霏々

音楽や小説など

バズマザーズ「Goodbye my JAM」 ~諸行無常の響きあり~

バズマザーズ 5thアルバム<ムスカイボリタンテス>より

「Goodbye my JAM」のレビューをさせていただきます。

 

アルバム<ムスカイボリタンテス>からはこれが最後のレビューになると思います。アルバムの表題曲でもある「ムスカイボリタンテス」と、おまけソング的な立ち位置の「おやすみ、だいじょうぶ」に関しては、その詩に重きを置いた曲の性質上レビューは控えたいと思います。

 

まずはこの楽曲のおおまかなところですが、「昔馴染みのライブハウスが潰れるらしい。そして、気がつけばその日に。ビルごと瓦礫になってしまったライブハウス……」そんな感じの哀愁たっぷりな楽曲になっています。

ファンクロック全開のこの曲。「仮想現実のマリア」のような前衛的なグルーヴではなく、教科書通りの美しいグルーヴが展開されています。シャッフルビート(あとで詳しく説明します)に乗って、三人の確かな演奏技術と、フィーリングの良さが感じられます。イントロのリフから息のピッタリと合ったギターとベース。シンプルながら休符が生きているドラム、ファンクらしくメロディアスにうねるベース、そして痒いところに手が届くようなギターのカッティング。聴いているだけで気持ち良くなってきます。

どこを齧っても美味しい。そんな曲。

気を張って聴いても味わい深く、疲れたときに環境音楽として流していても心地良いビート。今回のアルバムの中で一番たくさん聴いたと思います。朝、会社に行く道すがら。昼のちょっとした空き時間。薄暗くなった会社の帰り道。一人で晩酌をしながら。どんな場面で聴いても、優しく心を慰めてくれます。山田亮一さんの「昔馴染のライブハウス」に対する愛情を感じ、私もそれに同情したり、あるいは自分がそのライブハウスになってしまったかのような気分になったり。そんなこと抜きで、ただただ無感情に揺れるビートに身を任せてみたり。本当に素敵な曲に出会えたな、という感じです。

一応、シャッフルビートについて簡単に説明しておこうと思います。

1拍のうちに3つ音を入れたものを「三連符」と言い、三連符だけで4拍子の1小節を言語化すると「ダダダ/ ダダダ/ ダダダ/ ダダダ」となります。このうち、三連符の真ん中の1つを抜いたものがシャッフルビートと呼ばれるもので、「ダッダ/ ダッダ/ ダッダ/ ダッダ」となります。日本の祭囃子とかで「チャンカ、チャンカ、チャンカ、チャンカ」のようなリズムを耳にしたことがあると思いますが、それが実はシャッフルビートなんですね。お祭りとファンク。どこか似ているような気がしないでもない……ということもなくはない。

私はこのシャッフルビートが大好物なので、「シャッフルビートの曲 全部良い曲説」を唱えたいくらいなのですが、「Goodbye my JAMもシャッフル使ってるから好きなだけだろう」と思われたら嫌なので、今回ばかりはその説を取り下げたいと思います。ですが、この曲を楽しみたいなら是非ともシャッフルビートを意識していただきたいところであります。イントロのギターフレーズは言語化すると「ダラッダ、ダーラ、ダーラ、ダラッダ―、ダララ、ダララ、ダーララーララ」となりますが(本当になってる?笑)、「ダーラ」はシャッフルで、「ダララ」が三連符です。とにかく、シャッフルを意識することですべてのリズムに気持ち良く乗れると思いますので、もしシャッフルというものを知らなかった方はぜひともその辺りを意識してみてください。

 

さて、そろそろ歌詞の解釈に移りますかね。と言っても、難解な歌詞ではないので、いつも通り、私が勝手に感じたこと、思ったことを書きならべたいと思います。

まずは、全体的な世界観について。とりあえず、JAM(ジャム)という言葉自体に「ライブハウス」という意味はありません。セッションのようなフリーでの掛け合いという意味がジャムという言葉にはありますが、「Goodby my Stage」や「Goodby my Sweet Home」みたいな曲名よりは、やはり「Goodbye my JAM」の方がしっくりきますね。語感も良く、曲の始まりでは山田亮一さんが乱雑に「グッバイ・マイ・ジャム」と言い放っています。そして、ジャムという言葉の持つ、自由さ、気ままさ、気の置けない感じが何ともその場所の居心地の良さを物語っているように思います。そんな場所だったからこそ、山田亮一さんに素敵な別れの歌を作ってもらえたんでしょう。

※コメントで教えていただきましたが、2017年末に新宿JAMというライブハウスが閉店しているそうです。調べてみると、山田亮一さんとしては、ハヌマーンの2回目の東京進出から初の東京ワンマン、そしてバズマザーズでは新宿JAM閉店その日まで出演されているライブハウスでした。実は、私はお金も行動力も無い大学生時代を過ごしていたので、実際にバズマザーズのライブに行ったことは一度しかありません。なので、全然「JAM」という単語にピンと来てませんでした。教えてくださった方、誠にありがとうございました。これはもう確実に「新宿JAM」を歌った楽曲ですね、間違いなく。

 

別れとはつまるところ時間の流れ。実を言えば、ライブハウスを題材に上げながらも「時の流れ」という普遍的なものに対する寂寥感を歌った曲でもあります。そんなところを意識しながら聴いていただければ、正直これ以降のダラダラとしたレビューを読んでいただく必要はないと思います。が、まぁ、とりあえず書かせてはいただきます。それくらいしか私の娯楽もありませんので。

 

発狂と平熱と刹那と永遠をリキュールで割った様な店があって
混沌と空虚と犬死と長寿を惰眠で割った様な人が集っていた

 「発狂⇔平熱」、「刹那⇔永遠」と、それぞれ対義語の関係ですね。リキュールとはWikipediaで改めて調べてみると、『蒸留酒に果実等の香味、それから砂糖等の甘味、さらに着色料を添加した混成酒』ということらしいです。ですが、一般的には別のお酒やジュースをさらにリキュールで割るという形で用いられているように思います。ともかく、様々な概念や存在が集ってそこに混成酒まで加わってカオスと化した店=ライブハウスがあったということですね。

「発狂」は、つまるところ若いバンドにありがちな気の振れた感じのパフォーマンスであるかもしれませんし、「平熱」はこれも若いバンドにありがちな盛り上がりを否定した斜に構えた態度のパフォーマンスであるかもしれません。ほんの一瞬で消えていく「刹那」。同時にいつ売れるかもわからない「永遠」とも思える地獄。それらが混じり合うライブハウスがそこにはありました。

そこに集う人もまた変な奴らです。「混沌」として種々雑多な人々が集っているにもかかわらず、彼らの本質は「空虚」です。「犬死」する人もいれば、「長寿」を授かる人もいます。ですが、いずれも「惰眠」で割ったような、あらゆる意味においてパッとしない連中。

外に向けて何かを表現したいにもかかわらず、結局は自意識との傷の舐め合いをしているに過ぎない、そんなただ若いというだけで希望を持っているような連中が集まる、どうしようもなく「若いアーティスト連中」のステレオタイプ的ライブハウスに山田亮一さんもいたわけです。そして、それら一通りのもの全てを、山田亮一さんは懐かしく想い、そして「お前らは素敵だったぜ」と優しく、そしてキザに言ってやっているような、そんな感じがしますね。

 

年齢非公開のくせに先輩気取りの兄さんに、お前にゃまるで見込みなしって云われたっけ
才能とはズバリ、客観性とユーモア
後者のみ所有した奴がここじゃ天才

 「年齢非公開のくせに先輩気取りの兄さん」という皮肉の効いたワードをさらっと放り込んで来る辺りは、さすが山田亮一さんというところ。そして、そんな「兄さん」に皮肉を効かせながらも、結局は「お前にゃまるで見込みなしって云われたっけ」と自虐を付け足さずにはいられない辺りもまた、さすが山田亮一さんというところです。

そんな山田亮一さんが思うアーティストにおける才能は「客観性」と「ユーモア」。売れるためには、ある程度多くの人を楽しませるためには客観性は重要です。ですが、アーティストとして未熟な連中は、その客観性を蔑ろにして自分が思う「ユーモア」だけを追い求めがちです(それは、小説家に憧れる私も然りですが笑)。「売れないこと」、「評価されないこと」を「自分を貫いているせいだ」と勝手に問題を捻じ曲げて、自分自身に言い訳をしているに過ぎません。そんな連中は、まぁ、売れないでしょうね。私の敬愛する凛として時雨のTKさんも、何度かインタビューで「格好良いものを作れば絶対に届くはず。仮に売れなかったとしたら、自分の作るものが格好良くないからだ」というようなことを言っていましたし、山田亮一さんも前アルバムの<普通中毒>を記念したインタビューで「自分の作った曲に自信があるからこそ、売るための努力をしたくなった」というようなことを言っていたかと思います。だから、「客観性」と「ユーモア」のうち、後者の「ユーモア」しか所有してない奴は、せいぜい前述のカオスなライブハウスで「天才」と呼ばれて終わってしまうだけに過ぎないわけです。

でも、そんな連中が集うライブハウスがあるというのは、ある意味では素敵なことだと思うんです。もちろん、そこに実際居た山田亮一さんが懐古心を抱くのは当たり前ですが、もう少し普遍的に考えれば、「若さ故の情熱」、その象徴が件のライブハウスだと思うんですね。つまり、「青春」がそのライブハウスにはありました。

 

酔いさらばえて、赤い闇の上、飛べない鳥が跡を濁している
ルートみたいさ、何だって受け入れて、漂う音楽はひん曲がって

 「さらばえる」という言葉の意味は、「痩せ衰える」ということだそうです。骨が目立つくらいに痩せてしまう…だから、一般的には「老いさらばえる」なんて風に使いますね。ですが、こうやって改めて調べてみるまで、「酔いさらばえる」という言葉が普通に存在していると勘違いしていました。いや、もちろん言われてみれば、「よい」ではなく、「おい」が正しいと分かるのですが、別に普通に「酔っ払っちまったぜ」くらいの歌詞だと考えていました。ダジャレと言われればそれまでですが、それでも「酔いさらばえて」という言葉があっても良いような気がします。顔の血の気が引くくらい酔っ払って、それだけでなく、有り金を全部酒につぎ込んでしまう。「立つ鳥跡を濁さず」という言葉がありますが、じゃあ、飛び立てない鳥はどうするか。「飛べない鳥は跡を濁す」しかありません。

「赤い闇の上」というのが一体何を示しているのかわかりませんが、バズマザーズの「キャバレー・クラブ・ギミック」という曲でも、「赤い眩暈」というワードが使われていました。何となく「赤」という色には「攻撃的」な印象がありますね。「闇」という言葉に対して、文字数上必要だった形容詞として、「赤い」と「~の上」が最適だったのでしょう、と簡単に流しておきます。「赤」という色に対して、「血液」や「停止信号」のような意味を無理やりつけてやることも可能かもしれませんが、いくらでもこじつけられそうなので止めておきましょう。

次の「ルートみたいさ、何だって受け入れて」という部分に関しては、おそらく「博士の愛した数式」という小説からの引用と捉えるのが妥当でしょう。この小説に出てくる「博士」のもとで家政婦をする主人公の息子は、その頭の平べったさから博士に「√(ルート)」と呼ばれています。博士は「ルートというのは、実数も無理数も受け入れるとても寛容な数学記号なんだ」と作中で説いていました。つまり、件のライブハウスもまた、「ルート記号」のように何でも受け入れる寛容な場所だったということでしょう。「ひん曲がった音楽が漂っている」のがそのライブハウスの寛容さを示す何よりの証拠ではないか、と続いて歌われています。ですが、「ひん曲がって」という言葉はどことなく「√(ルート記号)」の左のうねうねを指しているような気もしますね。書きながら気づきました。

まぁ、ともあれ、私のこんなダラダラとしたレビューでもきっとそのライブハウスは受けれてくれるんじゃないか。私はそんな淡い期待を胸に抱きながら、この文章を書き進めているわけです。

 

破壊しても壊れない場所だと想っていた
ずっとそこで俺を待っているって
子供みたいに疑いもしないで信じていた
ずっとそこで俺を待っているって

 「破壊しても壊れない場所」。こうやって書き出してみると、「無茶なことを言う」という感じですが、でも、私にとってそれは実家だったり、小学校の頃に入っていたサッカーチームだったりします。それはいつまでもそこにあり続け、私を支えてくれる。そういうもんだと今でも思ってしまいます。けれど、そういうわけにもいかないんですよね。確実に両親は老いてきています。言葉が出なくなったり、記憶が曖昧だったり。まだ働いてくれているから良いですが、これが退職してのんびりと暮らし始めたら、きっと一気に老化が進むんじゃないかと危惧しています。でも、どうしてかそんな事実とは関係なしに、それでも実家という場所は壊れずに、そこで私を待ち続けてくれていると信じ切ってしまっているんです。両親がボケたって、実家がなくなるわけではない。破壊しても壊れないってそういうことじゃないでしょうか。

でも、違うんですよね。いつかはきっと無くなってしまう。そのことについて、やっぱり少しは考えなければいけない。時間は流れていくんですから。

 

少しずつ君は死んで行く。悔しかろうに、痛かろうに
断末魔のひとつも上げず、瓦礫になって行く 

前段の話と合わせて想えば、「少しずつ君は死んで行く」という言葉は何とも胸に突き刺さります。破壊しても壊れないかもしれないけれど、それでも両親は少しずつ死に向かっている訳ですし、それを止めることはできません。時間の流れには逆らえません。

と、まぁ、ちょっと前段の内容を引きずってしまいましたが、ここの歌詞で明言されているのは取り壊されていくライブハウスについてですね。「悔しかろうに、痛かろうに」、「断末魔のひとつも上げず」とライブハウスを擬人化こそしていますが、歌詞は間違いなくライブハウスの崩壊を描いているわけで、別に実家について歌っているわけではありません。だから、楽曲に没頭したいのであれば、きちんとあの青春の情熱を受け止め続けたライブハウスを思い描いてあげましょう。そして、もし取り留めのない夜中とかにこの曲を聴いているのだとすれば、その時には自分にとっての「破壊しても壊れない場所」について考えてみてください。そして、その大切な場所が「断末魔のひとつも上げず」に、時間のヤスリで少しずつ死んで行ってしまうことをについて想いを馳せてみるのも悪くないと思います。

 

 先輩、あまりに滑稽だ。気高く散り夜を照らす事は
人間様の専売特許である必要も無い

 「先輩」とは、「年齢非公開のくせに先輩気取りの兄さん」のことですかね。「あまりにも滑稽だ」について、「滑稽だ」の目的語は何でしょう。というか、「滑稽」という言葉はこの場面で適切なんでしょうか。

「滑稽」について、もちろん「おかしい、面白い」という意味もありますが、この文脈ではどちらかと言えば、「馬鹿々々しい」という意味の方を強くイメージした方が良いような気がしますね。そして、何が「馬鹿々々しい」のかと言えば、件のライブハウスが「気高く散り、夜を照らせない」ということでしょう。人間ならば、死の際に気高く散ることもできるでしょうし、また死んでからも星となって夜を照らすことができます。しかし、「建造物」であるという理由で、ライブハウスにはそういったことが許されてはいません。そういった不平等について、「馬鹿々々しい」と山田亮一さんは呆れてしまっている訳ですね。

なお、「気高く散り、夜を照らす」とあるとどこか花火のようなものを思い浮かべますが、後に「人間様の専売特許」という言葉もありますから、どちらかと言えば、「気高く散り」と「夜を照らす」は一連の動作ではなく、分けられたものとして考えた方が良さそうです。

昔懐かしいあの先輩。「なぁ、先輩。俺らのライブハウスが無くなっちまったよ。最後はあっけないもんさ。断末魔のひとつもない。少しずつ削り取られるように壊されていったんだ。悔しかろう、痛かろう、って感じでね。もっと、アメリカのでっかいビルの解体みたいに派手に爆破してやるとか、あるいは何か記念碑みたいなのでも建ててやるとか、そういうことをしてやっても良かったんじゃないかな。それこそ人間を弔うときみたいな、何かそういうちょっとは気持ちのこもったようなことでもしてやるべきだったんだよ、俺たちは」。まっさらになってしまった街の端っこの小さな土地を見下ろしながら、独り、そう呟いていた。

だいぶ格好つけましたが、私の頭の中にはそういう光景が浮かんでいます。

 

非人間が唄ってる、これがなかなかどうして悪いもんじゃない、皮肉じゃなくね

 ライブハウスの中にはいわゆる「人間のクズ」とでも言うべき人物もいたんでしょう。彼らの歌は確かに稚拙でありふれたものだったかもしれません。けれど、「なかなかどうして悪いもんじゃない」。そのライブハウスで持て囃された「才能」が空振りして、そのままバッターボックスから去ってしまった彼らに向けて、「悪くない」と言う。別に上の立場から言っているわけじゃないんです。太っている女に向かって「風船で飛んで行っちゃいそうだね」と言うのとは違います。本当に「悪くない」と山田亮一さんは思っているんでしょう。皮肉なんかじゃありません。

バズマザーズのベーシストである重松伸さんの前に所属していたバンド「エマグラム」。私は好奇心から彼らのCDを何とか手に入れましたが、本当に「悪くない」んです。今でも少なくとも月に何度かは聞きますし、ふとオートシャッフルで流れてきた後についリピートしてしまうこともあります。そんなわけで、私は「エマグラム」の楽曲が街頭で垂れ流されている音楽よりもよっぽど好きです。でも、売れる・売れないの話をするとすれば、やはりそう簡単に「これが売れないのはおかしい!」とは言い切れません。そういう意味で「悪くない」んです。「自分は好きだけど、世間の注目を集めるかはまた別の問題」。そんなどうも言い表せない感じを伝えるために捻り出した言葉が「悪くない」と言ったところなんでしょう。

 

酔いさらばえて、生身の象徴みたいな場所の終わりをじっと見送った

 「酔いさらばえる」という言葉は前述のとおり、「老いさらばえる」という言葉のオマージュのようなものです。

「生身の象徴みたいな場所」という言葉は解釈が難しいです。解釈というよりも、これは受け止める感性の問題ですね。いくつか前の「赤い闇の上」と同じ感じです。どうとでも取れてしまうわけですね。それでも私なりの解釈をするのであれば、「客観性」を捨てて、つまり「アート的処世術」を捨て去って、好き勝手やっていたあの状態。それを「生身」と表現しているのかもしれません。青年的情熱は薄い皮膚一枚分の厚みを超えられず、無様に打ち身のアザみたいな感じで滲み出るだけです。服も着ず、生身でそのアザを見せつける彼ら。「ちょっとそれじゃあ、人前には出せないな」ということで彼らは世間から遠ざけれらてしまいます。けれど、そんな彼らの音楽って、「なかなかどうして悪いもんじゃない、皮肉じゃなくね」。

そんな「生身の象徴みたいな場所だった」あのライブハウス。その「終わりをじっと見送った」。なんか、哀しいですよね。

 

カガクは時間を短縮し ブツリは幻想に変える
ではゴラクでしかない音楽には何が出来る?
先輩、答えは簡単だ。過ぎて行ったその時間のアリバイを証言台で歌う事が出来る

科学は社会経済に対して「効率化=時短」という恩恵をもたらしてきました。少し細かいことを言えば、「科学」ではなく、「技術(テクノロジー)」という言葉の方が私はしっくり来ますね。もちろん、「技術は時間を短縮し~♪」だとあまりにどこかのメーカーやIT企業のCMめいて聞こえるので、歌詞としては0点ですが。

そして、物理は時間を幻想に変えてしまいました。私は「科学=サイエンス ∋ 物理」だと考えているので、ここの言葉遣いには文句はありません。物理における時間の定義と言えば、私が真っ先に思いつくのはアインシュタインの唱えた相対性理論です。ちょっと話を逸らしますが(意図的…)、相対性理論というのは簡単に言えば「あなたの1秒と、私の1秒は別のもの」という理論です。地球の周りを高速で円運動している(そして、地球の重力の影響を受けにくい)人工衛星の中の時計は、私たちの枕元に置いてある時計よりもやや早く進んでしまいます。ですから、相対性理論に則ってきっちりと時刻補正をしてやらなければ、我々が普段使用しているGPSの位置測定は上手くいかなくなってしまいます。「時間が立場によって相対的にずれていく」というのが、言ってみれば相対性理論の肝な訳ですが、まるで幻想みたいな話です(もちろん、科学的には正しいとされています)。そういう意味で、「物理は時間を幻想に変えた」と言えましょう。

そして、最後に問がやって来ます。「では、娯楽でしかない音楽は時間に対して何ができる?」という問です。この問は、ある意味ではこの楽曲のテーマと言っても良いかもしれません。時間の流れに削り取られてしまったあのライブハウス。それに対して、娯楽である音楽がしてやれること。それは「過ぎて行ったその時間のアリバイを証言台で歌う事」です。あのライブハウスで過ごした時間があったからこそ、今の山田亮一さんがこういう楽曲を生み出せるわけです。かつてあったその時間を「本当に存在していたんだ」と、つまり「時間のアリバイ」を証明できるのが音楽だと山田亮一さんは声を震わせていています。ステージはその証言台でしかない、と。

「カガク」、「ブツリ」、「ゴラク」と全てカタカナなのは、それらが並列の関係性であることを強調したかったからでしょうか。それとも、なんかそれらしい知性的な単語を並べることが恥ずかしくなって、ちょっと馬鹿っぽく見せるためにあえてカタカナにしたんでしょうか。あるいは、単に「無知の演出」、それとも「興味のなさの現れ」なのか。正確な意図は掴めませんが、いずれにせよそのまま漢字で表記するよりは絶対に良いと言い切れます。効果的でありながら、風流も感じてしまいますね。

最後に、「先輩、答は簡単だ」という部分について触れておきますね。「音楽に何ができる?」の問の答が簡単なんです。それってなんか素敵ですよね。確信を持って音楽をやっているといいますか。「先輩。あんたは俺に見込み無しって言ったけど、音楽がどんなもんかもわかってないんと違います? あんね、音楽ってのはそこにあった時間を歌うことなんですわ。な、簡単なもんやろ」と、そんな独り言がまた聞こえてきます。

 

想い出のあの店がビルごと無くなるみたい
取り壊しに至った事情は解らないが、そうみたい
その程度のふわっとした気持ちで今日を迎えちゃって
奥歯の裏、仕込んだカプセル噛み潰した様に溢れ出す、現実味。

ここからちょっと優しいような寂しいような、そんな曲調に変わります。前半部分は歌詞そのままです。「想い出のあの店がビルごと無くなるみたい。取り壊しに至った事情までは知らないけれど、どうやらそうみたい」。そのライブハウスは本当はもっと大切なものだったはずなんです。けれど、何だかんだと日々を過ごしているうちに、取り壊しの日がやって来てしまいます。「あれ、そっか。今日だったか」という感じで。感傷に浸りたくないからあえて考えないようにしていたのか。それとも、単純に日々の生活に思考が囚われてしまっていたからなのか。理由は判然としませんが、とりあえずそうこうしているうちに取り壊しの日がやって来ます。

「奥歯の裏、仕込んだカプセル」とはスパイ物の映画とかでよくある「自殺薬」でしょうかね。やはり比喩が独特ですね、山田亮一さん。映画では、みな何かを決心して思い残すことなくそのカプセルを噛み潰して死んで行きますが、実際に自分がそんなカプセルを噛み潰したとしたらどんな気持ちになるのか。ちょっと天井を眺めながら考えてみましたが、たぶん大好きだった場所が取り壊される日の朝みたいな感じだと思います(あまりに山田亮一さんに媚びを売り過ぎでしょうか笑)。カプセルを噛み潰すべきタイミングがやって来たから、とりあえず噛み潰します。「でも、あれ、待って。これ噛み潰したら死んじゃうんだよな。あ、そっか。もう俺死ぬんだな。そんなつもりじゃなかったのに。これこれこういう状況になったらカプセルを噛み潰せ、って言われてたからとりあえずしちゃったけど……そっか、俺、死ぬんだ」と、そんな気持ちになってしまうんじゃないかと思います。そうして急に「死」という現実味が口の中に広がっていくんでしょう。もちろん、その現実味(あじ)は毒薬の味に他ならないわけですが。

歌でも、何度も「現実味」と繰り返しているのが良いですよね。急にやって来て、でも、ゆっくりだんだんと深く染み渡っていく現実味。そんなものを歌からは感じます。

 

少しずつ君は死んで行く。悔しかろうに、痛かろうに
断末魔のひとつも上げず、瓦礫になって行く
先輩、あまりに滑稽だ。気高く散り夜を照らす事は
人間様の専売特許である必要も無い
形ある物の特権は消えてしまえるって事 キレイさっぱりとね

 前半は繰り返しなので省略します。しかし、これでもかと現実味を感じさせられた後での「少しずつ君は死んで行く……」という歌詞は非常にリアルな手応えがあります。

そして、この楽曲一番の盛り上がりを見せる「形ある物の特権は消えてしまえるって事 キレイさっぱりとね」というところ。ブレイクの入ったリズムからの、「きれーいさーっぱーりとねー」という山田亮一さんらしいどこか童心を思い出させるような歌のメロディ。取り壊されてしまったライブハウス。跡には何も残りません。それを哀しいとか不憫とか思ったりもするわけですが、結局のところ、そうやって何のあと腐れもなく、たださっぱりと消えてしまったライブハウスに対して「良かったね」と声をかけてしまう。そんな潔く消えて行ったライブハウスに対する羨望とも取れるような歌詞を唄いあげて楽曲はピークを迎えます。ちょっと茶化しているように見えてしまうかもしれませんが、あの名作タッチの「きれいな顔してるだろ……」というセリフに近いような遠いような。タッチでは「死が受け入れられない」という雰囲気を演出するセリフでしたが、ここでは全く別の、もっと「きれいに逝けてよかったな、お前」というような文脈で使いたいと思います。

少し宣伝っぽくなってしまって申し訳ないですが、私が自分の為に書いた「霏々(ブログタイトルではなく、創作物の方です。ブログにもアップしています。よろしければ読んでください)」というものの中でも、私は「どのように死んで行きたいか」ということを書きました。「霏々」を書いている最中は、ずっとこの<ムスカイボリタンテス>というアルバムを聴いていたので、思想も割と影響を受けているわけですが、私には長い年月をかけて築き上げてきた死生観があります。現時点で、私が思う理想の死に方というのは、あの「アハ体験」みたいな感じですうっと死んで行くことです。そのために、私は自分をゼロに持っていくことをこの世での唯一の「やるべきこと」としようと考えているわけですが、そんな私にとって、このライブハウスみたいな最後は結構理想であります。「キレイさっぱりと消えてしまえること」。それは私の憧れでもあります。ですから、この曲のこの歌詞を聴いたときは、なんかとっても救われたような気分になりました。そして、私の死に対するイメージが少し明確になったような気にもなりました。と、まぁ、私のことなんてどうでも良いんですけどね。ただ、この楽曲のレビューをずっとしたかったのは、どうして私がこの曲を好きなのかということを語りたかったからで、その上では当然私自身のこともいくらか書かなければいけないわけです。ですが、どうやらその目的ももう果たせたようです。あとは、さっさと最後の一節の解説をして、「キレイさっぱり」と終わりましょう。

 

人工知能の反乱で世界はディストピア
そうゆうの俺ちっともピンと来ない

この歌詞もなかなか深いです。文面だけ見れば、現代あるあるといったところでしょうか。ディストピアとはユートピア(理想郷)の反対語で、例えば「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の世界観であったり、もっとわかりやすく言えば、FF(ファイナル・ファンタジー)とかにありがちな瘴気に覆われた世界など、そういった荒廃した世界のことです。「人工知能の反乱で世界はディストピア」の歌詞にぴったりなのは、「ターミネーター」とか「マトリックス」とかだと思いますが。

ですが、そんな歌詞の後に来るのが、「そうゆうの俺ちっともピンと来ない」です。どうして「ピンと来ない」のか。興味が無いからでしょ、と簡単に答えることもできますが、ではどうして興味が無いのか。それはつまるところ、この曲のテーマが「時間の流れに対する感傷的な想い」だからです。過ぎ去って失われていくものにしか、「俺」は興味が持てません。「俺」が歌を唄う理由も、「過ぎて行ったその時間のアリバイを証言台で歌う」というところにあります。だから、現代あるあるな「人工知能の反乱」的な話にも興味が持てず、いまいち「ピンと来ない」わけですね。一見、「急に人工知能なんて持ち出して」という感じに映るかもしれませんが、実はこの楽曲のテーマを締めるための素敵な幕引きになっているのです。

 

そんな感じで、どうしようもない「諸行無常」的な世界観をファンクロックに乗って、気怠く、でも時には情熱的に歌い上げたこの楽曲でしたが、あまり最後に蛇足的なものをつけても仕方がないので、これで終わりにしようと思います(というか、もう散々蛇足は付け足して来たので、もういい加減飽きました笑)。アルバム全体を通して、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

 

最後に…

これでアルバム<ムスカイボリタンテス>のレビューは終わりになります。ここのところ割と短めのレビューに出来ていて良かったと思っていたのですが、今回はやはり大好きな曲ということもあって長くなってしまいましたね笑。あと、読みにくいと思いますが、大好きな曲だからこそ、今回は太字や赤字を使用しないことにしました。要点を掴んでもらうというよりは、やはり全体的な私の持つ世界観を共有してほしいと思いましたので、我がままではありますが、そうさせていただきました(こんなことをしているから、混沌と空虚を惰眠で割った様な物書きしか目指せないわけですね笑)。

やっぱり山田亮一さんの作る曲のレビューは楽しいです。何よりも、音楽のレビューにも関わらず、歌詞について色々と考察できるので文章化しやすいというところもあります。大好きな凛として時雨toeのレビューもしたいんですが、あちらはあまりに音楽の感覚的な部分が多くて言語化が難しいんですよね。少しずつ鍛えて、いつかチャレンジしたいと思います。

ここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当に感謝しかありません。もしいらっしゃらなければ、もっと楽しい文章にできるよう精進して参ります(そして、もっと簡潔な文章に!笑)。