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適応障害と診断されまして… vol. 17

適応障害と診断されて22日目(11月5日)の朝にこの記事を書いています。

前回は20日目(11月3日)、21日目(11月4日)分の記事を書いている途中で、購入した「有線ピヤホン」のことを書き過ぎてしまい、結局21日目まで辿り着きませんでした。

そんなわけで今回は21日目に会社のお偉方と面談してきた結果について話そうと思います。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

 

適応障害と診断されて21日目(11月4日)

 

 

1.前置き

最初に書いておきますが、なかなか会社運営に関するデリケートな部分が多いため、あまり詳しくは書けないところがあります。「え? 結局、どういうことになったん?」と思われてしまうかもしれませんが、まぁ、経緯や伝えたいことがありますので、とりあえず書き進めていきます。

 

2.背景と目的

適応障害と診断されて12日目(10月26日)から私は「職場の前まで行く」というような復帰に向けたリハビリを始めました。その結果、3時間程度で吐き気や頭痛が慢性化し、ゆっくり休まないことには寮に帰ることもしんどいという状況になることが判明しました。この時点で、復帰にはまだ時間が必要だろう、と感じていました。が、まだ午前中に職場に行くリハビリはしていなかったので、今後の知見のためにも午前中に職場に行ってみることをしました。1日目(日曜日)は上手く実行できましたが、翌日2日目(月曜日)はそれに失敗し、しかもその流れであろうことか自殺未遂をしでかしてしまいました。

これらを踏まえて、私にはおそらく1か月程度のちゃんとした静養が必要だと感じました。1回すべて復帰やらそういったことを忘れ、ただただ治療に専念するだけの時間の必要性です。

やはりそれまで有休消化で何とかお茶を濁してきましたが、有休の残り日数も限界に近づいてきましたし、それ故の焦りからかなり無理なリハビリスケジュールを立てるしかありませんでした。回復の兆しはあるものの、私に残されている有休では復帰まで持っていけないという事実がある。ならば、1回正式に傷病休暇を頂き、転職についてでも考えながらきちんと静養し、治療に専念したいと考えたわけです。

その事を上司に伝え、「傷病休暇の獲得」ということを第1目標にして、その日は面談に臨みました。

 

3.面談における状況整理・上司からの提案

それまで何度かメールでやり取りや回復状況などを伝えてきましたが、ちゃんと面と向かって相談をするのは休みを頂いたときから2回目です。おそらく私の現状をちゃんと理解してもらっていないだろうな、ということで私はこのブログで書いてきたようなことをかいつまんで説明しました。

まず、リハビリの結果についての率直な感想を話しました。回復してきてはいるものの、まだ体が追い付かず、復帰は無理だということを伝えました。3時間で症状は抑えが効かなくなるし、午前中に無理をしてパニックになってしまったことがあった。そもそも、1日中起きていることがかなり難しいということを話しました。だから私にはどうしても傷病休暇が必要なのだ、と。

しかし、上司もそう簡単には傷病休暇を取らせてはくれません。というか、私の状態をより詳細に見極めたかったのでしょう。仕事のことを考えると不安感に襲われるのか、自宅でテレワークをすることは可能か、などといった質問がなされました。「仕事は確かにトラウマもあるし、負荷は大きいです。でも、それは仕事に限ったことでなく、日によってはあらゆる刺激がストレスになる日もあります。休憩を挟みながらテレワークをすることは可能な日もあると思いますが、その負担は蓄積して、確実に休息の日が必要になります。そもそも1日起きていることすらまだまともにできていないし、日常生活を営むこともままならない日があります」というようなことを私は答えました。そして、本当は話したくなかったのですが、何とか私の置かれている状況の辛さを理解してもらうために、「死のうとしてしまった」ことを話しました。どうしても涙を抑えることができませんでしたが、今思えば、その涙は多少効果を発揮したかもしれません。

何とか私の状況を理解してもらってから、ようやく「傷病休暇」に関する交渉が始まるか、という感じでしたが、1つ上司から妥協案が提示されます。

「まぁ、ちゃんと自分の体調とか復帰について考えて、気持ちの整理ができていることもわかった。だから、こういう提案を受け入れることができないかもしれないけど、あと数週間くらいテレワークってことで粘ってみないか?」

私は、「だからテレワークも厳しいって…」と再度説明しようと思いましたが、上司は続けます。

「負い目とか感じなくていいから、とりあえずテレワークってことにして、あと1ヶ月くらいだったら全然時間見るよ」

と言ってくれました。会社の信用などにも繋がるのでこれ以上、私は明言できませんが、要は有休消化で間に合わない部分があることは当然だから、うまくテレワークを織り交ぜながら良い感じで事実上の休暇を伸ばす方法を上司が提案してくれたわけですね。もちろん、正式な休暇でないため、どうしても期限物の報告物の提出や会社の公的な業務には参加しなければならない部分も出てきます。ただ、そこだけ上手く耐えつつ乗り越えらえるのであれば、もう少し復帰までの猶予ができたわけです。私自身、「調子の良い日もある」と言ってしまっていたので、「それは無理です」と引き下がることはできなくなっていました。さすが偉くなっている人たちです。これは悪口ではなく、賞賛の意味を込めて言いますが、「うまく丸め込まれてしまいました」。

10年働いていても、2年分の仕事しかしていないような人もいる。でも、成果主義というよりは年功序列に近い雇用制度だから、これだけ頑張っているのにあいつの方が給料を貰っている。色んなところでそんな愚痴を聞いてきました。だから、長い会社人生で考えたとき、30年のうちの1か月なんてどうだっていいじゃん。だろ?

私自身、完全復帰にはまだ時間が足りないから傷病休暇という方法を考えていたわけですが、そういった部分を見抜いた上で、代案を用意してくれていたわけです。

 

そこにはもちろん色々な意図があると思います。もちろんその1番目には私に対する配慮がランクインしており、それ以外の理由はないわけですが、とは言え色々と邪推することも可能です。

まず、傷病休暇の人間が職場で出れば、当然それを会社の上の方に伝える必要が出てきます。よくあることなので、別段職場が受けるダメージはそこまで大きくないと思いますが、当然その職場には良くないイメージがつきます。もちろん、それを管理している人たちにも。まぁ、1番ダメージを受けるのは「あいつは心を病んで休暇したことのあるやつだ」というレッテルを貼られる私ですが。傷病休暇なんて大事にしても誰も得をしないわけです。

次に、人財流出を防ぐという目的も考えられます。傷病休暇という完全なシェルターを与えた場合に、そこには当然「転職」という選択肢も浮上してくることでしょう。この人手不足の時代に人財の流出は避けたいというのが会社としての意向でしょう。退職者が出た職場や管理者に対するペナルティがいかほどのものなのか、そこまではわかりませんが、これも上と同じく誰も得をしません(まぁ、私は得をすることになる可能性もありますけれど)。

そして、これはどちらかと言えば、私の思い上がりかもしれませんが、私は今回の事に関して割に真摯に対応してきました。こんな多大な迷惑をかけてきたわけですが、それでもちゃんと病状を伝え、復帰に向けた動きを取り続けてきました。それにより「復帰の可能性」を感じ取ってもらえたのかもしれません。上に2つ理由を書いたように、「傷病休暇取得」におけるリスクは私だけでなく、私の周囲の人たちにも多少は存在しています。故に、もしそのリスクを個人の裁量で上手く回避できるのであれば、それは上手いことやった方が良いに決まっています。もし「こいつは当分復帰できないな。復帰する気も無いな」と思われていたら、もしかしたらさっさと「傷病休暇」の手続きに移っていたかもしれません。

と、まぁ、色々と邪推をしてしまいましたが、何よりも上司たちの優しさがあってこそ、今のところ私はまだ経歴上の汚点とならないような手法を取りながら、復帰に向けての療養を進めることができています。この点に関しては、本当に感謝をしなければいけませんし、今後の会社人生を使って恩返ししていかなければならないでしょう。いつの日か、「あの日、あいつに救いの手を差し伸べてやっておいて良かったな」と思ってもらえる利益をお返しできるよう、頑張っていきたいと思います。

 

そんな感じで私は疲労困憊しながらも寮に戻り、1つ安堵としてやられた悔しさが綯い交ぜになった微妙な気持ちを溜息にして、ベッドの上に寝転がります。

 

4.認知行動療法~「Shoud=Must」~

色々と調べてみて、認知行動療法の中の典型的な認知の歪みとして、「Shoud=Must」というものがあることを知りました。この「Shoud=Must」は私が勝手に考えた言葉で、調べたときには全然違う言い方をされていましたが、とりあえずこの「Shoud=Must」と名付けて話を進めていきます。面倒なので以下では「S=M」とします。なんかちょっと卑猥に見えますね(笑)。

認知の歪みには色々な種類があり、たとえば全ての悪いことの原因を自分のせいだと思ってしまう(例:子供が勉強できないのは私が妊娠中にポテトチップスを食べ過ぎたせいだ)ようなものや、完璧主義(例:契約書で句点を脱字してしまう自分はなんて仕事ができないんだ)などもそれら認知の歪みの1つの種類です。

そんな風に色々とあるものの中でもおそらく私が適応障害なんてものになってしまった最大因は「S=M」という、「すべきだ」が「しなければならない」になってしまう認知の歪みによるものだと考えられます。若干完璧主義的な認知の歪みもここには含まれていますね。

 

ちょっとした昔ばなしから始めていきます。

私は小学生の頃にサッカー部に所属しており、チームメイトがミスをしたりプレーの積極性を失っているとめちゃくちゃに怒っていました。そのせいで色々な人を傷つけてしまいました。今ではそれを反省し、傷つけた人に何かしらの明確な贖罪や補償ができているわけではありませんが、大学時代を通して自分の考え方を改めるよう努力してきました。ですが、私はもともと自分の中に「Shoud(すべきだ)」の基準があり、それはほぼ「Must(しなければならない)」の基準として機能してしまうような性格のようです。それが他人に向いてしまい、結果的に私は自分の中に勝手に作り上げた「Must」の基準に達しない人に怒りをぶつけ、傷つけてきました。

私は周りや自分に期待し過ぎないように心掛け、できるだけ穏当に、心を広くもつよう意識して生きるようになりましたが、それが前の地方の職場で少し変な形に歪められてしまいます。というか、自分で歪めることになります。

前の職場では私の所属しているグループの人たちがあまり仕事に積極的でない人たちが多く、心優しい人たちではあったのですが、よそのグループからは少しだけ冷ややかな視線を浴びていました。私はそれを改善したいと思い、自らを奮い立たせ、自分にプレッシャーをかけるような日々を過ごしてきました。常に積極的に動き、時には「お前と一緒に行くと大変なんだよなぁ」と思われてしまうほどでした。これはこれで反省したのですが、それでもグループとしてやらなければいけないことを達成するためには、やはりある程度は積極的に動いていく必要がありました。「だって、周りがやらないんだから、仕方ないじゃん!」という感じです。近くのグループの人は私のそのような行動を認めてくれ、次第に周囲の職場からも私は認められるようになっていきました。

隣のグループの先輩にそのようなことを話し、次第にあまり仕事に積極的でない先輩の愚痴を言うようになったりしながらも、まぁ、周りの人が認めてくれるし、自分で割と裁量を持って仕事ができていたので楽しい職場ではありました。若手でもやる気さえあればどうにかなるような雑用的な仕事が多かったこともあり、私は比較的早い段階から積極的に動くことができていました。

このような状況で私は会社人生をスタートさせたため、自分にプレッシャーをかけることが私のデフォルトとなっていきました。「Shoud(すべき)」を「しなくてもいっか」と考えてしまいがちな先輩たちに流されぬよう、「S=M」の考え方を自分の体に刻み込んでいったように思います。そして、その結果私は色んな人から認めていただけるようになりました。つまり、「S=M」が私の処世術の1つとなっていたわけです。そこでは一種の完璧主義のような歪みも育っていったように思います。

ですが、今年の10月に異動があり、私はやはり「S=M」の精神で頑張りました。初日から職人気質の上司にはっぱをかけられ、色々な「Shoud」が私の中に積み上げられました。また、私自身、前の職場で少しの経験があるので、私がこの新しい職場である程度独り立ちするためには、達成しなければならない「Shoud」がたくさんあることが見えていました。しかし、当然ながら地方と首都圏では私が対峙する技術や手続きは大きく異なり、完全な知識不足です。ですから、色々な知識を覚える必要があります。日に日に私の中に「Shoud」が積み上がっていきます。でも、それらの「Shoud」はもはや私の中では「Must」なのです。私が周囲から認められるためにも「S=M」の精神で1日に1つでも、1秒に1つでも多くの「Must」を達成する必要があったのです。

100%を出して「Must」を達成しようと思う。でも、達成しきれない部分が出て来て、さらに新しい「Must」が積み上がる。だから、翌日は110%を出さなければならないと思う。でも、また「Must」は達成しきれない。そうこうしているうちに、また新しい「Must」が積み上がっていく。上司や先輩から様々な「Shoud」を教えられ、それが私の中に「Must」として積み上がっていく。だから、次の日は120%を出さなければならない。でも、届かないからさらに次の日は130%を出さなければ…140%…150%…と、そんなことを続けていきます。200%を出すためには1分1秒すら気を抜くことは許されない。積み上がった「Must」を減らすためには、1秒も無駄にできない。2度同じミスをしている暇はない。今はキツイけど、この「Must」の山を崩し切った時、私は前の職場でそうだったようにようやく周りから認められるんだ。辛いのは今だけ。だから、明日は210%を出そう。いや、出さなければならない。

そんな負のループにハマってしまい、私はついに自分で抱えきれないほどのプレッシャーを自分で与え続けてしまい、適応障害を発症してしまいます。一度それが発症すると、骨折のようなもので、そう簡単には治りません。様々な体の機能が衰え、今や様々な刺激に弱くなり、体調も安定しなくなってしまいました。

新しい職場の上司は、若手を育てるために「Shoud」を「Must」ぐらいの勢いで言ってくる人でした。対して、私はちょっとした「Shoud」ですら「Must」として自分の中に積み上げてしまいます。そういった意思疎通の祖語が、今の私の現状を招いてしまったのだと今ならわかります。もちろん、それはこの治療を続ける数週間の間、「焦り過ぎた」という言葉で私は受け止めてきました。でも、「どうして焦り過ぎてしまったのか」とか「焦る要因を作った根本的な原因はどこにあるのだろう」という疑問に対する、ちゃんとした答はなかなか自分の中で見つけられずにいました。というか、もう「焦り過ぎた」という答で満足してしまい、それ以上のことをあまり考えて来なかったのかもしれません。

 

ただ、昨日の夜に上記のようなことを考え、両親と話しながらその考察を深めることができました。そして、私の中に染みついた「S=M」という認知の歪みを自覚し、その出自のようなものにまで辿り着けました。さらに、その認知の歪みと新しい環境が共鳴し、不運にも私はぶっ壊れてしまったのだということにも。

でも、これはよくよく考えて見ると、私はたった2つの職場である種「両極端」な世界に触れたということになります。結果的に私は潰れてしまいましたが、私はやはり極論を戦わせ、弁証法的な止揚を得ることに無上の喜びを感じるような人間です。そう考えると、こうなってしまったことには意味があるような気がしてきます。

 

これからも認知康応療法は適宜続けていき、自分の認識をより発展させられればと思います。その時はまたお付き合いください。

 

と、だらだらとそんなことを書いているうちに昼になってしまいました。また、今日の話は明日記事にしようと思います。それでは。

 

次回

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