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音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.38

適応障害と診断されて64日目(12月17日)にこの記事を書き始めています。今はPCの持ち込みが許可されている図書館にいるのですが、キーボードを叩く音がうるさくならないようにかなり気を付けている次第です。あぁ、ストレス…

 

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1.適応障害と診断されて60日目~STARS展~

この日は日曜日。午後は友人と美術館に行く予定がありましたが、とりあえず午前中は薬局に行きました。というのも、前回のブログにも書きましたが、前日の土曜日に診察に行った際、薬局が大変混んでいたため、翌日受け取りにさせていただいたからです。

薬局は午後1時まで開いているということだったので、昼頃にゆっくりと寮を出て、お薬を取りに行きました。さすがに何度も通っているだけあって、最寄り駅からどの車両に乗り込み、どの道を通れば最短かということもわかるようになってきた今日この頃。閉店間際の薬局は昨日の喧騒が信じられないくらいにひっそりとしていて、名前を告げるとすぐにお薬を出してくれました。薬の種類も量も変わっていないので、薬剤師の方とのお話も特にはなく、ものの1分程度で薬局を後にします。

ちょうど昼時でしたので、近くをうろうろとしていると、学生時代に何度も行ったことのあるラーメン屋の系列店を発見。さっそく入ってみます。

私の行ったことのあるお店と同様にタッチディスプレイ式の券売機。よく食べていたラーメンを注文し、学生の時分には経済的な理由からなかなか頼めなかったチャーシュー丼も頼みます。少し思い出話になりますが、そのお店(学生時代に行っていた方)は私の一人暮らしのアパートから歩いて40分くらいあったところにありました。しかも、そこはちょっとした山の上にあるため、山を貫くように建設された橋梁形式の道路(結構な交通量です)脇の歩道を通るか、雑木林を登っていかなくてはなりません。その頃の私もまた原付やら車なんて持っていませんから、なかなかの道程。しかも、アパートから歩いて15分くらいのところには、私が世界一と考えているラーメン屋もあったので、なかなか行く機会はありませんでした。

しかしながら、散歩は私にとって重要な意味を持つ趣味でしたし、たまには行きつけ以外のお店で食べてみたくなる日もあります。そういうわけで、それなりの回数(お店のメニューを一通り食べるくらい)は通うことになりました。行きつけのラーメン屋はそれこそ通い過ぎていたので、晴れている日だけでなく、雨の日、雪の日、猛暑日、色々な雑多な記憶が付随することになったのですが、そのお店は遠い分、散歩日和の日にしか行くことはありません。なので、今でもそのお店を思い出すと、いつも空は快晴。近くには高校があり、住宅地が広がっているため、昼間はたいてい静かで穏やかな空気が流れていました。団地の影に沈む公園や、雑木林の中を流れる小川のせせらぎ。それからその時々に私の若い感性を惹きつけてやまなかった音楽たち。孤独で平和で穏やかで、そして私らしく捻くれ、鬱屈とした感情に満たされていた大学時代の思い出というともしかしたらこちらのラーメン屋の方がより端的に説明してくれるかもしれません。

と、そんなわけで少し懐かしい気分になりながら、ラーメンを啜りました。

そのままの足で約束の美術館に行くつもりだったのですが、集合時間は午後3時。移動時間を考えても、まだ1時間ちょっとは暇です。ラーメン屋には申し訳ないと思いながらも、そんなに混んではいなかったので、少しゆっくりさせていただくことに。

先日、通常のアニメ回を観終わった「カウボーイ・ビバップ」の劇場版をNetflixで見ながら時間を潰します。30分くらいラーメン屋で粘り、その後は駅の待合室で30分。アクションシーンは迫力があり、同時にあの1話完結型のアニメでやってきたからこその30分毎に訪れる話の切れ方が心地良く、一気見はできませんでしたがとても良い時間を過ごせました。映画全体で通して観ても絶対に面白いですが、30分程度ごとに区切って観ても十分面白い映画だったと思います。

 

さて、というわけで約束の時間になり、友人と落ち合って美術館へ。この日は六本木の森美術館でやっている「STARS展」に行ってきました。村上隆草間彌生などを始めとした結構なメジャーどころの現代アーティストの作品を楽しめる今回の展示会。正直なところ私は現代アート(というか、そもそも美術自体も)に疎いので、知らない人の方が多かったです。まぁ、中には「あぁ、この人ね」というアーティストもいましたが。

以下、個人的に印象深かった作品の感想を記録として残しておきます。

まずは村上隆さんの「原発を見に行くよ」という映像作品。1組のカップル(なぜか猫の着ぐるみの頭だけ被っています)が、原発の2号機を見に行くという作品です。世界を意識してか、セリフはすべて英語(ちょっと拙い英語)。モノや物資に溢れた東京を飛び出して、荒廃した福島へと向かう道のりから描写されており、普通に不自由なく東京で暮らしている人間が感情移入しやすい構成となっていました。また、映像作品ということで見やすく、楽しみやすい作品だったと思います。1つひとつのカットが非常に印象的で、美しく、同時に悲しいような、牧歌的でありながら文明衰退の感じもあり、どこか「ヱヴァンゲリヲン」の世界観を思い出させられました。調べれば見つけられると思いますが、映像作品の隣には大きな写真の作品もあり、カップルが瓦礫と草原?(田んぼ?)の間に立ち尽くし、上部には映像作品のナレーションの和文が書き記されています。そちらを読んでいただければ、だいたいの内容はわかるかと。ただ、一貫して感じるのは、私たち(普通に都会で暮らす一般人)は原発事故のことを既に過去のものとしてしまっているし、またあれだけ取りざたされていた現地ですら、ただ荒廃していく一途を辿っているということ。都会は原発事故という屍の上にさらなる発展を続けていき、現地は復興して来ている部分もありながらも、映像作品の中ではより「見捨てられた場所」としての描写が多いように思いました。中でも素敵だったのは、光に溢れた都会の姿も、人が消えて荒廃した場所も、いずれも美しく撮られていたということですね。無知、無関心、好奇心、希望、忘却…etc、と色んな側面を併せ持つ作品でした。

次も、村上隆さんですが、「マイ・ロンサム・カウボーイ」と「ヒロポン」という作品はテーマも明確で面白かったです。漫画やアニメのキャラクターを模した等身大のフィギアが精子や母乳をまるで武器みたいにして振りまいている作品たちです。日本のアニメ文化を取り入れながらも、そこで時に切り離されがちな「性」の部分についてあえて強調することで、アニメ文化に興ずる現代人への警鐘も担っているとかなんとか。ただ性癖にのみによる作品ではなく、風刺の効いた作品ということでした。個人的にはただ単に刺激的でしたのでピックアップさせていただきました。

そして、次の部屋に移ると、今度は非常にシックな世界観を放つ、リ・ウファンさんの作品世界。白色の砂利を敷き詰めた空間に、めちゃくちゃ考えられたような配置で作品が並んでいました。「関係項」というのがこの人の作品のテーマらしく、シンプルな物体同士の位置関係、作用反作用的関係を感じさせる作品たちが1つの空間に配置されています。モランディという画家がひたすら静物画を描き続け、食器の類の位置関係に「美」を見出していたように、リ・ウファンさんもそんな芸術的探究心がある方なのかもしれませんね。特に面白かったのは、1m弱くらいの粗雑な形状の岩の上に3~4mある鉄の棒が立てかけられているような作品ですね。一見するととても不安定そうですが、岩や鉄といったそれらの物質の堅牢なイメージがむしろ安定性を感じさせてくれてもいます。そして、そこには確実に地球の重力といった要素も含まれ、まさにモノと位置の関係を映し出し、同時にその作品規模を地球や宇宙といったレベルにまで拡張してくれているような気がしました。友人はその隣に置かれた「地面に転がされた鉄の棒」と同じように「雑然と置かれた岩」のセットにも注目していて、重なっているのとバラバラに置かれているので全然イメージが違って見えると言っていました。2人して見入ってしまうような、そんな不思議な力を持った作品でした。

草間彌生さんの作品は、これまで私は何となく軽視していたのですが、実際に生で実物を見てみるとやはり驚かされましたね。自らの身に降りかかった「幻聴」や「幻覚」がその作品たちの根底にあるらしいですが、確かに私も適応障害という精神病が1番酷い時期に見た悪夢は草間彌生さんの作品に似ていた気がします。「天上よりの啓示」を始めとして、とにかく無限に織りなされる不可思議な模様とグロテスクな色合いに心が掻き乱されるような感じがありました。規則性や幾何学性を無視しながらも連綿と続く、オリジナリティ溢れる模様にはやはり病的な執着や、苦しみを感じますが、そこに生命力を感じるのは、きっとそれらの苦しみが「生」という前提のもとにあるからかもしれません。私はこれまでもこのブログでまるで病んだ女子中学生みたいに「死にたい」と繰り返し書いてきましたが、それはこの草間彌生さんの表現しているであろう「生の苦しみ」を思えばこそということなのかもしれません。つまり一切皆苦という混沌とした状態と向き合い、作品化しているのが草間彌生さんであり、それから逃げようとしているのが言わば私のような人間と言えるかも…と、大して草間彌生さんを知らない私が言ってみます。

宮島達男さんの作品は自然数の「1~9」をデジタル表記したものがモチーフということです。実際にデジタルカウンターが「1~9」の数字を各々の周期で刻み、それが海に漂うホタルイカのように大きく広がっている空間が「時の海」という作品でした。繰り返される「1~9」は言わば種の存続や輪廻転生を意味し、「0」はあえて映さずに、暗くすることで「死」を意味しているそうです。私は個人的に自然数にちょっとした思い入れがあり、自らの創作物の「霧氷」の中でもだらだらと自分なりの考えを書いています。というか、自分なりの考えというよりは、自然数の数学的定義と攻殻機動隊タチコマが喋っていた「0」の解釈を繋ぎ合わせただけです。任意の存在を並べた瞬間、「1,2,3…」と自然数というものが定義できます。そのうえで、その「順番」という関係性を表現するために「規則性」を打ち出した時、そこには「1」という存在より前者となる「0」が現れるのです。どのような文化圏にあっても「数」なるものは原始より存在しているため、人間の理性が「数」という論理体系を先天的に持っていることは確かです。しかし、「0」という概念が発明されたのは、随分と後のことらしいです(インドかどこかで発明されたと私は聴いたことがあります)。この瞬間、「数学」という学問が生まれたと私は思っております。つまり、人間が先天的に有する「数=自然数」という概念に対して、規則性を付与し、それを応用することで「0」という概念を生み出すに至り、ピタゴラスの時代から少しずつその「数」という概念は拡張し、より人間的理性の根幹や応用性に迫るようになってきました。「0」を生み出した法則性を発展させることで、負の数という概念が得られ、整数という括りが生まれます。さらに整数を平面幾何学に応用していった結果、無理数が生まれ、3次元への問題に直面する中で虚数が生まれ、四元数なども登場してきます。これ以上のことは私にもうまく説明できませんが、すなわち「自然数」を用いるということは単に「1~9」へと数値が変化していくという様により時や物量の流れを表しているだけでなく、ある意味では人間的理性への希求のようにも私には感じられるわけですね。と、だいぶ作品本来のところから話がずれましたが、「時の海」という作品を眺めながら、私はそんなことを考えていたわけです。

杉本博司さんの作品は、長時間露光を用いて水平線上に浮かぶ月(?)とその光が海に反射する時間的移動を1枚の写真に収めているような作品に興味を惹かれました。しかも、その写真を90度回転させることにより、水平線は私たちから見て縦に引かれ、重力という地球規模での価値基準から離れることになります。つまり、普通に画面の横方向に水平線が引かれていれば、私たちの日常生活の上で見る「月の移動」となるわけですが、この水平線が縦方向になることで、地球と月という天体レベルでの関係性を示唆するようになると思うのです。私たちはともすれば日常に侵され、この我々が生命を営む天体が太陽系の第3惑星であるという科学的事実を忘れてしまいがちです。そして、その日常的常識の中に私たちを捉えているのは「重力」という非常にシンプルなものであることを、この杉本さんの作品は思い出させてくれるような気がしました。重力から離れ、月を見ることで、私たちはこの宇宙の有様をより客観的な視点で俯瞰することができます。だからこそ、私たちは(特に男の子)は宇宙への憧れをいつまでも追いかけてしまうのかもしれませんね。

最後に奈良美智さんですが、これは「どの作品が~」というよりも、ノートの切れ端や裏紙に描かれたものが額縁に多く収められていることに驚きました。どの絵も、可愛らしさとちょっとした悪戯心みたいなものがあり、親しみやすさを感じることができました。音楽にも造詣が深い方らしいので、アーティスト自身にも興味が湧いてきますね。そして、きっと作品を見れば、たいていの人は「あぁ、この絵を描く人ね」となると思います。それくらいポップな作品を描く方なわけですが、それでいてとてもオリジナリティがあります。オリジナリティとポップというのは一見相容れない要素であるだけに、奈良さんの絵を見て「なんでみんなこの絵を好きになるんだろう」と思ってしまいますね。つまり、人間が先天的に、あるいは後天的に持ちうる「好感」のベクトルにどんな共通項があるのかについて、ふと考えてしまうわけです。というわけで、あまりまとめ切れませんが、ここでゴッドタン(テレビ番組)でさらば青春の光というお笑いコンビの東ブクロさんが放った名言「ポップをやろうとしてポップはできない。やりたい事をやって、それが世間に認められたら、それがポップだ」をご紹介して終わります。

 

いやぁ、長くなりましたが、これにてSTARS展の感想は終わりです。

その後友人と久しぶりに夕食を食べましたが、いつも小説や映画、サブカルなどの話になるところを今回は私のせいでだいぶ生活的な話にしてしまいました。ちょうど同期と会う度に結婚だの恋愛だのという話をすることが多かったので、それに引っ張られてしまった次第です。「女子会みたいだった」と言われ、思わずうなってしまいました。それにしても、みんなちゃんと生きているんだなぁ、と思いますね。ここ最近ずっとそんな感じです。私みたいにちゃらんぽらんに生きている人間ってそうそういないんですね。何だか悲しくなりますし、いよいよ人並みの生活というものにしがみつく意味が見えなくなってきました。結局私はどのようにして生きていきたいんだろう、と考えようと思っても、いつもその手前で躓いてしまいます。私にとっては常に「To be, or not to be.」状態なので、それ以上の議論や計画ができないんですよね。生きるのって本当に面倒くさい。

 

2.適応障害と診断されて61日目~今際の国のアリス

さて、前日の疲れもあり、この日は籠城を決め込みました。前日の帰りがけに割引された弁当を2つ買っておいたので、これで今日の食事は事が足ります。夕食は食堂に食べに行けばいいですし。復帰に向けて動くのは明日からということにして、この日は戦略的休養とさせていただきました。

ということで、朝からぐうたらしつつ、Netflixで人気の「今際の国のアリス」を視聴しました。

LIAR GAME」や「ダーウィンズゲーム」のような現実から急に非現実な世界に巻き込まれ、そこで繰り広げられる特殊なゲームに嫌々参加しながらも、その世界の謎を暴いていくという感じのお話でした。こういうタイプのストーリーが好きなので、ついつい一気見してしまいました。何と言うか、昔から「ゼルダの伝説」とか謎解きRPGが好きだった私たち世代にとっては、堪らないんですよね。

ただ年齢を重ねるとともに、興奮の度合いと言うものは少しずつ冷めて来ているように思います。まず、ゲームの結果やシステム、解答などが予測できるようになってしまっていることは大きな問題です。別に頭が切れるアピールをしているわけじゃありませんが、同タイプの作品にいくつも触れて来ると、傾向と対策によって大抵の場面で「答」のおおまかな予想ができるようになってくるんですよね。なので、1番純粋に謎解き的なものを楽しめるのは、1番最初のゲームだったりします。今回の「今際の国のアリス」も個人的には1番最初のゲーム内容とその解答が1番スマートで、今までに無い感じだと思いました。そういう意味では、1話目で心を掴まれたので、ありがたかったです。

そして、次に冷めてしまう理由は、俳優の配役ベースでも展開が予測できてしまうことです。ただ、これに関しても、今回の「今際の国のアリス」ではできるだけの配慮がされているように思いましたし、まぁぶっちゃけ実写化する前の漫画原作でも当然キャラの重要度によってキャラデザの凝り方は変わって来るので、仕方のないことかもしれませんね。色々と期待を裏切られる部分も多かったですし、こういうストーリーの割にはちゃんと各キャラクターの過去なども言及されていたので、人情物としても楽しむことができました。

あとは主人公の能力値についても私は気になってしまうんですよね。まぁ、これはありとあらゆる作品に言えることですが、主人公の能力が高くなり過ぎるとちょっと冷めてしまいますよね。「お前、最初普通の人間だったじゃん!」と思ってしまうわけです。ある時まではバランス良く、「普通よりはむしろダメなところのある人間だけど、実は人には無い特殊な能力がある」という雰囲気で話が進められていくのに、強大な敵とぶち当たった時に、割と脈絡なく、主人公の潜在能力が開花してしまう展開になってしまうことが多いように思います。ストーリー展開で見せる作品であれば仕方ないとは思いますが、この部分を如何にバランスよく描いていくかで、作品の質が決まりますよね。今回の「今際の国のアリス」では、ちょびっとだけそのバランスが気になりましたが、色々なキャラクターがそれぞれに活躍していたので、楽しい部分も多かったです。

ただ、そんな風に「冷める」なんてことを言ってしまいましたが、ただの「異世界ゲームサバイバル」というだけでなく、キャラクターそれぞれの生い立ちなども丁寧に絵が描かれていたので、結構感情移入しながら楽しむことができました。また、映像効果も素晴らしく、序盤の人のいない渋谷を描く場面なんかは「どうやって撮影したんだろう?」とめちゃくちゃ興味を惹かれました。

結局、1日で全8話を観切ってしまい、素敵な1日を過ごすことができました。

うーん、なんて贅沢な時間の使い方!

翌日こそ、復帰に向けたリハビリを頑張らねば!

 

3.適応障害と診断されて62日目~図書館・ライブ~

朝、きちんとアラームをかけて起床。寮の食堂で朝ご飯を食べ、近所の図書館を軽く調べて、ちょっとウダウダした後に、いざ参らん。

と、なんで図書館に行くかと言いますと、これはリハビリの一環ですね。先日、会社の相談窓口でお医者様とお話した時に、「外出後に疲れが出るんですよね」と相談したところ、「じゃあ、まずは週に5日間、朝から晩まで仕事をするのと同じように図書館とかで過ごせるようになりましょう!」とアドバイスを頂きました。確かに、図書館で1日を過ごせないような奴は、会社で過ごすことなんか無理に決まっていますよね。というわけで、図書館を調べて、寮を出たわけです。

パソコンを持ち込んで、こうやっていま私がやっているみたいにブログの記事でも書けたらいいなぁ、と思い、割と大きめの図書館を訪問。地下階に自習室があるということだったので行ってみますが、そこにはコンセント無し。仕方なく、パソコンは諦めて、持って来た本を読むことにします。

読んだ本は先日文学部の友人から貰った、村上春樹の初期作品に関する論文集。これがなかなか難しく、結構読むのに苦労しました。結局、午前中のうちに読めたのは全体の5分の1程度で、それもまたどれくらい内容を理解できたのかと言われるとちょっと難しい部分があります。「謎解き本」などではなく、時代背景などと照らし合わせた「一考察」的な立ち位置の論文ですから、もうその時代背景もよく知らないし、いかにも論文っぽい語彙のせいでなかなか読み進めることもできません。しかも、村上春樹さんの作品なんていかようにでも読解できそうなものですから、「えぇ、そうかな?」と思ってしまう部分もありましたしね。

とは言え、私が抱いているイメージと近い論文もあったり、また新しい視点も生まれたり、面白い部分もたくさんありました。特に、「僕ら」と「我々」の使い分けについて論じた論文は、なかなか面白い着眼点だと思いました。自分で何かものを書く時には、もちろん代名詞の選び方はちょっと考えることもありますが、「僕ら」と「我々」を意図的に使い分けたことがなかったので、物を書く上でも非常に勉強になりました。

そんなこんなでお昼になったので、図書館を出て、31日前に訪れたラーメン屋に向かいます。煮干し系のお店で、ちょっと価格は高いんですが、これがなかなか美味しかったんですよねぇ。いつかまた食べようと思っていたところに、ちょうど図書館からも近かったので都合が良かったです。

お昼を食べて元気が出たところで、また違う図書館を目指しました。美術館に併設されている図書館ということで、中はガラガラ。これは静かで最高ではないか、と思うも、電源コンセントは見当たらず、また「館内の著作物のみ可」ということで村上春樹の論文集を読むことはできませんでした。仕方が無いので、適当にポーラ美術館の貯蔵品を紹介する本を手に取りました。印象派の作品を絵描きごとに分けて紹介してくれていたので、ルノワールとモネの章を読み、シスレーの序盤で断念。というか、眠気が襲って来たのでちょいと昼寝。昼寝の後、何となくスマホでインスタを眺めているとTK(凛として時雨というバンドのギター&ボーカル)のストーリーに「本日の公演のチケットが余っている」との情報が…時計と開始時刻を確認し、即決。今日の予定は決まりました。

初めての「ビルボードライブ横浜」。調べると、ディナーショー的な立ち位置のライブが行える箱ということで結構なお値段でしたが、まぁ、お金には特段困っていませんし(とは言え、最近使い過ぎのような気もしますが)、すぐに専用サイトに登録してチケットを購入しました。あとは一旦寮に戻り、邪魔なパソコンとかを置いて、ちょっと休憩した後に会場へ向かえば割とちょうどいい時刻。

初めての会場なので要領を得ないものの、とにかくスタッフさんの数が多く、丁寧に誘導してくださり、事なきを得ます。また、ライブ開始3時間前に席を取ったということもあり、だいたい4人1組で1テーブルみたいな感じのところを、私はテーブルを1人占めできました。しかも、大好きなアイラ系のウイスキーまで飲めるじゃありませんか。大好きなアーティストのライブで大好きなウイスキーを飲めるなんて最高ってもんでしょう! それに、個人的に感動だったのは既に会場には楽器や機材がセットされており、しかも写真撮影がOKだったので、TKを始めとしたアーティストたちの機材類をばっちり写真に収めることができました。まぁ、私はエフェクターとかの知識がほとんどないので、そんな写真を撮ったところでどうしようもないのですが。でも、嬉しいことは嬉しいのです。

ライブ自体は1時間程度の時間しかなかったのが残念でしたが、とにかくアコースティックバージョンに全て編曲し直されていることに感動しました。吉田一郎さんがウッドベースを弾いたり、BOBOさんがコンガを叩いたり、ちゃんMARIさんが結構がっつり歌ったり、と様々な色が楽しめるのもアコースティックライブならでは。CD音源で「これどうやって弾いているんだろう?」的なTKのギターも目視でき、普通に「すげぇ!」となりましたしね。楽曲の幅も広く、MCこそ控え目でしたが、いつも通りシャウトしていたり、結構激しい楽曲も普通にやるのでそこも面白かったです。強いて言えば、完全に求めるものを間違っているとは思いますが、もっとTKの歪んだエレキギターが聴きたかったですね(笑)。アコースティックライブなので仕方ありませんが、「unravel」では一瞬エレキギターを使う場面もあり、そこはやっぱり盛り上がりました。

と、そんな感じで結構楽しんだライブではありましたが、実はその日は別の予定を入れており、そっちをドタキャンすることになったのが本当に申し訳ない限りです。とは言え、昔のバイト仲間と何人かで集まって、バイト先に顔を出すというだけのイベントだったのでそんなに支障はないと思います。それに前回バイト仲間で集まった時に、私は自分ばっかり喋り倒してしまって随分と迷惑をかけたように思うので、むしろこの日に行かなかったことは彼らにとってもよかったことかもしれません。

寮に戻る頃にはすっかり体も冷えて、酔いも醒めて、普通に薬を飲んで眠りました。

でも、やっぱりどうしてかTKの楽曲を聴くと、寂しい気持ちになるので、ほんの少しだけ「悲しいなぁ」という気持ちが枕元には染みついていました。

 

4.適応障害と診断されて63日目~最高の離婚

そんなわけで、ちょっと精神を揺さぶられた状態で眠ったせいか、この日は色々な夢を見ました。覚えている部分は少ないですが、ちょっとだけ夢日記をつけておきます。

まず最初に見た夢には、アイドルの宮本佳林ちゃんが出てきました。深い青色が輝く夜、私の実家の1室で私は彼女と色々と話していたように思います。ずっと前に「Black or Pink」という創作物を書いたことがあるのですが、あの世界のイメージそのま感じですね。ただ、あの頃にはバリバリ現役でJuice=Juiceというグループで活動していた宮本佳林ちゃんも、先日グループを卒業してしまいました。それから、個人活動用のブログに、これまでの活動の振り返りを書いてくれるようになったのですが、それを読んでいたせいもあって、基本的には佳林ちゃん自身の昔話を聞くような夢の内容だったように思います。会話の内容はほとんど覚えていないのですが、にこにこと笑いながら喋る佳林ちゃんが登場してくれただけで、素敵な夢でした。

次に見た夢は、正直全然思い出せないんですが、ただ佳林ちゃんもいなくなって、私が実家から逃げるような内容だったと思います。実家はマンションなんですが、私の夢に実家が出て来るときは大抵そのマンションが迷路のようになっていて、エレベーターのボタンを特殊な順番で押すと、秘密の空間に行けたり、ベランダからベランダへと飛び移ったりしながら、何かと隠れ鬼をするようなストーリー立てになることが多いです。明確な敵(=鬼)がいるわけではないのですが、夢の中での私は何かに追い立てられるようにして、秘密の部屋に逃げ隠れたり、部屋の鍵を閉めて息を潜めたり、そういうことをしているのです。昔から何度も似たような夢を見るのですが、何かこれは意味があるんですかね。夢占いでもしてもらいたい気分です。特に、実家で怖ろしい目にあった過去があるというのでもないんですけれど。

そして、最後に見た夢が1番たちの悪い夢でした。

これは初めて見る夢で、会社に復帰した私が、よくわからない狐顔の人物に呼び出され、その取り巻き数名の前で「なんで休んでたんだ?」と問い詰められるという内容でした。私はこれまで何度も色々な人に対してやって来たように、私が適応障害になった理由やその治療に関することを説明し続けました。おそらく寝言を言っているレベルだったと思います。途中から意識が覚醒しだして、それが夢とはわからないまでも、現実の体の重さのようなものが夢に入り込んでくるようになりました。そして、気がついたときには目が覚めて、最低の気分になっていました。朝方。アラームが鳴るよりも30分前です。

そんな感じだったので、この日も大事を取って1日休むことに。

何をして1日過ごすか考えたところで、先日一緒に美術館に行った友人がドラマ「最高の離婚」を観たと言っていたので、私もそれを観返すことにしました。私は毎年夏に「それでも、生きてゆく」を観て、冬には「最高の離婚」を観るということを、1つのルーティーンとしています。坂元裕二さんの脚本が最高なんですよね。そして、そのことを友人に話していたので、友人は「最高の離婚」を観てくれたわけです。

ただ、実際に友人と「最高の離婚」の話になると、私の記憶はだいぶ曖昧になってしまっているみたいで、なかなか気の利いたことを言えませんでした。毎年のルーティーンと言いながらもここ数年は「最高の離婚」の方は観ていなかったように思います(「それでも、生きてゆく」はたぶん皆勤賞ですが)。というわけで、この日は朝から「最高の離婚」を観る日にしました。まぁ、実を言うと、前日の夜にライブから帰って来た後で観始めているので、「観返そう」と決めたのは前日の夜からになるのですが。

そんなこんなで昼飯を食べに外に出て、散歩がてらジョギングをした2時間ちょい以外は、ずっとパソコンで「最高の離婚」を観続ける1日でした。「最高の離婚」については、またいつか別途記事にまとめたいと思うので、これくらいにしておこうと思います。

 

5.今回のまとめ

というわけで、徐々に力尽きていくような今回の記事ではありましたが、とにかくまた今週からリハビリが始まりました。この記事を書いている今も私は図書館にいて、昼飯も食べずにいるせいで、お腹をぐうぐうと鳴らしております。

美術館に行ったり、ライブに行ったり、かなり活動的な日々を過ごしているなぁとも思いますが、なかなか体力は行ったり来たり、という感じです。とは言え、だいぶ疲れにくくもなってきたんじゃないでしょうか。そろそろ会社の上司ともちゃんと連絡を取って、出社訓練もしていかなければならないところですが、なかなか気が重たいですね…

とにかく、この記事をアップしたらパソコンを閉じて、昼飯を食べてこようと思います。午後は、また村上春樹作品の論文集でも読みますかね。

 

次回

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