霏々

音楽や小説など

金澤朋子「黄色い線の内側で並んでお待ちください」レビュー~羨望と受容を包み込む愛~

Juice=Juice現リーダーの金澤朋子さんの初ソロ音源「黄色い線の内側で並んでお待ちください」のレビューをさせていただきます。

 

www.youtube.com

 

映像美(朋子様を含む)が果てしない!

 

ということで、ついに朋子様のソロ曲のMVが発表されましたね。

※注意書き

別に私は「かなとも」こと金澤朋子さんのことを常日頃「朋子様」と呼称させていただいているわけではございませんが、何というかこの楽曲をレビューするにあたっては「朋子様」とおよび申し上げた方が良いのではないか、という所存でございまして、このような愚行を…

現代人らしく敬語がうまく使えないので、この辺りでやめておきますか。ともかく、平仮名で「かなとも」と表記すると、「 」を使わないと文章が読みにくくなるということもありますし、気分的にもやはり「朋子様」なので、「朋子様」と呼ばせていただきますね。気持ち悪いと思われた方は何とか慣れてください。すみませんが。

 

それではさっそく始めていきましょう。

 

◆ 前書き

今回この楽曲のレビューをさせていただく上での、私の動機について少しだけ。

このあいだ宮本佳林ちゃんのソロライブに行って来まして、そこで「あぁ、ソロ曲っていいなぁ」と改めて思っていたところだったのですが、朋子様も続けてソロ曲を発表されたので、ダウンロードが始まった瞬間に取得して聴いてみたわけですが、思った以上に「良いな!これ!」と。何が「良い」のかと言うと、楽曲のコンセプトがはっきりしており、しかもそのコンセプトがアイドル一辺倒な感じでなく、かつ朋子様らしいというのが私的には最高でした。

ただし、いつものことながら「仕事が忙しい」とか「詳細な歌詞がわからないし…」という理由でレビューをする予定はなかったのですが、まさかまさかのMV化と相成りまして、「MV最高!しかも正式な歌詞がわかるじゃん!」というわけでこうしてレビューさせていただくことになりました。

佳林ちゃんのソロ曲「どうして僕らにはやる気がないのか」に関しては、「どうして事務所には佳林ちゃんソロ曲のMVを作成するやる気がないのか」(我ながらうまい!)と問いただしたい部分もありますが、この際それは置いておきましょう。

 

eishiminato.hatenablog.com

eishiminato.hatenablog.com

 

※佳林ちゃんソロライブについては上記リンクの記事をご覧ください。はい。見たまんま宣伝でございます。

 

◆ 本題(楽曲のレビュー)

それでは本題に移りまして、楽曲のレビューを進めていきます。

まずは一番わかりやすい歌詞から話してみましょう。

※作詞はSHiLLさんとなっていますが、朋子様も歌詞の修正には随分と口を出したということをどこかで見ました(すみません。いつもの如く、ソースが…)。よって、朋子様の考えも歌詞には強く反映されているということを前提としています。

 

intro(2.4) 

A1-1(8)
平和に生きれたら充分で 大きな夢はなくて
味気ないねと言われるけれど 私はそれでいいの

A1-2(8)
波を立てずに逆らわずに ちゃんとルール守って
目立たなくても自分なりに世の中支えてるつもり

B1(8.1)
あれこれと目移りするけど
とりあえずこのままでいいかな
ためらい抱えて今日も生きてる

C1-1(8)
「黄色い線の内側で並んでお待ちください」
流されながら 抜かされながら また並んでいた

C1-2(7)
「黄色い線の内側で並んでお待ちください」
何も考えないで 繰り返してるだけで 安らげるんだ

inter1(4.1.4)

A2-1(8)
私のこれからの人生が 今までと同じでも
特別なことが起きなくても居心地は悪くない

A2-2(8)
命を燃やして生きるのも すごいことなんだけど
それよりも私はちょうどいい安定に包まれたいから

B2(8.1)
いつまでも変わらない日々を
うとましく思うことあるけど
このまま暮らしてくのが似合ってる

C2-1(8)
「黄色い線の内側で並んでお待ちください」
流されながら 抜かされながら また並んでいた

C2-2(7)
「黄色い線の内側で並んでお待ちください」
何も考えないで 繰り返してるだけで 安らげるんだ

inter2(2)

C3 = outro(8)
「黄色い線の内側で並んでお待ちください」
流されながら 抜かされながら また並んでいた

 

例によって、(   ) の中は小節数となっておりまして、「A1-2」は「1番のAメロの2回目」という風な意味合いとなっております。「intro」は「イントロ(前奏)」、「inter」は「間奏」、「outro」は「アウトロ(終奏)」という意味です。

とりあえず楽曲構成や小節数については、後回しにするとして、歌詞の解釈から始めてみます。

といっても、とりあえずこの記事の副題の通り、「朋子様がこの歌詞を歌う意味」というのが私が喋りたい全てです。したがって、①歌詞の全体像、②朋子様について、③朋子様が歌うこの歌詞、という順で話を進めていきます。

 

①歌詞の全体像

もはや説明は不要ですが、ざっと一言でまとめると「目立たずに流されるだけのありふれた人生。でも、それこそが私の望んでいるものなの…」という感じになりますね。大事なのは最後の「…」です。この「…」が「ありふれた人生」に対する「逡巡」を意味していると考えてください。

まず、この歌詞の主人公が「ありふれた人生」を肯定している言葉をいくつか抜粋してみます。

<肯定>

「平和に生きれたら充分」

「私はそれでいいの」

「ちゃんとルール守って」

「自分なりに世の中支えてるつもり」

「とりあえずこのままでいいかな」

「繰り返しているだけで、安らげるんだ」

「ちょうどいい安定に包まれたい」

「このまま暮らしてくのが似合ってる」

となるでしょうか。思ったよりも「肯定」が少ないと感じるのは私だけでしょうか。もちろん、楽曲の世界観の主軸にあるのは言わずもがな「ありふれた人生…への逡巡」です。とは言うものの、何となく楽曲を聴いていると、「ひたすらに今のありふれた人生を自己肯定しているなぁ」という印象でした。にもかかわらず、これだけ「肯定」が少なく、しかもその「肯定」の中にも「充分」「自分なりに~つもり」「とりあえず」「このまま」「~だけで」「ちょうどいい」「このまま」「似合ってる」みたいな若干の「諦め」を感じさせる単語が隠されています。したがって、「全面的な肯定(つまり、希望を感じさせるような言葉)」は全くないということがわかります。

では、次に「否定」を抜粋していきたいと思います。「ない」とか「ず」とか、所謂国語の授業で「否定語」と習うものに注目していきます。

<否定>

「大きな夢はなくて」

「味気ないね」

「波を立てず」

「逆らわず」

「目立たなくても」

「目移りするけど」

「何も考えないで」

「特別なことが起きなくても」

「居心地は悪くない」

「(命を燃やして生きるのも)すごいことなんだけど」

「(いつまでも変わらない日々を)うとましく思うこともあるけど」

 と、結構な数がありますね。つまり、単純に肯定文で心情を表現しているというよりは、否定文による心情表現が大部分を占めているわけですね。「大きな夢はない」「味気ない」「波を立てず」「逆らわず」「何も考えない」「特別なことが起きない」「居心地は悪くない」というのが基本的には自分の「ありふれた人生」を直接的に説明する言葉です。対して、「命を燃やして生きるのも、すごいことなんだけど」などは、自分と真逆の人生を否定することで、自らの人生が「ありふれたもの」であることを説明していますね。

こうして見ると、歌詞のほとんどが「自らの人生観の説明」となっていることがわかります。そして、その説明は「とりあえず」のような「留保付きの肯定」ないし、「否定文」から構成されており、それによって胸を張って「自分の人生最高!」と叫ぶのとは真逆の雰囲気が作られています(私も否定文を使って説明してみました)。きちんと直接的に説明するのであれば、最初に述べた通り、「目立たずに流されるだけのありふれた人生。でも、それこそが私の望んでいるものなの…」というのがやっぱりしっくり来ますね。

 

しかしながら、そういった「自らの人生観の説明」…少なくとも、「直接的な説明」となっていない部分があります。それが「サビ」の歌詞にして、楽曲のタイトルにもなっているところです。

 

「黄色い線の内側で並んでお待ちください」 

 

正直に言ってしまえば、まぁ、この言葉がありふれた現代において、たいしてオリジナリティのない(定型文的言葉をあえて用いるという手法を使っているのでそもそもオリジナリティなんてないわけですが、それにしたって「黄色い~」という言葉を選ぶところには強いオリジナリティは感じることが難しいです…正直)歌詞と言わざるを得ない部分があります。

かと言って「じゃあ、オリジナリティを感じる定型文って何?」と聞かれても答えるのは難しいですが、例えば、バズマザーズというバンドの「キャバレー・クラブ・ギミック」という曲には、

 

『他に綺麗な娘いたのになんで?』って永久に続く問いに

『初恋の人に似てるからさ』ってついた嘘と

『えーモテそうなのに!』って世辞 

 

みたいな感じで、定型文を引用しつつも会話形式で楽曲を展開させることで、わかりやすく場末感を演出する方法などもあったりするわけです。これをまたオリジナリティと捉えるかは難しいものの、定型文をそのまま引用してドン!ではなく、定型文を引用しつつ、上手くアレンジして歌詞に組み込んでいくくらいのことはやってみても良い気がしますね。

なんてちょっと批評めいたこともしてみましたが、今回の「黄色い線の内側で並んでお待ちください」という楽曲に限って言えば、「果たしてオリジナリティを出すことが正解なのか?」という非常に重要な疑問が生まれてきます。

つまり、この楽曲のコンセプトが「ありふれた人生」について歌っている以上、歌詞に強い個性があると、楽曲の世界観と矛盾してしまうわけですね。大事なのは楽曲の歌詞にもある通り、「目立たない」「ちょうど良さ」です。そういう意味では、「黄色い線の内側で並んでお待ちください」という歌詞の何とも絶妙な「芋っぽさ」は、どこまでもこの楽曲にマッチしており、ある意味では最適解と言えなくもないと思うのです

そして、さらに重要なのは、そんな「黄色い~」という歌詞を繰り返していることです。数えてみれば早いですが、何と1曲のうちでこの定型文が5回も出てきます。たいして長くもないこの曲で5回も。この「そこまで華美でも洒落てもいなく、刺激的でない定型文を5回繰り返す」という手法自体が、本楽曲の世界観を表現するうえで、非常に効果的なものとなっていると言えます。というのも、「いつまでも変わらない日々をうとましく思うことあるけど、このまま暮らしてくのが似合ってる」という歌詞に強く表れているとおり、「平凡な日々の繰り返し」こそが主人公の求めている(と言い張っている)ものであり、それはつまるところ「同じ歌詞(しかもそこまで刺激的でない)の繰り返し」によって暗喩されていると思うのです。まさにサビにある通り、「何も考えないで、繰り返しているだけで、安らげるんだ」という感じですね。

そして、さらに言うのであれば、先述の通り、このサビの歌詞は主人公の人生観の直接的な説明ではありません。

 

「黄色い線の内側で並んでお待ちください」
流されながら 抜かされながら また並んでいた

 

「黄色い~」という駅のホームアナウンスを聞きながら、周囲の人込みに流されたり、あるいは並んでいるのに抜かされたりしながら、そのことに対して特に反感も覚えずに、また大人しく並んでいる…という描写がサビではなされています。そう、これはあくまで描写であって、人生観の表明ではありません。しかしながら、特に「描写」が「説明」よりもより多くの情報を持っているという事実は、文章を愛するものにとっては既知の原理であると私は思っています。

そして、この「黄色い~」という曲名にもなっているキーセンテンスの解釈ができたとき、この楽曲を解釈できたということになるのではないでしょうか。無味無臭の言葉(今回で言えば「黄色い~」という世に広く流通する定型文)に対して、多義的な意味を付与していくものこそが文学であると私は考えます。

 

※あまり関係の無い楽曲を持ち出すものではありませんが、「保留中のエーデルワイス」という言葉に対して、実に多義的な意味や情景を付与した楽曲として、バズマザーズというバンドの「文盲の女」という楽曲を紹介させてください。これもまた非常に秀逸です。

 

eishiminato.hatenablog.com

 

②朋子様について

長くなって参りましたが、次に金澤朋子さんという人間についてざっくりと掘り下げていきます。かなとも…もとい朋子様の魅力は何といってもその暴君性にある…なんて言うとただのファンでしかないわけですが、こと今回の楽曲とマッチする魅力について語るならば、やはり「もともとは公務員になろうと考えていた」という部分でしょう。

朋子様は、もともとはただのアイドルファンであり、景品の℃-uteのサイン入りポスターが欲しくてカラオケコンテストに応募したら、いつの間にかその才能を認められてアイドルとしてデビューしていたという、スーパーシンデレラガールです。℃-uteのサイン入りポスターはコンテスト準優勝の景品で、優勝してしまった朋子様は℃-uteと同じステージに立つという権利を獲得してしまった(いや、ポスターが欲しかったんだけど…!)という笑い話もよくされますね。

ですから、朋子様は人生のある時点(およそ17歳くらい)までは、朋子様自身が仰るように、普通の女の子で普通に公務員になることを考えていたわけです。アイドルになってからも、アイドルらしからぬ粗暴さ(特にヘアアレンジ動画に顕著に見られる)を時折覗かせたり、オフィシャルな場(特に初めての人と絡む場合)では借りてきた猫のように礼儀正しくなったり、いかにも「普通」の「アイドルっぽくない」振舞いを度々見てきました。私なんかは時折、「アイドルじゃなくてアナウンサーとかの方が向いてるんじゃ…」と思ってしまうわけですが、そうは言っても彼女の歌声は素晴らしく、朋子様が歌を歌う仕事に就いているというのは、私たちファンの幸せであるわけです。

ほかにも朋子様は、クレヨンしんちゃんが好きだったり、くら寿司で「ハンバーグ寿司」をひたすら食べるのが好きだったり、カリカリ梅が好物だったり、よく本を読んだり、色々と見ていくと本当に庶民的な(ある場合にはとてもおっさん的な)部分を感じます。顔面の美しさはとても手が届くような代物ではありませんが、なんかこうやって仕事終わりに生産性のないブログをだらだらと書いている私でも、出会う場面が場面ならなんか仲良く慣れそうな気がするんですよね。まぁ、これは私の勝手な思い上がりですが。しかし、共感してくださる方はきっと多いんじゃないかと思います! なんてことを思わせるような、「普通さ」「真面目さ」が朋子様からは感じられます。

 

③朋子様が歌うこの歌詞

と、そんな朋子様が上述の歌詞を歌うわけです。これは単純に、朋子様の根底にある人間性と歌詞がマッチしているのが良い!というだけの話では済みません。もちろん、「公務員になりたかった」と考えるような朋子様には、とてもマッチした歌詞だとは思います。しかし、より広く深く考えてみると、それだけではない意味も見えてくるような気がします。

私が思うに、人間には人生のターニングポイントのようなものがあり、つまり「その時の選択が違うものであれば、全く違った人生があったのではないか」と自分自身が考えてしまう瞬間というものがあります。ここでは仮に朋子様が例のカラオケコンテストに応募するか、しないかという選択が人生のターニングポイントだったと仮定します。すると、コンテストに応募した未来が現在の朋子様のアイドル活動であり、応募しなかった未来が「公務員」です。これは「公務員」の方を何かしら批評するということではなく、単純に「公務員」という言葉から一般的にイメージされる印象を以って喋るわけですが、もし朋子様がコンテストに応募しなければ、所謂「公務員」的な「ありふれた」「繰り返しばかりの」人生を送っていたのだと思います。そして、そのことに対して、おそらくは朋子様も朋子様なりに満足して、幸せに生きていったことでしょう。逆に、コンテストに応募して「アイドル」になったとして、それが本当に幸福だったのか、というのもまた難しい問いだとは思います。したがって、「アイドル」と「公務員」のどちらがより幸福度の高い選択肢だったのか、それを客観的に論じることは決してできませんが、少なくともその選択によって、未来は大きく変わることになります。

それはそれとして、楽曲に話を戻しますと、この楽曲「を」歌っているのは言わずもがな、「アイドル」としての朋子様です。しかしながら、この楽曲「で」歌っているのは、「公務員」としての朋子様になるわけです。このことは単に、「朋子様らしい」という言葉で片付けられるのではなく、もっとより切実な、「人生のターニングポイントで生き別れた別の世界線における自分との邂逅」と言っても差し支えないような、そういった意味がある楽曲になっていると、私はついつい考えてしまいます。

そして、そのような意味合いがありながらも、歌を歌っているのは間違いなく、「アイドル」の朋子様です。だからこそ、歌詞は前述の通り、「公務員」的なありふれた人生への、全面的な肯定が少なく、否定文による説明が多く、かつ「黄色い~」という情景描写によって意味が凝縮されるような、「ありふれた人生への逡巡」が付き纏う内容になっているのだと思います。要するに、朋子様は「アイドル」という人生に対して、強い意志を以って取り組んでいるからこそ、「公務員」という人生をただただ肯定するような歌詞にはしなかったのだと思います。しかしながら、決して「公務員」という人生を「否定」もしていません。つまるところ、それは言うなれば「鏡の世界」の朋子様であるからです。ターニングポイントで別れた、こっち側の自分もあっち側の自分も、どちらも本当の自分であり、どちらかがどちらかを蔑ろにするなんてことはしてはいけない。だからこそ、こっち側の自分があっち側の自分を歌い、そしてその歌う内容は、「あっちの側の自分がこっち側の自分を想って『そういう生き方もあったかもしれない』と少し逡巡しながらも、あっち側の自分としてあっち側の人生を受け入れている」というものになっていると私は思っています。「あっち」とか「こっち」ばかりで意味を捉えるのが難しいとは思いますが、つまり、とても「あっち側=公務員的人生」と「こっち側=アイドル的人生」が入り組んでおり、そのどちらが正解かなんてことはわからないけど、ちょっとはこっち側じゃないあっち側の人生に憧れたりもするけれど、それでもこっち側の自分として生きていく…みたいなことがこの楽曲において重要なことなのだと、私は感じました。

これを端的にまとめるのであれば、「羨望と受容を包み込む愛」とでも表現できましょうか。え?余計によくわからない? 私も日本語が下手なので、これ以上はうまく説明できませんが、私が何よりも強く感じたのはやはり、「どちらの自分も大切にしよう」という「愛」なのです。

 

◆ 音楽的な考察

あぁ、長くなってしまった。なので、さっと書いて、さっと終わりにしたいと思います。

 

f:id:eishiminato:20200218232351p:plain

楽曲構成A

f:id:eishiminato:20200218232655p:plain

楽曲構成B

J=Jの「ひとそれ」と比較してみると、Aメロ⇒Bメロ⇒Cメロ(サビ)といういたってJ-POPらしい流れは同じものの、「黄色い~」の方が随分とすっきりとした構成になっていることがわかります。また、「ひとそれ」のレビューでも話したような、2番の小節数を少なくすることで楽曲の展開をスピーディにするような手法も「黄色い~」では取られていません。この辺りの詳細は以下のリンクからご覧ください。

 

eishiminato.hatenablog.com

 

楽曲展開のスピーディさを演出するよりは、今回の「黄色い~」では「繰り返し」や「変わり映えのしない」という部分が大切になっているであろうことは、歌詞の解釈を考えればすぐわかることと思います。ですから、1番も2番もAメロはたっぷり16小節ずつも使っているわけですね。サビも1番と2番ともに15小節使用しています。

そして何よりも特徴的なのは、「黄色い~」にはサビが2回しかない!ということです。というよりも、3番が無いのがポイントです。意外とJ-POPには「2番はサビを設けず、そのまま間奏に行って、落ちサビ⇒本サビという構成にする」パターンも多いのですが、今回は2番のサビが終わったと思ったら、そのまま最後のアウトロ(一応サビのメロディですが)になってしまいます。展開が自然なので、「え?これで終わるの?」とびっくりしてしまうほどではないのですが、「あ、終わった」とちょっと寂しさを感じるくらいの違和感とも呼べないほどの違和感があります。

大事なのはこの「寂しさ」であり、3番がなく、すっと終わってしまう本楽曲の構成は、まさに歌詞世界で表現されているような、得も言えぬ「報われなさ」「逡巡」「諦め」のようなものを感じさせますね。朋子様が楽曲の構成などにどこまで口を出したのかはわからないところではありますが、楽曲のコンセプトを踏まえたうえで、よく考えられた楽曲構成であるように思います。

朋子様自身、ブログでは「昭和歌謡のような雰囲気」と評していますが…

 

ameblo.jp

 

昭和歌謡的な寂寥感を感じるサウンドとなっているのも、また楽曲コンセプトに実にマッチしていますね。

楽曲を構築する音について語るならば、まず何よりも耳に残るのはアコースティックギターの音ですね。そして、要所要所で差し込まれる泣きのエレキギター。歌がある部分ではアコースティックギターが哀惜を感じさせ、歌が消えた瞬間には「いかにも」なエレキギターのフレーズが現れて、嵐のようにすべての感情を連れ去ります。この2者共存が楽曲の顔として働いているように思います。

リズムに関して言えば、まずA1の前半は打ち込みのドラムが使用されているものの、それ以外ではおそらく生音のドラムが使用されているでしょうか。ギターはもちろんですが、やはり生音を使うことで温かみが生まれるように思います。先述の通り、私はこの楽曲のテーマは「愛」だと思うので、生音は絶対に必要です。ベースは決して前に出て来る感じではありませんが、適切なフレーズを適切な音で弾いているように思います。基本的にはアコースティックギターによってコード感が付与されていますが、しかし、アコースティックギターでは四分音符の長い響きを得るのが難しいため、その隙間をベースが上手く埋めており、途切れることのない情感を表現するためにベースは重要な役割を担っていますね。特に、サビではアコースティックギターと一緒に、ジャスト⇒シンコペーションを繰り返しており、楽曲の躍動感を演出しています。シンコペーションについては以下の表をご覧ください。

 

f:id:eishiminato:20200219001154p:plain

シンコペーションについて

本来であれば「〇」の位置にビートが来ることで、綺麗な「1・3」ビートのノリになるわけですが、「」の位置にわずかにビートの位置が早められることで、楽曲のビートに躍動感が生まれれます。このようにあえて強弱の位置をずらす、特に先取りするような手法をシンコペーションと呼びます。

これによって、比較的しっとりと歌謡曲的なAメロ、Bメロでありながらも、サビではどこか異国情緒を強く感じ、かつJ-POP的なノリの良さが生まれているわけですね。

ほかにも、色々とピアノやキーボードによる装飾、アウトロのウインドチャイムの音など色々と言うべきことはたくさんあると思いますが、余白が足りないので…もとい、文字数も文字数ですし、時間も時間なので(明日もまた消耗的な会社の仕事が待っているのです)これくらいにしておきましょうか。

 

◆ 総括

総括させていただくと、この楽曲は朋子様が歌うからこそ意味があり、作詞・作曲・編曲すべてのフェーズにおいて、コンセプトがきっちりと統一されており、非常に優れた楽曲となっていると私は思います。

言い方は難しいですが、「どこかで聴いたような感じ」「聴き馴染みのある感じ」という、捉え方によっては「批判」と思われるような感想ですら、楽曲のコンセプト・意思に組み込まれている点は非常に秀逸と言えるかもしれません。

そして、何よりも朋子様が歌うことによって、現実世界の朋子様と楽曲世界の中の朋子様が絡み合い、リアルとフィクションの狭間で視点と意識が揺れ動き、まるで汽水域(海と川の境目)のような何とも言い難い感触を私たちに残してくれる、とても印象深い楽曲となっています。それは言うなれば、テーゼとアンチテーゼによってアウフヘーベンが起こっているような、そういったより高次の面白味を生み出しているとも言えましょう

 

最後に…

ふと思い立ってこの楽曲のレビューを書かせていただいたわけですが、当初私が感じていた「何とも言えない芸術性」について、記事を書き進める中である程度私の中で明確化できたように思います。こうやってレビューを書くのはとても疲れますし、色々な現実的なあれやこれや(主に睡眠時間)を犠牲にしている気もするわけですが、「そうだった!私は仕事をするために生きているわけじゃない!心を揺さぶるために生きているんだ!」という私の生きる上での目標を再確認するいいきっかけになっていますね。

私の愛する音楽家は「どれだけ金にならないことをやれたかが重要なんじゃないか」と言っていたような気がします。

金に関係ないからこそ、こうやって自由に思い立ったときに書いたりすることができるんでしょうね。そして、私の人生は確実に豊かになっていく…!

 

なんて、そんなある種即物的な効能を期待して文章を書くのはやはりやめましょう。

私にはただ書くことしか自由がなく、それ故にただ書いているのです。そこにはたしかに効能やら何かがあるのかもしれませんが、もはや書く喜びを感じることにすら期待せずに、私はただ書きます。書きたい…というよりも、ただ書くことしか私にはすることがないのです。「書く」以外のすべての私の行動には、「書くため」という理由付けがなされるべきです。そして、私の行動の中で唯一目的や理由付けが必要ないのが「書く」ということなのです。

と、そんなことを考えながら、ここ最近の私は仕事を頑張っています。

四方八方を黄色い線に取り囲まれながら、直立不動で。

朋子様。そんな憐れな私目のために、歌ってくださいまし。