霏々

音楽や小説など

ライ麦畑の風 vol. 4

水奈が手を振り去っていく。彼女が道の角を曲がって姿が見えなくなったとき、私の後ろにはそっと上原先生が立っていた。

「ありがとう。ここまで連れて来てくれて助かりました」上原先生は赤くなった目をいつものように細めて言った。私は「いえ」とだけ答える。

「それから、悪いんですが、このことはできればほかの人には秘密にしてもらえますか?」

「はい。もちろん。水奈はもう私の友達ですし」

 私の言葉を聞いて、上原先生は少し驚いたような表情をした。それから「私と彼女がどういう関係か、彼女から聞きましたか?」と問うてくる。

「いえ。でも、見ていればわかります。水奈は先生の……」

「そうです。娘です。私が大学一年生のときにできた子です」

 上原先生は凛とした声音でそう言い放った。かなりの想いがそこにはあったのだろう。そう言った後で彼は長い溜息を零した。

「でも、すぐにあの子は母親と一緒に彼女の故郷の大阪に行ってしまいました。私だけが東京の大学に残されて、そして、それからずっと連絡を取っていなかったんです」

「どうして、そんな……」

「親御さんが厳しい方だったんです。もちろんそんなことがあの子を捨てた理由にはならないとわかっています。でも、私は弱い人間ですから、どうすることもできませんでした。全てを忘れて、独りで生きていくことしか私にはできなかったんです」

「大人になって、働いてからは探そうと思わなかったんですか?」

 私はどうしてそんなことを口にしているのかわからなかった。単純な疑問なのか、好奇心なのか、それとも怒っているのか。でも怒っているとしたら、私はどういう理由で怒っているのだろう。好きだと思っていた人に実は自分と同じ年の娘がいたからか。それとも、まだ数十分前に会ったばかりの水奈に同情しているからなのか。それとも……。

「わかりません。探そうと思っていた気もするし、探すまいと思っていた気もします。とにかく私は途方に暮れてずって逃げていたんです。でも、完全に逃げ切ることもできず、私はいつか彼女たちともう一度暮らす可能性を捨てきれないまま、自分はずっと独りで生きていこうと考えていました。いつか再会することがあったら、そのときこそ私は自分の人生を彼女たちに捧げることができるように」

 上原先生の言い分は聞いていて気持ちの良いものでは決してなかった。卑怯な自己肯定。私にはそういうふうにも感じられた。しかし、だからと言って、私には彼を糾弾するほどの確固たる倫理観なんてものはなかったし、ましてや自分が彼を非難できるほど素晴らしい人間だとは思えなかった。

私だって様々なことから逃げている。

そして、独りで生きていこうという覚悟を決めていた分だけ、上原先生は私よりもずいぶんとマシなような気がした。

「こんな人間が教師をやっていては問題がありますよね」

「そんな……」私はどう答えていいかわからなくなる。

「私はどこかで自分の実の子供を育てられなかった罪滅ぼしをしようとしていたのかもしれませんね。教師になることを考えた当時は、ほとんど何も考えていなかったように思いますが、いま思えば私はきっと父親としての責任の代償を教師という職に求めていたんだという気がします。さっき娘の水奈に、なぜ教師になんてなったのかと問われてやっと気がつきました。私は教師としても人間としても最低ですが、今日のことでようやく少しはまともに生きていくことができる気がします」

 上原先生はまるで信頼している友人に話しかけるように言葉を紡いだ。一介の女子高生がこんな大人の告白を聞いてしまって良いのかわからなかったけれど、それでも彼はいま、自らの心の内を誰かに打ち明けることが必要なように見えた。

 そして私は今ではほとんど緊張することなく上原先生と話せている自分がいることに気がつく。自分でも驚いたが、今ではもう彼に対して感じていた熱い恋心のようなものが消え失せていた。透き通る秋の空に女心は溶けていってしまったみたいだった。

「水奈とはまた会うんですか?」

「あの子がそれを望むのであれば」上原先生は簡潔にそう答える。

「私も水奈と連絡先を交換したんです。たぶん、大学生になるまではなかなか会えないと思うけど、いつかまた会おうと思っています」

「そうですか。ぜひお願いします。こんなことを言える立場ではないのかもしれませんが、きっと二人は良い友達になれると思います」

 

 それから私たちは並んでもと来た道を帰った。今度は左手に浮見堂を見ながら歩いた。

 ほんの数十分のことだったけれど、私はとても長い旅に出ていたような気分になっていた。お手洗いから出て来たところに、見知らぬ女の子から急に話しかけられたのが何日も前のことのように思える。

「先生。実は私、先生のことが好きだったんです」

 池の脇を歩いているとき、私は自然とそう口から零していた。上原先生は今日何度目かの驚いた表情を見せた。でも、どうやら今回の驚きは順位的にはあまりいい成績が残せていないようだった。

「先生は覚えていないかもしれませんが、半年くらい前に私の提出したノートが帰ってこなかったことがあって――」

「あぁ。覚えてますよ。たしか私が間違って別の書類の間に挟んでいてしまって……」

「そうです。あのとき先生を呼び留めた廊下で、先生にじっと見つめられて……なんかそれがきっかけで先生のことを好きになってしまっていたんです」

「あのときの……そうでしたか。それは申し訳ありませんでした」

上原先生は苦笑いを浮かべて小さく頭を下げた。「先生、覚えてるんですか?」私は驚いて聞き返してしまう。

「えぇ。実はあのとき、ふとあなたの中に娘を見た気がしたんです」

 なるほど。それであのとき上原先生は私のことをじっと見つめていたのか。

「でも、その勘は正しかったみたいですね」上原先生は独り言みたいにそう言った。

「どういうことですか?」私は尋ねる。

「成長した娘に会うのは今日はじめてでしたが、あなたによく似ていると思ったんです。背格好も同じくらいでしたし、何というか持っている雰囲気がとても似ていました」

 私と水奈が似ている……のだろうか。自分ではよくわからない。けれど……。

「たしかに、そうなのかもしれないです。先生もさっき言ってくれてましたけど、私、なんとなく水奈とは良い友達になれる気がするんです。今まで私はあんまり人と馴染むことができなかったんですけど、水奈とは今日はじめて会ったのに、なんかしっくり来るっていうか、素直に心地いいな、あったかいなと思えたんです」

「月並みな言葉ですけど、運命だったのかもしれませんね、色々と」

「いろいろ、と」私は意味もなく上原先生の言葉尻を反復する。それからなんか面白くなって、「たしかに」と笑った。

 

 修学旅行の帰りの新幹線の中。私は飛び去って行く景色を見るともなく眺めながら、スマートフォンを握りしめていた。隣では優菜がぐっすりと眠っている。

 水奈からの返信を待っている間、私は上原先生について考えていた。

上原先生はこれからどうしていくのか。彼は、水奈を捨ててから独りで生きていくと決めたと言っていたけれど、今のところ水無瀬先生とはいったいどういう関係にあるのか。私が勘違いしていただけなのか、それとも彼が簡単な嘘をついただけなのか。

けれど、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。それよりも、上原先生は大学一年生の時、その当時付き合っていた彼女に子供が出来たと知ったときどんな気分だったのだろう。奈良公園の自由時間の時に、水無瀬先生や白崎ちゃんが話していた中絶だかなんだかの話がふと思い出される。上原先生も中絶だかなんだかについて、一通り悩みはしたのだろうか。今の私にはまったく想像のできない話だった。

 私はもう上原先生のことが好きではなかった。いや、正確には「異性としての好き」ではなくなった、だ。友達の親として、学校の先生として、一人の人間として、少しずつ好きで、そして少しずつ嫌いだった。上原先生のやってきたことは正しいことなのか、反対に間違ったことなのか全くわからない。そして、その一連の出来事が作り上げた、水奈も含めた私たち三人の現在の相関図はもはや形という形を成していなかった。そういった人間関係のことを考えると私はいつものように、いや、今回に限ってはいつも以上に頭が痛くなった。

 スマートフォンが震える。

 うち、そっちの大学受けるつもりやねん。

私は通知画面に現れたそれだけを読むと、そっと鞄にしまい込んだ。窓の外は静かな藍色に染まっている。夜が始まろうとしている景色の中で、瞼の裏にはまだあの時の金色の木漏れ日がちらついていた。

 

2017.6