霏々

音楽や小説など

水流 vol.5

     *

 

「椎葉とはどういう関係なんだ?」

 二杯目の生ビールを二口ほど済ませたところで、日野が堪え切れず僕にそう聞いてきた。いったいどこで僕とゆかりを結び付ける情報を得たのだろうと僕は不思議に思うが、日野の答は意外だった。

「椎葉が俺に相談して来たんだ。日野先生は上原先生と仲が良いみたいですけど、上原先生って頭がおかしいんですか、って」

 僕は思わず笑ってしまった。全く以て、ゆかりの行動は読めない。あの子は頭が切れるし、何らかの意図があってのことだというのはわかるが、その真意までは僕には掴めなかった。

「なんで椎葉が日野にそんな相談をするのか、俺の方が日野と椎葉の関係性について聞いてみたいね」

 日野は黙ってじっと僕を睨んでいた。僕の返答の何が気に入らないのかわからないが、ただ睨みあっているだけというのも気味が悪いので、僕はジョッキに入った生ビールを煽った。あぁ、これを飲むたびに身体が金色に光りそうな心地さえしてくる。

「珍しいな。上原がちゃんと生徒の名前を覚えているなんて。いつもだったら、椎葉って誰だっけ、みたいなこと言いそうなものだけど」

 僕は一瞬黙り込む。「最近、よく昼休み中に質問に来るんだ、彼女。真摯に対応していたつもりだけど、どこかから俺の本性が零れ出たのかもしれない。教師失格のとんでもない思想を持った人間だって」

「上原は確かに教師としておかしなところもあるけど、言うほどとんでもない思想の持主というわけではないな」

「その通り。普通のやる気のない労働者の職場がたまたま高等学校だったというだけだ。哀れなプロレタリアート。今時の子なら、教師全員が日野みたいに聖人君子的な人格者ではないということくらいわかっていても良さそうなものなのにな。というか、むしろ日野みたいに教師に対して誇りを持っている人間の方が、異常者扱いされるのが一般的なんじゃないか」

「そこまで世の中落ちぶれちゃいないさ」

「ま、そうかもな」

 僕は呼び出しベルを鳴らし、グラスに微妙に残っていたビールを飲み干す。行きつけの、というほど来てはいないが、この居酒屋チェーン店は引き戸付きの個室が多く、プライバシーが守られているような気がするため僕は気に入っていた。料理はさほど美味くはないが、おおよそのメニューは既に覚えきってしまっている。店員が来て、僕はホタテのバター焼きと揚げ豚をメニューも見ずに頼んだ。それ、好きだな、と日野が言い、水仙畑の大地を割いてでも食べたい好物なんだ、と僕は答える。仮にそのせいで冬という季節が生まれてしまったとしても。

「それで?」僕は日野に尋ねる。日野が首を傾げるので、「それで、日野はなんて答えたんだよ」と僕は言葉を付け足した。

「たしかに上原先生は変わっているかもしれないな、って答えたよ」

「どうしてそう思うんだ?」

「椎葉もそう聞いたよ。だから、俺は逆に彼女に聞いたんだ。椎葉さんはどうして上原先生の頭がおかしいだなんて思うの、って」

「私は上原先生の頭がおかしいと思ってるなんて一言も言ってません。ただ、日野先生に上原先生の頭がおかしいかどうかを確認しているだけです」ゆかりの言いそうなことがすらすらと僕の口から溢れ出てくる。日野は驚いたように、まさに彼女はそう言ったんだよ、と目を丸くしながら言った。

 僕は呆れて溜息をつく。僕がロリコンかどうか議論したときとやり口が一緒だ。

「まぁ、それからも、じゃあどうしてそんなこと聞こうと思ったんだ、とかなんとか一通りのやり取りをしたけど、彼女は俺が上原のことどう思ってるか、どう評価してるかを知りたいだけなんだって言い張って聞かないんだ。だから仕方なく、俺は上原先生は頭がおかしいんじゃない。少し特殊な思考体系を持っているだけなんだと思うよ、と答えた」

「少し特殊な思考体系ね」僕なんかよりも日野の方がよっぽど特殊だと思うけど、とまでは言わなかったが、日野には僕が何を言いたいのかわかっているようだった。

「彼女はどこか不思議な魅力があるな。あまり成績が良いという印象もないけれど、頭の切れは鋭そうだし、何よりも彼女の瑞々しい好奇心は、教える立場の人間にとっては麻薬みたいなものだ。つい、余計なことまで言ってしまいたくなる」

 僕は日野のゆかりに対する評価に感心して、思わず「ほぉ」と零してしまう。数学教師なのに実に明瞭な語彙を持ち、それを的確に使うことができている。日野の言葉を聞いて、僕はまさに自分が抱いているゆかりへの好意が上手く言語化されていると感じた。

「余計なことってのは、どんなことを言ったんだ?」

「や、別に上原のプライベートについて何かを言ったわけじゃないんだ。ただ、椎葉と話していると不思議と議論が深まっていって、俺が上原に対してどんなことを思っているのかということをついつい喋ってしまったんだ。というか、自分でもまだちゃんと考えてなかったことについて、改めて考えさせられて、そしてその場で彼女にそれを引き出された。なかなか面白い体験だった。ほら、俺たち教師ってのはあらかじめ教える内容を考えてから行くだろう? でも、彼女との上原に関する議論のようなものは、まるで全部アドリブなんだよ。自分でも考えたことがなかったことを、考えさせられる。そして、その場でその俺の思考が彼女の中に吸い込まれていくんだ。こんな気持ちの良いことってないぜ」

 日野の言わんとすることはよくわかった。僕がゆかりやこれまでの幾人かの女子たちに求めたのはまさにそういった快感なのだ。

 しかし、どうも日野の話を聞いていると、僕が享受してきたものよりも、日野が受け取ったものはもっとパッケージ化されたもののように感じられた。つまり、ゆかりは意図的にその物わかりの良さと洗練された好奇心を使い、日野から何かを引き出したのだという風に感じられて仕方ない。

 こんな風に考えてしまうのは、僕が日野に対して嫉妬しているからだろうか。曲がりになりにも現在の僕の所有物たるゆかりから、快楽を受け取ったという事実が許せないのかもしれない。とは言え、ゆかりが日野をたぶらかす理由もないか。確かに、日野は興味深い人間だが、ゆかりが日野のような一般的な尺度を持った人間の前でリラックスできるとも思えない。僕といういまいちパッとしない人間の評価について、日野みたいなタイプの第三者からの意見が欲しかったと考える方がしっくり来る。その方がゆかりらしい。

「彼女と話しているうちに、何だか上原と話したくなってな」そう言って、日野は追加の生ビールを注文した。「色々と聞いてみたいことがあるんだ」

「聞かれれば何でも答えるけどさ。でも、何も面白いことなんてないと思うけど」

「じゃあ、まず一つ目の質問――」

「あぁ、その前にこちらから一つ聞いておこう。日野は俺のどういうところが特殊だと思うんだよ。俺は様々な方面に対してやる気がないだけの、哀れな独り身の男だ。特殊と言うからには、その人間を特殊たらしめる何かがあるはずだが、俺はそんなもの何も持っていない。足りないものこそ多いけど、人にはないそんな何かを俺は持っていない」

「みんなが持っているものを持っていないことだって特殊の要因にはなるだろう」

「確かに、足が無い人や目が見えない人、耳が聞こえない人、そういうのも特殊の要因になるかもしれない。でも、そういう『持っていない』というディスアドバンテージを強調するやり方は昨今の社会の道徳的観点から言って、不適切なんじゃないか。もし、俺が特殊であることを説明したいなら、ぜひ俺が持っていないものではなく、俺が持っているもので説明して欲しいね。俺だって馬鹿にされたり、差別を受けたりするのはあまり喜ばしいことじゃない」

「持たざることが必ずしもディスアドバンテージになるわけじゃないと思うが」

「最近流行りのミニマリズムとかいう思想のことか?」

「あんなもの思想とは呼べないよ。上原が言う通り、ただの流行り、つまりトレンドさ。それも一部の人間たちの間で取りざたされているだけのな。あるいは、この効率社会で生きていくうえで、さらなる効率性を達成するためのただの手段かな。いずれにせよ、思想と呼ぶにはあまりにも浅はかな代物だよ」

「俺はミニマルミュージックとか好きだけどな」

「巷で流行ってるミニマリズムとミニマルミュージックは別物だろう。そんなこと上原が一番よくわかってるんじゃないのか」

「涅槃や解脱の現代語訳としてミニマリズムを語っているやつがいれば、そいつのミニマリズムは思想として認定してやっても思うけど……まぁ、そんなやつそういないか」

「なぁ、いい加減、話を逸らすのはやめろよ」そう言って、日野は可笑しそうに笑った。僕も思わず笑ってしまう。ゆかりと話すのも面白いが、こうして日野と酒を飲みながら喋るのもなかなか面白い。こんな風に笑っていると、僕もまだ人としてきちんと生きているという気がしてくる。「そう言えば、上原の質問はなんだったっけ? たしか、俺が上原のどんなところを特殊だと思っているか、だったか?」

「その通り」

「そうだなぁ。人のことを端的に言葉で表現するのは失礼にあたる気もするから、ちょっと気が引けるな」

「気にすんな。俺とお前の仲だろう」

「はは。上原がそんなことを言うとは。もう酔っ払ったのか」

「たまには普通の人間っぽい会話を楽しむのもいいじゃないか」

「なんだよ。普通の人間っぽい、って。変人気取りなんて珍しい」

 ゆかりと日野がどんなことを話したのか気になったが、酒が回ってきたせいで、少しずつそういう細々としたことがどうでもよくなってくる。天井のスピーカーからは、五十回ほど使いまわされた紅茶のパックみたいに薄味のジャズが落ちてくる。十一月の雪みたいに何の手応えもなく。

 揚げ豚を咀嚼する。滲み出るタンパクとしっとりと纏わりつく油分。淀んだダンスフロアみたいな咥内を、金色の濁流で洗い流す。城春にして草木深し。麦の香りと微熱のような炭酸の名残が、心を射止める。退屈だ、と思う。退屈だ、退屈だ、と言い聞かせるほど、どうしてかこのありきたりの酒の席が愛しいもののように感じられ、僕は日野という男のことを愛していってしまう。女なんて……女子高生なんて本当はいらなかったんだ。ミニマリズム。そんなもの、捨ててしまえば随分とすっきりするだろう。もう何も僕のことを捕らえるものはない。必要以上に女に意味を見出すことをやめよう。それこそが最も賢い選択と呼べるものなのだ。

 気がつけば、店に来てから一時間も経っている。日野は手洗いに席を立った。ふと、スマートフォンが気になって手に取る。ゆかりから、「もうお仕事終わった? 何時からなら電話できる?」とメッセージが届いていた。女のこういうところには辟易とさせられる。が、ゆかりからのものとなると全く別物だ。あぁ、今この場にあの愛しいゆかりがいれば。僕は割と本気でそんなことを思い、そして、ほんの数十秒前には過去とともに女を清算することを夢見ていた自分を思い出して苦笑を浮かべてしまった。

 日野は戻って来ると、水を注文した。酔っ払ったか、という僕の問に対して、まぁな、と答えると日野は改まって僕の方に向き直った。橙色の照明とアルコールの痺れが僕の集中力を奪う。

「なぁ、改めて聞くけど、上原は椎葉とどういう関係なんだ?」

「教師と生徒」

「そうか、それならいいんだけどな」歯切れが悪い。言いたいことがあるなら言えよ、と僕は詰め寄る。日野はふっと息を吐いて、手元の乾ききったおしぼりを指先で摘まみながら口を開いた。「椎葉はきっと上原に恋愛感情を持っている」

「ふうん、そうか」

「まぁ、上原が気付かないわけないよな。でも、どうするんだ? 彼女は上原に興味津々だったし、正直なことを言えば、彼女が俺を情報源……いや、セカンドオピニオンとして利用したってこともちゃんとわかってる。それでも、彼女との会話は楽しかったけどな」

「彼女と話すのは確かに楽しい。日野の言うような、教師冥利に尽きるという気持ちさえ少し理解できるほどだ」

「彼女はからからのスポンジみたいに何でもあっという間に吸い込んでしまうからな。自分が彼女に対して何か影響を与えているという実感を得たいなら、彼女と話すのが一番だろう。でも、そういうのは上原は嫌いなんじゃなかったか」

「確かに、日野にはそう言っていたな。でも、そんなのは建前だよ。俺だって誰かに影響を与えるというのは楽しいと感じるさ。ただ、俺はやたらめったらそれを振り撒くのが好きになれないだけなんだ。俺はあくまで俺の趣味性においてのみ、そういう影響力みたいなものを使いたいだけで、『仕事としてやるのは違う』ってことを言いたかっただけなんだよ。労働はあくまで労働だ。それ以上でもそれ以下でもない。労働に対して、必要以上の対価を望むというのが好きになれない。どうしてかは上手く説明ができないけど、仕事に対してやりがいを求める気持ちになれないんだよ。やりたくないことでも、ただ求められることをやる。それが労働だ。それに対して、趣味性というのはもっと自由な領域に取っておきたい。やりたいからやる。効果なんて気にせず。それが自由だし、一番自然なことだと考えているのかもしれない。だから、俺は教師として彼女とは話さない。俺はあくまで自由な立場で彼女と話したいと思っているし、もし彼女が俺と同じことを求めているなら、いくらでもそれに応えようとは思っている」

 遠回しに聞かれる必要もない。日野はゆかりの魅力を身をもって体感した。その上で、僕が彼女に篭絡されることを危惧して、忠告を与えようとしていたのだろうが、生憎僕は既にゆかりと特別な関係性を築いていたし、別にそこまでは明かさなくとも、僕が僕自身の考え方に則って彼女を受け入れようとしていることを伝えればそれで十分だ。人を殺そうと思っても、実際に殺すまでは捕まらない。酔っ払ってはいるが、言って良いことと言って悪いことの分別はしっかりとできている。が、口は禍の元とはよく言ったものだ。本来であれば何も言わないことがベストに違いないのだ。全てはアルコールのせい。そう、アルコールの精に魔法をかけられて、今の僕は自分語りをやめられなくなっている。

 日野は僕の言ったことをよく咀嚼してから、「つまり、上原は彼女から言い寄られたら、それに応えると言っているんだな」と確かめてきた。僕は曖昧に笑いながら、生ビールを追加注文する。いい加減ハイボールとかに変えろよ、痛風になるぞ。日野がゆかりのことで僕に呆れているのは確かだったが、そんな僕にも彼は優しい。

「教師と生徒だろう、っていう異議の申し立ては通じないんだよな」

「通じなくもないさ。俺だって最低限の良識はある。俺が言っているのは、いわゆる一線というものを超えなくたって、彼女と個人的に仲を深めることだってできるってことだ。俺は男女間の友情を信じている」

「男同士の友情だって信じているかどうか怪しいってのに」

「いやいや、男同士よりも男女の方がやりやすいだろ。それと同じで、教師同士よりも教師と生徒の方がやりやすいということもある」

「笑えない冗談だな」

「確かに面白くはないかもしれないけど、理解はできるだろ? 実際問題、教師同士で話すよりも生徒と話してる方がよっぽどリラックスできると感じることは日野だってあるはずだ」

 日野は少しだけ驚いた表情になって、「確かに」と零した。「確かにそうかもしれない。今までそんなこと考えもしなかったな」

「だろう? ただ俺が言いたいのはもっと深いところにある。俺は個人的に彼女と仲を深めると言った。つまり、教師と生徒とか、男女とか、そういう立場や枠組みを超えて、彼女と仲を深めると言っているんだよ。教師同士よりも教師と生徒の方がリラックスできるというのは、あくまで社会的に教師と生徒という関係性の方が利害関係が薄く、緊張感が少ないからだ。男同士よりも男女の方がやりやすい場合があるのもそれと同じ理論ね。でも、そういう立場や枠組みってのは、つまるところ社会が作り出すもので、そこでは必ず労働というものが顔を出してくる。全然自由なんかじゃない。だから、俺はあくまで自分の趣味性を重んじて、教師だとか生徒だとか、男だとか女だとか、そういうところを通り越したところで自由に楽しみたいんだ」

 日野はしばらく黙って僕の言った言葉について考えた。透き通る水を喉に流し込み、日野は何度か頭を横に振った。僕は生ビールを飲み、小さくげっぷをする。

「でも、男か女か選べるとしたら当然、女を選ぶんだろうな」日野は呆れたように笑う。

「もちろん」僕がそう言って笑うと、日野も笑った。

 その後も何度か日野はゆかりと僕のことで忠告をしてくれた。止めはしないが、止めた方が良いとは思う。社会的なリスクしかない。確かに椎葉ゆかりには不思議な魅力があるが、彼女のそれは一時的なものであり、長続きはしない儚い煌めきかもしれない。日野はそう言ったが、僕にとってはそれは踏みとどまる理由にはならず、むしろ進んで足を踏み出す理由になるということを彼は理解できていない。季節限定品が僕は好きだ。タイムリミット付きの美しさ。それに何度も言うように、もしゆかりがそれを失ってしまったなら、僕はまた次の季節が訪れるのを待てば良いのだ。幸か不幸か時間というものは浪費が可能なのだ。

 そろそろ帰るか、と日野が時計を見て言う。確かに。もう九時を回ってしまった。ゆかりと電話をする約束もある。

 が、一つ僕は日野に聞いておかねばならないことがあった。

「なぁ、結局日野は椎葉に対して、俺の特徴をどう説明したんだ?」

「まだそんなことが気になるのか?」

「自分の噂話が気にならない人間なんていないさ。それに、もし今度椎葉と話す機会があったら、話のネタになりそうだ」

「はぁ」日野は深く溜息をつく。「ちょっとクサい言葉になるけどな、上原は未来じゃなくて過去に希望を持っているんだと思う。それが俺と彼女の最終的な結論だよ。だから基本的に無気力に見えるんだ。実はあれやこれやと色々無意味なことを考えているくせに」

「なるほど。それは面白い見解だな」

「せめて正解かはずれかくらいは彼女に教えてやれよ」

「日野は正解かどうか気にならないのか?」

「数学者は実世界との答え合わせを必要としないんだ。物理学者とは違ってね。全部、頭の中で片が付けられる」

 僕は笑って日野の肩を叩いた。何だか今日という日を経て、僕は本当に日野のことがますます好きになったようだった。ゆかりが嫉妬心を燃やさなければいいが。

 駅前で日野はタクシーに乗って、夜に消えていった。僕はやたらめったら明るい駅のホームに立ち尽くし、次の電車が来るまでの十五分をゆかりと電話しながら待った。

 

     *

 

 紙飛行機が飛んでくる。そして、僕のわきに落ちる。そんなことがもう何十回と繰り返されていて、僕の足元には紙飛行機の山ができていた。

 例えば、それは冬の日曜に降って来る雪のようでもある。空を見上げると、何百、何千という紙飛行機が飛んでいて、一つひとつが少しずつ高度を下げて降りてくる。目を凝らすと紙飛行機の機体には何やら文字が刻まれている。中にはまっ白な飛行機もあったが、多くが何かのプリント用紙を原材料に作られているもののようだ。

 神様が色んな文章を書くでしょ。それをね、天使が紙飛行機に折って、空から飛ばしているのよ。

 なるほど、と僕は思う。彼女はなかなか頭が良い。さすが、僕の教え子だ。

 疲れた。身体が鉛のように重い。僕は椅子の背もたれに身体を預ける。空を見上げ、だらしなく口を開ける。舌先に冷たい雪の一片が落ちてくる。いや、雪ではなく、天使の放った紙飛行機だ。その証拠に僕の舌には神様が書いた文章が印字されている。僕は鏡を覗き込んで、その文章を確認した。しかし、それにしても神様は用意周到だ。僕が鏡で見ることを先読みして、わざわざ反転した鏡文字で文章を書いているとは……いや、ハンコのように舌に印字された文字をさらに鏡で見ている訳だから、逆の逆で最初から普通に書いていただけか。どうやら、僕は神様を不必要に過大評価していたようだ。

 疲労。どうして僕はこんなにも疲れているのだろう。椅子の軋む音。いや、疲れているのではなく、身体が重くなっただけなのかもしれない。そのうち僕の重さに耐えられずに椅子は壊れ、終いには床だって抜けてしまうかもしれない。

 目を瞑る。紙飛行機を足場に、僕は天まで駆け上る。そんな空想。重くなってしまった今の僕には不可能な芸当。でも、空想は空想で意味を成す。例えばそう。重くなった僕が椅子を押し壊すというのは不正確な表現だ。つまり、僕の質量と地球の質量が互いに惹かれ合い、その間に挟まった椅子が破壊される。それが正確な表現だ。要するに、僕と地球は共犯者なのである。

 目を開ける。相変わらず紙飛行機は降り続けている。音もなく。そろそろ僕の足首まで、乾いた紙の感触で覆われてしまう。

 カーテンの隙間から零れる真っ白な光。紺色のカーテン。窓の外にはさらに大きな部屋が広がっている。大きくて真っ白な部屋。その中にぽつんと建っているアパートの小さな一室の中で僕は降り落ちる紙飛行機を浴び続けていた。椅子に座って。机の上には白紙のノート。何かを書こうと思っていたのだけれど、何も思いつかない。

 

     *

 

 月明かりが窓ガラス越しに差し込んで来る。ずっと下の方を電車が通過していく。青い夜が今日もこの寂れた街に覆いかぶさっている。

 冴島奈子は高校の制服に身を包んで、背後の気配に漠然とした親しみを投げかけていた。背後の気配については、何度か誰かに説明するための言葉を考えたりもした。しかしながら、冴島奈子にはその気配の正体を掴むことはできない。その概要すら上手くまとめられない。ノートを広げてみて、シャープペンシルを持つ。その辺の文房具店で売っているありきたりのシャープペンシルだ。何かその気配の特徴らしきものを書き連ねてみようと思う。けれども、何一つ言葉が浮かんでこない。

 しばらくの沈黙。電車がまたずっと下の方を通っていく。青い月光。寸分たがわぬこの景色と時間。変化こそが時間の潮流を生み出しているはずだったが、ここでは無変化に時間の存在を与えることができる。そんな夜。そんな夜がどうして存在しなければならないのだろう。冴島奈子は考える。

 夜はどこまでも青かったが、冴島奈子が目を凝らすと、それは少しずつ緑色を帯びていった。そう言えば、サファイアもエメラルドも、酸化アルミニウムを主体とした鉱物だっけ。化学の授業を思い出して、冴島奈子は窓の外の世界に目を向けた。目を細めるとそれはエメラルドの夜。目を見開くと、夜はサファイアに変わる。そんな風にしてしばらく遊んでいる。時計の針はどれくらい傾いただろう。

 時間について考えると、冴島奈子はときどき頭が痛くなった。

 自分は随分と前から、この部屋にいる。勉強机とベッドと、洋服が何着か入ったクローゼット。どれもシンプルで質素なものだ。まるで、ビジネスホテルのためのカタログですべて誂えたもののようだ。しかしながら、どれも冴島奈子には親密に感じられる。正体の掴めないあの気配のよう。とても親密だ。その気配や一揃いの家具もまた、自分を構成するものなのだと冴島奈子は考える。窓ガラスの外に見える夜も、音だけの電車も、それぞれが自分の一部なのだと思えば、少しは嬉しく、少しは悲しい。

 そうだ。時間について考えよう。冴島奈子にとっての時間とは。それこそが問題なのだ。

 冴島奈子にとっての時間について考えるのは難しい。考えようと思っても、冴島奈子は頭痛に悩まされるし、冴島奈子が頭痛に悩まされると、自然と議論のベクトルは別の方向に向けられてしまう。誰だって痛いのは嫌だし、私自身痛みに耐えながら時間について考えるのは難しい。冴島奈子はそう考えていた。

 そもそも、冴島奈子が時間について考えなければいけない理由は何なのか。出発点はささやかな違和感だ。

 つまり、青い夜を眺めながら時間を過ごしていると、冴島奈子は不思議な感覚に捉われることもしばしば。そんな感じなのだ。一方で、その儚い夜が過ぎることを恐れ、悔やみ、悲しみながら、同時にその夜の永遠性に戦慄させられている。実際問題、半袖のブラウスを纏う冴島奈子の前膊を鳥肌が覆っている。それくらい、冴島奈子はこの部屋の、この夜の永遠性に戦慄させられていたのだ。

 しかしながら、仮にこの夜が冴島奈子の本質だとすればどうだろうか。

 幾度となく、網膜上で揺れるこの青い夜が冴島奈子本人なのだとすれば……

 冴島奈子は目頭を押さえて、しばらく瞼裏の閃光に意識を委ねた。ともすれば、このまま眠ってしまいそうだった。寝起きから細々とした文字を読み続け、午前十時頃、ふと暖かい部屋でつまらない大人のつまらない話を聞かされると、暴力的な眠気が襲ってくることがある。冴島奈子は学校の授業でそういった暴力的な眠気に度々襲われた。眠ってはいけないと思っても、そう思えば思うほど、眼球は疲労のあまりその光を閉ざし、シナプス間を駆け巡る微弱電流は逃げ場のない迷流を続ける。

 気配について考えなければ。冴島奈子はそう思う。

 冴島奈子について考えなければ。

 いや、違う。時間について考えるのだ……頭痛。

 しばしの眠り。よく眠れた、というほどではないが、少なくともあの暴力的な眠気は去っている。暴力的な眠気を退ける為だけの睡眠。限定された目的に対する、普遍的行動が孕む限定された機能。そういった類の能力を身体は備えている。

 しかしながら、そういった的確な機能の処方は得てして、予知不可の副作用をもたらす。よく効く風邪薬が眠気を誘発するのと同じ原理と言えよう。

 冴島奈子は髪をかき上げてみる。ヘアゴムを使って後ろで一つにまとめる。いくらか気分はすっきりしたかもしれない。だが、未だに目の前には不確定的イメージの断片が浮かんでいる。まだ眠りと覚醒の狭間に冴島奈子は浮かんでいるのだろうか。

 親密な気配はまだ背後にあった。正面ではなく、背後にある。これまでその正体を見定める為に何度も振り向いたりしてきたが、いくら振り向いてもその気配は瞬時に冴島奈子の背後に回り込んでしまう。まるで、特殊な光学原理によって作られた影のように。だからこそ、冴島奈子はもう振り向くことをやめた。そんなことを続けたって首を痛めるだけだということに気付いたのだ。ヘアゴムは決して首を回しやすくするためのものではない。これは一種の儀式のようなものなのだ。誰もいない部屋の中で冴島奈子はそう言い訳をした。

 何かを書かなければならない。

 その姿かたちのない何かを。

 

     *

 

 昼過ぎ、僕は空っぽの用務員室の裏手にある室外機のわきに立ち尽くし、そこで缶コーヒーを啜っていた。校舎の反対側からは体育の授業のぼんやりとした声が聞こえてくる。しかし、それを除けば実に静かな午後だった。仮に平和に音があるとすれば、この静けさこそ平和の音だろう。僕はそんなことを考えながら、百二十円の缶コーヒーのステンレス味に顔をしかめる。

 百二十円の缶コーヒー。

 ふと、大学の講義を思い出す。文学にかぶれだした僕が当時、ちょっとしたきっかけで受講した「社会生活と文学」という講義でされていた話。

 文学をきちんと楽しむためには、その筆者が生きていた時代背景というものを把握することが肝要です。例えば、友人に壱万円を借りるという場面があったとします。しかし、その筆者が生きた時代が現代なのか明治時代なのかによって、その一場面の意味はまるで変って来ます。だからこそ、筆者が生きた時代の社会生活についてきちんと学ぶことは、文学を正しく理解する上で必要不可欠と言えるのです。

 仮に僕が「百二十円の缶コーヒー」という文言をどこかに書き留めるとしたら、そんなことはやめてしまうべきだろう。例えばこんな表現はどうだろうか。溜息を煮詰めたような缶コーヒー。溜息という言葉の意味が何百年後かにも変わっていないことを願って。

 しばらくのんびりと「溜息を煮詰めたような」缶コーヒーを飲みながら、柔らかな太陽の光を見つめていた。少し風がでてきたかな。こんな気分のときに煙草が吸えたら、どんなに素敵だろう。生憎、僕は気管支が弱く、煙草を吸うとすぐにむせてしまうし、しばらくヒリヒリとした痛みと締め付けられるような息苦しさに悩まされてしまう。金の浪費をしなくて良いという面では、恵まれているかもしれないが。そう考えることで、僕はよく僕自身を励ましてやった。

 まだ仕事も残っているし、と教員室に戻ろうと正面玄関に回ったところで、見覚えのある顔が視界に入って来る。僕が驚いて呆気に取られていると、彼女は「先生久しぶり」と僕に声をかけてきた。

「薫か。久しぶりじゃないか」

「よく名前覚えてたね」

 僕の生徒はみな出来が良い。僕がどういう人間かということをよく心得ている。

「今も絵は書いてる?」僕は何気なく尋ねてみた。が、薫は「やめてよ。絵の話はもうしたくないの」と冷たく言い放った。仕方がないので、僕は「何年ぶりだっけ」と違う質問を投げかける。

「忘れたわ」

「俺が思い出そう。今の薫は何歳になる?」

「自分の歳なんて知らないわよ。二十歳を超えたときから数えるのをやめたの」

「じゃあ、薫はまだ二十だから、二年ぶりということになるかな」

「ずいぶんと長い二年だった」

 僕は頷き、そして「こっちに来いよ」と薫を手招いた。そして、また用務員室裏の室外機のわきへと戻る。用務員が使うシルバーのハイエースが午後の陽光を照り返しているその場所へと。

「どうしてここが?」僕は純粋な疑問を口にする。

「妹が教師をしていて、先生がこの学校にいるっていうから、ちょっと気になってね。まさか、本当に会えるとは思わなかったけど」

「へぇ、妹がいたんだ」

「先生にはあえて言わないようにしてたの。理由は聞かないでね。先生がそうさせたんだから」

 僕は溜息を吐いた。溜息を煮詰めたようなコーヒーの缶を握りしめながら。

「俺は何度かそんなようなことを別の女の子からも言われよ」

みな僕のことを生粋のロリコンだと思っているのだ。そして、自分よりも若い女に対して不当な嫉妬心を燃やす。どうして不当なのか。そう言えば、その理由を僕は今までどの女にも説明したことがなかったように思う。

「私もそのときは本気だったのよ。私が歳を取ったら、先生はもう私なんて必要としなくなって、違う女の子を求めるに違いないんだって、そう本気で思ってた」

「まぁ、結論から言えば間違いではないかもね」

「結論から言えば、ね。でも、しばらくして私は気づいたのよ。原因はもっと別のところにあるかもしれないって」

「ほう」

「ほらね。やっぱり私の思った通りだった」薫は少し嬉しいような、そして少し悲しいような呆れ笑いを浮かべた。「先生が若い子に乗り換えるんじゃない。私が先生を置き去りにしてしまったのよ」

 僕は何も言わず黙って彼女を見つめていた。久しぶりにあった平林薫からは、特にこれといった何かを感じることはなかった。ただ器としての彼女にかつての面影を見るだけだ。彼女の着ている服。見慣れない髪型。それのどれもが僕に訴えかけてくるものは、どこまでも薄弱としていて、頭の中でそれらの情報を整理する気も起きなかった。

「確かに、私は先生を高校に置いたまま去っていったわ。それでも、私は先生のことが好きだったけどね。人と離ればなれになることがこんなにも苦しいことだったんだ、って何か月も独りで夜に泣いたわ。小学校の頃に親友が転校しちゃったけど、あんなには泣かなかったわね。でも、数か月もすれば、もうケロッとしたもんよ。しばらく絵を描くときに先生のことが頭に浮かんだけど、でも先生のことを忘れていくのと並行して、絵を描く熱意みたいなのも消えていってしまった。絵を描かなくても私は生きていける。しばらくしてそのことを理解してからは、たまに気が向いて絵を描くときがあっても、もう先生のことを思い出す事なんてなくなったの。不思議だったわ。高校生の頃は私の生きていく道は絵しかないんだとあんなに強く思ってたのに。それからあっという間に大学生活は過ぎ去って、普通の会社に就職して、働き始めて、それからまたしばらくして仕事も慣れ始めたとき、ふと思ったの。私の絵への熱意みたいなものは先生と一緒に過去に置き去って来たんだって。私は自分のやり場のない絵への情熱を先生への恋心とごちゃ混ぜにして、そして高校卒業と同時に全部先生に押し付けて逃げて来たんだって。私の手にはあまる代物だったのよ、全部。私ひとりでは処理しきれなくなって、全部先生に押し付けて私は逃げて来たの。そう想うと先生はずいぶんと悪いことをしたなぁ、とも感じるけれどね。でも、きっと先生はそれでよかったんでしょ? そういう取り決めになっているんだ、ってわかってたんでしょ? 少なくとも私自身には先生の優しさに甘えていたという自覚はないし、いま思い直してみても、あれはあれでフェアな関係性だったと思ってる。ただ一つだけ気になるのは、そうは言っても先生に被害者意識があったらどうしよう、ってことなの」

「被害者意識?」

 僕はずいぶんと長い間黙って彼女の言葉に耳を傾けていたが、突然の予期しない言葉に思わず聞き返してしまう。薫の話はずいぶんと的を射ていて、僕の考えとかなり近かったが、「僕が被害者意識を感じている」という部分は考えたことがなかったのだ。

「そうよ。先生は自分が私に捨てられたんだ、って思ってる?」

「まぁ、そう思ってるよ。俺が君を諦めて、違う子に乗り換えたんじゃなく、薫が俺を置き去りにして遠くに行ってしまったんだと思っている。でも、そこに対して被害者意識みたいなものはないな。別に薫を恨んでいるわけでもないし、自分が可哀想な人間だとは思っていない。俺は俺なりに君を大切にできたし、来るべき時が来て、俺たちは違う道を選んだというだけの話だ。そこには加害者も被害者も存在はしない」

「本気でそう思ってる?」

 薫は僕の目を覗き込んで来る。一瞬、僕は目を逸らしそうになったが、堪えて彼女を見つめ続けた。あぁ、そうか。僕はそこでようやく気がつく。彼女が言うように僕は僕を可哀想だと思っていたのかもしれない。とある小説でとある登場人物が言っていた。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」。僕としては少し表現が間違っているように思う。「下劣な人間がやることはたいてい、自分に同情するということだ」。うん、こちらの方が断然しっくりくる。

 平和な午後だと思っていた。いや、実際こんな話をしていられるのも、社会が平和なおかげなんだろう。他人は誰も僕のことを攻撃したりはしない。僕が僕自身を痛めつけているだけだった。風は素知らぬ顔で吹き去って、アスファルトはじっと陽の熱を蓄え続けている。僕は仕事をサボって、かつての教え子であり恋人である平林薫と自らの愚かさについて議論をしていた。

「確かに、先生は私のことを恨んでなんかいないと思う。こうやって先生に会うまでは、もしかしたら恨まれているかもしれないとも考えたけど、やっぱり違った。先生は諦めているのよ。そして、その諦めの原因を私のせいにしている。いえ、私たち、と言った方が正確かしらね」

 その通りかもしれない。少なくとも僕は様々なことを諦めている。そして、その原因を薫やその他の女の子のせいにしているのだろう。入口こそ、「こんな自分だから」というのがあるかもしれないが、「けれど、こんな自分にしたのは誰なのか」ということを考えていないと言ったらきっと嘘になるだろう。

「ねぇ、先生」薫は俯いた僕の顔を覗き込むようにして喋りかけてくる。「急にやって来て、急にこんな話して悪いとは思ってるのよ。でも、まさか本当に先生に会えるなんて思ってなかったし、先生がまだきちっと高校教師をしてるんだって感じられたら、それで十分のつもりで今日はちょっと足を運んだだけだったの。私としてもね、先生と話すのはちょっと怖かった。もし、本当に私が考えた通り、先生が色んなことを割り切って、独りで悲しい世界に取り残されているんだとしても、今の私には何もしてあげられないし。ただ、こうして偶然出会えて、そして私が考えていた通り、今もまだ寂しそうにしてたから……どうしても言わずにはいられなかったの。もし先生のこと傷つけてしまってたらごめんなさい。でも――」

「いや、いいんだよ。ありがとう。俺は……いや、よくわからないな。まだ頭の中が整理できていない。薫の言ったことは全部正しい。それは直感でわかってる。でも、まだ……ただ、頭の中が整理できていないだけなんだ」

「先生はゆっくりものを考える方が得意だもんね」

 僕は顔を上げて、薫をじっと見つめていた。どうしても目の前の人間があの平林薫なのだという実感が湧かない。理性では、彼女が平林薫その人なのだと完全に理解できている。容姿や表情の作り方、喋り方や声音なども当時の彼女とほとんど変わらない。しかし、何かが決定的に違う。突然、何年も前に疎遠になった女が目の前に現れて、面食らっているということもあるだろう。しかし、それにしても、どこか彼女から受ける印象が当時とは全く違うのだ。彼女は、僕が彼女に捨てられたという被害意識を持っていると言い、僕もそれに納得していたはずだったが、ここに来てそれが間違いではないのかという疑念に捉われる。僕が彼女を捨てたのだ。だから、こんなにも彼女が思い出せない。

「先生、私そろそろ帰るね」薫は腕時計に視線を落としてそう言った。「なんか、言いたいだけ言って逃げるみたいでごめんなさい」

「いや、いいんだ。もしよかったらまた来てくれよ。毎週、この時間は授業がなくて暇だからさ」

 平林薫は首を横に振った。

「ううん、もう来ないわ。どこかで妹に会っても、私のことは覚えてないで通してね。妹には私と先生の関係について話してないから」

 平林薫はやって来た時と同じように、さっと消えてしまった。消えてしまってから、既視感を覚える。いつだったかこの感情を僕は味わったことがある。

 その時になってようやく、彼女が本当に平林薫だったのだという実感を得る。

 僕はまた取り残される。なぁ、南美。こんな僕を助けてくれないか。

 

     *

 

 午前中は激しい雨が降っていたが、昼休みを過ぎた辺りで急に雲は散り々りになって、後には素っ気ない太陽の光と力を持て余したような風が勢いよく吹いているだけになった。太陽が傾き、校庭は深い紫色に染められた。ゆかりの色だ、と漠然と思う。

 心地の良い夕暮に唆されて、僕は珍しく残業もせずにそのまま家に帰ることにした。帰りがけにスーパーに寄って、498円の弁当とナッツの詰め合わせ、それから濃い味のしそうなスナック菓子を買う。片手にスーパーのビニール袋とビジネスバッグを提げ、空いた方の手でアパートの鍵を開ける。暗い部屋。辺りはすっかり暗くなっていたが、網膜にはほんのりと郷愁的な夕闇が未だにこびりついていた。

 少しくたびれて劣化してきたスーツをハンガーにかけ、台所で顔と手を洗い、流れ作業的にうがいもする。誰だったか、当時僕と関係のあった女の子に「うがいくらいしなよ」と言われたのが、未だに抜けない。

 レンジで弁当を温めて、面白くもないテレビを見ながら、美味しくもない弁当を腹に放り込む。食べ終わると、ビニール袋の中に弁当のプラスチックケースをそのまま放り込み、口を縛って部屋の隅に投げ飛ばす。二つ、三つそのようにして放置されたビニール袋が転がっている。そのゴミ袋らにも、それらを放置する自分にも嫌気がさすが、だからと言ってどうこうするほどのことでもない。こんな些細な嫌気で行動が起こせるなら、僕はきっともうとっくに死んでいるだろう。ときどき死ぬことすら面倒だと思うことがある。死ぬ勇気がないだけなんじゃないか。はい、まったくその通り。いや、でも実際に面倒なんです。僕の思考はずるずると死なない言い訳を並べることで、何かの使命を果たそうとしているように感じられる。

 そうやって掃き溜めみたいな思考に付き合うのもそのうち嫌になってくる。部屋の隅に転がるビニール袋。垢だらけの風呂の浴槽。無限に続く青い遊泳。無限に続く薄暮の砂漠。塩辛い水と、乾きの砂が喉を圧迫して、呼吸をすることに疲労感さえ感じるようになる。

 ふと天井を見上げ、意外と天井には影が多いのだな、と思う。

 目を閉じると、また感傷的な夕景。どこにも連れていかないが、追いかけることを求める不可思議な感傷性。どうして人間はそんなものを感じるようにできているのだろう。一切皆苦とはよく言ったものだ。

 クスリをやるならヘロインだろうな、と僕はつくづく思う。テレビや映画でしか見たことが無いが、覚醒剤やコカインなどよりも、僕には断然ヘロインが合っているような気がする。何となく。でも、ヘロインなんて手元にあるはずもないから、僕はとりあえずウイスキーを飲む。買ってきたナッツとスナック菓子をあてに、とりあえずウイスキー。だらだらとテレビを見ながら、ナッツを口に放り込み、ソーダで割ったウイスキーを飲む。スナック菓子を口に放り込み、ソーダで割ったウイスキーを飲む。少しずつ、ウイスキーに対するソーダの割合を減らしていく。今の自分に一番適した割合を探し求めながら、薄い、濃い、の間を揺らめいているだけで随分と楽しめるものだ。まるで浮き輪に身体を預け、海の波に揺られているような気持ち。不安も嫌悪感も、悲しみもない。何もない。火星の空は引き伸ばされたゴム風船みたいな薄い水色だ。ところどころゴムの伸縮率が異なる部分があって、微妙に色の濃いところと薄いところがある。色の薄いところは雲に見えた。鳥が飛んでいく。空の青にも海の青にも染まらずに。そんな詩があったように思う。けれど、鳥が遠ざかってただの染みになっていくと、その詩の所在も一緒に遠ざかっていき、魔法みたいに消えてしまった。誰の言葉だとか、誰の所有物だとか、そんなことに何の意味があるのだろう。すべてのものの境界線は本来ないはずなのだ。不確定性原理の及ぶスケールの中で生きていくことが出来れば、と僕は思う。ただの確率波として空間に広がっているだけの自分を想像してみる。なかなか悪くない心地がした。しかし、それにしても科学というものは不思議だ。なぜスケールによってそれを支配する原理が異なるのだろう。僕のように神を信じ、崇め奉る人間が求める、自然で因数分解可能な世界観からしたら、スケールごとに異なる物理法則が存在しているということはやや信じ難い。もしや人間というスケールから物事を見ているからこそ、そのような論法に帰結してしまうだけで、神の視点から世界を見下ろせば、本来スケールなんてものはないのかもしれない。しかしながら、その一方で世界が細やかではあるがシンプルな最小単位の組合せで成立しているという世界観もまた、自然で因数分解可能な世界観という気もする。そう考えると、スケールというものの存在は大きな意味を持ってくるだろう。ほら、すでに僕の中にもそのような矛盾が生まれている。現代物理はその矛盾の解決に指先をかけたらしいが、難しいことはよくわからない。いつの間にか、僕の手の届かないところに新しい世界は作られつつあるようだ。そう思うと、僕は自らを自らの理解可能な凡庸の世界に閉じ込めるよりほかない。僕はただ時を手繰り寄せ、それを後ろに進める。時というのはまるで紐のようなもので、二次元的な数直線を僕に思わせる。相対論的に言わせてもらえば、時の軸、数直線があって、その上を僕が移動しているのか、それとも止まっている僕の足元で時の軸がどんどんと流れて後ろに通り過ぎているのか、その判別をする必要はない。というか、そもそも判別をすることは不可能で、意味のないことだろう。それが相対論だ。そして、そんな紐のような時間の流れにはときどき結び目があり、僕はその結び目がやって来ると、そこを掴み、強く握ってみる。離れないように強く握っているのに、どうしてもその結び目はある程度の時間が経つと、後方へと消え去ってしまう。摩擦で手を痛めるだけだ。だから、結び目が来たら、ただその表面を手でなぞり、その感触を楽しめばいい。楽しみ終わったら、多少名残惜しくとも素直に手を放し、それが消え去っていくのを見送ってやる。表皮数ミクロンの僕の手の細胞を削り取っただけで、その結び目は綺麗に消えていってくれる。夜明けに星が太陽の光でさっと消えていくように。僕らは近づいて、そして遠ざかっていく。それはまるで寄せては返す波のようでもある。波と言うと、どこか同一のものが近づいて、遠ざかってを繰り返しているように見えるけれど、物理的に言えば、異なるものであってもそれが一定の周期で繰り返されるのであれば、それは波と呼べる。繰り返される結び目は波となり、僕の浮き輪を揺らす。見上げる空が青いのは、海の青を映しているからだと言う。あれ、違ったっけ。まぁ、そんなことはどうでも良い。波、波、波。まるでつまらないダジャレだけれど、僕を揺らし続けるのは、波ではなく南美だ。そうなのだ、僕は南美に揺られ、そして眠る。眠っているうちに幾夜が過ぎているのかもしれないが、目を覚ませばいつだって青い空が広がっている。不気味な白い海の夢を見た後でも、目が覚めれば代わり映えのしない青い海の上。つまり、青い空の下。いつまでこんなことを繰り返しているのだろう。

 目が覚め、僕は白々しい光を投げかけるテレビの電源を落とす。まだ静かだ。僕は身体を斜めに倒し、カーテンの隙間から外の景色を探す。

 まだ暗い。夜か。

 時計を見ると夜中の二時半を少し回ったところだ。身体が痺れてしばらく動けなかったが、おもむろに僕は立ち上がり、水道水をコップに汲んで、二、三杯がぶがぶと飲むと、長い小便をした。小便をしながらあまりに強い疲労感に襲われて、そのまま座り込んでしまおうかと思うけれど、そこら中小便まみれになるのが嫌なので、何とか頑張って耐えてみる。頑張って耐えてみても褒美なんてものはなく、トイレの渦がすべてを飲み込んで、まるで何もなかったかのように透明な水面が僕を見返して来た。唾を吐きかけて、僕はトイレを後にする。

 床に落ちていた上着を拾ってそれを羽織り、サンダルをつっかけると外に出た。真夜中の住宅街には誰もいない。静かに次の朝を待ちわびているのだろう。僕はアパートの裏手にある石造りの長い階段を上っていく。竹林が広がり、一番上まで登ると小さな神社がある。何の神を祀っているのか知らなかった。気にかけたことすらなかった。ペタペタと僕の足音が竹林に響く。幸い水銀灯が煌々と照っていたので、足場を見失うことはなかった。

 社を一瞥し、僕はまるで蛾のように水銀灯の灯りへと引き寄せられる。水銀灯の足元、すぐ横には小さな花壇があって、まだ土が盛られているだけのような感じだったが、ロープが張り巡らされていて侵入者からまだ見ぬ命を守っていた。

 ちょうどいいロープじゃないか。

 僕はそのロープを杭から外し、手に持つ。辺りを見渡して、これまたちょうど良い丈夫そうな木を見つける。そこから先は簡単な運試しだった。うまく登れればそれで終わりだし、うまく登れなかったら帰ってまた続きをやればいい。掴んだ枝は太く、とても頼りがいがあった。腕に力を込め、地面を蹴る。地面を蹴った逆の足を腰骨のように少し尖った箇所に引っかけ、そこを頼りに上へとあがる。次の足を先ほどまで手で掴んでいた枝にかけ、さらに高いところを目指す。良い高さまで来ると、ふっと息を吐いて、誰もいない境内を見渡してみた。これが世界の見納めとなる景色か。あまり実感がわかなかった。

 ゆかり。悪いな。

 僕は花壇を守っていた紐を枝に括り付け、何かの見よう見まねで紐で輪っかを作り、首を通してみた。皮膚が粟立つ感覚がある。少しだけ実感が湧いた。

 南美のことをもう一度考えてみたが、いつものように特にこれと言って思考に着地点はない。しかたなく、僕は溜息を吐いて、木の上から身を投げる。

 ごきっという音が耳に残った。

 

2019.04.11