霏々

音楽や小説など

ライ麦畑の風 vol. 3

「ありがとう」進藤さんはまず私にそう言った。「ううん」とだけ私は答える。

 上原先生は言葉を失っていた。彼はもはや先生という役割を抜け出したところにいるみたいだった。ひどく怯えた一人の青年のように見えた。

 私は静かにその場を後にして、もと来た道を数十歩分だけ戻った。

 少し離れたところで私は歩みを止め振り返ると、木陰に隠れて二人の様子を窺う。二人は初めてのデートに戸惑うカップルのように見つめ合い、そしてずっと恨んできた敵同士のように向かい合った。

 

二人はしばらく何も喋らずに、また飽きることなく視線を交わし合っていた。何かの儀式中のようにも見える。見ているだけで息が詰まりそうだったけれど、それでもさっきまでの緊張感に比べればまだマシだ。私はふっと息を吐き出す。

それから私は二人の関係性について、もう一度頭を巡らせた。

しかし、それはもはや推測をしたりとかそういう領域のことではない。答は明らかであり、私に必要なのはそれを裏付けるための論理的な証明に過ぎない。

上原先生の狼狽えた顔。全身から吹き出す冷たい汗。死神に出会ったかのような反応だった。いや、むしろ彼はもう既に死んでいて、これからまさに地獄の火の窯に放り込まれようというような感じにも見えた。人間はそこまで何かに恐怖できるものなのだ、と私の方が彼の傍にいて怖くなってしまった。

しかし、その一方で彼は神に感謝しているようにも見えた。幸福の絶頂と言ってもいいのかもしれない。身を焼き尽くそうとしていたのは地獄の炎ではなく、むしろ天界の眩い光線だったのかもしれない。彼の瞳はうるみ、澄んだ色の水晶を湛え、唇は優しく綻んでいた。

彼は恐怖と痛みと感動と幸福の嵐の中に全てを飲み込まれ、ただ呆然と一人の少女の目の前に立ち尽くしていた。私とおなじ年齢の少女の前で。

秋の涼しげな風と、柔らかな陽光。少女は生まれたてのつやつやとした頬にきめ細やかな涙の筋を作り、青年は目の前の現実を受け止めきれずに感情を失う。二人の間にはそれなりの年の差があったはずだけれど、私には二人がほとんど対等な関係、あるいはむしろ少女の方が落ち着いて全てを包み込んでいるように見えた。青年は鈍器で陶製の身体を勢いよく叩き割られ、そのときになって初めて自分の身体ががらんどうであったことに気がついたみたいだった。そしてそのことに愕然とする。

私は、彼が「自分がどういう人間であるか」ということに、実はずっと前から気づいていたんじゃないかと思う。というか、気づく気づかない云々でなく、自らの意志で自分をがらんどうにしていたんだと思う。ただ、あまりにも自分が空虚であることに馴染み過ぎて、いつの間にかそのことを忘れていたのだ。そしてちょうど今そのことを思い出したのだ。まるで夜眠れないときに、出し抜けに自分がこのだだっ広い世界の中で全くの独りきりであることを思い出すように。まるでその孤独感を埋める為に強く男の腕を求めることで、私は自分が女であることを思い出すように。

 

上原先生はいつも授業が終わるとさっさと物理教官室に戻って行く。けれど、ある日私は少し前に提出した自分のノートが帰って来ていないことを相談するために、彼を追いかけて行ったのだ。それはたしか五限終わりの休み時間で、人通りのない渡り廊下で私はようやく彼に追いついた。

「先生」と私は後ろから声をかける。

 上原先生は急に声をかけられて少し驚いたように振り返ったが、その後に私に焦点を合わせるとそのまま身体を強張らせてしまった。そのときの私はそれがどういう意味なのかわからなかった。しかし、まっすぐに彼に見つめられる中で、自分の中の何かが揺さぶられたような感じがした。それまで私は何度か男の子に告白されたりしたことがあったけれど、そのときの彼らの健やかで、それでいて浅はかな愛の言葉や視線とは比べ物にならないほどの何かを上原先生から感じたのだ。

 でもそれは一瞬の出来事で、彼はすぐに表情を取り繕うと、「何でしょう」と丁寧な口調に戻った。私はできるだけ平静を保ちながらノートのことを簡単に説明すると、彼に連れられて物理教官室まで行った。まだ私と彼しかいない物理教官室の中で、彼がノートを探している少しの間、私は彼の背中を見続けた。ようやく何かの書類の間から彼は私のノートを見つけ、簡単な謝罪の言葉と一緒にそれを返してくれた。

「迷惑をかけましたね」

「いえ。とりあえず、見つかってよかったです」

 私はどうしてその時、ひと気のない廊下で、出し抜けに上原先生に心を揺さぶられたのかよくわからなかった。けれど、大切なのは原因ではなくて結果の方だ。結局、私は自分のこの感情に対して、どういうレッテルを貼ってやればいいかわからなかった。だから、とりあえずこの感情の名前は恋心ということになった。世間知らずで、無知な女子高生にはそれが精一杯の現実の受け止め方だった。

 

 それからしばらくして、私は生物の水無瀬先生が上原先生に対して興味を持っているようだということを知る。水無瀬先生が上原先生に対して子供っぽい仕草で楽しそうに話しかけているのを何度か見た。上原先生がいつもの礼儀正しい感じでそつなく相槌を打っていることは、少なからず私を落ち着かせてくれたけれど、それでも良い気はしない。

 自分が求めている何かを他人が手に入れようとしている。

その時に感じる焦りや不安感、そしてそれが作り出す苛立ちを嫉妬心と言うのだろう。わかりやすい感情だけれど、ここまで明確に嫉妬心というものを意識したのは初めてだった。

 嫉妬心はときに心強い味方になる。他人より勝ろう、他人を攻撃しよう、という気持ちは自分を駆り立ててくれるし、少なくとも至らない自分を憂う惨めな気持ちを忘れさせてくれる。そのために私は何度も上原先生に声をかけようとした。水無瀬先生みたいに可愛らしい仕草で上原先生に迫り、そして水無瀬先生が実は女子の前では冷酷な面があるのだと教えてあげようとも思った。けれど、そんなことをこの私ができるはずもない。

 他人を攻撃するということは、他人に攻撃されても文句を言えない立場になるということだ。いつも他人の間で、うまく攻撃されないように逃げている自分がそんな立場に躍り出るなんてできるはずもない。

私に自分を信じてあげられるだけの何かあったなら。

私はずっとそれを探していた。だからこそ、私は上原先生に心を揺さぶられたのだろう。あのひと気のない廊下で、彼が何かを見つけたかのようにじっと私を見つめたから。彼に見えた私の中の何かを彼に教えて欲しくて。

 でも、もしそれが彼の見まちがえだったとしたら?

 あのとき、確かに彼は振り返り、そして私の深い奥底までをじっと見つめた。けれど、わずか数秒見つめたのちに彼は何事もなかったかのように言葉を発した。風でカーテンが舞い上がり、暗かった部屋が光で満たされる。しかし次の瞬間には、カーテンは再び窓を塞ぎ部屋は暗闇に沈む。彼の表情の変化はまさにそんな感じだった。

 だから、私は「あの廊下での出来事がただの見まちがえであったのかもしれない」と思うと、上原先生に話しかけることさえできなかった。私は自分の中に他人を強く惹きつける、自分でもまだ知らない何かがあるのだと思っていたかった。

 

 遠くで進藤さんが上原先生に何かのメモのようなものを渡した。木漏れ日がちらちらと目の前で踊って、その後上原先生がそれをどうしたかまではわからない。ただ進藤さんは上原先生のところから離れると、ゆっくりと私の方に向かってきた。

「ありがとう。今日はほんま助かった」彼女の関西弁がどことなく懐かしく感じられた。

「ううん。お役に立ててよかった。目的は果たせたの?」

「うん。まぁ、一応な。うちにとっては、これがスタートみたいなもんやし、あの人とはこれからどうなるかわからへんけど」そこで彼女は一度振り返ろうとした。しかし、何かを決心したようにまた私の方に向き直ると、無理矢理に笑顔を作って言う。「なぁ、できれば連絡先教えてほしいんやけど」

「え? 私の?」

「当たり前やん。それ以外、誰かおる? うち、あんたには見えへん誰かと喋ってるように見える?」

 そう言って進藤さんは笑った。口調とかは私とたいして変わらないのに、喋っている言葉が関西弁というだけで私は何か愉快な気持ちになった。私はスマートフォンを取り出して「いいよ。じゃあ、進藤さんのも教えて」と言った。

「進藤さんはやめへん? 水奈って呼んでええよ」

 水奈は何か張りつめていたものがぷっつりと切れたような笑顔を向けた。数分前までの彼女がいかに緊張していたのかがよくわかった。そしてそれと同時に、私の心の中には何とも言えない温かさが広がっていった。まっすぐ私を見つめる切れ長の目。私は上原先生にじっと見つめられた時のことを思い出した。