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音楽や小説など

Juice=Juice「『ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?」レビュー~愛されるより、愛したいの~

Juice=Juice 12thシングル

『「ひとりで生きられそう」って それってねぇ、褒めているの?』

のレビューをしてみたいと思います。

当楽曲は、2019年6月17日に卒業するリーダーの宮崎由加(ゆかにゃ)へのあてがき卒業ソングである『25歳永遠説』との両面シングルとなっております。

 

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先日、ハーモニーホール座間でのコンサートで耳にしてから、「おそらくこの曲はレビューすることになるだろうなぁ」と思っていた当楽曲「ひとそれ(略称はメンバーの多数決により決定したらしい by コンサートMC)」が、遂にMV公開されました。

ライブでのパフォーマンスも圧巻でしたが、こうして音源で仔細に聴くのも良いですね。何よりも、出だしの宮本佳林(佳林ちゃん)のソロでやられました。息遣いから緊張感さえ漂ってくる、素晴らしい歌声です。

 

◇楽曲の概要~「微炭酸」との比較~

作詞・作曲は山崎あおいさん。アンジュルムの「泣けないぜ…共感詐欺」や「Uraha=Lover」の作詞・作曲、J=Jでは「微炭酸」の作詞を手掛けられています。

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「微炭酸」については上記の通り、レビューもさせていただきましたが、「微炭酸」はKOUGAさんが作曲・編曲を担当しており、王道ポップの枠組みの中にありながら緻密に計算された曲作りがなされていました。EDM要素をきちんと盛り込まれていたり、展開の繋ぎ目での差し引きが実に見事で、「あぁ、音楽をきちんと勉強してきたから、こういう楽曲が作れるんだなぁ」ととても感心させられました。

対して本作では、作詞・作曲をシンガーソングライターの山崎あおいさんが手がけております。Wikipediaによれば、山崎あおいさんは、YUIさんに憧れて中学生からギター教室に通い始めたそうで。中学生かそこらのころ、死ぬほど「CHE.R.RY」が流行ってましたね。何年も経って「CHE.R.RY~向井秀徳ver」を聴いたときは、衝撃とともに得も言えない懐かしさに取りつかれたのは、割と最近の記憶…と、まぁ、そんな話は置いておいて。

私が何を言いたいかと申しますと、前述のKOUGAさんがクラシックを土壌にしているのに対して、山崎あおいさんはどちらかと言えば、一般的なポップソング、いわゆる「シンガーソングライター」的な立ち位置の人の作る音楽が土壌にあるということです。ゆえに、「微炭酸」もJ=Jの楽曲の中では、アニソン的なキャッチーさ・ポップさがあり、かなり聴きやすいものでしたが、当「ひとそれ」はよりキャッチー&ポップな楽曲となっております。

要するに、音楽的な複雑さがほとんどない、ということです。

「微炭酸」は上述の通り、主にメロ構成の繋ぎ目にあたるところで微妙な拍の差し引きがあったりして、なかなか興味深い一面がありました。

とは言え、「複雑でない=面白味がない」ということでもなく、相も変わらず山崎あおいさんの書く詩は、「情景の見えやすさ」を有していながら、その言葉回しは秀逸でつい読み込みたくなるものになっています。

また、編曲が鈴木俊介さん(長年ハロプロミュージックを支えてきた、今さら言うまでもないほどの大音楽家さまであられます)ということで、まぁ、間違いなく素敵な音像となっていますね。「ひとそれ」はかなり打ち込み要素の強い楽曲ではありますが、鈴木俊介さん自身がギタリストでもあることから、ギターの生音が効果的に使われていることで、全体としての音像がかなり血が通って温かみのあるものとなっています。バンドサウンドが好きな私が聴いても、不思議と「何か物足りないんだよなぁ」ということが全くありません。音の厚み、ダイナミズム、グルーヴ感…どういった言葉を使うのが最適なのか私には判断がつきませんが、とにかく聴いていて心地よいのです。ギターの使われ方については、後で詳細に説明します。

 

◇楽曲の構成について

前段で、当楽曲は「音楽的な複雑さがほとんどない」なんてことを私は言っていましたね。ともすれば、作曲をされた山崎あおいさんに対して失礼な言葉だったかもしれませんが、決してこの「ひとそれ」が構成的に稚拙だと言っているのではありません。私はMaison book girlのように緻密で複雑な楽曲も好きですし、凛として時雨みたいに頭のおかしい楽曲も好きですし、Lillies and Remainsのようにどこまでもストイックにシンプルな楽曲もまた大好きであります。だからこそ、そこに確固たる意図が介在するのであれば、その楽曲は「音楽的に素晴らしい」と思っています。

そういう意味で言えば、「ひとそれ」は音楽の構成的に素晴らしい楽曲だと思います。

まずは、簡単に楽曲の構成を示します。

 

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また例によって、クオリティの低いエクセル技術ですが、ざっくり構成と各メロの小節数を書き表してみました。ご覧の通り、Cメロを含めた実にJ-POPらしい構成になっていますね。

山崎あおいさんの作ったメロディラインは非常にキャッチーでノリやすいものになっています。特に、「サビ」のメロディラインはマイナー調の感情が込めやすい、そしてつい口ずさんでしまいたくなるような素敵なメロディ。「サビ」が「サビ」として機能しており、楽曲の顔になっている言わば「自信作」というわけです。

(「サビ」を「サビ」に見せない近年のつんく♂さんの嗜好とは真逆ですね。モー娘。の楽曲でレビューも行っているので、よかったら見てください。)

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話が少しそれましたが、「ひとそれ」の楽曲の見せ方としては、「いかにサビを効果的に聴かせるか=いかにサビで楽しんでもらうか」というところがポイントになっています。「サビが良い!」と自分でわかっているからこそ、そこを強調するために、楽曲の構成がきちんと練られています。

まずは何といっても、出だしの「サビ0」です。もう、これを聴いただけで、「あ、この曲いいじゃん!好きかも!」となりますよね。第1印象は最高です。

そして、そんなワクワク感を携えたまま、1番では、たっぷりと小節数を使って、楽曲全体の旨みをたっぷりと堪能させてくれます。「サビが良い!」と言い続けていますが、「Aメロ」も十分魅力的ですよね。「Bメロ」は「Bメロ」で楽曲の触り心地に変化を与えるという役割をしっかりと担っており、非常に効果的です。そして、盛り上がる「サビ1」は8小節1セットを2回まわしして、十分に私たちを楽しませてくれます。

その後「間奏2」に移りますが、この「間奏2」がたったの4小節しかありません。続く「Aメロ2」、そして「サビ2」も1番の半分の小節数。これによって、2番はかなりコンパクトにまとめられています。この2番では、各メロの旋律を楽しみながらも、どちらかと言えば、「間奏」→「Aメロ」→「Bメロ」→「サビ」というJ-POPらしい展開を楽しむことができます。1番のように同じメロディを繰り返すことで、そのメロディ1つひとつを深く堪能することができるようになるわけですが、楽曲としては少し重くなってしまいますよね。そこで、楽曲全体のバランスを見て、もっと軽やかにポップにするために2番は可能な限り同じメロディの繰り返しを防いでいるわけです。いわば、効果的な「箸休め」として2番は機能しているわけです。

そして、「間奏3」ではギターソロもありながら、いわゆるJ-POP的な間奏が流れ、「Cメロ」へと繋がっていきます。「Cメロ」は「ハーフテンポ」というテクニックが使われていますね。ハーフテンポを採用したのは作曲者の山崎あおいさんではなく、編曲者の鈴木俊介さんかもしれませんが、この「ハーフテンポ」は言葉そのまま、テンポが半分に遅くなったように感じさせるテクニックで、疾走感のある当楽曲などで、楽曲の世界をぱっと広げるうえで重要な役割を担っています。また、「Cメロ」のメロディラインは、おそらくこの楽曲の中では1番弱いラインになっていますね。「弱い」というのは別に悪い意味ではなく、単純に「キャッチーでなく、掴みどころがない」という意味です。あれ、結局、悪く聞こえてしまいますかね?(笑) 「掴みどころがない」というのは、すなわち「一辺倒でない」という意味です。いくら美味しいからと言って、焼き肉で「上カルビ」ばかり食べてもいられないですよね。「タン塩」とか「ホルモン」、あるいは「サラダ」や「スープ」なんかで味をちょっと変えながら、楽しみたいじゃないですか。サラダを食べてジンジャエールを飲んでお口をリセットすることで、また「上カルビ」が美味しく食べられるというもんです。

そして、そんなお口直しの「Cメロ」を挟んだ後で、また濃厚な「落ちサビ」がやってくるわけです。ちなみに書き忘れていましたが、「サビ0」とこの「落ちサビ」は、ほかのサビよりも1音分低くなっています(この点はBEYOOOOONDSの小林萌花さんもブログか何かで言及していましたね)。バックサウンドの静けさと音階の効果によって、「落ちサビ」で一度ぎゅっと濃縮した感情が、最後の「サビ3」でぱっと弾け、「アウトロ」を経て楽曲は終わります。「サビ3」が「サビ1」と同じく16小節でたっぷりあるというのも、良いですね。きちんとこの楽曲のコンセプトである「サビを活かす!」ということが達成されています。

最後に、「サビ1, 2, 3」の小節数に注目してみます。

普通であれば8の倍数の小節数で1つのメロは構成されますが、展開を急かし、楽曲に疾走感と軽やかさをもたらすために、サビのお尻を1小節分減らしてすぐに次の間奏を持ってくるような手法を取っています。これによって、楽曲は変に重くならず、スタイリッシュに展開されている印象となっています。サビ終わりが1小節分、同じ音で伸びた場合を想像してみると、どちらが楽曲の構成として優れているかはすぐにわかることと思います。また、8の倍数で言えば、「間奏2」は4小節しかなく、これも「あれ? もう間奏終わった」と思わせるちょっとしたスパイスになっていますね。音楽なのに食べ物の話ばかりで申し訳ありませんが、これもまた「Cメロ」同様、「味変」というやつですね。

これで、楽曲構成の話は終わります。

 

◇ポイント解説

さて、ここからは歌詞解釈をベースに、各箇所の好きなところを挙げていきたいと思います。

楽曲の世界観としては、曲名の通り、「ひとりで生きられそう」って思われている女性の本音、という感じです。

「いや、確かに、自分で言うのもなんだけど、私ってしっかりしてるし、そりゃあ1人でも何とか生きていけそうだけどさ…でも、寂しいときだってあるじゃん。てか、常に寂しいと思ってるよ。1人じゃ苦しくて助けてほしいと思うことだってたくさんある。とは言え、結局1人で何とかしちゃうんだけどね。まぁ、それが私の悪いとこなのかもしれないんだけどさ」。みたいな、歌詞です。ざっくりと。

 

(サビ0)

 「ひとりで生きられそう」って
それってねえ、褒めているの?
意地っ張る心だって 誰か溶かしてよ

 さて、ここはまず何といってもオール宮本佳林(佳林ちゃん)ソロのパート。息遣いから、佳林ちゃんの悲しみや憂い、苦しみが感じられますね。ドキドキしちゃいます。

最初の「ひとりで生きられそうって」の1フレーズは、いつもの佳林ちゃんらしい儚さを前面に出した歌声。そして、次の「それってねえ、褒めているの?」もまだ儚さを灯していますが、最初の1フレーズよりも少し力が込められ、わずかに怒りや悲しみが上乗せされます。さらに「意地っ張る心だって」でボルテージが高まり、「誰か溶かしてよ」で感情の扉がぱっと開き、本性が現れるという感じですね。バックサウンドもそのような感情の段階的な高まりを後押ししています。

ちなみに、私は佳林ちゃんが研修生時代に声優とイメージ楽曲のボーカルを務めた「コピンクス」的な、佳林ちゃんのクリスタルボイスも大好きなのですが、ずっと昔から佳林ちゃんの低音が好きでした。

 

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2011年当時、13歳にしてハロプロの最終兵器だった佳林ちゃんさんの圧巻のパフォーマンスです。ガタメキラという大人っぽい楽曲に対して、ビブラートの効いた低音を響かせる佳林ちゃんさんはさすがです。今は亡きまろ(この言い方はまろが好きだからこそです)も幼く、なんかほっこりしますね。あと、タケちゃん無邪気すぎです(笑)

と、また話が逸れました。

が、こんなに幼かった佳林ちゃんも、今や1フレーズ1フレーズに意味を持たせ、それを緻密に表現していく確かなスキルを身に着けました。上記の動画を見てわかるように、幼くして完成していた佳林ちゃんは、ともすれば「あんまり成長していないんじゃないか」と思われがちですが、そんなことはないのです。少なくとも、「ひとそれ」の「サビ0」を何回も繰り返し聴いていれば、そのうち佳林ちゃんの凄さ、そしてめちゃくちゃ成長しているということがわかるでしょう。

あ、MVもドアップの佳林ちゃんかわゆい。「溶かしてよ」の表情がかわゆい。間奏に入ってからのダンスシーンも、身体が華奢でかわゆい。パフォーマンスを褒める語彙がなくてごめんちゃいまりあ。

 

次に音についてですが、「サビ0」の箇所はだいぶトーンの低いぼやけた音像のキーボードと、低速のフェイザーを用いたEDM的な装飾音を効果的に用いて、佳林ちゃんの歌と同じように、徐々に盛り上がって、バシっと止まる演出がなされています。

「間奏1」では、ギターのリフがキャッチーで素晴らしいですが、裏ではカッティングが鳴っていたりと、打ち込みの音の上に生のギター音が乗っかっていることで、非常に血の通った音像が達成されていますね。

また、前述したように「サビ0」と「落ちサビ」はほかのサビよりも1音低い音階になっていて、これが楽曲の盛り上がりと上手く合致しているので、とても効果的な手法ですね。半音でなく、1音というところもニュアンスの振れ幅として的確で良いと思います。もしかしたら「音楽的にどうしてもこうしないと変になる」という理由もあるのかもしれませんが、そこまで高度なことは私にはわかりません…

 

さて、ようやく歌詞の解釈に移りましょう。

とは言っても、特に解説は必要ないですね。「ひとりで生きていけるというのは何も賞賛に値するようなことじゃない。ただ意地を張って、歯を食いしばって、寂しさや苦しさに耐えているだけだ。人前で弱さを見せられないだけだ。だから、そんな私のくだらないプライドを誰かに溶かしてほしい」というそのままの内容で良いと思います。

「溶かしてほしい」という言葉遣いが素敵ですよね。「溶かす」という言葉の目的語は、「硬くこわばった固体」あるいは「冷たい固体」というのが一般的です。いずれにせよ、ひとりで意地を張って生きてきた「私」の心は、凝り固まり、そして冷え固まってしまっている状態です。

そんな状態を「溶かす」のは、「誰か」です。特定の人物がいるのではなく、「誰か」。それもそのはず、「私」はこれまで「ひとりで生きてきた」んですから。

 

(Aメロ1)

アナタなしではダメみたい、と 涙したドラマのヒロイン
抱かれた右肩 か弱さが まぶしすぎて目を逸らしたわ 

 ここは、植村あかり(あーりー)⇒高木紗友希(さゆき)⇒稲場愛香(まなかん)⇒佳林ちゃん、というソロのバトンパスです。

あーりーも良いパート貰うようになったなぁ、と未だに思ってしまいます。随分と前から、いろんな楽曲の良い場所で活躍しているのに、いつまで経っても嬉しさがなくなりません。「きっと初めてJ=Jを見る人は、この子(あーりー)は歌唱メンなんだな、と思うんだろう」なんて考えているだけで、なんだか嬉しくなってしまいます。語尾の「とぉ~」の震えが良きです。

安定のさゆき。誰よりも発声が安定しているのが、聴けば聴くほどにわかってきます。先日、J=Jの武道館コンサート(TRIANGROOOVE)Blu-ray Discを購入しましたが、金澤朋子(かなとも)、あーりー、さゆきでやった「メロディーズ」でのパフォーマンスには思わず笑ってしまいました。どんだけ、さゆき優秀なんだ、と。もはや、ハモやコーラスでほとんど便利屋みたいに使われていましたね。誰もが認める歌のスキルです。「ドラマ」の「ド」から「ラ」に移る過程での、「(る)ラ」と2音を駆使してリズムに当て込んでる感じはさすがです。

まなかんは、まぁ、まなかんらしいです。カッコつけてみても、結局、声が可愛いんですよね。でも、着実に発声も安定してきましたし、しゃくりなども使って楽曲に花を添えてくれています。今は亡きまろ(2回目)も、「音源のレコーディングでは、やり過ぎるくらいの方が結果的に楽曲を良くする」的なことを言っていましたが、まなかんの個性は確実にJ=Jの音源を良い方向に導いてくれていますね。メロディラインがそれを助長させていますが、1音1音に「ん」の音が絡みついて来るのがセクシーで、可愛いです。

最後に、再度佳林ちゃんです。「逸らした」の「んらぁ」が良き良きです。

 

次に音について。「ドドタッ・」というパターンですね。ギターやベースは「ジャジャッ・・」というパターンの繰り返しが使われており、歌のメロディも拍と一致したとてもシンプルなものとなっています。なので、それらのキメに合わせてノるのがまずは1番音を楽しみやすいでしょう。しかしながら、その裏でハイハットは細かいパターンを叩いています。あえてそこに注目してリズムを感じるのも楽しいかもしれません。

 

ここもそこまで歌詞の解釈は不要ですね。恋愛ドラマを見ていると、「んなわけ、あるかぁ!」と思わず馬鹿らしくなってチャンネルを変えてしまうときがありますが、それとは近いようで似て非なるですね。きっと、主人公の「私」は「んなわけ、あるかぁ!」と1人でせんべいでも齧りながらツッコむんでしょうが、その実、「か弱い」ドラマのヒロインに嫉妬しているわけです。

「アナタなしではダメ」なんて言葉を言える神経がわからない。自分の弱さを盾に、相手を束縛して操ろうとしているだけじゃないか。そういうのってフェアじゃない。

そうは言っても、相手に縋って泣くことができたらどんなに楽だろう。わがままを受け止めてもらって、肩を抱き寄せられるか弱いヒロインが輝いて見えるのは、女の幸せがそこにあるからなのか。「私」がやっていることはただの強がりなのかもしれない…

ちなみに、「抱かれた右肩」とありますが、なぜ「右」なんでしょう?  もちろんメロディに充てるわけですから、あと1音多ければ「左肩」としたのかもしれません。あるいは、左右を特定することで文章がより描写的、つまりリアルになる、という狙いがあったのかもしれません。しかし、あえて不要な深読みをするのであれば、「右肩」を抱かれたということは、ヒロインの女に対して、男は左側にいるわけです。つまり、男はヒロインの左側の顔を見ているわけですね。いくらか前に「左の顔は右脳で作られた顔で、右の顔は左脳で作られた顔だ」みたいな雑学がテレビでよく流れていたように思います。今回、男が見ているヒロインの左側の顔は、ヒロインの右脳が作り出したもので、右脳が作る左側の顔は一般的に「やさしさ・あたたかさ」などを象徴するようです。というのも、右脳は感性を司る側の脳ですからね(対して、左脳は理性を司ります。よって、左脳の作る右側の顔は「知的さ・冷たさ」などを象徴するようです)。だから、よくある雑学羅列型テレビ番組では、「好きな相手の右側にいろ!」というアドバイスがなされていましたね。それは左側の顔の方が、「やさしく・あたたか」だから好意を持たれやすいというところに理由があるそうです。

なんとも計算高い「か弱い」女がいたもんだ。

と、まぁ、こんな風にドラマのヒロインの計算高さが描かれているとこじつけることもできるわけですが、とにかく「私」とそのドラマのヒロインは相容れないところがあります。全く別の生き方をしているからこそ、相手を認めたくない。特に、相手が幸福そうだったり、輝いて見えるのは我慢ならない。だから、「私」は目を逸らすわけですね。

 

(Bメロ1)

少しヤワな子ばかり 幸せを手にしてく
お決まりの幕切れよ アンフェアな世の中ね

 ここもソロパートが基本です。「さゆき」→「ともこ」→「段原瑠々(るーちゃん)」→「ユニゾン(ともこ&ゆか?)」と流れていきますね。

「Aメロ」が拍に合わせて、比較的リズムの取りやすいラインだったのに対して、「Bメロ」は「Aメロ」に比べればリズムが難しいメロディラインになっています。

ここの3人は歌唱力に定評のある3人で、そんな評判通りのきっちりとした歌をここでは披露してくれています。

「少しヤワな子ばっかぁ~り」・「幸せを手にしってぇ~く」・「お決まりの幕切っれぇ~よ」の太字の辺りは、リズムもさることながら音階も難しいものですが、3人は雰囲気で合わせるというレベルでなく、きちんと1音1音の音程まできっちりと合わせていますね。そのあたりはさすがと言うべきです。

 

次に音についてです。

ここでもギターに注目してみると、ミュートしてリバーブをかけた、「ポコポコポコポコ、ファン、ファン、ファン♪」みたいな音が聞こえてきますね。凛として時雨の「illusion is mine」とかの出だしとかもそんな感じの音です。

こういう細かいギターテクニックが、音像を打ち込みの短調な手触りのものにしないためにも重要だと私は思います。

 

歌詞については、「アンフェア」という言葉からもわかる通り、「私」が「涙した・か弱い・ヤワな」ヒロインには否定的であることが表現されています。「なぜ1人で頑張って生きている『私』には抱きしめてくれる相手がいなくて、すぐに弱音を吐くような女はすぐにその相手を見つけて、幸せを手に入れていくのか? そして、それが世の中の道理のようになってしまっているのか? 不公平ではないか?」という歌詞の内容です。

このことから、ある意味、「ひとりでしっかり生きること」は「私」の正義であると言えるのではないでしょうか。1つ前の歌詞の解釈でも書きましたが、「私」には自分の都合で相手を振り回すような、例えば「アナタなしではダメ」なんて言葉は言えないわけです。それは、相手とフェアな関係でいたいからです。ですから、「1人で頑張って強くあろうとしているのに…」というのは、単純に「1人で生きていく能力がある私は偉い」という話ではなく、「私の方が相手に対して真摯に向き合っているのに」という思いがあるわけですね。もちろん、周りから見れば、その「私」は誰とも向き合えていないわけですが…

そうは言っても、「私」は真摯に相手と向き合うようにしています。よって、「私」は褒められて然るべきなんです。なのに「ひとりで生きられそうw」なんて軽い言葉を言われるのはいかんともし難い。「君は相手を尊重するフェアな人間なんだね」という褒め言葉こそが「私」には似つかわしい。そんな風に「私」は考えているのだと思います。

 

 (サビ1)

「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?
強がり隠す弱さ 誰か見抜いてよ

「頼りにしてるよ」なんて それって喜んでいいの?
意地っ張る心だって 誰か溶かしてよ

「誰か見抜いてよ」は佳林ちゃんで、「誰か溶かしてよ」はあーりーです。それ以外はユニゾンで、相変わらずの鬼ユニゾン。本当にJ=Jはみんな声質が良い。まぁ、それもすべては菅井先生のレッスンの賜物と言えるのでしょうが。

 

歌詞の「強がり隠す弱さ」という一節は、「強」と「弱」という逆の言葉が同時に含まれたお茶目な一節です。興味深いのは「強がる弱さ」ではなく、「強がりを隠す弱さ」というところです。「強がりを隠せる」時点でだいぶ強いような気はするのですが、主人公の「私」はその「隠す」という行為自体に弱さを見出しているようです。

つまり、あまりにも「弱さをさらけ出す、ドラマのヒロインみたいな女」が「私」を差し置いて幸せになっていくことを目の当たりにして、「むしろ強がって、しかもその強がりさえ隠してしまうことは、逆に弱い人間のすることなのではないか」と不安になっているのかもしれません。というか、男は目の前の、風に吹かれただけで倒れてしまいそうなか弱い女ばかりに目がいって、「私」の強がりを見抜くことすらしてくれないのか。と男に対して、不信感や怒りさえ感じているように思われます。

続く「頼りにしてるよ、なんて それって喜んでいいの?」という歌詞は、より真に迫ったような歌詞だと思います。

「ひとりで生きられそう」という言葉はどちらかと言えば、「からかい」の要素が含まれているように感じるのは私だけでしょうか。対して、「頼りにしてるよ」という言葉には「からかい」の要素は少なく、より真面目な状況で使われるような気がします。いずれにせよ、「頼りにしてるよ」という言葉には、どこか「何かを押し付けられる感」というものがあるように思います。

「〇〇の件、頼んだよ。頼りにしてるからな」

と言われるとき、「うわ、面倒なこと押し付けられた…」と普通は感じるでしょう。もちろん、「何かを任された」という側面では、「私」が歌うように喜んでいいのかもしれません。しかし、弱みを見せて、「優しくされたい」・「甘えたい」と思っていた矢先に「私」はそんな風に頼られてしまって、つまり逆に「弱みを見せられて」、自分がしっかりとして頑張らなければいけない立場に追い込まれてしまう。

「頼られた。つまり、必要とされている。やった! …なんてことを言っている場合じゃない。私は必要とされたいんじゃない。私が、『誰か』を必要としているんだ!」という話になっているわけですね。

「ひとりで生きられそう」な強い人間は、また周囲から頼られて、より強い人間へとなっていき、より「ひとりで生きられそう」な人になってしまう。

そんなスパイラルを歌っている歌詞です。

 

(Aメロ2)

本当は寂しがりやなとこ
少しだけバラしてしまいたい

さて、1番のサビが終わりまして、短い間奏が入り、2番のAメロへと移行します。この間奏の短さが、楽曲の展開スピードを高め、聴き応えをさっぱりさせるうえで非常に重要な役目を担っていることは前述のとおりです。

ここからは楽曲の展開よろしく、スピードアップで進めていきます。1番は随分とだらだらと書いてしまったように思うので。

「本当は寂しがりやなとこ」はるるちゃんのソロパートです。「~なとこぉ~♪」でるるちゃんが張り上げるように歌った後に、かなともが「少しだけバラしてしましたい」としっとりと締める流れとなっています。勢いや力強さのある若手の後に、実力のある大人っぽい先輩が締めるというパート構成を考えた人を賞賛したいっ!です。

ちなみに、この「Aメロ2」も1番と比べて半分の短さとなっているのがポイントですね。

 

歌詞については、「自分の弱さをさらけ出してしまい」という内容ですが、そうできないところがこの主人公の「私」の愛らしいところです。周囲から頼られ、「ひとりで生きられそう」と思われている「私」は、すべてを投げ出して、膝を抱えて泣き出すなんてことはできません。「私」自身のプライドがそれを許さないという部分もあるのでしょうが、それよりはむしろ「責任感」からそうできない、というのが本当のところなのでしょう。

泣き言を言っていても、周りに迷惑をかけるだけで、そんな無責任なことはない。

そういった「私」の哲学がその根底にあるのだと思います。

 

(Bメロ2)

だけど私自身を 幸せにできるのは
結局は私だけ 勇敢にならなくちゃ

 まなかん⇒ゆかにゃ⇒佳林ちゃんというバトンパスですが、J=Jの可愛いらしい3人衆と言っても過言ではないでしょう。「Aメロ2」がどちらかと言えば、カッコイイ「るる」「かなとも」によって、「本当は寂しがりやなの」というけな気な歌詞が歌われているのに対して、この「Bメロ2」では可愛らしい3人がなかなか逞しい歌詞を歌っているという部分が良いですよね。

「Aメロ2」と合わせて考えると、

「弱いところをさらけ出したい。でも、弱いところをさらけ出したところで幸せになれるとは思えない。自分を幸せにしたいなら、勇敢な人間になって、自分で自分を幸せにできるようにならなきゃ」

という話の流れになっています。1番ではドラマのか弱いヒロインを羨んでいた「私」ですが、2番になると今度は「ひとりで生きられそう」と思われている「私」らしい生き方について、1つの閃きを得ているわけですね。つまり、「強い女の子には強い女の子らしい銃の打ち方がある」と、「私」は気づき、そう自分に言い聞かせているということです。

 

(サビ2)

「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?
強がり隠す弱さ 誰か見抜いてよ

 「誰か見抜いてよ」はまなかんのソロパートです。

まぁ、サビ自体は1番とほぼ同じ内容なので、あえて何かを書くということはありません。この「サビ2」も1番に比べて短く、さらっと流れていきます。それだけ書かせていただき、さっさと「サビ2」の後の「間奏3」について喋っていこうと思います。

まず思ったのは、あーりーとゆかにゃに挟まれてセンターで踊るまなかんの小ささですね。「小さい」なんて言われるのはちょっこしショックなのかもしれませんが、まなかんのめんこちゃん具合が伝わる素敵な絵面になっています。

また、間奏ダンスのカメラワークも、多くの部分はまなかんを追っており、まなかんがJ=Jに加入して、「ダンス」という武器をもJ=Jが獲得したことを改めて提示する役割をこの間奏が担っています。前のシングルの「微炭酸」でもそういう部分は強く意識されていましたが、確実にまなかんの加入がJ=Jの新しい側面を引き出しているように思います。「微炭酸」、「ひとそれ」というラインはこれまでのJ=Jにはありそうでなかったキャッチー&ポップで、「今風」な楽曲になっていますが、これもまなかんがもたらした変化だと私は思います。

 

(Cメロ)

確かなオアシスとか どこにも残ってない時代さ
たくましく推し進む力を 誇れ 

さて、「Cメロ」がやってきました。「微炭酸」のレビューでも「Cメロは、J=Jと相性が良い」というようなことを書きました。J=Jは高い表現力を持ったグループですから、曲を大きく展開させる「Cメロ」があることで、その高く広い表現力をいかんなく発揮できるわけです。

「かなとも」の滑らかで艶やかな伸びのある歌声、「さゆき」の力強くきりっとした歌声が楽しめます。「まなかん」も意外と低音がしっかりと響くタイプなのがこの「Cメロ」ではよくわかりますが、高音域になると線の細いキンキンとした女の子っぽい彼女らしい歌声に変わります。

ハーフテンポと長調気味のコードを使うことで、狭い自我に捕らわれている状態から解放されたような印象が上手く表現されている「Cメロ」となっていますね。教科書通りではありますが、ちゃんと効果的に機能しているのは、作詞と作曲の両面からそこを意識した楽曲づくりがなされているからでしょう。山崎あおいさんの確かな手腕をそこに感じます。そして、当然のように鈴木俊介さんもその企みに気付いて、抜けの良い音像を選んであて込んでいますね。まなかんのソロパートからユニゾンにかけては、落ちサビに向けて盛り上がるように徐々に音を積んでいっています。

 

歌詞自体は、「オアシス」や「時代」なんて言葉が使われていて、どこかちょっと古臭い感じがしますね。一昔前のV系?ロックバンド的?な人達が好んで使いそうな言葉のように私には思えるのがどうでしょうか?

別に古臭いのが悪いと言っているのではなく、どうしてそういった言葉をチョイスしたのか、私、気になります!ということです。私なりに考えると、おそらく山崎あおいさんは「女々しい言葉」を使いたくなかったのではないか、と。これまでの歌詞はどう考えても、女性的な言葉ばかりで構成されていたように思います。「強がり隠す弱さ 誰か見抜いてよ」なんて言葉は、きっと男は使いませんからね。

古き悪しき男尊女卑的な価値観でものを語るのであれば、「か弱いのが女性」であり、「逞しいのが男」という固定観念があります。その固定観念に主人公の「私」は苦しみ、「か弱いドラマのヒロイン」に嫉妬し、「ひとりで生きられそう」なんて言われてしまう強い自分が嫌になり、それ故に「自分も女性らしい弱いところがある。だから、それを見抜いて優しくしてほしい」と心の内で叫んでいるのが1番でした。しかしながら、2番を経て、「いや、確かに弱いところもあるけれど、でも、そういう弱さに甘えるような生き方で良いのだろうか?」と自分らしい生き方を模索し、その答えがこの「Cメロ」でもたらされます。

「結局、安心して身を任せられるオアシスみたいなものは、もうこの世には無い。というか、女性が優しく守られているばかりの時代なんてとうに過ぎ去ってしまった。だから、自分自身の力で突き進む逞しさを女性も手に入れなければならない」

そんなことがこの「Cメロ」で歌われている内容だと思います。つまり、固定観念的な「女性らしさ」からの脱却を図るために、あえて「オアシス」だとか「時代」というどちらかと言えば、一昔前の男たちが使って来た言葉を山崎あおいさんはチョイスしたのではないかと思います。それが意識的であるせよ、無意識的であるにせよ。

なお、そういった固定観念の打破の根源は「平等=フェア」という正義にあると私は思います。もともと主人公の「私」がどうして「ひとりで生きられそう」と思われるような女性になったのか、それは知る由もありませんが、しかし、少なくとも「フェア」に生きようとしてきたからということはあるでしょう。

「少しヤワな子ばかり幸せを手にしていく」という歌詞からも、「私」が「か弱い」ということや「ヤワ」ということに対して否定的であることが読み取れます。どこかの漫画の悪役が言う大仰なセリフに「弱さは罪である」なんてものがよくあると思いますが、おそらく主人公の「私」もそれに近い感覚を持っているのではないでしょうか。「アナタなしではダメ」なんてのは、自分のわがままに相手を付き合わせることです。だから、そういう言葉を「私」は使わない。あくまで相手と対等で「フェア」な関係を作りたいのであれば、「私」が「ひとり」の人間として強くならなければならない。それはとても大切な正義感だと私は思うのです。

そんな主人公の「私」が見つけ出した答えが、この女性らしくない「Cメロ」にあるのだと思って、歌詞を読めば「オアシス」とか「時代」とかの言葉選びの理由が少しは納得できるような気がしています。

 

(落ちサビ)
「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの
強がり隠す弱さ 誰か見抜いてよ

(サビ3)
「頼りにしてるよ」なんて それって喜んでいいの?
意地っ張る心だって 誰か溶かしてよ

「ひとりで生きられちゃうの」 それは素敵なはずでしょ
胸張る私になって 誰か愛したい

 「落ちサビ」はオールるーちゃんのソロパート。出だしの「サビ0」と同じバックサウンド上で歌われる「落ちサビ」ですが、歌う人が変わるだけでここまで変わるか、という感じです。佳林ちゃんはかなり声の線が細い印象でしたが、るーちゃんはやっぱり声の線が太いです。佳林ちゃんの声をフルートとするなら、るーちゃんの声はオーボエみたいなものですね。ただ、るーちゃんの本質はやはり情熱=パッションだと思うので、そういう意味では、金管楽器的な華やかさがいつもは目立っていますが、ことこの「落ちサビ」に関しては、オーボエのような心地よい落ち着きを感じます。それはるーちゃんが華やかさを失ったということではなく、そういうオーボエ的な声の出し方もできるようになったという、彼女の成長を示しているということです。

「サビ3」は基本がユニゾンになっています。単なる声の寄せ集めでなく、それが「ユニゾン」という1つの楽器として機能していることを強く感じます。

この「ユニゾン」を聴いていると、「やっぱりJ=J好きだなぁ」と毎度思うのですが、これだけその音の重なりを愛していると、逆説的に1人でも抜けてそのバランスが崩れてしまうことに対して不安があります。ゆかにゃ卒業はJ=Jの精神的な支柱が無くなるという意味で大きな変化点になりますが、あのゆかにゃのパキっとしていながら甘く透き通る歌声を失うという意味でも、J=Jにとって大きな変化点になるのではないかと思います。ゆかにゃ卒業はJ=Jのユニゾンの高音域における厚みを確実に減らしてしまうでしょう。ですから、この素晴らしいユニゾンも聴き納めになるのかと思うと、なんだか感慨深いと同時に淋しい気持ちに捕らわれてしまいますね…

 

さて、歌詞の解釈もこれで最後になります。

とは言え、

「『ひとりで生きられちゃうの』 それは素敵なはずでしょ胸張る私になって 誰か愛したい」

というこの歌詞を改めて解説する必要はないと思います。つまり、これまでさんざん書いてきたように、主人公の「私」は「か弱い、愛される人間」を目指すのではなく、今まで通りの「ひとりで生きられそう」な強い人間でありながら、「誰かを愛していく」という決意がここでなされているわけです。

そういうのが「素敵な生き方」なのだと、やはり私なんかも思ってしまいますね。

 

最後に…

久しぶりにブログを更新しました。やはりしばらく書いていないと、ブランクのせいかあまり良い文章が書けませんね。読み返してみても、ひどくダラダラとした文章になってしまったように思います。

MVが公開されてからできるだけ早く書こうと思っていたわけですが、急ぎ過ぎて考察が深まらないまま、楽曲への愛が中途半端なまま書き進めてしまったのも失敗だったかもしれません。

しかしながら、やはり感動はできるだけ新鮮なうちに文章にしたいじゃないですか。

まぁ、今回の記事の出来は、自分なりにも微妙であったことを真摯に受け止め、次につなげたいと思います。

 

文章を書くということで言えば、つい先日、自分の個人的な創作物が完成しました。書き始めてからほんの3日程度で書き上げてしまったのですが、それを完成させるまでに、何作かボツを出しました。頭の中に書きたいものがあるのに、それが上手く形になってくれないのです。ただ、何かの偶然で上手くいくと、あっという間にそれは完成してくれます。そして、たいていの場合、書き始めたときに描いていた結末とは全く異なる結末へとたどり着くのです。そのようにして初めて、「本当に自分が書きたかったのは何だったのか」を思い知り、私は1人胸を熱くするわけです。

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今回の「ひとそれ」の記事でも、そんな奇跡が起こってくれるものと思っていたのですが、正直、そこまで深堀をすることができなかったです。

ですが、間違いなく「ひとそれ」それ自体は素晴らしい楽曲なので、皆さん何度も聴いて楽しんでいただければと思います。私のこの記事も決して「大成功」というわけではありませんが、それなりに色々と考えてはいるので、参考程度に読んでいただければ、とっても嬉しいです。

 

嬉しいこと・楽しいこといっぱいあるといいね。