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音楽や小説など

凛として時雨「#4 for Extreaming Live Edition」ライブレポート

2005年に発表されたアルバム「#4」。そこから15周年を記念してのリマスタリングアルバム「#4 -Retornado-」発売と、ライブ「#4 for Extreaming Live Edition」の配信。

今回は、そんな凛として時雨として初の配信ライブを視聴した感想を書いていきたいと思います。

 

 

1.ちょっと長めのライブレポート風ライブレポート

グッズ紹介と穏やかなBGMの中、静かにPCの前に待機している時間はまさにライブハウスで開演を待っている時のあの感じ。期待や緊張感、そして何とか押さえつけている高揚感が胸の内に広がっていきます。

そしてすぅっとその穏やかなBGMが消え、暗転。薄暗いスタジオの階段が映し出されると、すかさずSEが鳴り響きます。初めてイヤホンで聴くSEはいつもライブ会場で聴いているよりもより生々しく、そんな中ゆっくりと歩いて3人がスタジオに集結していきます。機材やライトが暗闇の中で鮮明に映し出され、3人はトライアングルを描くように向かい合い、それぞれのセッティングに入ります。足元の瀟洒な絨毯を踏みしめ、黙々とセッティングに向き合う姿からは既に並々ならぬ集中力が醸し出されています。

SEが消えるのに被さるようにTKのギターが煌びやかな音色で「Sadistic Summer」のコードを1弦ずつ、ゆったりと慣らしていき、それがスタジオを満たしていきます。そして、挨拶も無いままにピエール中野が2カウントを刻み、楽曲がスタート。一聴して「Summer」と「Sadistic」を感じる印象的なイントロから、まさに凛として時雨らしい変則的で独特な流れが生み出されていきます。攻撃的ではあるけれど、ノスタルジー溢れるサビは、15年経った今でも色褪せることなく、私たちを遠い夏の空の中へと吹き飛ばしていきます。

そして、勢いそのままにすかさず「テレキャスターの真実」のイントロ。歯切れの良いギターが冴え渡ります。そこへ重低音のベースと、テクニカルなドラムが加わり、一瞬で凛として時雨の「音」が結実します。制作当初はその疾走感に皆が魅了されましたが、年を追うごとにこの「テレキャスターの真実」という楽曲が本来持つ「うねり」が見事に表現されるようになってきました。今回の配信ライブでは、3人が掛け合わせる独自性の高いタイム感を細部まで聴きとることができ、楽曲は新たな剥き出しの生命力を放ちます。

ギターのハーモニクスが残した残響が引き千切られると同時に「CRAZY感情STYLE」の印象的なドラムが弾けます。グルーヴという概念を覆す、疾走感に身を委ねる楽曲。しかし、キメでは一切のズレがありません。楽曲の展開に合わせ、怪しさの紫、疾走する青、ストイックの白といった風にライティングも目まぐるしく移り変わり世界観を補強します。特に、「僕のせいで死んじゃえばいいよ」のキメが生み出す「真空」は鳥肌ものです。

重く歪なノイズから始まったのは「トルネードG」。アルバムと同じ曲順で胸が熱くなります(なお、アルバムでは「CRAZY~」のトラックの最後に「トルネードG」へと続くノイズが僅かに含まれているので、その当時の制作意図をきちんと汲んだ形となります)。当時のアルバム音源では透明に駆け抜けていく印象が強かった本楽曲ですが、鋭角なキメと、燃え滾るような間奏によって激情を引き出される感覚があります。これは特にバスドラムを中心とした低音の力強さが効いているからでしょう。

間髪入れずに「O.F.T」が開始。歯切れが良くありながらも、浮遊感のあるエフェクトがかかったTKのカッティングギターから始まり、345のボーカルを引き立たせるピエール中野の的確な8ビート。アルバムの中でも屈指の歌のメロディラインを余すことなく聴かせます。345のパート中では、TKが多彩なテクニックを使用し、アルバム音源以上の壮大な世界観を作り上げていました。ラストの転調してからの、重なり合うTKと345のボーカルはまるで嵐のように私たちの心を連れ去ります。近年の楽曲では、TKと345のパートが明確に分離されていることが多いため、違うメロディを2人が歌う本楽曲はその構成だけでも凛として時雨の中では突出した楽曲となっていることを再認識します。

静けさの中で寂寥感を含んだアルペジオが鳴り響き、始まった「Acoustic」。冷たい海を照らす灯台の光のように、矢のようなライティングがゆっくりと回転し、ノスタルジーを感じさせます。中盤はノン・ボーカルで楽器のみにより「破壊」と「創造」を表現しきります。昔からのライブアレンジもあり、ラストは溢れ出すカオスに溺れたのち、斧でロープを断ち切るように突如として無音に還ります。

静寂の後、不気味なギターの雨音が空間を埋め尽くします。細かく粒だったディレイが降りやまない雨を降らし、その冷たさを保ったまま、「ターボチャージャーON」の世界が目の前に開けます。美しい歌のメロディラインの背後では音が氾濫を起こし、あらゆる事物をその飛沫で濡らしていきます。間奏では止まない雨の中、ほんの少しだけ雲が薄くなり、太陽の暖かみが大地に降り注ぎますが、そんな光の中も雨は激しさを増していく…そんな世界観をピエール中野の無限の手数が表現していく様に圧倒されます。

前曲に引き続き2弦にカポをはめたまま、攻撃的に歪んだ無骨なアルペジオが次の楽曲への期待を高め、そのボルテージが最高潮に達したのを見計らうように、ピエール中野による4カウント。何度でもその激情と疾走感の中に私たちを誘ってくれる「Telecastic fake show」が遂にその姿を現します。カメラワークも激しさを増し、眼には見えない狂気を映し出します。「#4」というリミッターが振り払われ、スタジオの空気はより濃密で狂気的な凛として時雨の色へと染め直されます。

まるで最早場外乱闘の様相を呈しだしたスタジオライブは、次の「DISCO FLIGHT」によってさらに混沌を極めていきます。深く歪んだベース音、怪奇的な暗幕を切り裂くように、イントロのギターが無数のミラーボールを宙に映し出します。事実、冷色のミラーボールはスタジオに雨の渦を巻き起こし、雨は星となり、宇宙へと私たちを誘います。恒星の灼熱を思わせるようなライティングの中、カオティックなギターソロが空間を食い破ります。345のハイトーンボイスとTKのシャウト、そこに狂ったようなドラミングが畳み掛け、一瞬の静寂の後に、最後の混沌が楽曲を締め括ります。

無骨なテレキャスターの音が世界をリセットしたかと思えば、それは鋭いピッキングによって打ち切られ、凛として時雨以外では絶対に聴くことのできない、ユニークかつクールなリフを持つ「想像のSecurity」へ。もともとドラムの手数が尋常じゃない本楽曲ですが、生々しいタムの音が有機的な感触を増幅してくれます。ラストの345のパートでは、スネアのタイム感が音源と大きく異なり、より激しい切迫感を演出。演奏技術の進化が、楽曲に新たな息吹を吹き込んでいる事実を目の当たりにします。

ハウリングの後、ギターの音色がオレンジ色に染まり出します。新しい朝を思わせるような閃光を背中に受け、TKが神々しい影となり、「鮮やかな殺人」の一節を歌いあげます。初期衝動は時の奔流の中でノスタルジーとなり、そしてそのノスタルジーはライブという熱の力場によって、また鋭い衝動を模ります。「鋭角殺人トリオ・狂気:プログレ凛として時雨」という名にふさわしい鮮烈さを失うことなく、今もここに存在し続ける奇跡に胸が熱くなります。

そして、そんな美しい懐古心すら切り殺すように「TK in the 夕景」の超速アルペジオが血飛沫を撒き散らします。そこにはある種の非情ささえ感じるほどです。一瞬の隙さえも見せず、楽曲は展開していきます。アルペジオをかき鳴らしながら孤独の中で「僕らの未来を見さしてくれ」と歌うTKに続き、次は345がまるで古いフィルム写真で撮ったような懐かしい景色を柔らかく半透明な声で歌い上げます。「風は少し紫色。夏の匂いに。丘が見える。白い家を。君が探す。2人の少年。僕を笑う」。そこからさらに楽曲派予測不能な展開を見せていきます。理性を壊すサイレン音のようなギターソロ。かと思えば、優しいTKのアルペジオの中で345が再び幻想的な風景を引き連れてきます。そして、楽曲はラストのカオスへと向けて、何一つ猶予を与えず駆け上がっていきます。そして私たちは静寂の中へと放り出されます。

MCもなく、私たちと凛として時雨というバンドはライブのラストを飾るに相応しい「傍観」の序章へと足を踏み入れていきます。柔らかく温かく心地よささえ感じさせる「痛み」。その具現化のような前半が赤い血の光の中でゆったりと時間を押し進めます。ほんのひと時、冷たく幻想的な青のライティングに身が浸され、神秘的な世界観が脳裏を過ります。が、それは波が押し寄せる前に、一度深く引いていっただけに過ぎません。「僕は汚いよ」「僕は見えますか」「僕は死にたい」というもう一人の僕という傍観者の言葉をトリガーにして、自らに潜む狂気が再び血の赤の中で吐き出されていきます。形容不能のカオスに全ての空間が支配され、音以外では語ることのできない激情に包まれ、それはもはや音楽というジャンルを超越した純粋な表現となって弾け飛びます。後には意味消失を意味するためだけのハウリングが取り残され、ライブが終幕を迎えます。

スタッフロールの後は、再び私たちを夢から優しく覚ましてくれる、開演前と同じBGMがゆったりと流れます。ここまでが凛として時雨のライブ。

お疲れさまでした。

 

2.感想

と、まぁ、巷に出回っているような「ライブレポート」っぽい感じで、私もライブレポートを書いてみました。「カッコいい語彙」ってなかなか難しいものですね。

ここでは少し冷静に、今回の配信ライブの感想について話していこうと思います。

まず1番感動したのは「傍観を演奏してくれたこと」です。「#4」を軸としたライブなんだから「傍観」をやって当たり前と言えば当たり前なのですが、凛として時雨というバンドが「傍観」を自前で映像化したのは今回が初ではないでしょうか。色々な「傍観」のライブ映像が出回っているものの、それらはフェスや対バンのような凛として時雨が自ら企画したライブのものではありません。初期こそ、特典DVDとしてライブ映像を販売していましたが、時雨はずっとライブを映像化してこないバンドでした。YouTubeの公式チャンネルにすらライブ映像はありません。中でも、昔からよく最後の曲として演奏されていた「傍観」は初期の特典DVDにも収録されていません。

なので、そんなある意味では「ライブでしか聴けない」という付加価値が最高に高まっていた「傍観」は、「もしかしたらやってくれないだろうなぁ」とも思っていました。が、意外とあっさりとやってくれましたね。めちゃくちゃ嬉しいのですが、同時にほんの少しモヤモヤした気持ちもあります。1回生で「傍観」を観てしまうと、安易に映像化してほしくない!と思ってしまうほど、やはり「傍観」という楽曲の持つパワーはすごいと思うのです。とは言え、やっぱり演奏してくれて嬉しいは嬉しいんですけどね。ライブハウスで聴けない今だからこそ、こうやって配信で聴けたことは幸せ以外の何者でありません。

そして、そんな「傍観」は置いておいて、セットリストに関してもなかなか感動させられました。「#4」では特に「ターボチャージャーON」が好きなのですが、ネットで漁ると出て来る「Live Cheers!」の低画質・低音質のライブ映像のときとは違ったアレンジがなされていましたね。実はあのアレンジが好きだったので、できればそっちのパターンも観てみたいな、という欲が出てしまいました。あとは、「トルネードG」なんかも結構レアな気がしますが、どうでしょう? 上でも書きましたが、本当にただ駆け抜けていくだけでなくて、キメにはきちっと重みがあり、より立体的になった印象がありました。「#4」以外の楽曲を「Telecastic fake show」や「DISCO FLIGHT」、「想像のSecurity」といったメジャーデビュー前の楽曲で固めてくれていたのも良かったです。素直に品の良さみたいなのを感じました。あとは「#1」を意識して、「鮮やかな殺人」⇒「TK in the 夕景」⇒「傍観」という流れを最後に持ってきてくれたのも良かったです。まぁ、本来なら「傍観」ではなく「Ling」なんですが、「Ling」をやらない以上は「傍観」で間違いないです。「テレキャスターの真実」ではなく、「Sadistic Summer」が1曲目だったのは少し意外でしたかね。でも、なんだかんだ突き詰めていくと今回の曲順にはなりそうな気がします。

配信ライブというところで音質も少し気になるところですが、低音までボリューム感があり、非常に満足のいく音でした。3ピースバンドですから、埋もれてしまう音も少なく、無駄にエコーがかかり過ぎている感じも無く、ギターのカッティングもかなりジャキッと歯切れが良かったですし、ドラムのタムなんかも何とか粒になって聴こえてくるくらいですから、かなり良い感じだったと思います。もちろん、音質に関して言えば、私の側の再生機器の問題もあるのであまり滅多なことは言えたもんじゃありませんが。唯一ちょっとだけ我儘を言うなら、TKのギターの高音がもう少しだけとんがっていた方が好みでしたかね。まぁ、色々なバランスを考えるととても難しいんでしょうけれど、やっぱり生のライブで何よりも刺激をくれるのは、TKのギターの高音成分であるように個人的には思っているので……と、完全に余計なことを書いてしまいましたね。でも、本当に想像以上の音の良さで(特に3ピースバンドの良さを引き出すという意味で)大変驚かされました。

ライティングに関しても先日のTK from 凛として時雨の方の配信ライブのときよりもよりシンプルで、今回のライブのコンセプトに非常に合っていると思いました。何でも派手に煌びやかにすればいいという訳でなく、凛として時雨の持つストイックさみたいなものを表現する上では、やはり必要最小限の絵具でどこまで魅せられるかということがポイントになりそうですもんね。そういう意味では、カメラワークも含め、映像全体から有機的でありつつ、強いストイックさみたいなものが感じられて最高でした。衣装に関しては、ピエール中野さんのパンツが水玉で「らしいな」と思いましたね。

あと、最後の演出も非常に良かったですよね。ギターを投げた後のTKをほんの少しだけ追ってくれたのが個人的にはとても嬉しいポイントでした。あの十数秒があった後のギターのアップと鳴り止まないノイズ。3人ともが捌ける瞬間が映像で映し出され、特に最後のTKはほとんど完全にスタジオを後にする……やはりそこまで見せてくれたからこそ、取り残されたスタジオからはより一層哀愁を感じ、味わい深く感じられるんだと思いました。

 

3.余談

いま、私は「適応障害」という「うつ病」の手前みたいなものに罹っているのですが、こうして生きる楽しみがあることには非常に感謝しなければなりません。でも、まぁ、そんなのは私が病気だろうが何だろうが関係のないことで、むしろこの「余談」で私が伝えたいことは別にあります。

これだけ愛して止まない凛として時雨のライブですが、正直、途中から「早く終われ~」と願ってしまっていました。というのも、「適応障害」というのは簡単に言えば神経が過敏になり、しかもその過敏になった神経を抑制する脳の機能も低下しているという状態なので、これだけ刺激的なライブをされると正直体的に、脳的にキツイのです。

大好きなものでも、刺激を受けるとキツイ(落ち着かなくなったり、不安感が増長されたりする)というのは私にとっては目から鱗で、「あぁ、自分まだ治っていないんだなぁ」と実感することができました。こうやって1つひとつ自分の状態をきちんと認識したうえでちゃんと治療を進めていきたいと改めて思いました。

うーん、この余談は本当に必要だったかな?

まぁ、良いでしょう。どうせ誰かに読まれるということもないでしょうから(笑)。

 

ということで、総じて「素敵なライブをありがとうございました!」。

適応障害と診断されまして… vol.19

適応障害と診断されて24日目(11月7日)の夕方、この記事を書いています。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

今日は診断されて23日目(11月6日)のことと、24日目(11月7日)に心療内科を受診した結果について簡単にお話したいと思います。

 

 

1.適応障害と診断されて23日目~頭痛・無気力状態・罪悪感~

前回記事の末尾でも書きましたが、22日目の夜にあまりにも久しぶりにリラックスした気分を得られたので、夕食後薬を服用し、その2時間後くらいにちょっと調子に乗ってウイスキーを飲んでしまいました。結果、翌日酷い頭痛が…そのせいで1日中何もできませんでした。薬と酒がスカイラブハリケーンを決めてきたような感じだと思っていましたが、酒が抜けているはずにもかかわらず、24日目の夕方でもまだその頭痛が抜けていません。初期症状こそ薬と酒のスカイラブハリケーンかと思っていましたが、どうやらそうではなく、単純に薬の副作用か適応障害の症状ですね。

23日目はとにかくその頭痛と無気力状態に悩まされました。そして、テレワーク開始の手続きを取ったはいいものの、まともに起きていることすらできない自分に罪悪感を感じてきます。気分は落ち込みきり、電気を消して、イヤホンで耳を塞ぎ、曖昧な眠りと覚醒を繰り返します。次第に頭も混乱してきますが、幸いにも取り乱すまではいかず、ただただ罪悪感に包まれながら眠るのみです。

論理的に自分の状況を見つめ直すだけの気力も湧いてきません。ただ1つだけ、自分の頭を支配しているのは、「とにかく今は何も頑張らない方が良い」ということです。

 

前回のブログにも書き記したように、これまで私は「復帰」という目標に向けて、有休の残り日数を計算に入れながら自分なりに計画的に動いてきました。1日として無駄な日が無いというほどに。病気の仕組みについて調べ、それをまとめ直し、認知行動療法なども積極に取り組みながら、特に毎日このブログを書き続けることで、「回復」の実感を得てきたように思います。上司への報告で「病気に対してもストイックだね」と言われてしまい、それが何だか誇らしかったくらいには私も自分なりに「復帰」を目指してやって来ました。その甲斐もあってか、上司からはある種禁じ手とも言える、提案をしていただきました。転勤してから初めて認めてもらえたものが「病気に対するアプローチ」だったことには少し笑けてきますが、とにかく私はこの病気から立ち直り、「復帰」するためにでき得る限りのことはやって来たつもりです。

しかしながら、その結果、まだ治り切っておらず、「復帰」は無理という判断のもと先日上司と話し合いの場を持ちました。「傷病休暇の前にこんな禁じ手もあるけれど」という提案をしてもらい、とりあえずその提案に乗っかることにしてみました。上出来の成果です。あと1か月くらいは休める…その安心感から22日目は非常にリラックスでき、久しぶりに気持ちよく息をすることができました。会社からちょっとした業務指示は出ているけど、それは明日から頑張ればいいじゃん!という感じで、22日目は本当に心底リラックスしておりました。

 

ですが、薬と酒のスカイラブハリケーンのせいで出鼻を挫かれ、23日目は何もできず、強い罪悪感に襲われます。その罪悪感はまたあの嫌な不安感を少しだけ引きずり込み、気分が滅入ってきます。「でも、明日がある…明日は元気になっているはず」と、そんなことを考えながら、何もできなかった1日を終えます。

 

2.適応障害と診断されて24日目~愚痴~

24日目の朝、またじっくりと時間をかけて起床します。そして、まだ続く頭痛。とっくにお酒なんて飛んでいるはずなのに…いったいどうして。

そして、未だに昨日から続くあの無気力状態から脱せていません。体は夏休みの登校日に校舎に転がり込んできた蝉のように、ほとんど力を失っています。どうしてこんなに辛いんだ…と、その時にはっと1つの考えに達します。

反動だ…

おそらく私は適応障害になってからずっと、体や心がバラバラになってしまわないように力んでいたのだと思います。そして「復帰」という具体的な目標があり、そこに向けて弱っているなりに全力で取り組んできました。多少無理をした部分もあったかもしれませんが、それでもできるだけ負荷のかかり過ぎないようなやり方を選んできたはずです。ただし、塵も積もれば山となるという感じで、あの忘れもしない11月2日の自殺未遂で1度ネジが弾け飛びます。

何とか飛び散った自分を集めて、11月4日に職場の上司との面談を実施し、「復帰はまだ無理です」という前提のもと、妙案で乗り切っていくよう新たに舵を切りました。しかし、「復帰は無理」、「時間をかけて治療していこう」と思った瞬間に、それまで自分の中に張り詰めていたものが途切れてしまったのでしょう。「復帰」という目標が消え去った今、私の体と心は完全な無気力状態となってしまいました。

いったい何度こういうことを繰り返せばいいのでしょう?

頑張り過ぎた結果、爆発してしまった。何とかそこから持ち直し、「復帰」という目標を達成すべく慎重にまた頑張る。でも、そこでまた無理が祟ったのか、再度大爆発。もう無理をしないよう体の力を抜いてみたら、今度は自然崩壊で無気力状態に。どれだけ余裕値の小さな天秤ゲームをさせられているのか。

「うまくバランスを取りなさい。ただそれだけです」

「いやいや、私はそんなに体幹を鍛えてないですよ。ていうか、この背骨を真っ二つにされた状況でどうやってバランスボールの上に立てと言うんですか」

はっきり言って、「無茶言うな」って話です。そもそもそんなことができるような人間だったら最初からこんなことにはなっていないでしょう。不器用なりに、バランスボールの上に膝立ちをして、後ろ手をつくような不格好な体勢でバランスを取れるようになっていた私。そこに「転勤」というローキックをかまされ、私はものの見事にバランスボールから派手に落っこちて、背骨が砕け散りました。

とりあえず私は上司に乞うて、バランスボールから一旦降りて言いということを仰せつかりました。ですが、それでも私は未だにシーソーの真ん中に立たされているような気分です。背骨が折れているにも関わらずです。もう些細な体重移動が、また大きな事故に繋がりかねません。頑張れば爆発、力を抜けば自然崩壊。今は頑張っていたところから急に力を抜いた反動で、とんでもない無気力状態に捉われています。この無気力を売ることができれば、ボートウォーク(ボードゲームモノポリー)にホテルを建てられますよ、きっと。

 

3.適応障害と診断されて24日目・続~心療内科受診結果~

前章ではだらだらと愚痴を書き過ぎてしまいましたね。でも、おかげでちょっとすっきりできたので、今日の心療内科での受診結果を書いていきます。

まず、私はこれまで私が取り組んできたリハビリ(職場に顔を出してみよう)とその結果について伝えました。前回のお医者様とは違う方だったのですが、今日のお医者様は結構バシバシものを言うタイプのお医者様らしく、端的に私にこう伝えてくれます。

「環境員による適応障害ということでね。回復の方法ははっきり言って3つです。

 ①退職=環境を変えて1からやり直し、治療をしていきましょう。

 ②休職=1度しっかりと休んで治し、そこから復帰を目指しましょう。

 ③服薬しながら勤務続行=残業をしないなどの周囲のフォローを得ながら、です。

 今回、あなたが頑張って③のデータを集めてくれたわけですね。で、結果的に3時間で吐き気や眩暈が抑えられなくなる…ということは、③は厳しいですね。はっきりとした症状が出ているということは、それは③のやり方があっていないし、無理があるということです。あなた自身、少なくともすぐの復帰は無理と感じて、休職を視野に入れているんでしょう。その通りだと思いますよ。実際、その③の実験から来る負荷と断言できるわけではありませんが、あなたは死にそうにもなっているわけですから。あと、言っておきますけど、もう1回自殺未遂ということになると、それはもう入院になりますからね。それだけはしないと私と今ここで約束してください」

短い診療時間の中で、なかなかちゃんと詳しく正確に私の状況を伝えられたわけではありませんが、とりあえず私は自分が思っているよりもやや深刻な状況にあることがわかりました。特に「③のリハビリで反応が出たならまだ治っていないんだから、無理はしない方が良い」というのは、私も自分の中でそう感じていながらも、なかなか自信を持てていない部分でした。それをきちんとお医者様から言っていただけたのは、会社に対して説明を行う上でも、非常に説得力が増します。

実際、私は職場に顔を出した時は持ち前のかわいこぶりっ子で「まだちょっとキツイっすねぇ」とはにかんでしまうような人間なので、私がどれくらいキツイかということがイマイチ伝わりにくいというところもありました。まだ2週間と一緒の時間を過ごしていない人たち相手ですから、致し方ないとは思っていますが。

③は確実に無理。それなら②に専念した方が良いというのがお医者様の意見でした。あまり中途半端なことをしても、症状に苦しむだけでちゃんと回復できる可能性はそう高くないということです。「だって明確な症状が出ているんでしょう?」というようなことを何度も言われました。だったら休んだ方が良いです。無理することないです。

 

さて。お医者様の仰ることはよくわかりました。また、自殺未遂のことを話したら、「薬増やしますか?」と言われました。すぐさま「結構です」と私は断ってしまいました。私自身は回復に向かっているつもりだったので、「薬増量=症状の悪化」ということを認めたくなかったわけですね。でも、実際どうなんでしょう。私はやはりそうは言っても「回復している」と思うのですが、今日初めて会うお医者様的には「症状が悪化している」と捉えられたみたいです。上司も両親も「回復してきたね」と言ってくれていますが、でも自殺未遂をしでかすような私は本当に回復していると言えるのでしょうか。

これまで私なりに論理的に考え、データを集め、自分の状態を検証してきたわけですが、よくわからなくなってきました。お医者様の言葉を全部信用したわけではありませんが、確かにここ数日間のとてつもないナマケモノ以下の無気力状態を考えると、一概に回復してきたとは言えない部分があります。事実、今の私にはもはや生きる気力さえ湧いてこないのです。運良く死ぬ気力も湧いてこないので、ただ苦しい時間が通り過ぎていくだけです。でも、こんな状態が続けば、そのうちにまた私は事をしでかしてしまうかもしれません。

希望ってなんでしょう?

例えば、「あの人みたいな人生だったらなぁ」とか「こういう生き方をしたい」とか、「あれが楽しみ」とか「この時間が至福」とかそういうのを希望って言うんですかね。これは拗ねているわけでもひねているわけでもなく、ただ今の私にはそういうことすら思えない…思うだけの気力が湧いてこないのです。あの人みたいな人生もいらないし、どんな生き方にも惹かれないし、何が楽しみということもないし、どういう時間が至福なのかもよくわかりません。一昨日の夜にはそれが何だかちゃんとわかっていたし、実感もできたはずなんですけれど。おかしいもんですね。

でも、きっとこういう気分も一過性のもの。こうして文章を書いている間に、ほんの少しですが頭痛も収まり、ほんの少し意識もはっきりとしてきました。

多分私はまだしばらく混乱の中にい続けることになると思います。完全な休職ではない分、そのことが重荷になってより混乱を来す可能性もあるでしょう。ただそんな状況にあっても…例えば、11月2日に書いて、その後くしゃくしゃにして捨てた遺書をゴミ箱から拾って、机の端に置いてしまったような今日でも、まだ何とか命を繋ぐことはできる。シーソーは酷く不安定です。おまけに背骨は粉々。いつ足を踏み違え、体が放り出されるともわかりません。でも、繋ぎさえすれば「何か」があるんでしょう。その「何か」は希望なんかではないし、十中八九「苦しみ」であるでしょうけれど、でもそもそもの私の人生は苦しみを受け入れることを前提としています。そういう思想なんです。だったら別にそれでいいじゃないですか。希望という光は必ず苦しみという影を生み出すのですから、全ての希望を捨て去って虚無の中に沈むことこそが私の矜持です。だったら、今さらその虚無の何を恐れるというんです?

と、また訳の分からないことを書いてしまいましたね。

 

シーソーのバランスを取るためにも、最後に今日あったちょっとだけ素敵だと感じたこと書き留めておきます。残念ながらこれらは希望と言えてしまうのかもしれませんね。

・昼前に病院に行ったけど、しばらく食欲が出なかった。でも、1時間と少し散歩をしたらお腹が減って来た。

・空いていそうな喫茶店で食べたミートソーススパゲティとケーキ、コーヒーセットが美味しかった。

・喫茶店のウェイターの女の子はまるでメイド喫茶みたいなコスチュームをしていて素敵だった。

・転勤の祝いの品で貰ったブックカバーに合う栞を探したけれど、見つからなかったので、厚紙で自作することにした。綺麗な色の厚紙がいま11枚手元にある。

・これから凛として時雨の配信ライブだ。

そんなところです。

ちなみに食欲が無いので、今日の夕飯は職場から貰った期限切れの非常食用クラッカーと、買い置きしていた茶わん蒸しです。ミカンも1つ食べました。命が繋げさえすれば…というやつです。

 

次回

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適応障害と診断されまして… vol.18

この記事を書き始めたのは、診断されて22日目(11月5日)の夜10時頃です。おそらく、明日の朝起きてまた続きを書いて、投稿することになるでしょう。

 

※今回の記事では特段何も起こりません。ただの日記みたいなものです。

 

前回

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この記事を書くにあたって、今の私が書きたいことは今日の出来事やなんかではなく、ただ今の緩やかで柔らかな気分だけです。なので、時系列が前後することを先に断っておきます。

 

1.適応障害と診断されて22日目~夜のちょっとしたひとり言~

「霧氷」を書き上げてしまって、今のところ私には何も書くべきことがありません。基本的にはここ7年くらいは常に私には何か書いているものがありました。もちろん、1つを書き上げてからもう1つを書き始めるまでの間には、それなりの空白期というものもあったのですが、それでも基本的には私には「何かを書きたい」という小さな衝動がありました。

もちろん「書きたい」と思っても書けるものではありません。3ページくらい書いたはいいけど、そこから3ヶ月くらい1文字も進まないなんてことはざらにありますけれど、それでもその3ヶ月の間中、私は常にまた次の1文字を書き進めたいなと思って過ごしていました。気分が向いて、素敵な言葉が浮かびそうになったら、とりあえずパソコンでワードファイルを開いてみるわけです。でも、実際に何かを書くことができるのはやはり稀です。だから、私は1つの創作物を書き上げるのに(たいした分量でないのにもかかわらず)だいたい1年近くかかってしまいます。

3日前に心ならずも「霧氷」を書き上げてしまい、今の私は空白期の真っただ中です。もちろんこうしてブログに日記みたいなことを書いていますが、やはり何かしらの創作物を書くということとは根本から異なります。今日もとりあえずは真新しいワードファイルを開いてみて、何かしら書けないかなぁと期待してみましたが、何も書くことはできませんでした。別に落ち込んでもいないです。書けない方が私にとっての日常なので。

自殺しようとしていたとき、私はこれまで書いてきた様々な断片をすっかりと消してしまいました。書き上げたものですら駄作なのに、形にもできなかったものはもはや恥以外の何物でもありません。ただ、3年前に書いたエンターテインメント寄りの書きかけの創作物(何かの賞に投稿しようと思っていたのかもしれません)が残っていました。とりあえずそれを読み返し、ちょとした文章校正をしてみましたが、全く以って続きを書く気にはなりません。書いてあることも、「今の私ならこう書くなぁ」とか思ってしまう部分がたくさんあり、きっとこの駄作も形にはならないんだろうなと思うと、少しだけ寂しかったです。今の自分には書けないであろう、素敵な部分も結構あるんですけどね。

 

……って、こんなことを書くために私はパソコンを開いたわけではないんです。

また次の章辺りで詳しく書くんでしょうけれど、今日の私はほとんど何もしませんでした。でも、思い返せば適応障害になってから「何もできなかった日」はあっても、「何もしなかった日」ってなかったですね。今日は1日だらだらと過ごし、久しぶりに心の休まるリラックスした日になりました。

思えば、大学生の頃から私は何も特別なことを求めてはいませんでした。ただ、音楽を聴いて、本を読んで、そこに世界があればそれで充分でした。あとはお酒があれば完璧!って感じです。

一昨日にNujabes目当てで買ったコンピレーションアルバムもなかなか素敵で、集中しては聴いていませんでしたが、「好みじゃないわ~」という感じの楽曲も無く、良い感じです。洗濯もしたし、昼間食べに行った家系のラーメン屋も、私が大学時代に通い詰めた世界一の家系ラーメンを踏襲したような雰囲気があり、なかなか良かったです。近くに皮膚科があることも発見し、また少しアトピーの症状が出てきたので、今度行ってみようと思いました。空は晴れ、空気は澄み渡り、日陰に入ると秋もそろそろ終わっていくのだなぁという感じです。

今は村上春樹の「ノルウェイの森」を読み返しているところです。もう何回読み返していますかね。読み始めこそ「そろそろ飽きたな」という感じもしていたのですが、やはり読み進めるにしたがって、少しずつ「あぁ、やっぱり良いなぁ」という感じです。ヒロインの直子が抱えている問題なんてまさに今の適応障害になってしまった自分とそっくりで、そこら辺の女子高生みたいに「それなー」とつい心の中で呟いてしまいます。ついさっきまで「ノルウェイの森」を読んでいたのですが、直子の2回目の手紙の中で「こうして文章が書けるということは本当に素敵です」と書いているのを読んで、つい私も文章を書きたくなりました。

今日は久しぶりにゆったりとした1日でした。久しぶりに1人きりで良いウイスキーを飲みながら、ローラン・ディアンスのギターを聴き、ノルウェイの森を読む。至福のひと時です。会社をサボっているという罪悪感もありましたが、でもたまには良いですよね。だって、自分で言うのもなんですけど、毎日私は結構ちゃんとやって来ましたよ……って、これは明日書くネタなので、これくらいにしておきましょう。

ただ、私が言いたかったのは、いま私は結構素敵な気分だということです。

薬のせいなのか、お酒を飲んだらちょっと頭が痛くなってきましたが、それを差し引いても久しぶりにリラックスした気分です。視線を少し左に逸らせば、れらぴがにっこり笑っていますしね。「対象がいなくても人は親密な気持ちになれる」みたいなことを私の創作物の「霧氷」の中で書いた気がします。でも、本当にそんな感じなんです。具体的に誰かにいま隣にいて欲しいわけではないんですけれど、今の私のこの気持ちを誰かに届けたいという気分なんです。だから、ついブログを開いてしまいました。本当なら、ちゃんとした創作物の中にこの気分を閉じ込めたいんですけれどね。なかなか上手くはいきません。

 

もう一度言いますが、私は別に多くの事を求めているわけじゃありません。ただ音楽と文章と季節があればそれで充分なんです(少し言葉が変わりましたか?)。今日はその事を久しぶりに思い出せた気がします。「幸福か?」と問われると少し困りますけれど、「足りてるか?」と問われれば、私はたぶんしっかり頷けるでしょう。「生きていたい?」と問われると困りますけれど、「そう悪くもないだろう?」と言われしまえば、「まぁね」と答えるよりほかありません。特にこんな宛のない親密さを抱えている日は。

と、そんな少し感傷的で、カッコつけの自己愛的な文章になってしまいました。すみません。でも、もうちょっとだけ続けます。

ここで一つ宣言をしておきます。

放っておいてもらえれば私は割と幸せに時間を過ごすことができます!

そういう風に訓練を積んできました。だからこそ、あまり会社だの何だのに振り回されず、自分を愛して無責任に生きていこうではありませんか。人生は意味のないボーナスステージです。大乱闘スマッシュブラザーズでラスボスを倒した後のスタッフロールで、あのビーム光線を打ってコインを稼ぐひと時。あれこそが人生です。そのことを今一度心に止め、まぁ、自分らしく生きていこうではありませんか。

酔いも良い感じに回って来たので、今夜はここまで。また明日。

 

2.適応障害と診断されて22日目~穏やかな1日~

さて、時を戻して22日の朝からの行動について書いていきます。

と、その前に少しだけ今の状況について書いておきます。これを書いているのは診断23日目(11月6日)の午前中です。

昨日の夜は上に書いているように、ちょっと調子に乗ってお酒を飲んでから寝てみました。順番的には、夕飯⇒薬⇒2時間⇒お酒という感じです。が、昨日の夜にもちょっと書いていた通り、もはや寝る前から頭痛があったのですが、今朝はそれがかなり酷かったです。どうやら薬を服用してからのお酒は控えた方が良さそうです。体調が悪いと必然的に気分も落ち込み、なかなかサイテーな気分です。本当は今日は職場に顔を出すつもりだったのですが、ちょっと今の感じだと厳しいかもしれません。しばし様子見です。

 

と、今度こそ22日目(11月5日)について書いていこうと思います。しかしながら、本当にたいしたことは何もしていない1日でした。このブログで逐一私の状況については書いてきたので時系列を追うのであればこの一連の記事を頭から読んでいけばいいわけですが、なかなかそれも面倒な量になってきたので、ここいらでもう少し簡易的なリストを作ってみました。

 

日付 診断されて 出来事 Blog No.
10月1日     異動初日。上司や周囲の人の厳しさに戦慄。 1
-       1
10月11日     休日にも関わらず殆ど眠れず。得体の知れない不安感が付き纏う。 1
10月12日     朝、会社に行けないと思う。電車で汗、眩暈。会社のトイレで泣く。夜勤。 1
10月13日     夜勤明け。うまく眠れず、完全なパニック。退職か休職を上司Aに相談。 1
10月14日     医療機関を受診。光トポグラフィー検査でうつ病と判明。上司Aと面談、有休消化で耐える方向性。実家へ。 1
10月15日 1 日目 実家近くの心療内科を受診。うつ病ではなく「適応障害」と診断される。 2
10月16日 2 日目 処方された薬の効能と副作用を実感。ブログを書き始める。 2
10月17日 3 日目 久しぶりに歌える。友人との約束、会社の研修に向けて一旦東京に戻る。 3
10月18日 4 日目 休日の会社に書類を取りに行く。友人と美術館へ。 4
10月19日 5 日目 会社の研修1日目。宿泊だが何とか耐える。 5
10月20日 6 日目 会社の研修2日目。何とか耐えきるも、実家への帰りの新幹線の中で疲労のピーク。 5
10月21日 7 日目 研修の疲れが出る。2回目の診療。五十肩の方も初診。薬を飲まない実験。 5
10月22日 8 日目 実験結果は、副作用の辛さなし。でも、1日中落ち着かない、強い虚脱感。 6
10月23日 9 日目 適応障害になった原因の再考察。認知行動療法とマインドフルネスのお勉強、実践。 7
10月24日 10 日目 治療拠点を東京に移すべく、再度東京へ。午後は会社の実習同期と深酒。 8
10月25日 11 日目 東京付近の心療内科で初診。環境因による発症と診断。前日に酔った勢いで約束した飲み会をドタキャン。 8
10月26日 12 日目 職場の前まで行く練習。秋葉原ハロショに初めて行く。 9
10月27日 13 日目 初めて職場へ。1時間だけ在社。その後、職場の人に飲みに連れて行ってもらう。 10
10月28日 14 日目 2時間だけ在社。1時間で吐き気、その波が短くなる感じ。夜は3日前にドタキャンした同期と飲み。 11,12
10月29日 15 日目 2日連続で会社に行った疲労感からか、適応障害の症状が強く出る。不安感から部屋の電気も点けれず。 12
10月30日 16 日目 番外編の執筆。会社では吐き気や頭痛が慢性化で3時間が限界と知る。大学時代のバイト先の後輩と食事会。 13
10月31日 17 日目 休息。現状の再整理。「復帰できそう」・「復帰は無理だ」のせめぎ合い。 14
11月1日 18 日目 日曜日、午前中の出社実験。2時間弱会社にいるも、帰って来てから適応障害が理解されてないことへの怒り。 14
11月2日 19 日目 午前中から出社しようとするも断念。「霧氷」を書き上げ、自殺未遂。10月13日と同じような状態に。 15
11月3日 20 日目 休息。前日の自殺未遂について考察。また、翌日の上司との面談に備え、「復帰は無理」の論を構築。 16
11月4日 21 日目 上司との面談。交渉の結果、テレワークでお茶を濁すことに。猶予期間はおよそ1か月。 17
11月5日 22 日目 テレワーク初日。でも、1日ゆっくり。久しぶりにリラックス。 18

 

こんな感じでざっとこれまでの出来事についてまとめてみました。

それなりに1日1日をきちんと活用してきたように思いますが、これでは少し休養が少なかったですかね。まぁ、そんな風な言い訳を考えて昨日11月5日はゆっくりと1日を過ごしてみた次第です。

朝はきちんと7時ごろに起床し、午前中は上のリストをまとめ直し、またvol.17の執筆に当てました。昼食を食べに外に出て、散歩も含めて1時間程度の昼休憩。午後はちょっとだけ会社の資料を読んだりしたものの、ほとんどをギターの練習や書きかけの創作物の校正をしたりして過ごしました。基本的には音楽を聴きながらゆったりと過ごしていました。特に大きな成果はなかったものの、少なくとも勤務時間中は何とか眠らずに起きていることができました。が、終盤からは暴力的とも言える強烈な眠気に襲われ、終業時間になるとすぐに昼寝につきました。どうやらまだ1日中起きているだけの体力は戻ってきていないようです(いま思うとよく研修中は耐えられていましたね。まぁ、もちろんちょっと耐えられなかった時間も何度かありましたが笑)。きつかったのは昼寝からの目覚め。やはり、薬の副作用のせいなのか、寝起きの体の重さが尋常じゃありません。疲れ果てて眠ったときのような倦怠感。体の痺れ。死ぬほど起きたくない…と思いながら30分くらいかけてほぐしていくと、何とか起きることができ、無事寮の食堂で夕食を食べることもできました。

と、そんな感じの特に何もない1日。おかげで久しぶりにとってもリラックスできたという感じです。それについては1章でダラダラと書いていますね。前進も後退もない1日でした。でも、そういう日が今の私には必要なんじゃないかなとも思います。本当なら傷病休暇を貰ってゆっくりしたいところだったわけですから、まぁ、こういう日があっても良いのかなぁと思います。とにかく、あまり焦らず、会社に甘えながら治療に専念していきたいと思います。罪悪感はハンパないですけどね(笑)。

 

思えばもう1か月が経とうとしています。転勤から1か月はもう過ぎてしまいました。1か月前はまさかこんなことになるとは思ってもみませんでした。というか、もはや1か月前が遠い昔の出来事のようです。転勤がなくて、ずっと地方にいられたら、きっとこんな経験せずに済んだんだろうなぁ……なんだか少しだけ悲しくなりますね。

 

3.適応障害と診断されて23日目~朝~

上にも書いたように酷い頭痛で本来起きる時間に起き上がることができません。でも、リモートでテレワーク開始の手続きだけはしなくてはなりません。何とかそれだけでも済ませると、もう一度就寝。会社の皆さん、本当にごめんなさい。でも、私は「傷病休暇でも良い」とちゃんと言ったんです。「まだ治っていない」と言ったんです。「甘えていいから」と言われたから、こうして甘えさせていただいております。お許しください。

十中八九「薬⇒酒」の流れが悪いのだと思います。低気圧も相まっているのか、酷い頭痛です。結局、まともに起き上がれたのは10時を回ってから。いまこうして記事を書いている間も酷い気分です。

本当ならば今日は会社に行って、テレワークするにしても必要な調べものとかをしてくるつもりでしたが、あまりに体調が優れません。ここで無理をして「会社に行こう」なんて意気込んでしまえば、今週の月曜(11月2日)のようなことになりかねません。無理はせず、落ち着いていこうと思います。

 

とりあえずシャワーでも浴びて、午後のことはまた後で考えようと思います。

 

では、なんか中途半端な感じになりましたが、今回の記事はここまで。

これからしばらくはこんな感じで、ただの静養メインの事件性の少ない記事が続くものと思います。

 

次回

eishiminato.hatenablog.com

適応障害と診断されまして… vol. 17

適応障害と診断されて22日目(11月5日)の朝にこの記事を書いています。

前回は20日目(11月3日)、21日目(11月4日)分の記事を書いている途中で、購入した「有線ピヤホン」のことを書き過ぎてしまい、結局21日目まで辿り着きませんでした。

そんなわけで今回は21日目に会社のお偉方と面談してきた結果について話そうと思います。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

 

適応障害と診断されて21日目(11月4日)

 

 

1.前置き

最初に書いておきますが、なかなか会社運営に関するデリケートな部分が多いため、あまり詳しくは書けないところがあります。「え? 結局、どういうことになったん?」と思われてしまうかもしれませんが、まぁ、経緯や伝えたいことがありますので、とりあえず書き進めていきます。

 

2.背景と目的

適応障害と診断されて12日目(10月26日)から私は「職場の前まで行く」というような復帰に向けたリハビリを始めました。その結果、3時間程度で吐き気や頭痛が慢性化し、ゆっくり休まないことには寮に帰ることもしんどいという状況になることが判明しました。この時点で、復帰にはまだ時間が必要だろう、と感じていました。が、まだ午前中に職場に行くリハビリはしていなかったので、今後の知見のためにも午前中に職場に行ってみることをしました。1日目(日曜日)は上手く実行できましたが、翌日2日目(月曜日)はそれに失敗し、しかもその流れであろうことか自殺未遂をしでかしてしまいました。

これらを踏まえて、私にはおそらく1か月程度のちゃんとした静養が必要だと感じました。1回すべて復帰やらそういったことを忘れ、ただただ治療に専念するだけの時間の必要性です。

やはりそれまで有休消化で何とかお茶を濁してきましたが、有休の残り日数も限界に近づいてきましたし、それ故の焦りからかなり無理なリハビリスケジュールを立てるしかありませんでした。回復の兆しはあるものの、私に残されている有休では復帰まで持っていけないという事実がある。ならば、1回正式に傷病休暇を頂き、転職についてでも考えながらきちんと静養し、治療に専念したいと考えたわけです。

その事を上司に伝え、「傷病休暇の獲得」ということを第1目標にして、その日は面談に臨みました。

 

3.面談における状況整理・上司からの提案

それまで何度かメールでやり取りや回復状況などを伝えてきましたが、ちゃんと面と向かって相談をするのは休みを頂いたときから2回目です。おそらく私の現状をちゃんと理解してもらっていないだろうな、ということで私はこのブログで書いてきたようなことをかいつまんで説明しました。

まず、リハビリの結果についての率直な感想を話しました。回復してきてはいるものの、まだ体が追い付かず、復帰は無理だということを伝えました。3時間で症状は抑えが効かなくなるし、午前中に無理をしてパニックになってしまったことがあった。そもそも、1日中起きていることがかなり難しいということを話しました。だから私にはどうしても傷病休暇が必要なのだ、と。

しかし、上司もそう簡単には傷病休暇を取らせてはくれません。というか、私の状態をより詳細に見極めたかったのでしょう。仕事のことを考えると不安感に襲われるのか、自宅でテレワークをすることは可能か、などといった質問がなされました。「仕事は確かにトラウマもあるし、負荷は大きいです。でも、それは仕事に限ったことでなく、日によってはあらゆる刺激がストレスになる日もあります。休憩を挟みながらテレワークをすることは可能な日もあると思いますが、その負担は蓄積して、確実に休息の日が必要になります。そもそも1日起きていることすらまだまともにできていないし、日常生活を営むこともままならない日があります」というようなことを私は答えました。そして、本当は話したくなかったのですが、何とか私の置かれている状況の辛さを理解してもらうために、「死のうとしてしまった」ことを話しました。どうしても涙を抑えることができませんでしたが、今思えば、その涙は多少効果を発揮したかもしれません。

何とか私の状況を理解してもらってから、ようやく「傷病休暇」に関する交渉が始まるか、という感じでしたが、1つ上司から妥協案が提示されます。

「まぁ、ちゃんと自分の体調とか復帰について考えて、気持ちの整理ができていることもわかった。だから、こういう提案を受け入れることができないかもしれないけど、あと数週間くらいテレワークってことで粘ってみないか?」

私は、「だからテレワークも厳しいって…」と再度説明しようと思いましたが、上司は続けます。

「負い目とか感じなくていいから、とりあえずテレワークってことにして、あと1ヶ月くらいだったら全然時間見るよ」

と言ってくれました。会社の信用などにも繋がるのでこれ以上、私は明言できませんが、要は有休消化で間に合わない部分があることは当然だから、うまくテレワークを織り交ぜながら良い感じで事実上の休暇を伸ばす方法を上司が提案してくれたわけですね。もちろん、正式な休暇でないため、どうしても期限物の報告物の提出や会社の公的な業務には参加しなければならない部分も出てきます。ただ、そこだけ上手く耐えつつ乗り越えらえるのであれば、もう少し復帰までの猶予ができたわけです。私自身、「調子の良い日もある」と言ってしまっていたので、「それは無理です」と引き下がることはできなくなっていました。さすが偉くなっている人たちです。これは悪口ではなく、賞賛の意味を込めて言いますが、「うまく丸め込まれてしまいました」。

10年働いていても、2年分の仕事しかしていないような人もいる。でも、成果主義というよりは年功序列に近い雇用制度だから、これだけ頑張っているのにあいつの方が給料を貰っている。色んなところでそんな愚痴を聞いてきました。だから、長い会社人生で考えたとき、30年のうちの1か月なんてどうだっていいじゃん。だろ?

私自身、完全復帰にはまだ時間が足りないから傷病休暇という方法を考えていたわけですが、そういった部分を見抜いた上で、代案を用意してくれていたわけです。

 

そこにはもちろん色々な意図があると思います。もちろんその1番目には私に対する配慮がランクインしており、それ以外の理由はないわけですが、とは言え色々と邪推することも可能です。

まず、傷病休暇の人間が職場で出れば、当然それを会社の上の方に伝える必要が出てきます。よくあることなので、別段職場が受けるダメージはそこまで大きくないと思いますが、当然その職場には良くないイメージがつきます。もちろん、それを管理している人たちにも。まぁ、1番ダメージを受けるのは「あいつは心を病んで休暇したことのあるやつだ」というレッテルを貼られる私ですが。傷病休暇なんて大事にしても誰も得をしないわけです。

次に、人財流出を防ぐという目的も考えられます。傷病休暇という完全なシェルターを与えた場合に、そこには当然「転職」という選択肢も浮上してくることでしょう。この人手不足の時代に人財の流出は避けたいというのが会社としての意向でしょう。退職者が出た職場や管理者に対するペナルティがいかほどのものなのか、そこまではわかりませんが、これも上と同じく誰も得をしません(まぁ、私は得をすることになる可能性もありますけれど)。

そして、これはどちらかと言えば、私の思い上がりかもしれませんが、私は今回の事に関して割に真摯に対応してきました。こんな多大な迷惑をかけてきたわけですが、それでもちゃんと病状を伝え、復帰に向けた動きを取り続けてきました。それにより「復帰の可能性」を感じ取ってもらえたのかもしれません。上に2つ理由を書いたように、「傷病休暇取得」におけるリスクは私だけでなく、私の周囲の人たちにも多少は存在しています。故に、もしそのリスクを個人の裁量で上手く回避できるのであれば、それは上手いことやった方が良いに決まっています。もし「こいつは当分復帰できないな。復帰する気も無いな」と思われていたら、もしかしたらさっさと「傷病休暇」の手続きに移っていたかもしれません。

と、まぁ、色々と邪推をしてしまいましたが、何よりも上司たちの優しさがあってこそ、今のところ私はまだ経歴上の汚点とならないような手法を取りながら、復帰に向けての療養を進めることができています。この点に関しては、本当に感謝をしなければいけませんし、今後の会社人生を使って恩返ししていかなければならないでしょう。いつの日か、「あの日、あいつに救いの手を差し伸べてやっておいて良かったな」と思ってもらえる利益をお返しできるよう、頑張っていきたいと思います。

 

そんな感じで私は疲労困憊しながらも寮に戻り、1つ安堵としてやられた悔しさが綯い交ぜになった微妙な気持ちを溜息にして、ベッドの上に寝転がります。

 

4.認知行動療法~「Shoud=Must」~

色々と調べてみて、認知行動療法の中の典型的な認知の歪みとして、「Shoud=Must」というものがあることを知りました。この「Shoud=Must」は私が勝手に考えた言葉で、調べたときには全然違う言い方をされていましたが、とりあえずこの「Shoud=Must」と名付けて話を進めていきます。面倒なので以下では「S=M」とします。なんかちょっと卑猥に見えますね(笑)。

認知の歪みには色々な種類があり、たとえば全ての悪いことの原因を自分のせいだと思ってしまう(例:子供が勉強できないのは私が妊娠中にポテトチップスを食べ過ぎたせいだ)ようなものや、完璧主義(例:契約書で句点を脱字してしまう自分はなんて仕事ができないんだ)などもそれら認知の歪みの1つの種類です。

そんな風に色々とあるものの中でもおそらく私が適応障害なんてものになってしまった最大因は「S=M」という、「すべきだ」が「しなければならない」になってしまう認知の歪みによるものだと考えられます。若干完璧主義的な認知の歪みもここには含まれていますね。

 

ちょっとした昔ばなしから始めていきます。

私は小学生の頃にサッカー部に所属しており、チームメイトがミスをしたりプレーの積極性を失っているとめちゃくちゃに怒っていました。そのせいで色々な人を傷つけてしまいました。今ではそれを反省し、傷つけた人に何かしらの明確な贖罪や補償ができているわけではありませんが、大学時代を通して自分の考え方を改めるよう努力してきました。ですが、私はもともと自分の中に「Shoud(すべきだ)」の基準があり、それはほぼ「Must(しなければならない)」の基準として機能してしまうような性格のようです。それが他人に向いてしまい、結果的に私は自分の中に勝手に作り上げた「Must」の基準に達しない人に怒りをぶつけ、傷つけてきました。

私は周りや自分に期待し過ぎないように心掛け、できるだけ穏当に、心を広くもつよう意識して生きるようになりましたが、それが前の地方の職場で少し変な形に歪められてしまいます。というか、自分で歪めることになります。

前の職場では私の所属しているグループの人たちがあまり仕事に積極的でない人たちが多く、心優しい人たちではあったのですが、よそのグループからは少しだけ冷ややかな視線を浴びていました。私はそれを改善したいと思い、自らを奮い立たせ、自分にプレッシャーをかけるような日々を過ごしてきました。常に積極的に動き、時には「お前と一緒に行くと大変なんだよなぁ」と思われてしまうほどでした。これはこれで反省したのですが、それでもグループとしてやらなければいけないことを達成するためには、やはりある程度は積極的に動いていく必要がありました。「だって、周りがやらないんだから、仕方ないじゃん!」という感じです。近くのグループの人は私のそのような行動を認めてくれ、次第に周囲の職場からも私は認められるようになっていきました。

隣のグループの先輩にそのようなことを話し、次第にあまり仕事に積極的でない先輩の愚痴を言うようになったりしながらも、まぁ、周りの人が認めてくれるし、自分で割と裁量を持って仕事ができていたので楽しい職場ではありました。若手でもやる気さえあればどうにかなるような雑用的な仕事が多かったこともあり、私は比較的早い段階から積極的に動くことができていました。

このような状況で私は会社人生をスタートさせたため、自分にプレッシャーをかけることが私のデフォルトとなっていきました。「Shoud(すべき)」を「しなくてもいっか」と考えてしまいがちな先輩たちに流されぬよう、「S=M」の考え方を自分の体に刻み込んでいったように思います。そして、その結果私は色んな人から認めていただけるようになりました。つまり、「S=M」が私の処世術の1つとなっていたわけです。そこでは一種の完璧主義のような歪みも育っていったように思います。

ですが、今年の10月に異動があり、私はやはり「S=M」の精神で頑張りました。初日から職人気質の上司にはっぱをかけられ、色々な「Shoud」が私の中に積み上げられました。また、私自身、前の職場で少しの経験があるので、私がこの新しい職場である程度独り立ちするためには、達成しなければならない「Shoud」がたくさんあることが見えていました。しかし、当然ながら地方と首都圏では私が対峙する技術や手続きは大きく異なり、完全な知識不足です。ですから、色々な知識を覚える必要があります。日に日に私の中に「Shoud」が積み上がっていきます。でも、それらの「Shoud」はもはや私の中では「Must」なのです。私が周囲から認められるためにも「S=M」の精神で1日に1つでも、1秒に1つでも多くの「Must」を達成する必要があったのです。

100%を出して「Must」を達成しようと思う。でも、達成しきれない部分が出て来て、さらに新しい「Must」が積み上がる。だから、翌日は110%を出さなければならないと思う。でも、また「Must」は達成しきれない。そうこうしているうちに、また新しい「Must」が積み上がっていく。上司や先輩から様々な「Shoud」を教えられ、それが私の中に「Must」として積み上がっていく。だから、次の日は120%を出さなければならない。でも、届かないからさらに次の日は130%を出さなければ…140%…150%…と、そんなことを続けていきます。200%を出すためには1分1秒すら気を抜くことは許されない。積み上がった「Must」を減らすためには、1秒も無駄にできない。2度同じミスをしている暇はない。今はキツイけど、この「Must」の山を崩し切った時、私は前の職場でそうだったようにようやく周りから認められるんだ。辛いのは今だけ。だから、明日は210%を出そう。いや、出さなければならない。

そんな負のループにハマってしまい、私はついに自分で抱えきれないほどのプレッシャーを自分で与え続けてしまい、適応障害を発症してしまいます。一度それが発症すると、骨折のようなもので、そう簡単には治りません。様々な体の機能が衰え、今や様々な刺激に弱くなり、体調も安定しなくなってしまいました。

新しい職場の上司は、若手を育てるために「Shoud」を「Must」ぐらいの勢いで言ってくる人でした。対して、私はちょっとした「Shoud」ですら「Must」として自分の中に積み上げてしまいます。そういった意思疎通の祖語が、今の私の現状を招いてしまったのだと今ならわかります。もちろん、それはこの治療を続ける数週間の間、「焦り過ぎた」という言葉で私は受け止めてきました。でも、「どうして焦り過ぎてしまったのか」とか「焦る要因を作った根本的な原因はどこにあるのだろう」という疑問に対する、ちゃんとした答はなかなか自分の中で見つけられずにいました。というか、もう「焦り過ぎた」という答で満足してしまい、それ以上のことをあまり考えて来なかったのかもしれません。

 

ただ、昨日の夜に上記のようなことを考え、両親と話しながらその考察を深めることができました。そして、私の中に染みついた「S=M」という認知の歪みを自覚し、その出自のようなものにまで辿り着けました。さらに、その認知の歪みと新しい環境が共鳴し、不運にも私はぶっ壊れてしまったのだということにも。

でも、これはよくよく考えて見ると、私はたった2つの職場である種「両極端」な世界に触れたということになります。結果的に私は潰れてしまいましたが、私はやはり極論を戦わせ、弁証法的な止揚を得ることに無上の喜びを感じるような人間です。そう考えると、こうなってしまったことには意味があるような気がしてきます。

 

これからも認知康応療法は適宜続けていき、自分の認識をより発展させられればと思います。その時はまたお付き合いください。

 

と、だらだらとそんなことを書いているうちに昼になってしまいました。また、今日の話は明日記事にしようと思います。それでは。

 

次回

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「有線ピヤホン」レビュー

本当は他の記事の抱き合わせで軽く書くつもり出たのですが、思ったより白熱したので単独の記事として投稿させていただきます。

有線ピヤホンを買った経緯については、こちらの記事をご覧ください。

 

eishiminato.hatenablog.com

 

まだイヤホンのエージングも済んでいないので、滅多なことは言えたもんじゃありませんが、「良い!」と思えた部分の方が多かったので、簡単にレビューのようなものを書かせていただきます。あくまで私が普段使用しているイヤホン(計5万円程度)やこれまで使って来たイヤホンを基準としたレビューになります。

 

1.アクセント

とにかくこの有線ピヤホンの凄いと感じたところは、「アクセント」ですね。「アクセント」という言葉が正しいのかわかりませんが、基本的に全ての音のアタック音がかなり明確に強調されているような感じがあります。Twitterなどのレビューでもよく「聴こえていなかった音が聴こえる!」とありましたが、確かにそうだと思います。それなりに良い値段のイヤホンを使っていると、流石に音が埋もれて聴こえないということはあまりないのですが、それでもこの有線ピヤホンで聴くと自分が聴き逃していた音の存在に気付かされます。打楽器はもちろん、ギターやベースのアタック音などもパキっとしていて、ちゃんと音が粒として聴こえてきます。

 

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私のイヤホン選びにおける1つの判断基準として、この「シュガーサーフ」という曲のベース音の細かい粒がきちんと聴きとれるかというのがあるのですが、この点に関して嫌ば、余裕でクリアです。ベースのスラップなどもパキっと聴こえてくるので良いですね。このように音の「アクセント」を際立たせているのはさすがドラマーのピエール中野さん、といったところでしょうか。

 

2.歌声

原理的には上の「アクセント」と多分に通っているのでしょうけれど、本当に色んな人のレビュー通り、「吐息」まで聴こえてきます。おそらくかなり小さな音でもうまく増強して、かつあまり反響し過ぎないようにしているため、ボーカルの「吐息」まで聴こえてくるのでしょうね。そのあまりの生々しさに「声フェチ」の人はぞくっとする瞬間もあるんじゃないかと思うほどです。

 

3.バランス

きちんと細かい音まで拾ってくれることもありますが、全体としての音のバランスも相当良いです。ボーカル、ギター、ベース、ドラムはもちろんピアノやバイオリンなど様々な楽器の音がちゃんと埋もれずに聴こえてくるのですごいです。「アクセント」と「バランス」をめちゃくちゃ繊細に調整していることが伝わってきます。情熱を感じますね。リズム(ノリの良さ)が重視される現代の音楽シーンにおいては、「全ての楽器の音がはっきりと聴きとれることが重要」という思想のもと、こういった調整が為されたのかなと思います。「リスナーに音楽を最大限楽しんでもらいたい」というピエール中野さんの心意気を感じます。

 

4.旨み(響き)

ここからは少し批判っぽい感じに読み取れてしまうかもしれませんが、大前提として「この有線ピヤホンは1500円という超低価格」ということを抑えておいていただきたいです。

とにかく上述の通り、「全ての音を届ける」というところでイヤホン入門編としては最高のスペックを誇っていることは間違いありません。ただ、「これ以上イヤホンに値段をかけるとどんな風に音楽が楽しめるの?」という疑問をお持ちの方のために、ちょっとだけ「有線ピヤホン」では届かなかった部分について喋りたいと思います。

例えば、料理で考えたときに、調味料で「マヨネーズ」「ケチャップ」「ソース」「醤油」「塩」くらいがあればとりあえず何とか料理にはなります。特に男の一人暮らしなんて、肉と野菜を炒めて、そこに上記の調味料を日替わりで使い分けることくらいしかバリエーションがありません。でも、まぁ白飯のおかずと考えれば、全然充分ですし、とても美味しく食べられます。言わば「有線ピヤホン」はこの「マヨネーズ」「ケチャップ」「ソース」「醤油」「塩」という基本調味料を最高のバランスで配合したものだと思ってください。とにかくこの特製ソースをかければ何でも美味しく食べられます。

でも……でも……あの高級レストランの味を家でも実現したいんだ。どうにかしてあの大好きなラーメン屋の味を再現したいんだ。そうなってくると、さすがに「マヨネーズ」「ケチャップ」「ソース」「醤油」「塩」というラインナップでは実現できる限度が出てきます。そんな壁にぶつかった時、どうすればいいか。そうです。お金をかけて、より高品質な調味料たくさんを買うしかないんです。

「有線ピヤホン」は1500円という超低価格で、本当によくできているイヤホンだと思いますし、熱量を感じますし、入門編として最高です。ですが、もう少しお金を出すと、まず音の「舌触り」みたいなものがかなり変わって来ると思います。「有線ピヤホン」の音に慣れると、もう少し高価なイヤホンの音は「ちょっと丸いかな?」と感じてしまう部分もあると思います。でも、それは「丸い」んじゃなくて、「太い」んです。「有線ピヤホン」は「うまっ!」と感じる部分を上手く抽出して、そこを聴かせることに特化しているようなイメージです。つまり、超ソリッド。でも、高価なイヤホンになってくると、徐々に素材本来の味を感じられる部分が増えてき、味に広がりを感じるようになってきます。「あぁ、このギターの音のつややかさ……たまらん!」とか「なんて壮大なんだ…!」というような部分が増えてきます。おそらく、クラシック音楽で聴き比べて見ると、差がわかりやすいかもしれません。音の厚み、深み、というのはどうしてもお金をかけて、様々な要素を組み合わせないと実現ができない部分があります。

そもそものアウトプットできる情報量に差が出てきます。喩えとして適切かわかりませんが、マヨネーズのあの蓋を開けて出て来る細い口と、キャップを回して開けて出て来るあの太い口くらいの差です。臨場感、音の広がり、生々しさ、聴き心地ということを追い求めるのであれば、やはりある程度お金をかけることには意味があると思います。

 

5.まとめ

有線ピヤホンは1500円という低価格で、現代の一般的な音楽を聴く上では非常に優れたイヤホンだと思います。あんまりイヤホンに興味を持ってこなかった方が、音楽を好きになるのに大きな効果を発揮してくれることでしょう。

ただ、もし「もっとイヤホンにお金をかけても良いかな」と思っている方がいらっしゃれば、ぜひ高価なイヤホンも試してみてください。それはそれでまた更なる発見と感動があるはずです。中には「思ってたより微妙だな」というものにあたってしまうこともあるかもしれませんが、耳も少しずつ変わって来るものなので、諦めず聴き続けるというのも手かもしれません。きっとそのイヤホン特有の良さに気付く場面も出て来るでしょう。

 

6.余談~私とイヤホン~

ちなみに、私はこの4年間くらいで同じタイプのイヤホンを3段階アップグレードさせてきました。

最初は3000円ぐらいのイヤホンでしたが、私はこのイヤホンのボリューム感にまず惹かれました。それまでのイヤホンは出口が小さく、音の広がりをあまり感じられないイヤホンを使っていました。それはそれで有線ピヤホンのようなソリッドな音(イヤホンらしいイヤホンの音)が楽しめていたので良かったのですが、ちょっとだけ奮発して3000円のものに買い替えた結果、とても臨場感を感じられる音を得ることができました。ただ、音の切れ味のようなものが若干失われていまい、またいま思うとあまりバランス感が良くありませんでした。低音の響きが強かったので、刺激的ではありましたが、音の輪郭がぼやけた感じがあったのも事実です。

そして、思い切って次は7000円のイヤホンに変えてみました。すると、音はかなり切れ味を増し、バランスも良くなりました。3000円の方のイヤホンの方が、低音が粗暴に鳴っていたのでそれが上手く矯正されてしまったのが、個人的にはちょっと残念でしたが、新たに手に入れたその切れ味の良さとバランスの良さから7000円の方に完全にシフトしました。これは結構長い間使い続けていましたね。ただ断線も多く、多分3回くらい買い直しています(修理とか面倒だし、時間がかかるのが嫌だったので、私はイヤホンが壊れるとすぐに買い直しに電気店に走ります)。

ただ、何度も断線を繰り返していたので、ここで私はいよいよ「リケーブル」に手を出しました。ネットで買ったものがあまり良くなかったので、電気店で店員に聴いて見ると、1万円くらいするケーブルをオススメされました。「本体よりも高いやんけ……」とは思いつつも、その頃にはもう働いていたので、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで諭吉をレジに叩きつけました。が、リケーブルしてみてビックリ。もう全然音の彩度が違うんです。如何にケーブルという電線路にはノイズが乗りやすく、それによって音の本来の色味が失われていたかを痛感しました。特に、ベースのぼんやりとした感じが消え、かなりはっきりと輪郭が際立って聴こえてきました。

この時点で私はもう「ケーブルより高いイヤホンを買うぞ!」という気持ちになっていたので、意を決して4万円のイヤホンを購入。最初はなかなか7000円のものとの違いに気付かなかったのですが、次第にその4万円の凄さがわかってきます。まず、ピアノのタッチ音が全然違うことに気が付きました。「え、ほんとに同じ音源?」というレベルでピアノのタッチ音が違く、またよく聴いてみると響きにも煌めきが加わっています。そして、さらに色々な曲を聴いていったときに、TK from 凛として時雨の楽曲全般で大きな違いを感じることができました。あの音の洪水のような楽曲たちは、本当に音の洪水だったんだ、と気づかされたわけです。7000円のイヤホンでも充分音の出口が広がっていたと思っていたんですが、もう4万円は段違いです。それまで「なんか迫力に欠けるなぁ」と思っていたのは、音の出口で音が引っかかっており、ちょろちょろとしか音が流れていなかったからだったのです。もう4万円の出口がばがばのイヤホンでは、もう「これでもか!」というほどに音が勢いよく流れ出て来て、本来の楽曲の壮大さを初めて知ることができました。また、最近はベースのタッチ音や音作りがよくわかるなぁ、と感じ始めています。

お金をかければ良いというものでもありませんが、お金をかけることで得られるものも確かにあります。リケーブルすることで圧倒的にイヤホンの寿命は延びましたし、高価なイヤホンを買ってみて、またさらに音楽が好きになりました。

と、突発的にこんな記事を書いてしまいましたが、「有線ピヤホン」を私もオススメさせていただきます!

・イヤホンなんて何でも良いと思ってた!

・良いイヤホンは持ってるけど、壊れる可能性が高い状況で使うサブ機が欲しい!

という方にはオススメできると思います。

音楽を楽しみましょう!

適応障害と診断されまして… vol.16

適応障害と診断されて21日目(11月4日)の夜にこの記事を書いています。

今日は診断されて20日目(11月3日)と21日目(11月4日)のことについて、ざっと書いていきます。前回の内容はなかなか酷いものでしたが、今回はだいぶマシな内容になっているものと思います。まぁ、その分面白みには欠けるでしょうが(笑)

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

 

 

1.適応障害と診断されて20日目~休息・有線ピヤホン購入~

19日目に自殺未遂をしでかしてしまい、それを受けて20日は静かに過ごすことにしました。1日過ぎたことでだいぶ気持ちも安定してきましたが、それでもまだ心の中は揺れていて、さざ波で転がる浜辺の空き缶のような感じがあります。とは言え、寮の中にいても昨日の「死」の匂いが残っているため、体が動けるようになったらとりあえず外に出ようと漠然と考えていました。

 

※注意! この日は適応障害とは全く関係ない日常の日記が続きます。

 

あまり色々なことは考えないようにして、とりあえず「有線ピヤホン」を買いに行くという目的を自分に与えることにしました。

※有線ピヤホン:凛として時雨というバンドのドラマーであるピエール中野さんが監修した有線イヤホンで、1500円程度の価格でかなり高品質ということでTwitterなどで結構評判になっています。

これはちゃんとした自慢ですが、いま私は4万円のイヤホンに1万円のリケーブルを行った計5万円のイヤホンを使用しています。サブ機には5000円くらいのイヤホンもあるのですが、これは右耳側のケーブルが悪くなっているのか、ときどき調子が悪くなって聴こえなくなります。

このブログで何度かお話しているように、現在私が住んでいる寮は騒音が酷く、夜寝るときにはイヤホンが欠かせない状況ですが、5万円もするイヤホンを寝ながら使用するのはあまりにもリスクが高い。これまでも寝ながらイヤホンのせいで、何台もイヤホンを壊してきました。なので、ちょっと申し訳ない感じもありますが、「安価」なサブ機が欲しかったのですね。それでずっと「有線ピヤホン」には目を付けていたのですが、なかなか「購入する」という行動まで起こせずにいました。

そういうわけで、とりあえず何らかの外に出る目的が欲しかった私は「有線ピヤホン」をゲットするための旅を計画しました。私の住んでいる寮から最寄りのタワレコ(TOWER RECORD)まで歩いて30分なので、散歩好きの私として割に丁度良い距離です。10時半くらいに寮を出ます。

外は生憎の曇り空。散歩しながら風景の写真をスマホで撮るのが好きなのですが、曇りのせいもあってかあまり素敵な景色には出会えませんでした。感性が衰えているのか、都会の騒々しい感じあまり惹かれないだけなのか。まぁ、その辺はよくわかりませんが、とりあえず久しぶりのお散歩。音楽が体の中を通り抜けていきます。有線ピヤホンはコンビニにも売っているというようは話をどこかで耳にしたので、冒険もかねて道中のコンビニに何軒も立ち寄ってみましたが、残念ながら私の行動範囲のお店には置いていないようでした。まぁ、どうせタワレコまで行くことは決めていたので、それはそれで全然構わないんですけれどね。

特に素敵な発見や出会いもなく、タワレコが入っている商業施設に辿り着きます。灼けに人が多いなぁ、と思ったら11月3日は休日だったのですね。後になって知りました。私が言うのもなんですが、昼間っからこんなに出歩いて皆いったいどうやって生計を立てているんだよ、って勝手に心配になっていました。これ見よがしに手を繋いで歩いてるカップルを何組も見かけて悲しい気持ちになりましたが、休日ならば仕方がない。休日に人が集まる所へやってきた私が悪いのです。地球は確かに絶望ではなく、幸福を糧にして自転を続けているようです。摩擦の無い真空の宇宙を。

 

タワレコのイヤホンコーナーで有線ピヤホンを発見。すぐに手に取り、ついでに色んなコーナーを冷やかして回ります。

アイドルコーナーをざっと見て、気になっていたCDを手に取ります。まぁ、でもCDで買うほどでもないか。私は基本的にCDを買う派ではあるのですが、故にあまり気に入った楽曲でないと、好きなアイドルであっても買わないことが往々にしてあります。アイドルヲタクとしては褒められたものではないことはわかっているのですが、もともとあまり物を増やしたくない人間なので何にせよ物を買う時は慎重になってしまうのです。でも、かと言って、サブスクやデータ購入という方法は避けがちです。好きだからこそ物で持っておきたい。でも、物が増えるのは嫌。だからこそ、厳選させていただきますよ。というとても面倒くさい人間なんだと、今こうして文章を書きながら思い至っている次第です。

それから色々なコーナーを流していき、「何か心惹かれるものはないかなぁ」とポップを見たりしながら、久しぶりのCDショップを楽しみます。友人に勧められたアーティストを見つけ、たっぷり悩んだ後、やっぱりその場を離れます(ごめんね)。遊びに行ったり、何かを観賞しに行ったり、そういう一過性の楽しみについては私はだいぶフットワークが軽いつもりでいるんですが、他人に勧められたからと言って簡単に自分のiPodに音楽を入れるほど私は心の広い人間じゃあないのです。でも、教えてくれたアーティストたちは割と記憶には残っているし、「3回出会ったものは取り入れる」という自分ルールがあるので、いつかその「3回」を達成する時を気長に待っていてください。ちなみに私が大好きなJ.Dサリンジャーという小説家も、「村上春樹」、「山田亮一」、「攻殻機動隊」という3つの出会いがあったから自分の中に取り込むことになりました。私はそういう運命、というか偶然が好きなんです。ロマンチストなんです。

J-POPからクラシックまで一通りのコーナーを見て回った後、最近興味が出始めているLo-Fi HIP-HOPの泰斗「Nujabes」のCDを探すことにします。適応障害になってから環境音楽的に1枚しか持っていないNujabesのアルバムをリピートで流していることが多かったので、もう1枚くらいあってもいいかなぁ、と思ったのです。残念ながらそこのタワレコにはコンピレーションアルバムのようなものしかなかったのですが、とりあえず買ってみました。開封するのが面倒なので、まだPCに取り込んですらいませんが、まぁ、気が向いたときに聴いてみようと思います。

 

商業施設のレストランはどこも混んでいたため、外に出て「やよい軒」で昼食。チーズハンバーグ定食がなかなか美味しかったです。それからかなり遠回りをしながら、だいたい1時間半くらいかけて寮に戻ります。

途中、川べりで泣いているような女の子を発見。泣いているように見えるけど、なんかパンみたいなのを食べているようにも見えるなぁ。でも、もし泣いているんだとしたら励ましてやりたい。「どうしたの? 大丈夫? 実は僕、昨日死のうとして失敗したんだよね」そんな声掛けの一言目を頭の中でぐるぐるさせながら、橋の上から彼女をしばらく観察していました。結局、私には見知らぬ人に声をかけられるような図太い神経がないため、声掛けは断念します。せめて泣いているという確信が持てたのなら…でも、目の悪い私には遠目から判断をつけることができません。言うても私はおっさん。彼女はジャージ姿で、もしかしたら高校生くらいでしょうか。リスクを考えるとどうしても行動は起こせませんでした。なんて情けない……彼女が元気であることを祈っています。

ふと現れた横断歩道で立ち止まると、そこの横断歩道は10分くらい赤信号のまま私たち数人の通行者を足止めしていました。両隣の交差点は青信号なのに、どうしてここだけ赤信号なのだろう。でも、そんなことを気にしているのは私だけのようです。私の隣で自転車に跨った若い女性はじっとアスファルトを見つめており、私の視線に気が付くとあからさまに怪訝そうな表情を浮かべました。私が視線を逸らして大通りの向こう側を眺めると、スマホの画面を見つめた人たちが2,3人、律儀に信号が変わるのを立ち尽くして待っていました。その向こうには何かの施設の警備員が、欠伸一つせず、当てのない専守防衛に努めていました。これは別に私が用意した比喩ではなく、れきとした事実です。でも、何だか不思議な暗喩に私は思わず頬を緩めてしまいます。

明らかに就活生という出で立ちの女の子と狭い道ですれ違います。マスクの下の表情は少し疲れているようで、時期を考えると何かしらの終活セミナーのようなものにでも参加してきたのかもしれません。思えば、私もそれなりに厳しい就職活動を切り抜けてきました。表立っては言えないですが明白な人数枠……顔見知りを蹴落としました。「第1志望です」と言い続け、特別にとても早い段階で内々定を出してくれた会社を蹴りました。私だけのために無理を言って工場見学を開いてくれた会社も蹴りました。エントリーシートの添削など細かくやってくれたOBの方々との口約束を反故にしました。そんな風にして、いくつもの純粋な想いや、善意を踏みにじって今の会社に私は入社しました。にもかかわらず、私はこんな状態です。ステレオタイプな真っ黒なスーツに身を包み、陰鬱な表情を浮かべる女の子。素敵な縁が巡って来ることを祈っています。

そんなことを考えながら、死んだような顔で散歩を続けました。寮の部屋に帰って来た私は疲れ切って、すぐに眠りに落ちます。

 

2.有線ピヤホンのレビュー

思いのほか白熱したので、別記事として投稿することにしました…(笑)

 

eishiminato.hatenablog.com

 

3.適応障害と診断されて21日目~予告~

2章の有線ピヤホンの記事のせいで、もう今日は疲れたので予告だけにしたいと思います。

 

【予告】

自殺未遂を経て、会社へ正式に休職を願い届けるための闘いへと向かう私。

「もう有休消化なんてちまちましたことなんてやってらんねぇ。オイラはちゃんと休んで、病気を治したいんだよ!」

薬の副作用から来る頭痛に、眉間の皺を寄せ、サンドリ(有吉のラジオ)を聴きながら、いざ戦場へ。

「安田(さん)、お前も大変だったみてぇじゃねぇか。でもなぁ、オイラもオイラで大変なんだぜ!」

 

次回、上司の提案してきた奇策にあっさりと丸め込まれる私。乞うご期待。

 

適応障害と診断されまして… vol.15

適応障害と診断されて20日目(11月3日)の朝にこの記事を書いています。

 

前回

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まぁ、案の定と言うべきか、昨日投稿しまくった記事たち、そして書き上げてすぐに投稿した「霧氷」というタイトルの創作物を見ればお分かりの通り、昨日(11月2日)の私は首を吊って死んでしまおうと考えていました。そして、それは結果を伴わなかったものの、確実に行動として起こされました。どうしてそんなことになったのか、正直なところよくわかりません。

 

朝起きて、「会社に行かなければ」と思いながらも、それを実行に起こすことがどうしてもできず、シャワーを浴びながら「霧氷」を書き上げることだけが頭にありました。一昨日(11月1日)に「超個人的アイドル楽曲選抜(2020年度版)」という記事を書き上げてから、何と言うか「言いたいことは言い終えた」感があったこともあるでしょう。ある種の燃え尽き症候群みたいなもので、大好きなアイドル楽曲たちは紹介できたし、記事の最後ではこれまで楽しませてくれたそれらの楽曲やアイドル達に対して感謝の言葉を書けたという実感があったのです。

そのようにして、もう私に残されているものは「霧氷」を書き上げることだけだ、という風になったのかもしれません。

昨日(11月2日)の朝。会社に行くことをやめ、「霧氷」をとにかく1秒でも早く書き終わらせることだけに集中しました。本当はもっと長い話にする予定だったのですが、何が何でも書き上げたかった……そして書き上げてしまうと私に残されたものは何もありませんでした。そして、もうこの人生においてやることは無いし、生きていく意味も無い。ずっと死にたいと考えていたし、もうこのまま死んでしまおうと思ってしまったのでしょう。今日がその日だ、と。

 

そして、私はとりあえずこれまで私が書いてきたものをこのブログに投稿することにしました。「ショーシャンクの空に」という映画で出所した男が「ブルックスここにありき」と書いて首を吊ったように、私も自分が存在したことの記録を瓶に詰めて、このネットという広大な海に流したかったのでしょう。ある意味では、アニメ「攻殻機動隊」の「クゼ・ヒデオ」が出島の難民とともに起こそうとした復讐と革命のように。

それからパソコンのデータや履歴といったものを可能な限り削除しました(見られたくない恥ずかしいものがたくさんあったので(笑))。おかげで今はパソコンの動作がいくらか速くなった気がします。自殺未遂断捨離なんて笑えませんけれど。

面倒なので家族に向けてだけ簡単な遺書のようなものを書きました。先日ハロショで購入したL判写真くらいの大きさのメモ1枚分ですが。それから、どれくらい意味があるかわかりませんが、私が死んだ後の具体的な事柄をしたためたメモも1枚分。パソコンとスマホのパスワード、わずかばかりの貯金は妹にあげる旨、葬式は不要だけれど世間体や気持ちの割り切りがしたければやってもらって構わない旨、死体を処理される方への謝罪とお礼。それから部屋のドアを閉め、チェーンもかけます。メモにも「これは自殺です」と明記しておきました。

具体的な首吊りの方法や状況については、いくらでも克明に書き記すことができますが、誰かに一緒の想いをして欲しいというわけでもないので、ここには書かないでおきます。ただ、どうして私が死に損なったのかは書いておく必要がありますね。

まぁ、ぶっちゃけとても死ねるような環境ではなかったのです。

私が紐を括りつけられるところは部屋の中にそう多くなく、私は背の低い人間ではなかったので、「あぁ、死ぬな」という瞬間に身体が暴れ出して、死に損なったというだけです。よく映画などで見るように、椅子を蹴り出すような方法を用いていれば、間違いなく死んでいたでしょうが、狭い寮室ということでそんなことをするスペースすらありません。いま冷静になって部屋の中を見渡しても、どこで首を吊ろうと思っても、たぶん私の足は何かしらを掴み、死ぬことはできなかったでしょう。

 

昨日投稿した記事の時刻から推察するに、たぶん私が首を吊ったのは午前11時過ぎくらいではなかったでしょうか。死に損なってからは、ただ泣いて眠ってを繰り返しました。何をする気力も湧いてこなく、それでも何度か死のうとして、紐に首を通しました。が、1回目のあのときの恐怖がフラッシュバックして、「もう今日はできないな」と思いました。あとはもう「疲れた」という感覚だけです。体が動かすだけの気力も残っていないのでずっと「トイレに行きたいな」とぼんやりと考えて眠っていました。外の騒音もうっとうしいとは思いながらも、もうどうでも良いような感じでした。

夕方6時くらいを過ぎて、ようやく体が起こせるようになり、トイレに行くとご飯が食べたくなりました。ご飯を食べて、薬を飲むと、少しだけ正気に戻ってきました。音楽を聴きたり、動画を見たりできるところまであっという間に回復しました。そして、夜は両親と電話をして、本当に心苦しかったのですが、首を吊ってしまったということを伝えました。本当に両親には申し訳ないことをしましたが、でも、何かを隠したり取り繕ったりという気力さえなかったのです。

 

はっきり言って、死のうとしていた時の私は正気ではありませんでした。原因はよくわかりませんが、いくつか書き並べてみたいと思います。

まず、職場復帰への焦りがあったと思います。薬のおかげで私の適応障害の症状はだいぶ緩和されていましたし、日に日に良くなっていくので、少しずつ負荷をかけながら職場復帰までの最短ルートについてよく考えていました。もちろん、細心の注意は払っていましたが。その実、職場の前まで行く練習から始めたり、日曜日に会社に顔を出すような、細かいステップを設けました。症状が強く出た日はそのリハビリを休んだり、自分なりに自分を労わって来たつもりです。しかし、私は現状休職という形ではなく、有休消化という形でお休みをいただいていました。有休の数はそこまで残されていません。インフルエンザに罹った時のことを考えると、1週間分は残しておいた方が良いとも言われていました。そうすると、今週辺りが復帰の目処だったのです。今週中に復帰できれば「休職」の文字は私の人事評には残らないし、公的にはただの有休消化ということになります。そうなってくると1日にどれくらい回復し、どれくらいの負荷に耐えられるようになるかが重要です。私は無理をするつもりはありませんでしたし、ぶっちゃけ先週の職場での体調を考えると、休職せざるを得ないであろうことは明白でした。ただ「やれるだけのことはやっておきたい」という想いがあったのも事実でしょう。確かに私は日々の判断の中で無理をしたことはありませんでした。でも、確実に疲労は蓄積されており、自殺を図った11月2日は朝から若干の体調の悪さを感じていました。にもかかわらず、「昨日も朝に職場に行けたし大丈夫っしょ。最悪、通勤電車で気持ち悪くなったら帰って来ればいいし。通勤ラッシュが体に及ぼす影響を確かめるだけでも意味のあることじゃんね」というような考え方をしてしまっていました。そのちょっとした「無理」が命取りとなってしまった部分は否めません。

そして、そのようなちょっとした「無理」にすら耐えられず、私は職場に「行かない」という判断をします。その判断だけを見れば、私は英断をしたとも言っていいでしょう。しかしながら、「行かない」という判断をしたときには既に私の中でもう別のスイッチが入っていました。無性に、自己満足の創作物である「霧氷」を書き上げたくなっていたのです。それは自分を見失うくらい強烈な衝動であり、同時に強迫観念のようなものでした。連日のリハビリから来る疲労や、前日に別の記事を書き上げたときの達成感、自分がもう休職するしかないと自覚したことによる絶望感、その他様々な要因が絡み合い、私は「霧氷」の執筆にとり憑かれてしまいます。たぶん、もうこの時は正気ではなかったと思います。

何度も様々なところで書いているように、私にはずっと死に対する欲求がありました。そしてその欲求を自分の創作物の登場人物に物語の中で存分に発散させることで、これまで生きながらえてきた節があるのかもしれません。そして、「霧氷」を書き進めている途中から、私はほとんどトランス状態のようになってしまい、現実と創作物の境界線が曖昧になっていきました。気がつけば、「これを書き上げたとき、また自分も死ぬんだ」という考えが頭を支配していました。そして、それは失敗したものの確かに実行に移されることになってしまいました。

 

はっきり言って、今回の自殺未遂については、適応障害だけを理由にはできません。

私自身の思想にも大きな原因がありますし、そういう意味では正直なところ今回私が首を吊ろうとしたことに関して、あまり反省していない部分があります。恐らく私は今後の人生において常にそのような思想を抱えながら生きていくでしょう。でも、その「死」に関する自分の思想は、生きていく上で私に必要な思想なのです。そういう思想を持っていないことには私は人生を楽しめないし、私らしく生きていけないのです。

 

とは言え、確かに適応障害の症状や、この精神疾患によってもたらされた現状が私に最後の1歩を飛び越えさせそうになったことは事実です。うつ病になり、そのせいで最愛の彼女にフラれた男が自殺を図るのと一緒かもしれません。うつ病になった時点ではまだ死ぬまではいかなくても、何かその他の個人的な要因が背中を押すことは往々にしてあるのでしょう。だからこそ、ある程度ちゃんと回復するまでは、安静が必要なのかもしれません。

 

今後、私は会社と具体的に休職の手続きに入っていきます。個人的には体調の良い日が多いし、休職したは良いけど持て余すような日々が続いてしまうかもしれません。しかし、せっかく休職するのですから、今度は回復だけにとどまらず、もう一度人生をリセットするくらいの気持ちで、転職やら生き方それ自体を色々と考えて見てもいいかもしれませんね。私自身、今の仕事に対して、色々と思うことがあります。もちろん完璧に自分に合う仕事なんてあるわけないとわかっていますが、それでもいくつか「本当に持続可能?」という不安を今の仕事に対して感じている部分もあります。主には夜勤や転勤の多さですね。その辺をよくよく考えていこうと思います。

 

今回の記事が誰かに読まれた時のことを考えると胸が痛いです。読んでいてあまり気分の良いものではないことも重々承知しています。伝えたいことも特にありません。精神疾患の怖さというよりも、あまりにも自分の思想に寄り過ぎた内容になってしまった感もあります。しかしながら、これまでもそうだったように純粋な記録と、自己療養として今回の記事も投稿させていただきます。

健やかな日々を。

 

次回

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