霏々

音楽や小説など

Black or Pink vol.2

 また時間が空いてしまった。

 

 カリンが僕の家にやって来たその二週間。僕は自分が五歳年上と言うことも忘れて、或いはときには思い出して、カリンと一緒になって遊んでいた。僕がゲームをしている様子を面白そうに眺めていたり、僕が見せたアニメについてネットで調べるように促して来たり、カリンはいつの間にか僕に纏わりつくようになっていたが、鬱陶しいと思う反面、僕はどこか居心地の良さのようなものを彼女に対して感じていた。カリンが笑うと僕も嬉しくなった。カリンがこの間中学を卒業して少し経ってから送ってくれたメールには、その夏休みの記憶について、やや仔細に語られていた。カリンはなかなか心を開こうとしてくれない僕に対して、最初のうちは積極的に交流していくべきか、それとも一歩離れて様子を窺うべきか、というところで幼心に葛藤していたと言う。世話になる身として、はやく家族に打ち解けるべきか、それとも出しゃばらずにひっそりとしていた方がいいのか、簡単に言えばそういうことだろう。しかし、そもそもカリンに明るく振る舞うな、というのは無理な頼みである。彼女は天性のアイドルなのだ。目の前に人がいたら、好かれようと思わずにはいられないはずだ。こんな言い方は少々強引だけれど、しかし、多少大袈裟に言っておいた方が彼女をより的確に表現できるのではないだろうか。つまり、僕の若干取り乱したような高揚感は彼女の天性がそうさせるのだ、という解釈をしていただくことで。結果的に、僕はカリンに纏わりつかれるくらいになったわけだが、これは僕の脳の中で勝手に記憶の美化が行われた可能性も否めないものの、カリンはいつでも楽しそうに笑っていたように思う。些細な事にも興味を示し、意欲的に物事に関わっていた。カリンはボールの投げ方の他にも、バッタの捕まえ方や、ゲームの雑魚敵の倒し方などを僕に教わり、自分勝手に遊び回る僕に必死でついて来ようとしていた。そして、彼女が言うには、とある金曜日、僕たちは母に連れられてプールへ行った。といっても、僕は何も覚えていない。なので、カリンがメールに書いた文章をそのまま……いや、やはりそのままはやめよう。僕なりに語ることこそが僕とそれから人智を超えた存在から求められていることであると、僕は確信しているのだ。或いは、そう確信したいだけかもしれないが。とにかく、彼女が言うには、その日はとびっきりに暑かったらしい。そのうえ、冷房も壊れていた。たかだか七、八年前だけれど、あの頃は冷房器具なんて壊れるのが当たり前だった。動かないか、動いたところで初老のサラリーマンが日曜日の午睡中に漏らす呻き声のような音を出すくらいのものだ。子供は家じゅうの鉄製の物を探し求め、それを耳の裏の頸動脈に当てたり、一家の冷凍庫が兵糧攻めにあったことを踏まえ、今後何色のアイスでそこを満たし直すか、ということを両親に向かって全力で論説したりして時間を潰すしかない。そんな中で、どうやら暑さのせいで頭の悪いネジが外れたおかげなのか、僕は革製のソファの冷たい所を探して転がり続けながら、「プールに行きたい」という名案をふと零したのだった。カリンもその頃には僕の母親に対して随分と慣れていたから、特に遠慮することもなく「わたしも」と強力な援護射撃をしてくれたらしい。カリンのメールではその援護射撃の能力に関する考察はまったく行われていなかったが、僕が今その場面を想像すると、その威力の凄まじさたるや爆撃機の一種ほどではなかったか、と推測できる。一週間分の父親の晩酌代を犠牲にしてまで、僕の母はカリンの透き通るような笑顔を守りたかったのだろう。結局、僕たちは蒸し暑い車の後部座席の上で、まさに子供らしいプールへの熱い想いを眼球に宿して、早くも頭の中で冷たい水の中に首元まで浸かっていた。平日の昼間だ。と言っても、子供は皆夏休みだし、プールは祭りのような盛況だったと思う。今のように少子化の影響が露骨には表れていない時分だ。今でこそ少子化という問題はえげつない現実味を以って、この国の背中に風邪を引いた時の汗のようにぬめりついているけれど、その時の僕たちは周りの子供たちの屈託のない騒々しさに当てやられて、決して清潔ではないであろうプールの水を時たま胃の中に流し込んでしまったりしながら随分とはしゃぎ回った。ビート板につかまりながら人混みの波間に浮かぶカリンの目を盗み、僕は水中に潜り、水色の世界の中でスローモーションのように踏み出される幾人もの脚を避け、カリンの背後に回る。そして、いま考えれば何と危ないことをしていたんだ、と冷や汗が流れてくるが、僕はカリンの細い足首を掴むと、そのまま水中に引きずり込んだ。ビート板がカタパルトで発射されたように宙に舞い、カリンは水面に叩きつけられる。こうやって文字に起こしてみると、まるでミステリー小説で殺人現場を描写しているみたいだが、実際には、僕は引き摺り落とされたカリンを水の中から抱き上げ、そしてゲラゲラ笑うカリンの顔面に目掛けて、追い打ちをかけるように陽光で煌めく水をかけたりして楽しんだ。こんなふうに、どうやら僕の脳内にもいくつか記憶の断片は残っているようだ。水中の微細な気泡がどこからともなく集まって、小さな泡となり、水面に浮かんでくるみたいにして、色々なことが断片的に集まって、こうして今、色々なイメージが僕の眼前に表出してくる。はたしてこの記憶がどれほど信憑性のあるものなのかはわからないが、それでも、現時点では、こうして僕の目の前にそう言ったイメージが繰り広げられたのだ。この記憶がただの空想であろうとなかろうと、僕の中から生み出されたものには違いない。最も重要な点はそこである。僕らの記憶はゼロとイチから成る電子データなんかではない。どれだけ自信があっても、僕らの記憶はもっと曖昧で、少なからず補正が入っているものだし、それがいかなる場合であっても完全ではないということをきちんと意識さえしていれば、あとは表現の問題に過ぎないのだ、ということが理解できるはずだ。それゆえ、僕らの記憶は単なるデータよりも、何倍もの情報量がある。言うなれば、量子コンピューターのように幾重にも情報が重ね合わされていて、一つの状態を形成している訳だ(結局デジタルな話ではないか、という批判はわざわざ言葉にしていただかなくても結構である)。今しがた僕が書き連ねたエピソードには、おそらくその言葉の意味以上の事実が隠されているはずだが、しかし、それを解き明かすのはみなさんにお任せしよう。残念ながら、僕にはそんな時間は無い。ともかく、気泡が水面で弾ける瞬間を瞬きひとつせずにきちんと観測し、そしてそれを、これまた記憶なんていうものよりもより何倍も不確定性の強い「文字」なんていう情報伝達の媒体者に変換しなければならない。つまり、こんなわけのわからぬことを書いている場合でもないのだ。ほら、こうしている間にも僕の脳内では泡が破裂している。次に蘇って来るのは、タオルの感触である。洗剤の匂いと、太陽の匂い。それがどんなものであるか、つまり、どういう種類の柔軟剤を使っていたか、とか、気温は何度くらいであったか、とか、そういうことをきちんと思い出せるわけではないが、その温かさや心地よさ、というものはいま僕の指が乗っているキーボードの感触よりもより明確に感じることができる。頭の上に乗せたタオルの影から覗く傾いた太陽の光は、プールの飛び込み台の右半面に冷たい影を作り出している。しかし、それは僕の単純なるイメージだろう。今だからこそ思い出せるものであって、その時の僕が目を留めたところではないはずだ。それよりも、僕が実際の記憶として思い出すのは、僕の腕がカリンの小さな頭に置かれている瞬間の映像だ。カリンの頭にもタオルが被さっている。僕のタオルもカリンのタオルも所謂プールタオルというやつで、あの両端にボタンがついており、そしてゴムが通してある、ポンチョのように、或いはロングスカートのように身体を覆うことができるやつだ。今となっては、タオル越しに触るカリンの頭の感触がどういったものであるか、ということは思い出せはしないが、しかし、あのカリンの頭の上に僕の手が重なっていたという事実はきちんと思い出せる。だが、たとえ昔と言えども、いま現在はテレビの向うの人になってしまった彼女の頭の上に自分の手が乗っていたなんて、何だか不思議な感じがするし、夢のようにさえ感じる。言うなれば、幼児の時に母からされたキスを思い出すような感覚だ。事実ではあるが、実感はない。思い出せそうで思い出せず、結局嫌悪感というか羞恥心というか、そういったものに急かされるようにさっさと記憶の墓場に追い返してしまいたくなるような類のものである。いったいカリンの頭の上に手を乗せていた時の僕の気分がどういったものであったか、ということを想像すると僕は少し怖くなる。それこそ、小さい頃に母からキスをされたときに、いったいどういう気持ちだったか、ということを思いだすようなものだ。だが、正直に告白しよう。無論、母の方のケースではない。カリンの方である。どれほどその時の感情を明確に表現できるかはわからないが(そりゃあ、何年も昔のことだもの)、僕という人間の性質を考えれば、およそ誤差の範囲は小さく表現することが可能であるように思う。たとえ中学生というはるか昔のことであっても、その時の僕が、内心の胸の高鳴りを隠すようにできるだけ他意のない爽やかな笑みを意図的に作り出していたことは、まず間違いないと言える。もちろん、前にも言ったように、その時の僕がカリンに対して恋心を抱いていたことを意識してはいなかった、ということは保障する。しかし、そうは言っても、僕が誰かの頭を撫でたりするなんて、自然な事とは言えない。そのことは当時の僕でもきちんと理解できており、だからこそ、僕は「こんなこといつもやっていますが」というような表情を作らなければ無かったのだろう。なんとも愚かしいことだと、今の僕ならきちんと評価することができるが、その当時、僕は一介の中学生と同様に愚かであったし、同時に欲求に従順な子供でもあった。だから、あまり勘違いしてほしくは無いのだが、特にアイドルの処女性について堅固な意見を有する者への配慮として、僕がまだ幼く、今のような肥大した知恵から生ずるどす黒い欲望は持ち合わせていなかった、ということを改めて言っておかねばならぬ。所詮、中学生二年生の気の迷いだ。それにその当時の僕はカリンへの想いが何であるか、なんてことは考えていなかった。ただ何となく可愛らしい妹ができた、くらいの感覚であったと思う。感情や行為というものは、知識や意識によってその性質がより暗いものへと変化するという風に僕は考えているが、そのことをあなた自身の脳でも一度きちんと篩にかけていただきたい。ある程度の同意が得られれば良いのだが……しかし、同意が得られようが得られまいが、とにかく、僕はまだ無垢なる存在の側の領域に身体のほとんどを残していた年齢であったことは主張させていただきたい。僕としても嫌なのだ。僕はアイドルの処女性について厳しい態度を取っている側の人間ではないが、かといって、心の中に渦巻く感情が無いわけでもない。カリンのように美麗な存在がある種の汚染を受けていたというようなことに対して、理屈を抜きにして漠然と「嫌だな」と思っているからこそ、特に僕のような悪鬼の手にカリンが掛かっているとなれば、僕はもうジョッキ一杯分の睡眠薬を胃に流し込み、そのうえで包丁を腹に突き刺して、ビルの屋上から首都高を走るトラック目掛けて飛び降りてやりたくなるのだ。だから、どうかこの文章を読んでいるときに、僕とカリンの身体の物理的な接触があったり、精神的な交流があったりしたからといって、そのことについて問い詰めないでいただきたい。僕は知恵がついて来るにつれて、よりカリンからの距離をとるようになったと感じているし、今では僕からの一方的な感情があるだけだ、というふうに考えてもいる。つまり、カリンは僕に対して、これといった想いなど微塵も覚えてはいないのだ、というふうに考えている。無論、僕とカリンの現実的な関わり合いはある。メールアドレスだって知っているし、家族の都合で時々会ったりすることもある。しかし、だからと言ってなんだというのだ。僕がカリンからのいかなる感情も受け取らない、という脆くはあるが、あるレベルにおいては徹底した意識がある限り、僕とカリンの関係性が一定のラインを超えることは無いのだ。そのことを僕は主張したい。僕はカリンと親しくなろう、というふうには考えてはいない。畏れ多いのである。だから、僕はこの文章を書いていると、とてもすまない気持ちになってくる。誰に対して「すまない」と思っているのかはよくわからない。カリンに対してなのか、アイドル・カリンのファンに対してなのか、はたまた潔白であろうとする僕の深層心理に対してなのか。しかし、僕の文章の迷走ぶりからも察せられるように、僕がこの文章を書くにあたって苦心を強いられていることは間違いないようである。どうか皆さんにもご理解いただきたい。

 さて、どうやら僕はもう一度確認しておかねばならぬようだ。僕がやらねばならぬことは、カリンの半生を著わすこと。それも僕自身の言葉で。今思い直せば、なんとも恐ろしい事であろうか。僕が可能な限り実直にカリンのことを書こうとすれば書こうとするほど、僕とカリンの関係性について、正面切って向かい合わねばならぬ。しかし、何度も言うが、別段僕とカリンの間に大きな関わりがあったわけではない。言うなれば、単なる近所の人間である。近所の人間……なるほど、適切な言葉のようだが、そういった表現の仕方をすると、まるで僕が隣人について執拗な想いを寄せている狂人のように感ぜられてくる。いや、そのことはもちろん間違いではない。僕はある意味で狂っている。ふつうの精神分析医がこの文章を読んだとしたら、僕に二十四時間の監視と、物理的な拘束を依頼するべく警察に一報を入れるかもしれない。だが、待ってくれ。僕は狂ってはいるが、カリンに対して危害を加えるようなことはしない。おぉ、いよいよ、僕の言うことは犯罪者じみてくるが、しかし、しばし待たれよ。もし、あなた方があのヴェニスの商人シャイロックのように無慈悲な人間になりたくなくば(無論、彼は無慈悲な人間の代表ではないのだが、)、今すぐ手に持った携帯電話を自分から半径五メートル以上離れた所に置き、この先のページに目を走らせてほしい。見事弁解して見せましょう。どうかよろしくお願い致す。よし、ではここから華麗なる自己弁論を始めさせていただこうと思う。いいですか、これはただの文字ですよ。僕の心を正確に推し量るためには、ここが僕の自由空間だということをもう一度確認していただきたい。少々、大袈裟に表現した箇所もあるでしょうし、曖昧な感情についてやや明確過ぎるレッテルを貼ったりもしたでしょう。しかし、それは僕の文章表現力の乏しさが原因なのです。あぁ、いくら自分で自由空間を用意しても、その中で僕は上手く飛ぶこともできない。それどころか、重力を消さんとするばかりに、宇宙空間を強く参考にしてしまい、空気は無いし、おかげで圧力も下がり、身体が破裂してしまいそうだ。僕の不潔な肉片を処理させるために、屈強なる人間のみが暮らす別次元から掃除人を召還してみても、その方も残念ながら、ゼロ気圧には耐えられない。肉片は増えるばかりである。さて、お分かりいただけただろうか。華麗な弁論を……なんていう風に言っていた人間が喋ったことがこんなことなのだ。いかに僕の言葉が非実証的で信頼できぬものであるか、ということはお分かりいただけたと思う。ここまで読まれて、まだ僕が何か良からぬことを起こせるほど知能の成熟した人間である、という風に判断できるというのであれば、僕の説得に応じて投げ捨ててくださった携帯電話を労わりながら、イチ、イチ、ゼロと番号を押していただいて構わない。もしかしたら、あなたは犯罪を未然に防いだ一般市民として本当に表彰されるかもしれない。しかし、大抵の人間が僕の知能の低さを笑う為にもう少しお付き合いいただけるのではないか、或いは、ここに書かれていたことのほとんどを「無価値」と判断して、全て忘れ去ってくれるのではないか、と僕は期待している。なので、僕はまた言葉を続ける。そもそも僕が何を話そうとしていたのか、数十分前に書いていた箇所を読み返しながら、僕はまた言葉を書き連ねる。そう、僕はまた脱線した話を正規ルートに戻すために、改行したのだった。しかし、その甲斐はなかったということだろう。何故かはわからないが(いや、本当はわかっている。恐いのだ)、僕はすぐにカリンのことから逃げようとしてしまう。僕は未だに、自分にカリンの話をする資格があるのかわからない。明確に語ろうとすれば、僕は気の狂った犯罪者のようになってしまうし、かといって、曖昧な書き方を許すこともできない。しかし、だからと言って、きちんと書こうとすれば犯罪者めいて見えてしまうのだから、その度に僕は「自分は狂ってない」という弁解を設けざるを得ない。そんな調子では、いつまで経っても話が進まぬ。だから、僕はこれを機に「弁解する」ということをやめようと思う。しかし、いつでも「僕は狂っていないのだ」と叫びたいような気持でこの文章を書いているのだ、ということは念頭に置いておいていただきたい。いや、正直な所、あなたが僕を犯罪者、またはそこまで行かなくとも、犯罪者予備軍第一部隊に属し、そこで番号が腹と背中に大々的に縫い付けられた制服をきちんと身に着け、始終敬礼の姿勢を崩さない優良なる士官だと思っていたとしても、僕にしてみれば全く構わないのだ。問題は、強姦にあった被害者を見るような目で、カリンを見て欲しくないということである。そういう事態は僕としては避けたい。だったら、今すぐ書くのをやめればいいじゃないか、と言う人間もいるかもしれないが、しかし、そうもいかない。何故かと言えば、僕も辛うじて人間であるからだ。書かせてくれよ。そして、広い心で受け止めてほしい。自分勝手で申し訳ないが、未熟さに寛容であることができる人間は尊敬に値する、と僕は思っている。こんな殺伐とした世の中なのだ。尊敬されて悪いこともないだろう。人間の普遍的な欲求に付け込むようだが、そうせざるを得ない状況と言えよう。まったく、自分勝手にこんな状況を引き起こしておいて、よくそんなことが言えるな、という悪態は手紙に書いて送っていただければ、たとえ口にペンを咥えて書いたミミズ文字であろうが、殺害予告めいた新聞の文字の切り抜きを使ったものであろうが、きちんと読み、家の箪笥にしまっておこう。少なくとも引っ越しをするまでは。というわけで(何が「というわけで」なのか全くわからないが、というツッコミを自分で入れてしまいたくなるほど、僕は自分の書いた文章に狼狽しているのだが)、あなた方に、まだ警察に通報するほどではないな、という行動の留保をしていただいたところで、僕はいよいよこの煩わしい話を本題に戻そうと思う。次こそうまくいけば良いが。

 カリンのことは良くわかっている、とは言わない。また、カリンとの接点は希薄であるし、何も語るべきことはない、とも言わない。僕は僕なりの距離感を保ちながらも、カリンのことは常に意識して生きてきた。時には無意識に意識していた、というようなこともある。はて、言葉というものは難しい。無意識に意識、とはいったいどういうことだろうか。僕の残念な思考力では亀や鶴の一生を使ったとしてもその問の答は見つけられそうにないので、きっぱり諦めることにする。さて、カリンとの思い出について、僕はあのプールの日の描写の段階で、訳の分からぬ方向へと飛び出してしまったので、もう一度その辺りへと戻ろうと思う。やや無理矢理な転換だとは自分でも思うが、古いゲームをしている時、画面が不意に不気味なモザイク絵になって固まってしまったときのように、一度電源を切ったうえでまたセーブポイントからのやり直しが行われた、と思っていただければ問題ないだろう。少なくとも僕は問題ないと思いたい。僕はあの描写の中で、カリンに対する想いを織り交ぜたことで失敗したように思うので、ここからはその失敗の反省を生かし、やや冷淡に映るかもしれないが、事実を追って行こうと思う。ともかく、僕はその日、プールから帰る車の中で、カリンと共に眠った。或いは眠らなかった。まぁ、そんなことはどっちでもいいのかもしれない。ただ、はしゃぎ疲れた子供は、大抵、帰りの車の中で眠るものだし、たまには典型的なパターンにもたれかかるのも悪くは無いだろう。家に帰ったところで、僕は友達からゲームを借りる約束をしていたことを思いだした。暑さとプールの楽しさで、すっかり忘れていたのだが、何かの拍子に思い出してしまった。母は夕食の材料を買いに行くと言って出て行った。夏の夕暮れ時特有の物悲しさと、それと同時に一日中祭りのように輝いていた太陽が最後の溜息を柔らかい風に乗せるようにして街の向う側に消えて行き、ほんのりと涼しげな空気に安堵感を覚える、そんな至って普通の、だけれど、まるで印象的な絵画のように脳裏にこびり付いて離れない風景を僕は思い出す。心地よい疲労感に包まれて、ぼんやりとテレビを眺めていた僕の耳にチャイムの音が飛び込んできた。僕は、後をついて来ようとするカリンに「テレビを見ていろ」と指示を出して、それでも警戒を怠ることなく玄関へと急いで行った。細かい金額は思い出せないが、たしか、僕は友達からそのゲームを借りるにあたって、いくらか対価を支払ったような気がする。まぁ、しかし、そんなこともどうでもいいことなのかもしれない。ふと思い出したから書いてみただけだ。それから僕は「早くこのゲームをやりたい」という想いに胸を弾ませていたのだけれど、さすがに今すぐ自分の部屋のテレビを点けてコントローラーを握る訳にもいかない。買い物から帰ってきた母に見つかる訳にもいかなかったし、帰りの遅い僕を心配して短い廊下を渡って来るカリンに見つかる訳にもいかなかったからだ。そして僕は味のしない夕食をかき込み、カリンが夕方に見た例のアニメの話を聞き流し、具合が悪いからと言って自室に籠ると灯りを消して一旦ベッドに入った。一眠りして英気を養ってから、夜中に起き出して、ひっそりと借りたゲームを始めようという魂胆だったのだけれど、案の定、すんなりと眠ることはできなかった。幼稚で可愛らしい期待感に胸が弾んで、被った布団の下で僕はひたすらに時計の針が頂点を過ぎるのを待った。そして、もう皆さん、話のオチは想像できていると思うが、そう、僕はいつのまにやら時間を待つのに疲れてしまい、いつもよりも早い、健康的な生活にうってつけの時刻に深い眠りの中へと彷徨い込んでしまった。僕の体調を心配して覗きに来たカリンがほっと胸を撫で下ろすほどに幸せそうな寝顔を見せながら。結局そのゲームは数日後にカリンと母が買い物に行っている時にこっそりとやってみたのだけれど、あまりにも期待を膨らませ過ぎたためか、実際に画面に映し出してみると大したことがないように感じられてしまい、随分とがっかりとした想いで、カリンが何やら自慢げに僕の皿に盛りつけたカレーを食べて、また健康的な時刻に眠りについた。そんなこんなで、カリンの運命を決定づけるような出来事の裏で、僕は人知れず、いま思えば随分と子供っぽくて可愛らしい浮き沈みを体験していたわけである。それからは気が付かぬうちに次の週の金曜日がやって来て、僕はカリンと例のアニメを見ることになった。僕が一週間前に失ったドキドキを受け継ぐ形で、カリンは終始、幸福そうな表情を浮かべていたけれど、たった三十分の番組が終わると、彼女は僕にネットでそのアニメについて調べるように促してきた。僕は簡単なそのアニメに関する知識を拾い集め、あって無いような物語のあらすじをカリンに説明した。しかし、そんなもので満足ができるはずもない小さな彼女のどこか哀しげな笑顔を見下ろしていた僕は、それが実際は違法行為であると何となくは知っていたものの、他の皆と同じように別段罪悪感も感じぬまま、様々なサイトを彷徨い、一話からきちんとカリンに見せようとちょっとばかしの努力をすることになってしまった。僕はパソコンの妙に白々しい光の前に彼女を座らせ、マウスを軽く操って画面に例のアニメを映し出した。あぁ、そして……どうしてなのだろう。どうして僕という人間はそうなのだろう。せっかく良い流れでスムーズに物語を前に進めることができていたのに……まるで平凡な日常から抜け出すために一駅手前の改札から飛び出して、むしゃくしゃとしながら歩き狂うサラリーマンのように、僕はまた一見、快適そうな道から外れてこんなことを書こうとしているのだろう。わざわざこんなことを言う必要がどこにあるというのだ? まるで生々しい描写をすることで、嘘っぽいリアリティなんてものを表現しようとしている息の臭い連中みたいだ。だけれど、もう僕は口を閉ざすことができない線路の上を走ってしまっている。もしも、こうしてパソコンの前に座るのが今日で無かったら……いや、あと半時間でも違うタイミングであれば、それだけで違う結果になっていただろうに。しかし、残念なことに、僕は今こうしてくだらない一日を少しでも実りあるものに変えるために、寝つけない夜の暑苦しい布団を抜け出して、わざわざパソコンの電源を入れて、こんな文章を書いている。そう、僕は今から何とも愚かしい自分について、恐怖とそれに伴う痛みが齎すであろう自虐的快感を貪るために書かねばならぬ。不必要なほどに長い前置きはもう止めにして僕は描写する。その場面を思い出して。僕はパソコンの前で目を輝かせているカリンの背後にいる。彼女に大きい画面で動画を見せてやるために、マウスの方に手を伸ばす。あぁ、何でこんなことを書かねばならぬのだ? いったい誰がこれを僕に書かせる? 僕は初めはそんな気など無かったはずなのだが、マウスは遠く離れていて、僕はそれを手にするためにややカリンに覆いかぶさるような形にならねばならなかった。身体は……触れてはいなかったと思う。そこはそう信じたい。僕の為にもカリンの為にも。しかし、なんでだろう。どうして今こんなことを思い出せるのかわからないが、僕の心を掻き乱したもの、それは匂いだ。どんな匂いだったかということは明確には思い出せない。しかし、無防備に画面に目を向けている彼女に接近した僕は彼女に不審に思われない程度の積極性を持って、ゆっくりと息を吸い込んだ。その時だったと思うが、僕は明らかに彼女に対する愛情……というか好意を感じていた。無論、そのときはそれが所謂恋だということには気が付いていなかった。それも無理はない。カリンはまだまだ幼すぎたし、僕は僕で同級生の一人におそらくは普遍的で健全な恋心を抱いていたのだから。だが、しかし、今になってみれば、そのどちらもが正しい恋心とは思えぬ。そりゃあ、僕がある時点ではカリンに対して特殊な感情を抱いていたことは事実ではあるが、しかし……いや、やめておこう。「恋の定義ってなんですか」なんて陳腐な詩を書くつもりなどないのだ。そんなものは考えたってわかるはずもないし、それなら僕が考える必要もないだろう。気取った前髪を垂らした、鼻につく声を受けの良さそうな旋律に乗せるのが得意な連中に任せておけばいい。僕があれこれ思い悩むよりも、彼らならより単純な方法で最も効率良く結果を生み出せるだろう。やれやれ、まったくこの世の中には頼りになる人たちがたくさんいる。おかげで僕は僕の問題ときちんと向き合うことができる。そう、僕はきちんと向き合わねばならない。僕はカリンに対して……その、網戸の向う側から騒々しい虫の音が鳴り響いて来る夏の夜……背中の方でテレビを見ながら乾いた笑い声を立てる両親に対してどこか後ろめたさのようなものを感じながら、僕はカリンに対して特別な感情を抱いてしまった。僅かにではあるが、この子に触れられたら、と思った。しかし、思っただけでそういう想いを具現化させるにはいたらなかった。というのも、相も変わらず心は乱されたまま、唾も喉の底に落ちないような感じだったけれど、その当時のパソコンの粗っぽい音声出力の穴から、僕のやましい想いなど塵のように消し去ってくれる、夏の朝日よりも気怠い音楽が流れてきたからだった。何話か見進めるうちに、カリンはその主題歌を気に入るようになっていった。僕と一緒にトランプやら何やらをしているときも口遊んだりしていた。僕としては、その旋律を聞く度に自分のやましい想いにスポットライトを当てられるようで少々心苦しかったが、まぁ、自省なんてものははっきり言って似つかわしくない愚かな人間というのものが僕なので、別段耐えられない、というほどでもなかった。あくまで「少々」なのである。カリンにアニメ動画を見せてやる日が何日か続いて、それから今度はアニメの主題歌が収録されているCDをレンタルショップに借りに行った。家から歩いて十五分くらいだった。何故だか知らないが、僕はそのときのことを微かに覚えている。今しがた僕は「微か」という言葉を使ったけれど、他にはほとんど何も見つけられない記憶の荒涼たる大地の中で、その日のことだけがぼんやりと見えている感じだ。つまり、僕はその唯一の希望のようなものを、乾いた死の砂の中から全身全霊を捧げて掘り起こすことができる。砂まみれのそれを汗の浸みこんだシャツの端で丹念に磨きながら、吹きすさぶ砂嵐に目を細め、それをじっくりと観察することができるのだ。その日は確か休日だったように思う。両親ともきちんと家にいて、父はテレビの前のソファに横たわり転寝を、母はキッチンで夕食の支度をしていた。僕とカリンはそれまでパソコンの前で、例のアニメの主題歌やら何やらを聴いたり、適当に面白そうな動画を見たりしていたのだけれど、そのうちにカリンがもっと良い音質で聴きたい、なんてことを言い出してきた。小学四年生のガキが「音質」なんて気にするなよ、と僕は少し呆れてしまったが、その日は蒸し暑くて一日中ダラダラと過ごしていたし、いい加減そんな生産性の無い時間にも飽き飽きした気分だったから、レンタルショップに行くのも悪くないなと考えて、僕は母からレンタルショップの会員カードと幾ばくかのお金を貰い受けると、カリンを連れて家を出て行った。正確な時間は覚えていないが、街はまるで火に焼かれているかのように全体がオレンジ色に包まれていて、さらにむせ返るような夕立が火山島のような形をした大きな雲から降り注いでいた。僕とカリンはしなびた一つのビニール傘の中に小さく収まり、怒り狂うような雨音が支配する道を十五分かけて歩いて、レンタルショップへと向かった。途中、カリンの腕を引いて大きな水溜りを迂回したり、走り去る車が跳ねていく泥水に驚いたりと何やかやで忙しかったけれど、一日中家の中で寝転がったりしかしていなかったから、自分の足をちゃんと動かしたり、時折吹き付ける突風を感じたりしていると何だか楽しい気分になった。どうやらカリンも同じような気持ちだったらしく、靴の中は風呂上りの足ふきマットよりもびちゃびちゃだったに違いないが、弾むような笑顔を僕の方に向けてくれた。そんな風にしてやっとのことで店に辿り着いたが、その頃には、寝間着のようなみすぼらしい軽装をしていたこともあって、コンクリートで跳ね返る雨を受けた僕たちはすっかり見るに堪えない有様となってしまっていた。店に入り後ろで自動ドアが閉まると雨音はあっという間に消え去り、雨が降っていることを示すものは、僕たちの足元で奏でられる「きゅっきゅ」という水音と、閉じたビニール傘が残していくナメクジの足跡ばかりだった。目当てのCDを探して、流行りの曲がうっすらとかかっている店内を歩いていると、VHSやDVDやCDをぎゅうぎゅうに詰め込んだラック何個分か向うで、高校生らしき男のグループが立てる騒々しい笑い声が聞こえてきた。これまでの傾向から推測するならば、そのことが、僕の不甲斐無い記憶能力でもその日の出来事を忘れずにいられた理由だと思われる。もちろん、今まで書いてきたような印象的な風景というものもいくらか作用したのかもしれないが、それらはあくまで付属品であり、もっと言うなら、今の僕が勝手に生み出した幻想のようなものに近いかもしれない。カリンとレンタルショップに行ったことはまず間違いなく事実ではあると思うし、確かに雨も降っていたように思うけれど、じゃあ、それほど美しい風景に嘗ての自分が感銘を受けていたのか、というところは正直怪しい。というか、まずそんなことはないであろう。オレンジ色の街、カリンの屈託のない笑顔、全てを洗い流すような雨音。そういったものは多分、今の僕が過去へ想いを巡らせる途中で拾い集めた綺麗なものを貼り合わせて作り上げた出来合いのものであろう。その中で、その時耳にした高校生の笑い声が僕に齎した情けない感情だけは確かな触り心地を持って僕の中に降ってきた。それも唐突に。僕は幼いカリンと一緒にいることに恥ずかしさを感じていた。傍から見たらカリンはまるで僕の妹のように見えただろうし、僕はきっとそんな妹と仲の良いお利口なお兄ちゃんという見られ方をされたくなかったのだと思う。その時分の僕は「男らしいってのは、ダチと格闘ゲームの技について議論を交わし合ったり、或いは、エロ本に書かれているようなことを他人の目など気にせず喋り散らしたりすることだ」という風に考えていた。家族を顧みたり、お勉強や習い事の心配をする、なんてのは全く以ってカッコの悪いことだ、という風に考えていたのだ。だからこそ、僕は全ての汚れを夕立に洗い流されたみたいにして、ツルツルの笑顔を年下の女の子に向けていたことが、その高校生の笑い声を聞いて急に恥ずかしく思われ、その時の動揺が未だに僕の心を揺さぶるのだ。今となっては、そんな自分勝手な思いで、カリンにやや冷たくしてしまったことが……僕の急な態度の変わりようにびっくりしたカリンの哀しげな表情に、僕はどうしようもない想いになってしまう。いつだって僕は自分本位で生きてきた。恥やら外聞ばかり気にして、誰が見てるわけでもないのに、意識的に少し足を開いて歩いたりするような、どこからどう見ても残念な人間なのだ。が、何もそういったことをしてしまったことに対して、直接的な後悔を感じている訳ではない。もちろん、そういう薄っぺらい「気取り」は思い返すと恥ずかしいし、情けなくもなるけれど、僕が最も問題視していることは、僕の場合、その「気取り」にあまりに多くの時間を割いてしまい、あまりに多くの物事を見過ごしてきてしまったことだ。本当に長い事、僕はそういうくだらないことに気を取られていて、大事なことに目を向ける暇が無かった。カリンがずっと本当の意味において重要であることに目を向けてきたのに対して、僕は自分で作り出した幻影から逃げ遂せる方法ばかり思案してきたように思う。

 本来ならばここで改行を用いることは適当ではないかもしれない。いや、かもしれない、なんてそんな婉曲的な表現を使用することで、自分を正当化する方向へ自らを導いていくのはやめよう。この不自然な改行と話の転換の理由は、あらゆる面において、全て僕の自堕落的な傾向が齎すものであり、もっと具体的にそれらを語れとおっしゃるならば、僕としては正直に全てを打ち明け申すよりほか無いだろう。ともかく、この改行の直接的な理由は、この一段落前の文章をやや中途半端な形で書き終えてから、再び書き始めるのに数か月の時間が空いてしまったということなのである(したがって、僕の二枚どころか四、五枚あるのではないか、と思われる舌がまだ本来の鬱陶しい好調を取り戻すまで、少々の猶予を与えて頂きたい。人間、何事も五十日以上離れてしまっているとある程度の「リハビリ」というものは必要なのだ)。ただ、弁解させていただきたいのだが、二か月の間、僕が本当に綺麗さっぱり頭の中からこの壊滅の途上にある文章のことを忘れていた時間は通算およそ百時間もあるかないか、くらいであろう。百時間という時間が一般的な人々にどれほどの時間の長さを感じさせるのか、僕にはどうにも知りえないが、僕の個人的な印象を述べさせてもらうなら、筆を(正確に言うならば、叩き過ぎで壊れかけのキーボードを)執らなかった後悔と失望で毎日が拷問のように感じられた。というようなことを考えたことも、何度かはあったかもしれない。そう、自分でも情けないのだが、早く続きの言葉を吐きださねば、という焦りはいとも簡単に日常の中に絡め取られ、単に「色々と忙しいから」なんていう情けない理由によって、僕はこの文章を二か月間もほったらかしにしてしまっていたのだ。あなたは疑われるかもしれないが、僕のようなどうしようもないお喋りでも、次に発するべき適切な言葉が見つからないというケースも往々にして存在しているのだ。そういったある種のケースについて、曲がりになりにも、周囲から齎される似非芸術家のインタビューやら何やらからによって知らされ、そしてそれを知識として受け止めてしまっている僕は、別段焦ることも無く、「これが所謂スランプか」なんて気取った文言を頭の中に浮かべてヘラヘラとこの数か月を過ごしてきた。無論、それなりに忙しかったと言えば、忙しかったのだが(普通に馴染むというのは簡単なようで難しく、楽なようで体力がいるのだと、まだ幼い僕はこの数か月で思い知らされた)、本当に一文字も書く余裕は無かったのか、と聞かれると、正直に言ってそんなことは決してなかった。「日常が忙しい」というのは単なる言い訳に過ぎず、きっとこの二か月のブランクの本当の理由は、僕に次に書くべきことが見つけられなかったという情けないものなのだろう。何故ならば、確かに、今は幾分か余裕も出てきたのだが、これから五分後にはある程度の生活費を稼ぐために家を出ねばならぬし、そう考えると、ただ「忙しい」というのは文章が書けないということに対して、なんの言い訳にもならない。というわけで、僕はまたこうして一旦筆を止めることにはなるのだが、またこの生産性の無い文章を書くために自分の時間と記憶と精神と、それからグロテスクな先別れの舌を存分に消費してゆこうと思う。

 そして帰ってきた。が、一日が空いてしまった。しかし、もう御託を並べるつもりは無い。話を先へ進める。僕は数か月前にある描写をした。うだるような夏の夕暮れ。時雨が街を洗い流す中、僕とカリンは安物のビニール傘の中に小さく隠れるようにしてレンタルショップへと歩いて向かった。今思えば、知能まで排泄してしまったのか、というほど残念でありながら、また健全である高校生たちが店内にはいたわけであるが、あの時分の僕にはどこか彼らが逞しく感じられ、自分も彼らに準ずるタフさを纏おうと躍起になり、カリンに冷たい態度を取ってしまった。カリンの寂しげな表情を思い出すと、今でもほんの少し、胸が痛む。そんな僕のどうしようもない虚栄が存分に発揮されてしまったものの、僕とカリンはさっさとお目当ての例のアニメのCD、それから別段見たいわけではなかったけれど、店員と、それからおそらくは僕たちのことなど全く気にかけていなかったであろうが周囲の客たちへのポーズとして(つまり、アニメCDだけを借りに来たオタク、という風な見られ方をされないように)、どんなものだったか全く思い出せないがとりあえず洋画を一本、適当に選んでレジへと持って行った。帰り道もまた焼けるようなオレンジ色の空と、それからバラバラとビニール傘を叩き続ける雨があった。靴の中はぐしょぐしょで、僕の傘からはみ出した右肩もシャツの色が変色してしまうくらい濡れてしまっていた。僕は家を出てきたことを後悔していたけれど、斜め下のカリンの表情は、それは夏の時雨の作用なのだろうか、陳腐な装飾語を用いるくらいならば逆に何も書き表したくなくなるような笑顔があった。それを見て、数分前に自分が犯した失態がどうやら尾を引いていないことを知って安堵したことは言うまでもない。家に戻ると、とりあえずびしょびしょだった僕たちを処理するためのごたごたが一通りあったが、それも終わると、僕はパソコンに借りてきたCDを入れてカリンにそれを聴かせてやった。そんな感じで、カリンはアニメを超え、とあるアイドルへと心を傾けて行った。ここから先のことは詳しくは書かないようにしようと思う。いや、書いても良いのだが、どうも今はそういう気分になれない。あれだけ回り道という回り道を愛して止まなかった自分はこの二カ月の間でどこに消えてしまったのか、それは自分でもよくわからないけれど、しかし、何故だろうか、今の僕はどんどんと先を書き進めてみたいような気分なのである。これを読んでいるあなたがまだそこに存在しているとするならば、たった一ページの間で文章を書いている人間がまるで別人のようになってしまう、という事態は不都合極まりなく、もう読んでいられるか、と怒り狂われるかもしれない。僕としても、この何も書くべきことなど無かった二か月間を僕が過ごしてきたそのままの様相で、どうにかあなたの眼前に綺麗に並べられたら、と思うのだが、どうにもそんなことはできなさそうだ。何故ならば、本当にこの二か月間、何も書くべきことなんてなかったのだから。いや、そもそも自分の今までの人生の中で何か書くべきことがあっただろうか。その答えは、微かな記憶ではあるが、このつらつらと書き申し上げてきた抑揚のない文章の中で既に何度か書き記したように思う。「繰り返し」は酒の席で何度も聞かされる同じ話と同様、嫌悪の対象であろうが、今回に限って言えば、この文章を書いている自分ですらどんなものであったか良く思い出せはしないので、再び、僕の人生において書くべきことはカリンのこと以外にはありえないのである、という先の問いに対する答を披露させて頂ければと思う。そう、だから僕はこの文章を書いているのだった。忘れてしまっていた、この二か月間。さて、こんな風に自己満足的にこの文章の趣旨を思い出したところで、未だ終着点は芥子粒の中の葉緑体ほどに目には見えぬが、きっと見えぬだけで存在はしているのだろう、と浅はかな期待を胸に秘めたまま続きを書いていこうと思う。はてさて、本当にそんなものが存在しているのだろうか。先人たちが同じような場面においてそれでも書き続けた事実を思えばこそ、僕もまた諦めずにいれるわけだが、いい加減に挫けてしまいそうになる。いや、しかし、これは僕の口から発せられた愚劣な言葉たちではあるものの、今さっき思い出した趣旨というものによると、一貫してこの文章はカリンのものである。となれば、ここで僕が書くことをやめようと思ったところで、それで終わったりしないのは目に見えている。雨にも負ければ、風にも負けるであろうし、雪が降れば身体どころか心の芯まで凍りつき、夏の暑さには端から立ち向かう気力も無い、そんな弱きものの体現者である僕もカリンを見習い、強くならねばならぬ。とは言っても、僕の個人的な見解としては、強くあることが人間としてそこまで重要ではないように思う。しかし、そうは言っても、僕がカリンに惹かれる要因のひとつはまず間違いなくカリンのその「強さ」であり、僕が僕を嫌う理由もまた僕の「弱さ」なのである。僕の「弱さ」については、もういくら充分と言っても充分過ぎることは無いくらい充分に、およそ三万八千字(今のコンピューターは便利だ。頼んでもいないのに、僕の愚劣な言葉の数を数え、画面左下に示してくれる)も費やして喋らせて頂いたから、これ以上明確な形で説明させていただく必要はないだろう。ここからはカリンの「強さ」に関する話である。

 先程、「早く先を書き進めたい」というようなことを言ったはずなのに、また幾分か回り道をしてしまったようにも思うが、前置きが長くなっているのは、舌のリハビリが順調に進んでいる証であろう。ようやく体も温まって来たし、先を急ごうと思う。その夏休み以降、また僕とカリンとの接点は希薄になるのだが、旧来の友人である、わが母君とカリンの母君の交友が途絶えるということもなく、しばらくしてカリンが某アイドル事務所のレッスン所に生徒として通うようになったことを我が母君の口より聞いた。僕と母からしたらその時点でそれなりに驚きだったのだが、つまり、あと何度か寝たり起きたりを繰り返していればそのうちにカリンをテレビで見られる日がやって来るのではないか、と浅はかな考えを巡らせてしまったりしたのだが、どうやらアイドルというものはそう簡単になれるものではないらしかった。最初のうちは、我が家の食卓でも各々がまるで評論家になったみたいに、アイドルという職業に関して、本人に向けては決して提出されることのない警告書作成についての会議を繰り広げたりしていたのだが、それから数か月、特に何も変わり映えのあることは起きず、そのうちにカリンがアイドルの卵として一歩踏み出したあの年の秋もほかのどの季節とも同じように抑揚もなく過ぎ去ろうとした。うむ、あくまで「過ぎ去ろうとした」という表現を用いていることに賢いあなたは気づかれただろうが、秋と冬のちょうど境目、(僕はこれまで常々と申し上げているように記憶力が良くないので、これはネットなどから拾ってきた情報にはなるが)十一月の下旬に、そう、何か描写をしたい人間にはもってこいのあの奇抜な赤い衣装を身に纏った例のコスプレイヤーたちが街の通りで怒声を張り上げるあの不可思議極まりないイベントのちょうど一か月前だ。カリンはとある名のあるライブハウスでアイドルファンたちの前に初めてその身を晒した。苦悩する若手ミュージシャンたちの中でもほんの一握りだけの人間が、数年、あるいは十数年という年月をかけてやっと立てるようなステージに、カリンはアイドルを志してからわずか二、三か月という早さで、ほとんど事情も呑み込めていないようなまま、大人たちに連れられて――と僕は推察するわけだが――立つことになった。僕がそのことを母から聞かされた時は、僕もまだ中学生であったし、そんなものなのだろう、とあまり深刻に受け止めてはいなかったのだが、今こうして改めて文字に起こしてみると、これから書き連ねようと思っていたカリンの苦労話も、もしかしたら、所詮恵まれた者の小さな苦悩としか感じられなくなるかもしれないということに気が付いてしまった。もちろん、カリンが人並みの苦労を味わっていることは間違いないが(それでも、こうして文章というような形でカリンのことを紹介する以上、少しでもストーリーに「劇性」というものを与えたい僕としては、「人並み以上の苦労を」と書きたいのではあるが、しかし、過剰な表現は慎むことにしようと思う。そうすることで、僕は初詣に行った後のような慰めの安心感を得るのである)、それでも少なくとも彼女は恵まれていたのだろう。カリンが入ることになったアイドル事務所は他の事務所と比較してもなかなかの大手で、もともと既存のアイドルグループのファンが――「次なる○○がこの中から誕生するかも」というような好奇心からであろう――そのお披露目のライブ会場には集まっていて、カリンのような小学四年生のちびっ子にもスポットライトの光とそれからが温かくも辛辣なる人々の視線が浴びせられた。彼女がわずか小学四年生という幼さで人前に立ち、それからずっと自らを世間に向けてアピールしてきた、という事実は僕にとっては恐怖と嫉妬と自己嫌悪を齎す要因となる。彼女が、まだ本人の満足のいくほどの光量ではないにせよ、まばゆい光の中で笑顔を作って見せている間、僕はずっと何年間も自分で勝手に作り出した存在もしない他人からの視線と直接的な意味においての太陽の光を避けるようにして、ちまちまと生きてきた。法的には成人した今でさえ、僕という人間は、人の前に出れば膝ががくがくと震えるし、この忌々しい先別れの二枚舌も鉛のような鈍く重いものに変質してしまう。額や腋からは致命的な病気を抱えた患者のように冷たい汗がダラダラと流れ、その不吉な汗と一緒にただでさえ貯蔵量の少ない生気までが排泄されてゆき、終いには無様な微笑を湛えたまま身動き一つとれなくなってしまう。人前に出ることに対する恐怖、それからそれを打ち破る、というかむしろ楽しみ、自らの幸福へと変えてしまえるカリンへの嫉妬、そしてそんなカリンと自分とを比較して陥る自己嫌悪。なぜ、僕はかくも弱々しく、何をするにしても臆病で躊躇いがちであり、対するカリンはあんなにも勇敢であるのか。カリンが勇敢であることを伝えるのにまさにうってつけのエピソードはいくつでもある。起承転結に倣ったストーリー仕立てにすれば壮大に語ることもできるかもしれないし、要点をまとめた箇条書き的な報告書とすればよくある美談として片づけることもできるかもしれない。しかし、僕としてはそのどちらの手法もとる気にはなれない。だからこそ、こうしてたらたらと余計な言葉を織り交ぜ、というよりもむしろ、余計な言葉の間にカリンのエピソードを幾つか織り交ぜるような形で話を進めてきた。これを僕以外の人間が読むとするならば、「何をごにょごにょと寂しい独り言をこぼしているのか」と僕に対する憐れみの涙で以って、ものの一分足らずで溺れ死んでしまうかもしれないが、僕としてはどうもこういった形でカリンのことを語るのが最も正確に彼女の姿を捉え、何よりも自分自身に対して公平に彼女を描写できるような気がするのだ。涙や笑い、それからドキドキやハラハラといったものを明朗快活で機知と感性に富んだ好印象な登場人物が幾人か登場するストーリーに織り交ぜて彼女を語れば、より単純かつ深刻に彼女の名をこれを目にした人間に刻むこともできるかもしれない。相関図や年表や印象的な場面を捉えた写真、それからインタビューや関係者の言葉の中から特に刺激的と思われるものを引用して読みやすく簡単な要約を作るならば、明日の我が身の精神衛生のために涙を流したい感動の大喰いたちや、僕のように何かしらの美談に触れることで現在の怠惰な自分を苦しめたいというマゾヒスト、或いはステレオタイプ自己啓発マニアといったような、より多くの人間に読んでもらうこともできるかもしれない。ただ、そういう手法を用いた場合には(無論、どっちにしても僕には技術的に不可能ということは言うまでもない)、僕の中に長い年月をかけて断片的なイメージが堆積して作り上げられてきた「僕の目を通して見たカリン」の像からは離れてしまうことになる。ここで、僕は冒頭の自分の言葉をまた思い出さずにはいられない。僕は一番最初に、自分という薄汚れた被膜の中に梱包された、まだ未完成な、つまり部品段階のカリンの肖像をあなたにお届けしたい、と、そういう風なことを言っていたと思う。その言葉を書いたのは何百世紀も前の(無論、「何百世紀も前」なんて言葉は不適切であると自覚している。ただ、特に意味はないが、せっかく出てきた言葉をバックスペースで消してしまうよりも、こういった意味のない弁解を付け足す方が、今の自分の気分にしっくり来るのである)恐竜の背中でパソコンのキーボードを叩いていた昔のことのように思えるが、この救いがたいほどに行き当たりばったりな僕としては、その最初の言葉を未だ裏切らずに進められている、という今のこの状況がかなり嬉しいことである、という報告を是非ともさせていただきたいのだ。ここでまた脇道だが、「行き当たりばったり」という言葉は僕を端的に表すことができる、良い表現だと思う。いつだったか、おそらく大学の講義をただぼんやりと聞いているのも飽きてしまったときだろう、僕はノートの空いたスペースに、「他人に勧められるまま、何も面白味はないが少なくとも足をただ交互に踏み出す分には快適であるアスファルトで綺麗に舗装された道を歩いてきたが――」というような気取った文言を書き記したことがあるのだが、まさにその通り、僕という人間はあらゆる局面における選択を、かのアインシュタインが生涯認めることが出来なかった例の神とかいう彼氏(この表現はあえて為されたものである、ということを僕は恥ずかしながらも言っておきたい。これもまた気取った思い付きではあるが、過去の僕は「男」の神によって導かれていたというような仮定をとることで、現在の自分の信ずるべきものがその対称的な存在である、という風に思いたいのである。このところ括弧ばかりで大変申し訳ないが、この長々とした括弧の中身は急に降ってきた静かな雨のように、僕の感性をすっかり捉えてしまって離さないのだ。こういう話の流れというものを顧みない計画性の無さが、まさに僕が行き当たりばったりに生きてきたことの証明ではあるわけだが、それはともかく、一旦括弧を閉じよう)……やはり長くなりすぎてしまった。もう一度仕切りなおすことを許していただけるのなら、僕は量子、ひいてはこの世のすべての物質の三次元、いや四次元的な位置を確率的にしか予言できないことに憤りを感じたアインシュタインとは全く異なり、自分の人生設計という普通の感覚を持った人間ならば超重要課題として考えているだろうものを、ほとんど神の投げる賽子に任せて生きてきた。進学先の選択というような重要な局面においても、自販機でどっちのコーヒーを買うかを選択するような比較的どうでもいい局面においても僕は割と賽子を振るのが好きなタイプだ。好きなタイプ、というのはもしかしたら肯定的に響きすぎるかもしれない。僕はこの僕の性質を、他人と話すときはある意味では恰好をつけられる、という点から好いてはいるが、ひとり、自分を見つめ直しながら夜が更けてゆくのに任せているようなときには随分と恥じている。特に、カリンのことを思い出すときには、僕は過去の(と言っても、現在も同じようなものだが)硬い意志を持たぬ僕を一切消し去ってしまいたい衝動に駆られる。もし、暗い路地を自分がぺたぺたと無様に歩いているところに遭遇したら、まず間違いなく、僕は後ろからその自分の背中を蹴りつけ、足元に手ごろな石でも転がっていれば、膝をついて痛みに悶える僕の頭部をそれでかち割ってやるだろう。ただテストが得意だ、とか、ちょっぴり器用な面を見せるときもあるからと言って、人から効率よく賞賛の言葉を引き出してきた愚かな僕は、鏡を見るのが嫌いなタイプではないが、だからといって、写真だとか動画だとかで自分の姿を見ざるを得ないような場合になると、決まって僕は恥ずかしくなり、そしてさらに覆い被さるようにして押し寄せ来る嫌悪感から、その画面の中の自分を殺したくなってくるのが常だ。何がそんなに気に喰わないのか。鏡と自分とを光が往復する間くらいの時間差しかない場合や、こうして文字のような偽りの利く媒体を通して自分を見る場合には耐えられる、というよりもむしろ好んで自分を見ようとするのだが、きっと文明の利器が僕に見せる自分の姿はあまりにも鮮明すぎて、それでいて正確に事実を描き出してしまうが故、僕は救いようのない自分の醜悪な姿に絶望を感じてしまうのだろう。意志も能力も、ましてや純粋さも持たない僕は醜悪そのものだ。夜の窓ガラスに映るぼんやりとした自分のシルエットは、かなり知的に見えたりするものだが、如何せん、そこには願望という合成調味料が過分に含まれており、自然本来の味をご覧あれ、という具合に、良く見慣れた景色の中を得意げに闊歩する哀れな風体の我が身を、日に日に増してゆく解像度が可能にする鮮明な画像なぞで見る段になると、そのありのままの自分の姿は(醜悪な自分の姿に補正をかける、という)自己防衛本能が働いている領域から完全に解き放たれてしまっており、僕が普段から軽蔑する焦点も定まらぬ呆けた面の連中と何一つ変わりはないのだ。ここでまた長い考察のようなものをしてみるわけだが、人間が鏡をのぞき込むとき、基本的に自分の目を見ようと思えば、それは必然的にきちんと自分の目と目を合わせることになる。何を当然のことを言っているのだ、と思われるかもしれないが、このことが僕にとっては重要に感じられるのだ。何も目だけのことを言っているのではない。勿論、やはり自分の足の短さにはややがっかりしてしまうなぁ、というような場合もあるが、しかし、たとえそういう風に思っていても、鏡や街中のショウウィンドウで見る自分の足は、その自分の目でその自分の足を見る瞬間、持てる集中力をもって、可能な限りの恰好をつけることが出来る。育ちすぎた大根のような足だとしても、うまいこと角度をつけたりしてやれば、その時、鏡の中の自分を見つめる自分の目にはそれなりの美的補正を施された足が映ることになるのである。こういったことが、僕にはなかなか恐ろしく感じられる。僕という人間は基本的に自分に自信がなく、特に見知らぬ人の前では全く以って自分に自信がなくなってしまう。それ故の、先に述べたような、膝の震えと青白い微笑と身体の硬直なのであるが、しかし、そういった自信の喪失ばかりでは次第に自分という存在に何も価値が見いだせなくなってゆき、そうなれば人間生きていくのは難しい。どこかで自分を褒め称えてやる時間が必要なのである。無論、他人から賞賛の言葉を得ることは心地よい。後々、簡単なお世辞に浮かれてしまった自分を顧みて死にたくなるようなこともあるが、心地よいものは心地よいので、僕は割と人前で恰好をつけてしまうタイプなのだが、しかし、それと同時に僕は極度の人嫌いでもある。誰とも喋れない、というような感じでもないとは思うのだが、それでも、僕が知っている数少ない人間の交友関係や社交性というものと自分自身のそういうものを比較してみると、自分のはかなり劣っている、という風に見ることができる。簡単に言ってしまえば、褒められるのは好きだが、他人という褒めてくれる存在自体がなかなか好きになれず、僕はひとりでいることが多く、どうしても自分で自分を褒めてやらなければならない、といったことになってしまうのである。そういう場合には、その瞬間、瞬間に恰好をつけられる鏡や、こうして今も書き連ねている全てが自分の思うがまま、といった文章というようなものが効力を発揮する。合成着色料によって彩られた自分の身体は隙がなく、つまりは知的に、そしてしなやかに見えるのだ。だが、本来の自分の姿はそんな理想からははるか遠く、自分を月と勘違いしている足の指の裏の水膨れみたいなものなのだ。では、何故そういった勘違いが起こってしまうのか、と言えば、まさにそれは自分に対して自分が恰好をつけられる余地があるからである。恰好をつけるという言葉を繰り返し使ってきたが、この言葉をもう少し詳しく説明するならば、僕は人の知性や信念といったものは瞳に宿る、という風に考えている、ということを先に言っておかねばなるまい。僕が「恰好良い」すなわち、素敵だと思える人物の条件にはどうしても知性や信念を有しているといったことが含まれてくる。そして、それらを判断するのに最も適切なものは「目」である。何度も言うようだが、知性や信念は瞳に宿る、と僕は思う。だから、電車の中で虚ろな目をして携帯端末をいじる人間を見ると時折嫌悪感を感じるし、その度に、自分はそうなるまい、と向かいの窓に向かって眉を顰めて何か重要なことを思案しているようなフリをして恰好をつけたりしてみるのだ。そして、既に述べたように鏡で見る自分の目というものは常に焦点が定まっているように見えるものだし、そうなると、自分には知性も信念もある、という風に錯覚するようになってしまう。そして、鏡などではなく、きちんと客観性と正確性を持った媒体を通して自分を顧みるときに、自分の呆けたような容貌を目にして絶望の淵に追い込まれてしまうのだ。

 はてさて、かなり長いことペラペラと紙面上において自分の思索の風呂敷を広げていたようだが、自分は何について書いていたのだったか。カリンのこと、ということくらいは覚えているが、それより細かいところが思い出せない。というわけで、一旦、カーソルの位置を戻して来ようと思う。では、また後ほど………………というわけで、恥ずかしながら帰って参りました。自分で読んでみてもいったい何が書かれているのか判然としないが、およそ数時間前の自分が喋りたかったことは、自分がいかに行き当たりばったりに生きてきていて、そして、そんな自分の姿は鏡などの自分に都合の良い媒体を用いずに見定めた場合、かなり醜悪に見えるだろう、ということであり、そこから最終的に導き出されるべきことは、そんな僕とは打って変わって、カリンがいかに清き心を持った人物であるか、ということになろう。僕がひとり自分の吐き出した言葉の洪水の中でもがき苦しんでいる間に、だいぶ夜も深まり、窓の外では世界の寝る者たちを夢の中に包んで逃がさない長い雨が降り始めた。今ひとたび、僕は言葉の洪水から抜け出した後の身体の「温暖」と「乾燥」を、音楽とちょっとしたテレビ画面の中の与太話を肴にして、楽しんできたわけだが、こうしてまた冷たくてそれで以ってベタベタしている水の中に短い脚を浸からせていくと、溜息が溢れるどうしようもなさに夢も覚めるような思いが胸を締め付ける反面、ここが自分のいるべき場所である、というような実感を得ているわけである。軽い眠気も僕の脳を蝕んできているが、こんなそわそわとした気持ちのまま布団に潜り込んだところで眠れるはずもない。まだ書けるし、いま書かねばならない。僕は先程の数時間で、決して帰結することのない思索を随分と節操もないはしたなさでもって披露させて頂いたが、僅かな休息を挟んで、僕の脳味噌もある程度はその論理性を取り戻したようなので、いよいよ先刻の苦し紛れの文字数稼ぎに対して価値を与える言葉たちを書いていこうと思う。ややこじ付け気味になってはしまうが、そこは耐えられよ。或いは読み飛ばせ。

 結局のところ僕が言いたかったのは、自分という存在がいかに醜いか、ということである。とは言っても、先程から言い続けているように、僕は僕自身のことをこれまた異常に好いているので、だからこそ、そんな想いを持ったまま「自分は醜い」なんてことを言ったって説得力がないのではないか、と自分なりに考えた結果、ああいった「鏡のたとえ」を持ち出してみたのだ。つまりは、人間なら誰しも自らを好いてしまうような傾向があることは仕方ないが、特に僕のような常にひとりで情けない生命活動をしているような人間ならばより一層その傾向は強まってしまい、それ故、きちんと自分の醜さを正しい尺度でもって客観的に見られる場合には(そのケースとしては、先に述べた、暗い路地の例や画像や映像の例がわかりやすいのではないか)、とてつもない失望が僕自身を襲うことになるということである。では、僕のその醜さはいったいどこからやって来るのか。その答えが、僕の「賽子好き」となる。結局僕は極度の遠視みたいなもので、それどころか幻覚症状も持ち合わせているので、遠い先、つまりは陳腐な表現で「目標」というものが何一つ見えておらず、さらには間近にある現実さえ幻覚によって殆ど見ることができていない、といった状況でずっと生きてきていた。それは知性や信念の欠如として、僕の瞳に宿り、鏡を見ている分には気づかないけれども、可能な限りの方法で自分を客観的に見た場合には恐ろしいほどに自分が間の抜けた様相を呈して見えるわけである。いったい僕は今まで何をしていたのだろう。本当に生きていたのだろうか。今の自分が、所謂「覚者」、つまり目を開いた人、として瞬きを繰り返しているという風には思わないが、しかし、そういう風に自分の愚かさに気が付けたという点からは、僕自身に何かしらの変化があった、ということを推察できる。いや、もしかしたらこんな謙虚な言い方はしなくてもいいのかもしれない。そう、確かに僕は、恥ずかしながらこの言葉を使わせていただくが、「成長した」のである。それは飛躍的な成長ではないかもしれない。ただ、僕がこうしてカリンの物語を書こうと一歩を踏み出した時点で僕は以前とは全く違うステージに立つことになったのである。それまでは、僕にとってカリンという存在は羨望の対象であり、自分の愚かさを僕に知らせてくる、今まで使った例に倣って言葉を選ぶなら、つまりはカメラなどの電子製品のようなものに過ぎなかった。それから、仄かな、そう呼ぶことすら適当であるか首を傾げずにはいられないような恋心を向ける対象。実際、それは恋と呼ぶにはあまりにも実のないもので、幼少期をともに過ごした異性の相手に向けるべきやや特殊な親近感とそのままの言葉で称した方が良いだろう。ここで「恋」なぞ、という不確定要素を持ち込むとまた話が飛んで行ってしまうので、この桜色の感情はきっぱり脇に置いておくことにする。話を戻せば、カリンは僕にとっては鏡ではない。僕が彷徨い歩く夜道にぼんやりと浮かび上がる僕自身の背中。その醜き、憎き背中を浮かび上がらせるのがカリンという街灯なのだ。こんな風に書けば、僕がカリンを恨んでいるように聞こえてしまうかもしれない。或いは、本当に恨んでいるというようなそんな劇的な展開を思い切って選び取ってしまうのも面白いかもしれないが、残念ながら、僕はカリンに対して、嫉妬や羨望といった感情を抱きこそすれ、だからといってカリンが憎くなったりすることは全くない。先程、桜色の感情は脇に置いた、と明記したからこそ、この言葉を堂々と使うわけだが、僕は彼女を心底愛しているのだ。そして目尻から涙が零れ落ちるほどに(この比喩は不適当である)尊敬している。カリンはアイドルの卵として道を歩き始めてから、僕が可能性という選択肢を両手一杯に抱えたまま身動きが取れなくなっている間に、自分の可能性を一つに絞り込み、その道を真っ直ぐ進んでいった。それは僕が持ちえない、限りなく勇猛果敢な信念が彼女にはあったからであろう。カリンはとにかく自分が大好きな、最も輝いていると思われる「最高のアイドルになりたい」という、他人が聞けばそれは「仮面ライダーになりたい」とか「ポケモンマスターになりたい」といった類の幼稚な実現のラインが不明確な夢を描いている。けれど、僕は思うのだが、「最高のアイドルになりたい」という彼女の夢は、ピアノの演奏者が「最高の演奏をしたい」とか、将棋指しが「最高の対局をしたい」とか、サッカー選手が「最高のプレーをしたい」とか、そういったものと何一つ変わらないのではないか。これもまた陳腐な表現にはなるが、「ただ好きだから」とか「ただ楽しみたい」とか、そういった延長線上に限りなく崇高なる夢が生まれてくるわけであって、そのためなら例の交差点で悪魔に魂を売ったって構わない、と考えるようなそういった意志の強さはその輝かしい夢の達成を願うからこそ、人に付与されるものではないだろうか。