霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.44

適応障害と診断されて98日目(1月20日)の朝にこの記事を書いています。もうすぐ100日が経とうとしているんですね。なんか記念日みたいな感じですが、あまり喜べたことではない気もします。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

ここ数日で考え方が大きく変わったような気がします。

なんというかこの変化のタイミングについて思うことはたくさん書き留めておいた方が良いような気がするので、久しぶりの連日投稿になりますが、記事を書いていきましょう。

 

 

1.適応障害と診断されて97日目~回想~

前回の記事を昼頃に書き上げた後、昨日は大学時代に行きつけだったラーメンを食べに行きました。ちょうど1週間ぶりですが、そう言えば大学時代にはお金がない中でも、毎週1~2回のペースで通っていましたね。日々、半額の弁当で暮らしていましたが、そのラーメンだけは特別。特に何もしていなくても、自分の生きているご褒美としてそのラーメンを食しに行っていたように思います。なので、1週間ぶりとは言っても、その当時に比べればだいぶ大人しくなったものです。

 

ラーメンを食べた後、ふと大学に寄ってみようという気になりました。学生時代に住んでいたアパートは駅前にあったので、アパートから大学までの通学路をなぞりました。

その道を辿るのは大学を卒業してから3年ぶりということになりますが、随分と景色の見え方が変わったことを実感します。もちろん実際的に景色も変わっていましたし、単純に3年という年月がそう感じさせるのかもしれません。しかしながら、やはりこの数日間で大きく変わった「ものの見方」がそのような変化を私にもたらしているような気がしました。ただの恥ずかしい思い込みかもしれませんけれどね(笑)。

 

前回の記事でも「これでもか!」というくらい書いたことですが、この10年近く私は自分を痛めつけることを習慣としていました。世を、社会を憎み、全員ぶっ殺してやろうと決意しながらも、それ以上に自分は死ぬべきだという風に考えていたわけです。友人も無く、大学では基本的に常に1人で行動していました。

そんな風にして大学生生活を送っていたものですから、同学のバイト先の後輩から「この間、大学キャンパスで見かけましたけど、めっちゃ怖い顔してましたね」と言われたことがあるほどです。多分その日は「全員ぶっ殺してやろう!」モードだったんだと思います。そうじゃない日は「早く死にたい!」モードで、きっとめちゃくちゃ体調が悪く見えたことでしょう。

正確にいつからそんなマインドになっていたのかはわかりませんが、少なくとも大学1年の冬頃からはそういった傾向が強くなっていたはずです。考え方によっては高校3年くらいからもう私の「鬱」は始まっていたとも思いますが、「鬱」=「自己虐待」を強めていったのは大学1年の冬で間違いないと思います。その頃、私は「凛として時雨」というバンドに出会いました。それが私のターボみたいなものになりました。

つまりですね、私は何と言うかそれまでの自分というものを好きになれずに、自己変革を起こしたいという風に潜在的に考えていたのですが、その糸口が掴めなかったわけです。自分をぶっ壊して、1から新たな価値観を作り上げていく工程が、私の長い大学生活7年間になるのですが、漠然と「もやぁ」っとした感じで自分がどういう方向を目指すべきか見えていても、どのようにして良いかわからなかったのですね。それをある程度具体化してくれたのが「凛として時雨」というバンドでした。

私の本格的な自己破壊は「凛として時雨」の音楽を理解することで始まっていきました。彼らの表現欲やフラストレーションに満ちた音楽性は当時の私の潜在的な気持ちに非常に近いものがあり、彼らの音楽を理解することはつまるところ私自身の「心」を理解することだという風に思ったわけです。そして、その出会いが大学1年の冬だったことは確かです。そういうわけで、私の「鬱」=「自己虐待」=「自己変革」はその大学1年の冬から始まったという風に考えているのです。

 

ということは、私は大学生活のほとんどを「鬱」状態で過ごしていたわけです。常に自己を含めたあらゆるものを憎み、全部ぶっ壊してやりたいという精神状態です。もちろん、そのように自分を追い込んで…いや、この表現はあまりにナルシシズムが強いのでやめておきましょう。私は自分を痛めつけることで、多くのことを学んでいきました。世界の本質について考えるようになったり、芸術や学問、表現や思想、そういったものについて沢山のことを学びました。自分を痛めつければ痛めつけるほど、どんどん見える世界が変わっていったので、毎日が苦しいながらも、毎日が発見と変化で非常に楽しい時期でもありました。

もし病名としての「うつ」が無気力状態と近い関係にあるのであれば、当時の私は必ずしも「うつ病」ではなかったと思います。もちろんとんでもない無気力状態に捉われることも多々ありましたが、基本的にはめちゃくちゃ前向きに自分を痛めつけていました。「死にたい」と思えば思うほど、より深くものを考え、感じられるようになった実感があったのです。

凛として時雨」だけでなく、様々なバンド音楽に魅了されていきました。「ハヌマーン」、「toe」などは今でも愛して止まないバンドです。ギターを買って練習するようになりました(それでも絶対に軽音サークルになんか入るつもりはありませんでした。ひねくれているので)。自分も何かを表現したいと思うようになっていたからですね。しかし、すぐに音楽は自分に向いていないことがわかりました。

そうしてギターを買ったくらいの時期には、映画や漫画、小説を中心にさらに私の芸術的な物事に関する興味が爆発していました。漫画家を目指して絵を描いたりもしていましたが、絵も自分には向いていないとわかり、何となく文章を書き始めていたら、それが1番しっくりと来て、本気で小説家になりたいと考える時期もありました。

芸術や学問に対する理解を深め、感度を高めていくことが私の方針になっていくと同時に、私は自分で文章を書き始め、徐々に自己実現の方針の中に「より良い文章を書く」ということが盛り込められていくようになりました。そして、それらの目標を達成するためにはやはり一貫して自己虐待が必要不可欠でした。いかに感傷的になれるか。「死にたい」と思えばこそ、私のあらゆる意味での「渇望度合」は高まり、求めるものを手に入れられたような気がします。

 

そんなわけで、私は自らの内へ内へと精神を凝縮させ、常に自己虐待をしながら生活をしていました。具体的に自分のダメなところをあげつらうことも当然しましたが、それよりはどちらかと言えば、誰しもふと訪れる「あぁ、なんか辛いな」という感情をできるだけ増幅するようなイメージですね。きっかけは何でもいいです。アパートの前をうるさいバイクが通り過ぎ、イラっとします。そして、その「イラっ」という負の感情を増幅していき、バイクをうるさく乗る人への殺意へ変えます。その殺意を自分でも抱えきれないほどに高めます。すると、「あぁ、もう自分でも自分の感情をどうしていいかわらかない」、「キツい」、「辛い」、「面倒だ」、「なんでこんなに負の感情に捉われなくてはならないのか」、「あぁ、もう死にたい」。という感じで、どんどんと自己虐待を深められます。他にも、道端で美しい花を見かけ、「こんな美しい花もいつか枯れてしまう」、「なぜ命には終わりがあるのか」、「なんで世界はこんな刹那的なんだ」、「死という絶望しかないのに何で生きていかなくてはならいのか」、「もうそんな風に悩みたくない」、「もう嫌だ」、「死にたい」とい感じもできます。

まぁ、常にそんなことを考え、最終的には「死にたい」みたいな感情に帰結させながら生活をしていたので、景色の見え方というものもそういう風になっていきます。そういった考え方や感じ方をオートメーションでやれるようになっていました。そして、そのようにして自分の中に蓄積したフラストレーションのようなものを原動力にして文章を書いたり、種々の芸術などを楽しんだりしていました。

 

というわけで、私は自己虐待を突き詰め、「痛みこそが原動力」という思想に馴染んでいたわけです。どこかの痛い中学生みたいな感じですけれど、本当にそんな感じだったんですよ。まぁ、随分と怠惰な面もありましたけれど、その怠惰ささえ、自己否定感を高めるのに使っていました。

ただ、学生の時分はそういった傾向をあくまで芸術や学問といった方面でしか用いていなかったように思います。社会とはうまく折り合いがつけられず、ただ自分の身の回りを流れゆくものという風に考え、あまり真剣に向き合ってきませんでした。

しかしながら、実際に社会人になってみると、生活のほとんどは「仕事」に支配されます。そして当たり前ですが、社会というのは苦しみを耐えて頑張っている人間を結構優遇してくれるんですよね。自分で言うのもなんですが、私は前職場でそれなりに頑張り、それなりに認めてもらうことができました。つまり、「痛みこそが原動力」が「仕事」の面でも適用されていったわけです。知らず知らずのうちに。

学生時代のときには独りきりで自己虐待を行うことが生活の主たる部分で、むしろバイトが息抜きみたいな感じでした。しかしながら、社会人になると「仕事」が主たる部分になってしまいます。余暇や休日だけじゃ自己虐待が足りません。そういうわけで、徐々に「仕事」の範疇でも「自己虐待」が共鳴するようになっていきます。そして、そんな風に「自己虐待」をすればするほど、周りからの評価も高まっていきます。

今こうして書いて見ると、もう本当にぐちゃぐちゃですね。

しかしながら、そんなぐちゃぐちゃの中で私はいくつか自分にとって重要な文章を書いていきます。「霏々」を書き進める中で私は「死とは虚無。ならば、虚無に寄り添うことこそ自分の生き方」という発見をします。さらに「水流」では、美と自己虐待の共存というそれまでの自分の生き方を書きました。そして、徐々に疲弊していく精神を、過冷却によって既に「冷たさ」を行き過ぎながらも辛うじて活動している自分として「霧氷」の中に込めました。で、「霧氷」を書いている途中に「転勤」という大きな衝撃を与えられ、まさにその言葉通り、心は凍結し、つまり適応障害となってしまいます。そんな状況の中で「霧氷」を書き上げたと同時に1回目の自殺未遂をします。

 

その1回目の自殺未遂を経ても、基本的には私の生きるスタンスは変わりませんでした。私の希死願望はもう10年近く供に過ごしたものでしたし、今さらその生き方は変わらない。そして、自殺未遂に至った経緯は、あくまで会社と自分の関わり方の問題でしかないという風に考えていたわけです。もちろん、根底には自分の希死願望があったことはわかっていましたが、繰り返すようにそれはもはや私自身です。実際に自殺未遂という行動に至ったのは、あくまで「転勤」とともに受けた精神的負荷のせいであって、私の生き方それ自体までは問題にならないと考えていました。

だから、闘病中の私の目標は「転勤前」と同じところまで回復することでした。

しかし、そのようにして回復していった先で、また急に「死にたい!」が暴れ出して、2回目の自殺未遂をしてしまいます。この時の感覚としては、「転勤前」に戻ったところでもう何もない…という感じです。実際に「ほぼ」死んでみてしまうと、「死にたい!」という生きる指針はもう何の役にも立たないというような気持ちになりました。ある意味では「生きる目標」が達成されてしまったわけですね。

 

これ以上死にたいと思えない。ということは、生きている意味がない。

 

そう感じながら、1週間ちょいが経過しました。そんなときに「凛として時雨」のドラムであるピエール中野さんのTwitterから「僕が僕であるためのパラダイムシフト」といううつ病を題材にした漫画が紹介されます。

私が感じたことは前回の記事の通りですが、簡潔に言えば「自己虐待こそがうつ病である」ということが書かれているという風に私には思えました。つまり、もし私がこの適応障害から回復したいのであれば、自己虐待をやめることが求められるということです。それまで10年近く私の生きる指針であった「自己虐待」を辞めなければ、適応障害は治らない。そのことが非常に腑に落ちました。なぜならば、それを読んだときの自分はやはり「いずれまた自死を選ぶだろうな」と考えていましたから。

便宜的に復職し、また元の生活に戻ったところで、いずれ私が自死を選ぶことは変わりません。なぜなら、私はそういう生き方をしているからです。死ぬことを目標にして生きているんですから当たり前ですよね。それまでは別にそれはそれで問題ではありませんでした。何度も言うように、それが…「死ぬこと」が目標なんですから、「死」は私の望むところです。

でも、それは2回目の自殺未遂で半分達成されたように私には思えました。

 

ある種の燃え尽き症候群のような状態の中で、「もう疲れたし、飽きたし、自己虐待はやめにしようかなぁ」と感じたのです。これまでは「自己虐待」によりどんどん先に行ける気がしていたのですが、「ここが私のやり方のどん詰まり」だと悟ったような気がしました。

 

だから昨日、私は自己虐待をやめてみよう、と思いました。前回の記事を書きながら。

 

2.適応障害と診断されて97日目・続~巡礼~

そんな風に「自己虐待」と決別しようと考えながら、ラーメンを食べ、大学時代に歩いていた通学路をなぞりました。

自己虐待と密接に絡み合っていた景色が何だか違って見えます。まだそれを具体的にどうこう言えるほど私はいまの私を理解できていませんが、多くのものを見落していたんだというような感覚に捕らわれます。ありきたりな映画みたいですけどね。

最近、「四畳半神話大系」というアニメを観始めているのですが、なんと言うかそれと同じように「全く違う大学生活もあったのかなぁ」と思うわけです。きっと「自己虐待」のない大学生活は、それはそれでなかなか楽しかったんじゃないかなぁとちょっとだけ思いました。別に後悔をしているわけではないんです。この10年近くの間に随分と沢山の事を学びましたし、私は自己虐待を通して、確かに自己変革には成功したように思います。結果、臨死体験をしましたけれど。

でも、その臨死体験を以って、1つのエピソードが完結したような感覚があります。

そして、「自己虐待」を捨てた私はこれから、私がこれまで見落としてきたこの世界に馴染んでいかなくてはなりません。何と言うか、大学時代に歩いていた道を進んでいると、その色彩の差から私がこれから向かい合う世界がどんなものなのかがより明確にわかるような気がしました。「自己虐待」が染みついた道を、「自己虐待」から解脱したこの眼で見ると、全く違ったように見えました。

 

あらゆるものの存在が憎くて仕方なかった、棘々としていて、同時に底なしの沼みたいだった景色が、今の私にはただの普通の景色として見えます。普通に生きている人が歩いていて、普通にアパートが建っていて、普通に道が交差しているのです。なんかとても不思議な感じがしました。かつての自分は何をそんなに憎み、恐れ、感傷的になっていたんでしょう。

何を見ても最終体には死に帰結させなければならなかったこと。それがどれだけ面倒で疲れることなのかを感じました。まるで、重荷を下ろしたような軽やかささえあります。多少、躁状態な感じも否めませんが、生きる活力さえ湧いて来るほどです。

今まで背負って来た重い荷物を下ろせたのだから、普通に歩くことくらいもういくらでもできるんじゃないか!?とまで考えました。

もちろん、無理は禁物ですけれど、「自己虐待しなくていい」ということがこんなにも楽なことだったなんて。「生きていい」と思えることが、こんなにも気楽なことだったなんて。

当然ながら不安もありますよ。今まで生きる上で軸となっていたものを失うわけですし、「自己虐待」を言い訳に目を逸らして来たものとも向かい合う必要が出てきます。きっとあらゆるものは等価ですから、私が脱ぎ捨てた分だけ、また何か別のものが私の背には乗っかって来るでしょう。そのことを考えると嫌な気持ちになりますが、とりあえずこれ以上自己虐待しなくていいと思えることが今の私にとってはとても大きなことなのだと実感しました。

「自己虐待」に使っていたエネルギーが浮くと考えるだけでも、大きな余剰が生まれるのではないかという予感さえ出てくるほどです。

 

冬の午後の光はとても眩しく、それでいて嫌な暑さというものがありませんでした。影の中はひんやりとしていて、アスファルトは黒く、空気は土埃を含んだように黄土色に輝いて見えます。道や建物、時間や空間はそこにあるだけでした。あんなにも私の身を切り刻み、刺して来たのに、今となっては全く私というものに興味関心を失ってしまったようです。これが普通なんだ、と思いました。

かつて通り抜けていた近道。まだ使えるかな、と足を運んでみます。昔と変わらない警告文。「〇〇大学の学生 ルールを守られない場合、通行を禁じます」。大学キャンパスの中、私はいつも人通りの少ない道を選んでいました。近道でもありましたし。おそらくは研究室に配属されている学生と思われる数名が歩いています。彼らに対しても何も感じません。何なら親しみさえ覚えるほどです。

私もまだ博士課程の学生ぐらいには見えるでしょうか。

随分と歳を取ったような気がしますが、変わらないのは今も昔も1人で、イヤホンをしながら外界をシャットアウトしているということ。でも、見える景色はこんなにも違う。何か新しいモニュメントのようなものが出来上がっていました。一度も中に入ったことが無い研究棟が工事中。講義棟の中に足を踏み入れてみます。コロナ禍ということもあってか、誰もいません。憎しみとともに出席していた講義をいくつも思い出します。いわれのない憎しみを向けられていた色々な講義になぜか同情心が湧いてきます。トイレをお借りして、なぜか梅雨時に靴や靴下がぐしょぐしょになったことを思い出します。

図書館の前を通り、図書館のカフェで談笑する数人をちらりと見やります。もう憎しみの感情はどこにもありません。教育学部棟の前の階段を登り、またいくつかの講義を思い出します。私は何をそんなに憎み、恐れていたんでしょう。そのまま裏通りに出て、音楽史を受講していた講堂の前を通り過ぎます。大学生協を遠くに見やり、そこで買ったパンやおにぎり、小説やテキストのことを思い出します。

裏門を抜けてキャンパスの外に出ます。前には2人の女子大生が並んで歩いていて、彼女たちにも特にこれと言って何も感じませんでした。同じような服を着て、頬を緩ませている彼女たちをかつての私が見ていたら気色の悪さに襲われ、憎悪を自己嫌悪に塗れていたでしょう。小学生の集団が公園の前を駆け抜けていきます。前までの私なら、思いっきり顔面を蹴り飛ばしてやりたい衝動に駆られていましたが、今はそんなことありません。ただ彼らは走りたくて走っているだけであり、間違いなく私にもそういう時代があり、それはきっと愛しいものだったはずです。憎悪の対象なんかじゃありません。

 

ふと、私はどこを目指しているのか自問をしてみます。が、その答えはすぐに見つかります。

大学時代に通い詰めたTSUTAYAを目指しているのです。そこで実にたくさんの音楽や映画と出会い、お金のない私にとっては実に希望や可能性に溢れた場所でした。私の住んでいたアパートからは1駅ほど離れているのですが、そもそも駅間が短いので歩いて15分くらいの距離でした。暑い日も寒い日も、晴れている日も雨の日も、昼間も夜中も、何か私はそこに救いや期待を抱えながら通っていました。素敵な作品も微妙な作品も色々でしたが、そこを訪れる度に私は何かを積み上げているような気持ちになることができました。

TSUTAYAまでの道のり。駅前の商店街を通り抜けます。けれど、そこに並ぶ店々は当時の私の眼には入らなかったものが多くありました。私のものの見方が変わったこともあるでしょう。それまでは私の人生には必要のない雑多なものが並んでいるだけに過ぎず、そこを訪れる人々やそこにあった人間の生活などには微塵も親しみを覚えることができませんでした。でも、今は色々なものをフラットな視点で見ることができているような気がします。それとも、単に私の経済状況が向上して、色々なものを購入できるようになり、生活の選択肢が広がったからでしょうか。正確な理由はわかりませんが、ただ変化はしているのだと感じます。

そして、ようやくTSUTAYAに辿り着くわけですが、ここで私に1つの衝撃が走ります。

立ち並ぶ空っぽの棚々。店内の中心部はロープで立ち入り制限がされています。誤って改装中の店に足を踏み入れてしまったかと思いましたが、そういうことではありませんでした。この2月に私の思い出のTSUTAYAは閉店してしまうようです。今は閉店セールの真っ最中です。

ショックではありましたが、何か運命めいたものを感じました。ある意味では私の孤独な大学生活の牙城であったTSUTAYA。それがこのタイミングで閉店するなんて。

YouTubeで初めて「凛として時雨」を聴き、惹かれるものを感じ、このTSUTAYAで初めてCDを借りました。他にも「ハヌマーン」や「toe」を始めとして、様々なヒーローと私はここで出会いました。もちろん、音楽だけでなく映画も。ですが、主にはやはり音楽が私にとっては重要でした。何度も10枚セットでCDをレンタルしては、パソコンに取り込みました。

私はずいぶんと「凛として時雨」やら何やらといったミュージシャンを愛好している話してきましたが、しかしながらこのTSUTAYAで借りたCDを後になって正式に購入し直すということをしませんでした。当初の理由は「お金が勿体ないから」というものでしたが、社会人になってからもどうしてか買い直すことができずにいました。何かその当時の「出会い」のようなものを大切にしたい気持ちが芽生えていたからかもしれません。もちろん、好きになったアーティストのCDは極力レンタルではなく、ちゃんと買うようにしていましたが、最初の出会いに関して言えばレンタルである場合が多かったです。だから、「凛として時雨」も「ハヌマーン」も「toe」もこのTSUTAYAで借りたCDの音源を今でも聴き続けています。

しかし、そんな私にとって思い出深いCD達も閉店に伴いセールにかけられていました。

1枚300円。10枚以上購入なら1枚200円。

迷いはほとんどありませんでした。私はまるで村上春樹の「1973年のピンボール」にて、主人公の僕に追い求められた「スペースシップ」というピンボールマシンと再会するかのように、それらCDと再会し、そして購入することにしました。

それらの薄汚れたCDはまさに私にとっては青春そのものだったわけです。

とても芝居めいているように思いますけれど、なんと言うかとても奇妙な運命を感じてしまいます。

私が学生時代にせこせこと壊しては積み上げていた人生観の崩壊とともに、その人生観の土台基礎となっていたTSUTAYAが潰れることになりました。そして間一髪のところで私はその中からかつての私の青春の中心であったものだけは救い出すことができたわけです。私は新しいCDではなく、そのTSUTAYAでかつてレンタルしたことがあるCDが欲しかったのです。そして、ずっと買うのを渋って来たときに、それを自分の手に戻すチャンスが訪れました。

そして、それらのCDは今、寮の自室の靴箱の中に作られた即席のCDラックの中に、かつての姿のままー今はもうどこか別のところで別の人生を送っているであろう名もなき店員によって書かれたポップとともに、レンタルケースに格納された姿でー並べられています。思い入れ、とはこういうことを言うのでしょうね。

 

その後、かつての最寄駅から電車に乗り、7年間勤めていたバイト先がある町まで行きました。そこで今の私が何を感じるのか確認してみたかったのです。

ですが、既にお話ししている通り、当時の私にとってはそのバイトは「自己虐待」の息抜きみたいなものでした。バイトをしている間は、なんと言うか「死にたい!」という希死願望を抑え込み、割と普通の感覚で時間を過ごすことができていたと思います。もちろん、「自己虐待」の痛みをゼロにすることはできませんでしたし、日によってはうまく自分を制御できないこともありましたけれど、それでも基本的にはそのバイト先の町では違う自分であったように思うのです。

自分でそう思い込んでいるからか、あるいは歩き疲れたからかわかりませんが、大学付近を歩いているときほどの、景色の差異というものは感じられませんでした。遠目からバイト先を覗きこみ、そして陽がだいぶ傾き寒くなって来たので、よく訪れていた書店に行きました。暖を取るついでに、HSPに関する本を読みました。「繊細さんの~」みたいなやつですね。私はやはりHSPの気もあるようなので、割と納得できる部分も多かったです。私が新しく手に入れた価値観と、HSPという気質を前提とした対処法を活用していけば、とりあえず私は苦痛の少ない生活を手に入れることができそうです。

書店で暖を取ったあとは特に何をするでもなく、寮へと帰りました。

 

寮に着く頃には陽もすっかり沈み、めちゃくちゃ寒くなっていました。あんなに暖かったのに…薄着で外に出たのが失敗でしたね。

帰りの電車の中で中田敦彦YouTube大学で「ヱヴァンゲリヲン」の解説動画を観ました。前後編合わせて4時間以上あるのですが、面白くてこの日のうちに全部観てしまいました。

ちなみに、寮に帰って来ると「凛として時雨」の新譜が届いており、それも非常に楽しませていただきました。初めて出会ったときから変わらず、衝撃を与えてくれます。私にも彼らのような表現力が芸術的才覚があれば良いのに…と何度も思わされます。しかし、まぁ、無いものは無いから仕方ありませんね。とにかく、今回の記事もその新譜をずっとリピートで流しながら書いております。もう3時間もぶっ続けで聴いていますね。ということは、もう今回の記事を書いてから3時間が経っているということですか。

 

というわけで、もうお昼です。

とりあえず昼飯を食べに外に出ましょう。天気も良いですし、お散歩もしましょう。適応障害になってからずっと動画ばかり観ているので、視力が落ちてしまいました。前々からちょっと度が合わなくなってきていたので、眼鏡も新調したいですね。

このところお金を使い過ぎな気もしますが(働いていないのに)、まぁ、これまで随分と不十分な生活に身をやつしてきていたので、ちょっとずつ充実させていくのもきっと良いことですよね。

そろそろ職場にも顔を出すべき時期でしょうし、その前に少しでも環境を整えておきたいものです。