまいたい」とか、「あなたと繋がっていることだけが私のただ一つの願いなの」とか、「ねぇ、このまま二人で誰も僕たちのことを知らない街へ行って暮らさないか」とか、「そうね。そこで、子供をたくさん産んで、学校にもやらずに私たち二人で静かに、優しく育てましょう」とか。そういうありきたりな夢想を「男」と「女」は語り合うわけですね。

情欲と色欲から生まれ出る、ありきたりで間の抜けた方便。それは、まるで幻想や夢想に媚びを売って、ここに留まってもらおうとしているみたいに。

芝居じみた会話に酔いながらも、「男」にはどこか冷静なところが残っていて、やはりこの瞬間も「自分はいったい何をしているんだろう」という自問が拭い切れません。バズマザーズの「キャバレー・クラブ・ギミック」の歌詞で、「理屈っぽい性分と妙な自尊心が邪魔で笑えもしないのさ」とありましたが、まさにそういった感じでしょう。「文盲の女」では、「笑えない」というよりは「女との関係に夢中になれない」と言い換えた方が適切ではありますが。

 

果てた後のザラつく感じ、幼さが何か妙に汚らわしく想えてく

 「果てた後のザラつく感じ」に関しては、特に言うことはありません。「賢者タイム」なんて安い言葉では表現しきれない虚無感・哀しさというものはもちろん、果ててしまって正気に戻ってしまうと、さっきまでの「情と色の間抜けな方便」が急に馬鹿らしく思えてきます。雰囲気に飲み込まれそうになっていた自分への軽蔑と、相も変わらず知性の足りない女への侮蔑。それらが混じり合って、まるで紙やすりをかけたみたいに心がささくれ立ってザラついてしまうわけですね。

「幼さが何か妙に汚らわしく想えてく」という部分は少し難解です。「幼さ」の所有者は「男」と「女」のどちらなのか。「幼さ=稚拙さ、知性の足りなさ」ということで「女の幼さ」と捉えるのは簡単です。その場合、「幼さが汚らわしく想える=女の幼稚さに嫌気が刺す」と捉えてしまえばそれでお終いです。しかしながら、その場合、「汚らわしい=嫌気が刺す」という言葉の読み換えが必要です。これまで様々な言葉を私の都合で勝手に読み換えて来た訳ですが、それでも「汚らわしい」と「嫌気が刺す」というのはやはりどこかニュアンスが違うように私には思えてなりません。

そこで、別の解釈もしてみようと思います。「幼さ」の所有者が「男」にしろ「女」にしろ、目の前の欲望(性衝動)に身を任せてしまう事態を「稚拙」と捉えた場合、「男」にはその「稚拙さ」を言葉通り「汚らわしく」感じてしまうと私は思います。この後に詳しくまた書きますが、「男」が追い求めるのは本物のイノセンス=無垢さなのです。確かに誰もが幼いときは無垢でした。しかしながら、同じく「幼い」という言葉とニアリーイコールな関係でありながらも、「無垢さ」と「稚拙さ」は決して等号では結ぶことはできません。

つまり、ともすれば、「無垢さ≒幼さ≒稚拙さ」と等号で結び付けてしまえそうな気がします。しかしながら、「男」は「性衝動に溺れる稚拙さ」と「本物の無垢さ=イノセンス」が等価であるとは考えたくないのです。

「男」は自分の追い求めるイノセンスが、自らの堕落した性衝動によって汚されていくような心地がしたのではないでしょうか。「無垢さ≒幼さ≒稚拙さ」という等式が脳裏をちらつき、それを否定したいという想いが「汚らわしい」という感情を男にもたらしたのだと思います。そして、その「汚らわしい」という感情を逆撫でするのが、「果てた後のザラつく感じ」というわけです。

 

されど一人になり、やおらアレの後の虚無も消え去って

夜を漂って行く内に、次第に誰か抱きたくなる 

 ここの歌詞は言葉のままですね。「やおら」というのは、高校の古典の授業で「そっと」と習ったのですが、どちらかと言えばここでは「おもむろに」くらいに取っておいた方が良さそうですね。

「女」と寝た後、「女」を家まで送り届け、あるいは「女」の家を後にし、一人で夜の街・道を漂っているうちに、またふつふつと性欲が頭をもたげてくるわけです。あれほど自らの自堕落的な性衝動を汚らわしいと感じていたにもかかわらず、また自分の身体は性欲に支配されていきます。そうなると、「汚らわしい」なんて感情はもはや形而上的な話になり、現実味を欠いてしまいます。いま自分の身一つで感じられるのは、薄い皮膚一枚したではち切れんばかりに膨らむ性衝動のみ。「男」の目に映るのは、名も知らない道行く女のスカートから伸びる脚、そしてそれが蓋をする彼女の性器。あるいは、全ての男を魅惑する胸元の稜線。「誰でもいいからこの衝動を受け止め、そして慰めて欲しい…」。そんな想いに「男」は再び囚われてしまうのです。

 

頭は保留中のエーデルワイス 首から下だけ別の人 

さて、ようやくやって参りました。この一節がこの楽曲の全てです。この楽曲の歌詞では一度たりとも「無垢」や「イノセンス」なんて言葉は出てきません。なのに、私が狂ったようにそれらの言葉を繰り返していたのは、この一節があるからです。

いったい山田亮一さん以外の誰が「頭は保留中のエーデルワイスなんて歌詞を書けるでしょうか。この一節を読んでから、はや2年が経過しました。しかし、今だにこの一節は輝きを失いません。いつの間にか、私にとっての「無垢さ=イノセンス」という概念を説明するための実在が「保留中のエーデルワイス」になってしまったのです。

この一節があるからこそ、「男」の追い求めているものが、『混じりけの無い本物のイノセンス』であるのだと、私たちにはわかるのです。この一節がなければ、ただ単に知性の足りない女との関係を憂いてるだけの歌になってしまいかねません。しかし、逆に言えば、たったこの一節を歌詞に挟み込むだけで、この楽曲で表現したい全てのものが説明され、同時に全ての歌詞がこの一節に集約される結果となるのです。あぁ、この一節の素晴らしさについて語るためだったら、私はどれだけでも言葉を紡いでゆけるでしょう。しかし、あまり長々とそんなことを続けていても、読む人は嫌気が刺しますものね。これくらいでやめておきましょう。山田亮一さんのようにたった一節で言いたいことを表現しきる文才が私にないことが残念でなりません。

さて、先に「これでもか」というくらい褒めちぎったうえで、きちんとこの歌詞の説明をしましょう。

つまり、ここで言う「保留中のエーデルワイス」とは、「電話の保留音で使用されているエーデルワイス」のことです。それ以上でもそれ以下でもありません。もしかしたら、「女の文盲具合が男にも移ったのでは?」と思ってしまう方もいるかもしれません。確かに「女」の影響がゼロだとは言い切れないです。しかしながら、「女」からの影響かどうかなど最早どうだってよくて、「男」にとっては「保留中のエーデルワイス」こそがイノセンスの象徴である、ということが肝要なのです。

なぜ、「保留中のエーデルワイスイノセンスの象徴」となるのか。それは「頭=保留中のエーデルワイス」であり、その「頭=首から下=生殖器のある下半身、が別の人」と言っていることから容易に推測できるでしょう。つまり、「首から下=性衝動」を表すのであり、それとは別人である「男」の頭。そういうわけで、少なくとも「保留中のエーデルワイス」は「性衝動」とは対極に位置するものと考えられるわけです。

さて、皆さんは「電話の保留音で使用されているエーデルワイス」についてどんなイメージを持っていますか?

私にはどうも幼い頃に友達の家に電話をかけたときのことが思い起こされます。

 

  「〇〇くん、いますか?」

  「あぁ、◇◇くん。ちょっと待ってて。いま〇〇呼んでくるから」

   友達の母親の声が途切れると、おもむろに電話口からエーデルワイスが流れてきた。

 

もちろん、大人になってからも相手会社の電話の保留音がエーデルワイスである可能性は十分にあります。しかしながら、山田亮一さんがミュージシャン(←会社勤めであちこち電話をかける必要のない職業)であることなどを踏まえると、おそらく山田亮一さんも私と同じように、幼い頃に友人の家に電話をかけたときのことを思い出すんじゃないかと思うのです。

そして、そんな友達との無垢な関係性。性衝動に思い悩むこともなければ、屈折した自尊心や自己意識などもない。ただただあの頃の私たちは、日々を楽しく生きることだけを考えることもなく考えて生きていました。

それこそが無垢さ=イノセンスだと思うのです。

「男」の頭の中、つまり理想ではそんな「無垢さ=イノセンス」を追い求めています。しかしながら、頭=首から下の「男」に詰まっているのはどうしようもない性衝動。そして、それに纏わりつく下らない自尊心やエゴ。性衝動を発散したとて、待ち受けるのはあのどうしようもない虚無感で、そんな虚無感すらすぐに消え去ってしまい、「男」はまたいつもの性衝動に縛られてしまいます。それが現実なのです。

「理想=イノセンス」と「現実=性衝動」。私がこの楽曲のこの歌詞の一節を読んで味わったのはまさにそんなものであり、格好つけて要約するならば、このブログの副題の通り「イノセンスへの憧憬と、対立する自堕落的性衝動」なわけです。

 

 道行く人の貞操観に、仕舞にゃ俺は泣きたくなる

「男」の中では、前述のとおり「イノセンス」と「性衝動」の葛藤が渦を巻いています。「いっそのこと去勢でもしたら楽になるだろうか」とか「いっそのこと道行く女どもに片っ端から声をかけてヤらせてもらったら気が晴れるだろうか」とか、そんなことを考えてしまってもおかしくはないと私は思います。

しかしながら、道行く人はみな澄ました顔で歩いています。

同じ人間なのに、「男」と同じような性衝動はないのだろうか。いったいどうやって、自らの内に渦巻く性衝動を隠しているのだろう。無論、社会は性衝動をあけっぴろげにすることを奨励してはいない。おそらくは、そんな社会が作り上げた貞操観念のようなものが、みなの性衝動を押さえつけているに違いない。そう、「男」が自らの性衝動を剥き出しにできないのと同じだ。みな、社会によって性衝動を抑圧されている。しかしそれにしても、どうして当たり前のようにその貞操観念を受け入れ、性衝動を割り切ったように振る舞えるのだろう。「男」はこんなにも自らの内に渦巻いている性衝動に苦しんでいるというのに。どうして「男」だけがこんなにも苦しまなければならない? みなには保留中のエーデルワイスの音が聞こえないのだろうか?

と、まぁ、「男」には道行く人々が自分と同じような「イノセンス」と「性衝動」の衝突による苦悩を持ち合わせていないように見え、まるで自分一人だけが苦しんでいるように感じられてしまうわけですね。貞操観念という便利な言葉で、社会(経済)生活において邪魔になる性衝動を箪笥の中に仕舞い込み、それが必要となるタイミングではすっと引き出しから出してくるような器用さがある人たちに対して、「男」は多少羨ましいと思うと同時に、強い軽蔑の眼を向けます。そして、そんな自分が社会からの逸れ者であるように感じられ、ふと襲い来る孤独感から、仕舞にゃ泣きたくなってしまうのです。

 

嗚呼、今、俺の中で確実に、何かが弾けて死んでった 

そして最後にこの歌詞がやって来て、曲はアウトロに向かいます。

また質問で申し訳ないのですが、「弾けて死んでいった『何か』」とは何だと思いますか?

私からすれば「追い求める理想=イノセンス」と簡単に言い切ってしまうこともできます。男はもう「それ=イノセンス」を取り戻せないことを確信し、自分の中でそれが死んでいったと感じたのでしょう。でも、それだけではない「何か」がやはりあるのではないか、と私には思えてなりません。突き詰めて考えれば、結局のところ「理想」みたいなものが死んだことになるかもしれません。しかし、その「理想」の実態が何なのかと言われれば、そこには選択の余地があっても良いと思ってしまいます。

「女を切ったのだろう」と考えても良いですし、あるいは前述のとおり「無垢への憧憬を諦めた」と考えることもできます。ほかにも、ちらっと前に言ったように「去勢をして性衝動との縁を切った」と考えても間違いとは言えません。あるいは逆に「我慢することを止め、色んな女と寝まくった」という選択肢だってアリです。しかし、どんな選択肢を取ろうとも、「男」の中では確実に何かが死んでしまったのです。

村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」において、アカという登場人物が「爪を剥ぐ」話をします。要約すると、「手の爪を剥ぐか、足の爪を剥ぐか。人間の選択の自由とはそういうものだ」という内容の話です。また、バズマザーズの「ソナチネ」という楽曲の歌詞でも、「銃か毒か選べたって、俺には結局同じに見える」とあります。

つまりは、そういった意味で、何を失うか・何に苦しむかということに関して言えば、選択の自由があって然るべきだと思うんですね。何となく、山田亮一さんがあえて「『何か』が死んでった」という表現を選んだのも、そういった選択、あるいは推測の余地を残したいからだと私には思えます。

 

さて、これにてレビューは終わりになります。ずーっと書きたいと思っていたレビューでしたが、やはりとても長くなってしまいましたね。本当はもっと色々と書きたいこともあったはずなんですが、どうも書き疲れてしまったので、この辺でやめたいと思います。仕事終わりの時間を使って、3日に渡って書き続けたのでもうヘトヘトです笑。

 

最後に、この「文盲の女」のレビューのまとめを行います。

この楽曲は「文盲=知性の足りない女」とのやり取り・性交渉を通じて、「男=俺」がどうしようもない虚無感と喪失感を感じるストーリーになってします。「女」のセリフは一見、自らの美的センスに則って、脈絡のない言葉を並べ立てているだけのようですが、「男」には何か深い意味があるように感じられてしまいます。いや、もしかしたら何も感じてなどいなく、ただ「やれやれ、何で俺はこんな女と付き合うてるんやろか」という自己嫌悪があるだけかもしれませんが。しかしながら、これだけは確実に言えるのは、「男」にとって「女」との性的な関係性は心の底から望んでいるものではないということです。むしろ自分の性的に自堕落な傾向によって「女」との関係性が構築されているため、この関係性をある部分では憎んですらいます。しかし、それを断ち切ることもできはしません。では、「男」が心の底から追い求めているものは何なのか。それが「保留中のエーデルワイス」になるわけです。私はこの「保留中のエーデルワイス」を「無垢=イノセンス」と読み解いて、今回のレビューの基盤としましたが、もしかしたら別の読解をする方も沢山いらっしゃるかもしれませんね。しかし、いずれにせよ、「男」は「保留中のエーデルワイス」と「情欲・色欲」や「貞操観」の狭間で苦しみ、また他者との間に隔たりを感じて、孤独感に苛まれています。そんな複雑な感情を、どちらかと言えば飄々と歌い上げ、椎名林檎が自称した「新宿系」とでも呼ぶべき雰囲気の楽曲として昇華させています。

以上が、この「文盲の女」という楽曲のレビューの総括であり、私が3日かけてでも書ききりたかった内容になります。

 

最後に…

レビューの更新頻度が落ちて来ていますが、これはむしろ正常なことであると自分に言い聞かせています。誰だってブログを始めたばかりのころは、その新鮮な刺激を求めて「ブログを書くこと」を目的としていまいますが、次第にその刺激からも新鮮さがなくなってくるものです。芸術表現における初期衝動とも近いですし、新しく買った健康器具を最初の3日で使い倒すというのとも近いと思います。

しかしながら、こうしてある程度ブログを書く自分にも慣れてくると、ようやく自分の書きたいものが書けているような気がするものです。

そういう意味で、この「文盲の女」に関しては、ブログを始めるよりずっと前から、「誰かにこの曲の素晴らしさを伝えたい!」、「そのためにはこの楽曲について深く考察しなければ!」と思っていたので、ようやく念願叶ったりという感じですね。ブログを始めた当初よりも随分とフラットな心境で、思い思いのままに書けているなぁ、という手ごたえがあります。ただ、心配なのはあまりに思い思いに書いているため、自己言及が多くなったり、歌詞解釈についても客観性が薄まって主観性が色濃く出たりしてしまっていることです。

誰かに読んでもらいたいなら、読んでもらえるような文章をかかなければ。

そんなことはわかっているんですけれどねぇ…

ま、でも、何よりも自分が楽しんで書くことだと思うので、とりあえずは良しとしておきます。別に明確な将来ビジョンがあるブログでもないので。

これからもブログは壁打ちの「壁」と思って、書いていこうと思います。

以上、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました!