霏々

音楽や小説など

水流 vol.3

     *

 

 また日野と映画を見に行った。

 僕は犬小屋程度の広さの湯船に浸かりながら、ストーリーを反芻する。

 

 主人公は三十手前の男だった。田舎から大学進学をきっかけに上京したが、つまらない失恋が原因でほとんど引き籠り状態となってしまう。そのまま大学を中退して、彼は晴れてフリーターというやつになった。僕が教えてきたかつての生徒の中にも、そういった人間が幾らかは含まれているのだろうと思うと、僕は何となく彼に同情してやりたいような気持になった。しかしながら僕はフリーターではないし、彼の哀しみなどわかり得るはずもなかった。

 ストーリーは非常にありきたりだ。「ありきたり」という言葉の修飾語として「非常に」という言葉が正確かはわからないが。

 彼はそのとき、スーパーの清掃員をしていた。スーパーの閉店時間が来てから彼は清掃の仕事を始める。彼は一先ず溜まったゴミを店舗の裏手にあるゴミ収集所まで持っていくが、そこで非日常的光景を目にする。

 スーツ姿の男が女を強姦していた。

 男は品の良い仕立てのスーツを着て、香水の甘い夢の香りが十メートル近く離れた主人公のところにまで漂ってきていた。夜になって伸びた髭ですら色気があった。対する女は髪が長く、それはほんのりと茶色に染められている。現代的な企業風土を持った会社に勤めるOLであることが服装や化粧から見て取れた。名もない、ほとんどエキストラみたいな二人がその役を演じていた。

 主人公はコンクリート柱の影に隠れて、その一部始終を放心したような面持ちで見ていた。カットが何度も切り替わり、そして残像をのこしながら揺れるようなカメラワーク。演技が良いのか、編集が良いのか判断しかねるが、その強姦の場面は退屈なストーリーにあって、唯一印象的であった。最初はスーツの男に対して拒絶の意志を見せていた女であったが、その男の不可思議な能力によって、次第に女は男に身体を許していく。多重録音されたような女の叫び声と喘ぎ声の演出も相まって、強姦という行為を否定しているにもかかわらず、女の避け得ぬ興奮が画面越しに伝わって来る。「堕ちていく」という言葉が似合う、良いシーンだった。

 僕はその後も、その名もない二人が再び画面に現れることを待ち望んでいたが、ストーリーはフリーターの男を主軸に据えて、まったく期待外れの方向へと進んで行った。

 フリーターはその出来事を機に自らも強姦魔となっていく。何人かの女を犯し、そしてテレビでもニュースになった。似顔絵が公開された。しかし、強姦というデリケートな犯罪においてはなかなか被害者が名乗り出ることはなく、連続レイプ事件と銘打ちながらも報道に出てくる被害者がたった三人ということもあって、すぐにテレビや新聞からもその事件は姿を消していった。そのとき、フリーターはすでに二十人弱の女を襲っていた。

 フリーターの男とは別の軸で警察の捜査の描写もあったが、正直これは蛇足と言わざるを得なかった。この手の特定の行動に執着する癖のある人物を主人公に据える場合、映画を退屈にしないために別軸のストーリーが必要なのだ。求められるフィルムの時間もおよそ決められている。犯人の人物像や行動パターンをプロファイリングする場面は、例のスーパー裏の強姦事件の雰囲気をかき消すようで、僕は残念でならなかった。

 話を戻すが、フリーターの主人公は最後に大学時代に自分を振った女を襲うが、当然顔見知りの犯行であるからすぐに警察に通報され、フリーターは捕まる。おそらく、その最後の犯行の場面が「念願叶ったり」という感じで一番の盛り上がりを見せる場面にしたかったのだろうが、正直僕はあまり心動かされなかった。演出に力が入り過ぎていたのか、単に演技が下手だったのか判断しかねるが。

 映画の最後のカットは、法廷で満足気に口角を持ち上げるフリーターの口元のアップだった。

 日野は映画を観終わった後、「自尊心と客観性というのは実は相容れないものなのかもしれない」という感想を言った。僕は「客観性の傾向が強い自尊心のことを虚栄心と呼ぶんだ」と返したが、内心ではこの映画の一番のポイントは別のところにあると思っていた。つまり、「フィクションであっても、そこに本物の自然な心の動きがあれば、何か確かな感触を残していく」ということだった。僕はあの名もない二人の演者が、映画の撮影にも関わらず自然な興奮を味わっていたのだと信じて疑わない。撮影で初めて会う二人が次第に身体を許していくその心の動きは、意外と映画のあの場面と合致していたのかもしれない。二人とも脇役ということで、「くだらない映画だけど、せっかくだし楽しんでこよう」みたいな算段もあっただろう。そんな二人の自然な情念が制作者たちを魅了し、期せずしてあの場面を生んだに違いない。

 僕はその感想を抱えたまま、例によって帰り道の車を運転していた。やはりハンドルを持つ手は死の誘惑に晒されたけれど、それでもやはりいつものように僕は死なない。この現実に何か未練でもあるのかと自分でも不思議なのだけれど、この自問に対する答えはずっと得られない。

 解けない問題もある。

 情けないことに僕は最近、そんなことを考えるようになってきていた。歳のせいだろうか?

 

     *

 

 夏休みの水族館は混んでいた。四、五歳の子供と母親のセットが目立った。僕と南美のようにデートをしている若者も多かったが、どちらかと言えば、水族館の中はテーマパーク的喧騒に包まれていた。

 南美はカラフルな熱帯魚の水槽の前で立ち止まり、沖縄の海に思いを馳せていた。来年、彼女の学校は修学旅行で沖縄に行くらしい。私、沖縄って行ったことがないから。と、南美は言ったが、どこから仕入れて来たのか沖縄の情報について僕に色々と教えてくれた。四月にはもう海に入れるんだよ、とか、豚足ってコラーゲンが多いからお肌に良いんだって、とか。下らないテレビ番組から流れて来る情報と違って、南美が喋るとどんな話も煌めいて見えた。というか、僕は彼女の話の内容なんてほとんど聞いていなかったように思う。彼女の目頭から目尻の長さが何センチかということと同じくらい、彼女の話の中身には興味が無く、僕はただ彼女の笑顔を観て、彼女の声を聴いていた。

 幸福な時間という自覚がある。あまりに臭い言葉になるが、僕は彼女と出会って、人間というものがおおよそ不幸なのだということを知った。

 そして、僕はいずれ不幸になるのだと知る。南美といつまでもいられるわけがない。あと、どれくらい? そして、その後に続く時間はどのくらい? もし人間の幸福度を数値化することができるのだとしたら、その二つの時間の比率で決められるのではないかと思う。

 僕は南美について考えると、どうも自己陶酔型の詩人のようになってしまうようだった。

 恥ずかしげもなく。

 例えば、美しい絵画を観る。エドヴァルド・ムンクの太陽。何かが僕を貫く。突き刺さった刃は冬の風にカタカタと震え、僕の上気した血液をひんやりと癒す。南美が下唇を噛むとそんな心持になった。

 例えば、柔らかい音楽を聴く。シューベルトピアノソナタ第16番。恒常的な冷たさに沈む僕の心の沼底。そこの泥濘に天上から暖かい光が注がれる。南美が首を傾げて笑うとそんな心持になった。

 水槽の中を黒い色の魚がゆったりと泳いでいる。綺麗だね、と南美が言う。僕はいまいちピンと来ないけれど、そうだね、と返す。可愛いね、と南美が言う。そうだね、と僕は返す。水族館あまり好きじゃなかった?と彼女は素っ気ない僕を心配して声をかけてくる。まさか、君といる幸福について考えながら、君の輝かしさの比喩を探していたなどと答えられるはずもない。僕は、生まれ変わったら水族館の魚になるのも悪くないよね、と南美に言ってみた。南美は、そうだね、と答える。そして、少し間をおいて小さく吹き出す。

 ね、そうだね、だけだとつまんなそうでしょ。

 僕は、ごめん気をつける、と答えた。君が僕の考えに賛同してくれて嬉しかったなどとは言えない。

 薄暗い水族館の廊下には消毒されたカーペットの匂いが漂っていた。太陽の光の届かない場所には、それ特有の匂いが溜まる。月の裏側の匂いもこんな感じだろうかと考えながら、いや、月の裏側は地球からは見えないというだけで太陽の光には晒されるなと思い直す。いつも僕の文学を邪魔してくるのは僕の理性だ。たいした文学ではないことくらい自分でもわかってはいるが。僕のたいしたことのない文学は、薄闇の中をゆらゆらと進んで行く南美の背中に対する比喩を求め、漂い、水槽の中で黄色い斑点模様のハコフグとなった。ハコフグは「別に文句があるなんて言っていない」とこちらの発言を否定するような顔をしている。僕の文学も、「まぁ、ハコフグに喩えられたからって文句はないけどさ」と口を尖らせた。南美の白いシャツは水族館の照明に彩られ、凝縮された虹のように見えた。

 海月が浮かんでいる。郵便ポストみたいな形状の水槽の中で。意味もなくゆっくりと上下する様は、眠る人間の肺を思わせた。カラフルなゴムボールのような海月が詰め込まれた水槽の前で南美は、すごーい、と小さく呟く。何を食べたらこんな色になるのだろう、と僕は不思議に思う。というか、そもそも海月は何を食べるのか。どこが口なのか。

「口は無いんだよ」南美は言う。

「口がない?」

「ほら、家の照明で、こういうまるいプラスチックのカバーがあるでしょ」そう言いながら南美は両手で額の辺りに円を描いた。「あの中でたまにちっちゃな虫が死んでるけど、ああいう感じでプランクトンとかを身体の中に閉じ込めて、そして溶かしちゃうの」

 僕は海月を見上げながら、海月の身体の中で溶かされていくプランクトンを思った。スタイルとしては蜘蛛に近いのかもしれない。蜘蛛は蜘蛛の巣を作るが、海月は自分の身体が蜘蛛の巣みたいなものなのだろう。

 それから僕たちは別の海月が浮かぶ水槽へと進む。透明な海月。ミズクラゲだ。頭のところに四葉のクローバーのような模様がある。怪しげな光に照らされながら、どこか幸せそうに見える。安寧と浪費。そんな感じだ。

「生まれ変わったらミズクラゲがいいな」南美が言う。

「俺の真似?」

「先生は、水族館の魚でしょ? 私はミズクラゲがいいの」

「どうしてミズクラゲがいいんだ?」

「透明で、何もなくて、ただずっと海を漂うの。学校に行く必要もない」

「学校は楽しくない?」

「楽しくないこともないけど、行かなくていいなら行かない」

「学校に行かずに代わりに何をするんだ?」

「何もしない。私が何もしなくても、プランクトンがやって来てくれる。私が何もしなくても、波が別の場所に運んでくれる」

「素敵だね」

「そんな皮肉を言われることもないの」南美は僕を見上げ、目を細めた。まるで、冴えない青年が書いた短編小説の朗読を聞いた後のホリー・ゴライトリーのような表情だ。「ねぇ、先生は私にとってのプランクトンや波になってくれる?」

 南美は僕の肩にもたれかかった。普通のカップルが岬で夕暮を見るように、丘の上から街の夜景を見るように、僕たちは水槽に閉じ込められたミズクラゲを眺めた。「ナミは君じゃないか」と言いそうになって、あまりに下らないのでそれを飲み下す。南美の文学を駄目にするのは僕の腐ったユーモアかもしれない。

「俺も海月でいいかな、楽そうだし」

「先生のそういうとこ、モテない原因だよ」

 僕たちは手をつないで水族館の暗い道を歩いた。

様々な大きさや形の水槽が、様々な大きさや形の生物をそれぞれの概念に則って規定していた。あるものは壮大に、あるものはささやかに。一つひとつの生命の形に合わせて枠組みを作る水槽は、まるでそれ自体が生命の存在そのもののようにさえ感じられた。

 例えば、僕にとっての水槽とは何だろう。例えば、南美にとっての水槽は何だろう。

 しかし透明な水槽の内側にあって、自分の身体よりはるかに巨大なそれは、もはや形を捉えることなど不可能であり、ましてや僕たちは一つがいの海月だ。水槽の形などわかるはずもない。故に、僕たちは自らの規定された姿を知らない。

 

     *

 

 それからしばらくして僕は海月に関する本のまえがきを本屋で立ち読みした。

 海月を水槽で飼育する場合、水流を作ってやらないと死んでしまいます。なぜなら、沈まないように自分の力で泳ぎ続け消耗してしまうからです。

 そう、書いてあった。

 

     *

 

 僕はときどき、自分は私立女子校の教師になるべきじゃなかったか、と考えることがある。南美とまではいかなくても、南美に近い少女に出会える確率は県立高校の教師よりも高いはずだ。純粋培養という言葉をたまに耳にする事があるが、つまるところ僕は純粋培養された少女に心を惹かれるかもしれない。思想や哲学というよりは、単純な性癖として。

 しかし、そういった僕の性癖の邪魔をするのが、僕の理性だ。僕の理性は僕の文学だけでなく、僕の性癖すらを邪魔しているようにさえ感じられる。性癖こそが文学なのだと対偶照明法的に考えてしまうほどに。

 久々に会ったかつての友人に向かって僕はそう言ってみたけれど、彼は眉をひそめて溜息をつくだけだった。僕たちはかつての同僚で、そして同期だった。

 二年ぶりの同期会に僕は出席していた。正式には二十人弱程度の同期がいるはずだったが、今日集まっているのは最初に配属された地区が近い教師たちだけだった。故に十一人しかいない。ぎりぎりサッカーチームが作れる、と誰かが言った。

 気が合うというほどではないが、なし崩し的に僕はいま目の前に座っている工藤という男に気を許している。あることがきっかけで、僕は彼に対して自分の日頃思っていることを喋らねばならなくなったのだが、彼は僕の喋ったことをあるところまで受け止め、そして受け止めきれないものは綺麗にシュレッダーにかけてからゴミ箱に捨ててくれた。簡単に言えばそういった感じで僕は彼に対して気を許している。そして、僕は自分が私立女子校の教師になるべきだった、という考えを工藤に話して聞かせていた。

「まぁ、人が何を考え、何を思おうが勝手だけどな」工藤はそう言って、ビールを飲んだ。

 僕たちは十一人の集団にあって、一番端の壁際の席に座っていた。八本の串焼きの乗った皿とビールジョッキ二つ、それから灰皿一つ。それ以上はもう何も乗せられないくらいの小ささの正方形のテーブルを二人で挟んでいる。湿った色の木製のテーブルだ。ウイスキーのボトルで思いっきり叩けば木っ端微塵に弾け飛んでしまいそうな代物だった。

 僕たち二人を残して、あとの九人は前線に駆け上がり、あれやこれやとボールを回している。僕と工藤はまるでゴールキーパーと攻めの意識を放棄したセンターバックのように自分たちのゴール前を固め、遠くで行われているパス交換を眺めた。点が入れば良いが、と他人事のように思う。

「酔っ払うと自分語りを始めてしまう癖を治したいとは思っているんだ」僕は言う。「でも、どうしてかやめられない。別に誰彼構わずというわけじゃないんだけど、一旦気を許してしまうと、もう手が付けられない」

「まぁ、そういうのを癖って言うんだろ」

「工藤は優しいな」

 僕は乾いた笑い声を工藤に投げつけ、そしてビールを飲んだ。「酔っ払うと」という限定をさり気なくしてしまったが、きっとそれはちょっとした虚栄心だ。酔っ払っていようが酔っ払っていまいが、僕は気を許した相手に自分の考えをひけらかしてしまう人間だった。

「実際、工藤はどう思う? 俺は世間で言うところのロリコンか?」

「そうだな」考えるふりをして工藤は煙草を吸う。言葉を発する前に工藤は何度か頷き、僕の質問に対してイエスを返しながら「ロリコンだろうな」と口にした。

「人はどうしてロリコンになると思う?」

「さあな。俺は成人していない女は好きにならないし、ロリコンであるお前の方に何か心当たりがあるんじゃないか、普通」

「まぁ、工藤の言う通りだな」

「はぁ。仕方ない、聞いてやろう。上原、お前は人はどうしてロリコンになると思う?」

「ははは、工藤は本当に気が利くよな。よし、俺の考えを言おう。ただ、その前にいくつか質問をさせてもらう」

「どうぞ」工藤は興味無さそうにビールを啜りながら言う。

「工藤は母親の手料理を食べたいと思うことあるか?」

「まぁ、年に何回かは」

「ふと、昔好きだったゲームに手を付けてみたり、懐かしい漫画を読んでみたりすることは?」

「ないとは言えない」

「中学の頃好きだった子のことを思い出すことは?」

「わかったよ。要するに、学生だった頃を思い出すから女子高生に惹かれるって言いたいんだろう」

「その通り。でも、それだとまだ四十点くらいだな」

「赤点じゃなきゃ、俺は満足だよ」

「俺の美意識は十代の女の子を中心に回っている。ただ、それだけだ」

「『ただ、それだけだ』とつけると何でも格好良く聞こえるもんだな」

「三日間風呂に入っていない。ただ、それだけだ」

「どうしてそんなに臭いの、って言われたんだろうな」

「むしゃくしゃしてやった。ただ、それだけだ」

「本当にそんな奴いるんだな。てか、これと似たやり取り、何かのアニメで見た気がするぞ」

「まぁ、細かいことは気にするなよ。それよりも俺が言いたいのは、なぜ俺の美意識がハイティーンの女の子を中心に回っているのか、ということだ」

「だから、それは昔に素敵な思い出があるからじゃないのか?」

「その通り。人間の美意識は記憶と密接に結びついている。なぜなら、自分の中に降り積もった感性的な体験、すなわち記憶の総体こそが俺たちの美意識を司っているわけだ」

「だとしたら、俺の答は四十点じゃなくて百点だろう」

「そうかもな。でも、一般的に人の美意識ってのは、記憶だけでは推し量れない部分もある。それが何かわかるか?」

「さぁね。もうクイズはたくさんだよ」

「好奇心だよ。未知の体験への好奇心こそ、美意識の自己拡張性を表すものだ」

「なんだよ、美意識の自己拡張性ってのは?」

「要するに、創造性のことだよ。もし、美意識に創造性が含まれないのだとしたら、芸術は成り立たない。表現の無い芸術はない。古い自分のアルバム写真を見て、芸術的だとは思わないだろう?」

「まぁ、そうかもな」

「じゃあ、俺の美意識が過去の記憶を中心に回っているとして、それは果たして美意識と呼べるのかどうかということが問題になってくる」

「問題も何も、答は簡単だろう。上原は美意識のせいで幼い女の子を好きになっているんじゃない、ってことじゃないか。なぁ、知ってるか? 世の中には幼い子供に対する性犯罪が一定数存在している。生殖能力のない相手に対して性的な興奮を感じるというのは、一種の脳の欠陥に原因があるらしい。別に上原のことを悪く言うつもりはないけど、脳のシナプスの繋がり方だったり、ほんの数ミクロンの染色体のちょっとした変形だったりでそういう他人との差異ってのは生まれてしまうものなんだよ。自分がまったくそれに該当していないなんて確実には言い切れないだろう?」

「つまり、俺は性欲のベクトルが狂ってるってことだな」

「まぁ、誰だって人には言えない性癖の一つや二つはあるはずさ。生殖行為とは関係のないところに性的な興奮を感じる、という意味では全ての性癖は等価のはずだろう」

「ほんとうに工藤は優しい。生徒からも人気があるんだろうな」

「まぁ、それなりにな」

「羨ましい」

「お前が羨ましいと思うのは美しい女生徒に関してだけだろうけどな」

「さすがだよ。でも、一点反論させてもらうとしたら、俺の脳は正常だってことだ。だいたい俺が愛する年頃の子はちゃんと生殖能力を持っているし、何なら世間で一般的な結婚適齢期とされている年増の女よりも健康的な生殖能力を持っているのは確かだ。法律でも女は十六から結婚できる。社会通念、それも主に経済力という理由だけを根拠に自らの性欲のベクトルを本来の自然状態的なものから変えられてしまう現代人の方が脳に欠陥があるんじゃないかと俺は思うけどな」

「明らかにおかしなことを言っているはずなのに、何だか説得力があるな」

「それが論理の力だよ」僕はビールをあおり、手の甲で口を拭う。そして、店員に追加のビールを注文した。ジョッキを手渡す。「でも、別に俺が言いたいのはそういうことじゃないんだ。俺の性癖の正当性を生物学的に証明したいわけじゃない。単純に、俺は美意識の定義についてもう一度話したいだけだ。美意識が過去の記憶と創造性によって構成されているのはさっきも言った通りだよ。過去の思い出、つまり、古いアルバムに捉われ続けているだけの俺の美意識が、その創造性の無さから美意識と呼べないのではないかというところで議論は中断している。でも、もしその古いアルバムに収められている写真が芸術性、つまり作品性の高い写真だったとしたらどうだ? 俺は単に昔を懐かしんでいるだけではなく、芸術鑑賞をしているということにならないか? 絵画の価値は、鑑賞者がどれだけその世界に入り込んで自由に遊べるか、というところにあると聞いたことがある。俺は古いアルバム写真を見返し、そこでただ懐かしむだけでなく、その写真の中の世界で新しい記憶を作り上げようとしている。なぜなら、その写真には確かな魅力があり、記憶の芳醇な香りだけでなく、創造性を刺激する何かがある。俺は過去の記憶によって創造性を刺激され、その記憶をなぞる形で、自らの中に新しい妄想や空想を作り上げる。まるで、電車の中で見るとりとめのない夢のような、現実味がないのに確かな感触がある不思議な世界だ。なぁ、俺の記憶の中核には、そういうどうしようもなく美しいものが腰を据えてるんだよ。好奇心は何も時制的に未来の方向にだけ向けられるもんじゃないんだ。過去に対して、何らかの意味を見出そうとすることも好奇心の一種なんだ。そうじゃなかったら、歴史という学問の存在すら否定することに――」

 お待たせしました。ビールになりますね。

 僕の前にビールが置かれる。そして、フォワードが前線から駆け下りて来て、「なに二人で楽しそうに話してんの?」と肩に腕を回される。僕は「そっちこそなんの話してたんだ」と聞き返し、彼らの思い出話に付き合った。

 旧交を温める、という言葉を思い出す。何かものを温めるためには、自分の熱エネルギーを分けてやらなければならない。熱力学の第一、第二法則。僕の心は旧交を温めることで、冷え切ってしまう。美しくもなんともないただの記憶には、僕が繰り返したいと思えるだけの魅力も刺激も存在はしなかった。

 一次会が終わり、皆は二次会へと向かったが、僕は先に帰ることにした。工藤も「明日は家族サービスしなきゃなんだ」と言って僕について来る形になった。相変わらず仲がいいねぇ、と囃し立てられ、僕らは肩を組んで駅までの道を歩いた。後ろから声が遠ざかって、僕たちはどちらからともなく身体を離す。

「結婚してたんだ」と僕は聞く。

「あぁ、もう四年目だよ。結婚式の招待状届かなかったか?」

 僕は首を横に振る。しかし、届いているはずの招待状を僕が知らなくても不思議はない。

 裕子か麗奈か、ほかの誰かが家に来ているときに、僕のアパートの郵便受けから勝手に何通かの結婚式の招待状を引っ張り出してくることがあった。僕には自分に宛てられた手紙などないと思っているし、溜まった郵便物が溢れ出してどうにもならなくなるか、女の子が勝手に郵便受けを掃除してくれるまで、僕が郵便受けに向き合うことはなかった。

 招待状届いてるよ。

 なんの?

 結婚式だって。

 そう、捨てといてくれ。

 〇〇、さん? 知ってる?

 さぁ。

 ねぇ、先生って今でも高校の頃の友達と連絡取ってる?

 取ってないよ。

 どうして?

 さぁ、どうしてだろう。

 だいたいそんな会話の流れのまま、招待状はそのままゴミ箱に捨てられてしまう。そもそも、わざわざ手紙で招待状を送る意味がわからない。たまにしっかりと頭の使える奴はメールもしてくれるが、まぁ、そうしてくれたところで僕が結婚式なんかに出席することもない。僕が結婚式に赴く理由があるとすれば、「それが社会的に求められることだから」ということになるだろう。ほかの諸々のことと同じように。

 僕はそういった細々としたことを説明するのも面倒だったので、「結婚おめでとう」と取りあえず口にしてみた。「ありがとう」と工藤は答え、ほかの人間と同じように「上原は結婚の予定ないのか?」と言う。僕は黙っていた。

「まぁ、結婚した俺が言うのもなんだけど、結婚しないで済むならそれに越したことはないもんな」

「それ、本心で言ってるのか?」僕は思わず吹き出してしまう。

「一般論としては言ってないよ。上原にとっては、結婚なんてしない方がいいんじゃないかと思うんだよ。これは本心としてね」

「どうしてそう思う?」

「平林薫」

「その話か」

 僕が高校教師になって初めて関係を持った生徒だ。僕と工藤はたまたま最寄りの駅が一緒で、お互い教師になったばかりの不安やストレスもあったから、月に一度くらいのペースで酒を飲んだりしていた。その頃の僕たちは、自分の考えを口にするというよりは、ただ互いの仕事の進捗であったり、問題のある生徒、親、そして上司などについて至極一般的な愚痴を交わし合っているだけだった。

 僕が教師一年目の秋ごろに薫とは仲良くなった。文化祭がきっかけだったと思う。薫は美術部で、文化祭に何らかの形で用いられる絵を薫が描いていた。僕は美術室にあるという高枝切り鋏を取りいったところで、薫と薫の描いた絵に遭遇し、そして「素敵な絵だ」と声をかけた。確かに素敵な絵だったけれど、どんな絵だったかはよく覚えてない。ただ、高枝切り鋏は僕の予想通り、美術室ではなく用務員室から見つかった。おそらく高いところにある枝を切りたかったのだろうけれど、どうしてそんなものが急に必要になったのかも、今となってはいまいち思い出せない。

 薫は、私のやりたいことは絵を描くこと以外に無いの、と言った。やりたいことがあるのは良いことだ、と僕は言う。けれど、彼女は首を振って、でもね才能が無いの、と悲しげに笑った。彼女の描く絵が素敵なことは確かだったけれど、それでも才能がないことも確かだった。彼女の描いた凡庸な色使いの絵よりも、放課後色の光に包まれた彼女の佇まいの方がよっぽど美しく僕には見えた。人の夢と書いて儚いと読む。まさに、その通りではないか。言ってみれば、彼女の儚さはそんな感じだったけれど、僕は決して笑ったりせず、彼女の尽きることのない自分への失望感について根気よく聞いてやった。彼女には話の分かる大人が必要なのは明白だった。僕がその役回りに立候補し、そして最終的には彼女を抱くことになるのだった。すべては既に決まった事だった。

 僕は学校から離れたところに宿を借りていたし、周辺で見かける知り合いと言っても、同期の工藤くらいだった。別に工藤にだったら薫との関係がばれてしまっても良いと思ってはいたが、本当にばれてしまうとさすがに「迂闊だった」とは思わずにはいられない。

 僕と薫は並んで歩き、僕は酒と鍋の具材の半分が入ったビニール袋を、薫は残り半分の具材が入ったビニール袋を手から提げていた。アパートまで歩いて帰る道のりを工藤に見られていた。僕と薫がキッチンで鍋の具材を包丁で切りながら、缶ビールと缶チューハイを飲んでいるところに玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、工藤が夕闇を背景に、玄関の灯りに照らされていた。玄関とキッチンが隣接している間取りのアパートだったから、酒に顔を赤らめた薫が工藤の視線の先には立っている。彼女は僕の貸し与えたトレーナーを着ていたけれど、制服姿で僕と並んで歩いているところを見られていたし、言い逃れはできそうにもなかった。

「まだ彼女は高校二年生だった」工藤は言う。

「そうだったかな。あまり覚えてないんだ」僕は答える。工藤は僕を睨み付け、それでも人間か、とでも言いたそうな表情をする。「悪かった。そうだよ、薫は高校二年生だった」

「教師と関係を持っちゃダメなのは当たり前だけど、酒を飲むのも法律では禁止されている」

「あの頃はみんな中学生でも飲んでたよ。良い時代だった」

「法律は時代性とは何ら関係ない」

「その通りだ。工藤は立派だよ」

 工藤は深く溜息をつく。息が白かった。もうそんな季節か、と僕は思う。

「話を蒸し返すわけじゃないけど、どうして上原は女子高生が好きなんだ?」

ロリコンだからさ」

「そういうのはもういいよ」工藤は僕の肩をグーで叩く。酔っている、お互いに。「何か理由やきっかけみたいなのがあるんじゃないか? なぁ、さっきも言ってたように、なんか頭から離れない記憶でもあるんだろ」

 まさに、その通りだった。僕にとっては南美こそ至高であり、それ以降の全てはただその反芻でしかない。反芻、反復。覚えた作業は、無意識に繰り返すことができる。

「女子高生ってのは、総じて馬鹿なんだ。俺は顔も良くないし、金も無ければ、人より秀でた部分なんてほとんど何もない。俺が誇れることなんて、手のひらの生命線がとびっきり長いってことだけだよ」僕は自分で言っていて、何だか少し可笑しくなる。「でも、視野の狭い彼女たちの中でも、さらに視野が狭く、かつ穿ったものの見方をしている子をうまく見つけることができれば、彼女たちの感情をコントロールするのはさして難しいことでもない。彼女たちは何か自分の信じているものを認めて欲しいんだ。薫の場合は、『才能のないワタシ』だった。売れる絵を描く才能がなくても良い絵は描ける、と言い含めてやれば、彼女の承認欲求は満たされるし、俺のことを特別だと感じるようになる」

「それでも教師かよ」と工藤は言う。それでも人間か、とまでは言わなかったのは工藤の優しさだろうか。

「お互いにメリットがあった」僕は答える。が、工藤は首を横に振る。

「メリット、デメリットの話はお互いが対等な立場でこそ使える論理だ」

「俺と薫は常に対等な人間として話をしていたんだ」

「いいや」また工藤は首を横に振った。首を痛めるんじゃないか、と軽口を叩いてもよかったが話をこじらせても面倒なだけなのでやめておいた。「教師と生徒という時点で、対等な関係性なんて築けるはずがないんだよ。上原は立場を利用する卑怯な人間なだけだ」

「たしかに、そうかもな。反論の余地もない」

「そう思うんなら――」

「でも、俺はそういう人間だよ。こう見えて、エゴイストなんだ。彼女たちの人生がどうなろうと知ったこっちゃない。だいたい、彼女たちはいずれ俺を捨てて、自分の身一つでも立派にやっていく力のある人間さ。一時的に俺を頼りはするけれど、いつまでも俺にしがみついてるわけでもない。そう、俺はまさにオンボロのビニール傘みたいなものさ。通り雨。でも、傘が無い。仕方なく傘もささずに道を歩いていると、錆びついたフェンスにオンボロのビニール傘がかけられているのを見つける。汚いけど、とりあえずこれで雨は凌げる。そういうことなんだ。彼女たちは雨が降ったからといって、親が車で迎えに来てくれるのをじっと駅で待っているタイプじゃない。だから、雨さえ上がれば傘を捨てて、あとは一人で勝手に歩いていくさ。俺はうらぶれたビニール傘として、彼女たちの手の温もりを求め、彼女たちは雨を凌ぐという役割を俺に求める。需要と供給ってのは、質や量の話だけじゃない。タイミングってのが一番大事なんだ。そして、教師として掃いて捨てるほどいる女子高生と向き合っていると、そういうタイミングもそれなりの頻度でやって来る。俺はただそのタイミングを掴んで、そして悲しい雨降りの心を慰める。俺と彼女たちの両方の心だ。ただ、それを繰り返しているだけなんだよ。それ以上でもそれ以下でもない」

「上原の言いたいことはわかったよ」

 工藤と僕は並んだまま、しばらく歩いた。夜を受け止める、光の城。駅が見えてきた。

「やっぱり、上原には結婚なんて似合わないな。しないで済むならそれに越したことはない」

「工藤は自分が、結婚というものが似合う人間だと思う?」

「まぁ、上原を見ていれば、比較的には似合うんじゃないかと思うよ。俺は上原みたいに何かをこじらせてるわけじゃない」

 僕は笑って、先に改札を潜った。

 振り返って後からやってくる工藤を見やる。

「そう言えば、聞いてなかった」工藤が思い出したように言う。

「なんだよ」

「上原をそんな風にした記憶ってなんなんだ?」

 南美のことが頭を過ぎる。それから、列車の到着を告げるアナウンス。

 僕は電車が来るぞ、と急かして工藤の背中を叩いた。工藤はしばらく僕を睨み付けた後、ようやく足を踏み出した。歩き始めてもしばらくは僕の方に視線を向けていた。

 僕は電車の走行音が頭上を走り去っていくのを聞きながら、南美がどんな顔をしていたか思い出そうとしていた。いくつもの反芻とアルコールで、ネジ山は潰れてしまっている。ドライバーは空転を続け、苛立った僕はゴミ箱を蹴りつける。遠くで駅員がこっちを見ていた。僕は項垂れ、そして次の電車を待った。

 快速電車が目の前を通り過ぎ、どうしていま飛び込まなかったんだ、と頭の中で声が舞った。

 気がつくと、僕はアパートの玄関のドアにもたれ掛かりながら夜空を見上げていた。鍵を探していたようだ。鞄の中身がひっくり返されている。僕は上着の内ポケットから鍵を取り出して、飛び散った苦闘の証を腕に抱え、部屋に入る。そのままベッドに飛び込んだ。目を瞑ってしばらくすると吐き気が込み上げて来て、部屋に散らばった色々なものを蹴飛ばしながらトイレへと駆けこんだ。

 また記憶が途切れ、再び意識を取り戻すと、トイレの水の上に自分の嘔吐物がだらしなく浮かんでいた。水を流し、台所に移ると口を濯ぎ、顔を洗った。南美が買ってくれた万年筆を手に握り眠る。乾いたペン先の万年筆。死ぬときはこれを頸動脈に突き刺そう、と何度か考えたことがあったっけ。

 

     *

 

 ある日、シャンプーとボディソープと歯磨き粉が一度にきれた。今日が土曜日でよかったと思う。

 

     *

 

 僕と彼女は古い汽車に乗っていた。窓はなく、風は好き勝手に僕たちの間を通り抜けていく。進行方向、むかって右手には谷を渡る川が見える。仄かに香るディーゼルエンジンのガソリンの匂い。

 初夏の太陽に照らされて緑は生き々きと輝いている。しかし、こうして森の中まで入って来るとまだ肌寒い。僕は自分のパーカーを彼女に羽織らせ、そして抱き寄せる。か細い身体。ススキの茎を思わせる。けれど、布団乾燥機のように暖かい。いや、比喩がおかしい。

 比喩、と僕は思う。

 夢は暗喩の極致であり、文学は人生の比喩だ。

 そんな僕の言葉に彼女は、なにカッコつけちゃって、と笑う。彼女の笑顔は、夜明けの雨の比喩だった。雨が降り、そして、僕たちを乗せた電車は長いトンネルへと入る。

 トンネルの中は異様に寒かった。

 土の冷たさだ。土壁から染み出る地下水の流れる音が聞こえる。ガソリンの匂いが一層強まった。汽車には電燈もなく、暗闇の中、僕たちは抱き合い互いに暖を取った。トンネルを抜けるのを待つ。それは冬を越すことの比喩だった。僕たちはベッドの上で抱き合い、寒い冬が過ぎて行くのを布団に包まりながら待っていた。彼女の肌は滑らかで、清流の比喩だった。この世界では全てが比喩に成り下がり、そして互いに手をつないだまま、少しずつ質点の中心へと落ちていっているようだった。

 事象の地平線。つまりは、僕たちはその比喩的な領域から逃れることができない。そこから外側へと情報は出て行くことが無く、ただ質点の中心に向かって引き寄せられるばかりだ。強大な質量の極端な集中。全ては闇の穴へと引きずり込まれていく。

 目を凝らすと先に光の点が見えてきた。そして、気がつくと僕たちはまた渓谷を渡る汽車の中にいる。

 寒かったね、と南美が言う。こんなに寒いなんて、びっくりしちゃった。

 彼女は僕の貸したパーカーを脱いで、僕に手渡す。僕はそれを受け取って膝の上で簡単に畳んだ。日向の岩石のような仄かな温かさが宿っている。彼女の白い手は木製のテーブルの上で優しく組まれている。軽く握った右手の上に左手が乗せられていた。テーブルは車両の床に据え付けのもので、座席も作りは木製のものだったが、その上に革で出来たマットレスのようなものが引かれていて、中身は硬めのスポンジが入っているようだった。木の色を損なわないように、そのマットレスは栗皮色をしている。僕らのほかにも数組の人たちが汽車には乗っていて、みな穏やかな笑顔を湛えていた。一人、渋柿を食べたような表情の老人が足を組んで座っていたが、手元の本に視線を落とし、時折ゆっくりとコーヒーを啜っているのを見ると、もともとそういう表情の人なんだろうということが伺えた。

 コーヒー、と僕は思う。

 コーヒー、買ってこようか。と僕は南美に尋ねる。身体が冷えただろうし、温かいの飲みたいでしょ。うん、でも、甘いのにしてね、と彼女は言った。コーヒーは隣の車両のバーカウンターで買うことができた。僕の分のブラックコーヒーと彼女の分のカフェオレを買って僕は席に戻る。

 ありがと、と彼女は言った。それから車窓からの景色を指差して、あれはなに、と僕に聴いた。谷を渡る川には大きくて白い岩がごろごろと転がっていた。御影石じゃないかな、と僕は答える。

 お墓とかに使う奴だよ。

 それは見ればわかる。名前が知りたかったの。御影石……うん、覚えた。

 その模様は古いテレビの砂嵐に似ていると僕は思う。じっと見つめていると嫌な記憶が蘇ってくる。不規則な白と黒の模様が灰色の輪郭を取り出す。夏のアスファルトの上で焼け焦げたミミズの死骸。腹の立つ相手の持っていたカードゲームの一枚を盗んで、そしてそのまま捨てた。自分の犯した失態をクラスで浮いていたやつにこっそりとなすりつけた。角の欠けた硯。翻るクリーム色のカーテン。小テストで苦しむクラスメイトを馬鹿だと思いながら、僕はカーテンの蠕動を眺める。

 先生、物知りだね。そう言って、彼女が笑っている。吹き飛んでいく車窓の内側で彼女の笑顔だけが僕の網膜にこびりついて離れない。

 気がつくと僕は誰もいない閑散とした駅の中にいた。いつの間にか夜になっている。パチパチとひび割れたように点滅する白い電燈の光に何匹も蛾が集まっていた。手のひらくらいの大きさがある蛾だ。不快を具現化したような模様が僕を落ち着かなくさせる。彼らの羽に施された目の模様と視線を交わす。不快だ、と僕は思う。彼女はどこに行ってしまったというのだ。僕は首を捻る。待合室は今ではもう封鎖されてしまっている。自販機すらない。冷たいガラスには、闇に吸い込まれてしまったように僕の像が映っている。

 無人改札の手前には発券機があって、彼は駅名が印字された切符を唇に挟んでじっとしていた。

 この駅から乗った訳じゃないのに、と僕は思う。でも、目的地にはこちらの方が近いわけだし、これは貰っておいた方が良いだろう。実際にこれを使う、使わない、ということはまた後で考えればいい。不法行為。でも、誰にもバレることはないだろう。僕がこの無人駅に立ち寄っていた証拠はどこにも無いのだから。監視カメラだってない。自販機すらないんだから、そんなの当たり前と言える。そう、この切符は僕の選択肢の幅を広げてくれるのだ。

 僕は無人改札を潜り、そして自分の足音が響く長い通路を歩いて行った。どうやらホームは地下にあるらしい。真っ直ぐな通路が途中で切れているかと思ったら、階段となって地下に続いているのだった。通路の窓はしっかりと鍵がかけられていたが、アルミでできた窓枠は既に朽ちかけていた。アルミは塩害に強いが、埃には弱いのだろう。ここはやけに埃っぽかった。どうして誰も人がいないのに、埃が出るのだろう。埃は衣類等からも生まれるが、生物の皮脂などもその一因を為すと聞いたことがある。あれは嘘だったのだろうか。

 そうか。蛾の鱗粉だ。僕は不意に思いつく。蛾の鱗粉がこの無人駅をここまで腐らせているのだ。そうか、そうか。そういうことか。

 僕はいつの間にか早足になっていた。空気中にあの蛾の鱗粉が漂っていると思うと何だか息苦しく感じられたからだ。最後にはほとんど走るみたいになっていたが、階段の手前まで行ったところで僕の足は止まる。

 階段が水没していた。水面には蛾の鱗粉が浮いている。水の中に潜れば鱗粉からは逃げられる……が、僕はどれだけ息を止められているだろうか。仮にホームまで息がもったとして、しばらく電車が来ないという可能性もある。時刻表をちゃんと見てくればよかったと思うが、今さら見に戻りに行く訳にもいかない。だいたい、時刻表を見に戻っている間に、蛾の鱗粉で肉体が朽ちてしまわないとも限らない。

 僕は意を決して、階段を降りていった。冷ややかな水の感触が、くるぶし、すね、ひざ、と着実に上がって来る。あっという間に腰の辺りまで僕は水に浸かり、そして肩まで冷水に侵された。僕の目の下すぐのところに、ぼんやりと光る鱗粉の浮く水面が来ている。僕は息を止めて、水の中に潜った。

 

 素敵な夢だと思ったのに。